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2020年7月

2020年7月27日 (月)

少年が好きだから教師の道を!

「知らぬままに先生と手をついないでいた」と題する松山市中学3年生の投稿。

 

先生は読者の中でも一番多い。少年が好きだから教師の道を選ぶのだろう。

 

「僕は中学3年の男の子。割と真面目で部活に励んでいます。

 

住んでいるのは伊予国の松山市。『坊ちゃん』で有名。実は僕『薔薇族』を2ヶ月前に知ったんです。とても驚いたけど嬉しかった。それで顔を赤くしながら大急ぎで買って走って帰った。自分の部屋で開いてみてもう胸がドキドキ。いつの間にか勃ち上がってしまって、すごい本だなあほんとに。

 

今は僕、学校の先生が好きになって困っているんです。それもうんと年上の40歳を越している中学の先生。とても優しいのです。学校の中でも偉い先生みたいで、若い先生がいろいろ教えてもらっている。とても落ち着いていて、穏やかないい顔しているんだ。歳の割には足も長いし。その先生がバレー部の顧問をしている。僕、バレーボール部員。練習の時は厳しく仕込んでくれます。普段はとても優しいお父さんみたい。つい甘えて抱いてもらいたくなるような。

 

その先生が好きになったのは春休み。松山の町の真ん中、松山の繁華街です。そこでばったり会ったんです。

 

「いっしょに歩こう」なんて誘ってくれるものだから大判焼きを3個買って僕にくれたのです。僕嬉しくて。

 

それからなおもいっしょに歩いて、とうとう堀之内公園へ来てしまった。全然疲れなかった。堀内の桜並木から土手へ上がって、人影の少ない木立の中を2人で歩いたんです。まるで恋人みたいだなあと思いました。とっても幸せな気分でした。

 

どこからも見えないような大きな松の木の下でしばらく立ち止まって話をしました。いつの間にか手を繋いでいるんだ。不思議。

 

「もう帰ろうか」

 

「ハイ」そう言って先生は僕の肩に手を回して、グッと抱き寄せてくれたんです。胸に頭をくっつけるように、しばらくじっとしていました。

 

先生の匂いがしました。いい匂い。あれ何の匂いだろう。香水の匂いかな。いや、洋服の何か、ナフタリンというのか、いい匂い。懐かしい匂い。

 

それからその先生、大好き。今、その先生がいるからバレーボールも一生懸命やる。

 

学校へ行くのも楽しくてしょうがない。友達も結構いるけど、その先生さえいてくれればいいんだ。何となく先生、僕に特別な目をかけてくれるようなんだ。嬉しい。

 

また2人で歩きたい。抱きしめてもらいたい。2人だけになりたい。それだけでいいんだ。M先生、大好き。」

 

ほのぼのとしたいい話ではないか。これから2人がどうなったのかはわからないが。

 

先生と生徒の話は、『薔薇族』誌上では珍しいことではなかった。この先生、独身なのだろうか。40歳を越しているという先生、この時代、40歳を過ぎて結婚していないわけがない。独身でいたら親たちにも学内でもおかしいと思われてしまうから。

 

四国の愛媛に住む先生。書くことが好きな先生で投稿をしばしば寄せてくれた。ジャニーズの公演を聞きにくるために上京してきたときにお会いしたことがある。

 

奥さんや子供がいるのに、山の分校に単身赴任した時が一番楽しかったという。流石に校長になってからは、欲望を抑えていたようだが。

 

脳梗塞で倒れてからは奥さんの看護なしでは生きられなくなってしまった。何とも皮肉な話ではある。

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2020年7月25日 (土)

人も、物も不思議な出逢いがあって!

『薔薇族』100号、創刊10周年記念特別号1981年5月号、「若葉の風」と題して、親友の国学院大学教授であり、歌人の阿部正路君が「伊藤文学君のこと」と題して、一文を寄せてくれている。

 

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学生時代に知り合って、大学歌人会を興しぼくが企画を立てると、理知的な阿部君が実現させてくれ大成功を収めた。

 

「まさに、若葉の風だった。彼はとても新鮮で、そして、いつも不意に現れる。

 

伊藤文学。彼はいつの間にか、僕の青春の、ほとんど全てだった。伊藤文学。彼は僕の青春の友出会ったばかりではなく、今では一層確かに、僕の壮年の友であり、生涯の友にあり続けるに違いない。」

 

阿部正路君、親友という名にふさわしい間柄が生涯続いた。

 

NHKのアナウンサーであり、早稲田大学国文科出身の楯四郎さんとの出会いも、不思議な出会いだった。

 

「『薔薇族』は歴史を持った=そして『薔薇族』にまつわるささやかな自分史」と題して記念号に一文を寄せてくれた。

 

「夏の終わりが近づいてくると、いつも、物憂い。遊びすぎた時間が遠のいていくからである。

 

上野の国鉄から京成に通じる地下道は、物憂さがよく似合う道だった。くすんだ灰色の道である。その夜……というのは10年前のある夜、灰色の中にポツンと黄色い一点が浮き、それがたちまち私の目の中いっぱいに広がった。これが私と『薔薇族』との出逢いである。」

 

地下道の片隅には、10人も入ればいっぱいになる酒場、もちろん仲間のちっぽけな店が数件並んでいた。

 

店の並びにそこだけは扉がなく、いくらか地下道に張り出した木の台いっぱいにポルノ雑誌を裸電球を赤々と照らしている本屋があった。

 

人間との出逢いも不思議な因縁があるが物とも同じようなことがある。このエロ本屋にぼくは取り次ぎを遠さにず直接置かせてもらうことにした。

 

表通りに車を置いて、息子を乗せた乳母車に乗せて、地下道のエロ本屋に運んだのだ。

 

楯四郎さんが目に留めてくれたのは、偶然の出逢いだ。楯四郎さんの小説をたくさんの投稿原稿を見つけ出してくれたのは、亡き先妻の舞踊家、ミカの松沢中学の教え子だった。

 

学研に勤めていたのをやめて、『薔薇族』の編集を手伝ってくれていたが、ノンケなので藤田竜君とは合わない。まもなくやめさせられてしまった。彼には感謝のしようがない。

 

それから楯さんは名作を書き続けてくれた。『浅草怨念歌』がアメリカで翻訳されて本になった。余命幾ばくもない病床で本を手に取って楯さんは亡くなった。

 

人間って不思議な縁のつながりである。

 

藤田竜さん、間宮浩さんとの出逢い。

 

「明るいところへ出ようと歩いてきました。『薔薇10年の編集裏話』と題して、『薔薇族』100冊をずらりと並べて、その前に竜さんとぼくが並んで座り、対談をしている。「『クルージング』という映画を見て、女の子たちは「気持ちが悪いわね」と言いながら女の子が半数以上もあの映画を見るという時代になってしまった。

 

「世の中の流れは性の解放に向かって流れている。それを20人、30人の桜田門の人でこれを防ぎきれない。

 

ビニール本を見てもわかるんで、洪水のように出ているわけで、その流れはせき止められないですね。」

 

10年間、世の中変わった。これからどんな世の中になっていくのかな。

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2020年7月20日 (月)

君の亭主はホモじゃないのかと!

戦後の昭和の時代にヒットした歌謡曲を石原由次郎が歌っているのを聞いていると、男性優位で、男性に捨てられた女性、捨てられるのを恐れて、全てをあげてしまった馬鹿な女と、蔑んだ女性の歌が目立つ。

 

この時代のゲイの人たちはどんなだったのだろうか。異性と結婚しないわけには行かなかった。レズビアンの女性でも男性と結婚して専業主婦にならざるをえない。女性の職業が少なかったからだ。

 

ゲイの男は女性のアソコがどうなっているのか、みたこともないし、みようとも思わない。そんな男が結婚してうまくいくわけがない。

 

ぼくはどうしたら夫婦生活を続けられるのか、微に入り細に入り『薔薇族』に書いた。

 

この時代お見合いでの結婚のケースが多いから処女と結婚しなさいと。男を知っている女性だったら、すぐにおかしいと思われてしまうから。

 

まあ、馬鹿馬鹿しいことをよくも書いたものだ。朝起きて元気の良い時にセックスしなさいと。

 

できれば大きな鏡を寝室に置いて、自分の裸の姿を見ながらセックスする。男と寝たときのことを思い出しながらと。

 

ラブオイルを亀頭につけて女性の中に入れて擦れば大きくなってくる。そうすればうまくいくのではと。

 

女性のオッパイを触りたくはないだろうが、前戯も大事なので、揉んだり、吸ったりしなさいと。

 

小学校の教師をやっている一人の青年が訪ねてきた。同じ学校の女の先生に愛されてしまったという。彼女の方が積極的で、いつの間にか親同士が会って、式場の日取りまで決められてしまったのだ。

 

24歳になる彼は男が好きで、それも兄貴のような男に愛されたいという気持ちが強いのだが、実際は男に愛された経験もないし、女性とのソレは知る由もない。

 

訪ねてきた彼と会った。「なんとかなるから結婚しなさい」と答えたと思う。忙しさに紛れて彼のことなど忘れていたら電話がかかってきた。

 

「うまくいっているかい」と言うと、いかにも元気のない声で「それがどうも」ということだった。

 

もう半年近くもすぎたというのに、数回しかセックスしていないという。夜、早く帰るとせがまれるものだから、なるべく外で遊んできて遅く帰ってくる。そうすると彼女の方は最初のうちは、他に女がいてそれで帰ってこないのではないかと追求する。どうも女が他にいる様子がないと知ると、変だと思った彼女は同じ学校の男の先生に相談したのだ。

 

「君の亭主はホモじゃないのか」と言われた彼女は家に帰ると彼を追求する。最初は笑ってはぐらかしていたものの、どうにも弁解できなくなって、また、ぼくを訪ねてきたのだ。

 

どんな夫婦生活をしているのか、根掘り葉掘り聞くと、彼女の体に触れることが嫌であるらしく、いざとなるとボッキしないのだという。

 

一緒に食事をして「頑張れよ」と肩を叩いて別れたけど、別離するしかないのは目に見えている。

 

世間体のために、一人では寂しいからどうしても結婚する。このような夫婦は多かったに違いない。今の世の中、もうこのような夫婦はいないと思うけれど……。

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2020年7月18日 (土)

お兄ちゃんが先輩と抱き合っていた!

ここ1週間ぐらいのことだろうか、急に体力が弱り始めて、下北沢駅前のスーパーになんとか休み休みでも歩いて行けたのが、4、5日前、路上で倒れてしまい、立ち上がれなくなってしまった。

 

ジタバタしていたら親切な若者が助け起こしてくれた。たまたま同じマンションに住む奥さんが通りかかって女房に知らせて迎えにきてくれた。

 

夜中に何度も目が覚めてトイレに行く。もう慣れてしまったので気にしないのだが、カフェ「織部」の入り口に立つビルの4階に「間宮クリニック」がある。

 

間宮先生は東京医大の泌尿器科にいた方で独立して7、8年前に開業された。長い間、お世話になっていて、整形外科の正岡先生を紹介してくれて、膝に人工膝を入れる手術をしてもらった。おかげで歩けるようになった恩人とも言える先生だ。

 

最近、あまりにも夜中にトイレに起きるので、しばらくぶりに間宮クリニックを訪れた。以前のデータを保有してくれていて現在悪化しているというので、薬を処方してくれて飲み始めている。

 

眠り方が浅いので夢をよく見る。目が覚めた時は覚えているが、もう車の免許はないのに、車で走り回っている夢だ。

 

夢の中のことだから問題はないのだが。長い間、出版の仕事をしていたから今でも頭の中に残っているのだろう。

 

ぼくの最初の出版物は『心が破けてしまいそう』だ。印税なんてもらわなかったけれど、1万2千部も作ってくれた。

 

ぼくのところに何十通かの手紙が寄せられたが、そのほとんどが女性からのものだった。そしてその全てが同性愛者に偏見を持つどころか、好意的であり、良き理解者たらんとするものばかりだったのだ。

 

大分県の高1の女性からの手紙。

 

「兄がいてその日のお兄ちゃんのクラブの先輩が家に遊びに来ていて、部屋に入っちゃいけないぞって言われていたのです。

 

コーヒーとケーキを持って部屋の扉を少し開けてみたのです。そう見てしまったのです。お兄さんとKさんが抱き合ってキスしているのを……。

 

その日からホモについてのいろんな本を読みました。ジュネ、三島、足穂などです。

 

今日、本屋さんで『心が破けてしまいそう』を買ってきました。驚きました。お兄ちゃんと同じような悩みを持っている人、こんなにいたのですね。それよりもチビバラ君たちの意外なほどの明るさに、なんだか救われるような気がしました。」

 

この少女「同性愛に対する人々の偏見を出来る限り取り除いていき、同性愛者を理解していこう」ということで、友達を集めてグループを作り、研究会を週に一度開いているという。

 

兄貴が先輩と抱き合っているのを女の子が見たら、薄汚いと思って軽蔑するのが当たり前なのに、同性愛を理解しようと思って本を読み、研究会まで作っているというのだ。

 

彼女だけでなく、どの手紙も非難の言葉はありませんでした。『心が破けてしまいそう』小さな波紋しか起こせなかったけれど、努力して本にした甲斐があったというものだ。

 

 

この時代、まだ本が売れていた時代で、ネットなんてものがなかった。本の力の偉大さを思い知らされる話だった。

 

『薔薇族』の創刊は、どれだけ多くの人たちに光明を与えたことか。計り知れないものがあったのでは……。

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2020年7月13日 (月)

少しでも心が晴れれば、それだけで!

東京新聞2020年6月29日の夕刊1面には、「困窮LGBTに住まいを」の見出しで、「生活が困窮した性的少数者にマンションの一室を提供し、自立へと支援している団体「LGBTハウジングファーストを考える会・東京」が個室シェルターを増やすための資金募集をインターネット上で始めた。コロナ禍で貧困状態に陥る人が相次ぎ、ニーズが高tまっているという。」

 

社会面には「LGBT 黒人と共闘」「」NY反乱51年・差別決別訴えデモ」の見出しで、記事が載っている。

 

「性的少数者(LGBT)の権利運動を広げた「ストンウォールの反乱」から51年を迎えた28日、舞台となったニューヨーク市マンハッタンなどでデモ行進があった。黒人差別や警察の暴力への抗議活動が全米で続く中、幅広い差別との決別を訴える声が上がっていた。」

 

『薔薇を散らせはしまい』(『薔薇族』と共に歩んだ22年・1993年9月21日・批評社刊)に藤田竜君が「少しでも心が晴れてくれれば」と題してー伊藤文学の仕事の軌跡ーと、珍しくぼくのことを褒めて書いてくれている。

 

「ニューヨークのストンウォル・インという男性同性愛社の憩いのバーは、同性愛者のたまり場という岳の理由で、しばしば警察の手入れや嫌がらせを受けていたが、ある夜、ついに堪えきれなくなって客たちが警官に抵抗して暴動となり、アメリカのゲイ人権運動のきっかけとなった。

 

当時、日本では同性愛関連のニュースが流れることはなかった。無視すべきものだった。

 

もちろん伊藤文学もその一人だった。だが彼はまさにその時期、同性愛者のための専門誌の創刊を考えていた。

 

今思えばアメリカとは形が違うけれど時を同じくして同性愛者救済の動きが起こっていたことになる。アメリカでは外に向かって。日本では内に向かってー。

 

伊藤文学の志が、長い時間を経て、気まぐれな読者にも通じたからである。全てを受け入れる伊藤文学の人柄の温かさが、誌面に滲み出ていたからである。

 

伊藤文学は自社の客でない人にも親切であった。それらの積み重ねも、煽情しかできない競合誌との差を作っているのだろう。ただのエロ雑誌は到底作れない人なのである。同性愛者しか同性愛者の心をつかまえられないという考えは通用しないのである。この点を伊藤文学という人から僕は教えられた。人間同士の思いやりに何の変わりがあろうか。(中略)

 

人を救った出版物は数知れずあろう。しかし、世に知られることなく、救われた当人も口にはしないものとして『薔薇族』はあり、これからもそうであろう。『薔薇族』を見る前より少しでも心が晴れれば、それだけでいいではないか。」

 

日本ではお国が『薔薇族』を評価してくれなかったが、アメリカのサンフランシスコの知事が表彰状を送ってくれた。アメリカは最初にいいし事をしてくれた人を尊重してくれるのだ。

 

ありがたいことだ。

 

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2020年7月11日 (土)

未成年者の問題が1番の悩み!

ぼくのブログをどのくらいの人が読んでくれているのかはわからない。ネットを触ったことがないぼくが10数年も書き続けてこられたのは、ぼくを支えてくれる若者がいるからだ。

 

400字詰め原稿用紙4枚に一つの話をまとめて書き郵送すると、土曜と月曜に更新してくれる。『薔薇族』が廃刊して16年、何人かの若者が支えてくれてずっと続けてこられた。何千枚になるだろうか。

 

ブログを書き続けることが、ぼくの生きがいになっていて、ボケずにいられる。ありがたいことだ。

 

コメントを書いてくれて、褒めてくれれば、人間誰しも嬉しいが、悪評でも読んで書いてくれているのだから、嬉しいことだ。

 

ぼくのブログに花泥棒は罪ならないということを書いたが、それに対するコメントを書いてくれた方がいる。

 

人さまの高価な胡蝶蘭とか、植木鉢をぼくが盗んで持ち帰るなんてするわけがない。食卓の上の一輪挿しの花びんに、野草のドクダミの花とか、マンションの大家さんの家の生垣に咲いている花を一輪いただいてきて花びんにさしていると、心が和む。

 

道路脇に咲いているたんぽぽでもいい。くちなしの花も道路脇に咲いている。ご近所の家はお金持ちが多いので、植木屋さんがいつも入っていて短く刈り取ってしまうのは困ったものだ。

 

スーパーのダイエーは、コロナ騒ぎでホテルの宴会や、結婚式で花を大量に購入しなくなったので、花を栽培している人たちが困っているので、花を仕入れてコーナーを設けている。それが格安なので薔薇の花を買ってくる。花瓶の水を毎日取り換えていれば、1週間は楽しめる。

 

1998年9月号の『薔薇族』の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。

 

「紺野遊次さんというゲイ作家が、質問状を送りつけてきた。『バディ』にも同じような質問状を送っているようだ。

 

「貴誌の学園バディというコーナーは、一体どのような理由で設けられているのでしょうか。未成年者をゲイ雑誌の読者として取り込む、その理由をお聞かせください。

 

あなた方は彼ら未成年者の保護者に対して、その子供たちが安心して読むことのできるような誌面づくりをしていると、胸を張って言えますか。貴誌誌上ではっきりとお答え願いたい。

 

回答なき場合は同様の『有害図書指定要請』を全国的に展開させていただきます。」

 

おそらく『バディ』編集部は答えないと思うので、ぼくが長い体験の中から答えてみようと思う。

 

少年も少女も、早い子は小学校の上級生から、中学の1、2年生の頃、ほとんどの子は性に目覚めるだろう。

 

しかし、そのころは対象が男であるのか、女であるのかはっきりしない子が多い。もちろん、早いうちから対象が男とはっきりする人もいる。ほとんどの学校が男女共学だから女の友達もいるし、男の友達もいる。

 

紺野遊次さんは、その辺の心の動きを「揺らぎ」と表現しているが、それが高校、大学と進む頃には、はっきりとしてくる。

 

日本で最初にゲイ雑誌を創刊したぼくにとっては、少年の問題は一番悩みの種だった。

 

ポルノ雑誌なんだから胸を張ってと言われても困ってしまう。

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2020年7月 6日 (月)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」8月1日に開催します。

 

日時・8月1日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ

 

★初めての方、女性、大歓迎です。お気軽にお出かけください。

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縁側は子供たちの社交場だった!

戦前の木造の家には縁側(座敷の外の庭に面した細長い板敷)が必ずあった。

 

ぼくが生まれたのは、青山の穏田というところらしいが、祖父(救世軍で郭のお女郎さんを千人近くも救い出した)伊藤冨士雄の妹には娘一人しかいなかった。その娘の亭主が有能な人で、山野製作所という測量器械を作る工場を持っていて、工場の隣に2階建木造の豪邸があり、3人で住んでいた。

 

昭和の初め頃の北沢の街は、畠、原っぱ、竹やぶばかりで家は少なかった。豪邸のすぐそばに貸家として50坪くらいの土地に2軒の2階建てを建てた。

 

そこへ青山の穏田に住んでいた、ぼくの両親と祖母、姉に声がかかり、北沢に越してくるように誘いがあった。2階は6畳、下は8畳の座敷、南向きで陽もあたり、そこに縁側がついていた。居間は6畳、応接間は6畳・風呂場に面した着替える部屋が3畳、家賃は25円だった。

 

桜並木を母親に抱かれて、歩いている写真が残っているが、今は老木になって10数本しか残っていない。なんと植樹されたばかりの桜の木だ。88年、桜の木とともにぼくは生きてきたことになる。

 

縁側に妹(昭子)とならんで座っているぼくの写真がある。小学校に入学した頃の写真で、父はその頃、第一書房という出版社に勤めていた。

 

講談社の絵本が月に何冊か刊行されていた。一流の挿絵画家が描いていて、父が買ってくれたのでぼくはこの絵本にはお世話になった。

 

近所の子供たちの親は大工さん、植木屋さんだったりで、子供に本を買うような親はいなかった。

 

学校が終わると近所の子供たちが裏木戸を開けて縁側にやってくる。積み上げられた講談社の絵本を貪り読んだものだ。陽の当たる縁側に座って子供たちはおしゃべりもする。縁側はまさに子供たちの社交場だったが、こういう光景は今では見ることはできない。

 

縁側にやってくるのは子供たちだけではない。ご用聞きと呼ばれるいろんなお店のご主人たちだ。

 

庭の木戸を開けて入ってきて、縁側に腰をかける。まずは洗濯屋さんだ。その頃、我が家に来ていたのは下北沢の駅の北口商店街に店を持つ洗濯屋さんで、自転車の荷台に大きなシートの入れ物を積んでやってくる。

 

ぼくのお袋は、必ずお茶を出し、お菓子なども出して、長いことおしゃべりして帰っていく。

 

炭屋さんも来たっけ。あとは魚屋さん。まだご用聞きに来た人もいたけど忘れてしまった。そのころは時間がゆっくりと流れていて、のんびりとしていた時代だった。

 

父は戦後、昭和23年に資本金25万円で株式会社第二書房を事務所など借りないで、我が家で仕事を始めたのだ。

 

ぼくが駒沢大学に入学した頃で、電話もまだなかった。庭を隔てた山野の家の台所の窓が開いて「伊藤さん、電話ですよ」と大声で呼んでくれる。

 

やはり縁側にあった電話で用を足したものだ。当時、電話を引くのには時間がかかった。

 

03−3421−5462番、その頃の電話がまだ我が家には残っている。使い慣れた懐かしい電話だ。たまにこの電話にかかってくることがあると、若かりし頃のことが思い出される。

 

メールなんて使えないぼくには電話が大事だ。誰かこの電話にかけてみて!

 

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2020年7月 4日 (土)

え? この話、今の?

2020年6月16日の東京新聞夕刊の社会面トップ記事、「同性愛暴露 心に深い傷」の大きな見出しを見て、「えっ、今の話!」と心の中で叫んでしまった。

 

これではぼくが1971年(今から49年前)に『薔薇族』を創刊した頃と、変わりがないではないか。

 

「同性愛は異常でも、変態でもないのだから明るい太陽の下を堂々と歩こう!」と、叫び続けてきたというのに……。

 

その時代、同性愛の人を「気持ち悪い」と思っていた人たちにも少しは理解されてはきたが、ひとつの差別や偏見を取り除くには、長い時間がかかるということを思い知らされた。

 

この記事を読んでぼくは無力感を感じてしまう。

 

「これから先、自分のように苦しむ人が出ないように」。職場の上司に同性愛者だと暴露(アウティング)されて精神疾患になった20代男性。勤務する保険代理店がある東京都豊島区に12日、アウティング禁止を定めた区条例に違反するとして、事業者への指導を求めた。

 

表に出る被害は「氷山の一角」と言われる。「セクシュアリティ(性のあり方)を暴露されることがどれだけ人を傷つけるか、一人、一人に考えて欲しい」と話す。(奥野斐)」

 

「男性は13歳ごろから同性が気になるようになり、同性愛者だと自覚した。誰にも打ち明けられなかったが、社会人になり暮らしている自治体で、同性カップルを公的に認める「パートナーシップ制度」が始まったのが転機になった。パートナーと制度を利用し認定された。家族にも話し、親しい友人にも伝えられた。

 

昨年5月、就職の際に勇気を出して上司に伝えた。数ヶ月後、同僚の女性から無視されたり、避けられたりしていると感じるように。飲み会で、女性から男性の性的指向を女性に教えていたと告げられた。理由を問いただすと、上司は笑いながら「一人ぐらい、いいでしょ」と言ったという。

 

頭が真っ白になり、その場から消えてしまいたいと思った。

 

「あまりにも軽かった。人を信用できなくなった」。不安な気持ちを抑えて出社したが、他の人にも広がっているのではないか、周囲からどう思われているのかと怖くなり、出勤できなくなった。

 

男性の勤務する会社代表は、上司が話したことは認めつつも、「一部認識の違いがあった」とし、現在話し合っていると説明している。」

 

この男性、パートナーもいるし、パートナーと制度を利用し認定されているという。家族にも話し、親しい友人にも伝えられたと、そこでやめておくべきだった。

 

この男性、20代のようだし、就職した会社の上司にゲイだということを告白したら、どうなることかということぐらいわかりそうなものだ。

 

一昨年だったか上智大学の学生が友人にゲイだということを告白したら、その友人が仲間に喋ってしまったので、それを気にして屋上から飛び降り自殺してしまった事件があった。

 

大きく報道されたので、この男性も知らないわけがない。

 

ぼくは世間の人が全て同性愛を理解しているとは思えない。家族や、親しい友人が理解してくれたので、就職先の上司にもと思ったのは甘かった。

 

ぼくはカミングアウトするのは、今の世の中ではデメリットの方が多いと考える。カミングアウトはまだまだすべきではないだろう。

 

★コメントを是非

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