2020年5月25日 (月)

稲垣征治君は少年愛者の心の支えだった!

『薔薇族』のスタッフで生き残っているのは少年愛者の稲垣征治君だけだ。1997年・No.299・12月号から「少年愛万年鏡」のページが始まっている。

 

稲垣君も78歳ぐらいだろうか。家賃の安い団地で弟さんとふたりで、僅かな年金で生活している。

 

『薔薇族』誌上では、少年愛の読み物にはイラストを書いてくれたし、少年愛の読み物も数多く書いてくれたから、少年愛の読者の心の支えになってくれたことは間違いない。

 

今でも少年の絵を毎回書き続けているようだが、今年に入って血液のガンが見つかり、いい医師に出会って治療を受け、元気を取り戻してきているようだ。

 

彼の少年の絵が売れればいいのだが、今の世の中、少年の絵を売ることは難しい。

 

「少年時代の私は博多湾の海沿いの街で育った。戦後、台湾からの引揚者であったわが家は、父が職を求めて上京し、母がバーの雇われママをして生計を立てていた。

 

私の思春期前から不在がちだった父に親しめなかったのに比べ、やさしく美しく生活力のある母への愛情は格別であった。

 

両親に対するこのアンバランスな愛情の持ちようは、私の一生を左右したといっていい。私は母の性である女性を、おのれの性浴の対象から除外してしまったのだ。

 

もちろん、こんなことが当時理解できたわけではない。数十年を経て母が亡くなってわかったことである。

 

男ばかり3人兄弟の次男であった私は、性格的には柔弱であったけれど、そのころの男の子たちと同じように、暗くなるまでとびまわって遊ぶ平均的な子供だった。

 

体格も学校の成績も平凡で、目立つところは無いはずだったが、なぜだか性的体験だけは人並み以上だったようだ。自慢できない体験が……。

 

対照的な二つのシーンを思い出す。一つは初恋の相手。級長をしていたその子は、垢抜けたハンサムでスポーツ万能、クラスのヒーローだった。その子と相撲をとるときなど、いつもいつまでも組みついていたかった。そんないじらしく幼い片思い。

 

もう一つはオナニーを覚えたころの夏の夜のこと。小さな弟をつれて近くの映画館に行くのに、私は強い性衝動にかられ、浴衣の下のパンツをわざと脱いで出かけたことがあった。

 

小学生の男の子がどうしてと思われるだろうが、私はとっくに知っていたのだ。銭湯や映画館で、私の性器にさわろうとするある種の大人たちのことを。

 

大胆にも座席の暗がりで、わざと股を開いて待ったのに、隣の男はそんな大人ではなかった。私は映画を楽しんだだけだった。

 

日本が貧しかった時代、映画は娯楽の王様だった。不思議と封切館でも、三番館でも、その手の男に出会った。場末の映画館のトイレの匂いの漂う座席で、初めて射精までさせられたときのことは、今でも鮮明に覚えている。

 

中学一年の秋、雨の日だった。戦争映画に見入っているとき、股間にあるかなきかの感覚、ジンジンと性器にに染み込むような感覚が迫ってきた。

 

「あっ、来た」と私は思った。眼の下に男の手が浮いている。顔はスクリーンに向いてはいても、意識は股間に集まり固まってしまった私。そろそろとズボンの前が開けられてゆく。引出されたペニスは、やわやわとさすられ揉まれて、いまだかつて味わったことのない官能の渦の中でもうろうとなったとき、熱くしびれきった腰の中心を激烈な快感が走り抜けた。」

 

残念?ながらぼくにはこんな経験はない。性的な魅力がなかったのだろうか。

 

★コメントをぜひ!

| | コメント (0)

2020年5月18日 (月)

吉本の芸人さんたちをビッグにするために!

1999年No.320『薔薇族』9月号の表紙は、なんと吉本の若い芸人たちが表紙を飾っている。「シャンプーハット」「ガレッジセール」「アップダウン ライセンス」の8人だ。

 

「有名になろう」と。そのためには「雑誌メディアを征服する」という途方もない計画を立てた。どこの雑誌社を訪ねても取り上げるわけがない。

 

週刊誌の編集部でも「ビッグになって、また来てね」と、すげない返事。そして最後にやってきたのが『薔薇族』編集部。ところがテレビに顔を晒してもいいというのは、編集長のぼくだけ。

 

「『薔薇族』の表紙にのせてください!」という彼らの願いに、ぼくは即座に「いいですよ」と約束してしまった。

 

それからすぐにロケバスに乗って、上北沢の松沢精神病院の裏手にあるスタジオに向かう。バスの中で「松沢行きだね」と言っても、関西の連中だから、そのギャグが通用しない。その存在を知らないのだから、どうにもならない。

 

スタッフの一人が、どの子が一番良いですか、とそっと耳打ちするから「カメラマンが一番魅力的だね」と答えてしまった。カメラマンは、いわゆる普通の男性で、からだもがっしりしていて、肌の色も浅黒く、仕事に打ち込む姿は美しい。第一、目がキラキラと輝いている。

 

お笑いコンビたちが悪いというわけではに。みんな若いし、「有名になろう」という気持ちと、それよりも芸人根性というか、そのへんの若者とは違う。バイタリティがある。どんなことでも嫌がらないで、チャレンジする逞しさを感じる。

 

突然のことなのでカメラマンを頼めない。編集長のぼくがカメラマンに。人間の肌ってライトに照らされて汗をかいてくると、だんだん美しく輝いてくる。それに若いからだって肌がきれい。

 

じっくりとひとりずつ写真を撮れればいいが、番組の進行の中で撮るしかないのだから、写真としていいものが撮れるわけがない。

 

ぼくもだんだんのってきて、さかんにギャグを連発したのだが、放映されたテレビを夜おそくまで起きていて、ねむい目をこすりながらみたが、みんなカットされていた。お笑いタレントがくすんで見えてはいけないという配慮なのかも?

 

テレビでの番組(日本テレビの深夜番組・毎週火曜、深夜1時45分からの30分「吉本ばかな」)で放映された。

 

ごく普通の週刊誌の編集担当者を相手にお笑いネタを披露する場面が続き、それが一転する気配が画面に漂い、お笑い芸人たちが息をのむ男のヌード・イラスト画が登場! そこが『薔薇族』の編集部だということは、瞬時に推測が及んだのだが、テレビの画面は、ここで改めて正式に『薔薇族』315号の表紙が登場するや、編集部の中は驚きの声が充満!

 

編集長にいとも簡単にOKの返事をもらったお笑い芸人さん、一瞬気が抜けたご様子だったが、ここから事態は急展開して、早速始まったのがお笑い芸人のヌード写真撮り。

 

編集長自らがカメラを構えて、ポーズの要求や、モデルを指名するシーンもしっかり映し出されて、最後に『薔薇族』の誌面を飾る写真の数々が披露される。めでたし、めでたしのエンドぶり!

 

放映後、翌日からかかってくる電話は若い女性ばかり。ファンがたくさんいるのでびっくり。彼らが有名タレントになったとき、薔薇像の表紙を飾ったことをホコリに思ってくれるだろうか?

 

★コメントをぜひ!

 

| | コメント (4)

2020年5月11日 (月)

いろんなフェチの人がいた時代って!

長谷川サダオ君、忘れられない人だ。すばらしいイラストを描き続けてくれたし、世界中の雑誌や、写真集から見つけだし、毎月びっくりするような話を紹介してくれた。

 

タイのバンコクのホテルで自殺してしまったと聞いたときはショックだった。50代だったろうか。東京を経つときから準備をしていたようだ。

 

イギリスだったか、長谷川サダオの作品集が本になっているから、海外でも長谷川サダオの名前は知れ渡っている。

 

ぼくが新宿のQフラットビルの2階に「伊藤文学の談話室」をオープンさせたときに、畳1枚分くらいの大きな、ふんどし姿の絵を描いてくれたことがあった。

 

狭い下宿の部屋で描いたのであろうから、こんなに大きな絵は、これが一点だけだろう。我が家でもこんな大きな絵は飾っておけず埼玉県鳩ヶ谷市辻606-2 鳩ヶ谷スカイハーツ907号室 TEL048-283-1267 私設美術館・荻崎正広コレクション・ゲイ・アートの家に、この作品は展示されている。入館料は700円。毎日オープンしているわけでないので、電話で問い合わせてから訪ねるといい。

 

こんなにゲイ・アートを集めた人はいないから貴重な私設美術館だ。

 

1985年・4月号に長谷川サダオ君が、「フェチシズムは時代の反映である……。昔のエロ本を読んで妙に感動してしまった話」と題して書いている。

 

「昔のエロ雑誌に『奇譚クラブ』というのがあって、これに告白手記募集で入選した鼻責めマニアの男の手記があった。これがなんとも異様で面白い。これぞヘンタイの極め付きって作品。

 

この手記は鼻にローソク突っ込んで熱さに耐えながら書かれたものだという。

 

「鼻中隔を麻紐で縛って何度か山へ登ったことを覚えています。初めはおそるおそる周囲を見渡して、誰もいないことを確認して始めるのですが、いったん、麻紐が鼻へ、すすり込まれていくと、妙に度胸が座り、時には全裸になって、大声を上げ、牛の鳴き真似をしたりしました」なんてのは序の口で、「鼻中隔の穴に草花を通し、鼻の周りを生花で飾って夜の街を歩くこと」、「鼻孔へ煙草を2本差し、鼻で煙草を吸うこと」、「鼻でミルクを飲むこと」「アヌスからのご馳走を鼻につめ込むこと」ーなどと信じられんような世界が展開する。こうゆうのって、本人が真剣になればなるほど、滑稽に見えるもので、その辺の感じがとってもよく出ている。

 

「アヌスからのご馳走を鼻に詰め込む」の章には「詰め込んだだけでは、ただ息苦しくなるだけですので、詰めたあと、その真ん中へヨウジか、マッチ棒で細い孔を通すことにしています。するとそこから空気が吸い込まれふくよかな香りで卒倒しそうな感激を味わうことができるのです。その感激を味わいながら、新しいご馳走を少しずつ、ちぎって食べるのです。ほろ苦いけど、ねっとりとしたコクのある味が口中いっぱいに広がって、鼻孔の香りと調和してくれます。

 

それにしても、こんなことをする私はやはり変態なのでしょうか」と書かれている。私は変態でしょうかもないものだ。国宝級のドヘンタイでっせ!

 

まあ、今どきこんなマニアはいないんじゃないかと思ったら、先日、ぼくの友人が、20歳ぐらいの鼻責めマニアの男の子と遊んだというから、絶滅しちゃったわけでもなさそうだ。

 

こういう人たちは貴重な生証人だから、国で天然記念物みたいに保護してあげたい。

 

赤い腰巻に感じるとか、お灸の後に感じるとか、昆布のフンドシに感じるというのもあって、フェチというのは、その時代の風俗環境をストレートに反映するものなんだなあと感心してしまった。そういえば切腹フェアというのもあった。」

 

今どきの時代、奇人・変人がいなくなって、人間みんな小つぶに。フェチの人がいろいろといた時代っていい時代だったのでは。

| | コメント (0)

2020年5月 9日 (土)

人との出会い、雑誌との出会い、因縁のような!

『薔薇族』の古い老け専の一読者から電話がかかってきた。「『サムソン』がとうとう廃刊になりましたよ」って。

 

藤田竜さんとともに『薔薇族』の廃刊後、『サムソン』の編集部に移って、表紙絵を描き、編集長として活躍してきた三上風太君、よくぞ頑張ってきたものだ。

 

雑誌って部数が3千部ぐらいに落ちても、少人数でやれば出し続けることはできる。『サムソン』は年配者が読む雑誌で、ネットをつかえないような人が読んでいたから、続けられたのだろう。三上君が出すようになってからの『サムソン』って見たことがないので、どんな雑誌だったのだろうか。

 

『薔薇族』以外の後から出てきたゲイ雑誌すべてが静かに消えてしまった。『薔薇族』は創刊した時も、多くの週刊誌が記事にしてくれたし、廃刊になったときは朝日新聞が「『薔薇族』廃刊」の報を伝えるや、その日の夜はあらゆるマスコミが押しかけてきて大変な騒ぎになってしまった。その違いはなんなのだろうか。それは日本で最初のゲイ雑誌だったからだ。

 

1985年No.147・4月号の「伊藤文学のひとりごと」の2ページのコーナーに、「『薔薇族』との初めての出会い」と題して書いている。前にもブログにも書いたかもしれないけれど、忘れられない話なので紹介しよう。

 

「鹿児島県の一青年からの手紙です。この青年は5年ほど前、高校2年生のとき、学校への通学の途中、駅まで線路伝いの道を通っていたのです。ある日のこと。いつものように線路伝いに歩いていると、線路と道路の間の柵の中に、一冊の本が落ちているのに気がついたのです。

 

おそらく電車の窓から落としたのでしょうか。表紙の方が上に向いて落ちていたというのも不思議といえば不思議です。裏表紙が上になっていれば出会いはなかったのだから・・・。

 

木村べんさんのイラストの表紙で、スキーをしている青年の表紙絵だったそうです。そのときなんとかして手を柵の中に入れて取ろうとしたけれど、金網にさえぎられて本を取り出すことができなかったのです。

 

その夜、ペンチをもって本を拾いにいったというのだから大変な執念です。とうとう柵の一部をペンチで切り取って本を拾い出したのです。

 

青年はこう書いています。

 

「今から考えれば、ずいぶんなことをしたように思うのですが、そのとき手に入れておかなければ『薔薇族』という雑誌を手にするのは、もっとあとのことになっていたと思います。

 

『薔薇族』というホモ雑誌があることは、それ以前から知っていましたから、本屋を探したりしたこともあったのです。でも一度も本屋の店頭でお目にかかったことがなかったのですから。もう執念でした。でも不思議なもので、そのことがあってから、それまでいくら探しても見つからなかった『薔薇族』を売っている店も、すぐに見つかったのです。

 

それ以来(と言っても受験のために買えなかった時期もありましたが)毎月購読しています。」

 

この青年が初めて金網の柵の中から拾い出して、『薔薇族』を家に持ち帰り、読んでいる姿が浮かんでくるようです。

 

ひとり、ひとりの読者の『薔薇族』との最初の出会い。もし雨でも降ってボロボロになってしまえば、この鹿児島の青年は『薔薇族』との出会いはなかったでしょう。

 

因縁みたいなものを考えざるを得ないのです。こんな思いをして、この雑誌を買ってくれた読者のひとりひとりが幸せになってほしい。ぼくはそう願っているのです。」

 

コメントをぜひ書いてください。正直なところを書いていて励みになるので。

| | コメント (0)

2020年4月25日 (土)

創刊のときも、廃刊のときも騒がれて!

昭和46年1月30日刊・隔月刊第1巻第2号11月号(1971年)に、ぼくは『薔薇族』を創刊してと題して書いている。

 

『薔薇族』が2004年11月号No.382で廃刊した時、朝日新聞の小泉信一記者が夕刊に『薔薇族』廃刊と報じてくれたら、その日の夕方にテレビ・ラジオ・新聞・週刊誌とあらゆるマスコミが押しかけてきて、大変な騒ぎになったことがある。外国の特派員まで取材に来たのだから。

 

どんな雑誌でも廃刊になるときは、静かに消えていくものなのに……。

 

創刊したときも、一流の週刊誌が取り上げてくれた。

 

「世の中にホモの人がたくさんいるということを『薔薇族』で知って安心しました。この世に生まれて25年を過ぎても、異性に恋こがれる気持ちにならず、反対に若い男性にのみ魅力を感じてしまうのです。

 

自分は精神異常者ではないだろうか。精神鑑定をしてもらわなくてもいいだろうかと、最近悩むようになり、苦しんでいた矢先に書店で貴誌を知り、拝読したときは嬉しくて涙を流したぐらいです」

 

三重県の松坂市に住むKさんからこんな手紙をもらいました。おもいきって『薔薇族』を創刊してよかった。あの暑かった7月・8月も日曜日も休まずに打ち込んでしまったけれど、とうとう子供を海へも一度も連れて行かずじまいだったkれど、たくさんの人によろこんでもらえてうれしさでいっぱいです。

 

藤田君をはじめ数人の人たちの努力で、これからもすこでしでもいい雑誌を作ってゆき、みんなで発言し、みんなで悩み、みんなで考える雑誌に成長させていきたいものです。

 

7月の末に創刊号が出るやいなや、マスコミがいろいろな形でとりあげてくれました。

 

週刊ポストがまずとりあげ、まさかと思った週刊朝日も書いてくれたのには、正直にいってうれしかった。平凡パンチそれに東京スポーツが、1ページを使って特集し、週刊文春が「ポルノ時代の旗手たち」というワイド特集で、「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。一流の週刊誌が真面目に取り上げてくれたことは、なによりの喜びだった。

 

それにこの種の雑誌は小さな書店の片隅で、ひっそりと売られるのが当たり前のようであったが、初めて大手の取次店である東販、日販が仕入れてくれて、新宿、渋谷の紀伊国屋書店、銀座の旭屋、それに一流デパートの書籍売り場にも堂々と並べられたことは、今までにないことだけに、これは隠花植物とされていた薔薇族が一歩、陽の当たるところへとび出したといってもいいだろう。ただ並べられただけでなく、それが大変な売れ行きで銀座の大雅堂書店をはじめ、数件の書店で1ヶ月に500部を売り切ったということはちょっと例のないことだろう。

 

しかし、地方の書店へはあまり配本されなかったこともあって、大阪の一読者から10数軒の書店を探し求めて、やっと手に入れた喜びを知らせてくれましたが、それこそ北は北海道から南は九州まで、あらゆるところから電話の問い合わせが殺到し、うれしい悲鳴をあげた毎日でした。

 

創刊号の文通欄には、7人の人たちしか載せられなかったが、2剛には一挙に60人の仲間を求める手紙が載せられたのですから、これに手紙が続々と寄せられたら、どういうことになるのか、気が遠くなるような思いですが、仲間を求める切実な手紙を読むと、なんとかしなければと思うばかりです。

 

批判の声もありましたが、ホモでない人間がホモの人たちのことを考えたことがあったでしょうか。ぼくはその人たちにそうたずねたいのです」

 

| | コメント (0)

2020年4月18日 (土)

彼のPとお見合いを!

1983年『薔薇族』10月号の人生薔薇模様のコーナーに載っていた「高校2年生のときの夜」と題する、東京都オバQの弟君からの投稿だ。

 

「初めて投稿します。ぼくは22歳。今、思うと自分は変態ではなかったかと、思ったりもしています。

 

自分自身がホモだと思い始めたのは、中学生の頃だったと思います。そのころからかわいい男の子がいると、彼の裸を想像したり、彼を思わず抱きしめてやりたいなどばかり思っていました。

 

中学生のときは水泳部に入っていたのですが、その目的はずばり男の裸が見られるからです。

 

それからぼくは高校生になりました。ぼくが通っていた高校は、1年おきにクラス替えがありました。幸いなことに1年、2年、3年と、それぞれのクラスにひとりか2人、ぼく好みのかわいい男の子がいました。

 

ぼくは彼らを意識して友達になろうと、努力しました。彼らもいい人で、みんなぼくの親友になってくれました。もちろん彼らはぼくがホモだとは知りません。

 

彼らと話するときは、クラスの女の子の話などして楽しんでいました。高校2年の親友のY君を家に泊めることになったのです。

 

そのときぼくは彼に「家になんでもあるから、何も持ってこなくてもいいからね」と言いました。そしてぼくは自分の部屋に布団をふたつ並べました。

 

彼が熟睡しているときに、いたずらしてやろうとばかり考えて、「お酒でもちょっぴり飲んでみようか」と言い、彼も「いいね」と言って、彼にビールを1本くらい飲ませました。自分は飲んだフリをして、まったく飲んでいませんでした。

 

また彼に貸すパジャマのズボンのボタンをわざととっておきました。それとは気づかずに彼はそのパジャマに着替えました。

 

 彼があぐらなどして座ったりすると、パジャマのズボンから彼の白いブリーフが丸見えでした。白いブリーフのふくらみを見て、ぼくはドキドキしました。彼はそれを恥ずかしがっていましたが、ぼくは話をそらしてごまかしていました。

 

そして1時ごろでしょうか、寝ることにしました。彼はビールを飲んだのは、2度目らしく少し酔ったみたいでした。

 

それからぼくは2時間くらい布団の中で胸をドキドキさせて、彼が寝るのを待っていました。そして夜中、寝ている彼に少しずつ近づいていました。彼はすやすやと少しいびきをかいて寝ています。

 

ぼくの右手は眠っている彼のPに少しずつ近づいていきました。そして彼のPをやさしくなではじめました。すると彼のPは大きくなってきました。次にぼくは彼のPを一度みたくなりました。彼はとてもかわいい顔をしている170cmぐらいの男のでした。

 

ぼくは布団の中に隠し持っていた懐中電灯を使って、彼の布団の中に潜り始めました。そしてぼくの顔の前に彼の下半身があるところまでさがりました。彼のPはまだ大きいままでした。おもわずパジャマのズボンを下げました。

 

ぼくはどきどきしていました。もし、彼が起き出したらどうしようと思いながらも、ぼくの両手は彼のブリーフまで下ろしていたのです。

 

彼のPはかわいい顔をしていました。ぼくは10分近くの間、彼のPとお見合いをしながら話したり、触ったり、またかぶっていたPの皮まで少しずつむいたりして、彼のPをおもちゃにしていました。最後にお別れのキスをして、彼にブリーフ、パジャマをはかせて、何事もなかったように。」

 

高校2年生のときの良い思い出だね。

| | コメント (0)

2020年4月 6日 (月)

男同士の愛は永続きしない

「30代に入ってそれまで築いたもののすべて、人間のつながりすべてを投げ捨てて、男と駆け落ちする切羽詰まった気持ちとはどんなものだろうか。
 
そしてその果て、無一文のひとりぼっちになって、裸から人生をやり直す羽目になったときの心情はどんなくるしさなのだろうか。
 
話の主人公は松本の健ちゃんだ。この春までバー「あっちこっち」で、ひょうきんにしていた健ちゃんは、見てくれは軽いし、話の結末は世間でよく聞くたぐいのものだから、ま、そうは深刻にならないけれど、当人はしんどいストーリーで。
 
健ちゃんは15歳のとき、すぐ近所のおじさんにいたずらされた。そして10年男とはなにもなかった。男には関心があったのだが岡山の田舎町ではホモ雑誌は売ってないし、第一そんな雑誌があることすら知らないのだから、男とデキようがなく、21歳で結婚し、子供を二人もつくってしまった。
 
そのしばらく後、古本屋で『薔薇族』を発見し、この同じ空の下に、とんでもない男同士の世界があることを知って、息が止まるほど驚き、そして喜んだのだ。

 

もうすぐ広告にあった岡山市のバーに行った。福山の店にも行った。そこで高松の人を知って、高松に行き居ついてしまう。遅咲きのせいか「吉備」というバーを始めるまでに男同士の世界にのめりこんでしまった。

 

そこに客として来た同い年のタクちゃんと、生まれて初めての恋に落ちる。そしてわけがあって、貯金を使い果たし店を売り、妻子を捨て故郷を捨て、タクちゃんと手に手を取って東京へ出る。だが暮らせない。そうして二人で流れていったのだが、知る人の一人もいない松本で、もうここでふんばるしかないと、二人で住み込みの仕事をし、頑丈な健ちゃんは夜を日について肉体労働をしたりとにもかくにも店をもとうと、食費も切り詰めて頑張った。

 

愛する人と一緒に店をやる。二人の愛は、やがて実って、好条件の店を手に入れることができた。

 

『薔薇族』に広告を出し、長野県ではたった一軒の二人のホモ・バーはそれなりに好調に、松本の夜の中で育っていった。

 

ああ、だけど、どうして人間ってこうなのだろう。せっかく常連客がつき、旅行者も寄ってくれるまでになったのに、あれほど激しく思いあった二人の気持ちは、いつの間にか冷えてしまった。

 

営業中は二人がカウンターの中に入って、入ればそこに身につけた愛嬌で客には感じさせないけれど、二人の間には風が吹いていた。でも営業中はまだいい。店の上の部屋で寝たり、昼の時間を過ごすとき、ギクシャクしてしまう。愛し合って三年あまりで、お互いの気に入らないところが目につくようになって、ひとたびそうなれば、人間は誰だって急にいろんなことが許せなくなる。口喧嘩の数も増えた。

 

悩み始める前になんとかしなければと二人は思った。初めの約束ではタクちゃんが出ていくことになっていた。だがややこしいいきさつがあって、結局、健ちゃんが飛び出ることになってしまった。

 

とび出ることになってはしまったが、先立つものはない。心ある友人はみんな反対した。それは松本で店を続けていればとりあえずは生活できる。妻子への仕送りも少しだがしてこられた。だが、ザラザラした気持ちにはこれ以上は耐えられない」

 

まだまだ話は続くが、この話は藤田竜さんが聞き出した話だ。ホモの人って二人の愛は長続きしない。竜さんとルネさん何十年も一緒に暮らしたのは、なぜだったのか。

| | コメント (1)

2020年4月 4日 (土)

同性愛者の父をもって生まれたなら!

ぼくが初めてテレビに出演したとき、司会をしてくれた人だ。最初のモーニングショウで、嫁同士で何人かおしゃべりし、次の日には姑同士がおしゃべりし、嫁と姑のいたばさみになっている男性を募集するテロップが流れた。

 

まさにぼくは嫁と姑のいたばさみの男性なので電話を何度もかけたが通じない。もうやめようとあきらめかけていたが、もう一度と思ってかけたらつながった。

 

出演することになった。今の世の中、嫁と朱止めと一緒に住んでいる人はいないようだ。その司会をしていた人が先日なくなった。ある新聞に2回にわたって、女性記者がインタビューしているが、あのときの司会者は結婚していて、子供さんもいる、それに奥さんはある方面で本もたくさん出され、テレビにも出演している有名な方だ。

 

だが彼はゲイだ。それは間違いないが、それを隠し通していたのか、奥さんが知っていたのか、どちらかだろう。そのインタビューは二人の仲睦まじさが描かれている。まさに理想の夫婦だ。奥さんが教養があって、仲良く暮らしていたから、記事に書かれているような感動的な夫婦になっていたのだろう。

 

1997年7月号の『薔薇族』の「編集室から」に衝撃の書というべき本の紹介が載っていた。内藤ルネさんの師匠というべき中原淳一さんの息子さんの告発の書だ。

 

中央公論社刊の「父、中原淳一」がそれだ。

 

淳一さんが亡くなられて週刊誌が取材しにくる。あの『フォーカス』の取材は、その目的が淳一さんが同性愛者であったかどうかを確認するためのものだった。彼らは予備取材を充分に済ませてきていて、遺族の口から直接言質が取れたなら、直ちに記事にするという態度がありありだったという。

 

息子さんは「絶対に父は同性愛者ではない」とフォーカスの記者に言明した。

息子さんはこうも書いている。

 

「生まれついての少数派に属する者で、自己を悩み疑い、葛藤しない者がはたしているだろうか。彼らはそれを隠していれば罪であり、明らかにすれば、それもまた罪となるのである。

 

彼らが自らを悩み疑うことをやめたときとは、自らが、あるいは社会によってか、いずれにせよ、彼らが少数者でなくなったということである」

 

息子さんはある時期に、お父さんである淳一さんが同性愛者であるということを知ったに違いない。またそれを否定する気持ちとの葛藤が長く続いたのだろう。でも、秀れた芸術家としての父を尊敬し、愛してもいたのだ。

 

告別式の時、息子さんはこう述べている。

 

「父はこの世を去りました。けれどその父の血はいままさに、なおぼくたち遺族の身体の中を流れています。ぼくたちは、その父の血が流れる身体と精神において、父を継承してゆきます。」

 

その挨拶の真意をこう説明もしている。

 

「父が亡くなった今、ぼくの身体の中を流れる血以外、生きた父のものは、もはや何も残されていない。

 

もし人がそれを奪おうとするのなら、このぼくを殺すしかない。しかし、もし人がぼくを殺すならば、その血も失われ亡びる。もはや誰にも生きた父のものを奪うことはできない。」

 

病気で倒れた淳一さんをシャンソン歌手の高英男さんが10何年間もひとり世話をし最後までみとられた。この間、家族は数回しか会えなかった。同性愛者の息子として生まれたその時代の悩みや、苦しみはどれほどのものだったのか。

| | コメント (1)

2020年3月28日 (土)

男性の性被害に理解をとは?

2020年3月19日の東京新聞夕刊に恐るべき見出しの記事が載っていた。

 

「中学時代に被害の20代「心殺された」」

「男性の性被害に理解を」「男は報われない」「笑われて話せず」

 

女性が男性に襲われて被害を受けたという話はよく新聞紙上に見受けられるが、男性が男性に被害を受けるという記事は、今まで載ったことはない。

 

「恐怖心や恥ずかしさ、さらに捜査や裁判への精神的な負担などから泣き寝入りすることが多いと言われる性被害。「男性も被害に遭っていると言い出しにくい」。新潟市で若者支援に取り組む支援者(38)から寄せられた。取材を進めると、男4人から性的暴行を受けた男性が思い口を開いてくれた。

 

「誰にも相談できず、ずっとひとりで抱えてきた」

 

6年前の冬、部活の先輩だった男4人から性的暴行を受けた20代男性は、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「信じてもらえるのか、軽蔑されるのではないかと打ち明けられなかった。そもそも誰に相談するべきかわからなかった」

 

一度だけ、自分が被害を受けたことは伏せて友人にそれとなく話したことがある。「男が襲われるわけないじゃん」。一笑にふされた。「そうだよな、あるわけないよな」と応じ、話すこともやめた。「こんなことに巻き込まれるのは自分だけなんだ。自分がおかしいんだ、と無理に自分を納得させた」と振り返る。

 

被害を受けた中学生当時、小柄だった男性は、男女問わず友人が多かった。ただ学校内の上下関係はきびしく「先輩に気軽に話しかけられる雰囲気はなかった」。

 

被害にあったのは年の瀬が迫った休日の夕方。友人と待ち合わせをしていた新潟市内の公園。ベンチに座って携帯用ゲーム機で遊んでいると、先輩のひとりが近づいてきた。挨拶をしようと立ち上がった瞬間、背後から腕で首を絞められ、頭にポリ袋をかぶせられた。

 

複数の男が馬乗りになり、顔、腹を殴られた。首にカッターナイフを当てられ「黙れ!」とどうかつされた。助け求めても、真冬の公園に人影はなかった。

 

服は破かれ、性行為を強要された。「唇を切ってにじんだ血の味は忘れられない」。解放されて起き上がると、友人がぐったりと横たわっていた。友人も被害に遭っていた。

 

翌日から「もう一回やらせろ」「いやなら金を持ってこい」と要求されるように。断ると「写真をばらまく」とおどされた。加害者が卒業するまで、3ヶ月続き、より過激になっていった。

 

男性は被害にあってから一度も女性と交際できていない。「間違いなく被害者だけど、俺にも落ち度があったのではないかと考えたこともあった。男としての自信がない」と言葉をつまらせ、こう続けた。

「体を傷つけられた。心は殺された」」

 

これが本当ならひどい話だ。『薔薇族』の誌上にも、運動部の部活で芸の先輩から迫られる話はよくあった。しかし、ゲイの人は、この話にあるような暴行したりするようなことはしない。

 

ゲイの先輩は後輩を愛していたからの行為だ。

 

「男性は被害に遭ってから一度も女性と交際できていない」とあるが、暴行されたからゲイになってしまうことはない。もともとゲイだったから、女性と交際できないのは当然のことだ。ゲイの人はやさしい人が多いから、こんな暴行をすることはありえない。

| | コメント (0)

2020年3月16日 (月)

神の心と、悪魔の心を持って!

これは『薔薇族』が売れに売れていた時代の話。1991年12月号No.227。
 
「編集室から」にぼくはこんなことを書いている。読者からの手紙の紹介だ。
 
「この欄を真剣に読んでくれている読者は『薔薇族』の優等生だから、関係ないかもしれないが、大事なことなのでじっくり読んでください。『薔薇族』ではハッテン場の情報を流し、一方ではそんなところに行くなと言うのは、大いなる矛盾ですが、この雑誌は神の心と、悪魔の心と両方持っていなければどうにもならないのです。
 
ぼくが学んだ駒沢大学のとなりの駒沢公園での話です。こんなショックな手紙をもらったので紹介します。
 
「ひとりの男を数人の男たちが取り囲み、腹めがけて思いっきり足蹴りしていた。あまりの苦痛に声も出ない被害者。
 
これは夜中の駒沢公園での出来事。うわさには聞いていた。集団暴行しているのは、一見、普通の学生。どこにでもいる高校生、大学生たちだ。むしろ、ホモ受けする学生タイプだろう。
 
連中の手口は夜のグランドの観客席で、二、三人でたむろしている。そしてひとりずつバラバラに歩き出す。そのひとりを、ひとりのホモがついていくと、暗いところでいきなり前を歩いていたやつが後ろを向き、ついてきた奴の腹めがけて、取り囲んでなぐる、けるの暴行。
 
あとはもう見ていられないほどひどい。この世の地獄の光景だ。そして一斉にその場から消え去るホモたち。これが彼らをのさばらせる原因なのだろう。
 
ひとりで来ている大人しそうな子をねらう連中のあくどさ。
 
後ろ髪を引かれながら自分も逃げた。泣きながら逃げた。泥棒でも人殺しでもないのになぜ逃げると思いながら…。
 
なぜ、大声で「助けて!」と、叫ばなかったのかと。犯罪者は彼らなのに。
 
連中よりも、もっと筋骨隆々のホモもたくさんいた。タンクトップを着て、真っ黒に日焼けした体はセックスのためだけのものなのか。
 
真っ先にその場から逃げていく姿は悲しかった。自分もこんな弱々しい体じゃなかったらって、くやしかったよ。筋肉をつけるのもいいけど、少しは被害者を見殺しにしたことを恥じてほしい。連中だって集団だから、誰も抵抗しないからやるのだ。
 
逃げて数十分後、どうしてもこのまま見過ごせなくて、集団暴行の現場に戻った。もしかしたら今度は自分が犠牲者になるのかもしれないとわかっていて、でも、がまんできなかった。
 
救急車を呼ばなかればいけないかもしれない。はやる気持ちで現場についた。さっきの惨状はうそのように静まり返っていた。
 
被害者はいなかった。帰りかけると、ものすごい光が目に飛び込んできた。警察官や私服の刑事たちだ。
 
「もっと早く言わなきゃ」と、大声で叫んでいた。誰かが110番したのかはわからない。病院にかけこめば当然、原因を聞かれ、警察に通報されるだろう。
 
警官らは現場をいとも簡単に調べた。まるでこいつらのために時間を使えるかという感じで。
 
あの学生の姿も、暴力魔たちの姿もなかった。いるのは数人できて、ゲラゲラ笑っているホモたちだった。そしてひとりでひている人は自分を入れて何人かだ次の犠牲者は、またこの中のひとりかもしれない。
 
これは作り話ではなく事実なのだ。」
 
このようなことは、他のハッテン場でもあった。今はもうこんなことはないだろう。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧