星のひとつになってしまった!
とにかくぼくは人を集めることが好きな人間だ。ぼくの著書は12,3冊だが、本を出版するたんびに友人、知人を招いて、新宿の京王プラザホテルが一番多かったが、大きなホールを借りて、出版を祝う会を開いた。
これはお世話になった冨田英三先生の影響だと思う。先生も人を集めることが好きな方だった。
1969年(昭和44年)が、先妻の舞踊家・君子(芸名・ミカ)一番精力的に活躍して輝いていた年だ。次の年の9月17日の夜に催された、渋谷の山の手教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」(現在はカフエ)でのイベントが一番記憶に残っている。
このイベントは西独とイタリアの合作映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』(ヘラルド映画)の宣伝のためのものだ。
企画を立てたのは画家の冨田英三さん。この先生、無類のイベント好きで、この先生とミカが組んでのイベントは数しれずだ。
冨田先生、前衛的な若者を集めて「ビザールの会」を結成していて、その会にミカもぼくも参加している。「ビザール」って「風変わりな」という意味だそうで、それで「伊藤ミカ・ビザール・バレエ・グループ」と名付けたのだ。
『週刊ポスト』の10月3日号の記事によると、「教会の下のサド・ストリップがあげた宣伝効果」と題して、「この催しは日本ヘラルド映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』のPRのためのもの。20万円出したというヘラルド側も、この日、集まったジャーナリストが55人というわけで安い宣伝費だと大ニコニコ。サドの後継者をもって任ずる前衛舞踊家が商魂に踊らされた。この一幕、地下のサドが見たらサド悲しむだろう」と皮肉めいた記事にしている。
その頃、ぼくは駒沢大学のOBで都内の住人をターゲットにして、御茶ノ水カフエを借り切って会を開いたことがあった。
神津島(伊豆7島の中のひとつ。大島の先の島だ)ここも東京都なので、神尾くんにも案内状を出してしまった。
当日、なんと東京に来る漁船に乗って、神尾くん(あだ名、ガミさん)が出席してくれたではないか。
神尾くんはぼくより年上だが、国文科の同期生だ。神津島村には小学校と中学しかない。本土から島に渡った先生方も、2,3年もしないうちに逃げ帰ってしまう。
神尾くんはなんと10年以上も島に残り、写真を撮るのが得意なので、島の人達の子供の7・5・3のお祝いの写真とか、結婚式の写真など撮っていた。
本土から都のお役人が視察になどくると、案内人もしていた。ぼくはガミさんに誘われて島に渡ってしまった。
その頃は港がないので大きな船は横付けにできない。沖の方で停泊し、小さな船に乗り移って島に渡る。
ぼくはすっかり島に魅せられて、それから先妻のミカがお弟子さんを連れて、島に渡り何年か合宿したことがあった。
一番の親友の松前美奈子さん。砂浜でふたりで踊っている写真がある。ミカは神津島の海岸で踊ることによって、舞踊への目が開けたと言っていた。
このときの写真を見ると、生き生きとしていて美しい。その相棒の松前美奈子さん、2020年の12月24日、クリスマスイブの日に老衰で亡くなったと、娘さんから電話があった。
ガミさんもすでにこの世にいない。
ミカの生き生きとした、美しい表情。もう神津島に行くことはできない。神津島は一番美しく星を見れる島だそうだ。ミカも美奈子さんもその中の星のひとつになっているのでは。
2020年12月24日、83歳で亡くなった松前さん
駒大の同期の神尾くん
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