あえいでいるか「朝日新聞」
ぼくは朝日新聞の力を借りて、いい仕事を残すことができた。ぼくの末の娘・紀子が、1962年夏の20歳のとき、心臓の僧帽弁の開きが悪くなる僧帽弁閉鎖不全症で、東京女子医大の心臓病棟に入院した。
手術日が決まっても先生の都合で延期になることが何回もあり、妹はいらつき、やけくそになっていた。
ぼくは考えて朝日新聞の読者の投稿欄「読者のひろば」というところに「妹に激励の手紙を」というタイトルで投稿した。
すぐさまぼくの投稿をとりあげてくれた。このコーナーは全国版で、今の時代には考えられない、我が家の住所から、病院の住所、病室の番号まで載っていた。
個人情報なんてうるさいことを言わなかったよき時代、病院に守衛もガードマンもいない。出入りも自由だった。
妹は401号室、女性ばかりの6人部屋だった。そのころの朝日新聞の力は絶大だった。
朝刊に載ったので代沢の我が家まで、妹を激励する人が午前中から何人も来てくれた。翌日からは病室に手紙が続々と寄せられてきたではないか。病室に花束を持ってくる人もいた。
妹は手紙を読んで感動し、手術の日まで頑張らねばという気持ちを持つようになってくれた。
その後、妹の手術は成功し、あと10年は生きられると医師に言われた。
401号室に子供部屋が満員なので、5歳の男の子が入院してきた。芳っちゃんは頭の良い子でひらがなも読めた。生まれつきのファロー4徴症という心臓病だった。
401号室の女性たちの話だけでは本にはならない。芳っちゃんとぼくとの心の交流が物語を生んだのだ。毎日のように仕事の帰りにスクーターを病院の前に置いて病室を訪れた。
芳っちゃんはぼくが行くと、病室を飛び出してきた。すっかり芳っちゃんと仲良しになっていた。
病棟は高台にあるので、新宿の夜景がよく見えた。アサヒビールのあわがでてきてはまた消えていくネオンや、ホテル「本陣」のお城のような建物を、くもるガラスをふきながら、芳っちゃんと眺めた。
ぼくは芳っちゃんのことを、いくつも詩に書いた。「ぼくどうして涙がでるの」という最後の言葉を残して、手術の甲斐なく、芳っちゃんは天国に旅立ってしまった。
あんなに悲しかったことはない。この悲しみをぼくらだけのものにしてはいけない。本にして全国の人たちにも読んでもらいたい。心臓病で苦しむ人たちのことを少しでも知ってもらいたいと本にして出版することにした。
朝日新聞は、紀子の手術後、「紀子さんよかったね」というタイトルで記事にしてくれた。その反響はすさまじかった。
あらゆるマスコミが、次々と記事にしてくれ、ついに日活が映画化してくれることになった。
本はベストセラーになるほど売れ、映画もヒットした。
時代は変わり、いまの朝日新聞は、あえいでいる。2020年3月23日の朝刊は30ページ、その中の1ページ広告がなんと14ページ、夕刊は10ページで、1ページ広告が2ページ。広告だらけで読むところがない。面白い記事もない。
あえいでいる姿が紙面からただよってくる。お世話になった朝日新聞。ぼくも購読することにした。がんばってもらいたいものだ。
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