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2019年12月

2019年12月30日 (月)

大波をくらってカメラも修理不能に!

1971年(昭和46年)に『薔薇族』を創刊してから2年目の昭和48年に『別冊・薔薇族No.1』を刊行している。内容は波賀九郎さんの力作、「怒涛」と題する写真がほとんどだ。
 
読み物はぼくの「東北大生・ホモ殺人事件に想う」と、月岡弦さんの「魅惑の裸像」と題する小説だけ。
 
巻頭に波賀九郎さんが「怒涛の男・撮影記」を書いている。六尺ふんどし姿のモデルは、精悍な顔つきで最高。からだもすばらしい。波賀さん、モデルにほれこんで撮影したに違いない。
 

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「夏が終わりを告げた後の海は、しばしば私の写真の絶好の撮影場所ともなる。今回はかねてからの予定地、静岡県の焼津港に出かけて行った。モデルの学生のS君とである。
 
静かな港に一隻だけ男たちが忙しく立ち働いていた。照明、遠洋漁業に出かけるためであろうか。漁具や食料などをさかんに積み込んでいるところであった。
 
港の周辺で少し撮影をした後で、砂浜に出た。そこに沖を向いて並べられた古い墓地があった。S君は私がとくに要求もしないのに自分から進んでポーズをとってくれた。よくみると無縁仏の前であった。おそらくその昔、この焼津の漁の活気をしたって集まってきた各地の漁師たちが、荒波に出ては精一杯暴れ回れて、その終焉をこの土地で果てた人々や、シケにあってついに帰れなかった人たちのものであろうか。
 
私はS君が、ここを撮影場所に選んだ意味が少しわかる思いがした。(中略)撮影がすすんで陽光が西に傾くのも知らず、熱中していた私は、次第に潮が満ちてくるのを気づかなかった。そしてひときわ大きな波のうねりがおそってきた瞬間、S君も私も、そしてカメラもろとも大波をかぶって岩にたたきつけられていた。
 
やっとの思いで波の届かぬ岩にはいあがりよくみると、S君の日に焼けた、真っ黒な肌はずぶぬれで、からだ中、擦り傷だらけになっていた。
 
おかげで日頃から肌身離さず持ち歩いていたカメラは、もう塩水をかぶって修理不能なまでに破損してしまった。しかし、幸いなことにフィルムだけは生きていて、暗室のパットの中の印画紙の上に、まざまざとそのときの様子を再現してくれた。
 
こんな状況で、今回の焼津の撮影は終わった。出来上がった写真をS君に見せると、いつもは無口で言葉少なく、まして滅多に笑い顔など見せたことのない彼が、大きな目を一層大きく見開いて、「わあ、東映のやくざ路線ですね」と言って、カラカラと屈託のない笑い声を立てた。そのとき私は、足の傷や、腰の痛みも、カメラの損出も、すっかり忘れ去って、さわやかな彼の笑顔をただ、しげしげと眺めていた。」
 
まさに命がけで撮影した焼津港での写真。積み重ねられた無縁仏の墓跡の前のS君の写真、手を合わせたくなるくらいだ。
 
波しぶきの前での写真、岩の上での写真、波賀九郎の最高傑作だ。大波を浴びて姿がみえなくなっている写真、こんな写真で別冊を創刊2年目で出せたなんて夢のようだ。
 

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「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。別冊も藤田竜君とふたりだけで出したのだからすごいことだ。
 
「今年は武田肇写真集『少年たち』、波賀九郎写真集『梵』、栗浜陽三写真集『褌遊』と3冊もひとりで出すことができたことは快挙というべきで、社員を何人も使っている出版社でもできないことをやってのけたことで、ひとりで満足している。
 
これはひとえに熱心な読者がぼくを支えてくれたからだ。「いい本ができました」と、激励の電話で元気が湧いてくる。」
 
ああ、いい時代だった。

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2019年12月28日 (土)

パワハラ防止法をお国が作るなんて!

2019年(令和元年)12月15日の東京新聞1面トップ記事を読んで、「えっ、そんなことあるの」とびっくりしてしまった。
 
ぼくは幸か不幸か、他人さまに使われて働いた経験が87歳になる今日まで1日もない。学生時代のアルバイトだけだ。
 
駒沢大学在学中、下北沢にガラス磨きの親方? がいて、アルバイトで銀座のお店(当時はビルが少なく、一階か二階の喫茶店とか焦点)のガラス磨きで、危険なことはやらなかった。
 
敗戦後、数年しか経っていない時代で、進駐軍の物資が珍重されていて、どこで手に入れたのか、米軍のブリキの石鹸が入っていた缶になんのことはない、磨き砂を入れてもったいぶって使っていた。
 
4、50軒のお店のお得意さんがあれば、ガラスってすぐに汚れるから商売になっていたようだ。
 
銀座の服部時計店の前の「三愛」の窓ガラスを拭いていたときは、知っている人が通りやしないかと、はらはらしたものだ。
 
今でもカフエに入っても、ガラスが美しく磨かれていると、気持ちがいい。
 
「政府のハラスメント対策指針・就活生も義務化を」という池尾伸一・嶋村光希子さんの記事で、3人の女性から座談会の形式で就活で企業に面接に行ったときの驚くべき話だ。
 
Kさん(4年生・被害体験者)の話。
 
「就活中は嫌な思いばかり。面接で必ず聞かれたのが、『将来結婚するの』とか『彼氏いるの』など。『どのくらい遊んでるの』も。
 
こっちはスーツでばっちり決めて、業界のことも勉強しているのに、聞かれるのはそんなことだけ。面接後『ハイ、ありがとう』と肩を触られたことも。ショックだったのはひどい言動に抗議もできず、受け流すしかなかったことです。」
 
町田彩夏さん(大学院生・被害体験者)
 
「いま大学院に通っていますが、もう就活しようと考えられなくなってしまいました。大学4年時に受けた広告代理店の面接で『化粧が濃い』とか『君みたいに容姿のきれいな女性がハキハキしゃべるのが気に入らない』と言われました。
 
次の役員面接では、化粧を地味にし、気弱そうに話したら、人事担当者に『今日、生理だった? だとしても役員面接に体調合わせられないのは社会人失格』と言われました。」
 
町田さん(大学院生・被害体験者)
 
友人の体験だと訪問したOBに遅い時間に高級レストランに呼ばれて、終電がなくなるのでホテルに、という流れを作られてしまったケースを聞きます」
 
Kさん。「社内で女性へのセクハラや、差別的言動が『通常運行』で行われているから、就活生にもそれが表れるのだと思います。何十社と受けましたが、役員面接で女性が役員というのは、たった一回」
 
これが本当の話ならひどい、ひどすぎる。就職しようと思う学生たちは、誰しも一流企業に就職したいと思うのは当然のことだ。
 
こんな人事の役員ばかりいる会社って、すべての会社とは考えたくないが、一流企業の役員のおごりを感じる。
 
中小企業と給料の差もあるから、みんな一流企業に就職を考える。中小企業では人手が足りないし、どうしても有能な社員を入れたいと思うからこんな馬鹿げた質問はしないだろう。
 
女性差別の気持ちを強く感じるが、ゲイの役員がいたとしたら、男子学生にどんな質問をするのだろうか。嫌な時代になったものだ。

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2019年12月23日 (月)

世の中には同じような悩みを持つ人が!

1971年に創刊した『薔薇族』は、隔月刊だった。5号目の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「第4号の高校生特集は、おほめの言葉をいただいた。ばば君のレポートが出色の出来栄えだったからだろう。『週刊現代』『週刊ポスト』が紹介記事を書いてくれた。
 
『子連れ狼』の連載で売れに売れている『漫画アクション』3月9日号が、1ページを使ってぼくのことを紹介してくれたので、たくさんのお電話をいただいた。」
 
マスコミが取り上げてくれることもあってから、女性の読者も増えてきている。7号目には「私は異性を愛せない女」と題して、清水純子さんの投稿を載せているが、当時のレズビアンの女性の気持ちを知ることができる。
 
「ふとしたことで『薔薇族』を手にし、それから毎号愛読している一女性です。
 
男性でさえ最初は戸惑うであろうと思える内容の雑誌でした。ところが女である私は少しも戸惑わなかったのです。なぜなら私が持っているのと同じ悩みが『薔薇族』に満載されていたからです。
 
世の中には同じような悩みを持った人が多くいることかと、私は心強く思ったのです。私は田舎(北陸)から上京してきて、もう5年になります。私は両親からや、兄嫁の「結婚しなさい」の言葉を聞くのが嫌で、田舎から逃げ出してきたのです。普通の男性と平凡に結婚して、子供を育てるなんていうのは私には不可能です。
 
中学2年生のとき、私は人並みに初恋をしました。なんと相手の人は同じクラスの女の子だったのです。(中略)
 
当然のことのように私にも結婚話が起こりました。それがいやで東京に出てきて池袋に住むようになったのは42年11月でした。
 
美容院に勤めた私は、そこの先生と親しくなりました。お酒なんか飲めもしないのに、先生を誘って飲みに行き新宿のホテルに2人で泊まりました。
 
全然、自然ではありませんでした。2時ごろベッドに入って、先生に甘えられたのに、なかなか手が出せなくて、5時ごろやっと結ばれたのですから……。しかも、先生の指図どおりにやらされました。
 
先生(女性)は彼氏と別れたばかりだったので、私を男の代用品として寂しさをまぎらわすために利用したのでしょう。そんなことは何も知らなかった私は、先生によって男役としてめざめさせられたのです。
 
両親と一緒に住んでいた先生は、ついに私のアパートに移ってきて、毎晩愛し合うことを要求してきたのです。それから4年間、まったくの夫婦気取りの生活をしてきました。
 
先生は私にとっては、こわい存在でした。私が男役といっても夜だけで、昼は私を子供のように扱って自由なんてありませんでした。田舎に電話するにも先生に報告しなければならないし、友だちと付き合うことも禁じられました。
 
2人で共同で店を経営していましたが、先生に飼育されているので私は強いことを言えませんでした。とうとう田舎の両親が私たちのことに口出しするようになり、2人の間もだんだん変になり、仲をさかれてしまったのです。私は泣く泣く別れました。
 
今になって思えば、それでよかったのだと思います。先生のそばにいても両親を安心させることはできませんでしたそれに私が好きで一緒になった人ではなかったのですから……。ただ一緒になって自然に情が湧いて愛するようになったということです。」
 
この女性、結論は『薔薇族』の読者と結婚したいという希望だけど、相手が見つかったのかは記憶にない。

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2019年12月21日 (土)

「少年愛」のことは分かっていても「少女愛」のことは!

週刊文春の12月5日号の新聞広告の見出し「『元優等生』誘拐犯・伊藤仁士・少女たちとの異様な共同生活」を見て、事件発生からの新聞記事を読み、興味があったのでスーパーに買い物に行ったとき購入してきた。
 
ぼくと同じ伊藤という姓の青年(35)が犯人ということなので、他人事と思えなかったからだ。
 
昭和の時代は「誘拐」というと、有名人や、お金持ちの子供を誘拐して、お金を脅し取ろうという事件だった。
 
伊藤仁士という青年は、お金が目的ではない。自分が所有する家を持ち、家賃収入もある。
 
『薔薇族』という同性愛の雑誌を日本で初めて創刊し、30数年の間、編集長として多くの読者と出会うことができた。
 
「少年愛」の人に向けての写真集、単行本も数冊刊行しているので、「少年愛」の人たちの立場はよく理解しているので、「少年愛」の人たちに向けてのことも書き、少しでも世間の人たちに「少年愛」の人たちのことを知ってもらいたいと誌上にも、またブログでも書き続けてきた。
 
よく考えてみたら「少年愛」の人が多くいるのだから「少女愛」の人もより多くいることは間違いない。しかし「少女愛」という人に出会ったことはただの一度もない。
 
成人同士のレズビアンの人たちは、多く出会っているのに……。知らない世界のことをブログに書くと批判されるかもしれない。
 
ぼくはスマホを購入したが、自分の書いたブログとツイッターを読むだけで、小6の12歳の少女がSNSなんてものを使って、見知らぬ人と出会うなんて、今の若者はみんな知っていることなのだろうが、おどろきでしかない。恐ろしいことだ。
 
誘拐されたA子ちゃん(12)は、お母さんとお兄ちゃん、お姉さんとの4人暮らしでお父さんはいないようだ。
 
事件の直前、A子ちゃんは「学校も家も嫌だ」とも、もらしていたという。近所の公園のブランコに、2、3時間、ひとりで揺られている姿も目撃されている。
 
もしかしたら父親がいない寂しさもあり、父親像に憧れていたのかもしれない。
 
週刊文春の記事を何度か読んでみたが、伊藤仁士という青年の生い立ちから、中学時代、剣道に熱中していたりと、よく調べている。中学2年生の時代に作られた文集の中で、こんな将来像を綴っている。「弱い人間の力になれる優しい人になる」伊藤が好きな女性のタイプも「優しい人」だったと記事には書かれている。週刊文春はよく調べているが、伊藤仁士の本質には触れていない。
 
15歳の中学生とは、長く住んでいるからセックスはしているだろうが、そのようなことは警察がもらさない限り、記事にはできないのだろう。
 
少年愛の人から直接聞いた話では、少年と肛門セックスをしているとのことだった。昔の子供は親にそんなことを話さなかった。
 
だが少年愛の男はどんなことをしているのかは、まったく知らない。ぼくはネットでいろんなことを調べたりできないので、少女愛の人たちのことを教えてもらいたい。
 
「文ちゃんと語る会」にでも、ぜひ参加して「少女愛」にくわしい人がいたら教えてもらいたい。
 
伊藤仁士君は「少女愛者」だったのか? 食事を1日に1回、風呂も2日に1回、食べ物もろくなものを食べさせていないが、いじめたりはしていない。不思議な人だが、彼は悪いことをしたとは少しも思ってはいないだろう。

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2019年12月14日 (土)

白いハンカチを手に持って待っていて!

「スマホ」なんて便利なものがある時代、未成年者だって見知らぬ人と出会うことができる。そんなことがまったくできなかった時代の中学生、高校生は、どんなことを考えていたのだろうか。
 
昭和47年(1972年。創刊して2年目)の『薔薇族』4号・3月号に「性別にかぎらず深く愛し合える社会を」と題して書いている。文通欄も200通を越えているのだから順調に売り上げものびていたようだ。
 
「高校3年生の読者から編集部にこんな手紙が寄せられた。『文通欄にこんな手紙をのせてもらえるでしょうか? ぼくの住所を書いて手紙が回送されてきたとき、父母になんといったらいいのか。父にでも手紙を読まれたら大変です。だけどホモだちができないと気が狂いそうです。どうかこの投稿を文通欄にのせてぼくを助けてください。このままだと大学受験も落ちそうです。』」
 
そう書かれてあって、次のようなことが記されていた。
 
「18歳、高校3年生、ぼくは都立高校に通っている少年。大学受験を目の前にして、こんなことをするのも気が咎めましたが、思いきって手紙を出します。ぼくはホモだけでなく、少々サディスティックなところがあります。
 
年上のできれば25歳までの大学生の人をいじめてみたいのです。ぼくは家のものと一緒に住んでいるために、住所を知らせることができません。家のものになんと言われるかが心配です。そこで学校の帰り道に待っていて欲しいのです。
 
西武池袋線の××駅の改札口に、毎土曜日の3時〜4時までの間、白いハンカチを手に持って待っていてください。学生服を着たぼくが声をかけます。まだ見ぬ青年マゾの人に。
 
東京都練馬区の一高校生より」
 
昨年の秋のことだったろうか。やはり都立高校を卒業して、予備校に通っている少年が訪ねてきたことがある。その少年は高校3年に在学中、いつも勉強に行く日比谷公園のなかにある図書館に行っての帰り、公園の中を疲れた頭をいやすべく散歩していた。
 
ベンチの一つに腰をかけ、何気なく向こうを見ると、前のベンチにひとりの外人の紳士が座っていた。見るからに品のいい外人だった。
 
少年はなんとなく、その外人と目が合うとにこりとした。外人もにこりとした。自分の英会話がどのくらい通じるか、話をしてみたいと思った。同じベンチにふたりで座った。少年はいろいろと話しかけてみた。
 
それからしばらくして少年はトイレに連れ込まれ、ジッパーをおろされて……。
 
「ぼくにも同じことをしてくれ」と、外人は要求したが、初めてのショックで、口もきけないぐらいであったが、天にも昇るような快感に、少年はおののいていた。
 
それから勉強が手につかなくなってしまった。それまでオナニーもやったこともなかったのに、その外人を頭に描いて自らを慰めていた。
 
『薔薇族』を読んだその少年は、ぼくを訪ねて我が家にやってきた。そうした外人との話をあり合わせの食事を一緒に食べながら話してくれて、そのあとで少年は切り出した。「その外人に似た中年の紳士を紹介して欲しい」ということだった。
 
この少年もそれ以来、勉強に身が入らずに受験に失敗して予備校通いをして受験勉強中である。もし、まただれか中年の人を知り快楽に溺れるようになれば、また入試もおぼつかないことはあきらかだ。」
 
白いハンカチを持つ大学生、ぼくは『薔薇族』に載せたのか、おぼえていない。

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2019年12月 9日 (月)

サイン入りの内藤ルネさんの人形が!

月刊サイゾーを見ると、笹公人(1975年生まれ。「未来短歌会」選者。17歳の頃、作歌を始める。代表作に『念力家族』(朝日文庫)、『念力図鑑』(幻冬者)など」と略歴が書かれている。
 
短歌の世界から60年以上も離れてしまっているので、あまり興味をもたないが、駒大時代に森本治吉教授に出会って、短歌を作り出したことだけが、大学時代に学んだ唯一のよかったことだ。
 
月刊サイゾーの10月号(2019年)が手元にあったので、短歌のページを開いてみると、笹公人さんの「笑う全裸監督」と題して6首の作品が載っていて、1ページを使い、怖い顔をした迫力のある女性の写真にもう一首載っている。
 
  戦後日本を震撼させし川俣と村西監督の白きブリーフ
 
  昭和時代の終わりを思えばぬばたまの黒木香のワキ毛まぶしく
 
  数万の借金で悩む小ささを全裸監督に笑われた夏
 
今のぼくには、これらの作品がいいのか、悪いのか判断できないが、最近は短歌というより短詩と呼ぶべき作品が多くなってきている。
 
スポーツでもなんでもルールというものがあり、短歌も57577で作るべきで、文語体のほうが格調がある。
 
短歌は『万葉集』の時代で完成してしまっているので、ぼくは『万葉集』に帰れと言いたいが、いまさら短歌を作っている今の人たちにとやかく言うことはない。
 
2019年の11月18日から20日まで、運転してくれる親切な人がいたので、しばらくぶりに女房の古里、弥彦村にある別荘に荷物を片付けに行ってきた。
 
段ボールになにもかも詰め込んで、トラック数台で運び込んでしまったのだから、ひとつ、ひとつ段ボールを開いて、いるものか、いらないものかを見極めなければならない。
 
3階建の家の中にあったものを運び出したので、父母のものまであり、気が遠くなるぐらい積み込まれていた。
 
運転をやめてしまったので、車を運転してくれた人がいて連れて行ってくれたからいいものの新幹線で行ったら、コンビニまで歩いたら1時間ぐらいかかってしまうから食事に困ってしまう。
 
段ボールの中からお宝を探したが、今回は内藤ルネさん作のビリケン人形を見つけ出した。サイン入りで箱にかわいい人形が入っていた。これは欲しい人が多くいるだろう。
 
それから駒大時代に作った短歌の作品が書かれている茶色く色褪せている原稿を見つけ出した。まったく忘れているが、今時の短歌のようなものが書かれていたのでびっくり。自分で言うのもおかしいが、名作ではないか?
 
  突きはなされ空を泳ぎ、花の蕾は不覚にも性液をもらしました
   
  人間は摩擦によって火を作り、子を作り、そして燃えあがった
 
  落葉がくるくる坂をとばさてゆく立ち止まってふりむきたげだ
 
  花火が星空を切りふたりの重みにベンチがうめいている

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2019年12月 7日 (土)

お地蔵さんにお花と果物が!

女房の古里、新潟県、弥彦村(人口8千人)には、東京の明治神宮に匹敵するぐらいの立派な弥彦神社がある。
 
11月は全国から菊づくりの名人が丹精込めて育てあげた菊がずらりと並べられた「菊まつり」が開かれていて、多くの観光客が訪れる。
 
ぼくが経営していた、平成5年にオープンさせた「ロマンの泉美術館」は、10数年前に閉館し、今は廃墟と化しているが、もうひとつ閉館して寂しい思いをしているレストラン「森」がある。
 
カナダから丸太を運び込んできて、カナダの大工さん数人が弥彦に数ヶ月も滞在し、作り上げたログハウスだ。
 
そこで料理をつくっていた人はゲイの人で、東京にいたときはデザイナーでセンスの良い人だった。奥さんらしき人とふたりでお客を迎えていた。
 
弥彦神社の裏手にあり、大きな杉木立に囲まれた狭い道を通っていくような辺鄙なところに建てられたレストランだ。
 
「ロマンの泉美術館」は、新潟のテレビ局や新潟日報、三條新聞などが紹介してくれたから、辺鄙なところにあっても多くの人が訪れてくれた。NHKにテレビで紹介してくれたときなどは、1日に500人を越すお客さんで、レストランで食事をするのには何時間も待たされたほどだった。
 
個人経営のレストラン「森」は各所に看板を出してはいたが、口コミで知られるより方法はなかったので、お客さん集めには苦労していたようだ。
 
ぼくは弥彦に行くたんびにレストラン「森」に立ち寄り、食事をし、本を出版した折にはここで出版を祝う会を開いたりもした。
 
しかし、いつの間にか店を閉じていた。紅葉に包まれて、中からマスターが奏でるピアノの音が聞こえてくるようだが、店に入る階段は紅葉した落葉が自然のわびしい芸術作品を作り出していた。
 
弥彦伊藤館の玄関脇には、東京から運んだお地蔵さん、田んぼの神様かもしれない。弥彦に行くたんびに見るが、女房の兄の嫁さん、長い間、畠仕事をしてきたので、腰が曲がってしまっている。それでも畠仕事を続けていて、車で行くと帰りに大根、たまねぎなどを持たせてくれる。
 
ノブさんという名だが、ありがたいことにお地蔵さんにお花と果物がいつもそなえられている。下北沢の和物の骨董店で買い求めたもので、どこの地方にあったものかわからないがお地蔵さんも落ち着いて喜んでいるに違いない。
 
いつのことだったか、兄の家で食事をごちそうになったとき、食事後、茶碗にいくつものご飯粒をつけたままにしていたら、ノブさんに「農家の人は大変な苦労をして、お米を作っているのだから、ひとつぶでも残しちゃだめよ」と、叱られてしまった。
 
それからぼくは、ごはんを食べ終わると、お茶を少し注いで、ひとつぶ残らず食べるようにしている。
 
戦争中、戦後の食糧難の時代を経験しているから、レストランで食事をしても残すようなことはしない。ごはんが多すぎると思うと「半分ぐらいにして」とボーイさんに頼むようにしている。
 
ぼくが骨董好きになった最初のきっかけは江戸末期のおそばのつゆを入れるそばちょこを買い求めてからだ。内藤ルネさんのマンションを訪ねた折に、お茶をいれてくれた陶器がそばちょこだ。淡い青色がなんとも言えないぐらいいい。
 
何10個と集めたが、みんな売ってしまって今はない。それが段ボールの中からふたつ見つけ出した。そんな高価なものではないが、しばらくぶりに恋人に出逢ったようなうれしい気分になってしまった。

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2019年12月 4日 (水)

「文ちゃんと語る会」開催のお知らせ

「文ちゃんと語る会」1月25日(土)に開催いたします。
 
日時・1月25日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
女性の方も安心してご参加を!
 

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2019年12月 2日 (月)

刑務所の中での男同士の欲望は!

ぼくのブログの中で、現在一番多くの人の読まれているのは、刑務所の看守の読者が投稿してくれた「刑務所の中での男の世界」だ。
 
創刊して4年目の『薔薇族』1月号・No15藤田竜君が力をそそいでいた時代。「人生薔薇模様」の読者の投稿欄に「K刑務所での灰色の快楽」と題する(東京・いざわ・さわ男)さんの体験記が載っていて、貴重なものだ。
 
「この体験は私自身の何年か前の体験記です。人間として本能ぎりぎりの禁欲生活は当然、同性にしか求められない欲望は異様でもあり、残酷でもあります。その反面に理想の若者と所内で知り合い、肉体関係をした思い出が、今でも鮮烈に記憶の中に刻み込まれています。
 
所内でのホモ関係は信じられないほどジェラシーが強く、時代によっては三角関係、四角関係になって殺傷事件をひきおこすこともまれではない。
 
かわいいタイプの若い受刑者が新入りとして入ってくると、欲望に飢えた古い連中は、その新入りをマークする。運良く部屋が同じだったら、その喜びようは大変である。
 
もし、その相手が浮気でもしようものなら殺傷事件にまで発展しかねない。それを看守に発見されようものなら、独房に入れられて、相手の受刑者と出所するまで別れ別れにさせられてしまう。所内のホモ行為はタブーであり、きびしい掟でふたりはひきさかれてしまう。
 
刑期は人によって違うが、短い人は10ヶ月から一年半くらい。長い人は5年から10年くらいの人もかなりいる。そのほとんどが再犯者である。
 
中には少年刑務所からきた初犯者もいる。20代の受刑者が大半で、チンピラ、ヤクザ風のものも少なくない。
 
これらは血気盛んで相手とトラブルを起こしては独房行きである。やくざのおにいさんたちは、全身、上半身、下半身と色どりもあざやかな、バラ、ボタン、桜、竜、蛇、観音像といれずみを入れており、風呂に入った時は壮観で、そのからだはたくましく、湯からあがった身体にはられたいれずみは鮮明に浮かび出て、その美しさは目も眩むようである。
 
風呂は1週間に2回くらいで、1回に15人くらいは入れるほどの広さの浴場で、坊主頭の男性たちが一斉に湯船にはいるさまは異様でもある。
 
若い健康そのものの逞しい身体を、お互いに見せ合っているものもいる。中にはペニスを隠さず堂々と入っていて、目の前に大きなものをもってこられると身震いする。
 
仲間のひとりが相手の身体を触ったり、ペニスにも触ったりして、身体を洗いあっている姿を見ていると、受刑者であることを忘れてしまうほどの明るい気持ちにさせられる。
 
朝夕と舎房から工場へ、工場から舎房に行く途中に「検身場」がある。「カンカン踊り」と言われるもので、裸になって両手を上に上げて、「何号、何号」と叫びながら看守に全身を調べられる。この姿は肉親には見せられないつらい光景である。
 
所内でもっとも楽しい行事のひとつに、日曜日に行われる映画会がある。刺激のない作品がえらばれて上映される。この映画会の会場は受刑者たちの顔見せでもあり、所内唯一のデート場でもある。愛し愛されるふたりにとっては絶好なデートのチャンスであり、大胆なことはできないが、結構スリリングな愛撫がひそかにくりひろげられる。
 
出所してからもう何年か過ぎた今でも、若い受刑者の姿が、私の目に現れてくるような気持ちにさせられてしまう」
 
露骨なことは書かれていないが、貴重な体験記で、そこには残酷な愛があったのだろう。

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