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2019年7月

2019年7月31日 (水)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

9月の「文ちゃんと語る会」は、9月21日(土)に開催いたします。
 
日時・9月21日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
初めての方、女性、おひとりさま、どなた様も歓迎です。
 
ぜひお気軽におでかけください。
 

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2019年7月29日 (月)

ふるさとを捨てた人びとにやっと!

ぼくの父、祷一は「合同歌集・ふるさとを捨てて・伊藤柳涯子編・高原川柳会刊」のあとがきに、こんなことを書いている。
  
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「中学時代から俳句を高浜虚子に、日華事変ごろから短歌を斎藤茂吉に、川柳は斯界の巨匠、岸本水府に選んでもらい、師事できたので選者運は最高だと言ってよいと思う。ところがご本人が一筋の道を踏み通せなかったからしかたがなく、正岡子規よろしく短歌、俳句ぐらいにしておけばまだしも、川柳にまで手を染めたのだから、ついに収拾がつかなくなってしまった」と。
 
短歌もいい作品を残しているが、一番川柳が良かったのでは。
 
 人生は旅その旅で逢った人
 
ぼくも87歳まで生きてきて多くの人との出逢いがあったことを思い出させる。しみじみとしたいい句だ。
 
 
 
父はハンセン氏病の人たちのことを世に訴えたいと何冊も本を出版しているが、自らも草津にある「栗生楽泉園」(ハンセン氏病の人たちを収容する施設、一生ここから出られない)に通い詰めて、川柳を指導し、合同句集を出版している。昭和47年・11月刊。
 
ハンセン氏病は感染率が非常に低いにも関わらず、強制的に施設に入れられ、女性は妊娠ができないようにされ、一生を過ごすことになる。その家族も周囲の人たちから冷たい目で見られ、差別された。
 
それが最近になってやっと国が謝罪し、家族にまで生活を保障されるようになった。父もあの世で喜んでいるだろう。
 
施設から外に出ることができないのだから、短歌、俳句を学ぶ人も多く、川柳も父の指導で句集まで出すようになってきている。
 
歌集を探し出せないが、熊本のハンセン氏病の施設に入って作歌している伊藤保という歌壇では有名な方で、第二書房から「歌集・仰日」を出版し話題になったことがある。
 
伊藤保さんにも66年前に出した豆歌集「渦」を送ったようだ。そのお礼状の葉書が残っていた。
 
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「私はいつも簡単に美しい、こんな歌集で早く出版して世の人々に読んでもらえるようにしたら、かえってよいであろうと思っていました。ご内容については、ゆっくりと読ませていただきます」と、豆本のアイデアを褒めてくれている。
 
 一つ顔を想い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず
 
 日を受けて透きとおる靴下が垂れている窓を見てより君の扉に立つ
 
「感覚の新鮮、感情のやさしさ、こまやか、青春歌集としての意義を大きく見たい」
 
今は亡きハンセン氏病の短歌の第一人者からのお目の言葉は嬉しい。長い年月、差別と偏見から解き放された、今の時代だから余計に感じる。
 
 
 里恋し流れる雲にことよせて
 
 ふるさとは捨てたはずだが目に浮かぶ
 
 隠れ病む故郷はポストだけが知り
 
 夢でよし捨てた故郷が見たいもの
 
 生きのびていればいつかは逢える顔
 
 ふるさとを語るしあわせ持って病む
 
 母のもと離れて母のありがたみ
 
 
 
 ふたたび帰ることができない古里をしのびつつの川柳。つらい句ばかりだ。

 

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死刑。5人の刑務官が同時にボタンを!

死刑の話を書いていたら、全身に刺青を入れ、小指を切り落とした元ヤクザだった男から電話がかかってきた。
 
週に1、2度は電話がかかってくるが、「社長、社長」と言いながら話が長い。もう一人、毎日、一度は電話をかけてくる男がいる。この人は『薔薇族』にファッションの話などを執筆してくれた人だ。
 
脳梗塞を患われているので、呂律が回らないから、話がよくわからない。何の用もないのにかけてくる。他に電話をかけるところがないのだから、はい、はいと聞いてあげている。
 
刑務所の死刑台の話、13階段を登って絞首刑にされるのだが、5人の刑務官が同時にボタンを押すのだそうだ。ひとりでボタンを押したら嫌な気持ちになるだろうから、5人で押すとは考えたものだ。
 
 
 
「年々30名内外の死刑執行者がいるが、だいたいみんな従順である。覚悟がいい。もう死刑の宣告を受けて、罪が確定すると生命を限定されたことになるのだから、世の中に執着というものがさらになくなる。
 
罪の確定前、獄中で暴れた者でも、一旦死刑を宣告され、その罪が確定して、いつ、何時に自分は殺されるのだと思うと、ほとんど死人のように静かになる。
 
私の友人で一昨年、大阪で死刑を執行された者がいた。死刑の宣告を受けて、罪が確定すると、私のところへ電報で是非会いたいと言ってきた。
 
死刑囚である友人が、ふたりの看守に惹かれて入ってきた。いつになく落ち着いた態度に驚いた。私の顔を見ると笑いさえ浮かべて、
 
「君は新聞で読むと、とんでもないことをしたね。一体動機はどこにあるの?」
 
私がこう尋ねると
 
「別にとんでもないことをしたと僕自身は思っていない。しかし、法律上悪いことをしたことだけは俺も認めるし、動機なんか聞かないでくれ。ただ一言、人間のなすべきことをしたということだけは言っておく」
 
「で、君は死刑の宣告を受けたのだろう」
 
「そうだ、死刑さ。殺されるわけさ」
 
友人は顔色一つ変えずにこう言った。
 
「で、執行はいつなんだ」
 
「執行か、俺の殺される日か、それはまだわからぬが、4、5日中だ。だから俺がこの世で生きているのは、あと、4、5日というわけになるのさ。4、5日生きていれば結構な話だ」
 
「君はすっかり、覚悟しているのだね」
 
「覚悟なんて、そんなバカなことはない。当然のことだ。人間、自殺することも、病気で死ぬことも、また殺されるということも、死という結果には何の変わりもないのだからね」
 
死に臨んで、何か泣き言でもいうのかと思ってきた私には少々意外な感じがした。
 
「君などは死ということをどんなにか、恐ろしいものとでも思っているのだろう。俺だって死の宣告を受けるまでは、そう思わないでもなかった。しかし、ひとたび死の宣告を受けると、それによって人間の生命は決められたことになるのだから、その決められた範囲においてのみ生きようとするもので、それ以上生きようとは思わない」
 
「そうかね」
 
私は答えただけだった。友人はなおも言葉をついで「君に会いたかったのは、他のことではない。僕の友人に会ったら、Tは罪の前によろこんで死んでいったと伝えてくれ。また、僕の両親には君から、体を大切にといってくれたまえ、それだけで別にいうことはない」
 
友人はこう言って立ち上がった。そして再び看守に引かれて獄屋へ去った。」
  
 
 
この友人はどんな罪を犯したのか? 暗い話ばかり書いたが、僕が死を考える歳になってきたからだろうか。

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2019年7月27日 (土)

昔からの女性は、男よりも強かった!

2019年6月にしばらくぶりに女房の古里の弥彦村(新潟県)の別荘に行ってきた。「ロマンの泉美術館」(今は廃墟になっている)のフアンだった女性が、上越新幹線の「燕三条」駅まで車で待ってくれていて、別荘まで運んでくれるという。
 
 なんとガスが止められていて風呂に入れないので、ダンボールに入ったままのものを開いて、捨てるものと置いとくものを選び出してきた。その時持ち帰った92年前、昭和2年刊行の「文藝市場」という雑誌。
 
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サトウ・ハチローさんという詩人のエッセイ「東京不良少年往来」が載っている。若い頃、キングレコードのディレクターの友人、長田暁二君に連れられてお会いしたことがある。ぼくも長田くんも長生きしているということだ。
 
日本性愛奥義篇の秘具篇、張型考とある。これはオナニーをするときの道具のことだ。
 
他に獣姦雑考なども、とんでもない読物ばかりが載っている。その中に小座間茂さんという方の「死刑執行所覗き」はわかりやすいが、どういう仕事をされていて書かれたものかは不明だ。
 
昔の文章を読むのは大変だ。わかりやすくして興味のあるところを紹介したいと思う。こんな話が載っている。
 
 
 
「明治40年7月、仙台の第2師団の軍法会議で死刑を言い渡された一人の兵士がいた。
 
宮城県石狩郡の農家の山川藤五郎(27歳)で、死刑になる理由は、入営前からあるお茶屋の若い女と深い仲になっていたが、入営後は日曜ごとの休みの日でないと、逢うことができないので悩んでいた。そのうちに女が、足遠くなってきた藤五郎に飽き足らず、他に男ができて、一緒になろうとしている話を噂で聞いた。藤五郎は無理にでもその女と一緒になろうと決心したが、軍隊からは抜けられない。軍隊から脱走したが、すぐに発見されて、重営倉に投げ込まれてしまった。
 
それでも女を諦めきれずに、深夜に営倉から逃げ出して、兵舎に放火してしまう。八百屋お七(江戸時代の話)とよく似た気持ちの話である。
 
それも不幸に見つけられて、ついに死刑を言い渡されてしまった。そこで上官は藤五郎と戦友仲で、最も親しかった3名の兵士が選ばれて、3名の一斉射撃で銃殺されたという。」
 
 
 
銃殺されたのは、藤五郎で終わりで、それからは一般死刑囚と同じように、絞首刑になった。
 
昭和の初めの時代、毎年死刑になる者の数は、30名ぐらいである。試みに過去45年の統計を見ると、大正10年に31人、同11年に30人、同12年に28人、同13年に13人、同14年に11人死刑執行されている。直接執行の任に当たる刑務所長の話によると、裁判所で罪を裁かれるときは、男より女の方が女々しいが、いざ死刑を宣告されて、獄中にある間、まは執行の場合などになると、男より女の方が覚悟がいい。女性の方が死にたいして従順である。
 
男は死刑執行となると、狂人のようになって騒いだり、泣いたりするが、女性は涙一滴も流さないという。
 
かなり古い話だが(江戸時代)有名な高橋お伝という女が死刑になった。獄中で教誨師が「何か言いたいことはないか?」と尋ねたら、お伝は「別に言いたいことはないが、腹が空いたから何か食べさせてもらいたい」と落ち着き払って食べ物を注文した。
 
看守が今でいう親子丼のようなものを持ってくると、ペロリと平らげて、絞首台に上り死についたという。
 
人間、死刑にならなくても、死は必ずやってくる。落ち着いて死にたいものだ。

 

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「文藝市場」の裏表紙・三越は呉服店

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2019年7月22日 (月)

少年愛の人が「性的虐待」するわけがない!

『週刊文春』はジャニー喜多川さんのことを書くなと、2019年7月9日、亡くなられたとき思った。
 
7月25日号のトップ記事は、「稀代のプロデューサーの光と影・ジャニー喜多川 審美眼と「性的虐待」・本誌しか書けない」と、6ページも費やしての記事だ。
 
「性的虐待」なんという嫌な文字だ。愛する少年をなんで虐待するわけがあろうか。怒りがこみ上げてくる。
 
『週刊文春』どれだけお世話になったことか。批判することなど、書けるわけがないが「少年愛」ってどんな愛なのか、知らずに書いているのだから、「性的虐待」と言っても仕方がないことかもしれない。
 
ジャニー氏の行為は、「青少年健全育成条例」、刑法のわいせつ罪や、準強制わいせつ罪に抵触する可能性が高い」と書いているが、18歳未満の少年、少女にわいせつな行為をしたら逮捕されてしまう。
 
ぼくは1971年に日本で最初の同性愛の雑誌『薔薇族』を創刊してから、ゲイの世界を少しずつ知るようになってきて、一番気にしているのは少年愛の読者のことだ。
 
少年愛の人が日本にどのくらいいるのか数えようがないが、5万、10万の数ではなく、何10万はいると思う。
 
好き好んで少年を好きになった人はいない。持って生まれたものだから、死ぬまで変えることは出来ない。
 
少年愛と言っても、好みの対象は様々だ。幼児愛の人もいる。顔、体型の好みは様々、しかし、小学校5、6年から中学1年生か、2年生ぐらいまでの脚に毛が生えてこないぐらいの少年が好きという人が多いようだ。
 
問題は少年に近づきたいために、少年が多くいる職業についている。
 
『週刊文春』は、「稀代のプロデューサーの光と影」とタイトルにつけているが、どんな偉大な人物でも「影」の部分はある。その影の部分をほじくり出して「性的虐待」というのはよくない。
 
1999年から『週刊文春』は、ジャニーズ事務所の少年に対するキャンペーン記事を14週にわたって掲載したが、テレビ局はお世話になっているジャニーさんのことを取り上げるわけがないから、立ち消えになってしまった。
 
『薔薇族』を創刊した初期の頃出会った人で、200人もの少年と性行為をしたが、だれひとり親に話す少年はいなかったという。その人は少年と肛門性交もしていたようだ。
 
ジャニー氏の少年に対する誘い文句は、「ユー、今日ウチへ来る?」だった。少年たちの証言は具体的で真に迫るものばかりだ。
 
 
 
「ジャニーさんの手の甲は毛深いんで、ちくちくするけれど、マッサージは筋肉がほぐれて本当にうまい。でも、パジャマを脱がすとすぐ口です。いつも歯があたって、痛いんですよ」(99年11月11日号)
 
「寝たら寝たで、部屋にいきなり入ってきて、俺が一人で寝ていると、その横に入り込んでくるんですよ。(中略)最初は指を、それから性器を入れてきましたからね。いや、恐くて後ろは見られませんでしたけど。痛い、痛い、ものすごく痛いですよ。(中略)
で、朝、起きたら、5万円が置いてあったんです。」(99年11月4日号)
 
 
 
ジャニーさん、少年愛者として幸せな人生を送った人だ。多くのタレントを世に出したし、人がやれないことをしたのだから、悔いはなかったに違いない。
 
最後に入院したとき、かわいがっていた男の子たちがきて、ジャニーさんの体をさすったら、一時的に生気が戻ったという。少年愛者として最高の生き方をした人だ。
 

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2019年7月20日 (土)

ゴミみたいな街、下北沢を愛して!

「下北沢」が若者たちにとって住みたい街の1位になっていたのは、20年も30年も前の頃だったのだろうか。
 
2019年7月の東京新聞朝刊に、「住みたい街(駅)ランキング2019首都圏版」が載っていた。
 
「吉祥寺は15回連続1位、大宮が急上昇13位→3位」とタイトルにある。世田谷区の街はどこにも入っていないし、栄光の下北沢も消えている。
 
今、下北沢の駅は増築中だが、小田急のホームは地下深くにあり、年配者にとってはエスカレーターに乗っても不安だし、出口がわかりにくい。
 
駅の建物をもっと大きくして、食品売り場や広い落ち着いたレストラン街も入るようにしてもらいたかった。
 
小田急は下北沢から終着駅に近づくほど駅を立派にし、周辺の土地を買いあさり、建物を作って販売し、利益を上げてきた。
 
下北沢駅周辺は小さな店が密集しているので、今となっては土地を買い漁ることもできない。
 
小田急の入り口ばかりを目立つようにして、なぜか京王線の乗り場は目立たなくなっている。
 
駅前のスーパー「ピーコック」「三省堂書店」が入っているビルも老朽化しているから近い将来に立て直すことになるのだろう。
 
ぼくは87歳になるまで、下北沢駅近くに住んでいるのだから、その移り変わりをずっと見てきた。
 
以前は駅の北口の方が賑やかな商店街で、南口の方は、お店は数件しかなく、ほとんどが住宅街だった、それが逆転して今では北口の商店街がさびれ、南口の商店街が賑やかになり、路地にまで小さなお店になっている。
 
南口の商店街で、ご自分でお店を経営している人は、わずか2、3軒しかない。ビルを建て他人様に貸した方がいいから、ご自分はビルの上の方に住んだり、マンションに移ったりしている人がほとんどだ。
 
下北沢の商店街の通りは狭く、歩道もないのだから、いつも人通りが多いように思えるが、道が広かったら通る人もパラパラだろう。それに下北沢の街は若者の街で、懐具合の良くない若者ばかりの街なので、高級店はない。
 
文化的な街だと言われているが、画廊もなければ画材屋もない。年配者が落ち着いて食事ができる和食屋もないし、レストランもない。
 
今や下北沢はゴミみたいな街になり、お金持ちの年配者は渋谷や、新宿に行ってしまう。それに下北沢のお店の家賃が高すぎる。
 
大きなチェーン店でも採算が取れないとすぐにやめてしまう。それに下北沢は古着店の街になっていて、数えたことはないが数十軒はある。
 
古いお茶屋さんのご主人の話だと、古着屋は安く商品を仕入れて高く売る。こんな利幅のある商品はないから、家賃が高くても店を借りるので、下北沢のお店の家賃は安くならないという。確かにそうかもしれない。ぼくが経営していたカフエ「イカール館」のあとは古着屋になったが今でも続いている。
 
日曜のたんびに車で迎えにきてくれて、恵比寿ガーデンプレイスに連れて行ってくれる、ありがたいお金持ちがいる。700円もするコーヒーを飲んでいると、全てが贅沢にできている建物ばかりだから、下北沢の街はゴミみたいに見えて、外国に来たような気持ちになる。
 
地下の食品街も三越が経営していて、なんでもある。値段もそう高くはない。しかし、ゴタゴタしたゴミみたいな街、下北沢がいいのかもしれない。こんな街は今ないのだからカフエ「織部」で、400円のコーヒーを飲んで日経と朝日を読んでいる時が一番幸せを感じる時だ。

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2019年7月15日 (月)

「小笹寿司」のカウンターで知り合って!

以前75年も住んでいた我が家のすぐそばに江戸前の寿司店「小笹寿司」があった。親父さんは変わり者で、気に入らないお客をいびるので有名だった。
 
親父さんが60歳の還暦の年に、親父さんから相談を受けた。それはとんでもない相談で刺青を体に彫りたいというのだ。
 
ゲイのことならなんでも知っている『薔薇族』の創刊以来の相棒の間宮浩さんにこの話を伝えたら、東映の大スターの体に、マジックで刺青を描いた人を知っているというので、お願いしてきていただいた。
 
我が家の座敷で何時間もかけて、金太郎の鯉の滝登りの絵を見事に描いてくれた。親父さん、その出来栄えにすっかり喜んで六尺褌姿でモデルにもなってくれたので、『薔薇族』にも掲載した。
 
そんなご縁があったので、ぼくにはよくしてくれた。そのカウンターで横に座っていた高平哲郎さんご夫婦と、近所に住んでいたこともあって親しくなった。
 
NHKホールで7月に毎年開催される「パリ祭」故石井好子さんが主催していて、今年で57回になる。
 

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毎年、チケットを2枚送ってくれる。元気な奥さんで犬を10匹も飼っていて北沢川べりを散歩しているので、よく出会い立ち話もした。奥さんタバコ好きなので、ぼくの女房と一緒に休憩中にホールの扉の外で、タバコを吸っていた姿が思い出される。数年前に突然亡くなられたようだ。犬のために群馬県の方に移られてからのことだ。
 
7月7日の日曜日、親しいクミコさんが登場する日のチケットを送ってくれた。中央の前から5列目のいい席だった。
 
高平哲郎さんが演出をされるようになってからなん年ぐらいになるだろうか。
 
1部、2部に分かれていて、1部の出演者だけでも19名、2部が17名、これだけの出演者が次から次へと出てきて歌うのだから、変化をつけなければならない。
 
僕らはシャンソンが好きなので、高平さんが演出をされる前から「巴里祭」を聞きに行っていたが、ただ次から次へと歌手が登場するのに変化がなかった。
 
さすがは高平哲郎さんの演出は見事だった。舞台がガラリと変わっていた。
 
最初の頃は彫刻家の朝倉文夫さんの長女の舞台装置家の朝倉響子さんが担当して、迫力のある舞台装置を作り上げていたので見栄えがした。
 
最近の照明器具の発達は素晴らしい。1960年、ぼくの先妻の舞踊家ミカが舞台で踊っていた頃は、舞台照明家と呼ばれる人がいて、自ら手で照明器具を操作していた。
 
NHKホールの天井にぶら下がっている照明器具の数は数え切れないほどだ。歌手が次から次へ登場するが、その曲や、衣装なども考えて、すべてコンピュータに入力しているので変化をつけられる。それに発煙器具が備えられて、煙が出るので照明の明かりの線がはっきりとわかり、幻想的な効果もある。
 
歌手を曲の内容にあった写真の映像と照明だけで変化をつけてしまうのだから、大げさな舞台装置など必要なくなってしまっている。
 
今年の「巴里祭」のテーマは、94歳で昨年亡くなったシャルル・アズナブールという歌手であり、60本以上の多くの映画に出演された方の曲だ。
 
ぼくはこの方の映画も見たことがないし、その曲や、歌も知らないが、今回初めてアズナブールの曲を聴いて、聴いたことがある曲も多かった。
 
クミコさんの歌った「赤い風船」も良かったが、アズナブールという人、なんとなくゲイ出なかったのかと思った。

 

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高平哲郎さんも歳をとった

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2019年7月13日 (土)

「文学」という名前は?

ぼくが愛読(本当は購読料が一番安いからだ)している東京新聞2019.7.1の朝刊に「紙つぶて」というコラムがあり、三田文学の副編集長・粂川麻里生さんが気になる「文学とは」というタイトルで書いている。慶応大学出の優秀な方なのだろう。後半の文章が難しい。引用させていただく。
 
 
 
「文学というものが昨今甚だ旗色が悪い。各大学では「文学部」は続々と解体・改組に追い込まれているし、文芸雑誌はどんどん廃刊だ。文部科学省は国語教育から「文学」の要素は極力減らしていく構えだ。ディランがノーベル文学賞を受賞すれば大騒ぎになり「ハルキは?」とも話題になるが、大多数の方々にとって文学はまるでいらないものなのだ。しかし、ちょっと待っていただきたい。皆さんは文学とは何か、お分かりの上でそういう態度をとっておられるのだろうか。
 
文科省の役人は、国語科目から減らすべき「文学」とは「フィクション」であると説明した(苦笑)。優秀なる官僚がその程度であるから仕方ないが、本当は文学とは「人間」のことである。古代以来、欧州では文学こそ「神」や「国家」の前で「人間」を担保するものであり続けた(今は欧州人も忘れているフシもあるが)嘘だと思うなら、「人間」を定義してみていただきたい。どうやっても「人権」とか「自由」の基礎になるような定義は出てこないはずだ。「人間」は定義できない。「文学」で描くしかないのである。
 
もちろん、ちゃんと「人間」に挑んでいない現代文学にも責任はある。しかし人間不在の社会運営、高位の人々の言葉の貧困を見るにつけ、近い将来「文学」は立ち上がらなければならないと感じる」
 
 
 
昭和7年に姉が生まれた後に、男子が生まれたので、子供の頃から文章を書くのが好きだった文学青年の父は、「文学」と名付けた。87年間生きてきて同じ名前の方にお会いしたことはない。嫌煙運動をしている方が、ぼくが経営していたカフエ「薔薇の小部屋」に訪ねてきたことがあった。この方のお父さんはロシア文学の研究者だったので「文学」と名付けたそうだが、ブンガクではなく読み方が違っていた。
 
「文学」と名付けられて良かったことってあまりなかったが、駒大は坊さんの大学なのでモンガクと呼ばれてしまった。
 
警視庁の風紀係に始末書を書きに行ったとき、係官に「いい名前ですね」と言われたぐらいしかない。
 
ぼくは国文科に入学したものの、万葉集や源氏物語など読んだことはない。小説も「坊ちゃん」とか「出家とその弟子」ぐらいは読んだ記憶があるが、現代文学など全く読んでいない。
 
『編集会議』という雑誌が愛読書を何冊か選べと、いろんな雑誌の編集長にアンケートしたことがあったが、ぼくは仕方がないので、篠山紀信さんの『巴里』という写真集?を愛読書にしてしまった。
 
 
 
「文学とは「人間」のことである。」もう、その辺から理解できない。粂川さんの「「人間」は定義できない。「文学」で描くしかないのである。」いよいよわからない。
 
最後の「高位の人々の言葉の貧困を見るにつけ、近い将来「文学」は立ち上がらなければならないと感じる。」
 
「高位の人々」ってどんな人のことか、政治家、宗教家、校長、みんな言葉の貧困さを確かに感じる。
 
国文科を卒業したって、学んだことを活用できる職場がない。大学が企業の予備校化しているのだから文学部など必要がないのだろう。
 
 
 
「文学」いい名前だ。父親にはこれだけは感謝している。ぼくなりに「文学」の名前に、恥じないように生きていきたい。

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2019年7月 8日 (月)

世田谷学園、柔道部栄光の影に!

去年の6月ごろのことだったろうか。母校世田谷学園の同窓会総会が開かれた。卒業生は10万人以上いるのだろうが、その全員に総会開催の日時が郵送される。この費用だけでも莫大な費用がかかると思うが、広い階段教室に集まる出席者は3、40人に過ぎない。
 
若い卒業生は誰一人来ない。集まるのは年配の卒業生だけだ。校長の挨拶があり、事業報告など数字が並べるだけ。質問は? といっても質問する人は誰一人いない。「異議なし」と拍手して、2、30分で終わり。
 
これじゃ馬鹿らしくて出席する人が少ないのは当然のことだ。柔道部が創部されて100年になるというので、記念の本を出版するというので、柔道部卒業生の人に声をかけられた。
 
ぼくが文章を書く人だということを知っていたらしい。柔道に関する学生時代の思い出を描いて欲しいと頼まれてしまった。
 
ぼくが世田谷学園(当時の世田谷中学、ヨタ中と呼ばれていた)に入学したのは、太平洋戦争末期の終戦1年前のことだ。
 
学校に通っているのは1年生だけ。2年生から上は全部軍需工場に働きに行かされてたまにしか学校には来なかった。
 
そんな時代に講道館の7段か8段のでかい花桐先生が柔道を教えてくれた。柔道着は学校で用意したものか、母親がどこかで見つけてきてくれたものか覚えていないが、柔道着は着ていたと思う。
 
その頃の思い出をエッセイに書いて、柔道部の人に送った。「ころんでもけがをしなかった」と題して。
 
先日、1年も経った世田谷学園の同窓会総会に出席したら、やっと出来上がった柔道部創部100年記念の印刷物を渡された。
 
ぼくの顔写真と略歴も添えられて、1ページを使って載っている。カラー写真も多く入れられた豪華な記念号になっていた。
 
世田谷学園柔道部の全盛時代、オリンピックで金メダルを授賞した、古賀選手、吉田選手の写真や、記事も載っている。
 
今、ぼくは下北沢南口の「下北沢整形外科リウマチ科クリニック」という長ったらしい診療所で、植田先生に診てもらっているが、息子さんが世田谷学園の柔道部の出身で、医科大学の学生なので、本をプレゼントしてしまった。
 
いいエッセイなので、そのまま紹介したかったが、今手元にないので、詳しくはかけないが、こんなことを書いたと思う。
 
B29の空襲が激しくなってきた時代で、学校に登校しても連日のように空襲警報が発令されると、下校しなければならなかったから勉強どころではなかった。
 
柔道を花桐先生に教わったとは言っても、わずかな時間だったろう。子供のころ、ころんで膝をすりむいたことなどは何度もあったろうが、年をとってからころんだことが2回あり、その時のことはよく覚えている。
 
もう7、8年になるだろうか、今住んでいるマンションに越してきたばかりの時、週に1度掃除にくる業者がいて、水浸しになっていたタイルの上で、すり減ったサンダルを履いて外に出た。途端に、滑ってころんでしまったが、けが一つしなかった。
 
もう一度は階段を降りるとき転んだが、その時も骨折などしない。それは中学時代に受け身の練習をしたからと。
 
学園のすぐそばにゲイのご主人の理髪店があり、一人で住んでいたので、柔道部の学生たちに食事を提供するのを楽しみにしていた。
 
世田谷学園柔道部の栄光を陰で支えていたのは理髪店の親父さんではないかと。

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2019年7月 6日 (土)

エイズを忘れてはいけない!

2018年6月には、初めてNHKの番組が『薔薇族』を取り上げてくれて、世の中変わってきたなと実感できたが、年号が「平成」から「令和」に変わって、6月25日夜9時から10時までの1時間番組で、NHK BS3チャンネルの「アナザーストーリーズ」に出演することができた。
 
タイトルが「エイズの衝撃・スターの告白が世界を変えた」で、評判が良かったようで、7月1日、夜11時45分から再放送もされた。
 
この番組を制作したのは、株式会社スローハンドというNHKの下請けのプロダクションで、ディレクターの天谷来翔君が一人で制作した。
 
若い人だから徳川夢声さんとか、中村メイ子さん、大女優の久我美子さん、内藤ルネさん、中原淳一さんのことなど全く知らない。
 
こんな若い人が今やマスコミも書かなくなった、過去の話になってしまったエイズの話を番組にできるのかと思ったが、それが素晴らしい出来栄えの感動的な番組になっていた。
 
我が家の狭い6畳の寝室兼仕事部屋で、カメラマンと音声の人と3人で取材に来て、ぼくは何時間もしゃべりまくった。
 
番組の内容を録画で孫の高3の男の子と一緒に見てくれたのは嬉しかった。
 
年号やアメリカでの出演者などを詳しくメモしたノートが、どこに置いてしまったのか見つからない。
 
最後の3分間だけのぼくの出演だったが、それでピッシリと番組を締めくくっていたので、ありがたかった。
 
 
 
エイズが日本に入ってくるというので、日本中が大騒ぎになった頃、帝京大学付属病院の松田重三先生が『薔薇族』の読者のために、特別の窓口を作ってくれて、エイズの検査をしてくれた。
 
感染しているのではと不安に怯えていた読者が、全国から板橋にある帝京大学付属病院の松田先生を訪ねてきた。
 
ぼくも歳をとったが、松田先生も歳をとられて、今では医学生に教壇に立って教えておられるようだが。エイズの話をしても学生たちは全く関心がないそうだ。
 
そんな時に「エイズの衝撃」を報じたこの番組の意義は大きい。ディレクターの天谷君、カメラマン一人を連れて海を渡り、アメリカのニューヨーク、ロサンゼルスと、現地で通訳を雇って、エイズに怯えたアメリカの様子を当時の医師たちを訪ねたりして、よくぞ取材したものだ。
 
当時のアメリカは同性愛に対する偏見が強い時代で、ハリウッドで人気が一番高かった、女性にも男性にも愛されたスターのロックハドソンがゲイであることを隠し通して、仕事を続けたが、筋肉隆々の肉体を誇るスターがエイズに感染して、瘦せおとろえていく姿はあわれだった。
 
ついに隠しきれなくなって、エイズであることを告白したが、それは同性愛者であることも世間に公表したことにもなる。
 
エイズであることを大スターが告白したことが、世間の関心を集め、相手役の大女優エリザベス・テイラーが、慈善事業を始めたりしたので、エイズの進行を止める薬なども開発されるようになってきた。
 
アメリカの話ばかりで、番組は終わってしまうのかと思ったら、最後の3分間、突然下北沢の街を杖をついて歩く、ヨタヨタの老人の姿(ぼく)が映し出され、狭い仕事部屋でしゃべった話で、番組の最後をピッシリと締めている。
 
我ながら見事だ。
 
日本にアメリカからエイズが入ってくるというので大騒ぎになった時代、エイズを防ぐ役割を果たした『薔薇族』の活躍は褒められていいのでは。
 
今度は日本だけの話で番組を作ってもらいたいものだ。
 

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2019年7月 1日 (月)

買うのも捨てるのも大変な『薔薇族』

『話の特集』という月刊誌(今はない)の編集長、矢崎泰久さんが廃刊後、「編集後記」だけをまとめた単行本を出したことがあった。
 
ぼくも『薔薇族』の最後のページに「編集室から」という2ページのコーナーがあって、5段組で小さな文字でびっしり書いている。
 
テレビのCMでひっきりなしに宣伝しているハズキルーペの一番どの強いのを買い求めたからなんとか読めるものの、今まで使っていた老眼鏡ではとても読むことができない。
 
1981年103号8月号の「編集室から」を読んでいたら、電話をかけてくれた本人にしては大変な事件で、笑っちゃいけないけれど、ついつい苦笑してしまう話だ。
 
 
 
「22歳になるこの青年、お堅い会社に勤めているのですが、『薔薇族』をはじめとして、諸々のゲイ雑誌が溜まって百冊ばかり、処分に困って車に乗せて、河原に捨てたというのです。
 
大概捨てるところは河原と決まっているようです。
 
ところが寒いうちは良かったけれど、鮎釣りが解禁になって、釣り人が河原にたくさん集まってくるようになってきたものだから、その雑誌の山を誰かが引っ掻き回したのでしょう。
 
この青年、ドジな男で手紙も『薔薇族』の間に入れ忘れていたものだから、今日、警察から電話がかかってきて、事情聴取されたというのです。
 
子供が拾って読んだら大変というので、誰かが警察に通報したからでしょう。
 
よく雑誌が溜まってしまって捨て場所に困り、発行元の第二書房に段ボール箱に入れて送り返してくる人も年に何人もいます。
 
この方が本当はいいのですが、こんなとき気を利かして地方の名産でも入れて一緒に送ってくれればいいけど、そんな人はいませんでした。
 
いつか演習に行った自衛隊員が、山の中に捨てられていた『薔薇族』を拾って帰り、それから読者になったという人がいましたが、拾う人が違うととんだ悲劇になってしまうから、捨てる場所には気をつけて捨ててほしいものです。
 
先日、伊藤文学の談話室「祭」に立ち寄ったら地方の公務員の年配の方が囲炉裏のそばに座っていました。
 
ぼくのそばには表紙絵を描いてくれている木村べん君や、モデルの青年もそばにいたのですが、その紳士、カバンの中から『薔薇族』7月号を見せてくれました。
 
地方の本屋さんのカバアがきちんとかかっているのです。
 
人口10万人そこそこの町にも何軒も『薔薇族』を置いてくれている本屋さんがあるそうですが、近所では顔見知りで買えないので、町外れの知らない本屋さんで買っているそうです。
 
その本屋さん、心得ていてすぐにカバアをかけてくれるのだそうですが、買うとすぐに表紙を破り捨ててしまうそうです。
 
そうして中の口絵の写真も同じようにしてしまうのです。
 
そばで聞いていた木村べんさん、嘆くことしきり、でも、そんな思いをしても買ってくれているのだし、奥さんや、子供さんがいるのだから仕方がないのかも。
 
そうしてみんなが寝静まってから読むのだそうです。
 
今年から表紙に内容を書いた文字や、写真は一切入れないことにしました。
 
『薔薇族』という文字は取るわけにはいかないけれど、少しは書いやすくなったのでは。」
 
 
 
捨てるのも、買うのも大変な雑誌。
 
「編集室から」は、諸々のことを書いている。
 
まとめたら時代、時代で面白い読み物の本になるかもしれないな。 

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