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2019年11月 4日 (月)

ぼくが誕生したのと同じ87年前の雑誌が!

2019年・令和元年10月18日から20日まで、女房の古里、弥彦村にある別荘に「文ちゃんと語る会」で出会った音楽通の70代の親切な方が、ご自分の車を運転して連れて行ってくれた。
 
なにしろ代沢の3階建ての建物の中にある、父母が残したものから、一切合切を段ボール箱に詰め込んで、トラック何台もで運び込んでしまったのだから、別荘は倉庫と化してしまった。
 
ぼくが段ボール箱を開けて、ひとつ、ひとつを見て捨てるものと、残すものとを判断しなければならなかった。
 
書籍は読まないのに、持っていたからその量も大変な数になる。父が残した本はいいものがあったが、近所の古書店で処分してもらい、二束三文にしかならなかった。
 
ぼくの本も本の取次店(問屋)の親しい書籍仕入れ課の人に頼まれて、新潮社刊の「三島由紀夫全集」一冊1万円ぐらいした豪華本もページも開かず段ボールの中で眠っている。
 
店を持たずにネットで売っている古書店の人もめぼしい本は根こそぎ車で持って行ってしまった。
 
『薔薇族』も内藤ルネさんの表紙絵のものは、中野にある「まんだらけ」が高値で買い取ってくれた。今度も『薔薇族』を200冊ばかりと、単行本を60冊ほど送ったがいくらで買ってくれるものか。
 
残った雑誌で値段がつくものは少ない。『薔薇族』ってありがたい雑誌だ。類誌は値段がつかないのだから。
 
ぼくが生まれた日は、昭和7年3月19日だが、段ボールの中から「昭和7年・2月号の月刊・日本文學」(定価五十銭・日本文学社発行)を見つけ出した。ぼくと同じ87年も生き残っていた雑誌だ。父が勤めていた「第一書房」の広告が載っているから父が所蔵していたものだろう。
 
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執筆者の10人の先生方のお名前は、勉強しなかったぼくには知らない方ばかりだ。
 
日本文学社が開講する「国文学演習・会員募集」の広告の先生方のなかに、ぼくの駒大時代の恩師、森本治吉先生の名があった。
 
20名の講師の中で知っているお名前の先生は、久松潜一先生、武田祐吉先生だけとは情けない。令和の年号の考案者、中西進先生なら、みんな知っている方だろうが。
 
「編集後記」(編集発行兼印刷人の吉川興志次)を読むと、今風の文章に直してしまうとこんなことが書かれている。
 
「君よ、完全にお面一本取られながらも、なお、かすった、横だ、すべったなど、やせ我慢をはってはならない。『日本文学と国文学とは、その言葉が異なる。
 
名がちがえば実もちがってくる。父という場合と、お父さんという場合とは全く同じではない』などといっているのは、昨夜の寝不足のためではありませんか。
 
言語の持つ意味と、その感じとをごっちゃにしてはいけない。日本文学と国文学となるほど言葉の異うと共にふたつから来る感じの相違はわれわれも認める。しかし日本文学も国文学も、その外延と内容とは同じものだということに合点されたい。
 
二度数えるのも大人気ないが、君に教えを受ける学生たちが気の毒だと思い、簡単に申し上げておきます。とは後記子から某誌編集者某氏に與る一書である。」
 
分かったような、分からないような、どうも他の雑誌に書いた先生を批判しているのだろうか。
 
ぼくは「編集後記」を30数年書き続けてきたが、読者をおもう気持ちで書いてきた。それにしても父は「文學」などというとんでもない名前をつけてくれたものだ。

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