« 2020年5月 | トップページ | 2020年7月 »

2020年6月

2020年6月29日 (月)

「島を返せ!」の叫び声は!

ぼくのことを一番最初に記事にしてくれた朝日新聞の記者、小泉信一さん。先妻の舞踊家、伊藤ミカのことを書いた『裸の女房』も大きな記事にしてくれた。

 

1991年に小泉さんが自ら志願して、日本の最北端、北海道の朝日新聞通信局(現・支局)に95年まで赴いた時に、浅草のバアで送別会が開かれた。

 

ぼくも出席したが、その時くじ引きで当たった掛け時計が、我が家の壁にかかっていて時を刻んでくれている。

 

毎日、新聞も週刊誌も、テレビも新型コロナウイルスのことばかり報道していて、読む記事がない。

 

そんな時に2020年6月8日から12日まで、朝日新聞の夕刊に5回にわたって「望郷の島々 北方領土」が、小泉信一さんの記事で掲載された。

 

1回めは「現場へ! 色あせない桜の花の記憶よ」のタイトルで。根室の支局に5年もいた小泉さんでなければかけない記事だ。

 

「淡いピンクの花びらが海風に揺れる。北方領土の島々をのぞむ北海道根室市。今年のチシマザクラの開花は5月9日。市観光協会によると例年より9日早いという。

 

満開の桜を愛でながら、元島民らと酒を酌み交わした日が懐かしい。1991年から95年まで、私は朝日新聞根室通信局(現・支局)に勤めていた。長い冬を経てようやく訪れた春の喜び。宴席にいた一人がほろ酔い気分で郷里の歌を口ずさんだのを思い出す。

 

  千島恋しや 朝露夜露 島よ還れとなくかもめ」

 

太平洋戦争の敗戦によって、北方領土はソ連に占領されてしまった。ソ連は国は広いけれど使える土地は少ないから、北方領土を返すわけがない。北方領土に自衛隊の墓地ができたり、米軍の基地ができたらソ連は困るからだ。

 

「ようやく根室市の市街地に入ると左側に大きく島影が見えてくる。オホーツク海に浮かぶ北方領土の国後島だ。

 

「へえー、驚いた。こんなに近いんですね」

 

私が根室に勤務していた頃、東京から視察に訪れた政治家の多くが、手をかざしてこんな発言をした。その度に地元では失笑が漏れた。

 

「冗談じゃない。島はずっと同じ場所にあるのに」

 

笑い話のようだが、おそらく今も同じようなやりとりが繰り広げられているのかもしれない」

 

こんな政治家たちがいる日本に、ソ連が北方領土を返すわけがない。

 

「昨年8月。北海道根室市の祭りを訪ねた私は、馴染みの露天商と一緒に夜の街を歩いた。「フルカマップ」「水晶島」……。懐かしいスナックはどこもシャッターが下りていた。「南千島」というキャバレーもあった。「北海の大統領」と呼ばれた大物船主が経営していた店だった。

 

「昔は景気が良かったなあ」と露天商はいう。確かに飲みに行くと札束を懐に忍ばせた漁師によく会った。「今日は国後まで行ってカニさとってきた」。漁師が自慢げに話していたのを思い出す。悪びれた様子はなかった。

 

「あそこは、もともと俺たちの海。どこにどんな魚がいるかはみんな知っている」。そんな思いが強かったのだろう。

 

ロシアは日本漁船の操業に目を光らせ、違反があれば臨検や連行も辞さない。」

 

今ではロシアからカニなど買っているのでは。

 

「島の帰属をめぐって日ソ両政府の交渉が難航している今、立ち止まり、この北辺の町が歩んできた歴史を見つめ直したい」と、小泉信一記者は結んでいる。

| | コメント (0)

2020年6月27日 (土)

ぼくにも「死」が近づいてきている!

2020年5月28日朝日新聞の科学欄に「南アフリカに最古のホモ・エレクトス? 国際チーム(200万年前の頭骨の化石)と題して、「南アフリカで約200万年前のものと見られる原人ホモ・エレクトスの頭骨の化石が見つかったと、南アと米豪伊の国際研究チームが発表した。」

 

ぼくが今、生きている不思議さ。父母がセックスしてこの世に生まれてきた。我が家のご先祖様は、徳川時代の後期までのことしかわからないが、ずっと、ずっと遡っていけば、どこまで続くのだろうか。

 

2020年6月30日の東京新聞夕刊に哲学者の中島義道さんが「コロナが終息しても人は死ぬ」の記事を読んで考えさせられてしまった。

 

「新型コロナウイルス感染拡大という未曾有の状態が続いている。毎日それに捕らえられた人々は感染し、その中のある人々は重症化し、その中のある人々は死ぬ。世の中は突如奥深くなり、いかにも「死」が間近に迫って見えるように思われる。みな「死」を意識して生きているように思われる。

 

しかし、こういう時こそ「死」そのものは最も隠蔽されるのである。「死すべきように定められた」私たちにとって、「死」とはいかなる数にも関係なく、いかなる死に方も関係はない。原爆の投下によって死のうが、餅を喉に詰まらせて死のうが同じことである。いかなる崇高な死もなく、いかなる惨めな死もない。

 

百二十億円の宇宙において、自分の意思でもないのに生まれさせられ、高々百年のうちに死んでしまい、その後に多分永久に生き返らないという残酷な運命は変わらないのだ。

 

コロナが終息しても人は死ぬのである。そして、なぜ死ななければならないのか、その意味はわからないのである。

 

人が生まれ、そして死ぬということ自体が、他と比較できないほど残酷なのである。」

 

中島義道先生のおっしゃる通りだが、これでは人間は救われない。宗教家は人間死んでも天国へ行けると説く。

 

キリスト教も仏教も、イスラム教も、死を恐れる心の弱い人に安心感を与える役目を果たしている。

 

ぼくは昭和30年代から末の妹・紀子が心臓病の手術のために東京女子医大の心臓病棟に長いこと入院していた。

 

昭和25年に日本で初めて心臓手術をした榊原しげる教授が心臓手術をされた。それからまだ数年しか経っていない。

 

毎日のように妹の六人部屋の病室を仕事の帰りに、スクーターを病院の前の路上にとめて訪ねていた。

 

そのころの病院には受付もないし、ガードマンもいない。出入りは自由だった。夕食をみんな食べ残している。「お兄さん、食べていかない」と言われて、残り物を食べてくることがよくあった。

 

次から次へと手術の日がきて、手術室へ運ばれていく。あんなに元気だったのに、次の日には、もう、別の女性がベッドに座っていた。

 

どれだけの人の死と巡り合ったことか。子供部屋が満員で女性六人部屋に入院してきた5歳の坊や。芳っちゃんはぼくになついてくれたので、芳っちゃんを連れて病院の中を歩き回った。

 

帰るときはエレベーターのところまで送ってくれた。芳っちゃんも手術室に運ばれて2度と帰ってくることはなかった。

 

妹のお陰で人間の死というものを達観してみることができるようになった。中島さんの哲学者として「死」を見る目はあまりにも冷たいかもしれないが、ぼくは共鳴することができる。ぼくにも「死」は近づいて来ているのだが……。

| | コメント (1)

2020年6月22日 (月)

今のぼくの心の癒しは、台湾娘と会うことだ!

我が家の近くにカフエ「芳洋」がある。すぐそばをせせらぎが流れていて、そこにエビがにが生息している。そこのご主人が孫が小さかったときに連れていくと、ご主人が紐の先にイカの干物をつけて、エビがにをとってくれた。

 

その頃ご主人は台湾に足繁く通っていて、木彫りの木像を買い込んできて店に並べている。木像だでなく台湾は烏龍茶が美味しいそうで、買ってきて飲ませてくれた。

 

ご主人は脳梗塞で倒れられて、後遺症が残り、何を喋っているのか聞き取れない。今では奥さんがおいしいコーヒーを淹れてくれる。

 

ぼくは台湾には一度も行ったことはない。マニラとソウルには行ったことがあったが、今は泣き邱永漢さんと親しかったので、台湾の話はよく聞いていた。

下北沢の南口で降りて、南口商店街を下ってくると、右側に大きな「王将」がある。その筋向かいに間口一間ぐらいの小さな台湾タピオカ専門店下北沢店がオープンした。

 

A_20200626120401

▲「王将」の筋向かいだ

 

この店、何軒もの店が開店しては潰れている店だ。タピオカってなんのことかと辞書を引いてみたら「熱帯さんのキャッサバという植物の根、茎から取れるデンプン」とある。

 

若い女の子がマスクをして一人で店番をしている。タピオカってどんなものかと思ってはいってみた。太いストローが容器についていて、黒い粒が底の方にいくつも沈んでいる。ストローが太いわけがわかった。太くないと黒い粒を吸い取れないからだ。

 

店の名前は「千禧茶」(SENKICHA)とある。その店の前を通って駅前のスーパーに買い物にいくのだが、一度しか入ったことのない店なのに、カウンターの中の女の子が手を振るではないか。

 

それから店の前を通る度に手を振るので入らないわけにいかない。その女の子、台湾の子で日本語がカタコトしか喋れない。喋れなくても目と目が合えば言葉はいらない。

 

何度か店に入るたびに女の子に親しみが湧いてきた。マスクを外してもらって写真を撮ったが、目が澄んでいて可愛い子だった。

 

お店の社長が考えたキャッチフレーズだそうだが「たとえ君の中で一番ではなくとも僕の中で君は一番なんだ」とある。頭の悪いぼくにはわかったような、わからない言葉だ。誰かこういう意味だということを教えてもらいたい。

 

C_20200626120601

▲意味がよくわからない

 

このお店、北海道の札幌だとか、いろんなところに5軒もあるそうだ。下北沢って家賃が高い。それにも関わらず、潰れてもまたすぐに店を出す人がいる不思議な街だ。

 

新型コロナウイルスの感染を恐れて街へ出る人が少ない。このお店の売り上げもしれている。台湾のお金持ちが経営しているのだろうが、なんとか続けて欲しいものだ。

 

下北沢の商店街って道が狭いから、たくさん人が歩いているように見える。歩いている若者はあまりお金を持たない人たちだ。

 

大学生も宴会など今はしないのだろう。居酒屋の前に多くの若者たちがたむろしていた光景はひと昔も前のことだ。

 

利幅のある古着屋だけでも100軒は越すだろう。南口の商店街だけでも古着屋だらけだ。

 

女の子の前はりゅう・れいさんというそうだ。営業時間は12時〜19時まで。下北沢の街をあるいていても知ってる人に出会うことはない。88歳も長く生きていると、みんなこの世にいなくなっているからだ。

 

ぼくの心の癒しは、美しい目をしたりゅう・れいさんに会うことだけだ。

 

B_20200626120401

▲目が美しいりゅう・れいさん

 

★コメントを是非!

| | コメント (0)

2020年6月20日 (土)

山田洋次さん、大声で笑える映画を!

88年もこの世で生きていると、どれだけの人と出会ったことか。ぼくは学生時代から人を集めることが好きで、いろんな催し物を数限りなく開いてきた。

 

その催し物をきちんと整理して記録に残しておけばギネスブックに載ったかもしれない。学生時代に後に国学院大学の教授になった親友の阿部正路君と、大学歌人会を結成し、ぼくがいろんな催し物を企画した。

 

日本初の同性愛誌『薔薇族』を創刊してからは、10、2、3冊の本を刊行したが、そのたんびに京王プラザホテルで出版記念会を催した。

 

京王プラザホテルの一番広い宴会場で300人もの友人、知人を集めて出版を祝う会を開いたのだからすごいことだ。

 

新宿の「伊藤文学の談話室・祭」での読者を集めての催し物、下北沢のカフエ「イカール館」でのパーティは数えきれない。記憶に残っているのはタバコを吸う人があまりにも嫌われているのに反発して、「煙草を大いに吸おう」という会を催した。専売公社の職員の人もお二人参加してくれて、シャンソン歌手を招き「ベッドで煙草を吸わないで」などを歌ってもらった。

 

あんなに煙草を数人たちが気持ちよく吸っている姿が忘れられない。

 

それから女房の古里、弥彦村にオープンさせた「ロマンの泉美術館」での東京からいろんな人を招いてのパーティも何十回も。

 

死んでしまっては、人々が集まってくれてもどうにもならない。元気な時に多くの人を集めて、しばらくぶりに出会う。

 

古いアルバムを開いてみると、ぼくの催し物に参加してくれた友人、知人たち。ほとんどの人がこの世にいない。

 

有名人とのツーショットの写真もかなりある。貴重なものは、ジャイアンツの長嶋茂雄さんとのものだ。ぼくの母校、駒沢大学の野球部が日本一になった時、どこのホテルか忘れてしまったが、祝勝会があった。

 

駒大卒の中畑清さんがジャイアンツのコーチになったので祝勝会に参加し、長嶋さんをお連れしたのだろう。

 

写真を撮らせてもらったが、ぼくを見下ろして「どこの奴だ」というような顔をしている。その後、脳梗塞で倒れられてしまった。

 

中畑清さんとも撮らせてもらった。他にも大女優の久我美子さん、ご近所に住んでおられたが、最近、家を処分して老人ホームに入られたようだ。

 

今年に入ってからは、長い友人の朝日新聞の小泉信一記者が、週刊朝日に連載したものをまとめて、朝日出版から本になった。ぼくもその本に載っているので、築地の朝日新聞本社の中にあるレストランで出版を祝う会に参加した。

 

ぼくの目の前に山田洋次監督が座られた。1931年生まれで、ぼくと同じ88歳になられる。ぼくにも喋らせてくれたので親近感を持たれたのだろうか。

 

ツーショットの写真で、こんなにに小谷かな表情でカメラにおさまってくれた人はいない。ぼくのお宝のツーショット写真だ。

 

D_20200605213601

 

2020年5月27日の日本経済新聞の文化欄に「コロナと創作」と題して、編集委員の古賀重樹さんがインタビューして記事にしている。

 

新作「キネマの神様」の撮影中に主演俳優の志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のために帰らぬ人となった。

 

今は日に2、3時間、芝居の台本を書く。松竹の先輩である斎藤寅次郎監督風のドタバタナンセンス喜劇だという。

 

そういえばぼくはここ何年も大声で笑ったことがない。山田洋次さん、きっと笑わしてくれる映画を作ってくれるに違いない。

| | コメント (0)

2020年6月15日 (月)

ずんぐり、むっくりの裸の兵隊たち!

蕎麦数彦さん、大阪に住んでいる方で、『薔薇族』の読者でもあり、物事を深く追求するタイプで小説も多く書かれている。

 

『薔薇族』に昭和48年「ああ、M検物語」を発表されたのが最初で、自らの兵隊時代の体験を生々しく書かれたのが、読者に好評で、それから次から次へと小説を送りつけてきた。

 

その原稿は原稿用紙に書かれたものでなく藁半紙に独特の小さな文字で、びっしりと書かれていた。

 

笹岡作治のペンネームは、ぼくが名付けたもので、福岡の消印があるから福岡に住んでいる方だということしかわからない。

 

笹岡作治さんの作品に熱愛している方が、大阪に住む蕎麦数彦さんだ。その頃、「主婦と生活社」の子会社である「番町書房」から出版された『兵隊画集』(伊藤桂一序・昭和47年刊)が刊行された。蕎麦さんは『兵隊画集』の熱狂的なファンだった。笹岡作治先生は私にとって特別な作家ですと、ぼくへの手紙に書かれているが、『兵隊画集』に描かれている兵隊たちの裸体が、蕎麦さんの好みと一致していたからだろう。

 

A_20200605213401

 

『兵隊画集』は富田晃弘さんが、第二次世界大戦の日本軍、第12師団、歩兵第24聯隊で従軍した作者が、その経験をもとに描いた画と詩、文をまとめた作品だ。

 

入隊から満洲、台湾と、戦地の軍隊生活が兵隊たちの装備、柱に貼られた標語、生活用具など、細部に至まで驚くほど細密に活写された画と、それに添えられた哀切な詩が読者の心に鮮烈な印象を残す、傑作中の傑作だ。

 

その魅力は年月を経ても全く減ずることはない。中でもぼくが引き付けられたのは、画のなかに蠢く、一様にずんぐりむっくりの体型の兵隊たちだ。

 

B_20200605213401

 

笹岡作治さんと、富田晃弘さんが同一人物だということを突き止めたが、ぼくも間違いないと思う。今回は蕎麦さんの小説「裸一貫ワラチン漁師」をネットで読んでもらいたいと思ってのことだ。なかなかの力作なので是非、読んでもらいたい。

千葉県の九十九里浜の漁師の生活を描いているが、蕎麦さん、九十九里浜のことを書いた何冊もの文献を読んで書いたもののようだ。

東京の一等地に店を構える時計商の三男坊として生まれた。だが誰もが羨む幸せな時間は、17歳の誕生日を迎えて終わりに。

父親の店が火災で全焼し、事業に失敗し倒産する。そして主人公は久里浜の漁師に養子としてもらわれてしまう。

それからは素っ裸で、オチンチンにワラチンを付けただけで働かされた。それからの生活は凄まじい。ノンケのぼくでもボッキしそうになる迫力だ。

 

「「ソンナじゃあ、いつまで経ってもみごわらしべを結ばれんぜ。ガキの真っ裸とおんなじだ」

 

古株の漁師が意地悪く肩から覗き込むようにして言った。

 

むけきった亀頭を囲むように、わらを結んだ男たちの男根。むくつけき漁師たちのそれは、大きさこそ大小あるが、堂々と晒しているからか、誰のものもふてぶてしく、その性能を誇示しているように見えた。

 

経一は、この陽物に結んだ笑を指して「これが俺たちの仕事着だ」と言っていた。同じ丸裸だと言っても、ここではわらを結ぶということが、ユニホームを着ることと同じような意味を持つらしい」

 

タイトルの「裸一貫ワラチン漁師」はここから名付けしたものだ。

 

荒々しい漁師たちの凄まじい性描写も見事に描けている。ネットで見るのは無料だそうだから是非、読んでください。

 

★コメントを是非!

| | コメント (0)

2020年6月13日 (土)

『兵隊画集』と笹岡作治の接点は?

1971年の7月に日本初の同性愛誌『薔薇族』が創刊されるや週間ポストがまず取り上げ週刊朝日、平凡パンチそれに東京スポーツが1ページを使って特集し、週刊文春が「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。

 

ポルノ雑誌でこんなにマスコミが取り上げてくれたことは例がない。それは藤田竜さんの表紙絵が良かったからだと思っている。それと上質紙を使い、レイアウトも格調高かった。

 

全国の書店に並べられたことも良かったが地方に眠っていた有能な読者が購入し、号を重ねるごとに、小説、エッセイ、男絵と作品が寄せられるようになってきた。

 

読者の投稿頁をもうけるようになってからは続々と自らの悩みや、体験談が寄せられてきた。

 

早稲田大学の国文科出身のNHKアナウンサー楯四郎さん、短編小説が掲載されるや次々と小説を書き、その才能が開花して優れた名作を書き残してくれた。

 

楯さんだけではない、多くの才能のある人々が小説を投稿してくれて、それらの作品は文芸雑誌に劣らない名作ばかりだった。

 

忘れてはいけない人は、福岡から送られてきた人で、住所も名前も書かれていない。福岡の郵便局の消印があるから、福岡に住んでいる方だろう。

 

最初に送られてきたのは、昭和48年に初めて載った「ああ、M検物語」だ。笹岡作治のペンネームは、ぼくが名付けたものだ。野暮ったいペンネームのほうが、作品に合うと思ったからだ。

 

昭和49年には「地獄の顔」「若者狩り」「続・若者狩り」と、次々送られてきた。

 

「百姓哀歌」(昭和50年)「新若者狩り」「若者狩り・亀吉の場合」(昭和51年)「海軍内務班・わが戦争体験」「調教の館・一渾亭」(昭和54年)と、昭和51年に杜絶するまで、傑作小説の数々を残してくれた。

 

ゲイの人って読者に作品が褒められると、これは誰しもだが、益々の力作を書こうと意欲が増すが、読者の中にはSMの小説を好まない人もいる。よせば良かったのに何人かの読者からの悪評を載せてしまった。

 

ゲイの人って被害妄想が強く、けなされることには弱い。笹岡さん「読者に叱られた」の一文を残して、ぷっつりと作品を送ってこなくなってしまった。残念なことだ。

 

その頃、「番町書房」(主婦と生活社の子会社、今はない)から、富田晃弘さんが『兵隊画集』という豪華な画集を出版された。(昭和47年刊)

 

A_20200605213401

 

ぼくの母校、世田谷学園の先輩、直木賞作家の伊藤桂一さんが序文を書いている。

 

『兵隊画集』は、第二次世界大戦の日本軍、第12師団、歩兵第24聯隊で従軍した作者が、その経験をもとに描いた画と詩、文をまとめた作品だ。

 

入隊から満洲、台湾と、戦地の軍隊生活が、兵隊たちの装備、柱に貼られた標語、生活用具など、細部に至るまで驚くほど細密に活写された画と、それに添えられた哀切な詩が、読者の心に鮮烈な印象を残す、傑作中の傑作だ。その魅力は年月を経ても全く減ずることはない。

 

絵の中に描かれた一様にずんぐりむっくりした体型の兵隊たちは、著者の好みの男たちなのだろう。

 

兵隊たちが素っ裸で並び、徴兵検査を受ける場面など、裸を描いた兵隊たちの姿が多い。作者がゲイだったからだ。

 

B_20200605213401

 

『兵隊画集』を藤田竜さんが大きく紹介したら、書店で飛ぶように売れ始めたそうだ。読者の興味をひいたことは間違いない。(続く)

 

★コメントを是非!

| | コメント (0)

2020年6月 8日 (月)

自殺した友よ いま一緒に乾盃しよう!

1989年(今から31年前)平成元年の『薔薇族』が、創刊200号18周年の記念特大号だった。416頁という厚さで、その半分ぐらいは広告頁、そのうちの9割以上がレギュラーとして、ずっと広告を出してくれているということは、効果があるということ。『薔薇族』の内容が充実して売れ行きがいいからで、共存共栄の姿になっている。

 

ここまでくると『薔薇族』は、もう個人のものでなく、みんなものだという責任の重さを痛感していますと、ぼくは「編集室から」に書いている。

 

美輪明宏さんが、その頃、体調がよくなったのに「自殺した友よ いま一緒に乾盃しよう」と題して、長文のお祝いの言葉をよせてくれている。

 

長いお祝いの言葉なので、とっても全文は紹介できないが、美輪さんは芸能人で最初にゲイだということを告白した方で、そのときのことが書かれている。

 

「昭和32年(1957年:今から63年前)にマスコミの脚光を浴びた私は、長年温めてきた言葉をインタビューで答えた。「私は男性が好きです」と。いまだに忘れもしない『週刊アサヒ芸能』であった、すると、その記者は親切にも言った、「駄目ですよ、そんなこと言っちゃ。世間から葬られますよ。芸能界の人々は皆さん隠してるんだから、あなたもそうしなくちゃ」

 

しかし私は答えた、「いいんです、それで。ほんとうのことですから、書いてください。そんなことで私の歌は駄目になりませんから」

 

「ほんとうにいいんですね」

 

「はい」

 

「では……」

 

というわけで彼は書いた。「愛する男の数は、学生だけでも六大学のリーグ戦ができるほどいる」と。

 

それから、世間と私との戦いが始まったのである。長い戦いであった。」(後略)

 

63年前というと、ゲイの人たちが自らを異常者、変態だと思っていた時代で、「私は男性が好きです」なんて、マスコミにカミングアウトするなんて、かなりの勇気があったこと、ご自身の歌に対して自信を持っていたからだろう。

 

数年前にNHKの紅白歌合戦に美輪さんが「ヨイトマケの歌」を歌って、大きな話題になったことがあった。

 

『週刊・アサヒ芸能』が、ぼくのところにメールでコメント要請があったのを、息子が知らせてくれたのは1週間後だった。

 

このときほど情けない思いをしたことはない。それから数年も経っているのに、いまだにネットでメールなんて使えない。

 

ブログは原稿用紙4枚に書いて郵送すると、S君が土曜と月曜に更新してくれている。ありがたいことだ。頭が悪くて覚えようとしないのは、今に始まったことではない。

 

ぼくにはいいところもあるのだから、あと何年生きられるかはわからないが、みんなに支えられてこのまま生きるしかない。

 

この号には『薔薇族』を創刊以来ずっと読んでくれている読者と対談している。57歳の方のようだが、どんな方だったのかは覚えていない。地方の方のようだ。

 

「ーー創刊号を見たときのこと、何か記憶に残っていることありますか?

 

●すごく胸がときめいたということ。それと、ああ、世の中には私と同じ趣味、性向の人がずいぶん多いんだということ。こういう雑誌が出るぐらいだから、東京に行けば本当に多いんだろうなという気持ち。目には見えない仲間がいっぱいいるといった連帯感のようなものを感じました」

 

「趣味」だという、そんな時代だったのだ。

| | コメント (0)

2020年6月 6日 (土)

めだたない庶民の暮らしに目を向けて!

「あの酒場どうしているだろう」(4月24日朝刊)というタイトルで、朝日新聞の編集委員、小泉信一さんが長い記事を書いている。「文化的空間」「街の止まり木」に誠実な補償をともと「しばらくの間、休業します」と貼り紙をして店を閉じている、小さな酒場に小泉さんの目が。

 

小泉信一さんはめだたない庶民の暮らしにいつも目を向けている記者だ。30年以上も前のことだったろうか、朝日新聞が初めて新宿2丁目のこと、『薔薇族』のこと、ぼくのことを記事にしてくれた最初の記者だった。

 

それからのお付き合いで、先妻の舞踊家、ミカとの汽車の中での出会いから、33歳の若さで風呂場で酸欠死してしまったまでの15年の暮らしを書いた『裸の女房』を出版した時も、大きな記事にしてくれた。

 

16年前に『薔薇族』が廃刊になった時、『薔薇族』廃刊と朝日新聞に報じてくれて大反響をまきおこした記事を書いてくれたのも小泉信一記者だった。

 

小泉さんが『週刊朝日』に連載したエロ事師たちを書いた記事をまとめて一冊の本になった。朝日出版からの本なので社員だから印税はなしということだった。

 

書名もいつ出版記念会をやったのか、忘れてしまっている。築地の朝日新聞の本社の中のレストランでの祝う会で、早めに着いてしまったので、車内を見学させてくれた。

 

その椅子に座っている社員たちの数は多い。本社だけでも数千人はいるそうだ。こんなに多くの記者たちがいて、紙面に記事が載ることは月に一度でもあるのだろうか。

 

記者の数は2,300人でいいと思うけど、大きな組織を変えることは難しいようだ。そんな中で小泉さんは紙上に記事を多く書いている方なのだろう。

 

2020年4月28日の朝刊から始まって、「語るー人生の贈り物ー・厳しい今こそユーモアの底力を」と題して、演出家のテリー伊藤さんとのインタビュー記事を小泉さんが連載している。

 

10回で終わりだと思って、読後感を書いて送ってしまったら、小さく全15回と書いてあったのを見過ごしてしまった。

 

小泉さんの自宅の住所を知っているので、いつも記事を読むと読後感を送っている。そんな人いないだろうから、必ずお礼の電話をかけてくれる。

 

テリー伊藤さんって、いつもスタジオで帽子をかぶっている。ぼくが育った時代では、部屋の中では帽子を取るものだと教えられていたから、テリー伊藤さんの帽子姿は気になっていた。

 

テリー伊藤さんの帽子は、彼のトレードマークで何十種類も持っているそうだ。芸能人っていうのは、他の人と違ったファッションを心がけることが必要だから、テリー伊藤さんの帽子姿は理解できた。

 

ぼくは学生時代にアルバイトで、永福町にあった朝顔園で働いたことがあるだけで、社員のいない親父ひとりの「第二書房」でどこにも勤めたことがなく、今日に至ってしまった。

 

テリー伊藤さんが演出家としてテレビによく出演するようになるまでは、すし職人の見習いになったりと、苦労をしたようだ。

 

テリー伊藤さん、兄が3人、姉が1人とあるから、末っ子ではないだろうか。『薔薇族』的な目でみれば、お母さんはしっかりした人のようだし、母親とのかかわり合いは強かったのでは。

 

奥さんがいるのかは記事にはふれていないが、いるいないはとにかくとして、神経は繊細で心の優しい人ではないかと思われる。そして感性も豊かな人ではないかと。

 

コロナの記事と広告ばかりで読むところがない。小泉さんの記事には心が救われた。

| | コメント (0)

2020年6月 5日 (金)

しばらくぶりの「文ちゃんと語る会」開催

日時・6月27日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ

 

 

会場の器とコーヒーの店「織部下北沢店」は寒気の良い店で、新型コロナウイルスの感染の心配はありません。お気軽にお出かけください。

 

 

当日は特別ゲストとして、田中英資さんを招き、語ってもらいます。

 

軍人一族の中で育った田中英資さんが、どんなしつけを受けて育ったのか、小学校、中学校では教師にいじめられたとか。田中さんがどんなことを語ってくれるのか。

| | コメント (1)

2020年6月 1日 (月)

『薔薇族』はぼくを救ってくれた!

1991年『薔薇族』9月号は、創刊20周年の記念号だ。

 

「伊藤文学のひとりごと」は、連載197で「救世主は、君たちなのだ!」というタイトルで書いている。

 

「現在の『薔薇族』は、400頁を超えていますが、半分は広告頁で、なんと250軒近いお店の広告がずらっと並んでいます。

 

最初の50号までは広告を一切入れませんでしたが、徐々に増え始めてきたお店からの要望が強くなってきて、昭和51年の4月号から広告を入れることになりました。

 

16軒のお店がその号に載っています。そのうちの9軒は姿を消していますが、横浜の「童安寺」「横浜クラブ」新宿のポルノショップの「パラダイス北欧」「カバリエ」上野の「アテネ」「黒猫館」は、それ以来ずっと広告を載せてくれています。

 

広告だけを見てみると、時代の流れをはっきりと感じます。ほとんどのポルノショップも、一度は取締り当局の摘発を受けていますが、どのお店も頑張って、今日の隆盛をみることができたのです。

 

あんなに大盛況だった新宿の「祭」も、渋谷の「祭」もなくなってしまって、なにか寂しさを感じますが、これも時代の流れでしょうか。

 

大晦日の夜、従業員にお年玉をあげるべく、車を走らせて新宿の「祭」へ行くと、たくさんのお客がつめかけていて、それはそれは賑やかでした。それこそ、いろんな人に出会って、ぼくにとっては勉強になったし、「祭」は忘れることはできません。

 

『薔薇族』の発祥の地は、現在のわが家のすぐそばで、芝信用金庫代沢支店のまん前にある、「ハビテーション淀川」(5階建でエレベーターがない)というマンションの2DKの2階にある部屋からです。

 

最初は南向きの5階にある部屋に住んでいたのですが、女房のお腹が大きくなってきて上り下りが大変でした。そんなときにたまたま梅ヶ丘通りに面した、2階の部屋があいたので、そこに降りてきたというわけです。

 

社員なんてまっtかういなくて、藤田竜君と二人だけで始めたのですが、少ししてから学研の社員だった有能な若者が手伝ってくれていました。

 

今から考えると要領が悪かったのか、隔月刊なのに、徹夜、徹夜の連続でした。文通欄もいろんな紙に書いてくるのを、原稿用紙に1週間もかけて書き写していたのだから夢のようです。

 

今では手が増えて、ぼくがなんにもしなくても、きちっと決められた日には出来上がっているのだから、スタッフの諸君には感謝のしようがありません。

 

商売熱心な250軒に及ぶスポンサー各位のご協力と、三晃印刷、越後堂製本などのお陰と、優秀なスタッフの努力によって、無事に創刊20周年を迎えることができました。

 

一冊の雑誌だけでなりたっている会社というのは、出版界ひろしといえども、そうざらにはないでしょう。

 

それに忘れはならないのは、すばらしい読者が協力してくれたから、今日の『薔薇族』が隆盛のままに20周年を迎えることができたのです。

 

次から次へと新しい雑誌が生まれ、いつの間にか静かに消えていく中で、20年の歴史を持つことができたということは、編集長としてこんなにうれしいことはありません。

 

『薔薇族』はぼくにとっても「救世主」だったのです。『薔薇族』で立ち上がることができて、ぼく自身が救われたのですから。」

 

廃刊になって16年。今でもぼくは多くの人に支えられて生きている。ありがたいことだ。

 

★コメントをぜひ、書いてください。

| | コメント (0)

« 2020年5月 | トップページ | 2020年7月 »