2011年3月19日、今日はぼくの89際の誕生日、昨年の3月20日、三軒茶屋の「中国名菜・銀座アスター」で、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく文ちゃんの米寿を祝う会」をひらくことができた。
80歳の誕生日には、オープンしたばかりの友人のカメラマン中嶌くんが経営する銀座の「まじかな」で、シャンソン歌手のクミコさんも参加してくれて、「百万本のバラ」などを歌ってくれた。
中嶌くんは当然、「米寿を祝う会」は「まじかな」でと思っていたに違いない。しかし、年齢にはどうもならない。銀座までの地下鉄の階段の登り降りはつらい。
三軒茶屋の「銀座アスター」の常連のお客で駒大の後輩の石塚さんが、会をひらくなら「銀座アスター」でと、支配人に頼み込んでくれた。コロナ騒ぎで多くの人を集めての会ができにくくなっていた。もう少しおそかったら会をひらけなかったろう。
『薔薇族』を出していたころ、ぼくは忘れていたが新潟県の魚沼に住む薬剤師の方が、長いことお母さんを看病していたが亡くなられてしまい、ひとりで住んでおられた。
その方が「文ちゃんと語る会」に参加してくれて、多額のお金を寄付してくれた。
ぼくが彼が若い頃面倒をみていたようだ。若い頃のことを恩に着ての寄付だ。
本来なら会費を一万円いただかなければならないのだが、寄付のおかげで若い人でも参加できる会費を3千円にすることができた。
ひとりずつ椅子に座って、次々とコースで料理が運ばれてくる。友人の田中英資さんのはからいで、バリトン歌手の北村哲朗さん、ピアノの伴奏は岩谷令子さん。
次男の嫁の友人たちのベリーダンサーの派手なダンス。お祝いの花輪も、「駒沢大学」「世田谷学園」お金持ちの石塚さんが贈ってくれて盛大な会になりました。
89歳まで生きているのは、周りを見回してもぼくひとりだけ。あと何年生きられることか。
ぼくはこの89年間、入院したのは50年ほど前、胆石の手術で1ヶ月入院したのと数年前、痔の手術で6日間入院しただけ。
胆石の手術の時も、おうだんになってしまったので、それが回復するまで手術できなかったので、長引いてしまった。
内臓も悪いところがないので、入院生活はそれだけだ。あとは16年前、ひざに人工ひざを入れる手術で東京医大の整形外科で左ひざに人工ひざを入れた。半年ごとにレントゲンを撮って手術医が診てくれているが、骨がしっかりしているので問題はないようだ。
ブログを長いこと書き続けている。これはネットをさわれないぼくが原稿用紙4枚にひとつ話をまとめて郵送すると、ありがたいことにボランティアで、土曜と月曜に更新してくれる若者がいる。感謝のしようがない。
ブログを書き続けているので、年相応に忘れっぽくなっているが、痴呆症にはならずにすんでいる。
ぼくは運が良かったのか、生まれた表参道に住んでいたら、空襲で焼け死んでいたのかもしれない。
生後百日目ごろ、救世軍の伊藤冨士雄の妹のひとり娘、その亭主が測量機械の製作の工場を作り、二階建ての豪邸に住んでいた。
二階建ての貸家を2軒建てたので、呼ばれて北沢に移り住むことができた。そこに住むこと75年。駐車場が地続きの東邦薬品が買い取ってくれたので、美術館建設の借金を返済することができた。
今の代沢3丁目の2階建てのマンションは住みやすい。ここで生涯が終わりになることだろう。6畳のぼくの部屋、ベッドもあり、仕事部屋でもある。あと何年生きられることか。
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