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2020年7月 6日 (月)

縁側は子供たちの社交場だった!

戦前の木造の家には縁側(座敷の外の庭に面した細長い板敷)が必ずあった。

 

ぼくが生まれたのは、青山の穏田というところらしいが、祖父(救世軍で郭のお女郎さんを千人近くも救い出した)伊藤冨士雄の妹には娘一人しかいなかった。その娘の亭主が有能な人で、山野製作所という測量器械を作る工場を持っていて、工場の隣に2階建木造の豪邸があり、3人で住んでいた。

 

昭和の初め頃の北沢の街は、畠、原っぱ、竹やぶばかりで家は少なかった。豪邸のすぐそばに貸家として50坪くらいの土地に2軒の2階建てを建てた。

 

そこへ青山の穏田に住んでいた、ぼくの両親と祖母、姉に声がかかり、北沢に越してくるように誘いがあった。2階は6畳、下は8畳の座敷、南向きで陽もあたり、そこに縁側がついていた。居間は6畳、応接間は6畳・風呂場に面した着替える部屋が3畳、家賃は25円だった。

 

桜並木を母親に抱かれて、歩いている写真が残っているが、今は老木になって10数本しか残っていない。なんと植樹されたばかりの桜の木だ。88年、桜の木とともにぼくは生きてきたことになる。

 

縁側に妹(昭子)とならんで座っているぼくの写真がある。小学校に入学した頃の写真で、父はその頃、第一書房という出版社に勤めていた。

 

講談社の絵本が月に何冊か刊行されていた。一流の挿絵画家が描いていて、父が買ってくれたのでぼくはこの絵本にはお世話になった。

 

近所の子供たちの親は大工さん、植木屋さんだったりで、子供に本を買うような親はいなかった。

 

学校が終わると近所の子供たちが裏木戸を開けて縁側にやってくる。積み上げられた講談社の絵本を貪り読んだものだ。陽の当たる縁側に座って子供たちはおしゃべりもする。縁側はまさに子供たちの社交場だったが、こういう光景は今では見ることはできない。

 

縁側にやってくるのは子供たちだけではない。ご用聞きと呼ばれるいろんなお店のご主人たちだ。

 

庭の木戸を開けて入ってきて、縁側に腰をかける。まずは洗濯屋さんだ。その頃、我が家に来ていたのは下北沢の駅の北口商店街に店を持つ洗濯屋さんで、自転車の荷台に大きなシートの入れ物を積んでやってくる。

 

ぼくのお袋は、必ずお茶を出し、お菓子なども出して、長いことおしゃべりして帰っていく。

 

炭屋さんも来たっけ。あとは魚屋さん。まだご用聞きに来た人もいたけど忘れてしまった。そのころは時間がゆっくりと流れていて、のんびりとしていた時代だった。

 

父は戦後、昭和23年に資本金25万円で株式会社第二書房を事務所など借りないで、我が家で仕事を始めたのだ。

 

ぼくが駒沢大学に入学した頃で、電話もまだなかった。庭を隔てた山野の家の台所の窓が開いて「伊藤さん、電話ですよ」と大声で呼んでくれる。

 

やはり縁側にあった電話で用を足したものだ。当時、電話を引くのには時間がかかった。

 

03−3421−5462番、その頃の電話がまだ我が家には残っている。使い慣れた懐かしい電話だ。たまにこの電話にかかってくることがあると、若かりし頃のことが思い出される。

 

メールなんて使えないぼくには電話が大事だ。誰かこの電話にかけてみて!

 

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