2020年10月24日 (土)

人間っていつまで病気との戦いが続くのか!

1992年(今から28年前)そのころのぼくは『薔薇族』誌上で、帝京大学附属病院の松田重三先生にお願いして、特別にエイズ検査の窓口を作ってもらうなどしていたが、『アドン』の編集長、南定四郎さんは、行動を起こして街頭に出るなど大活躍をされていた。

 

身辺の片付けなどしていたら、そのころの読者からの手紙の束が出てきた。

 

「先日、僕は新宿2丁目の「マリンボーイ」(ウリ専の店)という店に行ってきました。僕の相手をしてくれたのは、22歳の男の子でした。僕は23歳なので、ひとつしか違いません。その子が明るければ明るいほど、僕は悲しくなりました。

 

やるだけのことをやっておいて、なぜ、こんな気分になったのか、自分でもわかりません。罪悪感で、2、3日ぐらい食欲がなくなってしまいました。

 

こんな気分になるんなら最初から行かなきゃよかったと後悔しています。でも僕もその男の子と時間いっぱい遊んでいるのです。

 

店にいる時はなんとも思わなかったのに、帰りの電車の中で急に罪悪感を持ち始めました。

 

僕は『薔薇族』を小学校5年の時から読んでいます。でも、広告に載っていた「マリンボーイ」に行ったのは初めてでした。

 

昨年は「スカイジム」に行って、喉の病気をもらってしまい、1ヶ月も点滴を受ける生活を送ってしまいました。『薔薇族』を読む時は「伊藤文学のひとりごと」と「編集室から」に最初に目に通します。

 

その中で伊藤さんがあれだけエイズについて書いていたのに、自分の好奇心に勝てなくて、派手に遊んでしまいました。

 

Hをするときは相手の人にスキンをつけてとお願いしますが、中には嫌がる人もいます。

 

もし僕がエイズに感染したら、誰とも遊ばないと断言できるかは自信がありません。むしろ仲間を増やしてやると思うかもしれないし、とんでもないやつですよね。ごめんなさい。

 

昨年、喉の病気をもらった時は、病院で血液を4本ぐらい取られて検査をされましたが、何も言われませんでした。エイズの検査ではなかったのですが…。

 

エイズの検査って何度か受けた方がいいのですか? 初体験は文通欄で知り合った24歳の人でした。僕が17歳の時でした。

 

それから何十人という男と寝たかわかりません。伝言ダイヤルを使って知り合った人たちとか。

 

僕と同じ歳でエイズになってしまった大学生の気持ち、僕にもよく理解できます。(前の号でエイズに感染してしまった大学生の投稿を載せ、大きな反響があった)

 

この大学生のように強く生きていけるかどうか、自分ではわかりません。SEXを我慢できるか、自信がありません。

 

ホモは悪いことでもなんでもないですよね。人が人を好きになるのは当然ですからね。それが体だけの付き合いでも。ちょっと違うかな?

 

僕は遊ぶ時は、伊藤さんの「伊藤文学のひとりごと」と、「編集室から」の記事を心の片隅に置いているつもりです。

 

でも自分の気持ちと、好奇心に負けてしまうのです。また、いつ病院のお世話になるかもしれないのに、ついつい遊んでしまうのです。

 

自分の気持ちにブレーキをかけることが、時々できなくなるのです。やっぱり検査を受けた方がいいのでしょうか」

 

 

どこの誰かわからない人の手紙だが、行動している読者は、みんな彼と同じような気持ちだろう。

 

エイズがおさまったら、今度はコロナウイルス。人間っていつまでも病気との戦いが続くのか!

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2020年10月19日 (月)

『薔薇族』創刊50年、女房との結婚も50年!

ぼくが最初に本にした昭和53年(1978年)『心が破けてしまいそう・親兄弟にも言えない この苦しみはなんだ』(光風社書店刊)

 

この時代は男好きであっても、女性と結婚しないわけにはいかなかった。結婚問題が多く載っている。その中の京都市のYさんの投稿を紹介しよう。

 

「私はホモです。でも妻や子供を愛しています。どんなに好きな人がいても家庭を捨ててまで好きな人に走るなどということは、とてもできません。そうかといって男の恋人とただ享楽的に、その場さえよければというのでは決してないのです。恋人のために少しでも家庭を犠牲にすることが私にはできないのです。

 

ホモも昔に比べてだいぶ世間に認められるようになってきたとはいえ、今現在、「私はホモです」と、世間に向かって言える人がいるでしょうか。解放運動とかなんとか言っても今の日本では、とても大変なことです。

 

私は幸か不幸か、男も女も知らないうちに(心の中では男性に興味はありましたが)、学校を卒業してすぐに結婚しました。長男がもう高校3年生で、一緒に酒を飲むのが今の私の大きな楽しみの一つです。

 

バアや、クラブにも連れて行きます。(ゲイバアではありません)Y談もします。

 

妻は田舎出の温厚な女性で、精神的にも物質的にも私に満足しているようです。妻はセックスに淡白なので、このごろでは月に数えるほどしか交渉はありませんが、そんなものかと思っているようです。そういう意味では私はとても恵まれているのです。

 

このごろ、貴誌でも結婚問題の不安について取り上げています。ごもっともとは思いますが、結婚しようという気持ちがあれば、躊躇わずするべきと思います。

 

普通の夫婦でも結婚生活はお互いに努力をしていかなければなりません。ましてホモの人が結婚するとすれば、その努力は人の2倍も3倍も必要です。結婚しようという気持ちがあれば努力すべきですし、しなければいけません。

 

結婚生活にとって「性」の問題は大切なことですが、でもセックス だけが全てではないと思います。

 

結婚は「惚れた、はれた」ではなく、時がたてば夫婦の愛情というものが生まれてくるはずです。普通の人間であれば、人を愛することができる人間であれば、夫婦の愛、親子の愛が必ずできてくると思います。たまたま私がうまくいったから、こんなえらそうなことを言えるのかもしれませんが、でも私は私なりに努力してきたつもりです。

 

中には女性なんか見るのも気持ちが悪いという方もいるかもしれません。そのような方はやはり結婚は諦めなければ、しかたがないかもしれません。男性の都合や世間体だけのために女性を犠牲にすることは罪悪です。

 

なんだか偉そうなことを書きました。貴誌の益々のご発展をお祈りします。」

 

投稿してくるような読者は、真面目でしっかりした考え方を持っている人ばかりだ。なんだかぼくが叱られているようなものかもしれない。

 

ぼくの親父は女性に関しては、とんでもない男でどれだけ母親を泣かしたことか。

 

ぼくも『裸の女房』(彩流社刊)に、先妻の女房との出会いから、33歳で事故死するまでの15年間を書いたが、出会ってからの2、3年と亡くなる前の2、3年は、いい亭主だったが、とんでもない男だった。

 

今の女房と結婚して早くも50年。先妻が残した息子を立派に育て上げ、両親の面倒を見てくれたのだから感謝するしかない。

 

素晴らしい読者をもって、ぼくは幸せだった。

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2020年8月22日 (土)

男しか愛せない男は結婚してはいけない!

「『薔薇族』は結婚したらいけないとは、一口には言えないと思う。『薔薇族』には二つの道があるのです。

 

一つは男も女も愛することのできる人だ。男に対してもボッキするし、セックスもできるし、ホモとしてのひととおりのことができる人である。もちろん女に対してもセックスできる人であるし、それと子供も作りたい人のことである。

 

このような両刀使いの男なら、結婚しても必ずうまくゆくし、男と遊んでも別に世間の人から変な目で見られることもない。

 

両刀使いの男には、結婚しろって言ってやるべきでしょう。

 

もう一つの道とは、男に生まれて男しか愛せない男のことである。この男に対しては、結婚してはいけないと言ってもよいのだ。

 

どうしてって?!

 

男の裸体にしかボッキしないのに、どうして女の裸体にボッキするわけがあろう。

 

街を歩いていても目に入るのは男だし、男のふくらみしか目に入らないのである。いい男性が向こうから歩いてきたら、立ち止まって見て、振り向くのである。女なんてもちろん目に入らないし、男、男ですよ。

 

女といる時よりも、男友だちといる方が楽しいし、幸福でもある。だから結婚してもうまくゆくわけがない。だから男しか愛せない男は、結婚してはいけないと言える。

 

以上は自分のことを書いたつもりです。この男しか愛することのできない俺が、どういうことでしょう。結婚したのです。

 

でも今はひとりで生きています。つまり早い話が去年離婚しました。別れたと言ったら聞こえはいいけど、本当のことを言うなら逃げられました。

 

理由はもちろんセックスのことです。両親、兄弟などの強い勧めで見合いをした俺は、その時、28歳でした。もちろん女に対してなんの感情もなく、ひとすじ男、男で過ごしてきた日々出会った。

 

その俺がどうして見合いなどしたかって不思議でしょう。世間体もあるって親兄弟に説得されたのです。

 

それと俺自身もなんとかなるだろうと安請け合いをしたのです。見合いをした時、女つまり大人の女性と話をするのは初めてでした。でもどうしたことか、話がとんとんと進んで、相手がOKの返事をよこしたのです。もう、びっくりしました。

 

また、なんとかなるだろうの気持ちが動き半年後、結婚へ。その間、何度かのデートもあった。でも何も楽しくないし、その帰りにホモだちのところへ寄り、セックスした日もあった。

 

さて新婚旅行です。車で回りましたが、車内ではろくに話もせず、ホテルに入っても同じで新婚初夜は東京です。二人とも疲れているので、そのまま寝ました。

 

さて、アパートに帰ってから二日間は何もなく、三日目の夜に一度ぐらい頑張ろうとしました。できたのです。結合したのです。

 

女の性器の中に入ったのです。何か温かい変な気持ちでした。

 

会社から帰っても面白くないから、遊んで帰る日が続いた。

 

夏になり、秋になり、そして冬が去った。決定的になったのです。野口五郎の歌ではないが「春に別れる約束だった」とね。

 

結婚して一年と少しで終わった。これで良かったのだと思う」

 

 

『薔薇族』の編集長のぼくだから、男性側の味方をすべきだが、これでは女性が気の毒すぎる。

 

41年も前の話だから、この時代、ゲイでも結婚しないわけにはいかなかった。今はこんな話、昔話と言っていいのだろうか?

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2020年8月 8日 (土)

文通欄は大きな心の支え!

『薔薇族』の文通欄が地方に住む読者にとって、唯一の仲間を見つける大事な手段だった。

 

山形県の一番屋さんの投稿を読むと、文通欄を通して知り合った仲間との出会いが大切だったということを思い知らされる。

 

「われわれ地方に住む者にとって、『薔薇族』は大きな心の支えになってくれます。都会と違って集まる場所もなければ、心を開いて酒を酌み交わす場もないわけだから、僕は3年ほど前からときどき買って読んでおります。

 

その間、通信を利用して知り得た友も何人かおりましたけど、いつも長続きせずがっかりさせられました。どうして長続きする交際ができないのだろうか? それは心を開いて素直な気持ちで付き合ってくれる人がいなかったから。また自分もそうしなかったからだと思っています。だけどこんな自分の前にも、ようやく真実の愛が現れました。

 

彼とはじめて逢ったのは、昨年の10月9月、体育の日の前日だったことをよく覚えています。

 

僕が駅まで出迎えに出ると、改札口で彼はペコンとお辞儀をしました。逢うまでは彼という人間を自分勝手に想像していましたが、実に爽やかな感じを受けました。

 

その晩はいろんな話をして、翌日の昼過ぎに帰って行きました。今度また、今までみたいに1日の巡り逢いで終わるのかなと思ってみたりして。

 

ところが案に相違してそれからというのの、10日に1度の割合で逢い、愛し合い、また語り合いました。

 

汽車で3時間の距離もなんのその、それだけ好きだということなのかも。歌の文句じゃないけれど、逢っている時はなんともないが、別れた後の気持ちがとても辛いものでした。

 

2人でどこかへ旅行しようということになり僕の発案で八丈島へ正月休みを利用して行ってきました。

 

雪国育ちの僕にとって、八丈島はまるで外国のようなものでした。2泊3日と短い旅でしたけど、とても思い出深い、忘れることのできない旅行となりました。

 

ホテルの人たちに「兄弟ですか」と言われた時は、言葉に言い表せない嬉しさを感じました。

 

楽しい時の時間の早いこと、まるで走馬灯のようなもので、時よ、このまま止まってくれと叫びたい心境でした。今も写真を見ては思い出しています。

 

彼と知り合って早4ヶ月、何もしてあげられない僕だけど、優しさと誠実な心でいつまでも付き合おうと心に決めています。

 

最後に伊藤文学様、いつまでも僕たち地方に住む者に対して、希望と勇気を与えくださることをお願いします。」

 

今、このブログの原稿を書いているのは、2020年7月20日の午前4時、11時ごろ床に入ったのだけど何度も目が覚めて、眠れないので起き出して机に向かってペンを走らせている。

 

睡眠薬を飲むのはやめようと思って、飲まずにいたのだが、あまりにも寝付きが悪く、夜中に何度も目が覚めるので、医師にお願いして睡眠薬を処方してもらった。

 

その前にテレビのCMや、新聞広告で見て「ぐっすりずむ」という薬を買い求めても飲み始めたのだが、この薬は飲み続けないと効き目があらわれない。

 

医師に処方してもらった睡眠薬、効き目抜群でびっくり。ところが3日目には効かなくなって元に戻ってしまった。家にばかりいて歩かなかったのがいけなかったのか、体を疲れさせないと眠れない。

 

今日から外に出て歩き出した。

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2020年7月27日 (月)

少年が好きだから教師の道を!

「知らぬままに先生と手をついないでいた」と題する松山市中学3年生の投稿。

 

先生は読者の中でも一番多い。少年が好きだから教師の道を選ぶのだろう。

 

「僕は中学3年の男の子。割と真面目で部活に励んでいます。

 

住んでいるのは伊予国の松山市。『坊ちゃん』で有名。実は僕『薔薇族』を2ヶ月前に知ったんです。とても驚いたけど嬉しかった。それで顔を赤くしながら大急ぎで買って走って帰った。自分の部屋で開いてみてもう胸がドキドキ。いつの間にか勃ち上がってしまって、すごい本だなあほんとに。

 

今は僕、学校の先生が好きになって困っているんです。それもうんと年上の40歳を越している中学の先生。とても優しいのです。学校の中でも偉い先生みたいで、若い先生がいろいろ教えてもらっている。とても落ち着いていて、穏やかないい顔しているんだ。歳の割には足も長いし。その先生がバレー部の顧問をしている。僕、バレーボール部員。練習の時は厳しく仕込んでくれます。普段はとても優しいお父さんみたい。つい甘えて抱いてもらいたくなるような。

 

その先生が好きになったのは春休み。松山の町の真ん中、松山の繁華街です。そこでばったり会ったんです。

 

「いっしょに歩こう」なんて誘ってくれるものだから大判焼きを3個買って僕にくれたのです。僕嬉しくて。

 

それからなおもいっしょに歩いて、とうとう堀之内公園へ来てしまった。全然疲れなかった。堀内の桜並木から土手へ上がって、人影の少ない木立の中を2人で歩いたんです。まるで恋人みたいだなあと思いました。とっても幸せな気分でした。

 

どこからも見えないような大きな松の木の下でしばらく立ち止まって話をしました。いつの間にか手を繋いでいるんだ。不思議。

 

「もう帰ろうか」

 

「ハイ」そう言って先生は僕の肩に手を回して、グッと抱き寄せてくれたんです。胸に頭をくっつけるように、しばらくじっとしていました。

 

先生の匂いがしました。いい匂い。あれ何の匂いだろう。香水の匂いかな。いや、洋服の何か、ナフタリンというのか、いい匂い。懐かしい匂い。

 

それからその先生、大好き。今、その先生がいるからバレーボールも一生懸命やる。

 

学校へ行くのも楽しくてしょうがない。友達も結構いるけど、その先生さえいてくれればいいんだ。何となく先生、僕に特別な目をかけてくれるようなんだ。嬉しい。

 

また2人で歩きたい。抱きしめてもらいたい。2人だけになりたい。それだけでいいんだ。M先生、大好き。」

 

ほのぼのとしたいい話ではないか。これから2人がどうなったのかはわからないが。

 

先生と生徒の話は、『薔薇族』誌上では珍しいことではなかった。この先生、独身なのだろうか。40歳を越しているという先生、この時代、40歳を過ぎて結婚していないわけがない。独身でいたら親たちにも学内でもおかしいと思われてしまうから。

 

四国の愛媛に住む先生。書くことが好きな先生で投稿をしばしば寄せてくれた。ジャニーズの公演を聞きにくるために上京してきたときにお会いしたことがある。

 

奥さんや子供がいるのに、山の分校に単身赴任した時が一番楽しかったという。流石に校長になってからは、欲望を抑えていたようだが。

 

脳梗塞で倒れてからは奥さんの看護なしでは生きられなくなってしまった。何とも皮肉な話ではある。

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2020年7月20日 (月)

君の亭主はホモじゃないのかと!

戦後の昭和の時代にヒットした歌謡曲を石原由次郎が歌っているのを聞いていると、男性優位で、男性に捨てられた女性、捨てられるのを恐れて、全てをあげてしまった馬鹿な女と、蔑んだ女性の歌が目立つ。

 

この時代のゲイの人たちはどんなだったのだろうか。異性と結婚しないわけには行かなかった。レズビアンの女性でも男性と結婚して専業主婦にならざるをえない。女性の職業が少なかったからだ。

 

ゲイの男は女性のアソコがどうなっているのか、みたこともないし、みようとも思わない。そんな男が結婚してうまくいくわけがない。

 

ぼくはどうしたら夫婦生活を続けられるのか、微に入り細に入り『薔薇族』に書いた。

 

この時代お見合いでの結婚のケースが多いから処女と結婚しなさいと。男を知っている女性だったら、すぐにおかしいと思われてしまうから。

 

まあ、馬鹿馬鹿しいことをよくも書いたものだ。朝起きて元気の良い時にセックスしなさいと。

 

できれば大きな鏡を寝室に置いて、自分の裸の姿を見ながらセックスする。男と寝たときのことを思い出しながらと。

 

ラブオイルを亀頭につけて女性の中に入れて擦れば大きくなってくる。そうすればうまくいくのではと。

 

女性のオッパイを触りたくはないだろうが、前戯も大事なので、揉んだり、吸ったりしなさいと。

 

小学校の教師をやっている一人の青年が訪ねてきた。同じ学校の女の先生に愛されてしまったという。彼女の方が積極的で、いつの間にか親同士が会って、式場の日取りまで決められてしまったのだ。

 

24歳になる彼は男が好きで、それも兄貴のような男に愛されたいという気持ちが強いのだが、実際は男に愛された経験もないし、女性とのソレは知る由もない。

 

訪ねてきた彼と会った。「なんとかなるから結婚しなさい」と答えたと思う。忙しさに紛れて彼のことなど忘れていたら電話がかかってきた。

 

「うまくいっているかい」と言うと、いかにも元気のない声で「それがどうも」ということだった。

 

もう半年近くもすぎたというのに、数回しかセックスしていないという。夜、早く帰るとせがまれるものだから、なるべく外で遊んできて遅く帰ってくる。そうすると彼女の方は最初のうちは、他に女がいてそれで帰ってこないのではないかと追求する。どうも女が他にいる様子がないと知ると、変だと思った彼女は同じ学校の男の先生に相談したのだ。

 

「君の亭主はホモじゃないのか」と言われた彼女は家に帰ると彼を追求する。最初は笑ってはぐらかしていたものの、どうにも弁解できなくなって、また、ぼくを訪ねてきたのだ。

 

どんな夫婦生活をしているのか、根掘り葉掘り聞くと、彼女の体に触れることが嫌であるらしく、いざとなるとボッキしないのだという。

 

一緒に食事をして「頑張れよ」と肩を叩いて別れたけど、別離するしかないのは目に見えている。

 

世間体のために、一人では寂しいからどうしても結婚する。このような夫婦は多かったに違いない。今の世の中、もうこのような夫婦はいないと思うけれど……。

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2020年6月15日 (月)

ずんぐり、むっくりの裸の兵隊たち!

蕎麦数彦さん、大阪に住んでいる方で、『薔薇族』の読者でもあり、物事を深く追求するタイプで小説も多く書かれている。

 

『薔薇族』に昭和48年「ああ、M検物語」を発表されたのが最初で、自らの兵隊時代の体験を生々しく書かれたのが、読者に好評で、それから次から次へと小説を送りつけてきた。

 

その原稿は原稿用紙に書かれたものでなく藁半紙に独特の小さな文字で、びっしりと書かれていた。

 

笹岡作治のペンネームは、ぼくが名付けたもので、福岡の消印があるから福岡に住んでいる方だということしかわからない。

 

笹岡作治さんの作品に熱愛している方が、大阪に住む蕎麦数彦さんだ。その頃、「主婦と生活社」の子会社である「番町書房」から出版された『兵隊画集』(伊藤桂一序・昭和47年刊)が刊行された。蕎麦さんは『兵隊画集』の熱狂的なファンだった。笹岡作治先生は私にとって特別な作家ですと、ぼくへの手紙に書かれているが、『兵隊画集』に描かれている兵隊たちの裸体が、蕎麦さんの好みと一致していたからだろう。

 

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『兵隊画集』は富田晃弘さんが、第二次世界大戦の日本軍、第12師団、歩兵第24聯隊で従軍した作者が、その経験をもとに描いた画と詩、文をまとめた作品だ。

 

入隊から満洲、台湾と、戦地の軍隊生活が兵隊たちの装備、柱に貼られた標語、生活用具など、細部に至まで驚くほど細密に活写された画と、それに添えられた哀切な詩が読者の心に鮮烈な印象を残す、傑作中の傑作だ。

 

その魅力は年月を経ても全く減ずることはない。中でもぼくが引き付けられたのは、画のなかに蠢く、一様にずんぐりむっくりの体型の兵隊たちだ。

 

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笹岡作治さんと、富田晃弘さんが同一人物だということを突き止めたが、ぼくも間違いないと思う。今回は蕎麦さんの小説「裸一貫ワラチン漁師」をネットで読んでもらいたいと思ってのことだ。なかなかの力作なので是非、読んでもらいたい。

千葉県の九十九里浜の漁師の生活を描いているが、蕎麦さん、九十九里浜のことを書いた何冊もの文献を読んで書いたもののようだ。

東京の一等地に店を構える時計商の三男坊として生まれた。だが誰もが羨む幸せな時間は、17歳の誕生日を迎えて終わりに。

父親の店が火災で全焼し、事業に失敗し倒産する。そして主人公は久里浜の漁師に養子としてもらわれてしまう。

それからは素っ裸で、オチンチンにワラチンを付けただけで働かされた。それからの生活は凄まじい。ノンケのぼくでもボッキしそうになる迫力だ。

 

「「ソンナじゃあ、いつまで経ってもみごわらしべを結ばれんぜ。ガキの真っ裸とおんなじだ」

 

古株の漁師が意地悪く肩から覗き込むようにして言った。

 

むけきった亀頭を囲むように、わらを結んだ男たちの男根。むくつけき漁師たちのそれは、大きさこそ大小あるが、堂々と晒しているからか、誰のものもふてぶてしく、その性能を誇示しているように見えた。

 

経一は、この陽物に結んだ笑を指して「これが俺たちの仕事着だ」と言っていた。同じ丸裸だと言っても、ここではわらを結ぶということが、ユニホームを着ることと同じような意味を持つらしい」

 

タイトルの「裸一貫ワラチン漁師」はここから名付けしたものだ。

 

荒々しい漁師たちの凄まじい性描写も見事に描けている。ネットで見るのは無料だそうだから是非、読んでください。

 

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2020年6月13日 (土)

『兵隊画集』と笹岡作治の接点は?

1971年の7月に日本初の同性愛誌『薔薇族』が創刊されるや週間ポストがまず取り上げ週刊朝日、平凡パンチそれに東京スポーツが1ページを使って特集し、週刊文春が「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。

 

ポルノ雑誌でこんなにマスコミが取り上げてくれたことは例がない。それは藤田竜さんの表紙絵が良かったからだと思っている。それと上質紙を使い、レイアウトも格調高かった。

 

全国の書店に並べられたことも良かったが地方に眠っていた有能な読者が購入し、号を重ねるごとに、小説、エッセイ、男絵と作品が寄せられるようになってきた。

 

読者の投稿頁をもうけるようになってからは続々と自らの悩みや、体験談が寄せられてきた。

 

早稲田大学の国文科出身のNHKアナウンサー楯四郎さん、短編小説が掲載されるや次々と小説を書き、その才能が開花して優れた名作を書き残してくれた。

 

楯さんだけではない、多くの才能のある人々が小説を投稿してくれて、それらの作品は文芸雑誌に劣らない名作ばかりだった。

 

忘れてはいけない人は、福岡から送られてきた人で、住所も名前も書かれていない。福岡の郵便局の消印があるから、福岡に住んでいる方だろう。

 

最初に送られてきたのは、昭和48年に初めて載った「ああ、M検物語」だ。笹岡作治のペンネームは、ぼくが名付けたものだ。野暮ったいペンネームのほうが、作品に合うと思ったからだ。

 

昭和49年には「地獄の顔」「若者狩り」「続・若者狩り」と、次々送られてきた。

 

「百姓哀歌」(昭和50年)「新若者狩り」「若者狩り・亀吉の場合」(昭和51年)「海軍内務班・わが戦争体験」「調教の館・一渾亭」(昭和54年)と、昭和51年に杜絶するまで、傑作小説の数々を残してくれた。

 

ゲイの人って読者に作品が褒められると、これは誰しもだが、益々の力作を書こうと意欲が増すが、読者の中にはSMの小説を好まない人もいる。よせば良かったのに何人かの読者からの悪評を載せてしまった。

 

ゲイの人って被害妄想が強く、けなされることには弱い。笹岡さん「読者に叱られた」の一文を残して、ぷっつりと作品を送ってこなくなってしまった。残念なことだ。

 

その頃、「番町書房」(主婦と生活社の子会社、今はない)から、富田晃弘さんが『兵隊画集』という豪華な画集を出版された。(昭和47年刊)

 

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ぼくの母校、世田谷学園の先輩、直木賞作家の伊藤桂一さんが序文を書いている。

 

『兵隊画集』は、第二次世界大戦の日本軍、第12師団、歩兵第24聯隊で従軍した作者が、その経験をもとに描いた画と詩、文をまとめた作品だ。

 

入隊から満洲、台湾と、戦地の軍隊生活が、兵隊たちの装備、柱に貼られた標語、生活用具など、細部に至るまで驚くほど細密に活写された画と、それに添えられた哀切な詩が、読者の心に鮮烈な印象を残す、傑作中の傑作だ。その魅力は年月を経ても全く減ずることはない。

 

絵の中に描かれた一様にずんぐりむっくりした体型の兵隊たちは、著者の好みの男たちなのだろう。

 

兵隊たちが素っ裸で並び、徴兵検査を受ける場面など、裸を描いた兵隊たちの姿が多い。作者がゲイだったからだ。

 

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『兵隊画集』を藤田竜さんが大きく紹介したら、書店で飛ぶように売れ始めたそうだ。読者の興味をひいたことは間違いない。(続く)

 

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2020年6月 8日 (月)

自殺した友よ いま一緒に乾盃しよう!

1989年(今から31年前)平成元年の『薔薇族』が、創刊200号18周年の記念特大号だった。416頁という厚さで、その半分ぐらいは広告頁、そのうちの9割以上がレギュラーとして、ずっと広告を出してくれているということは、効果があるということ。『薔薇族』の内容が充実して売れ行きがいいからで、共存共栄の姿になっている。

 

ここまでくると『薔薇族』は、もう個人のものでなく、みんなものだという責任の重さを痛感していますと、ぼくは「編集室から」に書いている。

 

美輪明宏さんが、その頃、体調がよくなったのに「自殺した友よ いま一緒に乾盃しよう」と題して、長文のお祝いの言葉をよせてくれている。

 

長いお祝いの言葉なので、とっても全文は紹介できないが、美輪さんは芸能人で最初にゲイだということを告白した方で、そのときのことが書かれている。

 

「昭和32年(1957年:今から63年前)にマスコミの脚光を浴びた私は、長年温めてきた言葉をインタビューで答えた。「私は男性が好きです」と。いまだに忘れもしない『週刊アサヒ芸能』であった、すると、その記者は親切にも言った、「駄目ですよ、そんなこと言っちゃ。世間から葬られますよ。芸能界の人々は皆さん隠してるんだから、あなたもそうしなくちゃ」

 

しかし私は答えた、「いいんです、それで。ほんとうのことですから、書いてください。そんなことで私の歌は駄目になりませんから」

 

「ほんとうにいいんですね」

 

「はい」

 

「では……」

 

というわけで彼は書いた。「愛する男の数は、学生だけでも六大学のリーグ戦ができるほどいる」と。

 

それから、世間と私との戦いが始まったのである。長い戦いであった。」(後略)

 

63年前というと、ゲイの人たちが自らを異常者、変態だと思っていた時代で、「私は男性が好きです」なんて、マスコミにカミングアウトするなんて、かなりの勇気があったこと、ご自身の歌に対して自信を持っていたからだろう。

 

数年前にNHKの紅白歌合戦に美輪さんが「ヨイトマケの歌」を歌って、大きな話題になったことがあった。

 

『週刊・アサヒ芸能』が、ぼくのところにメールでコメント要請があったのを、息子が知らせてくれたのは1週間後だった。

 

このときほど情けない思いをしたことはない。それから数年も経っているのに、いまだにネットでメールなんて使えない。

 

ブログは原稿用紙4枚に書いて郵送すると、S君が土曜と月曜に更新してくれている。ありがたいことだ。頭が悪くて覚えようとしないのは、今に始まったことではない。

 

ぼくにはいいところもあるのだから、あと何年生きられるかはわからないが、みんなに支えられてこのまま生きるしかない。

 

この号には『薔薇族』を創刊以来ずっと読んでくれている読者と対談している。57歳の方のようだが、どんな方だったのかは覚えていない。地方の方のようだ。

 

「ーー創刊号を見たときのこと、何か記憶に残っていることありますか?

 

●すごく胸がときめいたということ。それと、ああ、世の中には私と同じ趣味、性向の人がずいぶん多いんだということ。こういう雑誌が出るぐらいだから、東京に行けば本当に多いんだろうなという気持ち。目には見えない仲間がいっぱいいるといった連帯感のようなものを感じました」

 

「趣味」だという、そんな時代だったのだ。

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2020年6月 1日 (月)

『薔薇族』はぼくを救ってくれた!

1991年『薔薇族』9月号は、創刊20周年の記念号だ。

 

「伊藤文学のひとりごと」は、連載197で「救世主は、君たちなのだ!」というタイトルで書いている。

 

「現在の『薔薇族』は、400頁を超えていますが、半分は広告頁で、なんと250軒近いお店の広告がずらっと並んでいます。

 

最初の50号までは広告を一切入れませんでしたが、徐々に増え始めてきたお店からの要望が強くなってきて、昭和51年の4月号から広告を入れることになりました。

 

16軒のお店がその号に載っています。そのうちの9軒は姿を消していますが、横浜の「童安寺」「横浜クラブ」新宿のポルノショップの「パラダイス北欧」「カバリエ」上野の「アテネ」「黒猫館」は、それ以来ずっと広告を載せてくれています。

 

広告だけを見てみると、時代の流れをはっきりと感じます。ほとんどのポルノショップも、一度は取締り当局の摘発を受けていますが、どのお店も頑張って、今日の隆盛をみることができたのです。

 

あんなに大盛況だった新宿の「祭」も、渋谷の「祭」もなくなってしまって、なにか寂しさを感じますが、これも時代の流れでしょうか。

 

大晦日の夜、従業員にお年玉をあげるべく、車を走らせて新宿の「祭」へ行くと、たくさんのお客がつめかけていて、それはそれは賑やかでした。それこそ、いろんな人に出会って、ぼくにとっては勉強になったし、「祭」は忘れることはできません。

 

『薔薇族』の発祥の地は、現在のわが家のすぐそばで、芝信用金庫代沢支店のまん前にある、「ハビテーション淀川」(5階建でエレベーターがない)というマンションの2DKの2階にある部屋からです。

 

最初は南向きの5階にある部屋に住んでいたのですが、女房のお腹が大きくなってきて上り下りが大変でした。そんなときにたまたま梅ヶ丘通りに面した、2階の部屋があいたので、そこに降りてきたというわけです。

 

社員なんてまっtかういなくて、藤田竜君と二人だけで始めたのですが、少ししてから学研の社員だった有能な若者が手伝ってくれていました。

 

今から考えると要領が悪かったのか、隔月刊なのに、徹夜、徹夜の連続でした。文通欄もいろんな紙に書いてくるのを、原稿用紙に1週間もかけて書き写していたのだから夢のようです。

 

今では手が増えて、ぼくがなんにもしなくても、きちっと決められた日には出来上がっているのだから、スタッフの諸君には感謝のしようがありません。

 

商売熱心な250軒に及ぶスポンサー各位のご協力と、三晃印刷、越後堂製本などのお陰と、優秀なスタッフの努力によって、無事に創刊20周年を迎えることができました。

 

一冊の雑誌だけでなりたっている会社というのは、出版界ひろしといえども、そうざらにはないでしょう。

 

それに忘れはならないのは、すばらしい読者が協力してくれたから、今日の『薔薇族』が隆盛のままに20周年を迎えることができたのです。

 

次から次へと新しい雑誌が生まれ、いつの間にか静かに消えていく中で、20年の歴史を持つことができたということは、編集長としてこんなにうれしいことはありません。

 

『薔薇族』はぼくにとっても「救世主」だったのです。『薔薇族』で立ち上がることができて、ぼく自身が救われたのですから。」

 

廃刊になって16年。今でもぼくは多くの人に支えられて生きている。ありがたいことだ。

 

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