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2021年3月15日 (月)

代沢の街は住みよい街だ!

読売新聞2021年3月11日を読むと、「大空襲76年・幾多の犠牲忘れない」の見出しで「太平洋戦争末期、米軍の無差別爆撃で一夜にして約10万人が犠牲となった東京大空襲から76年となった10日、墨田区の都慰霊堂で追悼法要が営まれた。」とある。

 

サイパン島が米軍に占領され、そこに墓地ができ、数百機のB29爆撃機が配備され、日本に向けて、大編隊を組んで襲いかかってきた。

 

そのころ、ぼくは代沢小学校のすぐそばに昭和7年から住んでいて、父親もからだが貧弱なので軍隊にとられずに出版社に勤めていた。

 

そのころのぼくは代沢小学校(当時は国民学校)の6年生、5年以下は長野県のお寺に疎開していて、わずかな生徒しか残っていなかった。

 

ありがたいことに代沢の街はB29の爆撃も受けず、真っ赤になった下町の空を見つめているだけだった。戦争の末期、代沢の街もB29の焼夷弾の攻撃を受けたが、この日は風が強く、頭の上を通り越して、淡島のほうへ飛んでいき焼野原となってしまった。

 

その日の朝、学校へ行ったが途中にある淡島のバスの車庫、測機社の工場、多聞小学校は焼け落ち、キンカンの工場もまだ燃えていた。

 

道路には不発弾がごろごろころがっていて、すさまじい光景だ。世田谷中学も焼け落ちていると思ったら、なんと残っているではないか。寄宿生たちが消しとめたのだそうだ。

 

焼夷弾は屋根をぶちぬき天井裏で燃えるようにできていたので、天井裏を全部はずしてあった。となりの教室の声が聞こえるのは仕方がない。それよりも毎日、空襲警報が鳴るのでわが家に帰ってくると、勉強どころではなかった。

 

石鹸がないから、母親も苦労したのだろう。同じ洋服ばかり着ているから、しらみがうようよ。母親は大きな鍋で下着を煮沸して殺していた。

 

朝起きてふとんをめくると、のみがぴょんぴょんと飛び跳ねる。それをつかまえて、指でころす。今どきの若者には想像もつかない光景だ。

 

食べるものもない。その頃の世田谷は奥の方へ行くと農家がまだかなりあった。母親に連れられて買い出しに行ったことがある。母親の着物は食物にかわっていた。

 

親父は第一書房の本などを山形の古本屋に送って食物を送ってもらっていたようだ。その頃の母親の写真を見ると、痩せ細っている。

 

世田谷中学のお昼どき、弁当のふたを開けると、大根だったかも入っていて。片方にかたよっていた。それでも弁当を持ってこれる生徒はいいほうで、昼どき校庭の片隅で弁当をもってこずに座り込んでいる生徒もいた。

 

その頃、母親は近所のとなり組の組長をしていた。配給になるのは、すけそうだらばかりだ。その頃、北海道ですけそうだらがたくさん獲れたのだろう。

 

今でもその頃のことを思い出すので、すけそうだらは食べない。

 

配給はお酒を飲まない家にもくれる。煙草もだ。それを別の食物に変えてくれるところが駅の近くにあったらしく、母親はそこで変えてくるようだった。

4人の子供をかかえて、母親は食べさせるに苦労したに違いない。

 

幸いなことは父親も兵隊に行かず、空襲にもあわず、家も焼け残ったことだ。今はマンション住まいだが、今の生活が一番いい。あの3階建の家に住んでいたら、あちこち悪くなって修理代で大変だったろう。

 

今のマンション2階建で6畳が3部屋、孫の勉強部屋がなくてかわいそうだが、このマンションでぼくの人生は終わりに。路地の奥なので静かで住み心地がいい。ありがたいことだ。

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