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2021年5月

2021年5月24日 (月)

短歌に出会えよかった!

意外な記事が目にとまった。読売新聞2021/5/19夕刊「短歌の月刊誌 異例の売れ行き」のタイトルでだ。

 

「90年近い歴史を持つ月刊誌「短歌研究」(短歌研究社)の5月号が、短歌専門誌としては異例の売れ行きで、創刊以来初めて増刷された。今号は「ディスタンス(距離)」をテーマに歌人300人の新作を集めた。同誌編集部は「コロナをテーマとした特集に、初めて短歌雑誌を手に取った人も多いようだ」とする。

 

売れたと言っても初刷=4000を完売し、今月12日に500部を増刷。まだ売れ続けており21日に6月号が発売されるが、5月号の再増刷も検討しているという。

 

ぼくは戦後まもなく昭和24年に駒澤大学の予科に入学し、一年経って新制大学に制度が変わり、また一年に入ることになった。

 

国文科には斎藤茂吉の弟子で歌人でもあり万葉集の研究者でもある森本治吉教授がおられた。本を読まないぼくは源氏物語も万葉集も読んだことはないが、短歌を作ることだけは学ぶことができた。

 

森本教授は「白路」という短歌結社を主催していたので、ぼくはすぐさま会員になった。教授にかわいがられて、「白路」編集のお手伝いをするようになっていた。

 

奥様は教授の面倒を見ないので、先生の部屋はゴミ屋敷のようだった。お弟子さんの若浜汐子さんが独身で、お母さんと一緒に住んでおられたので、若浜さんの部屋が「白路」の編集室になっていた。

 

ぼくは若浜さんの部屋にもお邪魔して、原稿の整理のお手伝いをしていた。ぼくも居心地がよかったので、先生もずっとわが家よりも居心地がよかったのでは。

 

ぼくが短歌を森本先生に師事して、本は読まなかったけれど、作歌に熱中することができた。

 

そのことがぼくの人生を大きく変えたのだから、不思議な話だ。

 

その頃、各大学で短歌の愛好者がいて、とりわけ国学院大学、共立女子大学(歌人の中河幹子さんが指導していた)などは短歌を作る学生が多かった。

 

昭和25年に東大の山上会議所で、各大学の短歌愛好者が集い、短歌会が開かれた。駒大からはぼくだけの参加だったが、なんとぼくの作品を東大国文科の中西進さん(令和の名付親)がぼくの恋の歌を絶賛してくれたではないか。

 

その後、ぼくのアイデアで定価10円の豆歌集「渦」(千部)を刊行したおりには、序文を書いてくれ、ミカと結婚したとき、仲人までひきうけてくれた。

 

中西進さんにぼくの恋の歌が絶賛されたことで、ぼくは劣等感がなくなり、積極的に人生を送るようになっていた。ありがたいことだ。

 

人をほめるということが、いかに大事だということを中西さんから教えられた。こんなに人間が変わってしまうのだから。

 

ぼくの恋の歌の対象になった阿部弥寿子さんとの出会いが、ぼくの人生を変えたのかもしれない。

 

あんなに美しく、上品な人に出逢えたなんて、ぼくは幸せ者だ。ぼくの先妻の舞踊家、ミカももらいっ子だったが、弥寿子さんも養女だった。

養父、養母というのは打算的で、子供に対する真の愛情はない。歳を取ったら面倒を見てもらうそれしか考えていない。

 

今時本当の子供だって年老いた親の面倒を見ないことが多いというのに。あわれとしか言いようがない。

 

ぼくの2度目の女房は、ぼくの年老いた両親の面倒をよく見てくれた。今度はぼくの面倒で大変だ。1日中、おこられっぱなしだ。年はとりたくないものだ。

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2021年5月22日 (土)

短歌と出会えて幸せだ!

ぼくの短歌の作品を絶賛してくれた「令和」の名付け親、万葉集研究の権威の中西進さん、駒澤大学在学中、斎藤茂吉の弟子で歌誌「白路」の主催者の森本治吉教授に短歌を作ることを教えてもらったことだけがよかったことだ。

 

短歌との出会いがなければ、今日のぼくはない。国文科に入学したものの、万葉集や、源氏物語を読むことはなかった。

 

読書をまったくしないぼくに卒業論文を書けるわけがない。森本教授はぼくのことを心配して父に手紙をよこしている。

 

「大学院に入り、そこで卒論を書けばいい」と言ってくれたが、大学院に入ったからといって卒論を書けるわけがない。

 

ぼくは卒業式までいたが、卒論を書かなかったので卒業証書をもらえないままに終わってしまった。

 

だからぼくの著書の略歴に「駒澤大学を出た」とだけ記している。それが年を経て、卒業証書をもらえたのだから、ありがたい大学だ。

 

日活で映画化され、ベストセラーにまでなったぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』が、君の卒論だよと言って、2、30年経ってから卒業証書をくれた総務課の恩人のお名前を思い出せない。

 

中西進さんが絶賛してくれた、ぼくの恋の歌、その恋のお相手が阿部弥寿子さんだ。

 

代沢小学校の一年後輩で、わが家から100米ぐらい離れたところに住んでいた。彼女は子供のいないおじさん父母のところに山形の貧しい農家からもらわれてきた養女だ。弟さんも養子になっているのだから、兄弟は5、6人いたのかも知れない。

 

小さい時にもらわれてきたのだから、本当の母親だと思って甘えていた。それが小学校4、5年のころ、近所に住むお節介やきのおばさんが「あんたはもらいっ子だよ」と言ってしまった。それから母親と距離をもって見るようになってしまったという。ひどい女がいたものだ。

 

彼女の家にどうして出入りできるようになったのか記憶にない。粗末な平家の家だったが父親は都電の運転手だった。

 

母親は酒好きで坂を降りてきた道路の向かい側に居酒屋があり、そこにいりびたっていた。

 

弥寿子さんは、高校は曹洞宗が経営する「駒沢学園」に入学し、駒澤大学のすぐそばに校舎があった。

 

その頃は三軒茶屋までバスなどなく、じゃり道を歩いて30分はかかった。弥寿子さんも同じ道を歩いて三軒茶屋から玉電に乗って、「駒沢」で降りる。駒大から反対側にあり、駒大から15分ぐらいで歩いていける。

 

その頃の駒大は女子学生は、4、5人、ブスばかりだ。そのうちのひとりは助教授と結婚してしまったから、残るは数人。

 

休み時間になると、その数人の女性を男たちがとりかこんでいた。その頃、近所の高校、大学で詩を作る人が多かった。

 

父が『現代詩鑑賞』明治・大正・昭和編を出版していたので、父の使い走りで、多くの詩人たちの家を訪ねていた。

 

大江満雄さんの家を訪ねたときなどは、この人、話好きで、初対面なのに何時間も話を聞かされてしまった。トイレに行く時にも接続詞を残すということだ。

 

多くの詩人と知り合ったことで、駒大の講堂で、詩のコンクールを開いたことがある。

 

近所の高校、大学から多くの作品が寄せられた。その中から優れた作品を選び出して朗読することに。朗読を駒沢学園の文芸部の女性たちにお願いした。その中に弥寿子さんもいたのだ。

弥寿子さんのことはまだまだ書ききれない、美しいだけでなく、気品がある女性だ。弥寿子さんと知り合えてぼくは幸せ者だ。


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2021年5月 1日 (土)

さようなら「伊藤文学のひとりごと」

『薔薇族』の最終号は、382号、いつも目の前の本棚に置いてあるのに、それが見つからない。

 

それから16、17年になるのだろうか。朝日新聞の小泉信一記者が「『薔薇族』廃刊」と夕刊で報じてくれて、その日の夜はマスコミが押しかけてきて大変な騒ぎになったことが、昨日のように思い出される。

 

雑誌がなくなってしまったのだから、ぼくの文章を発表する場がなくなって途方に暮れていたら、次男の嫁の智恵さんが、「お父さん、原稿用紙に書いてくれたら、ネットで読めるようにするから」と言ってくれたので、それから書き出しのが、原稿用紙4枚でひとつの話にまとめた「伊藤文学のひとりごと」だ。

 

土曜日と月曜日の2回、更新するようにしてきた。そのうち智恵さんが勤めに出るようになってしまったので、続けられなくなってしまった。

 

読者の何人かがあとをついでくれたが続かず、偶然出会ったのがS君だ。ぼくの長男が住んでいるのは、マンションの3階、その真上の4階に、S君は両親と弟さんの4人で住んでいた。

 

そのうち彼は家を出て新宿のマンションへ。そのS君がずっと面倒な仕事をひきうけてくれて、ぼくのブログを更新してくれている。なんと感謝していいことか。

 

原稿がたまると、どかっと原稿を戻してくれる。それが大きなダンボール箱にいっぱいになってしまったのだから驚きだ。よくも書き続けたものだ。

 

ぼくのブログを読んでくれている女性が紙焼きにして送ってくれた。それをまとめたのが、2010年11月20日に彩流社から発行された『やらないか!『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』。

編集担当の河野和憲君が本にしてくれた。現在、河野君は彩流社の社長として活躍している。

 

序文は早稲田大学教授の丹尾安憲先生が書いてくれた。「本書を読み、伊藤の祖父・伊藤冨士雄が娼妓解放に力を尽くした人であることを知り、この下北沢のオッチャンの肉体に受け継がれてきた血の質にはじめて触れた気がした」と。

 

この本はまだ在庫があると思うので、自分でほめるのはおかしいが、今読んでみても読みごたえのある本なので、ぜひ、読んで欲しいものだ。

 

S君が、ここ10年ぐらい書き続けてきた「伊藤文学のひとりごと」を日本に一冊しかない文庫本にして残してくれている。ありがたいことだ。

 

現在、ぼくは89歳、もうまわりを見回してもこの世にいる人はいない。

 

来年は卒寿、90歳だ。88歳の米寿の祝いの会を新潟の魚沼に住む人が、ぼくが若い頃によくしてあげたことを覚えてくれていて、多額のお金を寄付してくれたので、三軒茶屋の「銀座アスター」で50人もの人を集めて、盛大なお祝いの会を開くことができた。

 

来年の卒寿の祝いの会をやりなさいと手紙をくれたので、なんとか元気でいて、またにぎやかな祝いの会をやりたいと思っている。

 

「伊藤文学のひとりごと」も、これで終わりにしたい。言いたいことは言い尽くしてしまったし。

 

長いことぼくを支えてくれてありがとう。

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