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2020年1月

2020年1月20日 (月)

死んだ者は帰ってこない!

先妻のミカ(本名・君子)が風呂桶の中で酸欠死してから、2020年1月11日で50年になる。
 
2009年の6月に彩流社から、ミカとの出会いから事故死するまでを書いた『裸の女房』を出版することができた。
 
「死んだ者は帰ってこない」という小見出しでこんなことを書いている。
 
「1969年(昭和44年)の12月のことだ。幼稚園の年少組の5歳になる息子(文人・ミカの子供)は、おばあさん子で自宅からすぐ近くの森厳寺さんが運営している淡島幼稚園に通っていた。子供のことはおばあさんまかせで、何の心配もなかった。
 
1970年(昭和45年)の年が明けて最初の月曜日(1月4日)、その日からクラブ「スペース・カプセル」のショウの演目が変わって「雪女」だった。1回目のショウということでいくらかの不満な点があったのだろう。お弟子さんと二人で、真剣に明日の2度目のショウに備えて駄目押しをしていた。やっと終わってお弟子さんを車で自宅にまで送り届けて、さて風呂に入ろうということになった。ぼくはその日に限ってサウナに入ってきたので、「今日は風呂に入らないよ」と言って、ふとんに入って寝てしまった。」
 
その日は、わが家の第二書房の本を製本してくれている越後堂製本の社長の小林さんが、本の取次店の係長のI
さんを招待して、ぼくと3人で新宿のキャバレーに誘ってくれた。
 
キャバレーを出てから、Iさんがサウナに入りたいと言い出したので、サウナに入って小田急の最終電車でわが家に帰ってきた。
 
その頃、お金の収入が増えてきたので、ミカは生活の匂いがしないところで、舞踊の創作をしたいというので、近所に新築のアパートが建ったのでそこを借りたばかりだった。
 
「いつもならぼくが風呂を沸かして「どうぞお入りください」ということで、ミカは風呂に入っていた。アパートの風呂は浴室の中でガスに点火するようになっている。小さい窓があるが、少し窓を開けておけば外気が入って、問題はなかったが、冬の寒い時期だったので窓はしまったままだった。
 
水を入れる音がして、ゴオーッというガスが燃える音を聞いたか、聞かないうちに眠ってしまった。しかし、心の片隅で心配だったのか、どのくらいの時間寝てしまったのかはわからないが、ふっと目が覚めた。
 
風呂場に入ってみると、もうもうと湯気がたっていて、ミカはすでにこときれていた。
 
ガスの火は消えている。すぐにガス栓を閉めて、風呂桶に手を入れたが、熱湯になっていて手も入れられない。手で触ったらミカのからだの皮がするっとむけた。水道の蛇口をひねって水をそそぎこみ、外に運び出そうと持ち上げようとしたが、重くて持ち上げるものではなかった。ミカは座禅を組んだ形で足を組んで死んでいた。
 
まだ部屋を借りたばかりで電話がひけていない。表通りへとびだして当時あった交番へ走ったが警察官はいなかった。机の上に置かれている電話で110番へ電話した。
 
まだ朝早く、白白と夜は明けていたが、両親を起こしてはかわいそうだと思って、7時ごろになって自宅に行って知らせた。それから埼玉の実家の両親、友人、知人にと次から次へと電話をかけたが、正月の11日のことなので、電話をかけると誰もが「おめでとう」と言われてしまうのには困ってしまった。
 
5歳の息子はその日も、お婆さんに連れられて幼稚園に行き、先生に「ママは今朝死にましたけど、ぼくは悲しくない。死んだものは帰ってこないから」と伝えたそうだ。
 
その息子も55歳、子供も二人も独立している。半世紀も経っているのに、その日のことは鮮明に覚えている。

 

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2020年1月18日 (土)

ぼくにも帰りを待ってくれる人が!

ネットなんてものがなかった時代、昭和47年(1972年)の『薔薇族』3号の「薔薇通信」欄(すでに195名が載っている)を読むと、東京に住んでいる読者でも、寂しい思いが伝わってくる。
 
●東京都・中野区・S・A
 
大都会の空の下、ひとりで生きている23歳のぼくです。
 
仕事から帰ってもアパートの小部屋は真っ暗。ぼくにも帰りを待ってくれる人がいたらどんなに素晴らしいかと思います。身長172センチ、体重61キロのぼくですが、兄さん、あるいは父さんと呼べるような人を望みます。できれば少し太った人がいいのですが。
 
 
●東京都・葛飾区・K・K
 
街角を親子連れが楽しそうに語り合いながら歩いているのを見ると、とてもうらやましく感じます。
 
両親の顔すら知らない私に、ひとりぐらい息子がほしいと願うのは、私のわがままでしょうか。お互いに誠意を持って交際してくれる方。一緒に旅行などもしたいと思います。まじめに交際してくれる20代の人の連絡を待っています。
 
 
この人たちいい人とめぐりあえたのだろうか。
 
ぼくはひとりで生活したことがないから、真っ暗な部屋に帰ってくる気持ちって、寂しいだろうな。
 
どんな事情かはわからないけれど、両親の顔すら知らないという人。つらいな。幸せになってほしい。文通欄って大事な役割を果たしていたと思う。あまりにも切実な願いだから。
 
 
●福岡県・H
 
アメリカのロスの6番街のバスターミナルの前で「バカ、バカ、日本みたいなところにどうして帰るんだ。オレ、これからどうすればいいんだ。本当に死んじゃうぞ」と、わめきながら、黒い肌をかきむしり、大粒の涙を流した、私のかわいい助手、トムソン君のことを私はいまだに思い続けています。
 
21歳のすばらしい黒人青年でした。東洋人である私の黒人に対する好奇心ですら、ためらいなく受け入れてくれて、彼のベッドの半分を与えてくれた夜から、私は彼の赤ちゃんになったのです。
 
どなたか私をトムソン君がしてくれたようにこなごなにしてほしいのです。私は40歳、160cm、68kg。肌がきれいだと、トムソン君が言ってくれました。
 
 
どんな仕事をされていた方なのか。黒人青年を助手にしていたというこの人、願いどおりになったのだろうか。
 

 
●滋賀県・大津市・I
 
君の寂しそうな澄み切った瞳が、ぼくの胸を騒がせる。君の赤いくちびると、真夏の香りでいっぱいの浅黒い肌が、ぼくの心をはやらせる。清い果実のような君、ひとりでは世間を渡っていけないような君。そんな君がぼくの愛の対象なのだ。
 
初めて大津に住んで、右も左も分からないと満たされない思いがつのっていくだけ。東京に住んでいた頃は、多少しかるべき場所を知っていたので、孤独に悩むことはほとんどなかった。だが今は皇子山で運動して汗を流し、帰ってきてベッドに横になって眠るだけ。
 
むなしいというか、健全というか、性的不満が高まっていくだけなのだ。
 
夜が白むまで快楽の時を過ごしたい。あらゆるテクニックを使って何度も絶頂感をあじわいたい。君の赤いくちびるが浅黒い肌が、そしてたくましく大きい君自身が、ぼくのものと一体になって、限りない愛の世界へと昇華していく。これこそがぼくの求めている愛の姿なのだ。
 
 
地方に住んでいる人は、すぐ会える理想の男と出会うことは難しかったのでは。

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2020年1月 6日 (月)

ネットで『薔薇族』創刊号から読めるように!

昭和49年(1974年)という年は、東京都物価は、前年比20%を越す狂乱物価、1973年の地価上昇は過去最高32・4%。空前のゼネストで2日間マヒという時代だった。
 
『薔薇族』第15号(昭和49年1月刊)の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「また新しい年を迎えます。今年は日本にとっても、『薔薇族』にとっても大変な年になりそうです。インフレと物資の不足、物価の急騰で雑誌を続けることの難しさを痛切に感じます。
 
第二書房は創立25年、戦後のなんにもない時代に、会社を創立し、一向に大きくならないけれど、誰にも迷惑をかけずに今日まで続けてきました。
 
浮き沈みの激しい出版界にあって、なんとか続けてこられたのは、社員を使わなかったからです。出版の仕事は大きくやるか、ひとりでやるかです。今のような出版物だとなおさらです。何人か社員がいたら『薔薇族』は出せなかったでしょう。
 
現在は家族みんなが力を合わせて、手伝ってくれています。社員といえるのは藤田竜さんだけ。ぼくは企画・編集・営業から本運びまでの一切、父は経理と荷造り、母は郵便局へ行ったり、女房は文通欄を子供を見ながらやってくれ、姉もこのごろ手伝いに。
 
家族ぐるみの雑誌作りというわけ。だから読者の秘密は外部にもれることはないし、その点は安心し、信頼しきっていただけると思います。ちょっと大変だけど当分はこの態勢で頑張ろうとはりきっています。そのほうが読者のためにもなることだから……。だから日曜も夜もないけれど、朝9時前の電話と、夜中の電話だけはかんべんしてください。
 
皆さんにも喜んでもらいたいのですが、ぼくが育った木造二階建ての家がボロボロになってしまい、返本の重みで床が抜けてしまい、どうにもならなかったのですが、いよいよ一月の末には三階建ての鉄筋で小さな建物ですが完成します。
 
それが世田谷学園の同じクラスの友人、蟹江尚司君の設計、施工は秀建設の加藤五十吉君、電気工事も同じクラスのバレー部のキャプテン、鐘広電気の久保田真昭君と、友人たちが力を合わせて建ててくれています。
 
三階の大広間も読者が集まれる部屋にしたいと思います。美輪明宏さんが豪華な門灯を贈ってくれました。ゲイの世界を少しでも明るくしたいという願いをこめてのものです。門灯の明るい光が、きっと読者のひとり、ひとりの胸の中にさしこむ日が、きっと近い将来にやってくるに違いありません。
 
家族だけでなく、この雑誌を続けていくための大きな力になっている、藤田竜君の偉大な才能にも拍手をおくってください。また絵、小説などを贈ってくれている皆さんにも感謝の気持ちと、お礼をのべさせていただきます。」
 
文通欄への投稿数も、北は北海道から、南は沖縄までの読者から、295人にも増えている。それらに寄せられる手紙も、月に3千通を越しているが、それをひとりでひきうけていた女房に感謝。
 
こんなに多くの人が利用している通信欄は日本の雑誌の歴史にもなかったことだろう。
 
先日も電話で、40歳を過ぎた地方の妻も子もいる読者が、生まれて初めて文通欄を通して仲間ができてセックスしました。こんなにすごい刺激は初めてでした。と、声をはずませて聞かせてくれました。
 
写真も波賀九郎さんが登場し。小説も笹岡作治さん、楯四郎さんも力作を寄せてくれた。ページ数も122ページと増え、内容も充実してきていた。
 
針金とじの時代の『薔薇族』をネットで若い人たちに読んでもらえるようにしたいものだ。

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2020年1月 4日 (土)

88歳のぼくに2度目の革命が!

東京新聞を愛読しているが、朝刊に「東京物語」というコーナーがあって、女優の十朱幸代さんが登場している。
 
昭和40年度(1965年)の秋の芸術祭参加作品になった、ぼくと心臓病で亡くなった妹、紀子(みちこ)原作が日活で映画化されたとき、『ぼくどうして涙がでるの』で初めて主役となり熱演してくれた。
 
妹は2度目の手術で、32歳で男の子、2人を残して亡くなってしまったが、十朱さんの記事を読んでいると、妹が生きているような気持ちになってくる。
 
東京新聞12月24日の朝刊に、毎月一回「東京新聞読者の生活情報紙・暮らすめいと」1月号が入っていた。その1面に「街の唄」というコーナーがあって、(哲)さんという記者が「駅ピアノ」と題して書いている。
 
「駅の雑踏からピアノ演奏が流れてきた。広場の片隅にピアノがあり、椅子にちょこんと座った男の子が懸命に弾いている。軽快で情感こもる音色。うわさに聞く「駅ピアノ」だ。弾き終わると、周囲から大きな拍手が沸いた。聞けば小学1年生で、曲はショパンのワルツとか。やるねえ。思わず感嘆。
 
「駅ピアノ」は外国の鉄道駅や、空港に置かれ、誰もが自由に弾いたり、歌ったりできるピアノ。BSテレビの人気番組で、ご存知の方もいよう。それが東京の駅にも登場したわけだ。
 
男の子に続き女性や若者も挑み、心和ます曲が喧騒の駅広場に響いていく。
 
音楽は心の治癒薬ともいう。今やスマホ依存症は深刻で、事故やトラブルになる場合も多いと聞く。時には演奏や風景を楽しみ、心の洗濯が必要と思うのだが、しょせんは「大きなお世話」と言われるのがオチか。」
 
なんでこんな記事に目がむいたかというと「ピアノ」だ。最近知り合ったTさん。72歳の方だが、ピアノの調律(日本に6千人もいるそうだ)と、古いピアノの修復と音を作る仕事をされている方だ。
 
ドイツで修復の技術を勉強されてきた方で、古いピアノを修復できる人は、日本に数えるほどしかいなくて、Tさんはそのトップに立っている。
 
ぼくはハモニカもふけないし、音楽の知識はまったくない。Tさんは音楽の話となると、限りがない。
 
「令和」の年号の考案者、中西進さんが、各大学の短歌愛好者が集まった歌会で当時、東大国文科の2年先輩の中西進さんが、駒沢大学国文科の学生で、劣等感のかたまりだったぼくの作品をなんと絶賛してくれた。
 
それからのぼくの人生は、自信をもって生き続け、次々と日本で最初という仕事をこなしてくることができた。
 
令和2年で88歳で米寿を迎えんとするぼくが、Tさんとの出会いで、音楽に対して目を向けるようになった。
 
安物のデッキで石原裕次郎の昭和の名曲を歌ったCD(5枚セット)を購入し寝る前に聴いていたが、TさんがすばらしいヘッドホーンとCDデッキを購入してくれた。
 
革命とも言える耳に飛び込んでくる音色。
 
裕次郎の甘く、やさしい心が伝わってくる歌の伴奏のピアノや、いろいろの楽器の音色が聞き分けられる。この年になって初めて知ることができた。Tさんに感謝。
 
ベヒシュタインピアノで弾く、ピアニスト、川村奈美子さんの演奏会にも連れて行ってくれた。
 
下北沢の駅も、今かわろうとしている。区長は文化あふれる街というが、ピアノの音が流れてくるような駅にしたいものだ。

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