« 2020年4月 | トップページ | 2020年6月 »

2020年5月

2020年5月30日 (土)

花田紀凱さん、ボケてきたか心配だ!

『月刊・Hanada』の編集長・花田紀凱さんとの出会いは古い。花田さんが週刊文春の記者だったころからだ。

1971年に『薔薇族』を創刊した時に取材に来てくれたのが最初だから、半世紀の歳月が流れている。

 

それからぼくは本を出すたんびに出版を祝う会をホテルで開いたが、いつもかかさず参加してくれた。

 

彩流社から出版した『やらないか』の出版を祝う会は、銀座に一軒だけ残っていた、キャバレー「白いばら」を借り切って、盛大に催したが、参加してスピーチをしてくれた。

 

いつまでも残しておきたいキャバレー「白いばら」は、建物が老朽化してきたというので、長い歴史に幕を閉じてしまった。ぼくらの年代には、忘れられない華やかなキャバレー「白いばら」。生バンドの演奏、訓練されたダンサーたちのショウと、楽しかった。

 

新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ人を多く集める集会はやめたほうがいいと、周りの者に言われたが、ぼくは2020年3月20日に、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく・文ちゃんの米寿を祝う会」を開くことにしてしまった。

 

チラシを息子の嫁に印刷してもらい、出欠を書くはがきを入れて、100人近い友人たちに発送した。なんと一番早く出席のはがきを送ってくれたのは、花田紀凱さんだった。

『リベラルタイム』に、花田さんは「盛大に行われた米寿を祝う会」と題して記事を書いてくれている。

 

「緊急事態宣言が出る前のことだが、三軒茶屋の東天紅で伊藤文学さんの傘寿を祝う会。

 

正論大賞パーティ、和田誠さんを偲ぶ会等、次々に中止になっているさなかだったが、開催されるというので出かけた。

 

案内をもらった時、出席の返事を出すと、伊藤さんからすぐにハガキが届いた。

 

(打てばひびくというけれど、こんなに早く出席のハガキが送られてくるとは。花田さんが一番先。うれしいな。スピーチの最初は花田さん、よろしく)

 

「ぼくは雑誌編集者としてたくさんの人に会ってきました。だけど伊藤さんくらい純粋な人は会ったことがない。この齢になっても、少年時代、青年時代の純粋さを失っていない稀有の人です。『薔薇族』という、当時は世間から後ろ指さされるような雑誌をこれだけ長く続けてきたのも(現在はネットのみ)伊藤さんの彼らを思う純粋な気持ちからでしょう」

 

ちょっと遅れたため一番最初とはいかなかったが、ぼくはこんな話から始めた。(中略)

 

会はオペラ歌手の北村哲朗んの朗々たる歌があり、LYLAさんとそのお弟子さんたちによるベリーダンスがあり、楽しい三時間であった。

 

「好きなことをして、この齢まで生きてこられた。そして今日、50人もの人が集まってくれました。ぼくは幸せ者です」

 

伊藤さんらしい謙虚なお礼の挨拶であった」

 

ほめられてうれしかったが、「傘寿」は80歳のお祝い、それと会場は「銀座アスター」を「東天紅」に。

 

花田さん、78歳。ぼくの女房と同じ齢だ。

 

ぼくの「傘寿」のお祝いの会は、銀座の「まじかな」で開き、花田さんもきてくれたではないか。ぼくのことを10歳も若いと思っての思い違いならいいのだが。「銀座アスター」より「東天紅」のほうが「格」が上の中華料理のお店ならそれもいいけれど?

 

Img_5903_20200510122901

10歳ちがいの花田さんとぼく

 

★コメントをぜひ!

| | コメント (0)

2020年5月25日 (月)

稲垣征治君は少年愛者の心の支えだった!

『薔薇族』のスタッフで生き残っているのは少年愛者の稲垣征治君だけだ。1997年・No.299・12月号から「少年愛万年鏡」のページが始まっている。

 

稲垣君も78歳ぐらいだろうか。家賃の安い団地で弟さんとふたりで、僅かな年金で生活している。

 

『薔薇族』誌上では、少年愛の読み物にはイラストを書いてくれたし、少年愛の読み物も数多く書いてくれたから、少年愛の読者の心の支えになってくれたことは間違いない。

 

今でも少年の絵を毎回書き続けているようだが、今年に入って血液のガンが見つかり、いい医師に出会って治療を受け、元気を取り戻してきているようだ。

 

彼の少年の絵が売れればいいのだが、今の世の中、少年の絵を売ることは難しい。

 

「少年時代の私は博多湾の海沿いの街で育った。戦後、台湾からの引揚者であったわが家は、父が職を求めて上京し、母がバーの雇われママをして生計を立てていた。

 

私の思春期前から不在がちだった父に親しめなかったのに比べ、やさしく美しく生活力のある母への愛情は格別であった。

 

両親に対するこのアンバランスな愛情の持ちようは、私の一生を左右したといっていい。私は母の性である女性を、おのれの性浴の対象から除外してしまったのだ。

 

もちろん、こんなことが当時理解できたわけではない。数十年を経て母が亡くなってわかったことである。

 

男ばかり3人兄弟の次男であった私は、性格的には柔弱であったけれど、そのころの男の子たちと同じように、暗くなるまでとびまわって遊ぶ平均的な子供だった。

 

体格も学校の成績も平凡で、目立つところは無いはずだったが、なぜだか性的体験だけは人並み以上だったようだ。自慢できない体験が……。

 

対照的な二つのシーンを思い出す。一つは初恋の相手。級長をしていたその子は、垢抜けたハンサムでスポーツ万能、クラスのヒーローだった。その子と相撲をとるときなど、いつもいつまでも組みついていたかった。そんないじらしく幼い片思い。

 

もう一つはオナニーを覚えたころの夏の夜のこと。小さな弟をつれて近くの映画館に行くのに、私は強い性衝動にかられ、浴衣の下のパンツをわざと脱いで出かけたことがあった。

 

小学生の男の子がどうしてと思われるだろうが、私はとっくに知っていたのだ。銭湯や映画館で、私の性器にさわろうとするある種の大人たちのことを。

 

大胆にも座席の暗がりで、わざと股を開いて待ったのに、隣の男はそんな大人ではなかった。私は映画を楽しんだだけだった。

 

日本が貧しかった時代、映画は娯楽の王様だった。不思議と封切館でも、三番館でも、その手の男に出会った。場末の映画館のトイレの匂いの漂う座席で、初めて射精までさせられたときのことは、今でも鮮明に覚えている。

 

中学一年の秋、雨の日だった。戦争映画に見入っているとき、股間にあるかなきかの感覚、ジンジンと性器にに染み込むような感覚が迫ってきた。

 

「あっ、来た」と私は思った。眼の下に男の手が浮いている。顔はスクリーンに向いてはいても、意識は股間に集まり固まってしまった私。そろそろとズボンの前が開けられてゆく。引出されたペニスは、やわやわとさすられ揉まれて、いまだかつて味わったことのない官能の渦の中でもうろうとなったとき、熱くしびれきった腰の中心を激烈な快感が走り抜けた。」

 

残念?ながらぼくにはこんな経験はない。性的な魅力がなかったのだろうか。

 

★コメントをぜひ!

| | コメント (1)

2020年5月23日 (土)

三軒茶屋はぼくの憩いの街だ!

昭和26年3月25日刊(1951年)の『現代詩鑑賞』大正期だけが書棚に残っていた。69年も前の本だから、悪い紙なので日に焼けて茶色く変色している。

 

ぼくがまだ駒沢大学に在学中の頃で、父親が企画したものだ。編集者に笹澤美明さんの名前がある。確か笹澤さんは、わが家からも歩いて20分ぐらいの池の上あたりに住んでいた。

 

当時の詩人たちは、みんな貧乏暮らしだった。親父がいくらぐらい印税を払っていたのかはわからないが、親父のことだから僅かの印税だろう。

 

ぼくはこの頃から親父の使い走りをsいていたので、ほとんどの詩人たちの家に、ゲラ刷りを持って行ったりしているので会っていた。

 

今はすべての人がこの世にいない。笹澤美明さんの息子さんは、後に流行作家になった笹澤佐保さん(1930・11・15〜2002・10・21)『木枯紋次郎』が代表作で、380冊もの本を出している。

 

お父さんは貧乏詩人で苦労をして息子さんを育てたのだろう。ぼくの妹から聞いた話だけど、笹澤美明さん、よく親父のところにお金を借りにきたそうだ。ケチな親父はお金を貸すわけがない。ぼくの母親が追いかけて行って、僅かばかりのお金や、お米などをあげていたそうだ。

 

朝9時からの「時代劇専門チャンネル」で笹澤佐保原作の「木枯紋次郎」が、しばらく放映されていた。主演は中村敦夫さん。左のほほに刀きずがあり、いつも長いようじをくわえている。なんでようじをくわえているのという質問には、たんなるくせだといつも答えている。

 

 

今、思い出せないが、名監督が演出、もしくは監修していての映像が美しい。ワンカットずつが絵になっていて見事だ。

 

いつまで続くことやら。新型コロナウイルスの感染騒ぎで、テレビも新聞も新型コロナウイルスの報道ばかり。新聞など読むところがないから、見出しだけしか見ていない。

 

そんなうっとうしい時代、年寄りは外に出るなと言う。狭い部屋にとじこもってばかりはいられない。

 

午前中は時代劇専門チャンネルのご厄介になって「木枯紋次郎」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」と見続けている。

 

今や江戸時代の長屋に住んでいるような気分になっていて、義理と人情に厚い長屋のおかみさんとも親しくなっていて世間話に夢中だ。

 

午後からはブログを2時間ぐらいかかって書き上げると、ポストに投函しに出かけ、バスはタダで乗れるので、三軒茶屋に出かける。

 

駒大に通っていた時代は、バスなんか走っていなかったから、砂利道を歩き、途中に両側に畠があって、その真ん中の細い道を通り抜けて、三軒茶屋の商店街に入ると僅かばかり。コンクリートで舗装されていた。

 

 

 ひとつ顔を思い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず

 

 

という短歌の作品を残したことがあったが、その頃は今のようなコンクリートで固められた舗道ではなかったので、ところどころ軟らかいところがあった。

 

小学校で1年下の阿部弥寿子さん、美しいセーラー服の高校生で、同じ道を通り、駒沢にあり駒大と同じ曹洞宗経営の駒沢学園に通っていた。たまに出会うと胸をわくわくさせて、あとをつけたものだ。

 

この三軒茶屋の商店街、ぼくが駒大に通っていた時代から残っている店が何軒かある。花屋さんもそうだし、楽器店のガラス越しに色の白い美しい奥さんの姿を見かけるのが楽しみだった。陶器屋さんもその当時と同じで、きちんと並べられていない。ごちゃごちゃに並んでいる。4年も通った三軒茶屋は忘れられない街だ。

 

★コメントをぜひ!

| | コメント (1)

2020年5月18日 (月)

吉本の芸人さんたちをビッグにするために!

1999年No.320『薔薇族』9月号の表紙は、なんと吉本の若い芸人たちが表紙を飾っている。「シャンプーハット」「ガレッジセール」「アップダウン ライセンス」の8人だ。

 

「有名になろう」と。そのためには「雑誌メディアを征服する」という途方もない計画を立てた。どこの雑誌社を訪ねても取り上げるわけがない。

 

週刊誌の編集部でも「ビッグになって、また来てね」と、すげない返事。そして最後にやってきたのが『薔薇族』編集部。ところがテレビに顔を晒してもいいというのは、編集長のぼくだけ。

 

「『薔薇族』の表紙にのせてください!」という彼らの願いに、ぼくは即座に「いいですよ」と約束してしまった。

 

それからすぐにロケバスに乗って、上北沢の松沢精神病院の裏手にあるスタジオに向かう。バスの中で「松沢行きだね」と言っても、関西の連中だから、そのギャグが通用しない。その存在を知らないのだから、どうにもならない。

 

スタッフの一人が、どの子が一番良いですか、とそっと耳打ちするから「カメラマンが一番魅力的だね」と答えてしまった。カメラマンは、いわゆる普通の男性で、からだもがっしりしていて、肌の色も浅黒く、仕事に打ち込む姿は美しい。第一、目がキラキラと輝いている。

 

お笑いコンビたちが悪いというわけではに。みんな若いし、「有名になろう」という気持ちと、それよりも芸人根性というか、そのへんの若者とは違う。バイタリティがある。どんなことでも嫌がらないで、チャレンジする逞しさを感じる。

 

突然のことなのでカメラマンを頼めない。編集長のぼくがカメラマンに。人間の肌ってライトに照らされて汗をかいてくると、だんだん美しく輝いてくる。それに若いからだって肌がきれい。

 

じっくりとひとりずつ写真を撮れればいいが、番組の進行の中で撮るしかないのだから、写真としていいものが撮れるわけがない。

 

ぼくもだんだんのってきて、さかんにギャグを連発したのだが、放映されたテレビを夜おそくまで起きていて、ねむい目をこすりながらみたが、みんなカットされていた。お笑いタレントがくすんで見えてはいけないという配慮なのかも?

 

テレビでの番組(日本テレビの深夜番組・毎週火曜、深夜1時45分からの30分「吉本ばかな」)で放映された。

 

ごく普通の週刊誌の編集担当者を相手にお笑いネタを披露する場面が続き、それが一転する気配が画面に漂い、お笑い芸人たちが息をのむ男のヌード・イラスト画が登場! そこが『薔薇族』の編集部だということは、瞬時に推測が及んだのだが、テレビの画面は、ここで改めて正式に『薔薇族』315号の表紙が登場するや、編集部の中は驚きの声が充満!

 

編集長にいとも簡単にOKの返事をもらったお笑い芸人さん、一瞬気が抜けたご様子だったが、ここから事態は急展開して、早速始まったのがお笑い芸人のヌード写真撮り。

 

編集長自らがカメラを構えて、ポーズの要求や、モデルを指名するシーンもしっかり映し出されて、最後に『薔薇族』の誌面を飾る写真の数々が披露される。めでたし、めでたしのエンドぶり!

 

放映後、翌日からかかってくる電話は若い女性ばかり。ファンがたくさんいるのでびっくり。彼らが有名タレントになったとき、薔薇像の表紙を飾ったことをホコリに思ってくれるだろうか?

 

★コメントをぜひ!

 

| | コメント (5)

2020年5月16日 (土)

体育大学のシャワールームに潜入して!

昭和62年(1987年)に、『薔薇族』の増刊号として『季刊・小説薔薇族』を刊行している。これは売れなかったらしい。創刊記念号とあるが、これ1冊で続かなかったようだ。

 

巻頭に「けだるい春」と題して、藤田竜さんの自宅で撮影したのだろう。美しい男性ヌード写真で、オチンチンはモロ出しだ。

 

「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。

 

「朝日新聞の学芸欄の囲み記事にこんなことが書いてあった。日本でも純文学を読む人が少なくなって、大手の出版社でも赤字で純文学の雑誌をつづけているようだ。

 

アメリカの文壇でも同じような状態で、その記事によると、文芸家協会の幹事会の席で出た話で、アメリカの純文学の世界では、読者のほとんどがゲイの人で、ゲイの人によって支えられているという。

 

日本の話は出てこなかったようだが、これは知らないからで、日本でも同じことだと、ぼくは思っている。少し風変わりでセンスの良い人は、ほとんどがゲイの人だ。もちろん、本人に聞けば、違うと言うのに決まっているが……。」

 

この号に面白い記事が載っていた。「前人未到!? ついに体育大学・シャワールームに潜入成功!」と題して。

 

「ある体育大学のシャワー室と、体育大学寮の近所にある銭湯へテレビカメラを持ち込んで、隠し撮りしまったのだから驚きである。

 

前人未到『薔薇族』読者なら誰しも一度はのぞいてみたいだろう。この撮影に成功したA君。成功の影に涙ぐましい物語というか、トレーニングの積み重ねだ。

 

こんどのビデオだって潜入してやろうとおもって、いきなりシャワー室にというわけにはいくまい。そのためにはスポーツをまったくやらないA君だけど、いかにもスポーツマンになりきることが大事なのだ。

 

銭湯はお金さえ払えば誰だって入れるが、運動部員が使用するシャワー室に入り込むには度胸が必要だ。トレーニングが終わって、三々五々、汗まみれ、泥まみれになってラグビー部員、相撲部員、空手部員と入ってくる。

 

A君はこうした体育大学のシャワー室に入り込んで、今までは一緒にシャワーを浴びてくるのが趣味だった。こうした長い間の経験から、ビデオを撮ろうと思いついたのだ。

 

A君は1時間も、2時間もシャワーを浴びているのだそうだ。それを見て、入ってきた連中が口々に「オーッス!」と挨拶するから、こっちも「オーッス!」と答えておけばいい。

 

ノンケさんって、男の裸を見て喜んでいる男がいるなんて考えもしないから、「お前の黒いけど、俺のなんかピンク色だぜ」なんて自慢したり、「お前、ホクロあるけど、アソコにホクロある奴ってスケベなんだってさ」とか、練習が終わってホッとして、それぞれ楽しそうにしゃべっている。そんな会話までバッチリと入っているのだ。

 

A君の守備範囲は3大学に及んでいるそうだが、まだまだ冒険は続きそうだ。それにしても一度も見つかりそうになる危ない目に遭わないというから不思議といえば不思議。

 

プロなればこそ、隣にどんな素敵な男がシャワーを浴びていたって、すぐに興奮してモコモコなどしないそうだ。あくまでも冷静に沈着でなければできないことだ。

 

それにしても、とんでもない奴が出てきたもんだ。早く買わないと、肖像権侵害ならぬ肖チン権侵害で訴えられてしまうかも。

 

2時間もシャワーを出しっぱなしなんだからビデオが売れたら、学校当局に水道代ぐらい払いな。」

 

いい時代だった。ぼくが書いた記事のおかげでビデオが大売れ。A君たちまち財を成してしまった。

| | コメント (0)

2020年5月11日 (月)

いろんなフェチの人がいた時代って!

長谷川サダオ君、忘れられない人だ。すばらしいイラストを描き続けてくれたし、世界中の雑誌や、写真集から見つけだし、毎月びっくりするような話を紹介してくれた。

 

タイのバンコクのホテルで自殺してしまったと聞いたときはショックだった。50代だったろうか。東京を経つときから準備をしていたようだ。

 

イギリスだったか、長谷川サダオの作品集が本になっているから、海外でも長谷川サダオの名前は知れ渡っている。

 

ぼくが新宿のQフラットビルの2階に「伊藤文学の談話室」をオープンさせたときに、畳1枚分くらいの大きな、ふんどし姿の絵を描いてくれたことがあった。

 

狭い下宿の部屋で描いたのであろうから、こんなに大きな絵は、これが一点だけだろう。我が家でもこんな大きな絵は飾っておけず埼玉県鳩ヶ谷市辻606-2 鳩ヶ谷スカイハーツ907号室 TEL048-283-1267 私設美術館・荻崎正広コレクション・ゲイ・アートの家に、この作品は展示されている。入館料は700円。毎日オープンしているわけでないので、電話で問い合わせてから訪ねるといい。

 

こんなにゲイ・アートを集めた人はいないから貴重な私設美術館だ。

 

1985年・4月号に長谷川サダオ君が、「フェチシズムは時代の反映である……。昔のエロ本を読んで妙に感動してしまった話」と題して書いている。

 

「昔のエロ雑誌に『奇譚クラブ』というのがあって、これに告白手記募集で入選した鼻責めマニアの男の手記があった。これがなんとも異様で面白い。これぞヘンタイの極め付きって作品。

 

この手記は鼻にローソク突っ込んで熱さに耐えながら書かれたものだという。

 

「鼻中隔を麻紐で縛って何度か山へ登ったことを覚えています。初めはおそるおそる周囲を見渡して、誰もいないことを確認して始めるのですが、いったん、麻紐が鼻へ、すすり込まれていくと、妙に度胸が座り、時には全裸になって、大声を上げ、牛の鳴き真似をしたりしました」なんてのは序の口で、「鼻中隔の穴に草花を通し、鼻の周りを生花で飾って夜の街を歩くこと」、「鼻孔へ煙草を2本差し、鼻で煙草を吸うこと」、「鼻でミルクを飲むこと」「アヌスからのご馳走を鼻につめ込むこと」ーなどと信じられんような世界が展開する。こうゆうのって、本人が真剣になればなるほど、滑稽に見えるもので、その辺の感じがとってもよく出ている。

 

「アヌスからのご馳走を鼻に詰め込む」の章には「詰め込んだだけでは、ただ息苦しくなるだけですので、詰めたあと、その真ん中へヨウジか、マッチ棒で細い孔を通すことにしています。するとそこから空気が吸い込まれふくよかな香りで卒倒しそうな感激を味わうことができるのです。その感激を味わいながら、新しいご馳走を少しずつ、ちぎって食べるのです。ほろ苦いけど、ねっとりとしたコクのある味が口中いっぱいに広がって、鼻孔の香りと調和してくれます。

 

それにしても、こんなことをする私はやはり変態なのでしょうか」と書かれている。私は変態でしょうかもないものだ。国宝級のドヘンタイでっせ!

 

まあ、今どきこんなマニアはいないんじゃないかと思ったら、先日、ぼくの友人が、20歳ぐらいの鼻責めマニアの男の子と遊んだというから、絶滅しちゃったわけでもなさそうだ。

 

こういう人たちは貴重な生証人だから、国で天然記念物みたいに保護してあげたい。

 

赤い腰巻に感じるとか、お灸の後に感じるとか、昆布のフンドシに感じるというのもあって、フェチというのは、その時代の風俗環境をストレートに反映するものなんだなあと感心してしまった。そういえば切腹フェアというのもあった。」

 

今どきの時代、奇人・変人がいなくなって、人間みんな小つぶに。フェチの人がいろいろといた時代っていい時代だったのでは。

| | コメント (0)

2020年5月 9日 (土)

人との出会い、雑誌との出会い、因縁のような!

『薔薇族』の古い老け専の一読者から電話がかかってきた。「『サムソン』がとうとう廃刊になりましたよ」って。

 

藤田竜さんとともに『薔薇族』の廃刊後、『サムソン』の編集部に移って、表紙絵を描き、編集長として活躍してきた三上風太君、よくぞ頑張ってきたものだ。

 

雑誌って部数が3千部ぐらいに落ちても、少人数でやれば出し続けることはできる。『サムソン』は年配者が読む雑誌で、ネットをつかえないような人が読んでいたから、続けられたのだろう。三上君が出すようになってからの『サムソン』って見たことがないので、どんな雑誌だったのだろうか。

 

『薔薇族』以外の後から出てきたゲイ雑誌すべてが静かに消えてしまった。『薔薇族』は創刊した時も、多くの週刊誌が記事にしてくれたし、廃刊になったときは朝日新聞が「『薔薇族』廃刊」の報を伝えるや、その日の夜はあらゆるマスコミが押しかけてきて大変な騒ぎになってしまった。その違いはなんなのだろうか。それは日本で最初のゲイ雑誌だったからだ。

 

1985年No.147・4月号の「伊藤文学のひとりごと」の2ページのコーナーに、「『薔薇族』との初めての出会い」と題して書いている。前にもブログにも書いたかもしれないけれど、忘れられない話なので紹介しよう。

 

「鹿児島県の一青年からの手紙です。この青年は5年ほど前、高校2年生のとき、学校への通学の途中、駅まで線路伝いの道を通っていたのです。ある日のこと。いつものように線路伝いに歩いていると、線路と道路の間の柵の中に、一冊の本が落ちているのに気がついたのです。

 

おそらく電車の窓から落としたのでしょうか。表紙の方が上に向いて落ちていたというのも不思議といえば不思議です。裏表紙が上になっていれば出会いはなかったのだから・・・。

 

木村べんさんのイラストの表紙で、スキーをしている青年の表紙絵だったそうです。そのときなんとかして手を柵の中に入れて取ろうとしたけれど、金網にさえぎられて本を取り出すことができなかったのです。

 

その夜、ペンチをもって本を拾いにいったというのだから大変な執念です。とうとう柵の一部をペンチで切り取って本を拾い出したのです。

 

青年はこう書いています。

 

「今から考えれば、ずいぶんなことをしたように思うのですが、そのとき手に入れておかなければ『薔薇族』という雑誌を手にするのは、もっとあとのことになっていたと思います。

 

『薔薇族』というホモ雑誌があることは、それ以前から知っていましたから、本屋を探したりしたこともあったのです。でも一度も本屋の店頭でお目にかかったことがなかったのですから。もう執念でした。でも不思議なもので、そのことがあってから、それまでいくら探しても見つからなかった『薔薇族』を売っている店も、すぐに見つかったのです。

 

それ以来(と言っても受験のために買えなかった時期もありましたが)毎月購読しています。」

 

この青年が初めて金網の柵の中から拾い出して、『薔薇族』を家に持ち帰り、読んでいる姿が浮かんでくるようです。

 

ひとり、ひとりの読者の『薔薇族』との最初の出会い。もし雨でも降ってボロボロになってしまえば、この鹿児島の青年は『薔薇族』との出会いはなかったでしょう。

 

因縁みたいなものを考えざるを得ないのです。こんな思いをして、この雑誌を買ってくれた読者のひとりひとりが幸せになってほしい。ぼくはそう願っているのです。」

 

コメントをぜひ書いてください。正直なところを書いていて励みになるので。

| | コメント (0)

2020年5月 4日 (月)

88歳のジイさんの心配することではない!

新型コロナウイルスの感染が拡大している。お国は必要でない外出は控えろと言う。88歳のぼくだって、狭い部屋の中にとじこもってはいられない。

 

東京都シルバーパスをいただいているので、バスはどこにいくのも無料だ。三軒茶屋は世田谷区内でも、一番感染率が高いところだから行くなと女房や、息子たちに言われてしまう。

 

一昨日、しばらくぶりに毎月「文ちゃんと語る会」を催している、カフエ「織部」に立ち寄ったら、なんと喫茶部門は休業しているではないか。のどがかわいているので、水だけ出してもらって、日経新聞を読んで帰ってきた。下北沢には年寄りが立ち寄れるところはなくなっている。

 

三軒茶屋は茶沢通りを走って、駒沢陸橋に行く小田急バスが、十分おきにあるので、昨日は三軒茶屋に買い物に行ってきた、スーパー「西友」は品揃いも豊富だし、下北沢のスーパーに比べて安い。ガラガラをもって行ったので、いろんなものを買ってしまった。

 

筋向かいの大きなカフエ「コロラド」には、スポーツ新聞が何種類も置いてある。「サンケイスポーツ」の一面には、5月に催される新国立競技場での「嵐」の公演が中止と大きく載っている。大きな損害だろう。

 

新型コロナウイルスもこわいが、ネット依存症もそれ以上にこわい。

 

2020年4月15日の朝日新聞朝刊生活欄に「子のスマホ依存 責めない声かけを」と題して、ネット依存に詳しい東京医科歯科大の治徳大介講師に、戸田政孝記者が話を聞いて記事にしている。

 

朝日新聞がこうした記事を載せるということは、子供たちが長い長い思わぬ休みに、生活のリズムをこわし、ゲームに走ることを心配しての記事だろう。

 

「今回は急に長期の休みが始まったため、外出の自粛もあり、スマホを過剰に使用するリスクが上がっています。

 

ルールを決めることが大切です。朝起きてから夜寝るまでをどう過ごすのか、家族で話し合って決めておく。」と言われるが、わが家の孫を見ていると、完全に夜と昼をとりちがえている。

 

ぼくは夜中にトイレに何度も行く。12時、2時、4時、夜が白む頃に孫は寝床につく。昼過ぎに起き出して、シャワーを浴び食事をして、またゲームだ。

 

5月に大学の授業が始まるというが、すぐに生活を切り替えることができるのだろうか。悲観的な考え方だが、高校はきまった授業を受けるだけだが、大学は自分で単位をとる科目を選ばなければならない。

 

時間的には大学の方が自由に時間を使える。スマホ依存症を克服しなければ、午前中の授業は受けられない。単位をとれずに2年生になった頃に、中退ということになってしまう。それから先は、ぼくが生きているわけではないから、本人、親が決めることだ。

 

治徳先生は言う。「子供からスマホを取り上げるのは絶対にダメです。そうした状態になっているのには何らかの理由があります。まずは「どんなゲームにはまっているの」「どんなところが面白いの」と聞いてみてください。

 

反抗期やコミュニケーションが難しい場合でも、会話の糸口になります。その上でどう制限していくか考えていくのがいいでしょう。

 

相手を責めるのではなく、「私」を主語にして思いを伝えてください。「なんでそんなにゲームしているの?」ではなく、「私はあなたがそれだけゲームをしているのが心配だよ」という言い方にするだけで、ポジティブに聞こえます。」

 

これは親がすることだ。親も一緒にゲームをしている。これではなるようにしかならないということか。

| | コメント (1)

2020年5月 2日 (土)

秋山祐徳太子さんのヌードモデル写真!

2020年の4月3日、秋山祐徳太子さんが、85歳で他界された。だがこの人の名を知っている方は少ないだろう。

『薔薇族』の創刊号のグラビアページを飾ってくれたのは、秋山さんだった。創刊されたのは1971年の7月号、49年も前のことだ。

 

その頃、男性ヌードの写真を撮影するのは難しかった。創刊号がぼくの手元になく、サイゾーの編集部に渡っていて、今、ネットで見れるように準備中だ。5月にはネットで見れるようになるようなので、期待してお待ちください。

 

内藤ルネさんと藤田竜さんは何十年も一緒に住み、ふたりでさまざまなグッズを製作してきたが、竜さんは陰の存在で、ルネの名前だけで製作され、街に氾濫していた。

 

それが『薔薇族』創刊で、竜さんの雑誌作りの才能が目を開いたと言っていいだろう。単行本しか出版してこなかったぼくは、雑誌作りは初めての経験なので、竜さんが編集長で、ぼくは陰の存在だった。

 

針金とじの時代、隔月刊で何年も続き、竜さんは願望だった表紙絵を書き続け、企画からデザイン、イラスト、写真と多彩な才能を思う存分に発揮してくれた。

 

同じ屋根の下に住んでいたルネさんをぼくに紹介するわけがない。ルネさんを紹介してくれたのはずっと後のことだ。

 

『薔薇族』の創刊号、サイゾーの編集部が探したようだが、どうしても見つからず、ぼくの手元にあった創刊号を使うことになってしまった。

 

秋山さんがモデルになった写真をお見せできず残念だが仕方がない。

 

2020年4月10日の東京新聞朝刊の「大波小波」というコーナーに高輪さんが秋山さんのことを書いている。「前衛とは泡沫である」と題して。

 

「芸術の歴史に跡を留めずとも、実はどの時代にも前衛は存在していた。人に知られなかっただけだ。小生には先のご宣託は、評論家の産物に思えてならない。

 

秋山祐徳太子が今月3日に没した。享年85。「ブリキのジャコメッティ」という綽名のごとく、ブリキを素材に独自の美術作品を作る人だった。この人は「前衛」という言葉を嫌い、「泡沫」と言った。どの時代にも自分を含め、泡沫のように現れては消えていく、無名の芸術家はいるものだと言うのが自説。著書『泡沫桀人列伝』の中で、同時代の奇人、変人、美術家について書き、自費で浅草の劇場を借り切ると、全員集合大会を開催した。

 

秋山は独自の「芸術」行為でも有名だった。キャラメル箱の絵柄にあるランナーそっくりの格好をして各地に出没したり、京都大学のバリケードに潜入して、露台に全裸で立ったりした。極め付けは「保革の谷間に咲く白百合」と称し、70年代に2度にわたり、東京都知事選に立候補したことだ。文字通り、泡沫候補である。だが彼の名前は、戦後美術史に記憶されるべきである。」

 

創刊号のグラビアを飾った秋山祐徳太子さんの全裸ヌード写真、撮影したカメラマンが女好きの人であったために、千葉の海岸で若いモデルと一緒に撮った写真、残念ながら、局部を花で隠してしまうということをしてしまったがために、ゲイの読者には受け入れられなかった。

 

局部のふくらみを表現しなければ、読者に受け入れられないというう致命的なミスを犯してしまった。これはぼくもそのことをカメラマンに指示しなかったのがいけなかった。ぼくもそのへんを理解していなかったからだ。

 

『薔薇族』創刊号の秋山さんのヌード写真、戦後美術史に燦然と輝き、残るであろうことは間違いない。

| | コメント (0)

« 2020年4月 | トップページ | 2020年6月 »