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2020年12月

2020年12月30日 (水)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ

令和3年最初の「文ちゃんと語る会」は1月23日に開催します。
 

日時・1月23日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
はじめての方、おひとりさま、女性、
どなたでも大歓迎です。
お気軽におでかけください。

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2020年12月28日 (月)

星のひとつになってしまった!

とにかくぼくは人を集めることが好きな人間だ。ぼくの著書は12,3冊だが、本を出版するたんびに友人、知人を招いて、新宿の京王プラザホテルが一番多かったが、大きなホールを借りて、出版を祝う会を開いた。

 

これはお世話になった冨田英三先生の影響だと思う。先生も人を集めることが好きな方だった。

 

1969年(昭和44年)が、先妻の舞踊家・君子(芸名・ミカ)一番精力的に活躍して輝いていた年だ。次の年の9月17日の夜に催された、渋谷の山の手教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」(現在はカフエ)でのイベントが一番記憶に残っている。

 

このイベントは西独とイタリアの合作映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』(ヘラルド映画)の宣伝のためのものだ。

 

企画を立てたのは画家の冨田英三さん。この先生、無類のイベント好きで、この先生とミカが組んでのイベントは数しれずだ。

 

冨田先生、前衛的な若者を集めて「ビザールの会」を結成していて、その会にミカもぼくも参加している。「ビザール」って「風変わりな」という意味だそうで、それで「伊藤ミカ・ビザール・バレエ・グループ」と名付けたのだ。

 

『週刊ポスト』の10月3日号の記事によると、「教会の下のサド・ストリップがあげた宣伝効果」と題して、「この催しは日本ヘラルド映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』のPRのためのもの。20万円出したというヘラルド側も、この日、集まったジャーナリストが55人というわけで安い宣伝費だと大ニコニコ。サドの後継者をもって任ずる前衛舞踊家が商魂に踊らされた。この一幕、地下のサドが見たらサド悲しむだろう」と皮肉めいた記事にしている。

 

その頃、ぼくは駒沢大学のOBで都内の住人をターゲットにして、御茶ノ水カフエを借り切って会を開いたことがあった。

 

神津島(伊豆7島の中のひとつ。大島の先の島だ)ここも東京都なので、神尾くんにも案内状を出してしまった。

 

当日、なんと東京に来る漁船に乗って、神尾くん(あだ名、ガミさん)が出席してくれたではないか。

 

神尾くんはぼくより年上だが、国文科の同期生だ。神津島村には小学校と中学しかない。本土から島に渡った先生方も、2,3年もしないうちに逃げ帰ってしまう。

 

神尾くんはなんと10年以上も島に残り、写真を撮るのが得意なので、島の人達の子供の7・5・3のお祝いの写真とか、結婚式の写真など撮っていた。

 

本土から都のお役人が視察になどくると、案内人もしていた。ぼくはガミさんに誘われて島に渡ってしまった。

 

その頃は港がないので大きな船は横付けにできない。沖の方で停泊し、小さな船に乗り移って島に渡る。

 

ぼくはすっかり島に魅せられて、それから先妻のミカがお弟子さんを連れて、島に渡り何年か合宿したことがあった。

 

一番の親友の松前美奈子さん。砂浜でふたりで踊っている写真がある。ミカは神津島の海岸で踊ることによって、舞踊への目が開けたと言っていた。

 

このときの写真を見ると、生き生きとしていて美しい。その相棒の松前美奈子さん、2020年の12月24日、クリスマスイブの日に老衰で亡くなったと、娘さんから電話があった。

 

ガミさんもすでにこの世にいない。

 

ミカの生き生きとした、美しい表情。もう神津島に行くことはできない。神津島は一番美しく星を見れる島だそうだ。ミカも美奈子さんもその中の星のひとつになっているのでは。

 

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2020年12月24日、83歳で亡くなった松前さん

 

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駒大の同期の神尾くん

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2020年12月21日 (月)

空港まで薔薇の花束を抱えて!

アメリカのロサンゼルスに渡って、25年にもなるという日本人。その相棒はイタリアからの移民の背の低い男、若い頃は航空会社で仕事をしていたという。

 

彼らとどう知り合ったのかは、まったく覚えていない。彼らと出会わなかったら、ぼくら夫婦がロスのゲイパレードに、オープンカーに乗って参加することはなかった。それも3回も。

 

サンフランシスコのゲイパレードにも。当時の黒人の知事から、ぼくの仕事に対しての表彰状をいただいたこともある。日本ではぼくのゲイの人たちへの働きなど、ほめてもらうことはなかったのに。

 

彼らがなんの税金かわからないが、払わないと刑務所に入れられるというので、女房が350万も貸したことがあった。2、3度は数万円振り込んできたが、あとはそれっきりだ。彼らと出会わなかったら、アメリカのゲイパレードに何度も参加したりできなかったと思えば仕方がないか。

 

ロスの昭和天皇も泊まったという名門のホテルに何度か泊まり、ラスベガスにも連れていってくれた。

 

美輪明宏さんも彼らの案内で、ロスに行ったこともある。イタリア人の男は文章を書くことがうまくて、アメリカのゲイの情報を『薔薇族』に何度も寄せてくれた。相棒が翻訳してれて。高い原稿料になってしまったが仕方がないか。

 

空港まで薔薇の花束を持って、出迎えてくれたので助かった。車であちこち連れて行ってもくれたし、メキシコの国境沿いの街、古いホテルもあって、落ち着いたいい街だった。

 

日本人はガンで亡くなり、イタリア人がその後、どうなったかは不明だ。

 

彼らに感謝しているのは、モーリスさんという、ゲイの指導者を紹介してくれたことだ。ウェスト・ハリウッドというゲイの人が8割ぐらい住んでいるという、人口、4万人ぐらいの街。そこの広い道路で、毎年、ゲイパレードが催される。道路に面しているお店は、ゲイの人が営業しているので、センスのいいお店ばかりが、ずらっと並んでいる。

 

そこに集まる男たちも、ボディビルで鍛えた人たちなので、そのたくましさは見事だ。カメラを向けても、どの男たちも自慢の肉体をほこらしげに撮らせてくれる。

 

彼らに紹介されて、ウェスト・ハリウッドの市庁舎を訊ねたが、市長をはじめ議員も4、5人しかいない。日本みたいに小さな村役場に議員が10何人もいるということはない。

 

『薔薇族』と同じようなゲイマガジン『フロンティア』のオーナーであり、編集長であるロバート・グレイグさんと恋人のフランス人と出会うことができた。

 

オーナーの家に招待されたことがあったが、30代のフランスの恋人は、料理が上手で、アメリカの料理は量ばかり多くて、おいしくないが、フランス料理をフルコースで、ご馳走してくれた。その味は見事だった。

 

英語などしゃべれなくても、目を見ていれば通じると言ってくれた。このお二人を女房の古里、弥彦村の「ロマンの泉美術館」に招待したことがあった。

 

芸者さんを何人も招いて、ホテルで宴会をひらき、よろこんでくれた。なんとこのお二人もエイズで亡くなってしまった。

 

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お二人ともエイズで亡くなられて!

 

お墓参りに翌年、うかがったが多摩墓地なんてものではない。公園墓地でハリウッドのスターたちの眠るお墓もあり、お花が絶えることがない。お姉さんは高校の教師を長いこと務めていた方で、上品な方だった。

 

日本人でゲイパレードにオープンカーに乗って参加した人はいない。いい思い出になっている。

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2020年12月19日 (土)

二人っきりの世界を!

「心から愛しているぜ!」と第する「人生薔薇模様」のコーナーに載っていた投稿。(1985年6月号・No.149)

 

「俺、19歳の大学生。高校時代にはバスケットボールに汗を流した。今はテニス部に入っている。雑誌を通じて知り合った22歳になる大学生の彼がいる。

 

もう知り合ってから半年がすぎて、彼には俺の体をすべてささげてしまった。彼はもちろん俺の体をやさしく抱きしめて、尺八もしてくれるが、最近は俺が彼の体を攻撃して、尺八して口の中に果てさせてしまうことが多くなった。

 

彼はデートするときは、必ず家の近くまで迎えに来てくれて、あちらこちらを彼の車でドライブする。俺のハンドルさばきで彼は助手席に。俺は彼のマンションへ車をつけて、彼とともに部屋へ直行する。

 

熱いコーヒーをいれて、レコードを聴いたり、テレビをみたり、二人だけの空間が作られる。話がはずんで時間が経つのも、ついつい忘れてしまう。

 

もう、そろそろ彼から誘いがくるかな? と思っていると、彼は後ろから俺の肩に腕をかけてベッドへ導いてくれる。俺はだんだんと緊張が高まり、胸の鼓動が強く伝わってくる。でも、俺はベッドの上に上がると、彼をしごく調教師へと変身する。

 

もう彼の股間は、はちきれんばかりに盛り上がってきてる。彼を下にすると口唇にディープキスをして、セーターを脱がし、やがて手が下へ行く。ベルトをはずして、ピチピチのジーンズを脱ぎ捨てて、白いビキニ型のブリーフ姿になり、彼の体の上におおいかぶさって強く抱きつく。彼の胸のぬくもりが伝わってくる。

 

俺は彼のビキニの上からPをやさしく愛撫してやる。彼の息遣いが徐々に荒くなっていく。

 

彼のビキニのヒモをほどいて下にずらすと、そこには俺のものとは比べものにならないほどのPが出現する。これは俺だけのもので、ほかの誰にもさわらせたくない。俺はいっきに口の中に入れ尺八すると、彼は気持ちよさそうに体を左右にくねらせて悶え出す。手によるピストン運動と尺八をくりかえしているうちに、彼は最高潮に達し、俺の口の中で果ててしまった。

 

そのあと、俺と彼はベッドの中でひと晩を過ごした。俺たちは他人から何の邪魔もされることなく、ふたりきりの世界を楽しむことができる。まるで本当の兄貴のようだ。なんでも相談できる良き兄貴で、これからもずっと迷惑をかけっぱなしになる。心から愛しているぜ。(宝塚ラブハンター)」

 

若いっていいな。ぼくもこんなときがあったっけ。ぼくの場合は相手は女性だったけれど。

 

88歳になるまで生きていると、友人、知人はみんなあの世に。話し相手がいなくなってしまうのは寂しい。

 

こんなことは書かないほうがいいのかもしれないけど、88歳まで生きていると、こんなあわれな姿になってしまう。

 

おしめをさせられてしまっている。それにベッドの下にシビンを置いておいて、夜、何度も目が覚めるのでシビンに用を足す。

 

歌人の斎藤茂吉はベッドの下にバケツを置いていたそうだ。

 

今はシビンも進化していて「コ・ボレーヌ」という名前がついていて、こぼれないようになっている。

 

オチンチンは皮をかぶっているので、それをいちいちしっぱり出す。若い人は88歳になってみてわかるというものだ。元気で生きているだけ幸せなのかも。

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2020年12月12日 (土)

大木に柱時計がかけられているなんて!

今の若い人には知るよしもないが、昭和の20年代、30年代の頃だったろうか。父が出した本で、『狂人物語』という新書版がある。

 

ペンネームだが大川徳二著とある。本名は確か鈴木一念という人だ。歌人でもあるので、父も作歌していたので知り合いだったのだろう。

 

この人の弟は鈴木信太郎という有名な画家だ。

 

ぼくは父の使い走りで、吉祥寺の少し手前の久我山というところに住んでいる、鈴木信太郎さんの豪邸を尋ねたことがある。

 

庭が広くて庭を眺められる和風の家だ。同じ時代に活躍された方で、フランス文学の同姓同名の方がいるが、鈴木信太郎さんは画家だ。

 

友人の田中英資さんが、ネットで調べて紙焼きにしてくれて、画歴などをコピーしてくれたのに、どこにしまいこんでしまったのか、みつからない。

 

鈴木信太郎さん、幼い頃の脚の病気での身体障害者で、奥さまがしっかりした方で、マネージメントをされている。

 

奥さまとしては、ご主人のお兄さんが神経をわずらい長いこと脳病院での生活をされていたことをよくは思っていなかっただろう。

 

父が鈴木一念さんの脳病院での生活を描いた『狂人物語』。装画を描いてくれた。鈴木信太郎さんの画風は、子供っぽく描くことで人気のあった方だ。

 

西荻窪にある「こけし屋」というレストランは、鈴木信太郎さんの描いた絵を作って、マッチにしたり、チラシやメニューにも使っているようだ。ご近所なので食事に行ったりして知り合ったのだろう。

 

先日、田中さんが運転してくれて、女房の古里、新潟県の弥彦村にある、別荘の伊藤館に行って、段ボールの中から、鈴木信太郎さんの原画を見つけ出した。

 

大きな木の幹に柱時計がかけてあり、その横に杖をもった黒い服に、黒い帽子をかぶった人が立っている。赤い雲が四つ描かれている。その発想が面白く、ほのぼのとも感じさせる絵だ。

 

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原画が出てきたので、これはお宝だ。早速壁にかけて、毎日、眺めている。

 

この本を出版したのは、もう今から60年以上も前のことで、ぼくが駒大在学中だったのか、卒業した頃のことか、まったく覚えていない。この本、売れなかったと思う。

 

脳病院の中での出来事に興味をもつ人は、いないのでは。しかし、大木の幹に下げられている柱時計は、今でも時を知らせてくれているようだ。

 

とうの昔に鈴木信太郎さんは亡くなっているが…。

 

あの日、鈴木信太郎さんの家を尋ねて、庭園を眺めた時のことは、今でもはっきりと覚えている。

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2020年12月 7日 (月)

ルネさんも、竜さんもこの世にいない!

ぼくのベッドのすぐ前の壁に、ぼくのよき相棒だった藤田竜さんが描いた美青年の絵が飾ってある。

 

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そのキャンバスの裏に「祝・社屋新築・昭和49年4月・竜」と書かれている。『薔薇族』が創刊されたのは、1971年(昭和46年)だから、創刊して3年ごに鉄筋3階建(世田谷学園の同期生が設計してくれた)の「薔薇の館」が建設された。美輪明宏さんが豪華な門灯を暗い同性愛の世界を少しでも明るくなるようにと贈ってくれた。

 

藤田竜さん、内藤ルネさんの全財産7億ものお金を詐欺師に取られてしまった世間知らずの大馬鹿者だが、ぼくのために美青年の絵を贈ってくれたとは。

 

1971年に『薔薇族』を創刊して、382号で廃刊になるまで、藤田竜さんは雑誌作りの才能を発揮してくれて、同性愛の歴史に残るような『薔薇族』を支え続けてくれた。

 

竜さんは『薔薇族』の誌上に、イラストを描き続けてくれたが、着色したものはない。ぼくはこの絵はずっと後になって描かれたもので、廃刊になる前にぼくに感謝の気持ちをこめて描かれたものと思っていたが、新築祝いに描いたものとは知らなかった。

 

数ヶ月前に友人の田中さんが車を運転してくれて、弥彦村の別荘に行った時、段ボールの中から見つけ出したものだ。

 

じつに丁寧に描かれていて、見事な出来栄えで、今はルネさんも、竜さんも、この世にいない。毎日、この絵を見ては、ありし日のルネさんや、竜さんのことを思い出している。

 

ぼくも平成5年に女房の古里、弥彦村に「ロマンの泉美術館」を芝信用金庫から2億5銭万円もかけてオープンさせた。

 

美術館なんてもうかるわけがないが、竜さんも修善寺に「内藤ルネ人形美術館」をオープンさせたが、それを社団法人化したいと思ったらしい。社団法人化して税金を少しでも安くしたいと思って、悪用する人がいたので、お国は規制を強めていた。そこに詐欺師がうまいこと言って法人化させると竜さんをだましたに違いない。

 

7億もとられる前に気がつきそうなものだが、全部だましとられて、その上、千駄ヶ谷にあった億ションまでとられてしまった。

 

ルネさん、すべてお金のことは竜さんいまかせていたので、全財産をだましとられても愚痴ひとつ言わなかったそうだ。

 

年とった男二人に部屋を貸してくれる不動産屋はいない。そこでぼくに泣きついてきたので、北沢法人会で知り合った桜上水の駅前の不動産屋が、ぼくが経営する第二書房の社員寮として借りて、古いマンションの5階に、かなり古いが広い部屋を貸してくれた。

 

ルネさんの多くのコレクション(お人形など)は、たまたま女房の実家の兄が経営する小林組(土建業)が事務所を新築したので、古い事務所にルネさんのコレクションを段ボールにつめて運びこんだ。

 

美術館なんて作らないほうがいいと、ぼくは忠告したのに、二人の夢だった人形美術館をオープンさせてしまった。入館料千円を五百円に下げたって、修善寺まで見にくる人は少ない。一年もしないうちに閉館してしまう。

 

ぼくも見に行ったが、見事な美術館だったが、修善寺の温泉街も落ち目で、客足が遠のいていた。

 

ヨッちゃんという若者を竜さんは養子にしたが、二人とも亡くなってしまい、ヨッちゃんに全財産が残されたが、なんとなくヨッちゃんも新宿2丁目にゲイバアをオープンさせたが、数年もしないうちに早死にしてしまった。

 

ヨッちゃんからルネさんや、竜さんのコレクションを買った人が、その後、全国のでバートで「内藤ルネ展」を開催し、多くのお客さんで賑わっている。それでよかったのかも。

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2020年12月 5日 (土)

はかない恋は終わってしまった!

下北沢駅の南口から商店街を5分ほど歩いてくると、餃子の王将があり(以前は銭湯だった)、その筋向いに、間口は一間ほどで、奥行きが長い店がある。

 

クリーニングが入っていたのは覚えているが、すでに何軒か代替わりしていて、家賃が高いのか、長くは続かない。

 

今年の春ごろだったろうか。タピオカを飲ませる店がオープンした。タピオカってなんなのかと辞書で調べてみたら、「熱帯産のキャッサバという植物の根、茎からとれるでんぷん」とある。

 

あまり意味がわからない。一度どんなものかと思って店に入ってみた。女性の店員がいて台湾生まれのようだが、日本語はカタコトしか喋れない。

 

どんな味だったか今はよく覚えていないが、こころが通じるものがあったのか、ぼくが店の前を通り過ぎようと思うと、店の中から手を振るではないか。そうなれば店に入ってタピオカを飲まないわけにはいかない。

 

だんだん親しくなって、マスクを外して写真を撮らせてもらった。目がぱっちりしてかわいい子だった。

 

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今年の夏は暑かった。3月20日に三軒茶屋の銀座アスターで、ぼくの米寿を祝う会を開いた頃は、すたすたと歩けたが、コロナウイルスが大騒ぎになって、外に出られなくなり、家にいることが多くなってきて、歩けなくなってしまった。

 

10月に入って少し涼しくなってきたので買い物に下北沢のスーパーにいこうと思って、タピオカの店の前を通ったら、シャッターが降りたままになっていた。

 

その頃、新聞に表参道にもタピオカの店が何軒もあって、行列ができるほど飲みにきたお客さんがいたのに、ブームがすぎて店じまいしてしまったと記事に書かれていた。

 

王将の筋向かいのタピオカの店もシャッターを下ろしたままになっている。

 

確か「龍」さんという名前だったと記憶しているが、台湾にもどって幸せに暮らしているのだろうか。

 

はかない恋は終わってしまった。

 

世田谷区に介護保険を払っているので、お願いしたら、手押し車を貸してくれた。疲れた時は椅子にもなり、中に買い物をしたときに入れられる空間がある、ありがたい手押し車だ。それを押して駅前のスーパーに通っている。

 

日本人はお国の言うことをよく聞いて、マスクをほとんどの人がつけている。さからっているわけではないが、マスクはポケットに入れてもっていて、スーパーに入るときにはつけるが、外を歩いているときにはつけない。

 

人ごみの中を歩くのならマスクをつけるべきだが、裏通りを歩いてスーパーに行くのでマスクはつけない。

 

それにしてもコロナウイルスの患者は、なかなかなくならない。とんでもないものを中国は世界中に蔓延させてしまったものだ。なんとか押さえ込むことができなかったものか。

 

日本では死者の数は少ないが、アメリカは多くの死者を出している。少しでも早くコロナウイルスの騒ぎを終わらせたいものだ。

 

エイズが日本に入ってくるというので、ぼくが編集長だった『薔薇族』は、帝京大学の附属病院の松田重三先生の力を借りて、エイズと闘うことができた。が、コロナウイルスとはどうにもならない。

 

なんとも辛い話で、嫌な時代になってしまったものだ。

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2020年12月 3日 (木)

今年最後の「文ちゃんと語る会」開催のお知らせ

クリスマスと忘年会をかねてのケーキを食べて楽しいおしゃべりを!
 

日時・12月26日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
はじめての方、おひとりさま、女性、
どなたでも大歓迎です。
お気軽におでかけください。

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