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2019年5月

2019年5月27日 (月)

「令和」の名付親、中西進さんとぼく!

『月刊・Hanada』7月号に、10ページにもなる新元号「令和」の名付親、中西進とぼくとの長い交流を書いた記事のタイトルは、ぼくが考えたものだ。(5月24日発売)
 
「中西進さんと『薔薇族』編集長」『Hanada』の編集長、花田紀凱さんとも長いお付き合いだが、ぼくが考えたタイトルにしてくれた。
 
本当のところは「優等生、中西進さんと劣等生、伊藤文學」とすべきだったかもしれない。
 
 
 
昭和23年、日本の敗戦後、まだ3年しか経ってない4月に駒沢大学文学部国文科にコネで入学させてもらった。
 
万葉集の研究者で、短歌の結社『白路』の主催者、斎藤茂吉の弟子の森本治吉教授に、短歌を作ることを教わらなかったら、東大国文科の2年先輩の中西進さんと、出会うことはなかった。
 
駒大の卒業式のときまでぼくはいたけど、単位が3教科とれず、それに卒業論文を書けなかったから、卒業証書をもらえなかった。
 
国文科で3人、卒業できない人がいて、その中のひとりはぼくだった。
 
森本教授は心配して父のところへ手紙をよこしてくれた。
 
教務課の人たちと、教授たちが会議を開いて、この3人をどうするか相談したそうだ。
 
教務課の人たちが、「伊藤くんは将来、有望な学生だから、なんとか卒業させてやりたい」と言ってくれたそうだ。
 
森本教授は「大学院に入りなさい。そこで卒論を書き、追試を受けなさい」と言ってくれたが、父が創立した「第二書房」には社員はひとりもいない。
 
学生時代から父の使い走りをしていたから大学院に入ったって、本を読むわけでないから、まあいいかと、そのままになってしまった。
 
 
 
それから時が経って、昭和30年の後半、妹紀子の心臓病棟、401号室での患者たちの交流を描いた『ぼくどうして涙がでるの』が、朝日新聞の応援でベストセラーになり、日活で映画化され、心臓病の人たちの心の支えになった。
 
テレビにも何度も出演したので、森本教授からの年賀状には、よろこびの言葉がそえられていた。
 
 
 
その頃、世田谷学園の同窓会の役員会があり出席したが、その帰りにたまたま駒大の教務課の部長さん(恩人のお名前を忘れてしまった)も出席していて、帰りにぼくは車で行っていたので、部長さんを自宅まで送っていった。
 
車中で「ぼくは卒業式までいたけれど、卒論を書かなかったから、卒業証書をもらえなかった」と話をしたら、「いつでもいいから、俺のところへ訪ねてこい」と言われたので、数日して部長さんを訪ねたら、卒業証書をくれたではないか。
 
総長の名前が変わっていたが……。
 
『ぼくどうして涙がでるの』が卒論だよと言ってくれた。
 
今の時代なら、こんなことをしたら大変なことになってしまうが、いい時代だった。
 
 
 
駒大在学中、授業で教わったことは、何一つ覚えていないが、短歌を作ることだけには熱中していた。
 
昭和25年に東大の山上会議所で催された、各大学の短歌を愛する学生たちが集まって短歌会が開かれた。
 
駒大からはぼくひとりだけの参加だったが、その頃の駒大は3流大学で、ぼくは劣等感にさいなまされていた。
 
それがぼくの作品を東大国文科の2年先輩の中西進君が、絶賛してくれたではないか。
 
とびあがるほど嬉しく、自信を持つことができて、それからのぼくの人生は大きく変わった。
 
 
 
ぼくのアイデアの豆本、歌集『渦』に、中西進先輩が序文も書いてくれた。
 
その中西進さんが新元号「令和」の名付親とは。
 
この歌集『渦』千金の価値があるのでは!
 
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★「令和」新元号の記念に、「令和」の名付親、中西進さんの貴重な序文入りの「伊藤文学歌集『渦』」をお求め下さい。
 
お求めは、500円切手1枚と送料分82円切手1枚を封筒に入れて、下記住所まで。
 
〒155-0032
東京都世田谷区代沢3−9−5−202
伊藤文学
 
郵便番号・住所・お名前をお忘れなく。

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差別や偏見はどうして生まれるか

「差別と偏見はどうして生まれるか」講師:児童文学者・丘修三。
 
2000年10月14日、駒大中央講堂でぼくは学生たちと一緒に話を聞いた。
 
丘修三さんは1941年、熊本県生まれ。
 
養護学校の教諭として、障害児教育にたずさわったのちに文筆生活に入った方だ。
 
差別と偏見は、最初は「異形のもの」という感覚、恐れ、こわいという気持ちから始まると、養護学校の先生だった体験から丘さんは言う。
 
それから丘さんの話は、らい病患者の話にうつった。
 
 
 
亡くなったぼくの父は、ハンセン氏病(らい病)の療養所を訪ねて、川柳の作句の指導をしていたので、今でも『青松』という雑誌が療養所から送られてくる。
 
大島青松園という、高松から海上8キロの小島の中の療養所で、開園されてから90年になる。
 
90年間に3918名が入所され、1969名の入所者のほとんどの方が、肉親の見送りもなく、寂しくこの島で亡くなったそうだ。
 
現在の入所者(2000年頃のこと)は、258名で、平均年齢72・8歳、在園期間の平均は42・9年間。
 
要するに入ったらここから出られない。
 
患者のおひとりの文章は悲惨そのもので胸を打つ。
 
 
 
「兄弟、姉妹の結婚も、しばしば破談となり、適齢期を過ぎても縁談のない家族も少なくありません。私も尊敬する姉や、よくしてくれた妹が、結婚に失敗して離縁されたとき、私の病気のためと妹に責められたことがありました。
 
私は6人兄弟の3男で、2人の兄は私にやさしくしてくれていました。戦後、シベリアから復員し、家族みんなで団らんの一夜をもったことがありました。
 
長男は柔道が強く、香川県代表で国体へ2回も出場するという偉丈夫でした。私は何年ぶりかで会える兄2人との団らんを夢見て、外出願いを出し、人目をはばかって夜暗くなって帰宅しましたが、「何で帰ってきたのか、帰ったら困ることぐらいわからないのか。すぐ出て行け、ワシが宿屋へ連れて行ってやる」と、すごい剣幕で怒り心頭に発するような形相でありました。やさしかった長兄が豹変するのはなぜだろうかと、ただ呆然とするだけでした。
 
この険悪な空気を救ってくれたのは母の一言でした。
 
「そんなこと言わんでもええが、一晩だけ泊めてやってくれ」
 
私はどこで寝たのか、寝なかったのか、分からないままに、翌朝、暗いうちに家を出て、わざわざ遠い汽車の駅まで歩いてとぼとぼと家を後にしたことがあった。
 
もう二度と家族に会うこともない。悲しい別れだと思いました。それから半世紀、兄弟、姉妹との音信もなく、勿論あうこともありませんでした。」
 
 
 
丘さんは訴える。
 
差別や、偏見は世間の人々の「無知」から始まると。
 
ハンセン氏病は、ほとんど患者から感染することがないにもかかわらず、入園させられてしまったら、外に出ることはできなかった
 
ぼくの家の近所の米屋の次男が、ぼくより年がひとつ下だったけれど、やさしい子で仲良しだった。
 
どういう理由からかわからないが、成人してから神経をわずらい、松沢脳病院に入れられてしまった。
 
長いこと入院していて、病状もよくなったのに、やはり長兄が家に帰ることをこばんだために、園内で自殺してしまった。
 
ふとそんなことを思い出した。
 
 
 
カミングアウトをしない方がいいと、ぼくが言うのは、世間の人がよくゲイのことを理解してくれているならいいが、まだまだ偏見があるからだ。
 
少しずつでも偏見をなくすための努力を積み重ねていくしかない。

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2019年5月25日 (土)

「令和」ってすばらしい年号だ!

『薔薇族』を創刊したのが、1971年のことだから、その翌年ということだろう。
 
中西進さんが1972年12月20日発行の毎日新聞社刊『万葉の心』という本を出されている。
 
今から47年も前で、ぼくが40歳の時だ。
 
女房の久美子と結婚し、中西夫妻が仲人をしてくれたのが、ぼくが38歳だったから、それから2年後ということか。
 
その本にぼくが撮影した着物姿の中西進さんの写真が巻頭に載っている。
 
この本のあとがきにこんなことを中西さんは書いている。
 
中西さんは東大国文科の出身だ。
 
 
 
「故池田亀鑑博士が、授業中に「やさしく書くことが一番むつかしいことです」といわれたことばが、いまだに私の胸にびんびんひびき続けているのです。
 
なお、写真は友人の伊藤文学君がとってくれた。うれしいことだ」
 
と、結んでいる。
 
「友人」と書いてくれたことは、本当にうれしい。
 
 
 
今、月刊文藝春秋の6月特別号に載っている、中西進さんの『令和とは「うるわしき大和」のことです』という記事を何度も読みながら、47年も前の『万葉の心』のあとがきを思い出した。
 
文藝春秋は、中西進さんが「令和」の考案者であることを承知の上で原稿を依頼したに違いない。
 
頭が悪いということはどうにもならない。
 
カメラを買っても、スマホを買っても製品に付いてくる説明書をちらっと読んでも理解できない。
 
こんなぼくに「自信」を持たせてくれた恩人が中西進さんだ。
 
87歳の生涯で、人が出来ないことをいくつもやりとげてきた。
 
多くの人たちの支えがあって、これからもいい仕事を残して、この世を去りたいものだ。
 
 
 
文藝春秋の中西進さんの文章、誰にでも「令和」という年号の意味をやさしく書いて、理解してもらおうという気持ちで書かれていることが伝わってくる。
 
中西進という人間を他人事のようにユーモラスに書いて、いろいろと言われた批判にもうまく答えている。
 
さすがだ。
 
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「和歌という五七五七七で歌われるのは、まず相聞、つまり恋です。日本は恋という命の響きを圧倒的に大事にしてきた文化です」
 
中西進さんは、ぼくが駒大在学中に、斎藤茂吉の弟子で、万葉学者の森本治吉先生から短歌を作ることを教えてもらったお陰で、東大国文科在学中の2年先輩の中西進さんと短歌会の席上で知り合うことができた。
 
ぼくの歌集『渦』の序文で恋の歌をほめてくれた意味が分かったような気がした。
 
「令和が発表された後、ある方が「令」の字は命令の令で、使役の意味があるから元号にふさわしくないと発言しました。しかしそれは令の一面をとらえた解釈に過ぎません。どうして一つの文字の意味をばらばらに理解するのでしょう」
 
学者の頭ってすごい。
 
89歳にもなって、理路整然と批判した人たちをやんわりと反論している。
 
「日本では、花といえば桜なのに、どうして桜ではなく梅を囲んだ宴だったのだろうか、という疑問を持つ方がいるかもしれません。日本人はなんといっても桜が好きです。これはあらゆる時代を通じた価値観で、旅人の時代もそうでした。(中略)外国の文化をよいものとして取り込むきわめて日本的なふるまいであると言えます」
 
 
 
文藝春秋(¥1000)滅多に買ったことがないが、すばらしい雑誌だ。
 
ぜひ、読んで下さい。
 
「麗しく生きる万葉集の精神性、そして旅人の品格のある生き方が「令和」という元号から伝わるよう願っています」と結んでいる。

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2019年5月20日 (月)

少年愛者は「人間のクズ」か!

「私は38歳の公務員、小学生ぐらいの男の子が大好きです。一昨年ごろでしたでしょうか、通勤の途中でランドセルを背負った可愛らしい男の子とよくすれ違うようになりました。
 
小学校3年生ぐらいでしょうか。私はその子を見るのが楽しみになり、その子が登校していく姿を見られるように時間を合わせて出勤するようになりました。下校時間を見計らって、その子を待ち伏せして家を確かめたりもしました。表札を見て苗字を知ることもできました。
 
この春からは進級して、4年生か、5年生ぐらいになったことだろうと思い、あと3年ぐらい彼の可愛い少年時代を見て楽しむことができるだろうと思っていました。ところが先日、私は彼が学生服を着て登校していく姿を見ることになったのです。
 
そう、まだ小学生だろうと思っていた彼はすでに中学1年生になっていたのです。昨年1年間、私は彼を小学3年生か、4年生ぐらいだろうと思って見ていたわけですが、そういえばそれぐらいの学年にしては彼は背が高く、また2、3回、彼の声を聞いたことがありますが、すでに声変わりが始まっているようなキーの低い声でした。幼くて可愛らしい顔つきが、私に彼を実際の年齢より年少に見せていたのでしょう。
 
それにしても可愛い子です。ちょっと特徴のある顔つきの子なのですが、その顔がとても魅力的なのです。でも、彼の可愛い少年時代は、もうあと僅かだと思います。じきに彼は少年から脱皮して、たくましい青年へと成長していくことでしょう。
 
でも、私はもっと彼の少年時代を見ていたかった。もっと早く彼と出会っていればよかったと思うことしきりの私のこのごろです」
 
 
 
ペンネーム、岩手県の「少年フアン」からの21年も前の手紙だ。
 
ところがこの「少年フアン」のような少年愛者の人のことを「人間のクズ」だと決めつけた文章を載せている某雑誌があったので、無視しようとは考えたのだが、言うべきことは言っておかなければと書き始めた。
 
紺野遊児という方の文章だ。
 
紺野さんもゲイだと思うのだが、成人の男性を対象とするゲイの人は、少年愛の人を嫌う。
 
『薔薇族』のスタッフの人たちもそうだったが、ぼくは反対を押し切って「少年の部屋」のコーナーを作ったりした。
 
 
 
「お願いだから少年愛者は、自分のことをホモだとか、ゲイだとか言わないでほしいんですよね。
 
ものすごい迷惑なんです。同性愛者と少年愛者っていうのは、その成り立ちも、性質も脳の構造も、心理学的な位置も、全く違うんです。
 
それに世間一般でいう、いわゆる「同性愛者の犯罪」の90%以上が「少年愛者」によるものだということがあります。」
 
 
 
紺野遊児さんの言われるとおりで、18歳以上の成人の男子と付き合っても罪にはならないが、18歳以下の少年に手を出してしまえば罰せられてしまう。
 
『薔薇族』のスタッフで少年愛者の稲垣征次君をぼくは、他のスタッフから毛嫌いされているのを知っていたが、廃刊になるまで守りきってきた。
 
何度も書いているように、少年の好きな人は生まれつきで、趣味で少年を好きになったわけではなく、自分の意志では変えられない人たちだ。
 
岩手県の「少年フアン」のような人は、20数年経った今でも同じような数の人が存在し、同じような想いで少年に接しているだろう。
 
どんなに法律で規制しても、こればかりは変えられないのだ。

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2019年5月18日 (土)

内藤ルネさん、何度か死のうと!

『薔薇族』の表紙絵を一番長く描いてくれた内藤ルネさん。
 
千駄ヶ谷の駅近くにあった部屋がいく部屋もあるマンションに一緒に住んでいた藤田竜さん。
 
おふたりの夢は修善寺にルネさんのコレクションを展示する美術館を建てることだった。
 
バブルの時代に上北沢と、江ノ島にあった土地を売って、7億ものお金を手に入れていた。
 
そのお金を男4人と、女ひとりの詐欺師にまんまとだましとられてしまった。
 
ルネさんはお金のことはすべて竜さんにまかしていたようだ。
 
竜さんはぼくにとっては『薔薇族』の創刊から良き相棒になった恩人だから、悪くは言いたくないが世間知らずの大馬鹿者としか言いようがない。
 
詐欺師たちになにかに投資すれば、お金を増やしてあげるといってだましとられたとは思えない。
 
ぼくの推測だが美術館を財団法人にしたかったので、その認可をとってあげるということで詐欺師たちにだまされたということしか考えつかない。
 
財団法人に美術館をすると税金を払わないでも済むからだ。
 
悪いやつがいて税金逃れに法人化する人がいたので、お国は規制を強めていたので、認可をとるのが難しくなっていた。
 
そこが詐欺師たちの狙いどころだったのでは。
 
  
 
ぼくも平成5年に女房の古里の新潟県弥彦村に「ロマンの泉美術館」をオープンさせていた。
 
美術館をオープンさせるには、学芸員を何人かやとうとか、何かお国の規制があるのかと思ったらなんにもなかった。
 
レストランは保健所の検査があり、消防の検査もある。
 
ただそれだけだ。
 
入場料は500円、いくら入ったって儲かるわけがない。
 
  
 
法人化する必要などまったくないのに、なぜそれにこだわったのか、ぼくには理解できない。
 
何百万か詐欺師たちに払ったときに、これはおかしいなと気づかなかったのか。
 
ぼくに相談してきたのは、マンションもとられ、どこにも部屋を借りることができなくなってからで、どうしようもなかった。
 
今の時代、老人をだましてお金をまぎあげる詐欺師がいるようだけど、7億のお金をだましとられたなんて考えられない。
 
さすがにルネさん、すべてを失って何度も自殺しようとしたけど、果たせなかった。
 
ルネさん、竜さんが詐欺師にだましとられたことで、グチひとつこぼさなかったようだ。
 
しかし、真相はおふたりと、竜さんが養子に迎えた若い芳っちゃんも亡くなっているので分からず仕舞いだ。
 
竜さん、ルネさんのおふたりが残した『薔薇族』の仕事は長くゲイの歴史に残ることは間違いない。
 
ルネさんは、こんなことを書き残している。
 
 
 
「何もどこからも仕事が来なくなってしまったとき、『薔薇族』の表紙の仕事を伊藤文学氏からたのまれたときのオドロキ、それもセクシイこの上もない男の子たちの絵!! オドロキましたね。
 
ありがたく、うれしかったですよ。そして我が人生、初めてのセクシイ・ボーイズを描くことの、この上ない楽しさと、うれしさをこのとき知りました!
 
ホモマガジンの性質上、とにかくセクシイにしなければならず、しかし、どんなに妖しくて、セクシイでも、そこに清潔感をだして店頭に並んでも、男性はもちろん、女性たちにも愛されるボーイズを描こうと心に決めました。
 
恐ろしい事件も『薔薇族』の表紙を描くことでまったく忘れることができたのですよ。」
 
 
 
ルネさんが表紙を描いた薔薇像は、今でも愛されて古書店でも高く売れていますよ。

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2019年5月13日 (月)

LGBTは少数者か!

朝日新聞は、ぼくの末の妹・紀子が昭和30年の後半、東京女子医大の心臓病棟に長いこと心臓手術の日を待っていた頃のことを『ぼくどうして涙がでるの』という本を出したとき、記事にしてくれて日活で映画化されるきっかけをつくってくれた新聞だ。
 
そのときのご恩は忘れることはできない。
 
朝日新聞をずっと購読し続けていたが、『薔薇族』は廃刊になり、僅かな年金暮らしをするようになってからは、一番購読料の安い東京新聞を購読するようになってしまった。
 
東京新聞は第二書房で単行本を出していた頃は、営業の人が熱心に広告をとりにきていたので、広告を出し続けていた。
 
東京新聞も景気のいい時代には、帝国ホテルで「ザ・ピーナツ」を招いてのパーティに参加したこともあった。
 
朝日新聞の読者の投稿欄「声」には何度も投稿していて必ず載せてくれていた。
 
東京新聞の投稿欄は「発言」というコーナーがあるが一度も投稿したことはなかった。
 
最近、新聞紙上に「LGBT」という言葉が目につくようになってきたが、その下に必ずカッコして(少数者)と書かれている。
 
なにかあわれんでいるようにも思えて気になっていたので、思いきって「LGBTは少数者か」というタイトルをつけて投稿した。
 
何日も経つのに載らないので没かなと思っていたら、担当の鈴木さんという方から電話があって、ゲイトレズビアンの人たちの人数というのは、諸説があってはっきりしないので、そこのところを思案しているようだった。
 
5月8日の東京新聞朝刊に、特別に目立つように載せてくれたではないか。
 
 
 
「著述業 伊藤文学 87(東京都世田谷区)
 
最近「LGBT」という言葉がマスコミで使われるようになってきた。Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダーなどの人を示すようだ。紙面などでは「LGBT」の下に、カッコして(性的少数者)という文字が説明として用いられることが多い。
 
だが、果たして「LGBT」と呼ばれる人たちは、少数者だろうか。僕は米国ロサンゼルスのゲイパレードに、日本を代表してオープンカーに乗って三度、サンフランシスコでも一度参加したが、性的少数者と哀れむような感じで呼ぶ人はいなかった。
 
確かにトランスジェンダーの人たちは少ないようだ。この人たちのことであるなら「性的少数者」という表現も納得する。だが、ゲイとレズビアンの人たちはそれとは異なる。国内外の各種調査の数字にもかなり幅があり、確かな数字はわからないが、ゲイやレズビアンの人たちは僕の周囲にはいくらでもいる。感覚としても、決して「少数者」ではないのでは。
 
ゲイもレズビアンも異常でもなければ変態でもないと、これまで僕は雑誌『薔薇族』の編集長として叫び続けてきた。もって生まれたもので、決して趣味でそうなるわけでなく、多様な性の一つだ。
 
生き方の問題なのだから、堂々と胸を張って生きてもらいたいと願う。今になって急にゲイやレズビアンが増えたわけではなく、いつの時代でも一定数存在していたのだと思う。
 
時代が「令和」に変わった。万葉の時代のように、人々が花を愛する平和な時代であってほしいものだ。」
 
 
 
こういう内容の投稿が載ったのは、初めてのことではなかろうか。
 
担当の方もずいぶん気を遣ってくれたので、時間がかかってしまったのだろう。
 
朝日新聞や読売新聞でなく、東京新聞に載ったことをぼくは誇りに思う。
 
最後の締めの言葉は泣かせるではないか。

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2019年5月11日 (土)

あのエイズ騒ぎを忘れるな!

NHKのBSプレミアムで、毎週火曜日の21時から23時までの1時間番組「アナザーストーリーズ」で、6月25日(火)にエイズの感染者が多く出て大騒ぎになったころの話を取材して放映するそうだ。
 
エイズのことなど、いろんなことが次から次へと起きるから忘れているが、後の世の人のために残しておきたいと、ぼくも協力している。
 
周りを見渡してもあの時代のことを知っている人はぼくしかいないではないか。
 
帝京大学付属病院の松田先生も診察をやめられて、教壇に立っておられるそうで、74歳になられている。
 
『薔薇族』の1986年8月号に「エイズに気を許すな!」というタイトルで、松田先生に診察を受けた読者が、松田先生に宛てた手紙が載っている。
 
あの時代、自分がエイズに感染したのではないかと、心配する気持ちがなまなましく綴られている。
 
 
 
「心は動揺しながら、手はふるえながら書いています。電話口の先生の声は、まさに神の声に聞こえました。本当にありがとうございました。
 
この1年間、本当に苦しい毎日でした。『薔薇族』に掲載されている症状があまりにも似ている箇所が多かったものですから……。
 
一時は死を覚悟しました。自殺も考えました。夜も眠れぬ日が続きました。しかしながら先生の「大丈夫だよ」とのお声。本当に天の声でした。
 
それにしても私たちだけ、なぜ、このような目にあわなければならないのでしょうか。夜な夜なソープランドなどで欲望を満たす男たちに天罰はないのでしょうか。
 
私たちは何の悪いこともしておりませんのに、ただ同性が愛の対象というだけで、一生苦しい、暗い人生を送っていかなければなりません。
 
重い十字架を背負って、でも、死ぬことをも考えた私です。助けていただいた以上、一生懸命に生き続けます。何が何でも生きていかなければなりません。
 
もう、先生にお会いすることはないと存じます。威厳の中にもやさしさと、慈愛の目に満ちた先生のお姿を一生忘れません。本当にありがとうございました。(心はまだ乱れており、自分でも何を書いているかわかりません)はるか九州より先生のご活躍をお祈りいたします。
 
最後に世間にこのことが知られることを恐れて偽名を使い、やさしい言葉をかけていただいたのに、保険を使わず、自費で治療していただいたことをお詫び申し上げます。
 
このことは先生に対しまして、私の一生の申しわけなさとして残るでありましょう。先生のご健勝をお祈りいたし、お礼とお詫びを心より申し上げます。山崎憲司拝」
 
 
 
33年前の九州からはるばる上京して、松田重三先生に、エイズの検査をしてもらった読者の手紙だ。
 
エイズは感染しても、何年かの潜伏期間があったから、それだけなんらかの症状が出たりすると、不安になったのだろう。
 
松田先生は藤田竜君のエイズに関する質問に、こまごまと答えてくれて、その上、ぼくらが話す読者の現状を熱心に聞いてくれた。
 
「同性愛のことって、医学の教科書には載っていなのですよ」と言って、同性愛の人が多くいることに驚き、「同性愛って病気だと思っていたんですよ」と、笑いながらおっしゃった。
 
『薔薇族』と松田先生との出会いは、本当に読者にとってラッキーだった。
 
松田先生、ぼくの著書の出版を祝う会にも出席してくれて、スピーチもしてくれた。
 
ぼくはなんと人との出会いに運が強いのだろう。

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2019年5月 6日 (月)

『薔薇族』がエイズ予防の防波堤に!

アメリカでエイズが大騒ぎになったころ、日本にも感染者がでるのではと、日本のマスコミは、からだ中にブツブツができたエイズ感染者の映像を、テレビではとくに、くり返し、くり返し放映した。
 
エイズが海を越えて日本に入ってきたとき、同性愛の雑誌『薔薇族』のようなものを出しているから、エイズが広がるんだと、雑誌をつぶされてしまうのではと危機感をもった。
 
その頃、梅毒や淋病に感染した読者も多かった。
 
泌尿器科の医院が近所にあったとしても行きにくいものだ。
 
銀座の三原橋病院の柳沢先生が、読者に対しての理解者なので、先生にお願いして読者を紹介するように「編集室から」に毎号書いていた。
 
病気のことだけでなく、肛門にゴルフボールまで入れてしまってとれなくなり、ぼくに電話してくると、三原橋医院を教えてあげていた。
 
多くの読者が柳沢先生のお世話になったことか。
 
 
 
某大学の膠原病内科のM講師(現在は教授)の日本におけるエイズ第1例発見の記事を読んだ柳沢先生がM教授と相談して、日本にエイズの感染者がいるかを調べようとしたが、どうやって集めていいか分からず『薔薇族』に協力を求めてきた。
 
そこでぼくは誌上で「某大学病院研究班と第一線医師によるエイズ特別相談」を秘密厳守で、1985年の7月2日、5日、9日、12日の4日間、三原橋医院で時間を分けて、百名の人を検査することにした。
 
全国からエイズに感染しているのではと、心配している読者が集まった。
 
その結果、百名中、3名の陽性者を見つけ出したのだが、なぜか某大学病院のM教授から報告がなく、しばらくしてその検査のことが新聞紙上で報告されたが、なんと『薔薇族』の協力なしでは出来なかったことなのに、まったく無視されてしまった。
 
柳沢先生がぼくにくれた私信で「当日の検査結果について私にも連絡がなく、一番お世話になった伊藤さんにも失礼の極みで、今日まで心にひっかかっていましたことをお許しください。
 
昨今の報道のごとく、サーベランスの委員連中の真実をただただ隠したいという結果ゆえと思っています。(今にして思えば)」と怒っておられる。
 
 
 
日本のエイズ患者第1号は、本当は血友病の人なのに、アメリカで感染して、日本に帰国していた日本人男性を当時の厚生省と、某大学病院がデッチあげて第1号患者にしてしまった。
 
血友病患者を第1号にしてしまったら、厚生省の責任になるので、某大学病院と共謀してデッチあげてしまったことは間違いない。
 
なぜなら同性愛者同士の殺人事件や、空き巣の事件など、紙上に書くとゲイの世界は狭いから必ず逮捕されてしまっているのに、この第1号にされてしまった日本人は、紙上に書いてもどうしても見つからなかった。
 
確か読売新聞と、週刊ポストの記者が執拗に見つけ出そうとしたが、ついに見つけられなかった。
 
ぼくは今でも架空の患者だったのではないかと疑っている。
 
 
 
その後、帝京大学付属病院の松田重三先生の指導のもとに『薔薇族』誌上で、エイズ予防のキャンペーンを毎号くりひろげ、病院に読者専用のエイズ検査の窓口を作ってもらって、読者を多数送り込んだ。
 
同性愛者のエイズ患者が、それほど多く出なかったことは、エイズ予防の防波堤になったのではと自負している。
 
あの時代、藤田竜君と、ぼくと、あんなにエイズ予防のために真剣に取り組んだことはなかったのでは……。

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2019年5月 4日 (土)

伊藤文学氏は昭和の偉人のひとり

田亀源五郎さんの活躍ぶりは日本だけでなく、海外にまでひろがっていて、ゲイの人で今や知らない人はいない。
 
2019年の4月にポット出版刊の田亀源五郎編『日本のゲイ・エロティック・アート』の3巻目が刊行され完結し、銀座の「ヴァニラ画廊」で華々しく、多くの男絵師たちの作品が展示された。
 
3巻目の中に納められた少年の絵は、10年も前に原画を渡してあり、やっと陽の目を見たと作者の稲垣征次君は、よろこびを電話で伝えてくれた。
 
出版物の売れゆきが落ちるばかりの時代に10年もかけて完結させた、ポット出版の努力は大変なものだったろう。
 
箱入りの豪華本で定価も¥4500+税と高価だが、もうここに納められているような男絵師は現れないと思うほど、ゲイの歴史に残る本なので購入してほしいものだ。
 
2002年3月に刊行された、伏見憲明さんの著書『ゲイという[経験]』もポット出版から発売されている。
 
オビに「伏見憲明の総決算・性愛の未来を予言する」とある。
 
伏見さんは1963年東京生まれの埼玉育ち、慶應義塾大学法学部政治学科卒の頭のいい方だ。
 
ぼくが経営していた新宿の「伊藤文学の談話室・祭」で何度もお会いしたと思うが、お顔は思い出せない。
 
この本の中の「ゲイの考古学=「私たち」はどこからやってきたのか? 日本のゲイの歴史を探訪する」は、よく調べていてゲイの歴史を知りたい人には、ぜひ読んでもらいたい。
 
残念ながら伏見さんは『バディ』で活躍された人だ。
 
藤田竜さんとは一緒に仕事はできなかったろうから仕方がないことだ。
 
2006年7月に河出書房新社から刊行されたぼくの著書『「薔薇族」の人びと・その素顔と舞台裏』の書評を書かれているのを見つけ出した。
 
 
 
「ある新聞から書評を頼まれた伊藤文学著『「薔薇族」の人びと』(失礼だがあまり期待せずに読んだら)これが非常に面白かった。
 
名著ではないか。伏見はこういう本が読みたかった。そしてゲイの人にはぜひ読んでもらいたい。
 
先日とある公園で高校生らによって同性愛者の男性が襲われ、現金を奪われる事件が起こった。少年たちは同性愛者なら通報しないと思ってやった、と自供しているという。
 
この件は、まだまだ社会に同性愛者への差別意識が根深いことを物語っている。一方で被害者が警察に通報したことは、時代状況の進展も示しているだろう。かつてだったら同性愛者だということで被害にあっても、それを知られないよう泣き寝入りせざるをえなかったからだ。(中略)
 
本書は一つの商業誌の発行を通じて時代と格闘した人々の物語だ。その過程で生まれたエピソードの一つ一つは、新しい時代に光を呼び込もうと奮闘した人びとの物語だ。その過程で生まれたエピソードの一つ一つは新しい時代に光を呼び込もうと奮闘する人間の姿そのものであり感動的だ。そしてどこかユーモラス。
 
この本の他にない魅力は、伊藤氏の人間を断罪しようとしない態度に裏打ちされている。
 
例えば、昨今では犯罪者としか語られない少年愛の人についても、氏はそれを頭から否定するのではなく、どこまでもその人の生きがたさに寄り添おうとする。そのまなざしは宗教者のようであり、お名前のような奥行きを感じさせる。
 
振り返ると、伊藤文学氏もまた、昭和の偉人の一人だと断言できる。」
 
 
 
うれしい書評だ。
 
ハワイからやってきた人がこの本を持ってきてサインをと言われた本だった。

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