短歌に出会えよかった!
意外な記事が目にとまった。読売新聞2021/5/19夕刊「短歌の月刊誌 異例の売れ行き」のタイトルでだ。
「90年近い歴史を持つ月刊誌「短歌研究」(短歌研究社)の5月号が、短歌専門誌としては異例の売れ行きで、創刊以来初めて増刷された。今号は「ディスタンス(距離)」をテーマに歌人300人の新作を集めた。同誌編集部は「コロナをテーマとした特集に、初めて短歌雑誌を手に取った人も多いようだ」とする。
売れたと言っても初刷=4000を完売し、今月12日に500部を増刷。まだ売れ続けており21日に6月号が発売されるが、5月号の再増刷も検討しているという。
ぼくは戦後まもなく昭和24年に駒澤大学の予科に入学し、一年経って新制大学に制度が変わり、また一年に入ることになった。
国文科には斎藤茂吉の弟子で歌人でもあり万葉集の研究者でもある森本治吉教授がおられた。本を読まないぼくは源氏物語も万葉集も読んだことはないが、短歌を作ることだけは学ぶことができた。
森本教授は「白路」という短歌結社を主催していたので、ぼくはすぐさま会員になった。教授にかわいがられて、「白路」編集のお手伝いをするようになっていた。
奥様は教授の面倒を見ないので、先生の部屋はゴミ屋敷のようだった。お弟子さんの若浜汐子さんが独身で、お母さんと一緒に住んでおられたので、若浜さんの部屋が「白路」の編集室になっていた。
ぼくは若浜さんの部屋にもお邪魔して、原稿の整理のお手伝いをしていた。ぼくも居心地がよかったので、先生もずっとわが家よりも居心地がよかったのでは。
ぼくが短歌を森本先生に師事して、本は読まなかったけれど、作歌に熱中することができた。
そのことがぼくの人生を大きく変えたのだから、不思議な話だ。
その頃、各大学で短歌の愛好者がいて、とりわけ国学院大学、共立女子大学(歌人の中河幹子さんが指導していた)などは短歌を作る学生が多かった。
昭和25年に東大の山上会議所で、各大学の短歌愛好者が集い、短歌会が開かれた。駒大からはぼくだけの参加だったが、なんとぼくの作品を東大国文科の中西進さん(令和の名付親)がぼくの恋の歌を絶賛してくれたではないか。
その後、ぼくのアイデアで定価10円の豆歌集「渦」(千部)を刊行したおりには、序文を書いてくれ、ミカと結婚したとき、仲人までひきうけてくれた。
中西進さんにぼくの恋の歌が絶賛されたことで、ぼくは劣等感がなくなり、積極的に人生を送るようになっていた。ありがたいことだ。
人をほめるということが、いかに大事だということを中西さんから教えられた。こんなに人間が変わってしまうのだから。
ぼくの恋の歌の対象になった阿部弥寿子さんとの出会いが、ぼくの人生を変えたのかもしれない。
あんなに美しく、上品な人に出逢えたなんて、ぼくは幸せ者だ。ぼくの先妻の舞踊家、ミカももらいっ子だったが、弥寿子さんも養女だった。
養父、養母というのは打算的で、子供に対する真の愛情はない。歳を取ったら面倒を見てもらうそれしか考えていない。
今時本当の子供だって年老いた親の面倒を見ないことが多いというのに。あわれとしか言いようがない。
ぼくの2度目の女房は、ぼくの年老いた両親の面倒をよく見てくれた。今度はぼくの面倒で大変だ。1日中、おこられっぱなしだ。年はとりたくないものだ。
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