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2021年4月

2021年4月10日 (土)

ケヤキの大木だけが見続けてくれた!

1971年に日本最初の同性愛誌『薔薇族』を創刊したときに、何誌もの週刊誌がとりあげてくれた。

 

週刊文春は「ホモでない男が出したホモの雑誌?」というタイトルだったか、数ページを使っての取材、ありがたかった。

 

ぼくは男好きでないから、編集部を訪ねてくる読者を招き入れた。目の悪い人もいたし、口の聞けない人も。どんな人でも同じように話を聞いた。

 

相棒の藤田竜さんには「伊藤さんはノンケで男と寝たことがないから、ホモの人の本当の気持ちはわからないのでは」とよく言われたものだ。だからこそ読者の声をよく聞いた。

 

わが家のとなりのとなりに、渋谷のデパートに勤める人が住んでいて、その娘さんが池袋の方だったか、目の不自由な人を世話する施設に事務員として勤めていた。

 

その施設に出入りしている全盲の男性がホモで、『薔薇族』の読者だった。わが家に目が見えないのによくぞ探し当てて訪ねてきたものだ。

 

なんとのその全盲の男性と、事務の女性が結婚したのだから驚きだ。彼のことを女性の両親に教えるわけにはいかない。

 

そのうちに子供が生まれたではないか。

 

その頃、『薔薇族』では、世田谷学園の同期生の高橋民夫君が、長野県の「女神湖ホテル」の支配人をやっていたので、新宿からバス3台をやとって、ホテルを借り切って旅行会をしたことがあった。

 

ぼくは女房と一緒に参加したが、運転手が景色のいいところを案内しましょうかと言ってくれたが、参加者は早くホテルへということだった。

 

その夜、どんなことになったのかは知るよしもないが、全盲の若者も参加して、大活躍?したようだ。

 

大手の自動車メーカーの迎賓館がすぐ近くにあって、そこの支配人も参加してくれた。ゴルフ場もあって、夏期の頃には東京からコックさんを連れていって、お客さんをもてなすようだ。

 

迎賓館を案内してくれたが、日本一の自動車メーカーの経営する迎賓館だから、豪華な建物だった。この方、イラストを描くのが上手な方で、小説の挿絵をよく描いてくれた忘れられない人だ。

 

『薔薇族』の読者には、どんな偉い人がいたのかは知るよしもないが、わが家を訪ねてきた着物姿の上品な方は、ちらっと「私は人間国宝だ」と。

 

大学教授は何人もおられたが、吉祥寺にあった前進座のどんちょうを描かれたという話は記憶に残っている。

 

『薔薇族』を創刊してから5、6年経った頃世田谷学園の同期生の設計士が設計してくれた鉄筋建3階で、南側の方を家族が住むように、北側を仕事場に使えるようにしてくれた。

 

3階は16畳で、そこに読者を招いて、いろんな催し物をした。高校生ばかり集めたり、大学生ばかり集めたりと。

 

高校生ばかりを集めたときなどは、終わる頃に大人たちが何人も外で待ち受けていた。近所の女性たちが、わが家にくる男たちをじろじろと見ているのは困ったものだ。

 

美輪明宏さんが、豪華な門灯を寄贈してくれた。そうでなくても暗いホモの世界に少しでも明るい光をと願ってのことだ。

 

今はその建物はない。ただ残っているのはとなりの家の平家の垣根に植えられたケヤキの木が一本だけ、東邦薬品の駐車場の真ん中に大木に成長して残っている。社長にお願いしたら残してくれたのだ。

 

ケヤキの大木が『薔薇族』の最初から終わりまで見続けてくれたということだ。

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2021年4月 3日 (土)

「文ちゃんと語る会」は、ぼくの生き甲斐だ!

「1992年・バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで、切れ味鋭い一本背負いで「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦さんが24日、がんのため死去した。53歳だった。」と、2021年3月25日の朝日新聞が報じている。

 

古賀君は世田谷学園の後輩でもある。母校で金メダルの祝勝会が催された時に、ツウショットの写真を気軽に撮らせてくれた。

 

今、その写真を見ながらこのブログを書いている。

 

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古賀君は福岡県生まれ、佐賀県で育った。小学校を卒業後、柔道私塾「講道学舎」に入門。とある。「講道学舎」は確か世田谷区の上馬にあり、寄宿舎が完備していて、そこに日本中から有能な柔道の選手を集めて指導していた。

「講道学舎」の塾長というか、指導者のお名前を忘れてしまっているが、世田谷文学館で何度もお会いしている。

 

いつも黒いつめえりの服を着ていられて、温厚な方だった。この方の日本の柔道界への貢献は大変なものだ。何年も前に亡くなられてしまったが、娘さんだけなのでその仕事を残せなかったのは残念だ。

 

世田谷学園の柔道部も創部100年だそうで、立派な記念号を出版したが、ぼくも寄稿することができた。

 

戦時中、中学1年のときに講道館の花桐8段に少しばかり教えを受けたが、2度もすってんころりところんだが、そのとき教わった受け身のお陰と書いたが、それは嘘で運が良かったからだった。

 

89歳になるまで、家の中などでもころんだことはなく、脚は弱っているが、区から手押し車を借りて、それを押して天気が良ければ買い物に行ったり、カフエに立ち寄ったりしている。

 

先日、東京医大で3度目のMRIの検査を受けたが、脳の中に出血していたのを薬を飲んでいて、それが効いたのか、脳は正常に戻っていた。

 

今のところ食欲もあるし、毎日歩いているので、まだまだ生きられそうだ。しかし、友人、知人がみんなこの世を去って、話し相手がいないのはさびしい。

 

「文ちゃんと語る会」で出会った若い女性はもう20年近くも続けているのだから、何人にもなる。いろんな事情でそう長くは続かないが、出版社に勤めていた岩崎梓さんは、ぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』を復刻してくれた。

 

横須賀に住むご両親もぼくの催すパーティにも出席してくれて、今では畠をたがやしていろんな野菜を育てている。それをときたま送ってくれるのでありがたい。

 

明治大学の大学院の学生だったイタリア人に卒論のお手伝いをしたことがあったが、もう何年もまで、その後、東京の会社に就職して働いているようだ。3月27日の「文ちゃんと語る会」にしばらくぶりに出席すると、メールを寄せてくれて、息子の嫁が見せてくれた。しばらくぶりの出会いで楽しみだ。

 

「文ちゃんと語る会」で出会ったり、食事をしたりして楽しかった。

 

「文ちゃんと語る会」の出会いが、ぼくの生き甲斐になっていることは間違いない。歩けるうちは続けたいものだ。

 

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