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2020年4月27日 (月)

一枚の写真から、いろんな思い出が…

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この写真を見て今どきの若者には、なんの写真か理解できないだろう。

 

中央に座っているのは駒沢大学の教授、森本治吉先生だ。森本先生は万葉集の研究者で歌人、斎藤茂吉のお弟子さんで、歌誌「白路」の主宰者でもある。

 

日本の敗戦が昭和20年の8月15日、ぼくが駒沢大学の予科1年に入学したのが、昭和23年の4月のことだ(1948年)

 

2年になったときに新制大学に制度がきりかわった。この写真はおそらく、それから2、3年経ったころのものだろう。

 

ぼくが着ているオーバーは、父の一番下の弟、和平おじさんが(軍隊に入りニューギニアに送られて、戦死(餓死)した)が残してくれたものだ。

 

ぼくは文芸部の部長をやっていて、森本先生は文芸部の顧問を引き受けてくれていた。今は建物は新しく建て替えられているが、その頃の校舎は中庭があって、落ち着いた風格のある校舎だった。

 

文芸部の部屋は、なんと廊下をベニヤ板で区切っての部屋だから、電灯はつけられないからろうそくが何本も立てられている。もちろん暖房設備などあるわけはない。全員がオーバーを着たままで、手前の方には七輪が置いてあり、豆炭を入れて暖を取っていた。

 

文芸部員のほとんどは地方出身者で東京の出身者はぼくだけだ。今、生き残っているのは、3月19日で米寿を迎えた、ぼくだけだろう。

 

世田谷学園も、駒沢大学もコネで入れてもらった。父が戦前勤めていた第一書房で世田谷学園の学長から、駒大の総長、永平寺の管主にまでなられた山田翠林さんの著書『禅学読本』を手掛けていたので、母親に連れられて、山田先生のお寺を訪ねた。山田先生のつてで、世田谷学園に入れてもらい、駒大にも入学することができた。

 

英語も数学もできないのだから、国文科に入るしかなかった。国文科の教授には、『広辞林』の編纂者の金澤庄三郎先生、平家物語の研究者、富倉徳二郎先生、樋口一葉の研究者で有名な塩田良平先生、などもおられた。

 

本を読まないぼくは、国文科に入ったものの万葉集も、源氏物語も、読んだことはない。ただ森本先生に短歌を作ることだけを教えてもらったことだけが、ぼくの人生を変えることになったのだから不思議な話である。

 

駒大の文化部には10いくつのクラブがあった。その中でも児童教育部が部員の数が多く、都内の寺院を借りて、子供たちを集め曹洞宗の布教を行っていた。

 

学校からの予算は15、6万円。それを分け合うのだから大変。夜おそくまで部長が集まり、分配を決めるのだが、少しでも多くもらおうと思うから、なかなか決まらない。文芸部は1万円もらうことになったが、当時の1万円は価値があった。

 

「猿が京温泉」の安宿は、2食つきでひとり分500円、決算報告などしないのだから、何に使っても文句は言われない。

 

部員5、6人で一泊旅行に。ガリ版刷りだが「駒沢文学」も戦後初めて復刊させたりもできた。

 

授業には出ずに、この寒い部屋でたむろしていることの方が多かった。写真の一人一人の顔を見ていると、いろんなことが思い出される。

 

戦後初めて大学祭を開き、宣伝部長を務めたことがあったが、学生数は700名ぐらい。休みと言うと帰省してしまう学生も多いから人が集まらない。

 

ぼくは看板書きが得意だったから、立て看板をいくつも書いて、玉電沿線の電柱にくくりつけて歩きもした。一枚の写真からいろんな思い出が……。

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