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2021年3月

2021年3月30日 (火)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

5月の「文ちゃんと語る会」は5月22日に開催します。
 

日時・5月22日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 

手押し車を押しながら歩いているので、続けたいものだ。

初参加の人も来てくれるし、常連さんも来てくれて、楽しいおしゃべりの会です。

はじめての方、おひとりさま、女性、どなたでも大歓迎。
お気軽におでかけください。

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2021年3月22日 (月)

89年も生きていたなんて!

2011年3月19日、今日はぼくの89際の誕生日、昨年の3月20日、三軒茶屋の「中国名菜・銀座アスター」で、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく文ちゃんの米寿を祝う会」をひらくことができた。

 

80歳の誕生日には、オープンしたばかりの友人のカメラマン中嶌くんが経営する銀座の「まじかな」で、シャンソン歌手のクミコさんも参加してくれて、「百万本のバラ」などを歌ってくれた。

 

中嶌くんは当然、「米寿を祝う会」は「まじかな」でと思っていたに違いない。しかし、年齢にはどうもならない。銀座までの地下鉄の階段の登り降りはつらい。

 

三軒茶屋の「銀座アスター」の常連のお客で駒大の後輩の石塚さんが、会をひらくなら「銀座アスター」でと、支配人に頼み込んでくれた。コロナ騒ぎで多くの人を集めての会ができにくくなっていた。もう少しおそかったら会をひらけなかったろう。

 

『薔薇族』を出していたころ、ぼくは忘れていたが新潟県の魚沼に住む薬剤師の方が、長いことお母さんを看病していたが亡くなられてしまい、ひとりで住んでおられた。

 

その方が「文ちゃんと語る会」に参加してくれて、多額のお金を寄付してくれた。

 

ぼくが彼が若い頃面倒をみていたようだ。若い頃のことを恩に着ての寄付だ。

 

本来なら会費を一万円いただかなければならないのだが、寄付のおかげで若い人でも参加できる会費を3千円にすることができた。

 

ひとりずつ椅子に座って、次々とコースで料理が運ばれてくる。友人の田中英資さんのはからいで、バリトン歌手の北村哲朗さん、ピアノの伴奏は岩谷令子さん。

 

次男の嫁の友人たちのベリーダンサーの派手なダンス。お祝いの花輪も、「駒沢大学」「世田谷学園」お金持ちの石塚さんが贈ってくれて盛大な会になりました。

 

89歳まで生きているのは、周りを見回してもぼくひとりだけ。あと何年生きられることか。

 

ぼくはこの89年間、入院したのは50年ほど前、胆石の手術で1ヶ月入院したのと数年前、痔の手術で6日間入院しただけ。

 

胆石の手術の時も、おうだんになってしまったので、それが回復するまで手術できなかったので、長引いてしまった。

 

内臓も悪いところがないので、入院生活はそれだけだ。あとは16年前、ひざに人工ひざを入れる手術で東京医大の整形外科で左ひざに人工ひざを入れた。半年ごとにレントゲンを撮って手術医が診てくれているが、骨がしっかりしているので問題はないようだ。

 

ブログを長いこと書き続けている。これはネットをさわれないぼくが原稿用紙4枚にひとつ話をまとめて郵送すると、ありがたいことにボランティアで、土曜と月曜に更新してくれる若者がいる。感謝のしようがない。

 

ブログを書き続けているので、年相応に忘れっぽくなっているが、痴呆症にはならずにすんでいる。

 

ぼくは運が良かったのか、生まれた表参道に住んでいたら、空襲で焼け死んでいたのかもしれない。

 

生後百日目ごろ、救世軍の伊藤冨士雄の妹のひとり娘、その亭主が測量機械の製作の工場を作り、二階建ての豪邸に住んでいた。

 

二階建ての貸家を2軒建てたので、呼ばれて北沢に移り住むことができた。そこに住むこと75年。駐車場が地続きの東邦薬品が買い取ってくれたので、美術館建設の借金を返済することができた。

 

今の代沢3丁目の2階建てのマンションは住みやすい。ここで生涯が終わりになることだろう。6畳のぼくの部屋、ベッドもあり、仕事部屋でもある。あと何年生きられることか。

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2021年3月20日 (土)

ゲイのことが話題にならなくなった!

1978年(今から43年前)5月号の『薔薇族』の「人生薔薇模様」のコーナーに「関心示さなかった女たち」のタイトルで、こんな記事が載っている。

 

この時代、同性愛を女性週刊誌がよく取り上げていた。

 

「『週刊女性』が、ホモの特集号を出すという。さあ、困った。俺の会社は、ときどきその雑誌に広告を載せてもらっている関係で、広告会社の人が掲載誌を数冊持ってくるのだ。

 

会社の女たちは、それを奪い合っては、むさぼり読んでいるのだから、またまた話題になることは間違いない。ホモについて女たちに深い知識をもたせたくないのだ。

 

その日がやってきた。彼はその号を女たちに示し、「今週は凄いのが載っていますよ」と言われなくても良いようなことを言って置いていった。

 

休憩時間が終わって女たちは、職場へ戻ったので、俺は食堂の整理をするふりを装い、その週刊誌に目をやった。なんと表紙の中央に黄色いでっかい字で「男の同性愛」。ガックン。

 

まだまだ表紙に続々と書いてある。全国で三百万人。芸能界とホモ。ホモホテル潜入ルポ。愛撫の仕方、ホモ鑑別方法などなど。

 

ああ何をか言わんや。俺はマークされる。25ページを一気に読了。こんなこと俺にとっては、新知識でもなんでもないのだが、女たちにとっては興味津々の記事ではなかろうか。この1週間は早く過ぎてくれ。

 

翌日から休憩時間に観察していたのだが、彼女たちはなんと、全然関心を示さないのだ。芸能人の情報はむさぼり読んでも、そのページにくると、さっととばしてしまい、他の記事に移ってしまう。おそらく他の会社の女性たちも、ご同様なのではあるまいか。

 

ひまのある家庭の主婦なら克明に読むかもしれないが、おそらくはアヌスへ突っ込むなどと記されていると、けがらわしいと感じて、読むのをやめてしまうのではないか。

 

これはやはり男性週刊誌が扱うべき記事であって、女性週刊誌に25ページにもわたって掲載したのは誤算だったのでは。

 

読まないから話題にもならないし、俺も鑑別法なるものでテストされずにすんだので、ホッとしているところだ。

 

わが文学氏も写真入りで紹介されているが、こんどばかりは、あまり啓蒙にもならず残念でした。(東京都・襟昌戸)」

 

これは今から43年も前の話だ。最近は週刊誌にゲイのことが大きく取り上げられることはない。話題にならなくなっているからだ。

 

最近のゲイの会社員は、やはり隠しているのだろうか。それとも大っぴらにゲイだと言ってもまわりの人が気にしなくなっているのかも。

 

少年にワイセツな行為をしたというので、ニュースになるが、昔の子供は親や、教師に訴えなかったのでは。

 

少年愛者に対する世の中の理解度は、それほど変わっていないように思う。少年愛者が世の中にどのくらいの率でいるのかは調べようがないが、いつの時代にも同じくらいの率でいることは間違いない。時代によって増えたり、減ったりはしないだろう。

 

18歳未満の少年にワイセツな行為をしたら犯罪になってしまう。それは少年愛者の誰もが認識しているのだろうが、理性で抑えられなくて行動に走ってしまうごく一部の人がいるので、新聞沙汰になる。

 

息子や孫の小学生時代、運動会の写真を撮って、信用金庫のロビーに展示して、父兄に感謝されたが、今はそんなこともできない。いやな世の中になってしまったものだ。

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2021年3月15日 (月)

代沢の街は住みよい街だ!

読売新聞2021年3月11日を読むと、「大空襲76年・幾多の犠牲忘れない」の見出しで「太平洋戦争末期、米軍の無差別爆撃で一夜にして約10万人が犠牲となった東京大空襲から76年となった10日、墨田区の都慰霊堂で追悼法要が営まれた。」とある。

 

サイパン島が米軍に占領され、そこに墓地ができ、数百機のB29爆撃機が配備され、日本に向けて、大編隊を組んで襲いかかってきた。

 

そのころ、ぼくは代沢小学校のすぐそばに昭和7年から住んでいて、父親もからだが貧弱なので軍隊にとられずに出版社に勤めていた。

 

そのころのぼくは代沢小学校(当時は国民学校)の6年生、5年以下は長野県のお寺に疎開していて、わずかな生徒しか残っていなかった。

 

ありがたいことに代沢の街はB29の爆撃も受けず、真っ赤になった下町の空を見つめているだけだった。戦争の末期、代沢の街もB29の焼夷弾の攻撃を受けたが、この日は風が強く、頭の上を通り越して、淡島のほうへ飛んでいき焼野原となってしまった。

 

その日の朝、学校へ行ったが途中にある淡島のバスの車庫、測機社の工場、多聞小学校は焼け落ち、キンカンの工場もまだ燃えていた。

 

道路には不発弾がごろごろころがっていて、すさまじい光景だ。世田谷中学も焼け落ちていると思ったら、なんと残っているではないか。寄宿生たちが消しとめたのだそうだ。

 

焼夷弾は屋根をぶちぬき天井裏で燃えるようにできていたので、天井裏を全部はずしてあった。となりの教室の声が聞こえるのは仕方がない。それよりも毎日、空襲警報が鳴るのでわが家に帰ってくると、勉強どころではなかった。

 

石鹸がないから、母親も苦労したのだろう。同じ洋服ばかり着ているから、しらみがうようよ。母親は大きな鍋で下着を煮沸して殺していた。

 

朝起きてふとんをめくると、のみがぴょんぴょんと飛び跳ねる。それをつかまえて、指でころす。今どきの若者には想像もつかない光景だ。

 

食べるものもない。その頃の世田谷は奥の方へ行くと農家がまだかなりあった。母親に連れられて買い出しに行ったことがある。母親の着物は食物にかわっていた。

 

親父は第一書房の本などを山形の古本屋に送って食物を送ってもらっていたようだ。その頃の母親の写真を見ると、痩せ細っている。

 

世田谷中学のお昼どき、弁当のふたを開けると、大根だったかも入っていて。片方にかたよっていた。それでも弁当を持ってこれる生徒はいいほうで、昼どき校庭の片隅で弁当をもってこずに座り込んでいる生徒もいた。

 

その頃、母親は近所のとなり組の組長をしていた。配給になるのは、すけそうだらばかりだ。その頃、北海道ですけそうだらがたくさん獲れたのだろう。

 

今でもその頃のことを思い出すので、すけそうだらは食べない。

 

配給はお酒を飲まない家にもくれる。煙草もだ。それを別の食物に変えてくれるところが駅の近くにあったらしく、母親はそこで変えてくるようだった。

4人の子供をかかえて、母親は食べさせるに苦労したに違いない。

 

幸いなことは父親も兵隊に行かず、空襲にもあわず、家も焼け残ったことだ。今はマンション住まいだが、今の生活が一番いい。あの3階建の家に住んでいたら、あちこち悪くなって修理代で大変だったろう。

 

今のマンション2階建で6畳が3部屋、孫の勉強部屋がなくてかわいそうだが、このマンションでぼくの人生は終わりに。路地の奥なので静かで住み心地がいい。ありがたいことだ。

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2021年3月13日 (土)

思いきって『薔薇族』を創刊して良かった!

ぼくの著書に『やらないか!『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』(彩流社刊)、編集部の河野和憲さんが本にしてくれた。もう1冊、先妻の舞踊家ミカとの出逢いから事故死するまdねお15年間を書いた『裸の女房=60年代を疾風のごとく駆け抜けた前衛舞踊家・伊藤ミカ』も本にしてくれた。

 

現在、河野和憲君は彩流社の社長となり、10数名の社員をかかえて活躍しているが、今の世の中、本が売れない。かなり河野君、苦労しているようなので、ときどき2冊の本を取り寄せて、友人たちに読んでもらっている。『やらないか』は早稲田大学教授の丹尾安典先生がすばらしい序文を寄せてくれた。

 

ぼくはブロウを10数年書き続けている。原稿用紙4枚でひとつの話をまとめている。ネットを使えないぼくが郵送すると、土曜日と日曜日に更新してくれる。なんとも感謝のしようがない若者がボランティアでだ。もう何千枚も書いている。

 

11年前にぼくのブログを紙焼きにしてくれたフアンの女性がいたので、その中から選んで本にすることができた。

 

『薔薇族』を出していた時代は、『伊藤文学のひとりごと』という2頁のコーナーを毎月書いていた。それをまとめて本にしたこともある。

 

長年書き続けているので、自分で自分のことをほめるのはおかしな話だが、よく書けている。ぼくは他人さまの本は読まないし、頭もよくないから難しいことは書けないが、思ったことを素直に書いている。

 

『やらないか』を読み返してみると面白い。何部製作して、何部売れたのか教えてくれないから、どのくらい売れたのかはわからない。

 

文藝春秋社の子会社の「文春ネスコ」から『編集長「秘話」』、上製本で立派な本を出してくれた。確か初刷6千部だったと思う。

 

『週刊文春』に1ページを使っての書評。文藝春秋社発行の雑誌すべてに広告が。書店の平台の目立つところに並べられていた。

 

増刷にはならなかったが、数年して全部売れたようだ。何十部か残っていたのを送ってくれた。この本はのちに他社から文庫にもなった。

 

1971年7月の創刊号、日本で最初の同性愛誌ということで、マスコミがとりあげてくれた。

 

創刊号の藤田竜さんの表紙絵もよかったと思う。ウリ専かのボーイを使っての表紙絵だったら『週刊朝日』は取り上げてくれなかっただろう。『週刊ポスト』を皮切りに、『週刊文春』は「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。

 

『平凡パンチ』と『東京スポーツ新聞』が1ページを使って特集し、一流の週刊誌が真面目に取り上げてくれたことは何よりの喜びだった。

 

文通欄に投稿してくれた読者は、創刊号で7名、2号目には57名、3号目は195名と号を重ねるごとに増え続けていた。どれだけ読者が待ち望んでいたことか。

 

創刊から3年間は隔月刊だったので、発売を待ちきれない読者から、矢のような催促の電話がなり続けることになる。

 

文通欄に出したくても家族がいたりして出せない人も多かったに違いない。どれだけ多くの読者が、地方にいけばいくほど、仲間がほしかったのでは。

 

創刊号の『薔薇族』は一万部、完売だった。大手の取次店である東販、日販が仕入れてくれた力は絶大で、一流書店にも堂々と並べられた。しかし、地方の読者は大変だったようだ。10数軒の書店を探し求めて、やっと手に入れたという読者もいた。創刊して本当によかった。

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2021年3月 6日 (土)

みんなに支えられて生きている!

「ひとりで走るより、ふたりで走る方が」(1997年『薔薇族』9月号・No.296)

 

568頁というぶ厚い『薔薇族』広告の目次をつけるぐらいの広告だらけ。営業活動などまったくしないのに、スポンサーのほうから広告を入れてほしいという電話があって、毎月増えるばかり。それに広告の効果が抜群だというのだから、ありがたい雑誌だった。

 

月刊『文藝春秋』よりも厚くなってしまったのだから驚きだ。経費として落とせないので、毎年、車ばかり乗り換えていたが、それでも税金ばかり取られてしまう。

 

過ぎてしまったことは、今、考えてみても仕方がない。新宿に「伊藤文学の談話室・祭」をオープンさせ、少しでも税金を少なくしようと思ったのに、それが大盛況で利益は増えるばかり。税務署から表彰されてしまったのだから皮肉なものだ。

 

ペンネーム「HEART AND SOUL」君の詩。

 

  まだ寒い夜

  君と初めて出会った

  体だけを求め合う日々の中で

  心だけがひとり走りして

  君を求めに

  ゆっくり流れる会話の中で

  ときどき見える君のはにかんだ横顔が

  僕の心をくすぐる

  初めての夜

  唇の柔らかさに包まれながら

  朝まで抱き合っていた

  いつしか聞こえる君の寝息に

  包まれながら

  このまま時が止まって

  ずっとふたりでいられたら

  何もいらないよ

 

  初めての朝

  君を駅のホームまで見送って

  そのまま家に帰った

 

  今までいつもひとりだった

  季節は変わっても

  僕だけ立ち止まってる気がした

  君と会わない日々

  今までより寂しいけど

  今 風を感じられる

 

  僕たちの思い出は少なすぎる

  これからいろんなことがあるだろうけど

  いつも一緒にいようよ

  ひとりで走るより

  ふたり走るほうが

  きっと楽しいよ

  君を大切にするから

 

 

愛する人ができたよろこびが素直に伝わってくる気持ちのいい詩だ。読者はロマンチックな人が多い。詩を投稿してくれる読者が多いのは当然なことだ。

 

ぼくも詩が好きなので、多くの読者の詩を誌上に載せてきた。

 

「ひとりで走るより、ふたりで走るほうがきっと楽しいよ」と言いきる。それでもどこか不安なんだろうな。

 

ぼくは大学生活も同じ世田谷区内だったのでひとりで下宿生活をしたことがないので、ひとりでいることの寂しさを本当のところ実感できない。よかったのか、悪かったのか。

 

今でも89歳になって女房と、次男夫婦と19歳の孫の大学生との5人暮らし。この3月19日の誕生日で89歳。みんなに支えられてなんとか元気で暮らしている。ありがたいことだ。

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2021年3月 5日 (金)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」は3月27日に開催します。
 

日時・3月27日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
はじめての方、おひとりさま、女性、
どなたでも大歓迎です。
お気軽におでかけください。

3月19日が89歳の誕生日。
みんなに支えられて、元気です。

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