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2019年11月

2019年11月30日 (土)

この世は天国と地獄がとなりあっている!

藤田竜さん、『薔薇族』の編集部から去ってしまった。それと同時に若い多摩美大卒のN君が入社してくれた。創刊のころ、訪ねてきてくれたことがある青年なので、前から知っていた青年で、毎日、楽しく仕事をしてくれていますと、「編集室から」にぼくは書いている。
 
竜さんは続いてこんなことを書いた。
 
「俺が考え出した「人生薔薇模様」にしても「男街13番地」にしても本当はこういう形でなかったのだけど、いろんなものは生まれるとひとり歩きしてゆくもので、だから、これからは俺もこの欄を利用させてもらうのに、かえって気持ちいい。
 
あんた、あの雑誌やってていい男いっぱい食ったんでしょ、なんて誤解は多いのであるけれど、実際は一人か、二人と付き合ったくらいで、まずは情けなくもなにもない。お客さまは神さまであるから手をつけてはいけないのだ。
 
もう、フリーだから、これからは薔薇通信も大いに利用させてもらう。ついでだから、ここに書いてしまう。
 
❤︎東京都・渋谷区・ドラゴン 初投稿の35歳。175×73。短髪、やや出腹、ヒゲと胸毛つき。人はやさしい目といいます。(このあと、くわしく希望を書いている)
 
これ、本気なんだからね。『薔薇族』と決別して傷ついている俺を誰かなぐさめてよ。今まで本誌でがんばってきたのだから、男のおあたいぐらいあってもよかろうと思うのだが、どんなものだろう。
 
ひとときでも幸福になりたい人は、ドラゴンさんに手紙を出そう。この文章に腹を立ててる人は、本質的に不幸になるだろう。
 
この世は常に天国と地獄がとなりあっている。そして男好きの男の世界ではその格差が激しい。不幸になる人は、己が罪とはいえ、どんどん不幸になるようになってる。それも人生。ドラゴンさんに気に入られたら、どんどん幸福になる。それも人生。ああ、愉快愉快。
 
ほんじゃ、ま、皆さん、お元気で。ほんとにさようなら。」
 
竜さんの大ファンで、すばらしい小説を書き残してくれたNHKのアナウンサーだった盾四郎さんが「花道から消えてしまった竜ちゃんに惜しみない拍手を!」と題して、うれしい一文を寄せてくれた。
 
「竜ちゃん
 
『薔薇族』から藤田竜が消えるなんて−−。
 
まるで海老蔵が突然引退しちゃったみたいなもので、僕はとっても寂しい。
 
今、僕は創刊号を手に取った時の、あの新鮮な驚きを思い出すのだ。こんな雑誌が発刊されるという予告は、それ以前に週刊誌か何かの記事で知ってはいた。そしておそらく、毒々しい表紙の、乱雑に活字がつまった、あの種の雑誌なのだろうという予想が僕にはあった。だから、今はない上野の地下道の本屋で創刊号をめくった時の清々しさは、むしろショックだと言ってよかった。この種の雑誌でもこんなに綺麗に作れるものなのかと、その発見がショックだったのだ。(中略)
 
とにもかくにも、君は大向こうをうならせて、飛び六法で花道から消えてしまった。チャリンと揚げ幕が閉まったいま、僕は客席より友情を込めて、惜しみない拍手を送るとしよう」
 
読者からも去っていた竜さんをおしむ手紙がたくさん寄せられた。
 
「竜さん、かっこ良すぎるぞ。いさぎ良すぎるぞ。僕はもっと竜さんの絵も見たいし、おフザケも、憎まれ口も聞きたかった。そして、竜さんの弱さもみたかった。(後略)(大阪市・Y)」
 
なんと数ヶ月して竜さん、戻ってきてしまった。新入社員のNさん、いられるわけがない。その後、Nさん、ラジオに番組をもったり、昨年はNHKの同性愛の戦後を描いた番組の主役にもなり活躍している。
 
天才には陰がつきものなのだ。竜さん、ありがとう。

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2019年11月25日 (月)

地獄に落ちたのは誰だったのか?

自分の雑誌の読者に対して、悪たれの限りを尽くして、やめてしまう編集者なんて雑誌の世界でいるわけがない。
 
1976年(昭和51年)『薔薇族』5月号・No40に「藤田竜・さよなら大放言・大毒舌「アホは地獄に落ちて、うんと苦しめ!!」と本当にやめてしまったのだった。
 
創刊から5年、やっと軌道に乗ってきて、「薔薇通信」欄も300名にもなり、執筆者も充実し、グラビアの写真もよくなってきているというのに……。
 
「男好きを隠して結婚したのがバレて、中ピ連(世の中の先端をゆく女性たちの集まりで、いろんなことに批判していたと思う)につつかれて500万とられた男がいる。そうかと思えば同棲している男が浮気したと泣いてくる30男がいる。−−こういうアホにつきあうのは、もうごめんだよ。
 
まったく、俺はこの5年間、何を残せたのか。何のために『薔薇族』に力を注いだのか。こういうアホがいる一方で、「藤田さんは肉の情熱ではない。真の愛の可能性を信じていないのではないかと急に不安になった」りする青二才がいる。もう、ね、俺はそういうグシャ(愚者)のために、俺の大切な頭脳を酷使するのはやめたよ。
 
俺が今までの生き方でつかんだ、いろいろの、薔薇色の、ゲイな、素晴らしい、男好きの男としてのコツやテクニックやらは要するにアホどもにとっては何ひとつ役に立たなかったようで、そうしたアホは、どうぞ地獄に落ちてちょうだい。さんざ苦しみなさい。あんたらが不幸になる一方で、俺はもうなにも、いい男の集まる場所も、ノンケのつかまえ方も生きることへの考え方も、楽しい人生の秘密はなにひとつ教えないで、自分だけでたっぷり楽しみ、何十人分もの幸福をひとりで味わうことにする。
 
アホへのおつきあいは、もう結構ざんす。男はともかく、仕事に飽きっぽい俺にしては本誌には長くつきあった。ただ本誌が四角い背中の立派なものになって、厚みを増してきたころから、実は俺のカラーは薄くなっている。
 
初期の頃の薄い針金とじの号のころのは、今見ても工夫や、美学や、熱気がある。原稿も絵も写真もあまりなくて、それでも少ない材料でひとつの世界をつくりあげている。あの頃は、伊藤文学さんは、男のことも雑誌のこともよく分からなくて、いわば俺の手作りだった。
 
そんなふうな苦労をするのが好きで、今日のように作家も画家も粒ぞろい、特別、大努力をしなくても、まあ、大かたの読者に受け入れられるものが作れる状況になるに従って俺は熱気を失っていった。
 
広くなってしまった読者に応えてゆくうち、俺の本意でないものもいつか入ってしまったし、俺が考えていた「男」の雑誌とは少し違ってきた。これが本音でね。先々月号あたりで書いたことはきれいごと。
 
今までの他の仕事でも一方メドがついて軌道に乗ると、俺はやる気をなくしたものだったけど、本誌の場合は要するに、それが長引いたわけよ。
 
伊藤さんも今や識見を持ち、力をたくわえ、親衛隊もついて、そこに若い編集員も加わったのであるから、俺がいなくても十分にいい仕事ができるだろう。ここらで本誌の匂いを変えるのはいいことだと思う。」
 
藤田竜さんと長いことにっしょに住んで仕事をしていた内藤ルネさんが、よく言っていた。「トンちゃん(竜さんのあだ名)が少しでも相手を思いやる気持ちがあれば……」と。自分の思うままに、わがままに生きてきた竜さん。ぼくはどんな読者でも、わけへだてなく同じように応対してきた。その違いかな。(つづく)
 

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2019年11月23日 (土)

男同士がテレビカメラの前でキスを!

今から25年も前に初めて同性愛の世界をテレビを通じて家庭に持ち込んだ作品だ。脚本を書かれた井沢満さん、孫にネットで調べてもらったが、74歳ということだけはわかったが、その後、どんな仕事をされたのかは不明だ。

50歳を越えた人たちしか見てはいないだろう。ぼくも毎週見ていたと思うが、もう内容を忘れてしまっている。

日本テレビのディレクターの細野英延さんがよくぞ舞台裏を書き残してくれたものだ。

男同士がテレビカメラの前でキスをするなんてことは、当時はなかった。

「これこそ全員が初体験である。もちろんカメラアングルでそれらしく見せることはできるが−−。スタッフの間でも賛否両論。「本当にやるべきだ」「いや、そこまでやらなくても」云々。しかし、このドラマ『同窓会』では本当に堂々とやるべきだとの思いが強かったので、A君とB君の意見を聞いてみた。ふたりの意見は「本当にキスをしないでごまかしたら、よけいに嫌らしく映るんじゃないですか。やりましょう!」であった。

撮影開始−−映像は実に美しいものとなり、厳粛な雰囲気のシーンになった。テレビ界で初めてのシーンであるばかりか、男と男の愛を表現できたと確信した。A君とB君に心から拍手を送った。いや、今も送っている。

社会現象となった「同窓会」−−それは作家、井沢満氏の描く文学の世界へ。出演者、スタッフが一丸となって入り込んでゆき、苦しみながらも全力投球した結果、成功したのだと思っている。

放送当日の電話は数多くあった。もちろん賛否両論である。そして『同窓会』への当初は百通を越えている。ある若い女性はレポート用紙にビッシリと30枚も書いてくれている。そして意外なのは若い女性が多いという点である。その中の一人で、小樽のM子さんはこんなことを書いてくれている。

「私も既成概念を超えた表現へ共感を持ったひとりです。男同士の愛がこんなにも綺麗に、そして切なく、いとおしく描かれたのを見たのは初めてです。人を好きになるということ、愛するということ、これを男女間だけのものと決めつけてしまいたくない。(略)これからも真実の愛を考えさせられるドラマを作ってください。」

また、かなりの年配であるK氏はこんな手紙をくださった。

学生時代、運動部で一緒だった後輩のN君とは気があって、山へ登ったり映画を観たりと、いつも一緒に遊んでいた。後年、社会人となりK氏は結婚することになった。結婚式当日、N君は来なかった。後日、わかったことだが、N君はK氏の結婚式の日に自殺してしまった。原因はわからず遺書もなかった。

今回『同窓会』を見ていて、N君の想いがわかった。

K氏はN君の墓参りにゆき、30年ぶりにN君に逢ってきたという。

ドラマの中の「アタリと風馬」の友情と愛の関係は、形こそちがえ、多くの人々が経験していることだと思う。ただ、それに気づかないうちに、時間の流れの中で忘れ去ってしまっているのではないだろうか。

『同窓会』は、その内容と表現の激しさから賛否両論の社会現象となってしまったが、私の脳裏には、作家・井沢満氏の言葉が印象に残っている。

「今は騒がれているけど、10年後には『同窓会』も普通のドラマになっているでしょう」」

日本テレビ制作局ディレクター・細野英延さん、『薔薇族』のためにいい文章を残してくれた。最初にやる仕事の大変さがにじみ出ている。全話が4巻のビデオになって発売中とあるから、もう一度、見てみたいものだ。

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2019年11月18日 (月)

テレビドラマで初の男の全裸シーンが!

日本で初の同性愛をテーマにしたドラマが日本テレビで連続で放映された。脚本、井沢満さんの「同窓会」は、大きな話題になり、このドラマが放映されている時間には、新宿2丁目の通りには、人影がいなくなったという(25年前のこと)。

日本テレビ制作局のディレクター、細野英延さんが、1994年4月号に「同窓会、マル秘話公開!」のタイトルで、「全裸シーン、男同士のキス、いま明かす話題ドラマの舞台裏」をあかしてくれた。

いつ放映され、何週続けられ、視聴率がどのくらいだったのか、残念ながら調べられない。それに白内障が悪化してきて、老眼鏡をかけても小さい文字がよく見えない。11月の末に手術を片目ずつして、果たしてよく見えるようになるのか。心配だが途切れないように描き続けたい。目が疲れてくるので、休み休み書いている。古い友人で週刊女性の記者をしていて、初めてぼくに記事を書かせてくれた竹内君、目が悪いので喫茶店で話をすると、水の入ったコップで眼を冷やしていたっけ。若くして亡くなってしまったが、いま思い出してコップに水と氷を入れ、眼を冷やしながら書いているとは。

「ホモ・セクシャルを単なる風俗としてとらえないようにお願いします。という作家・井沢満氏からのメッセージがあってから第1回目の脚本が完成した。そして読み終わったスタッフ全員んが、作家の凄まじいエネルギーとパワーに圧倒されてしまった。(中略)

「シャワーを浴びているA君、水しぶき、全裸である」というト書き。男の全裸シーンというのは初めてであり、役者のA君も初めてである。

さっそく前張り(局部のみを覆う)が必要で、スタッフのT君が「前張り担当」になった。T君は研究の末、一枚のタオルで二個の前張りを作ることに成功した。タオル地は俳優さんの大切なトコロを守ためにいいとのことである。T君はタオルを三角形に折り、さらに野球のホームベース状にしてガムテープで形をととのえるんだと説明してくれた。

T君の力作の前張りでA君は全裸のシャワーシーンを撮影し、実にきれいな映像で大成功だったが、事件はその直後に起こった。前張りをはがそうとしたA君は「ギャーッ!」という悲鳴をあげて涙さえ浮かべている。

犯人はガムテープだった。シャワーを浴びても取れないように貼った強力な粘着力のガムテープは、A君の陰毛にバッチリとはりついていたのだ。前張りと共にかなりの陰毛が抜けてしまった。

「痛いなんてもんじゃないっスよ。コレは」

と涙ながらに訴えるA君。「軟膏もってきます」と走る製作者のT君。以後、T君のポケットには「スリ傷、切傷に効く軟膏」が常に入っていた。

C君の場合は寒さの厳しい深夜のロケーションである。風邪をひいたら大変だからC君に、カメラアングルで隠すから大丈夫だと言ったのだが、「いや、ぼくは前張りでやります」と張り切っている。そんなC
君のことを井沢氏に電話したところ、「風邪をひかないように、ホカロンの前張りでやってほしいとC
君に伝えてください。アッハハハハ」。

これはいいアイデアだと前張り担当のT君に伝えたところ、「だめです。ホカロンで大切なところをやけどしたらどうするんですか」と叱られてしまった。幻の前張りホカロンで終わってしまった。

あるときA君が「あの痛さには耐えられないから剃っちゃいました」と。」

それにしても井沢満さん、お会いしたことあるけど、お元気なのだろうか。とにかく画期的なドラマだった。(つづく)

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2019年11月16日 (土)

16歳の少年と18歳の少年が愛しあって!

今日は令和元年11月2日、今月の20日過ぎまでに原稿を書きためておいて、白内障の手術を受ける予定にしているけれど、簡単な手術だそうだが、目の手術というと、なんとなく嫌なものだ。

『薔薇族』って、なんでこんな小さな文字を使っていたのか、一番度の強いハズキルーペをかけてみても、よく見えなくなってきている。80歳を過ぎれば誰もが白内障になってしまうそうだから仕方がないか。

1981年(38年前)10月号(国会図書館で欠号になっている6冊の中の1冊だ)に「ポストの前で待っている君、ゴメンネ」と題して書いている。

「関西に住んでいる18歳の少年が文通欄に載せたのです。それに答えて16歳の高1の少年が手紙を出して、それから二人の交際が始まったのです。両方ともひとりっこでした。

そのうちに、熱烈に愛し合うようになった二人は、とうとう16歳の少年が自由を求めて家出してしまうという結末になってしまったのです。

どう考えたって16歳の少年の方の両親は、たった2歳年上といっても年上の子がたぶらかしたとしか思いません。

それから親同士の争いにまで発展してしまったのです。16歳の少年の親は、自分の子供がホモだなんて信じないから、年上の子が仕込んでしまったとしか思わないでしょう。泥仕合いが今でも続いているのです。

なにも僕は二人の両親を怖がっているわけではないのです。お互いに未成年者同士では、どんなに本人同士が愛し合っているからといっても、両親に理解してもらうことはまず無理です。そして君たちだけで問題を解決することは、まず不可能なことなのです。

両親にしてみれば、『薔薇族』というようなエロ本があるから、子供たちが悪くなる、そうとしか思わないのです。

かつて発売禁止処分になった時も、親の風紀係への投書がきっかけだったようです。責任を避けるように見えるけれど、未成年者同士を紹介してあげるということは難しい問題なのです。すごく僕の立場は弱いとしかいいようがありません。

男が男を愛するということが悪いことだと、世間の人のほとんどの人が思っているのだから……。男が男を愛することが、非道徳的ではないということを世の中の人に理解してもらわなければ、どうにもなりません。

高校生諸君、なんとか良い方法をみつけ、君ら若いもの同士で、友だちになれるようにしてあげたい。

この間も僕が経営している新宿の「伊藤文学の談話室・祭」に立ち寄ってみたら、夏休みなものだから、相変わらず若い子でムンムンしている。

高校生も何人もいて、その中の高2の子が僕に話してくれたのです。「祭」が入っているビル(Q
フラットビル・11階建)のエレベーターを上がったり、降りたりして、やっと度胸をつけて、2階の廊下の一番奥にある「祭」の扉を開けたのだそうです。

もう、今では4回目で、すごくハンサムなお兄さんと友達になって幸せそうでした。それでも「祭」に入るまでの廊下が長すぎるって言っていたけれど。

東京に住んでいる若い子は、その点、度胸をつけさえすれば、友達を作れるけれど、地方に住む若い子はつらいな。

若い子同士なら問題はないけど、年配者と少年となると、親に知られたら悪者になるのは年配者になってしまう。」

ネットの時代、簡単に未成年者が年配者と出会い、問題になってしまう。便利な時代になって、よかったのか、悪かったのか?

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2019年11月11日 (月)

「令和」の考案者、中西進さんがぼくのことを!

ぼくはふところ具合の関係で、講読料が一番安い東京新聞をずっと購読している。

購読料が安いからといって、他紙に比べて内容が悪いわけではない。父が戦後独立して、昭和23年に第二書房を設立した頃から、東京新聞には広告を出していた。

帝国ホテルで東京新聞がスポンサーを招待してのパーティに出席したことがあったが、双子の歌手「ザ・ピーナッツ」が歌っていた。現在は名古屋の中日新聞の子会社になっているようだ。

「令和」の年号の考案者の中西進さん、90歳になられているのにお元気で、若い3人目の奥様を迎えて、京都で暮らしている。

読売新聞を購読している、ぼくより2歳年下の妹から電話がかかってきて、「文ちゃんのこと新聞に出ているよ」というので、コンビニで買い求めて読んでみた。

「時代の証言者」という連載の記事で、「令和の心 万葉の旅 中西進」というタイトルで、中西さんがしゃべったことを読売新聞の編集委員がまとめている。

10月26日の「文ちゃんと語る会」の常連のひとりが1回目から切り抜いて持ってきてくれていたので、中西進さんの話が連載されていることは知っていた。

10月31日の読売新聞朝刊に「令和の心 万葉の心」の12回目のタイトルは「短歌人熱中 東大でも」とある。

中西さんが早稲田大学の学生だったとは知らなかった。中西さんはこんなことをしゃべっている。

「早稲田時代は短歌に熱中しました。たまたま読んでいた「早稲田文学」に都筑省吾という先生の短歌が出ていたので、教室で「読みました」と伝えたら、先生は大喜びでねえ。

「君、うちへ遊びにこないか?」

それが縁となり、先生が主宰していた窪田空穂系の短歌結社「槻の木」に入り、歌を作り始めたのです。厳しい先生で、最初の日、「今度来るときに100首もってらっしゃい」という。ほかにも何人か同じことを言われましたが、持って行ったのは僕だけです。(中略)

5月がスタートだった国立の東京大学文化2類を受験したいと思っていたからです。短歌熱は東大時代も続き、東大短歌会をつくり、東大俳句会にも所属しました。3年になってからの文学部時代には、本郷キャンパスの三四郎池近くにあった建物を会場に、大学連合の歌会もやりました。(このとき、ぼくは駒沢大学から一人参加し、ぼくの作品を中西さんが絶賛してくれたので、ぼくは自信を持つことができ、のちのぼくの人生が変わり、いい仕事を残すことができた)

当時の雑誌をみると、慶應大からは医学部の岡井隆さん、駒沢大では日本初のゲイ雑誌『薔薇族』創刊で有名になった伊藤文学さん、早稲田からは篠弘さん(現在、宮内庁のお歌所の選者、毎日歌壇の選者。短歌だけで高収入を得ている数少ない人のひとり)が参加しています。

後には歌人、宮柊二さんの門をたたき、東京日比谷の松本楼で開かれた宮さん主催の「コスモス」(ぼくの父が立ち上げた)短歌会の結成大会に出席しています。その後、読売文学賞をとる「万葉集の比較文学研究」の執筆で忙しくなった頃でしょうか、研究と創作の両立は難しいと感じ、創作からは離れました。でも、短歌を実作していたことは万葉研究にも役立ったと思います」

ぼくも短歌を作ることをやめてよかった。でも、本の誌名を考えたり、小説の題名を考えたり、見出しを考えたり、広告の宣伝文句もと、大いに役に立った。

なによりも『薔薇族』という歴史に残る誌名を思いついたのだから……。

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2019年11月 9日 (土)

伊藤文学はあの世に行ってしまったと!

3年ぐらい前のことだったろうか。左目になにか異物感を感じることがあったので、近所の眼医者に診てもらったことがあった。

年をとってくると、誰もが悪くなってくる目の病気のようだ。「白内障」(辞書にはこう記されている。眼球の水晶体が白く濁って、視力が低下する病気)

左膝に人工膝を入れる手術をしてもらって、半年に一回、手術をしてくれた医師がレントゲンを撮って診察してくれている新宿のすぐ近くの東京医大の眼科に紹介してもらって診てもらった。

手術をしても今以上によくはなりませんよ。と言われて目薬を処方してくれた。その薬をずっと使っていたら、その後、異物感もなく目の調子も良かった。それが最近になってまたおかしくなってきたので、近所の眼医者に行って診てもらったら、左老眼鏡の度が合わなくなったので、メガネを変えなさいと言われて、眼鏡屋に持っていく資料を書いてくれた。

老眼鏡のせいではないと不信感を持ったので、カフエで知り合った友人(?)年中、医者通いをしていて、いろんな医院を知っている人に相談したら、渋谷から山手線でひとつめの駅、恵比寿のすぐ近くの角屋眼科医院を紹介してくれた。

会社に行くときに車で医院の前まで送ってくれる親切な人だ。女医さんでお母さんと娘さんが交代で診てくれる。看護婦さんもみんな女性だ。

待合室も小さな熱帯魚がたくさん泳いでいる。部屋全体が女性の繊細な美意識で、壁にかかっている油絵もいい。

検査の器具も何台もあって、詳しく調べてくれた。やはり白内障が悪化しているとのことで、表参道にある専門医を紹介してくれそうだ。

片方ずつ手術するようで、日帰りでいいようだ。11月にはどうしてもすましておかなければならないことがあるので、11月の20日すぎに手術をしてもらうことにして、それまでの目薬を処方してもらった。

「文ちゃんと語る会」をいつから始めたのか忘れてしまっているが、10年は続けているから多くの人に出会うことができた。

最初は和物の骨董品がずらりと飾られているカフエ「邪宗門」、それから下北沢の北口の「占茶」(いまはない)、そして作家のよしもとばななさんが常連の「つゆ艸」そして今の器とコーヒーの「織部」のお世話になって続いている。

どれだけ多くの人に出会ったことか。みんなに支えられて、ボケずに87歳まで元気に生きてこられた。

しかし、残念ながら11月は「文ちゃんと語る会」はお休みということにした。

一回も休まずに続けてきたのに残念だけど仕方がない。12月にはみんなの顔もはっきりと見えるようになって「文ちゃんと語る会」を続けるつもりだ。

それともうひとつ無念なことは年賀状だ。毎年、工夫をして19世紀の古い絵はがきを使ったりして、「織部」の店長にデザインしてもらい、工夫を凝らした年賀状を作り、手書きで住所を書き、ひとりひとり、顔を思い浮かべながら、添え書きもしてきた。

来年は「米寿」のおめでたい年でもあるので、いいものを作りたいと思っていたのに、これもあきらめることにした。

新潟の「ロマンの泉美術館」で出会った常連のお客さん(女性が多い)だけでも50名は越す年賀状を送ってきた。

ぼくの年賀状が届かなければ、伊藤文学は、あの世に行ってしまったのかと思うに違いない。ああ、年はとりたくないものだ。

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2019年11月 4日 (月)

ぼくが誕生したのと同じ87年前の雑誌が!

2019年・令和元年10月18日から20日まで、女房の古里、弥彦村にある別荘に「文ちゃんと語る会」で出会った音楽通の70代の親切な方が、ご自分の車を運転して連れて行ってくれた。
 
なにしろ代沢の3階建ての建物の中にある、父母が残したものから、一切合切を段ボール箱に詰め込んで、トラック何台もで運び込んでしまったのだから、別荘は倉庫と化してしまった。
 
ぼくが段ボール箱を開けて、ひとつ、ひとつを見て捨てるものと、残すものとを判断しなければならなかった。
 
書籍は読まないのに、持っていたからその量も大変な数になる。父が残した本はいいものがあったが、近所の古書店で処分してもらい、二束三文にしかならなかった。
 
ぼくの本も本の取次店(問屋)の親しい書籍仕入れ課の人に頼まれて、新潮社刊の「三島由紀夫全集」一冊1万円ぐらいした豪華本もページも開かず段ボールの中で眠っている。
 
店を持たずにネットで売っている古書店の人もめぼしい本は根こそぎ車で持って行ってしまった。
 
『薔薇族』も内藤ルネさんの表紙絵のものは、中野にある「まんだらけ」が高値で買い取ってくれた。今度も『薔薇族』を200冊ばかりと、単行本を60冊ほど送ったがいくらで買ってくれるものか。
 
残った雑誌で値段がつくものは少ない。『薔薇族』ってありがたい雑誌だ。類誌は値段がつかないのだから。
 
ぼくが生まれた日は、昭和7年3月19日だが、段ボールの中から「昭和7年・2月号の月刊・日本文學」(定価五十銭・日本文学社発行)を見つけ出した。ぼくと同じ87年も生き残っていた雑誌だ。父が勤めていた「第一書房」の広告が載っているから父が所蔵していたものだろう。
 
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執筆者の10人の先生方のお名前は、勉強しなかったぼくには知らない方ばかりだ。
 
日本文学社が開講する「国文学演習・会員募集」の広告の先生方のなかに、ぼくの駒大時代の恩師、森本治吉先生の名があった。
 
20名の講師の中で知っているお名前の先生は、久松潜一先生、武田祐吉先生だけとは情けない。令和の年号の考案者、中西進先生なら、みんな知っている方だろうが。
 
「編集後記」(編集発行兼印刷人の吉川興志次)を読むと、今風の文章に直してしまうとこんなことが書かれている。
 
「君よ、完全にお面一本取られながらも、なお、かすった、横だ、すべったなど、やせ我慢をはってはならない。『日本文学と国文学とは、その言葉が異なる。
 
名がちがえば実もちがってくる。父という場合と、お父さんという場合とは全く同じではない』などといっているのは、昨夜の寝不足のためではありませんか。
 
言語の持つ意味と、その感じとをごっちゃにしてはいけない。日本文学と国文学となるほど言葉の異うと共にふたつから来る感じの相違はわれわれも認める。しかし日本文学も国文学も、その外延と内容とは同じものだということに合点されたい。
 
二度数えるのも大人気ないが、君に教えを受ける学生たちが気の毒だと思い、簡単に申し上げておきます。とは後記子から某誌編集者某氏に與る一書である。」
 
分かったような、分からないような、どうも他の雑誌に書いた先生を批判しているのだろうか。
 
ぼくは「編集後記」を30数年書き続けてきたが、読者をおもう気持ちで書いてきた。それにしても父は「文學」などというとんでもない名前をつけてくれたものだ。

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2019年11月 2日 (土)

今や下北沢は古着屋の街に!

ぼくが住んでいる下北沢の街。日本の敗戦の年、昭和20年の8月15日ごろは、世田谷学園の1年生だったから、戦前、戦後の下北沢の街をずっと見続けてきたことになる。

現在、下北沢の南口商店街が、一番にぎやかな通りだが、戦前は北口の商店街がにぎやかで、南口は大きな民家の植木で囲まれた堀が連なっていて、お店は何軒もなかった。

ぼくが住んでいた代沢小学校の正門前のじゃり道の三軒茶屋につながる、今は茶沢通りと言われる道に面しては、お店が何軒もあった。

代沢小学校の正門前には、お米屋さん、ブリキ屋さん、文房具屋さん、酒屋さん、ぼくが住んでいた家の角には、のんき屋という餅菓子屋があり、その並びには魚屋、下駄屋、炭屋、そば屋、ほうき屋、駄菓子屋もあったっけ。そんなこと知っている人は、もうぼくだけになってしまった。

令和元年「せたがや」10月25日号の広報誌が新聞の折り込みに入っていた。

「世田谷区長、保坂展人さんが「下北沢の線路跡地」で魅力発信へ!」と題して書かれている。

小田急線が地下深くに線路を引いてしまったので「線路跡地」をどう開発するかで、長いこと協議が続いていて、やっと全体構想がまとまってきて、2年後には完成するようだが、ぼくはそれを見ることができるかどうかわからない。

地方から出てきた若者たちが、もっとも住みたい街が、下北沢だった時代があった。だが、それは3、40年前のことで、今はそのランクから消えてしまっている。

一軒一軒のお店の土地が狭い、今や路地の民家だったところも、売ってしまいお店に変わっている。広い土地が少ないから、ゆったりとした建物を建てられない。ビルを作っても設計にお金をかけて、しゃれたビルを作る人もいない。なるべく安く作ることしか考えていないから、外観も平凡なビルばかりだ。

土地代も高いから家賃も高くなってしまう。だが南口商店街を歩いている人は多い。それは道路が狭いから多く見えるだけで、広い道だったら人はパラパラだ。

こんなに人が歩いているから商売になるだろうと、個人商店が店を出してもすぐつぶれてしまう。しかし、また誰かが店を出す。

続いているのは大手のチェーン店だけになってしまう。大手の店も採算が取れないと見ると、すぐ店をたたんでしまう。

3、40年は数軒しかなかった古着屋が、いまは何十軒にも増えている。ぼくが経営していたカフエ「イカール館」(メガネ屋の2階)も古着屋で、今でも続いている。

数えたことはないが、南口、北口の商店街で古着屋は数十軒もあり、今でも増えているから不思議な現象だ。これでは新品の高級な洋服を売る店は成り立たない。

他人が来た服を着るのは嫌だと思う人は「ユニクロ」の大きな店があるから、そこで買っているのだろう。

先日、女房の古里、弥彦村にある別荘まで車で送ってくれた親切な人がいたので、山積みになっている衣類を段ボールを開けてブランド物だけを持ち帰ってきた。

早速、10点ばかりを古着屋に持って行ったら、査定するのに2時間かかるという。スーパーで買い物をして、カフエ「織部」でコーヒーをのんで、日経と朝日を読んで時間をつぶし、また古着屋に行ってみたら、10点のうち5点は返品。あとの5点で1350円くれた。

お茶屋の親父さんが言うのには、古着屋ほど利幅のある商売はない。家賃が高くてもなんということはないと。これで納得できた。洗濯代にもならないお金で仕入れて、何千円で売るのだから……。

 

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下の店は古着屋ではありません

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