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2020年5月25日 (月)

稲垣征治君は少年愛者の心の支えだった!

『薔薇族』のスタッフで生き残っているのは少年愛者の稲垣征治君だけだ。1997年・No.299・12月号から「少年愛万年鏡」のページが始まっている。

 

稲垣君も78歳ぐらいだろうか。家賃の安い団地で弟さんとふたりで、僅かな年金で生活している。

 

『薔薇族』誌上では、少年愛の読み物にはイラストを書いてくれたし、少年愛の読み物も数多く書いてくれたから、少年愛の読者の心の支えになってくれたことは間違いない。

 

今でも少年の絵を毎回書き続けているようだが、今年に入って血液のガンが見つかり、いい医師に出会って治療を受け、元気を取り戻してきているようだ。

 

彼の少年の絵が売れればいいのだが、今の世の中、少年の絵を売ることは難しい。

 

「少年時代の私は博多湾の海沿いの街で育った。戦後、台湾からの引揚者であったわが家は、父が職を求めて上京し、母がバーの雇われママをして生計を立てていた。

 

私の思春期前から不在がちだった父に親しめなかったのに比べ、やさしく美しく生活力のある母への愛情は格別であった。

 

両親に対するこのアンバランスな愛情の持ちようは、私の一生を左右したといっていい。私は母の性である女性を、おのれの性浴の対象から除外してしまったのだ。

 

もちろん、こんなことが当時理解できたわけではない。数十年を経て母が亡くなってわかったことである。

 

男ばかり3人兄弟の次男であった私は、性格的には柔弱であったけれど、そのころの男の子たちと同じように、暗くなるまでとびまわって遊ぶ平均的な子供だった。

 

体格も学校の成績も平凡で、目立つところは無いはずだったが、なぜだか性的体験だけは人並み以上だったようだ。自慢できない体験が……。

 

対照的な二つのシーンを思い出す。一つは初恋の相手。級長をしていたその子は、垢抜けたハンサムでスポーツ万能、クラスのヒーローだった。その子と相撲をとるときなど、いつもいつまでも組みついていたかった。そんないじらしく幼い片思い。

 

もう一つはオナニーを覚えたころの夏の夜のこと。小さな弟をつれて近くの映画館に行くのに、私は強い性衝動にかられ、浴衣の下のパンツをわざと脱いで出かけたことがあった。

 

小学生の男の子がどうしてと思われるだろうが、私はとっくに知っていたのだ。銭湯や映画館で、私の性器にさわろうとするある種の大人たちのことを。

 

大胆にも座席の暗がりで、わざと股を開いて待ったのに、隣の男はそんな大人ではなかった。私は映画を楽しんだだけだった。

 

日本が貧しかった時代、映画は娯楽の王様だった。不思議と封切館でも、三番館でも、その手の男に出会った。場末の映画館のトイレの匂いの漂う座席で、初めて射精までさせられたときのことは、今でも鮮明に覚えている。

 

中学一年の秋、雨の日だった。戦争映画に見入っているとき、股間にあるかなきかの感覚、ジンジンと性器にに染み込むような感覚が迫ってきた。

 

「あっ、来た」と私は思った。眼の下に男の手が浮いている。顔はスクリーンに向いてはいても、意識は股間に集まり固まってしまった私。そろそろとズボンの前が開けられてゆく。引出されたペニスは、やわやわとさすられ揉まれて、いまだかつて味わったことのない官能の渦の中でもうろうとなったとき、熱くしびれきった腰の中心を激烈な快感が走り抜けた。」

 

残念?ながらぼくにはこんな経験はない。性的な魅力がなかったのだろうか。

 

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コメント

こんにちは、毎度読ませて頂いてます。去年の会合に参加させていただいた者です、御無沙汰しております。ウイルスが落ち着いたらまた会にお邪魔させていただきたいと思います。少年関係の話色々聞けたら良いなと思います。

投稿: | 2020年6月 2日 (火) 16時19分

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