« 2020年10月 | トップページ | 2020年12月 »

2020年11月

2020年11月30日 (月)

藤田竜君、撮影のアルバムが7冊も!

2020年11月17日、18日、19日と2泊3日友人の田中英資さんが運転してくれて、女房、久美子と3人で弥彦村の別荘、伊藤館に行く。雪が降る前にと。

 

新幹線で「燕三条」まで行って、タクシーで行けばいいが、コンビニまで行くのには歩いてはいけない。食べるものに困ってしまう。

 

田中さんが運転してくれれば、途中のスーパーで買い物もできるし、夜は「さくらの湯」という温泉があり、食事もできる。車なら15分ぐらいのところだ。

 

下北沢の永年住み慣れた3階建ての薔薇の館(その前は木造の2階屋だった)、美輪明宏さんが暗いゲイの世界を少しでも明るくしたいと豪華な門灯を贈ってくれた。

 

芝信用金庫から2億5千万も借りて、女房の故郷、新潟県の弥彦村に平成5年、「ロマンの泉美術館」をオープンさせてしまった。

 

世の中の移り変わりが激しく、ネットなるものが普及して雑誌が売れなくなり、平成16年11月に382号で廃刊に追い込まれてしまった。月に100万も返済しなければならない。半分は返せたが、結局は担保になっていた『薔薇の館』は駐車場が地続きだったので東邦薬品で買い取ってくれて返済することができた。

 

しかし、家と土地を売ると税金がかかってくる。それを払うことができない。地元の税務署の手を離れ、国税局が競売することに。国税局の人と不動産屋が調べに行ったようだが、あんな不便なところ買う人がいないと判断したようだ。こわすとしたらお金がかかる。リフォームするとしてもお金がかかる。

 

現在、廃墟になっているのだが、三条市の法務局へ、田中さんが連れて行ってくれた。調べてもらったら、なんと国税局は手を引いて、すべてぼくのものだった。晴れて中にある、イギリスの十八世紀に作られた、レストランに設置された舞台にもなる大きな家具(1千万もした)もぼくのものだ。

 

家を壊さなければ、大きすぎて持ち出せないが、こんな立派な家具は今のイギリスでも作ることはできないだろう。

 

レストランとか、カフエを建てる前に、この家具を使ったら、すばらしい店になるだろう。これから買い手を探してみるつもりだ。

 

ネットで「ロマンの泉美術館」を検索すると、映像が出てくる。興味のある人はネットで見て欲しい。

 

東京から別荘の伊藤館に段ボールで詰め込んだ荷物が山積みになっていたが、何度も行って片付けたので、少しは減ってきている。今回も神田の古本屋さんが、蔵書票(エクスリブリス)額装してあって、美術館に並べたもの、額装してないものも、みんな買い取ってくれた。購入した時の10分の1ほどの値段になっているが、これは仕方がないことだ。

 

段ボールを片付けていたら、コクヨのアルバムに貼った男性ヌードの写真が七冊も出てきた。日本初の男性ヌードのカメラマン、昭和20年、30年代に男の写真を撮りまくった大阪のオッチャンのものかと思ったら、なんと藤田竜君の撮影したものだ。

 

何度もお邪魔したことのある、千駄ヶ谷のマンションで撮影されたものだ。おそらく『薔薇族』を創刊する前のもののようだ。『薔薇族』を創刊した頃は、大阪のオッチャンの写真しかなかったから使わせてもらったが、こんなすばらしい写真があったとは。それもわが家にあったとは考えられない。

 

今、確かめようと思っても、この世にいないのだから、どうしようもない。7冊のアルバムに貼られたモデルは、竜さん好みのいいモデルばかりで、不思議なことがあるものだ。

 

さて、このアルバムどうしよう。誰か買ってくれる人いないかな。

 

Img_0088

Img_0087

| | コメント (2)

2020年11月29日 (日)

美輪さんの写真を表紙に使うべきだった!

2004年11月号No.382号で、突然太平印刷社から投げ出されてしまった。その前にも2千万ぐらいの印刷の未払金があったが、ぼくがコレクションしていた、フランスの画家、ルイ・イカールの作品を売り払って太平印刷社に支払ったが、また未払金がたまってしまった。

 

太平印刷社としても、これ以上出し続けていれば、莫大な未払金が残ることを心配して投げ出してしまったのだ。

 

皮肉なことに裏表紙にオカモト株式会社の『ニューゴクアツコンドーム』の広告が載っているではないか。

 

ゲイ関係の広告でなく、一般企業からの広告を入れたいというぼくの夢がやっとかなえられたというのに。

 

なにしろ読者に「廃刊にします」と、予告なしだったのだから、発行部数が3千部ぐらいに落ち込んでいたが、『薔薇族』を長い間、支援してくれていた読者には、申し訳がなかった。

 

「帰るべき家がなくなってしまったようだ」

 

と手紙を送ってくれた読者もいたというのに。

 

それから1年後、上野に事務所がある、株式会社メディアソフトが復刊第1号を出してくれた。ありがたいことだった。

 

表向きにはぼくを編集長ということに。社長の田島広道さんが、居酒屋にスタッフを招いて門出を祝ってくれたが、その数十五人ほどでびっくりしてしまった。

 

ぼくがやっていた頃は、社員らしいのは4、5人ほどだったから。

 

ぼくは創刊号の目玉になるものがほしいと考えて、その頃、ベストセラーを出してその著書が売れていた美輪明宏さんにお願いしてインタビューをすることができた。

 

渋谷のパルコ劇場での「黒蜥蜴」の公演前のたった1日だけの休日をぼくと対談することを承諾してくれたのだ。本当に感謝してもしきれない気持ちだった。

 

目黒の雅叙園の豪華な部屋を借り切っての対談だった。この人にしか撮らせない御堂義乗カメラマンが写真を撮ってくれた。

 

ぼくとふたりだけだと思ったら、メディアソフトの社員、5、6人が美輪さん見たさに押しかけていた。

 

人間落ち目になると見すぼらしくなる。それではいけないと、ふんぱつしてスーツを新調して対談にのぞんだ。

 

復刊第1号と2号にわけて掲載したが、表紙はこわい顔の魅力のない若者の写真だ。「復刊記念特別企画・聞き手伊藤文学・美輪明宏ロングインタビュー」とある。

 

今考えても残念だ。美輪さんの写真を表紙に大きく入れたら、売れ行きが違っていたにちがいない。書店もいい場所に置いてくれただろう。そうなれば女性の美輪さんファンも買ってくれたのに。

 

社長がぼくに思った以上の給料を出してくれたので、ぼくは大ハッスル。美輪さんとのインタビュー、「伊藤文学が上野男街の歴史を探る。お年寄りを大切にする店、上野Bar「上野はやし」のマスター・林さん」

 

新宿2丁目の「ゲイバア「タミー」のママに聞く」と、「伊藤文学のひとりごと」と「編集室から」と書きまくった。

 

だが広告が少ないのに、その頃、勢いのあった「バディ」に対抗するために、お金をつぎこんだのに、太刀打ちできなかった。

 

7、8号出して廃刊に。何千万円か損をしたのでは。編集長は表向きだけで、ぼくには発言権はなかった。

 

復刊2号の「伊藤文学のひとりごと・335」「森茉莉さんが座っていた椅子」「カフエ邪宗門」の記事はなつかしい。

| | コメント (0)

2020年11月23日 (月)

菅総理、景気のいい時代にしてほしい!

1999年の頃(今から11年前)は、世の中、不況だったようだ。ぼくは「伊藤文学のひとりごと・293」に「ひとつの時代が終わったような」と題して書いている。

 

「6月12日の読売新聞によると、「自殺3万人、35%増、不況の影」との見出しでショッキングな記事を載せている。

 

「自殺者数は前年比で35%も急増し、初めて3万人を突破。特に4、50代男性の自殺が増えていることから、厚生省も「不況の影響も否定できない」としている。

 

自殺者の数は1000年の2万3千494人から35%も増加し、3万1千734人にのぼった。3万人を超えたのは初めてで、昨年の交通事故者数(9千211人)と比べても3倍以上になる。

 

なかでも50代男性の自殺は、前年の3千874人に比べ、5割以上多い5千967人。40代男性も97年の3千31人から、約千人増えて、4千33人だった。

 

自殺者数がこれまで最も多かったのは円高不況となった86年の2万5千667人。同省では不況の影響は否定できないとしている」

 

この3万人を越す自殺者のなかには、読者もいるのではないかと心配している。7月号の「編集室から」にも悲しい知らせを書きましたが、同じように金沢に住む読者から手紙を頂きました。

 

「4月29日の「北国新聞」朝刊3面記事のトップに記事が掲載された。名前こそ伏せてありますが、金沢で一番古いホモバア「スナック比呂」のマスターと従業員ののぼる君でした。

 

現在、私は52歳ですが、この店を知ったのは28歳の時、ひとりで飲みに行っても決して退屈させないマスターの人柄、本当に楽しい店でした。のぼる君は高校を卒業すると同時に従業員として働いており、マスターとのコンビが、一層店を盛り上げていたように思います。

 

私も近年はリストラ、失業、転職と、この平成の不況をなんとか乗り切ろうと必死で、「スナック比呂」へも数年行っていませんでした。

 

こんな形で新聞に乗るなんて、あまりにも寂しい二人の旅立ち、借金なんてこの頃はどうにでもなる時代なのに悔しいです。(中略)

 

昨日、「比呂」の店の前に花束を置いて、手を合わせてきました。一つの時代の終わりを告げるように、繁華街、香林坊からの吹きさらしの風が、ひときわ冷たく感じたのは、私の錯覚であったのでしょうか。」

 

金沢に住む52歳の一読者からの手紙だ。この人も数年「比呂」に行っていないという。この人だけでなく、常連でさえも行かなくなったり、手っ取り早く相手を見つけようとするために、インターネットを使ったり、電話を利用したりで、近年、バアに行くひとが 少なくなっているのでは。

 

ぼくも今では下北沢北口の「イカール館」しかお店をもっていないが、カウンターに座りお酒を飲む常連のお客さんがいなくなっている。

 

12時を過ぎても人通りが多かったのが、今では人通りも少ない。いつまでこの不況が続くのかはわからないが、お店も大変だろうし、お客さんのふところ具合も大変なんだと思う。

 

電話をかけてくる読者のなかには、失業しているという人も増えているという。こんな時は助け合って生きていくしかないだろう」

 

今の世の中どうなのか。夜、街中に出ることがないので、わからないが、下北沢の街も、個人商店はめまぐるしく変わって、古着屋だらけの街になっている。

 

現在、自殺者って増えているのだろうか?

| | コメント (0)

2020年11月21日 (土)

親友だったらもっと長生きしてほしかった!

ぼくの親友と呼べる男は、国学院大学教授の阿部正路だろう。彼の死は早すぎた。彼だけではない、多くの友人、知人があの世に旅立って、今のぼくには話す相手が誰ひとりいない。『薔薇族』の創刊4周年記念特大号に『薔薇族考』を阿部正路君が寄稿してくれている。

 

文章が長いからその一部分を書き記しておこう。

 

「伊藤文学君との思い出は尽きない。

 

最初に伊藤君と会った頃は、伊藤君は駒澤大学の学生で、ぼくは國學院大学の学生であった。駒澤大学はもと馬引沢と呼ばれていた土地に建っているのだが、ぼくはすぐ近くの深沢に住んでいた。僕らは奇妙なほど気があった。親友同士として自他ともに許し合う仲であった。

 

伊藤君は佛教を学ぶ大学に通い、僕は神道を建学の精神とする大学で学んでいたのだから、いわば神仏混淆の友人だったといってよい。伊藤君はむろん頭の毛を剃り落としていたわけではなく、有髪の青年だったから、ちょっとした毛坊主といったおもむきがあった。毛坊主は高い宗教観と俗世観との間に立って、さまざまに人を救い続けた人たちの総称であった。

 

だから伊藤君になんとなく毛坊主のイメージを抱いたとしてもさほど的外れではなかったわけである。しかも大変都会的に洗練されているのだから、いわば生粋の江戸っ子の家筋に生まれたといえようが、実際には僕は秋田市に生まれて育ち、遠い祖先は東北人なので、根は土俗的な人間である。その僕に伊藤君は次々と新しい世界を見せてくれたのである。

 

街の毛坊主は、僕を赤坂のナイトクラブや新宿のキャバレーにも案内してくれた。二人はいつもそこで静かに語り合って別れるだけなのだが、時間がありさえすれば、遠い地方の山間や海辺を旅行し、あとは自宅の書斎と大学の間を往復するのがほとんどの僕にとって、そこは目も眩むほどのきらびやかな世界なのだ。そうした世界の中でもっとも強烈に残っている印象は、あるすぐれた若い創作舞踊家の踊りの姿である。

 

街の毛坊主は時として、その創作舞踊家の裸体の照明係ともなった。時として街の毛坊主自身も舞台で踊った。

 

街の毛坊主は、その創作舞踊家のための舞台装置や衣装についても考えぬき、助言もしていたはずである。その創作舞踊家を育てたのは、ほかならぬ伊藤文学君であった。

 

多摩川を超えて、柿生の丘陵に遊びました。光っているすすきをわけて歩きました。萩の花もきれいでした。「あざみの花が一番好き」彼女はそんなことも言いました。どんぐりの実もとりました。人っ子一人いない丘の道は二人の道でした。

 

これは今も僕の手元にある伊藤君の若い日、手記のように長い手紙の一節である。これももう20年も前の思い出のひとこまである。

 

それは夏。伊藤君は東北行きの満員の汽車に乗り、そこで美しい少女と出逢い、その後2ヶ月ばかり経てから再会し、初めてデートしたときの印象の一端なのである。

 

ここには若い日の伊藤君の内面の優しさが溢れている。その後、小さな暗い養父との事件があって、伊藤君はその少女を守り抜こうと決心し、ついには立派な創作舞踊家までに育て上げていったのである。

 

そうしたやさしく強い意志が伊藤君の内部に今も消えることなく存在し続けていることを僕は知っている。

 

人が訪ねてくるとき、まずもってこまごましたプランを示し、そのことが『薔薇族』の友人たちのために守られ続けていることを僕は知っている。」

 

ミカとの出会いから、33歳で事故死するまでの15年間を『裸の女房』にあますところなく描いている。

 

ぜひ、アマゾンにご注文を!

 

Img_0054

| | コメント (0)

2020年11月16日 (月)

『薔薇族』は昼間読むもの

1989年(昭和64年・平成元年・今から21年前)の『薔薇族』11月合・No.202号の投稿欄に「『薔薇族』は昼間読むもの」と題する高知県の草叢しげるさんの投稿が載っている。

 

「『薔薇族の小部屋』の本を手に今日も床に向かっています。少年時代は『ひまわり』を愛読して育ちました。

 

内藤ルネさんんお目の大きい、唇の厚い少年のヘアスタイルもばっちの絵、今も表紙を飾っている、ルネさんの絵のハンカチなどに、すっかりとりつかれてファンになってしまいました。

 

ある夜、なんだか素晴らしい愛が待っているような気がして、勤めからの帰りに立ち寄って散歩する公園で上司にばったり会って、意気投合し『薔薇族』を一冊いただき、初めて存在を知りました。当時は地方では市販されていなくて、注文して取り寄せるとか、東京や大阪に出張するたんびに頼んで毎号欠かさず愛読してきました。

 

『薔薇族』なんという若々しい響きでしょう。これほど胸を高鳴らせ、熱い情熱を感じさせる雑誌はほかにありません。

 

悲しみも嬉しさもなんでも話し合え、赤裸々に腹を割って胸のもやもやを吐き出せるのでストレス解消にもなると思われます。

 

たくさんの愛読者の友を求める心からの絶叫がひしひしと伝わってくる大きなオーケストラのような気がします。

 

そのレコードに針をそっと置くように本を開くと大きな叫びが、いとも静かに波紋のように胸の中に押し寄せて広がります。上品な快感が体内にリズミカルに高鳴りながら鼓動となって響きます。

 

人と人との出会い。そして精通という尊厳な儀式。その中には緊張と安心とが複雑にからみあい、そしてひそやかにむさぼる快感。熱いものが体じゅうをかけめぐるメカニズムは、自分では求められない。体外からのものであるだけに神秘さにしびれさせられます。

 

ソフトなロマンを秘めた『薔薇族』の本は、昼間読むものと決めています。ぎらぎらと太陽がまぶしく照りつける部屋に閉じこもり、どうしようもなく胸のときめきと抑えきれない躍動感に生きている実感を味わうのです。もちろん仕事もはかどります。

 

あのページのあの写真をいま一度と開き、ポーズに遠い青春の日を蘇らせています。

 

最近では表情豊かなふたりのからみ、まじめそうな若者の切ない表情などに目が止まり、分厚いページの中から真珠の玉を見出す喜びを楽しみにしています。」

 

なんという名文だ。こうした読者を持って編集長として、こんなにうれしいことはない。

 

今どきの若い人には、経験したことがないから理解できないだろうが、手巻きの蓄音機に大きなレコードをのせ、息をとめるほどにそっと針を置く。

 

そうすると大きな叫びが、いとも静かに波紋のように胸の中に押し寄せて広がります。なんともうまい表現だ。

 

この方、内藤ルネさんと、藤田竜さんが苦心して作り上げた『薔薇の小部屋』たった2号でぽしゃってしまったけれど、今見ても執筆者は豪華で贅沢な雑誌だ。

 

この『薔薇の小部屋』を手に今日も床に向かっています。と書いてくれている。

 

「少年時代は『ひまわり』を愛読して育ちました。

今でも本棚に『それいゆ』『ひまり新聞』『歌劇』『宝塚グラフ』『こんにちは』『マドモアゼル』『人形物語』『リボン』の付録『ルネ先生のスタイル、ヌリエ』など、もういっぱい大きな思い出の宝物として大切にしまっています。そして『薔薇族』も。」

| | コメント (0)

2020年11月14日 (土)

文通欄が一番読みごたえがある!

読者のひとりとして、親しくお付き合いしてきたAさん。お金持ちでロールスロイスに乗っていた方で、何度も乗せてくれ、豪邸の自宅に招いてくれて、御馳走してくれていた。

 

もう何年も前に亡くなられているが忘れられない方だ。奥さんや子供さんも何人かいたので、ゲイであることを隠しておられた。

 

ぼくは『薔薇族』を創刊したときに、まず考えた事は、仲間を見つけにくい人たちのために文通欄をもうけて、地方の人でも仲間を見つけられるようにしたいという気持ちが強かった。

 

ネットなんてものがなかった時代だから、途方もなく時間がかかったけれど、それしか方法がない。

 

幸いなことに女房は若いころ手紙の宛名書きを仕事としていたぐらいだから、手紙の宛名書きは早かった。午前中にどかっと手紙が届くと夕方までには、名簿を見て宛名を書きポストに入れていた。

 

Aさん、直木賞を受賞しているくらいの作家だが、『薔薇族』の中で一番注目しているコーナーは「薔薇通信」だという。

 

針金とじの初期の頃の『薔薇族』は、隔月刊だったから、文通欄への投稿は、長いものもあり、短いものもありで、いちいち清書して印刷所に原稿を入れていた。

 

字数を決めて書き込む頁を作ることを思いつかなかった。それが文通欄に投稿する頁を作り、回送券も5人までに送れるようにした。一冊の『薔薇族』を購入して、何十人もの手紙を送られてきたら大変なことになってしまうからだ。

 

Aさん、こんなことを書いている。

 

「『薔薇族』の中で、もっとも読みごたえのあるのは「薔薇通信」ではないかと思う。

 

わずか百三十字あまりの通信文ですが、「文は人なり」というように、わずか11行の中に、私はひとりの人間の教養の程度から欲情の起伏から、はては人生態度まで読み取ることができます。あれをうまくつなぎ合わせていくと、ダイヤモンドのきらめきを持った人間像が浮き彫りにできるのではないかと想像を逞しうしています。

 

そうおっしゃるのなら自分でも小説に書いてみたらどうですかと言われそうですが、そういう野心がないわけではありません。

 

なら自分がそのモデルになってあげますよという人と、自分こそあの渋谷の書店の青年に匹敵すると思う人は、文学さんを通じて私に申し出てください。

 

最後になりますが、『薔薇族』も百五十号目を迎える由、今後も多くの「迷える仔羊」たちのために良き道標となってください。」

 

Aさん、若者にもてるタイプの人ではなかった。理想の若者と出会えなかったのでは。

 

Aさん、自分が亡くなっても一銭も税金をとられないようにしていると、おっしゃっていたが、亡くなってから何年かして、国税局に何億円もの税金を納めさせられたと新聞に報じられていた。日本の国税局ってすごい。

 

東大を出られたぐらい頭のいい方だったのに。

 

一番多い時は千人もの人たちが文通欄に投稿し、相手を求めていた。文通欄に投稿したいと思うものの家族がいてできなかった人もいたに違いない。

 

1984年の12月号の『薔薇族』。

 

「世間を気にしながら生きてついに30代。ひとり2LDKに住んでいると、無性に童顔で清潔な感じの弟がほしくなる。

 

誠実で少し面白い、筋肉質のサラリーマンタイプの兄を求めている25歳くらいまでの弟君、手紙ください。がっかりさせないつもり」

 

板橋区に住む自然流君の投稿。どんな出会いがあったのだろうか。

| | コメント (0)

2020年11月 9日 (月)

発禁処分になってかえって売れました!

『薔薇族』創刊4周年(第30号、今かrあ45年前)記念特大号にぼくは、「創刊4周年に寄せて・ひとりひとりと握手を」と書いている。

 

「ぼくの長男(小学校5年生)が、まだ2つか3つのころでした。ヨチヨチ歩きのあぶないさかり。そのころのぼくらは共稼ぎで、女房が勤めに出ていることの方が多く、ぼくのほうが子供に怪我をさせてはいけないとお守役でした。ひまだったんだな、今考えると。

 

単行本しか出していなかったから、仕事に追われることもないし、子供のお守りができたのです。

 

家に子供を置いてお袋に任せておくよりは、車(ホンダの軽四輪でした)に乗せて、本の配達に出かけたり、印刷屋や製本所まわりをするほうが気が楽だったのです。

 

自分しか頼れるものはないと思っていたし、自分で運転する車なら、もし事故を起こしてもあきらめがつくからです。子供をけがさせないで育てることも仕事の一つと、毎日のように車に乗せて走り回っていたのです。

 

3月12日、朝の頃、まだ寝ているうちに警視庁保安第1課から、6人の担当官がこられて、『薔薇族』の2月号と4月号をわいせつ文書図画販売目的所持の容疑で調べるとのことでした。

 

東京新聞のその日の夕刊に、こんなふうに報道されています。

 

「ワイセツで手入れ 月刊誌『薔薇族』

警視庁保安第1課は12日、男性同士の性愛描写をした月刊誌『薔薇族』をワイセツ出版物と断定、発売元の東京都世田谷区代沢5−2−11株式会社第二書房をワイセツ文書図画販売の疑いで家宅捜索し、証拠品多数を押収した。

 

手入れの対象になったのは、2月号、4月号で、いずれも全員にわたり絵入りで男性同士の性愛の模様を露骨に描写している。」

 

証拠品多数を押収などというと、どこからどこまで家探ししたように受け取れますが、この日の調べは大変紳士的で、机の引き出しを勝手に開けたりすることもなく、どこの取次店に何部納入しているか、また印刷所、製本所の請求書、領収書(これは何部印刷されているかを知るため)の提示を求められただけでした。

 

それと2月号、4月号の残本を持っていかれただけ。ですから読者が心配している文通欄の名簿を持っていくということは一切ありませんでしたから、ご安心ください。

 

さて、2月号と4月号のどこをワイセツと指摘されたかというと、2月号に関してはグラビアページの「もの憂い夜」撮影・波賀九郎のページです。陰嚢と陰毛が見えるというのです。

 

4月号は「女性自身」の男性ヘアーの問題があり『薔薇族』に波及するおそれがあったので「ヘアーが見えた」にぼくの見解をのべておきました。

 

告白体験記「野郎はいいぜ」のほとんど全ページが指摘、それから「男色西遊記」これは本文の全ページにわたって指摘されました。

 

写真の波賀九郎、嵐万作の諸君も呼ばれ、アルバイトの姉まで呼ばれました。調書調べも紳士的で、わざわざ試写室を使ってくれ、お茶も何度もいれてくれました。

 

今度は検事の調べで、松宮崇検事が担当で、さすがに頭のキレが良い方で、話を一応聞いて書記官に筆記させるのですが、非常に要領良く文章にしていくのには驚きました。

 

結果においては、絵、写真については罪にするに値しないという検事の見解でした。

 

交通違反と同じように略式で、ぼくが20万円、嵐万作さんが10万円(ぼくが払いました)はらって終わりでした。

 

取次店も、書店も「もう売らないよ」ということもなく、いつものように売ってくれているので安心しました。」

| | コメント (0)

2020年11月 7日 (土)

『肉体の門』の田村泰次郎さんの思い出!

友人の朝日新聞編集委員、小泉信一さんが2020年11月8日の朝日新聞夕刊に「『肉体の門』1947年刊(今から73年前)田村泰次郎著「生きてやる焼け跡からの叫び=戦後のニヒリズムと欲望」と題して記事にしている。

 

なにしろ73年も前のことで、たまたま僕は縁があって、田村泰次郎さんを知っていたから、この記事を読んで懐かしく思い出してしまった。

 

1962年(昭和37年)12月(今から58年前)ぼくの親父が女に狂って、出版の仕事を投げ出し、ぼくにまかせきりになったので、ぼくの企画で「ナイト・ブックス」を新書版で出した第1号が、武野藤介の『わいだん読本』だった。

 

その後武野藤介さんの息子さんに嫁さんを世話したりしたので親しくなり吉祥寺に住む武野さん家によく遊びに行っていた。

 

その頃、中央線沿線に住む作家や画家たちが「カルヴァドスの会」を結成し、西荻窪駅前のレストラン「こけし屋」で会を開いていた。

 

NHKの人気番組「トンチ教室」の名司会者・青木一雄さんの司会で年末に会員が集まり、パーティが開かれ、武野さんの紹介で、先妻の舞踊家ミカが仲間の松前美奈子さんと二人で、余興に踊っていた。

 

中央線沿線に住む、有名な文士、評論家、画家、芸能人ら70人が「こけし屋」に集まった。

 

12月の忘年会とクリスマスをかねての華やかで豪華な会合だった。ミカは20代後半の頃で、ぼくは照明係をしていた。

 

2階の宴会場に料理屋お酒が運ばれて宴会が始まる。踊るといってもお客さんは通路の両側に座っていて、そのまんなかの狭い通路を使って踊りを見せるのだから、目の前にいるお客さんを注目させ、圧倒しなければならない。ストリップ・ショウならやりようがあるだろうが、衣装をつけての踊りだから、色気を出すといっても限界がある。

 

当然、アドリブで踊るのだから、表情や、体から発散するミカの迫力は見るものを圧倒していた。酒を飲んでガヤガヤしていたお客さんも、その動きの迫力で息を飲むばかりにシーンと静かになった。

 

踊りが終わって衣装を着替えて宴席に戻ってくると、若い女性は二人しかいないのだから、老人たちのホステス役にならざるをえない。

 

ご高齢の先生方もお酒が回ってくると、ミカたちは餌食になってしまって、抱きついたりするのは当たり前、キスまでされてしまう。それでもミカは当然のように嫌がることなく笑顔で老人たちのお相手をしていた。

 

今年、元気であっても翌年の会には、あの世にいかれてしまう方がいたから、老人方がひとときを喜んでくれたのだ。

 

田村泰次郎さんは毎回、ミカの踊りを見てくれていた。1965年(昭和40年)6月28日の夜に催された「伊藤ミカ・青津嘉子モダンダンス・リサイタル」のプログラムに「伊藤ミカさんの踊り」と題して一文を寄せてくれた。

 

「ふだん、相当に激しい、厳しい練習を積んでいることも、まちがいない。なぜなら、年ごとに彼女の踊りは上達しているように見え、私たちの目を見張らせるほどに、ぐんぐんと自分の道をつきすすんでいるからである。(中略)

 

彼女は黙っていても、踊り自身が伊藤さんの言葉である。ここまで観るものを感じさせるのは、並大抵のことではない」

 

小泉信一さんの記事を読んで、遠い昔のことを思い出した。ミカが亡くなって、もう50年にもなる。

| | コメント (0)

2020年11月 5日 (木)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」は、11月28日(土)に開催いたします。
 

日時・11月28日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
はじめての方、おひとりさま、女性、
どなたでも大歓迎です。
お気軽におでかけください。

| | コメント (1)

2020年11月 2日 (月)

自民党議員の無能ぶり!

2020年10月16日の東京新聞夕刊「LGBTへ繰り返される問題発言・知識や理解を議員は深めて」の記事を読んで、自民党議員の無能ぶりにあきれはててしまった。

 

「足立区の白石正輝・自民党区議(79)が、9月25日の区議会で同性愛が広がれば足立区が滅びる、との発言をし批判を浴びている問題で、白石区議は今月20日にも本会議で謝罪と発言の撤回をする。LGBTなど性的少数者を巡っては、ここ数年だけでも自民党議員から同様の発言が相次ぐ。なぜ、問題発言は繰り返されるのか。」

 

ぼくは『薔薇族』の編集長時代に10数冊の著書を出版しているが、いずれも印刷部数は少なく、文芸春秋社の子会社の「文春ネスコ」から出版された『編集長秘話』は6千部、週刊文春には1頁をつかって紹介してくれ、文芸春秋社から発売されている他の雑誌にも広告を載せてくれたが、ベストセラーにはならない。

 

今の時代、同性愛に対する理解は深まってはいるものの「同性愛は趣味」と考えている人が多いし、「気持ち悪い」と思っている人もいる。

 

自民党区議、白石正輝さんの発言も本人はそれほど非難されるとは思わなかっただろう。

 

エイズの時代にお世話になった帝京大学附属病院の松田重三先生の話では、医学生に教える教科書には同性愛のことは書かれていないとのことだった。(今のことはわからない)

 

ぼくも同性愛は異常でも変態でもないと、言い続けてきたが、なかなか理解されない。大きな学者の団体、学術会議のようなところで一般の人が理解できるような発言でもしてほしいと思うが、同性愛のことを言えば、その人がゲイだと思われてしまうから、学者も発言できない。

 

平沢勝栄衆議院議員が集会で「LGBTについて、この人たちばかりになったら国はつぶれてしまう」と、19年1月に喋ったそうだが、こんな男が議員になっているなんて情けない。

 

ゲイの人たちがもっと、もっと声を大にして同性愛を理解してもらうように発言すべきだが、そんなことをする人は少ない。

 

日本に同性愛者は、300万人はいるだろうが、団結して選挙に同性愛の議員を出して世の中の人に同性愛を理解してもらうようにがんばるべきだろう。

 

アメリカではゲイの人たちが、大統領選挙に票を入れなければ当選しないそうだ。

 

マスコミもゲイのことを取り上げることはない。東京新聞だけが、ゲイのことを取り上げてくれている。

 

『薔薇族』は、新聞、週刊誌、テレビなどにもよく取り上げてくれたが、全盛時代でも3万部を越したことはない。あとから真似して出てきたゲイ雑誌も同じことだ。

 

300万人、ゲイの人が日本にいるとしたら、1%の人しか購入していないということになる。いかに買いにくい雑誌だということだ。

 

『薔薇族』は16年前に廃刊になってしまったが、朝日新聞の小泉信一記者が「『薔薇族』廃刊」の記事を買いてくれ、マスコミが押しかけてきた夜のことを忘れることはできない。

 

他の真似をして出したゲイ雑誌は廃刊になっても静かに消えていくだけだ。今は応援してくれて、ネットをさわれないぼくを助けてくれ、原稿用紙4枚にひとつの話をまとめて送ると、土曜と月曜に更新してくれる人がいる限り、ひとりでもふたりでも同性愛を理解してくれるようにと書き続けている。無能な議員さんは読んでくれないだろうが。

| | コメント (0)

« 2020年10月 | トップページ | 2020年12月 »