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2019年5月27日 (月)

「令和」の名付親、中西進さんとぼく!

『月刊・Hanada』7月号に、10ページにもなる新元号「令和」の名付親、中西進とぼくとの長い交流を書いた記事のタイトルは、ぼくが考えたものだ。(5月24日発売)
 
「中西進さんと『薔薇族』編集長」『Hanada』の編集長、花田紀凱さんとも長いお付き合いだが、ぼくが考えたタイトルにしてくれた。
 
本当のところは「優等生、中西進さんと劣等生、伊藤文學」とすべきだったかもしれない。
 
 
 
昭和23年、日本の敗戦後、まだ3年しか経ってない4月に駒沢大学文学部国文科にコネで入学させてもらった。
 
万葉集の研究者で、短歌の結社『白路』の主催者、斎藤茂吉の弟子の森本治吉教授に、短歌を作ることを教わらなかったら、東大国文科の2年先輩の中西進さんと、出会うことはなかった。
 
駒大の卒業式のときまでぼくはいたけど、単位が3教科とれず、それに卒業論文を書けなかったから、卒業証書をもらえなかった。
 
国文科で3人、卒業できない人がいて、その中のひとりはぼくだった。
 
森本教授は心配して父のところへ手紙をよこしてくれた。
 
教務課の人たちと、教授たちが会議を開いて、この3人をどうするか相談したそうだ。
 
教務課の人たちが、「伊藤くんは将来、有望な学生だから、なんとか卒業させてやりたい」と言ってくれたそうだ。
 
森本教授は「大学院に入りなさい。そこで卒論を書き、追試を受けなさい」と言ってくれたが、父が創立した「第二書房」には社員はひとりもいない。
 
学生時代から父の使い走りをしていたから大学院に入ったって、本を読むわけでないから、まあいいかと、そのままになってしまった。
 
 
 
それから時が経って、昭和30年の後半、妹紀子の心臓病棟、401号室での患者たちの交流を描いた『ぼくどうして涙がでるの』が、朝日新聞の応援でベストセラーになり、日活で映画化され、心臓病の人たちの心の支えになった。
 
テレビにも何度も出演したので、森本教授からの年賀状には、よろこびの言葉がそえられていた。
 
 
 
その頃、世田谷学園の同窓会の役員会があり出席したが、その帰りにたまたま駒大の教務課の部長さん(恩人のお名前を忘れてしまった)も出席していて、帰りにぼくは車で行っていたので、部長さんを自宅まで送っていった。
 
車中で「ぼくは卒業式までいたけれど、卒論を書かなかったから、卒業証書をもらえなかった」と話をしたら、「いつでもいいから、俺のところへ訪ねてこい」と言われたので、数日して部長さんを訪ねたら、卒業証書をくれたではないか。
 
総長の名前が変わっていたが……。
 
『ぼくどうして涙がでるの』が卒論だよと言ってくれた。
 
今の時代なら、こんなことをしたら大変なことになってしまうが、いい時代だった。
 
 
 
駒大在学中、授業で教わったことは、何一つ覚えていないが、短歌を作ることだけには熱中していた。
 
昭和25年に東大の山上会議所で催された、各大学の短歌を愛する学生たちが集まって短歌会が開かれた。
 
駒大からはぼくひとりだけの参加だったが、その頃の駒大は3流大学で、ぼくは劣等感にさいなまされていた。
 
それがぼくの作品を東大国文科の2年先輩の中西進君が、絶賛してくれたではないか。
 
とびあがるほど嬉しく、自信を持つことができて、それからのぼくの人生は大きく変わった。
 
 
 
ぼくのアイデアの豆本、歌集『渦』に、中西進先輩が序文も書いてくれた。
 
その中西進さんが新元号「令和」の名付親とは。
 
この歌集『渦』千金の価値があるのでは!
 
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〒155-0032
東京都世田谷区代沢3−9−5−202
伊藤文学
 
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