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2019年11月

2019年11月16日 (土)

16歳の少年と18歳の少年が愛しあって!

今日は令和元年11月2日、今月の20日過ぎまでに原稿を書きためておいて、白内障の手術を受ける予定にしているけれど、簡単な手術だそうだが、目の手術というと、なんとなく嫌なものだ。

『薔薇族』って、なんでこんな小さな文字を使っていたのか、一番度の強いハズキルーペをかけてみても、よく見えなくなってきている。80歳を過ぎれば誰もが白内障になってしまうそうだから仕方がないか。

1981年(38年前)10月号(国会図書館で欠号になっている6冊の中の1冊だ)に「ポストの前で待っている君、ゴメンネ」と題して書いている。

「関西に住んでいる18歳の少年が文通欄に載せたのです。それに答えて16歳の高1の少年が手紙を出して、それから二人の交際が始まったのです。両方ともひとりっこでした。

そのうちに、熱烈に愛し合うようになった二人は、とうとう16歳の少年が自由を求めて家出してしまうという結末になってしまったのです。

どう考えたって16歳の少年の方の両親は、たった2歳年上といっても年上の子がたぶらかしたとしか思いません。

それから親同士の争いにまで発展してしまったのです。16歳の少年の親は、自分の子供がホモだなんて信じないから、年上の子が仕込んでしまったとしか思わないでしょう。泥仕合いが今でも続いているのです。

なにも僕は二人の両親を怖がっているわけではないのです。お互いに未成年者同士では、どんなに本人同士が愛し合っているからといっても、両親に理解してもらうことはまず無理です。そして君たちだけで問題を解決することは、まず不可能なことなのです。

両親にしてみれば、『薔薇族』というようなエロ本があるから、子供たちが悪くなる、そうとしか思わないのです。

かつて発売禁止処分になった時も、親の風紀係への投書がきっかけだったようです。責任を避けるように見えるけれど、未成年者同士を紹介してあげるということは難しい問題なのです。すごく僕の立場は弱いとしかいいようがありません。

男が男を愛するということが悪いことだと、世間の人のほとんどの人が思っているのだから……。男が男を愛することが、非道徳的ではないということを世の中の人に理解してもらわなければ、どうにもなりません。

高校生諸君、なんとか良い方法をみつけ、君ら若いもの同士で、友だちになれるようにしてあげたい。

この間も僕が経営している新宿の「伊藤文学の談話室・祭」に立ち寄ってみたら、夏休みなものだから、相変わらず若い子でムンムンしている。

高校生も何人もいて、その中の高2の子が僕に話してくれたのです。「祭」が入っているビル(Q
フラットビル・11階建)のエレベーターを上がったり、降りたりして、やっと度胸をつけて、2階の廊下の一番奥にある「祭」の扉を開けたのだそうです。

もう、今では4回目で、すごくハンサムなお兄さんと友達になって幸せそうでした。それでも「祭」に入るまでの廊下が長すぎるって言っていたけれど。

東京に住んでいる若い子は、その点、度胸をつけさえすれば、友達を作れるけれど、地方に住む若い子はつらいな。

若い子同士なら問題はないけど、年配者と少年となると、親に知られたら悪者になるのは年配者になってしまう。」

ネットの時代、簡単に未成年者が年配者と出会い、問題になってしまう。便利な時代になって、よかったのか、悪かったのか?

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2019年11月11日 (月)

「令和」の考案者、中西進さんがぼくのことを!

ぼくはふところ具合の関係で、講読料が一番安い東京新聞をずっと購読している。

購読料が安いからといって、他紙に比べて内容が悪いわけではない。父が戦後独立して、昭和23年に第二書房を設立した頃から、東京新聞には広告を出していた。

帝国ホテルで東京新聞がスポンサーを招待してのパーティに出席したことがあったが、双子の歌手「ザ・ピーナッツ」が歌っていた。現在は名古屋の中日新聞の子会社になっているようだ。

「令和」の年号の考案者の中西進さん、90歳になられているのにお元気で、若い3人目の奥様を迎えて、京都で暮らしている。

読売新聞を購読している、ぼくより2歳年下の妹から電話がかかってきて、「文ちゃんのこと新聞に出ているよ」というので、コンビニで買い求めて読んでみた。

「時代の証言者」という連載の記事で、「令和の心 万葉の旅 中西進」というタイトルで、中西さんがしゃべったことを読売新聞の編集委員がまとめている。

10月26日の「文ちゃんと語る会」の常連のひとりが1回目から切り抜いて持ってきてくれていたので、中西進さんの話が連載されていることは知っていた。

10月31日の読売新聞朝刊に「令和の心 万葉の心」の12回目のタイトルは「短歌人熱中 東大でも」とある。

中西さんが早稲田大学の学生だったとは知らなかった。中西さんはこんなことをしゃべっている。

「早稲田時代は短歌に熱中しました。たまたま読んでいた「早稲田文学」に都筑省吾という先生の短歌が出ていたので、教室で「読みました」と伝えたら、先生は大喜びでねえ。

「君、うちへ遊びにこないか?」

それが縁となり、先生が主宰していた窪田空穂系の短歌結社「槻の木」に入り、歌を作り始めたのです。厳しい先生で、最初の日、「今度来るときに100首もってらっしゃい」という。ほかにも何人か同じことを言われましたが、持って行ったのは僕だけです。(中略)

5月がスタートだった国立の東京大学文化2類を受験したいと思っていたからです。短歌熱は東大時代も続き、東大短歌会をつくり、東大俳句会にも所属しました。3年になってからの文学部時代には、本郷キャンパスの三四郎池近くにあった建物を会場に、大学連合の歌会もやりました。(このとき、ぼくは駒沢大学から一人参加し、ぼくの作品を中西さんが絶賛してくれたので、ぼくは自信を持つことができ、のちのぼくの人生が変わり、いい仕事を残すことができた)

当時の雑誌をみると、慶應大からは医学部の岡井隆さん、駒沢大では日本初のゲイ雑誌『薔薇族』創刊で有名になった伊藤文学さん、早稲田からは篠弘さん(現在、宮内庁のお歌所の選者、毎日歌壇の選者。短歌だけで高収入を得ている数少ない人のひとり)が参加しています。

後には歌人、宮柊二さんの門をたたき、東京日比谷の松本楼で開かれた宮さん主催の「コスモス」(ぼくの父が立ち上げた)短歌会の結成大会に出席しています。その後、読売文学賞をとる「万葉集の比較文学研究」の執筆で忙しくなった頃でしょうか、研究と創作の両立は難しいと感じ、創作からは離れました。でも、短歌を実作していたことは万葉研究にも役立ったと思います」

ぼくも短歌を作ることをやめてよかった。でも、本の誌名を考えたり、小説の題名を考えたり、見出しを考えたり、広告の宣伝文句もと、大いに役に立った。

なによりも『薔薇族』という歴史に残る誌名を思いついたのだから……。

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2019年11月 9日 (土)

伊藤文学はあの世に行ってしまったと!

3年ぐらい前のことだったろうか。左目になにか異物感を感じることがあったので、近所の眼医者に診てもらったことがあった。

年をとってくると、誰もが悪くなってくる目の病気のようだ。「白内障」(辞書にはこう記されている。眼球の水晶体が白く濁って、視力が低下する病気)

左膝に人工膝を入れる手術をしてもらって、半年に一回、手術をしてくれた医師がレントゲンを撮って診察してくれている新宿のすぐ近くの東京医大の眼科に紹介してもらって診てもらった。

手術をしても今以上によくはなりませんよ。と言われて目薬を処方してくれた。その薬をずっと使っていたら、その後、異物感もなく目の調子も良かった。それが最近になってまたおかしくなってきたので、近所の眼医者に行って診てもらったら、左老眼鏡の度が合わなくなったので、メガネを変えなさいと言われて、眼鏡屋に持っていく資料を書いてくれた。

老眼鏡のせいではないと不信感を持ったので、カフエで知り合った友人(?)年中、医者通いをしていて、いろんな医院を知っている人に相談したら、渋谷から山手線でひとつめの駅、恵比寿のすぐ近くの角屋眼科医院を紹介してくれた。

会社に行くときに車で医院の前まで送ってくれる親切な人だ。女医さんでお母さんと娘さんが交代で診てくれる。看護婦さんもみんな女性だ。

待合室も小さな熱帯魚がたくさん泳いでいる。部屋全体が女性の繊細な美意識で、壁にかかっている油絵もいい。

検査の器具も何台もあって、詳しく調べてくれた。やはり白内障が悪化しているとのことで、表参道にある専門医を紹介してくれそうだ。

片方ずつ手術するようで、日帰りでいいようだ。11月にはどうしてもすましておかなければならないことがあるので、11月の20日すぎに手術をしてもらうことにして、それまでの目薬を処方してもらった。

「文ちゃんと語る会」をいつから始めたのか忘れてしまっているが、10年は続けているから多くの人に出会うことができた。

最初は和物の骨董品がずらりと飾られているカフエ「邪宗門」、それから下北沢の北口の「占茶」(いまはない)、そして作家のよしもとばななさんが常連の「つゆ艸」そして今の器とコーヒーの「織部」のお世話になって続いている。

どれだけ多くの人に出会ったことか。みんなに支えられて、ボケずに87歳まで元気に生きてこられた。

しかし、残念ながら11月は「文ちゃんと語る会」はお休みということにした。

一回も休まずに続けてきたのに残念だけど仕方がない。12月にはみんなの顔もはっきりと見えるようになって「文ちゃんと語る会」を続けるつもりだ。

それともうひとつ無念なことは年賀状だ。毎年、工夫をして19世紀の古い絵はがきを使ったりして、「織部」の店長にデザインしてもらい、工夫を凝らした年賀状を作り、手書きで住所を書き、ひとりひとり、顔を思い浮かべながら、添え書きもしてきた。

来年は「米寿」のおめでたい年でもあるので、いいものを作りたいと思っていたのに、これもあきらめることにした。

新潟の「ロマンの泉美術館」で出会った常連のお客さん(女性が多い)だけでも50名は越す年賀状を送ってきた。

ぼくの年賀状が届かなければ、伊藤文学は、あの世に行ってしまったのかと思うに違いない。ああ、年はとりたくないものだ。

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2019年11月 4日 (月)

ぼくが誕生したのと同じ87年前の雑誌が!

2019年・令和元年10月18日から20日まで、女房の古里、弥彦村にある別荘に「文ちゃんと語る会」で出会った音楽通の70代の親切な方が、ご自分の車を運転して連れて行ってくれた。
 
なにしろ代沢の3階建ての建物の中にある、父母が残したものから、一切合切を段ボール箱に詰め込んで、トラック何台もで運び込んでしまったのだから、別荘は倉庫と化してしまった。
 
ぼくが段ボール箱を開けて、ひとつ、ひとつを見て捨てるものと、残すものとを判断しなければならなかった。
 
書籍は読まないのに、持っていたからその量も大変な数になる。父が残した本はいいものがあったが、近所の古書店で処分してもらい、二束三文にしかならなかった。
 
ぼくの本も本の取次店(問屋)の親しい書籍仕入れ課の人に頼まれて、新潮社刊の「三島由紀夫全集」一冊1万円ぐらいした豪華本もページも開かず段ボールの中で眠っている。
 
店を持たずにネットで売っている古書店の人もめぼしい本は根こそぎ車で持って行ってしまった。
 
『薔薇族』も内藤ルネさんの表紙絵のものは、中野にある「まんだらけ」が高値で買い取ってくれた。今度も『薔薇族』を200冊ばかりと、単行本を60冊ほど送ったがいくらで買ってくれるものか。
 
残った雑誌で値段がつくものは少ない。『薔薇族』ってありがたい雑誌だ。類誌は値段がつかないのだから。
 
ぼくが生まれた日は、昭和7年3月19日だが、段ボールの中から「昭和7年・2月号の月刊・日本文學」(定価五十銭・日本文学社発行)を見つけ出した。ぼくと同じ87年も生き残っていた雑誌だ。父が勤めていた「第一書房」の広告が載っているから父が所蔵していたものだろう。
 
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執筆者の10人の先生方のお名前は、勉強しなかったぼくには知らない方ばかりだ。
 
日本文学社が開講する「国文学演習・会員募集」の広告の先生方のなかに、ぼくの駒大時代の恩師、森本治吉先生の名があった。
 
20名の講師の中で知っているお名前の先生は、久松潜一先生、武田祐吉先生だけとは情けない。令和の年号の考案者、中西進先生なら、みんな知っている方だろうが。
 
「編集後記」(編集発行兼印刷人の吉川興志次)を読むと、今風の文章に直してしまうとこんなことが書かれている。
 
「君よ、完全にお面一本取られながらも、なお、かすった、横だ、すべったなど、やせ我慢をはってはならない。『日本文学と国文学とは、その言葉が異なる。
 
名がちがえば実もちがってくる。父という場合と、お父さんという場合とは全く同じではない』などといっているのは、昨夜の寝不足のためではありませんか。
 
言語の持つ意味と、その感じとをごっちゃにしてはいけない。日本文学と国文学となるほど言葉の異うと共にふたつから来る感じの相違はわれわれも認める。しかし日本文学も国文学も、その外延と内容とは同じものだということに合点されたい。
 
二度数えるのも大人気ないが、君に教えを受ける学生たちが気の毒だと思い、簡単に申し上げておきます。とは後記子から某誌編集者某氏に與る一書である。」
 
分かったような、分からないような、どうも他の雑誌に書いた先生を批判しているのだろうか。
 
ぼくは「編集後記」を30数年書き続けてきたが、読者をおもう気持ちで書いてきた。それにしても父は「文學」などというとんでもない名前をつけてくれたものだ。

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2019年11月 2日 (土)

今や下北沢は古着屋の街に!

ぼくが住んでいる下北沢の街。日本の敗戦の年、昭和20年の8月15日ごろは、世田谷学園の1年生だったから、戦前、戦後の下北沢の街をずっと見続けてきたことになる。

現在、下北沢の南口商店街が、一番にぎやかな通りだが、戦前は北口の商店街がにぎやかで、南口は大きな民家の植木で囲まれた堀が連なっていて、お店は何軒もなかった。

ぼくが住んでいた代沢小学校の正門前のじゃり道の三軒茶屋につながる、今は茶沢通りと言われる道に面しては、お店が何軒もあった。

代沢小学校の正門前には、お米屋さん、ブリキ屋さん、文房具屋さん、酒屋さん、ぼくが住んでいた家の角には、のんき屋という餅菓子屋があり、その並びには魚屋、下駄屋、炭屋、そば屋、ほうき屋、駄菓子屋もあったっけ。そんなこと知っている人は、もうぼくだけになってしまった。

令和元年「せたがや」10月25日号の広報誌が新聞の折り込みに入っていた。

「世田谷区長、保坂展人さんが「下北沢の線路跡地」で魅力発信へ!」と題して書かれている。

小田急線が地下深くに線路を引いてしまったので「線路跡地」をどう開発するかで、長いこと協議が続いていて、やっと全体構想がまとまってきて、2年後には完成するようだが、ぼくはそれを見ることができるかどうかわからない。

地方から出てきた若者たちが、もっとも住みたい街が、下北沢だった時代があった。だが、それは3、40年前のことで、今はそのランクから消えてしまっている。

一軒一軒のお店の土地が狭い、今や路地の民家だったところも、売ってしまいお店に変わっている。広い土地が少ないから、ゆったりとした建物を建てられない。ビルを作っても設計にお金をかけて、しゃれたビルを作る人もいない。なるべく安く作ることしか考えていないから、外観も平凡なビルばかりだ。

土地代も高いから家賃も高くなってしまう。だが南口商店街を歩いている人は多い。それは道路が狭いから多く見えるだけで、広い道だったら人はパラパラだ。

こんなに人が歩いているから商売になるだろうと、個人商店が店を出してもすぐつぶれてしまう。しかし、また誰かが店を出す。

続いているのは大手のチェーン店だけになってしまう。大手の店も採算が取れないと見ると、すぐ店をたたんでしまう。

3、40年は数軒しかなかった古着屋が、いまは何十軒にも増えている。ぼくが経営していたカフエ「イカール館」(メガネ屋の2階)も古着屋で、今でも続いている。

数えたことはないが、南口、北口の商店街で古着屋は数十軒もあり、今でも増えているから不思議な現象だ。これでは新品の高級な洋服を売る店は成り立たない。

他人が来た服を着るのは嫌だと思う人は「ユニクロ」の大きな店があるから、そこで買っているのだろう。

先日、女房の古里、弥彦村にある別荘まで車で送ってくれた親切な人がいたので、山積みになっている衣類を段ボールを開けてブランド物だけを持ち帰ってきた。

早速、10点ばかりを古着屋に持って行ったら、査定するのに2時間かかるという。スーパーで買い物をして、カフエ「織部」でコーヒーをのんで、日経と朝日を読んで時間をつぶし、また古着屋に行ってみたら、10点のうち5点は返品。あとの5点で1350円くれた。

お茶屋の親父さんが言うのには、古着屋ほど利幅のある商売はない。家賃が高くてもなんということはないと。これで納得できた。洗濯代にもならないお金で仕入れて、何千円で売るのだから……。

 

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下の店は古着屋ではありません

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