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2020年10月

2020年10月31日 (土)

いそのえいたろう君よいまどこに!

ぼくの先妻、伊藤君子(芸名:ミカ)が、お風呂場で酸欠死してから早くも、来年(2021年)の1月11日で50年になる。

 

『薔薇族』の創刊も1971年の7月だから、2021年の7月で50年に。半世紀が過ぎてしまった。

 

2009年の6月に彩流社の河野和敬君がミカとの夜汽車の中での出会いから亡くなるまでのことを本にしてくれた。

 

あとがきにぼくはこんなことを書いている。

 

「百年に一度と言われる未曾有の世界的な経済危機に襲われ日本も大変な状態だ。出版会も経済不況と、ネットの出現による活字離れが進み、本が売れず、書店、出版社が倒産に追い込まれている。

 

この本も2社で出版が決まっていたのに、資金繰りがつかないということで投げ出され3度目の正直で彩流社から出版することができた。原稿用紙に書いたぼくの原稿を組版されたゲラになって送られてきたとき感激は忘れることはできない。

 

昭和7年から住んでいた木造2階建てのボロ屋の風呂おけに入っていたら死ぬことはなかったが、ミカは経済的にうるおってきたので生活の匂いがしないところで創作したいといい出し、近所に新しいアパートができたのでそこの2階に暮れの12月に引っ越してしまった。

 

幼稚園に通っている息子の文人は、ぼくの母親まかせで、よく面倒を見てくれていたので心配はなかった。

 

移り住んだアパートの風呂場は北向きで、斜めに開く窓がついていたが、1月のことなので閉め切っていた。

 

いつもならぼくが風呂をわかして、どうぞという感じだったが、その日に限って製本屋の社長、今の女房、久美子の兄が、本の取次店(問屋)の係長を接待し、ぼくと3人で新宿東口のキャバレーに連れていってくれた。

 

係長がキャバレーを出たら、サウナに入りたいというので、サウナに入り、小田急の終電で帰ってきた。

 

ミカはクラブ「スペース・カプセル」のショウに毎週1回出演していて評判だったが年明けて最初のショウのテーマは「雪女」だった。

 

サウナに入ってこなければ、いつものように風呂をわかして、「どうぞ」という感じだったが、先に寝てしまったのがいけなかった。

 

ミカは自分で風呂に入ったが、酸欠で死んでいた。

 

それから半年ぐらいは、仕事も手につかない状態だったが、その頃のぼくは若かった。

 

元気がもりもり湧いてくると、今度は夜が来るのがこわかった。そんな時に現れたのがいそのえいたろう君だ。その頃は井の頭線の東松原のすぐそばのアパートに、美人の奥さんと子供さんとで住んでいた。

 

いその君の著書の最初の本は、ぼくが経営する第二書房から出版した。『好色=女のカレンダー』という書名だった。

 

その頃、いその君は大橋巨泉さんが司会する「11PM」のコーディネーター兼レポーターを18年もしていたので、ぼくも何回か出演させてくれた。

 

女房に急死されて元気のないぼくを連れ出し、キャバレーに行ったり、新宿公園の暗闇の中でセックスしている若い男女を見に行ったりと元気づけてくれた恩人だ。ぼくは仕事に励み立ち直ることができた。

 

最近、いその君の消息はしれない。時々その頃のことを思い出しているのだが、81歳になるいその君、どうしているのだろう。

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2020年10月26日 (月)

知らない人から送られてきた歌集!

まったくお会いした記憶がない歌人の加藤英彦さんという方から『歌集プレシピス』が送られてきた。

 

クロースの表紙に書名と著書名が箔押しされている。装丁は間宮俊一さんという方、「プレシビス」とは危機的な状況や断崖の謂いで、ここ数年、集団的自衛権や沖縄の基地問題、原発の再稼働や憲法改正など、政権は急速に危うい方向へと舵を切り始めたように思う。そんな暗鬱な時代への喩を込めて集名とした。と、あとがきにある。

 

略歴には「1954生まれ。(66歳)。1972〜1977年結社「創作」に所属。1976〜1987年結社「氷原」に所属。現在、無所属。現代歌人協会理事。日本歌人クラブ会員。日本文藝家協会会員」

 

発行元の「ながらみ書房」は、歌集の自費出版を手掛けている出版社で、社長の及川隆彦さんは、若い頃は出版社に勤めていた方だ。

 

2015年3月に「ながらみ書房」から大学歌人会の後輩の実践女子大学卒業の深井美奈子さんが豪華な『深井美奈子全歌集』を出版したときにあとがきを書かせてもらった。祖父も父親も、息子たちも医者という貧しさなど知らないお嬢様だ。

 

ぼくよりも5歳も年下なのに、もうこの世にいない。深井美奈子さんのあとがきを書いたご縁で、「ながらみ書房」の及川隆彦さんと知り合った。

 

おそらく加藤英彦さんの歌集『プレシビス』を送ってくれたのは、「ながらみ書房」の及川隆彦さんだろう。ぼくは作歌していたのは20代前半までで、それから短歌とは縁が切れている。

 

短歌を作っていたことから、「令和」の名付け親、中西進さんと知り合い、中西さんがぼくの作品を絶賛してくれたので、ぼくは自信を持ち、それからの人生は積極的になりいい仕事を残すことができた。

 

ぼくは短歌というものは、57577の引文字という規則を守り、その中で表現すべきで、加藤英彦さんの作品は、短詩というべきだろうが、今の時代、短歌の世界も変わっているので、ぼくがとやかく言うべきではない。

 

  階段にすわる少女を眸をあわす湯からあがりし母のまぼろし

 

  さっき富士をみて来ましたと夕風の束をかかえてもどりぬ母が

 

時局を歌った作品も多いが、両親を歌った作品が胸を打つ。

 

  まだひとり棲んでいるという夕まぐれ父よこの家にさまようをやめよ

 

  軽くなりたる父を湯舟に洗いおり触るれば楽器のような肋を

 

  父を焼く夢よりもどり来る母がくつくつと春の野菜を煮つむ

 

  少年は老いる速度をはかりおり見下ろす川のふかさが暗い

 

  遊園地にも陽はおちてメリーゴーランドの馬たちが一頭ずつ目をとじる

 

  撃たれたる子も夕ぐれはもどる家ありて厨にカレーが匂う

 

加藤英彦さん、親思いのやさしい方だ。ぼくは父親にはまったくなんの感情もない。母親が無学なので馬鹿にされていたが、病気になって母親の看護なしでは生きて行かれなくなってしまった。

 

加藤さん、うらやましい方だ。

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2020年10月24日 (土)

人間っていつまで病気との戦いが続くのか!

1992年(今から28年前)そのころのぼくは『薔薇族』誌上で、帝京大学附属病院の松田重三先生にお願いして、特別にエイズ検査の窓口を作ってもらうなどしていたが、『アドン』の編集長、南定四郎さんは、行動を起こして街頭に出るなど大活躍をされていた。

 

身辺の片付けなどしていたら、そのころの読者からの手紙の束が出てきた。

 

「先日、僕は新宿2丁目の「マリンボーイ」(ウリ専の店)という店に行ってきました。僕の相手をしてくれたのは、22歳の男の子でした。僕は23歳なので、ひとつしか違いません。その子が明るければ明るいほど、僕は悲しくなりました。

 

やるだけのことをやっておいて、なぜ、こんな気分になったのか、自分でもわかりません。罪悪感で、2、3日ぐらい食欲がなくなってしまいました。

 

こんな気分になるんなら最初から行かなきゃよかったと後悔しています。でも僕もその男の子と時間いっぱい遊んでいるのです。

 

店にいる時はなんとも思わなかったのに、帰りの電車の中で急に罪悪感を持ち始めました。

 

僕は『薔薇族』を小学校5年の時から読んでいます。でも、広告に載っていた「マリンボーイ」に行ったのは初めてでした。

 

昨年は「スカイジム」に行って、喉の病気をもらってしまい、1ヶ月も点滴を受ける生活を送ってしまいました。『薔薇族』を読む時は「伊藤文学のひとりごと」と「編集室から」に最初に目に通します。

 

その中で伊藤さんがあれだけエイズについて書いていたのに、自分の好奇心に勝てなくて、派手に遊んでしまいました。

 

Hをするときは相手の人にスキンをつけてとお願いしますが、中には嫌がる人もいます。

 

もし僕がエイズに感染したら、誰とも遊ばないと断言できるかは自信がありません。むしろ仲間を増やしてやると思うかもしれないし、とんでもないやつですよね。ごめんなさい。

 

昨年、喉の病気をもらった時は、病院で血液を4本ぐらい取られて検査をされましたが、何も言われませんでした。エイズの検査ではなかったのですが…。

 

エイズの検査って何度か受けた方がいいのですか? 初体験は文通欄で知り合った24歳の人でした。僕が17歳の時でした。

 

それから何十人という男と寝たかわかりません。伝言ダイヤルを使って知り合った人たちとか。

 

僕と同じ歳でエイズになってしまった大学生の気持ち、僕にもよく理解できます。(前の号でエイズに感染してしまった大学生の投稿を載せ、大きな反響があった)

 

この大学生のように強く生きていけるかどうか、自分ではわかりません。SEXを我慢できるか、自信がありません。

 

ホモは悪いことでもなんでもないですよね。人が人を好きになるのは当然ですからね。それが体だけの付き合いでも。ちょっと違うかな?

 

僕は遊ぶ時は、伊藤さんの「伊藤文学のひとりごと」と、「編集室から」の記事を心の片隅に置いているつもりです。

 

でも自分の気持ちと、好奇心に負けてしまうのです。また、いつ病院のお世話になるかもしれないのに、ついつい遊んでしまうのです。

 

自分の気持ちにブレーキをかけることが、時々できなくなるのです。やっぱり検査を受けた方がいいのでしょうか」

 

 

どこの誰かわからない人の手紙だが、行動している読者は、みんな彼と同じような気持ちだろう。

 

エイズがおさまったら、今度はコロナウイルス。人間っていつまでも病気との戦いが続くのか!

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2020年10月19日 (月)

『薔薇族』創刊50年、女房との結婚も50年!

ぼくが最初に本にした昭和53年(1978年)『心が破けてしまいそう・親兄弟にも言えない この苦しみはなんだ』(光風社書店刊)

 

この時代は男好きであっても、女性と結婚しないわけにはいかなかった。結婚問題が多く載っている。その中の京都市のYさんの投稿を紹介しよう。

 

「私はホモです。でも妻や子供を愛しています。どんなに好きな人がいても家庭を捨ててまで好きな人に走るなどということは、とてもできません。そうかといって男の恋人とただ享楽的に、その場さえよければというのでは決してないのです。恋人のために少しでも家庭を犠牲にすることが私にはできないのです。

 

ホモも昔に比べてだいぶ世間に認められるようになってきたとはいえ、今現在、「私はホモです」と、世間に向かって言える人がいるでしょうか。解放運動とかなんとか言っても今の日本では、とても大変なことです。

 

私は幸か不幸か、男も女も知らないうちに(心の中では男性に興味はありましたが)、学校を卒業してすぐに結婚しました。長男がもう高校3年生で、一緒に酒を飲むのが今の私の大きな楽しみの一つです。

 

バアや、クラブにも連れて行きます。(ゲイバアではありません)Y談もします。

 

妻は田舎出の温厚な女性で、精神的にも物質的にも私に満足しているようです。妻はセックスに淡白なので、このごろでは月に数えるほどしか交渉はありませんが、そんなものかと思っているようです。そういう意味では私はとても恵まれているのです。

 

このごろ、貴誌でも結婚問題の不安について取り上げています。ごもっともとは思いますが、結婚しようという気持ちがあれば、躊躇わずするべきと思います。

 

普通の夫婦でも結婚生活はお互いに努力をしていかなければなりません。ましてホモの人が結婚するとすれば、その努力は人の2倍も3倍も必要です。結婚しようという気持ちがあれば努力すべきですし、しなければいけません。

 

結婚生活にとって「性」の問題は大切なことですが、でもセックス だけが全てではないと思います。

 

結婚は「惚れた、はれた」ではなく、時がたてば夫婦の愛情というものが生まれてくるはずです。普通の人間であれば、人を愛することができる人間であれば、夫婦の愛、親子の愛が必ずできてくると思います。たまたま私がうまくいったから、こんなえらそうなことを言えるのかもしれませんが、でも私は私なりに努力してきたつもりです。

 

中には女性なんか見るのも気持ちが悪いという方もいるかもしれません。そのような方はやはり結婚は諦めなければ、しかたがないかもしれません。男性の都合や世間体だけのために女性を犠牲にすることは罪悪です。

 

なんだか偉そうなことを書きました。貴誌の益々のご発展をお祈りします。」

 

投稿してくるような読者は、真面目でしっかりした考え方を持っている人ばかりだ。なんだかぼくが叱られているようなものかもしれない。

 

ぼくの親父は女性に関しては、とんでもない男でどれだけ母親を泣かしたことか。

 

ぼくも『裸の女房』(彩流社刊)に、先妻の女房との出会いから、33歳で事故死するまでの15年間を書いたが、出会ってからの2、3年と亡くなる前の2、3年は、いい亭主だったが、とんでもない男だった。

 

今の女房と結婚して早くも50年。先妻が残した息子を立派に育て上げ、両親の面倒を見てくれたのだから感謝するしかない。

 

素晴らしい読者をもって、ぼくは幸せだった。

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2020年10月17日 (土)

心が破けてしまいそう!

ぼくは88歳になるまでに著書は12〜3冊出している。一番最初の本は昭和53年(1978)光風社書店刊で、内藤ルネさんがカバーの絵を描いてくれている。

 

この時代は同性愛はマスコミの間でもタブーだったので、単行本として同性愛に取り組んだものとしては、最初だったかもしれない。

 

『薔薇族』の創刊が1971年だから、それから7、8年後のことだろう。ぼくの女房の兄が新潟から上京してきて、本の取次店の大手の東販に入社し、それから出版社に勤め、製本会社「越後堂製本」を創立していた。東販の仕入れの担当者から紹介されて、父が創立した「第二書房」の製本をお願いしていた。

 

光風社書店も「越後堂製本」のお得意さんだった。まだこの時代は本はよく売れていたから、ぼくの最初の著書『心が破けてしまいそう=親・兄妹にも言えない、この苦しみはなんだ』は、今では考えられない1万2千部印刷したと記憶しているが、印税などもらった記憶はない。

 

ぼくの本が売れなかったのが原因ではないが、まもなく倒産してしまった。その頃、同性愛を扱った本などなかった時代なのでそこそこ売れたのだろう。

 

嬉しかったのは女性からの感想文を書いた手紙が多かった。ぼくの本が出る数年前に冨田英三さん、神戸新聞の記者だったが、上京して阿佐ヶ谷に奥さんと二人で住んでいた。

 

冨田さんは文芸春秋社から発行されていた『漫画読本』によく執筆していて、絵も描くし、エッセイもよく書かれていた。

 

若い頃、アメリカに渡って、ニューヨークの芸術家が多く住んでいた、ソーホーに住み、帰国してから「ビザールの会」を立ち上げ、若者を集めて様々なパーティを開いていた。

 

その頃、先妻の舞踊家・ミカと入会し、ご夫妻によくしてもらった。ミカは独立して「ビザール・バレエ・グループ」を立ち上げ、冨田さんにはどれだけお世話になったかはわからない。

 

冨田さんの奥さんは、ご主人がゲイであることを隠していたが、『ゲイ』という本を出版したので、隠せなくなってしまった。

 

この本は少し時代に早すぎたのか、この本が売れなかったのが原因ではないが倒産してしまった。

 

煙草好きで、いつも口に煙草をくわえていたので奥さんが前かけをさせていた。肺ガンで亡くなってしまったので、奥さんがぼくに『ゲイ』を読んでの感想文を書いた手紙やオカマちゃんたちの写真をいただいた。

 

パーティ好きの冨田さんの影響で、ぼくはどれだけパーティを開いたかわからない。

 

『心が破けてしまいそう』を出版した頃は推薦文などを書いてもらうことができなかった。そんなことをしたらゲイじゃないかと思われてしまうからだ。

 

書名は秋田県に住む17歳の高校生から送られてきた手紙から名付けた。

 

「伊藤文学さん、どうにかしてください。むずかしいのはわかるけど、このままでは、からだが、そして心が破けてしまいます」からだ。

 

この時代、地方に住むゲイの人たちがどれほど生きづらかったことか。最後の手紙の言葉はぼくの心を打った。

 

「人間が平等なんてだれが言ったのでしょうか。このごろ、なにもかもいやになってきます。」

 

この高校生、ぼくの本を読んでくれただろうか。きっといい人生をその後、送ってくれたに違いない。

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2020年10月10日 (土)

「ラブオイル」は不滅だ!

1991年の『薔薇族』5月号No.220に載っていたぼくが書いた記事がすごい。

 

「不思議な光を放つ<シアター・ミラ>」とタイトルがついている。

 

現在この劇場があるかはわからないが、ぼくが名付けた劇場だから、今もあるなら嬉しいけれど、時代の変化が激しい時代だったからどうなっていることか。

 

「東京一の出会いの場・新宿に誕生!と『薔薇族』4月号に記事が載ってすぐに読者がわっと押し寄せて、土日は超満員になってしまった。

 

ところがビルのオーナーから要望があって、「コメディシアター」という劇場名を改めることになった。そこで劇場側から、ぼくに急遽劇場名を考えて欲しいという依頼があった。そこもあまり、こっちの世界がストレートにわかる劇場名でなくて、ロマンティックな星の名前がいいということだった。

 

ぼくの長男が学生時代に読んだ本が、我が家に残っていたので探してみたら、社会思想社刊の草下英明著『星座の楽しみ』という文庫本が出てきた。

 

「ヘラクレス」とか「ペガサス」とか、いい名前はあるけど、みんなどこかのバアの名前になっている。

 

ダメかなと諦めた気持ちになってきたときに、ぼくの目に飛び込んできたのが、「ミラ」という星の名だった。ラテン語で「ふしぎ」の意味があり、「ふしぎな光」を放つ星だという。これだ!と思った。

 

「シアター・ミラ」は、すぐに決まった。劇場側の社長さんも喜んでOKしてくれて、すぐに看板や、チラシ類、広告まで書き換えが始まった。

 

何の関係もない劇場だけど、それこそ「ふしぎ」なご縁で、劇場の命名までしてしまったぼくとしては、この劇場が大盛況で、文字通り東京一の「出会いの場」になってくれないと困るのだ。

 

劇場側としても、ホールや、トイレなどの照明を落としたりして、出会いの場にふさわしい、ムード作りに懸命だ。

 

映画の他に実演などのイベントも次々に企画している。オールナイトの日もできるだけ増やすそうだから、2丁目で遊びすぎて終電車に乗り遅れたら、ゆったりとした椅子で朝まで過ごすのもいいだろう。

 

とにかく地方の人も状況したら、ぜひ立ち寄ってもらいたいものだ。」

 

 

『薔薇族』の宣伝効果は抜群だ。広告を載せると地方の小都市のバアでも、すぐにお客がやってきたようだ。『薔薇族』の信頼度が高かったからだろう。

 

40年ぐらい前に『薔薇族』から発売した「愛の潤滑液・ラブオイル」は、雑誌は廃刊になってしまったけれど、今でも大手のゲイホテル「24会館」「北欧館」ポルノショップなどでも売れている。ありがたいことだ。

 

ぼくのあだ名が「ラブオイル校長」なんて付けられてしまったくらいだ。どれだけ助かっているかわからない。

 

コロナの影響でどこのホテルも苦しんでいたようだが、徐々にお客が戻ってきているようだ。

 

ネットでも買えるので、ぜひ、使って欲しいものだ。

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2020年10月 1日 (木)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ

あの暑い夏も去って涼しくなってきました。

足腰を鍛える運動の効果があったのか、なんとかカフエ「織部」まで歩けるようになってきたので、しばらくぶりに「文ちゃんと語る会」を再開します。

長生きしていると、友人・知人がみんなこの世を去って、話し相手がいなくなり、寂しい限りです。

 

ぜひ、ご参加ください。

楽しくおしゃべりしましょう。

 

日時・10月31日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ

 

★初めての方、女性の方、大歓迎です。お気軽にお出かけください。

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