« 2020年3月 | トップページ | 2020年5月 »

2020年4月

2020年4月27日 (月)

一枚の写真から、いろんな思い出が…

A_20200414112501

この写真を見て今どきの若者には、なんの写真か理解できないだろう。

 

中央に座っているのは駒沢大学の教授、森本治吉先生だ。森本先生は万葉集の研究者で歌人、斎藤茂吉のお弟子さんで、歌誌「白路」の主宰者でもある。

 

日本の敗戦が昭和20年の8月15日、ぼくが駒沢大学の予科1年に入学したのが、昭和23年の4月のことだ(1948年)

 

2年になったときに新制大学に制度がきりかわった。この写真はおそらく、それから2、3年経ったころのものだろう。

 

ぼくが着ているオーバーは、父の一番下の弟、和平おじさんが(軍隊に入りニューギニアに送られて、戦死(餓死)した)が残してくれたものだ。

 

ぼくは文芸部の部長をやっていて、森本先生は文芸部の顧問を引き受けてくれていた。今は建物は新しく建て替えられているが、その頃の校舎は中庭があって、落ち着いた風格のある校舎だった。

 

文芸部の部屋は、なんと廊下をベニヤ板で区切っての部屋だから、電灯はつけられないからろうそくが何本も立てられている。もちろん暖房設備などあるわけはない。全員がオーバーを着たままで、手前の方には七輪が置いてあり、豆炭を入れて暖を取っていた。

 

文芸部員のほとんどは地方出身者で東京の出身者はぼくだけだ。今、生き残っているのは、3月19日で米寿を迎えた、ぼくだけだろう。

 

世田谷学園も、駒沢大学もコネで入れてもらった。父が戦前勤めていた第一書房で世田谷学園の学長から、駒大の総長、永平寺の管主にまでなられた山田翠林さんの著書『禅学読本』を手掛けていたので、母親に連れられて、山田先生のお寺を訪ねた。山田先生のつてで、世田谷学園に入れてもらい、駒大にも入学することができた。

 

英語も数学もできないのだから、国文科に入るしかなかった。国文科の教授には、『広辞林』の編纂者の金澤庄三郎先生、平家物語の研究者、富倉徳二郎先生、樋口一葉の研究者で有名な塩田良平先生、などもおられた。

 

本を読まないぼくは、国文科に入ったものの万葉集も、源氏物語も、読んだことはない。ただ森本先生に短歌を作ることだけを教えてもらったことだけが、ぼくの人生を変えることになったのだから不思議な話である。

 

駒大の文化部には10いくつのクラブがあった。その中でも児童教育部が部員の数が多く、都内の寺院を借りて、子供たちを集め曹洞宗の布教を行っていた。

 

学校からの予算は15、6万円。それを分け合うのだから大変。夜おそくまで部長が集まり、分配を決めるのだが、少しでも多くもらおうと思うから、なかなか決まらない。文芸部は1万円もらうことになったが、当時の1万円は価値があった。

 

「猿が京温泉」の安宿は、2食つきでひとり分500円、決算報告などしないのだから、何に使っても文句は言われない。

 

部員5、6人で一泊旅行に。ガリ版刷りだが「駒沢文学」も戦後初めて復刊させたりもできた。

 

授業には出ずに、この寒い部屋でたむろしていることの方が多かった。写真の一人一人の顔を見ていると、いろんなことが思い出される。

 

戦後初めて大学祭を開き、宣伝部長を務めたことがあったが、学生数は700名ぐらい。休みと言うと帰省してしまう学生も多いから人が集まらない。

 

ぼくは看板書きが得意だったから、立て看板をいくつも書いて、玉電沿線の電柱にくくりつけて歩きもした。一枚の写真からいろんな思い出が……。

B_20200414112501

| | コメント (0)

2020年4月25日 (土)

創刊のときも、廃刊のときも騒がれて!

昭和46年1月30日刊・隔月刊第1巻第2号11月号(1971年)に、ぼくは『薔薇族』を創刊してと題して書いている。

 

『薔薇族』が2004年11月号No.382で廃刊した時、朝日新聞の小泉信一記者が夕刊に『薔薇族』廃刊と報じてくれたら、その日の夕方にテレビ・ラジオ・新聞・週刊誌とあらゆるマスコミが押しかけてきて、大変な騒ぎになったことがある。外国の特派員まで取材に来たのだから。

 

どんな雑誌でも廃刊になるときは、静かに消えていくものなのに……。

 

創刊したときも、一流の週刊誌が取り上げてくれた。

 

「世の中にホモの人がたくさんいるということを『薔薇族』で知って安心しました。この世に生まれて25年を過ぎても、異性に恋こがれる気持ちにならず、反対に若い男性にのみ魅力を感じてしまうのです。

 

自分は精神異常者ではないだろうか。精神鑑定をしてもらわなくてもいいだろうかと、最近悩むようになり、苦しんでいた矢先に書店で貴誌を知り、拝読したときは嬉しくて涙を流したぐらいです」

 

三重県の松坂市に住むKさんからこんな手紙をもらいました。おもいきって『薔薇族』を創刊してよかった。あの暑かった7月・8月も日曜日も休まずに打ち込んでしまったけれど、とうとう子供を海へも一度も連れて行かずじまいだったkれど、たくさんの人によろこんでもらえてうれしさでいっぱいです。

 

藤田君をはじめ数人の人たちの努力で、これからもすこでしでもいい雑誌を作ってゆき、みんなで発言し、みんなで悩み、みんなで考える雑誌に成長させていきたいものです。

 

7月の末に創刊号が出るやいなや、マスコミがいろいろな形でとりあげてくれました。

 

週刊ポストがまずとりあげ、まさかと思った週刊朝日も書いてくれたのには、正直にいってうれしかった。平凡パンチそれに東京スポーツが、1ページを使って特集し、週刊文春が「ポルノ時代の旗手たち」というワイド特集で、「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。一流の週刊誌が真面目に取り上げてくれたことは、なによりの喜びだった。

 

それにこの種の雑誌は小さな書店の片隅で、ひっそりと売られるのが当たり前のようであったが、初めて大手の取次店である東販、日販が仕入れてくれて、新宿、渋谷の紀伊国屋書店、銀座の旭屋、それに一流デパートの書籍売り場にも堂々と並べられたことは、今までにないことだけに、これは隠花植物とされていた薔薇族が一歩、陽の当たるところへとび出したといってもいいだろう。ただ並べられただけでなく、それが大変な売れ行きで銀座の大雅堂書店をはじめ、数件の書店で1ヶ月に500部を売り切ったということはちょっと例のないことだろう。

 

しかし、地方の書店へはあまり配本されなかったこともあって、大阪の一読者から10数軒の書店を探し求めて、やっと手に入れた喜びを知らせてくれましたが、それこそ北は北海道から南は九州まで、あらゆるところから電話の問い合わせが殺到し、うれしい悲鳴をあげた毎日でした。

 

創刊号の文通欄には、7人の人たちしか載せられなかったが、2剛には一挙に60人の仲間を求める手紙が載せられたのですから、これに手紙が続々と寄せられたら、どういうことになるのか、気が遠くなるような思いですが、仲間を求める切実な手紙を読むと、なんとかしなければと思うばかりです。

 

批判の声もありましたが、ホモでない人間がホモの人たちのことを考えたことがあったでしょうか。ぼくはその人たちにそうたずねたいのです」

 

| | コメント (0)

2020年4月20日 (月)

父を憎んでいるわけではない!

父、祷一にこんなやさしい面があったとは。祖父、伊藤冨士雄が救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教する団体)の将校として、苦界に苦しむお女郎さんを身体をはって、千人近くも廃業させた。

 

53歳でこの世をさった祖父、冨士雄の死を悼んでの「亡き父に捧ぐ」と題する原稿用紙7枚の手記だ。

 

岩手の山奥に育った無学の母親を馬鹿にして、浮気の限りを尽くしていた父。こんなやさしい面があったとは。

 

今でも忘れることはできない。父の母に対する暴力。父の気持ちも分からぬでもない。戦時中、1万円、2万円の生命保険をせっせとかけていたのに、敗戦後、貨幣価値が変わってしまって紙屑同然になってしまった。

 

郵便局の保険勧誘員のすすめで、母は簡易保険に入ってしまった。それを知った父は激怒、髪を掴んで引きずり回し、なぐる、けるの暴力。

 

母と一緒にもう窓口が閉まっていた郵便局の裏口から入って、契約を取り消してもらった。今でも忘れることはできない。そんな父が亡き祖父に捧げた手記。

 

「あなたのお写真と、あなたに対する哀悼の辞が、2、3の新聞紙上に出ました。

 

あなたの大好きな小さい弟(和平おじさん。ニューギニアで戦死、いや、餓死)は、『お父さんの写真だ』と言って、私や母の前にその新聞を広げました。私たちは新しい涙をその上に落とさねばならなかったのです。

 

父上、あなたは私たち兄弟のことを何よりもご心配になっていました。ことに一番小さい弟を愛しておられました。

 

そしてお馬になったり、お話をしたり、遊びになくてはならない相手でした。あなたをなくした弟の心はどんなでしょうか。

 

私はまだ何事も知らない、いたいけな弟をみるたびに涙なしではいられないのです。

 

父上、あなたは私のことをご心配になっておられました。私は行くzのない弱い人間です。卒業後の就職口について、私のために色々とお心にかけてくださいました。そしてA会社の課長さんをたずねられたり、M会社の知人にお頼みになったりして、八方に私のためにおつくしくださったのでした。

 

私はあなたの死後、そのことを知って心からありがたく思ったものでした。あなたは死を予期していたのです。きっとあなたは死が目前に迫っていることを知っていたのです。だからこそ私たち兄弟のために、ひとしお愛情をそそいでくれたのです。今、考えると感慨無量です。

 

父上、私があなたに恩返しもしないうちにあなたは、この世をお去りになりました。しかし、決してあなたは死んだのではないということを確信しています。あなたは一生涯を信仰によって神に奉仕なさいました。そしてあなたは凱歌をあげて、栄誉ある勝利者として神の膝元においでになったのです。

 

あなたの手によって、みじめな境遇に悩む数多くの女性を解放されました。ある人はあなたのことを「自廃の闘将」と言わしめました。またある人は「人道の戦士」だと言われました。いずれにしてもあなたは社会のためにおつくしになったのです。生命を恐れずに戦ったのです。

 

あなたは悲しみのどん底をさまよう、可憐な女性たちのために、何物をも惜しまなかったのです。(後略)」

 

父にこんなやさしい気持ちがあったのか。空々しく聞こえる。母が肺病で入院している時も、一度も見舞いに行かなかった。妹が心臓病の手術で入院している時も、一度も病院に行かなかった。父が亡くなった時、ぼくは、ああ、死んだかと思っただけだ。

| | コメント (0)

2020年4月18日 (土)

彼のPとお見合いを!

1983年『薔薇族』10月号の人生薔薇模様のコーナーに載っていた「高校2年生のときの夜」と題する、東京都オバQの弟君からの投稿だ。

 

「初めて投稿します。ぼくは22歳。今、思うと自分は変態ではなかったかと、思ったりもしています。

 

自分自身がホモだと思い始めたのは、中学生の頃だったと思います。そのころからかわいい男の子がいると、彼の裸を想像したり、彼を思わず抱きしめてやりたいなどばかり思っていました。

 

中学生のときは水泳部に入っていたのですが、その目的はずばり男の裸が見られるからです。

 

それからぼくは高校生になりました。ぼくが通っていた高校は、1年おきにクラス替えがありました。幸いなことに1年、2年、3年と、それぞれのクラスにひとりか2人、ぼく好みのかわいい男の子がいました。

 

ぼくは彼らを意識して友達になろうと、努力しました。彼らもいい人で、みんなぼくの親友になってくれました。もちろん彼らはぼくがホモだとは知りません。

 

彼らと話するときは、クラスの女の子の話などして楽しんでいました。高校2年の親友のY君を家に泊めることになったのです。

 

そのときぼくは彼に「家になんでもあるから、何も持ってこなくてもいいからね」と言いました。そしてぼくは自分の部屋に布団をふたつ並べました。

 

彼が熟睡しているときに、いたずらしてやろうとばかり考えて、「お酒でもちょっぴり飲んでみようか」と言い、彼も「いいね」と言って、彼にビールを1本くらい飲ませました。自分は飲んだフリをして、まったく飲んでいませんでした。

 

また彼に貸すパジャマのズボンのボタンをわざととっておきました。それとは気づかずに彼はそのパジャマに着替えました。

 

 彼があぐらなどして座ったりすると、パジャマのズボンから彼の白いブリーフが丸見えでした。白いブリーフのふくらみを見て、ぼくはドキドキしました。彼はそれを恥ずかしがっていましたが、ぼくは話をそらしてごまかしていました。

 

そして1時ごろでしょうか、寝ることにしました。彼はビールを飲んだのは、2度目らしく少し酔ったみたいでした。

 

それからぼくは2時間くらい布団の中で胸をドキドキさせて、彼が寝るのを待っていました。そして夜中、寝ている彼に少しずつ近づいていました。彼はすやすやと少しいびきをかいて寝ています。

 

ぼくの右手は眠っている彼のPに少しずつ近づいていきました。そして彼のPをやさしくなではじめました。すると彼のPは大きくなってきました。次にぼくは彼のPを一度みたくなりました。彼はとてもかわいい顔をしている170cmぐらいの男のでした。

 

ぼくは布団の中に隠し持っていた懐中電灯を使って、彼の布団の中に潜り始めました。そしてぼくの顔の前に彼の下半身があるところまでさがりました。彼のPはまだ大きいままでした。おもわずパジャマのズボンを下げました。

 

ぼくはどきどきしていました。もし、彼が起き出したらどうしようと思いながらも、ぼくの両手は彼のブリーフまで下ろしていたのです。

 

彼のPはかわいい顔をしていました。ぼくは10分近くの間、彼のPとお見合いをしながら話したり、触ったり、またかぶっていたPの皮まで少しずつむいたりして、彼のPをおもちゃにしていました。最後にお別れのキスをして、彼にブリーフ、パジャマをはかせて、何事もなかったように。」

 

高校2年生のときの良い思い出だね。

| | コメント (0)

2020年4月13日 (月)

東京の堅気の家へ奉公口を探すからと

昭和5年6月10日発行の中央公論者刊『娼妓解放哀話』から、ぼくは何編もブログに紹介させてもらった。

 

救世軍の大尉(軍隊組織でキリスト教を布教させる英国・ロンドンに本営を置く)だった祖父、伊藤冨士雄(大正12年に53歳で病死)から聞いた話を作家の沖野さんが本にしたものだ。

 

「沖野さんが祖父から話を聞いているところへ、日比谷署から電話がかかってきた。

 

受話器をカチリとかけた伊藤君は、帽子を手にとって「君、参考のために一緒に行ってみよう」

 

「なんです?」

 

「東京駅に誘拐されたらしい、3人の田舎娘が泣いていたのを連れてきてあるから、救世軍の方で引き取ってくれないかと言うのだ」

 

「誘拐した男はつかまったのでしょうか」

 

「ねえ、行ってみなければわからないが」

 

それから4週間後に伊藤君に会って、3人の田舎娘の話を聞くと、伊藤君はこんなことを言った。

 

「3人の娘は奈良県の月ヶ瀬梅林付近の生まれで、都会へ出たい、出たいと思っているところへ、4年前にその村から東京へ出て、洲崎の梅川楼で娼妓を勤めているうちに、関節炎で片足の自由を失ったため、廃業して、そこで働いている妓夫の妻になった女が、千住三の輪の新開地に銘酒屋が、5、6軒できたので、郷里から若い娘をうまくだまして連れてきて、ひともうけしようと企んだのだね。

 

そこで関節炎夫婦は奈良県へ行って、嘘八百を並べ立て、東京の堅気の家へ奉公口を世話するからと、親たちをだまして、旅費まで出させて連れてきたんだが、東京へ着いたその晩から14歳と15歳の3人の小娘に淫売をさせたんだよ。

 

たった40銭ずつでさ。かわいそうな娘たちは、あまりの意外さに驚いて、すぐさまその銘酒屋を飛び出そうとしたが、さて道はさっぱりわからず、ふところに一厘のお金もないので、かわいそうに3人は、15日間、そこでひどい目に遭わされたのさ。

 

そのうちにとうとうひとりの娘が、そこを逃げ出して、東京駅までたどりついたが、一文無しでどうすることもできず、大声をあげて泣き出したんだ。

 

それで駅内の巡査が取り調べた結果、まだ二人が三の輪の銘酒屋にいるということが知れ、早速その関節炎夫婦を呼び出し、厳重に取り調べたすえ、娘たちを日比谷警察署へ連れてきて、ぼくのほうへ引き渡してくれたんだ。

 

ぼくは早速病院へ連れて行って診察を受けさせると、もう強度の疾患を受けていた。そこで治療を受けさせて、郷里へ送り返してやったが、関節炎夫婦は誘拐罪で、2年と1年の懲役に処せられましたよ」

 

「そうですか。上京したときすぐつかまればよかったのに」

 

東京監獄から年齢20歳ぐらいの夫人を拘留してあるのだが、だれひとりよるべもない憐れな身だから、救世軍の婦人ホームで引き取ってくれないかとの典獄からの手紙があったので、出監日の時をたしかめて、監獄の裏門へ行って待ち受けていると、ほどよく定刻に婦人は看守に見送られて出てきた。伊藤君は典獄の手紙を見せて、とにかくひとまず本営まで行って相談しようと言った。

 

女は非常によろこんで、伊藤君について少し歩いたと思うと「まあ」と言って立ち止まった。見れば横合いから筋骨たくましい土方風の男が出てきて、「おい迎えにきたよ」と元気な声で言った。

 

「じつはお恥ずかしい話ですが、これは私の夫でございます。」と。

| | コメント (0)

2020年4月11日 (土)

ころんでもけがをしないは、うそだった!

昨年のことだが、世田谷学園(母校)の柔道部が創部百周年の立派な記念の本を出した。柔道部の同窓会の会長さんにたまたま出会って、エッセイを書いてくれと頼まれてしまった。

 

戦時中のことだ。中学1年生の時、講堂館の7段か8段の花桐先生にわずかばかりだが柔道の受け身を習ったことがあった。そのおかげで歳をとってから3回転んだことがあったが、花桐先生に受け身を教えてもらったおかげでけがひとつしなかったという話を書いたことがある。

 

それは嘘っぱちで、ただ運が良くてけがをしなかっただけのことだ。88歳の米寿を祝う会を三軒茶屋の銀座アスターで開き、この新型コロナウイルス騒ぎの中で、50人ものひとたちが参加してくれてよろこんでいた束の間、長いこと前立腺肥大で、夜トイレに4、5回起きることが数年続いている。もうなれっこになっていて、トイレも近いし、それほど気にはしないのだが、少しでも睡眠時間を長くしようと思って睡眠薬をかかりつけの医師から処方してもらっているのだが、少しの間は効果があるが、しばらくすると切れてしまう。

 

何日か前に強い睡眠薬を出してもらった。それを飲んだら効果がありすぎて、翌日、ぼうっとしてふらふら状態に。3度も転んでしまった。

 

1度目は下北沢の駅前のスーパーに買い物に行って、帰りに座れるところが店の前にあるので、座ろうとしたら、ふらふらとよろけて倒れてしまった。起き上がることができない。幸い人が多いところだから、親切な若者が手を引っ張って立ち上がらせてくれた。日本はまだまだ親切な人がいる。ありがたかった。中国では人が倒れていても誰も知らんふりしていると新聞で読んだことがあるから。

 

その日は我が家で2度も転んでしまったが、今度大学に入学する男の子の孫が助けてくれて、けがもなかった。

 

頭を打ったらしくて、左の頭を指で触ると、はれてもいるようで指で押すと痛い。どこで転んで、どんなふうに頭を打ったのか、まったく記憶がない。

 

88歳まで生きて来て健康でいられるので、みんなに羨ましがられるが、耳は聞こえなくなるし、足腰も弱って杖をついてやっと歩いている始末だ。でも生きていることはたしかだ。周りを見渡せば、みんなあの世に旅立ってしまっているのだから。

 

ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村(人口8千人)に、平成5年に「ロマンの泉美術館」をオープンさせた。

 

フランス、イギリスの家具や、照明器具を使い、ぼくの美意識、感性を集大成させた美術館だ。長くは続けられなかったが、多くの人たちを楽しませることはできた。美術館に何度も来てくれた新潟県知事の平山征夫さんが、米寿を迎えたぼくにお祝いの手紙を送ってくれた。

 

「一生懸命生きて来たご褒美だと思います。『薔薇族』という道の真ん中を歩けなかった人たちに優しい目を向けられて来たご褒美でしょう。年月は残酷ですから、誰にも死をもたらしますが、伊藤さんについてはずっと先にしてもらって、もう少し人生をエンジョイしてください。それだけの価値のある人生を送ってこられた人に対する神の配慮をと願っています。」

 

今は平山征夫さん、引退されているがありがたい言葉なので、祝う会の冒頭に息子の嫁の知恵さんが司会の役をやっていて読み上げてくれた。

 

ついに今日我が家の前で転んでしまい立ち上がれなくなっていたのを通りがかった若者が助けてくれた。初めてひたいに傷を負ったが、軽くて済んだ。脇腹も押すと痛い。気をつけて歩かなくては。

| | コメント (2)

2020年4月 6日 (月)

男同士の愛は永続きしない

「30代に入ってそれまで築いたもののすべて、人間のつながりすべてを投げ捨てて、男と駆け落ちする切羽詰まった気持ちとはどんなものだろうか。
 
そしてその果て、無一文のひとりぼっちになって、裸から人生をやり直す羽目になったときの心情はどんなくるしさなのだろうか。
 
話の主人公は松本の健ちゃんだ。この春までバー「あっちこっち」で、ひょうきんにしていた健ちゃんは、見てくれは軽いし、話の結末は世間でよく聞くたぐいのものだから、ま、そうは深刻にならないけれど、当人はしんどいストーリーで。
 
健ちゃんは15歳のとき、すぐ近所のおじさんにいたずらされた。そして10年男とはなにもなかった。男には関心があったのだが岡山の田舎町ではホモ雑誌は売ってないし、第一そんな雑誌があることすら知らないのだから、男とデキようがなく、21歳で結婚し、子供を二人もつくってしまった。
 
そのしばらく後、古本屋で『薔薇族』を発見し、この同じ空の下に、とんでもない男同士の世界があることを知って、息が止まるほど驚き、そして喜んだのだ。

 

もうすぐ広告にあった岡山市のバーに行った。福山の店にも行った。そこで高松の人を知って、高松に行き居ついてしまう。遅咲きのせいか「吉備」というバーを始めるまでに男同士の世界にのめりこんでしまった。

 

そこに客として来た同い年のタクちゃんと、生まれて初めての恋に落ちる。そしてわけがあって、貯金を使い果たし店を売り、妻子を捨て故郷を捨て、タクちゃんと手に手を取って東京へ出る。だが暮らせない。そうして二人で流れていったのだが、知る人の一人もいない松本で、もうここでふんばるしかないと、二人で住み込みの仕事をし、頑丈な健ちゃんは夜を日について肉体労働をしたりとにもかくにも店をもとうと、食費も切り詰めて頑張った。

 

愛する人と一緒に店をやる。二人の愛は、やがて実って、好条件の店を手に入れることができた。

 

『薔薇族』に広告を出し、長野県ではたった一軒の二人のホモ・バーはそれなりに好調に、松本の夜の中で育っていった。

 

ああ、だけど、どうして人間ってこうなのだろう。せっかく常連客がつき、旅行者も寄ってくれるまでになったのに、あれほど激しく思いあった二人の気持ちは、いつの間にか冷えてしまった。

 

営業中は二人がカウンターの中に入って、入ればそこに身につけた愛嬌で客には感じさせないけれど、二人の間には風が吹いていた。でも営業中はまだいい。店の上の部屋で寝たり、昼の時間を過ごすとき、ギクシャクしてしまう。愛し合って三年あまりで、お互いの気に入らないところが目につくようになって、ひとたびそうなれば、人間は誰だって急にいろんなことが許せなくなる。口喧嘩の数も増えた。

 

悩み始める前になんとかしなければと二人は思った。初めの約束ではタクちゃんが出ていくことになっていた。だがややこしいいきさつがあって、結局、健ちゃんが飛び出ることになってしまった。

 

とび出ることになってはしまったが、先立つものはない。心ある友人はみんな反対した。それは松本で店を続けていればとりあえずは生活できる。妻子への仕送りも少しだがしてこられた。だが、ザラザラした気持ちにはこれ以上は耐えられない」

 

まだまだ話は続くが、この話は藤田竜さんが聞き出した話だ。ホモの人って二人の愛は長続きしない。竜さんとルネさん何十年も一緒に暮らしたのは、なぜだったのか。

| | コメント (1)

2020年4月 4日 (土)

同性愛者の父をもって生まれたなら!

ぼくが初めてテレビに出演したとき、司会をしてくれた人だ。最初のモーニングショウで、嫁同士で何人かおしゃべりし、次の日には姑同士がおしゃべりし、嫁と姑のいたばさみになっている男性を募集するテロップが流れた。

 

まさにぼくは嫁と姑のいたばさみの男性なので電話を何度もかけたが通じない。もうやめようとあきらめかけていたが、もう一度と思ってかけたらつながった。

 

出演することになった。今の世の中、嫁と朱止めと一緒に住んでいる人はいないようだ。その司会をしていた人が先日なくなった。ある新聞に2回にわたって、女性記者がインタビューしているが、あのときの司会者は結婚していて、子供さんもいる、それに奥さんはある方面で本もたくさん出され、テレビにも出演している有名な方だ。

 

だが彼はゲイだ。それは間違いないが、それを隠し通していたのか、奥さんが知っていたのか、どちらかだろう。そのインタビューは二人の仲睦まじさが描かれている。まさに理想の夫婦だ。奥さんが教養があって、仲良く暮らしていたから、記事に書かれているような感動的な夫婦になっていたのだろう。

 

1997年7月号の『薔薇族』の「編集室から」に衝撃の書というべき本の紹介が載っていた。内藤ルネさんの師匠というべき中原淳一さんの息子さんの告発の書だ。

 

中央公論社刊の「父、中原淳一」がそれだ。

 

淳一さんが亡くなられて週刊誌が取材しにくる。あの『フォーカス』の取材は、その目的が淳一さんが同性愛者であったかどうかを確認するためのものだった。彼らは予備取材を充分に済ませてきていて、遺族の口から直接言質が取れたなら、直ちに記事にするという態度がありありだったという。

 

息子さんは「絶対に父は同性愛者ではない」とフォーカスの記者に言明した。

息子さんはこうも書いている。

 

「生まれついての少数派に属する者で、自己を悩み疑い、葛藤しない者がはたしているだろうか。彼らはそれを隠していれば罪であり、明らかにすれば、それもまた罪となるのである。

 

彼らが自らを悩み疑うことをやめたときとは、自らが、あるいは社会によってか、いずれにせよ、彼らが少数者でなくなったということである」

 

息子さんはある時期に、お父さんである淳一さんが同性愛者であるということを知ったに違いない。またそれを否定する気持ちとの葛藤が長く続いたのだろう。でも、秀れた芸術家としての父を尊敬し、愛してもいたのだ。

 

告別式の時、息子さんはこう述べている。

 

「父はこの世を去りました。けれどその父の血はいままさに、なおぼくたち遺族の身体の中を流れています。ぼくたちは、その父の血が流れる身体と精神において、父を継承してゆきます。」

 

その挨拶の真意をこう説明もしている。

 

「父が亡くなった今、ぼくの身体の中を流れる血以外、生きた父のものは、もはや何も残されていない。

 

もし人がそれを奪おうとするのなら、このぼくを殺すしかない。しかし、もし人がぼくを殺すならば、その血も失われ亡びる。もはや誰にも生きた父のものを奪うことはできない。」

 

病気で倒れた淳一さんをシャンソン歌手の高英男さんが10何年間もひとり世話をし最後までみとられた。この間、家族は数回しか会えなかった。同性愛者の息子として生まれたその時代の悩みや、苦しみはどれほどのものだったのか。

| | コメント (1)

« 2020年3月 | トップページ | 2020年5月 »