2017年9月25日 (月)

時代の流れには勝てなかった!

当時、上野に事務所があった株式会社メディアソフトから『薔薇族』の復刊第1号が出たのは、2005年6月1日だった。今から12年も前のことだ。
 
メディアソフトの『薔薇族』にかける意気込みは凄まじいものがあった。
社長が近所の居酒屋に『薔薇族』のスタッフを集めてご馳走してくれたことがあった。広い部屋に集まったのは、20人をはるかにこえる人たちだった。
 
ぼくが『薔薇族』を出していた頃のスタッフは3、4人。あとはフリーの人たちが数人だけだ。広告をとる営業部員なんてひとりもいないのに、広告を集める会社の人たちも数人もいる。
 
 
 
復刊第1号を出すには、どうしても目玉がいる。そこで美輪明宏さんにお願いして、ぼくとの対談をしてもらうことになった。美輪さん、たった1日しかない休日をぼくのために時間をとってくれた。
 
社長が目黒雅叙園の豪華な部屋をインタビューのために用意してくれたのだから、それなりの服装をしなければならない。
 
人間落ち目になると、みすぼらしくなってしまう。父の友人の出版社の社長が倒産して、そのみすぼらしい姿を何人も見てきたので、なけなしの金をはたいて、背広を新調してその日に備えていた。
 
 
 
ぼくと美輪さんと2人だけと思っていたら、美輪さん専属のカメラマンの御堂義乘さんはともかく、驚いたことに、美輪さん見たさに、社長をはじめ、多くの人たちが待ち構えているではないか。
 
2号に分けてのロングインタビュー、美輪さんいい話をしてくれているので、なんとかしてみんなに読んでもらいたいものだ。
 
 
 
メディアソフトの幹部の人たちと、取次店(本の問屋)の仕入課に挨拶に車で回った。どこの取次店でも好意的で、うれしいことにぼくのことを覚えてくれていた
 
復刊第1号、今考えてみるに、テアトル銀座での、原作・江戸川乱歩、脚本・三島由紀夫、出演・美輪明宏、高嶋政宏「黒蜥蜴」の話題作の公演もあり、美輪さんの人気は女性客にも高かった。
 
表紙に魅力的でない男の写真を入れるよりも美輪さんの写真を使うべきだった。そうすればどこの書店でも、エロ本の棚に置かずに、女性でも目に触れる場所に平積みしてくれたに違いない。
 
編集長とは名前だけで、ぼくは一切編集内容にタッチしていない。これはかえすがえすも残念なことだった。
 
美輪さんが応援してくれたのに、売り上げには効果がなかった。
 
 
 
ぼくは給料を過分にいただいていたので、上野のバア「上野はやし」を訪ねて、マスターの林さんにインタビューしている。
 
「常連客だった人がしばらく姿を見せないなと思っていると、亡くなられたと聞くことも多い。毎日のように来られていたお客さんが、月に1回になり、体調がすぐれず来られなくなってしまう人、脳梗塞で倒れた人、ガンで亡くなる人……。年配客の多いお店では宿命的なことかもしれない。」
 
このお店、この後も何度かお邪魔したが、お年寄りばかりで賑やかなお店だった。林さん元気かな。
 
ゲイ・バア「タミー」のママにもインタビューしていて大活躍だ。
「伊藤文学のひとりごと」のコーナーを復活させた。「廃刊の知らせで、心の中にぽっかり穴があいてしまったようなショックを受けました。」大田区の案山子さんからの手紙。
 
時代の流れには勝てませんでした。損をさせてしまった社長に申しわけなくて。
 
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復刊第1号、これじゃ売れないな。
 
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美輪さん、協力してくれたのに。
(撮影・御堂義乘)

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2017年9月16日 (土)

読者に対する思いやりと心の温かさが!

1998年『薔薇族』10月号309号から、表紙絵が内藤ルネさんから、若い野原くろさんに変わった。
 
「伊藤文学のひとりごと・連載282」に、ぼくはこんなことを書いてる。「『薔薇族』は変わるぞ!」と題して。
 
 
 
「内藤ルネさん、本当に永いこと、お疲れさまでした。1984年の2月号(132号)から、木村べんさんと代わって『薔薇族』の顔というべき表紙絵を描き続けてくれました。
 
14年という長い年月が流れていました。若い読者の多くがルネさんの表紙絵を見てくれていたということになるでしょう。
 
今、バックナンバーを1冊、1冊と見ていくと、実に工夫をして読者を飽きさせないように、マンネリにならないようにと、描き続けてきたということがよくわかります。
 
昨年の6月、アメリカのロサンゼルスでのゲイ・パレードに、ルネさんの描いた『薔薇族』の表紙絵を拡大して、オープンカーの横っ腹に貼って行進したのを想い出します。
 
今年は残念ながら参加できませんでしたが、ロスの『薔薇族』応援団のスティーブン君が単身、『薔薇族』の表紙絵をかかげて行進してくれました。
 
オープンカーに乗っていても疲れるのに、歩いて長い道のりを行進するのは大変なことで彼らの『薔薇族』への熱い応援には、ぼくも頑張らねばという気持ちにさせられます。
 
内藤ルネ、藤田竜の両君に出会ったのは、昭和46年(1971年)の春頃だったと思う。彼に出会わなければ、今日の『薔薇族』はなかったし、いろんなゲイの人たちへの商売も、今のような隆盛を迎えることは出来なかったでしょう。
 
ルネさんと、竜さんのセンスのよさは抜群で、どちらがどちらということがわからない二人三脚で、素晴らしい仕事をこなしてきました。頭が悪くて、才能のまったくないぼくが、永いこと二人とお付き合いできたことによって、多少は美意識を養うことができました。本当に二人のおかげというしかありません。
 
『薔薇族』のいい所をあげるとすれば、「あたたかさがある」ということでしょうか。読者を思いやる心のあたたかさがあるのではと自負しています。
 
それは表紙絵にもあって、ルネさんの描く表紙絵は、ロマンティックで、ほのぼのとした心のあたたかさと、抒情性を感じる。それがぼくの好きだった要因といえます。
 
ルネさんも、ぼくも昭和7年生まれの同じ歳、もっと、もっと続けてほしかった。
 
しかし、世の中、がらりと変わってしまいました。このへんで思いきって気分を変えようと決断したのです。それはそれは悩みに悩みましたが、決断を下しました。」
 
 
 
この号の裏表紙には、キリンシーグラムさんがなんと広告を出してくれている。ゲイ雑誌に一般企業が広告を出してくれたのは、『薔薇族』だけで、これは快挙といえるだろう。
 
ルネさん、一般の仕事がなくなってしまって、『薔薇族』の表紙絵を描くだけになってしまったこともあったようだ。ルネさん、もっと、もっと描き続けたかったに違いない。『薔薇族』は、他誌のゲイ雑誌と比べてみて、品格というか、気品がにじみ出ているように思う。
 
中野にある「まんだらけ」という、古本やいろんなものを売っているお店の担当者の話によると、今でもルネさんが表紙絵を描いた『薔薇族』は、ルネさんフアンがいて、高価で売れているそうだ。
 
ルネさん、あの世でいい仕事を残したと喜んでくれているに違いない。
 
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2017年9月11日 (月)

自分の道は、自分できりひらくしかない!

ゲイの人たちが異性と結婚しないわけにいかなかった時代のこと、つらい別れがあったようだ。
 
埼玉県のA・Yさん。
 
 
 
「小生、『薔薇族』を購入するのは、世帯を持っていた関係上、20年ぶり以上のことです。
 
一応結婚して、子供たちを大学に入れて休みもなく働いてきて、定年前に離婚、その際にほとんどのものを失ってしまい、現在は年金だけのひとり暮らし。
 
また定年直後に狭心症をわずらい、約2年の闘病でよくなり、まあ、いろんなことを経験しての現在は、ようやく落ち着きを取り戻し、まあまあの生活を送っています。(年金生活なので多少さびしくはありますが)
 
しかし、こうした気兼ねなしのひとり暮らしも、寂しい面もありますが、ある程度は自分の好きな生活ができるので、一応は満足しております。
 
とにかく残された時間がだんだん少なくなりつつあるので、その残された時間を好きになれる人、好きになってくれる人と一緒に過ごしたいものと念じております。」
 
 
 
定年前に離婚、どんな夫婦生活を送ってきたのだろうか。A・Yさんも大変だったろうが奥さんもどんな思いで過ごしたのだろうか。
 
どっちが悪いわけではないのに、ゲイとして生まれた以上、どうにもならない宿命としか言いようがない。
 
結婚しない独身のゲイといえば、30歳過ぎの人の告白。
 
 
 
「ひさしぶりに『薔薇族』を開きました。
 
なんとなく30歳を越えて、急にしんどくなってきました。やっぱり自分なりに割り切っているとはいっても、男が結婚しないということは、社会に対する一つの挑戦だと思います。
 
20代で使っていた言いわけが通用しなくなりはじめて、家庭を持たないということは、けじめがないとか、だらしがないとか思われても仕方がないような状況に、今いると思います。
 
それができないなら、とことん男の人にのめりこんでいるかというと、そうでもなし、なんか宙ぶらりんです。
 
どうしてももっと要領よく、スマートに立ち回れないのかと、いつも自問自答の繰り返しです。
 
自分が40歳になった時、50歳になった時、そのときの青写真も全く描けません。
 
ただ、今は自分の食べる分だけ働けばいいとか、自分のほしいもののために、働いているという感じで、その日が平穏であれば、それはそれでいいか、という無気力、無感動な世界の中にいます。」
 
 
 
ゲイでなくても、今の世の中、4人に1人は結婚しないというから、一度しかない人生をいかに生きるかということだろう。
 
もうひとりの投稿。
 
 
 
「先月、30年間、一緒に過ごしてきた女房と別れました。むろんゲイであることが原因です。
 
子供たち(社会人になっています)に、カミングアウトしました。やはりショックだったようです。
 
女房にはとうに知られてはいましたが、子供たちには話すべきではなかったと後悔しています。
 
でも、「夫婦は別れても親子は親子」と言ってくれた時は、さすがに目頭が熱くなりました。
 
これから終生、男を好きになることを続けて、ひとり生きていきたいと思っています。」
 
 
30年も一緒に住んでいて、女房もゲイであること知っていたというのだから、離婚することもなかったと思うけれど。
 
夫婦が愛し合って生まれた子供。そうでない子供。この世に生まれてしまえば、そんなこと関係ないのでは。ひとり、ひとりがどう生きるかということだ。
 
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イラスト・長谷川サダオ

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2017年8月 5日 (土)

フランス映画の1シーンのような恋!

1987年の『薔薇族』1月号NO.168の「伊藤文学のひとりごと」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
 
 
「あるファッションモデルから、僕はこんな手紙をもらったのです。その手紙には、できるだけ文章を切り捨てないでください。私の今までの心と今の気持ちを伝えたいし、それによって彼女の気持ちも動くかもしれないからと書いてあるのです。そして相手の女性も毎号、『薔薇族』を読んでいるというのです。
 
何かフランス映画の1シーンを見ているような美しいシーンだから、僕が感激して彼女に協力しても、読者は決して怒らないと思うのです。
 
 
 
オチビちゃんへ!
 
オチビちゃん、この文を読んだら私が誰かわかるよね。貴女と初めて会ったのは、私の出てたファッション・ショウ、一番前の席で瞳を輝かせて見ていたネ。目が合ったので微笑むと、貴女は恥ずかしそうに下を向いてしまった。
 
そのあとで会場近くの喫茶店でバッタリ。貴女は下を向いたまま、真っ赤になって、「貴女がいちばん、きれいでした」と言ってくれた。そして、なぜか、貴女は私の部屋までついてきてしまった。
 
私の肩までしかない貴女を、私はオチビちゃんと呼ぶことにした。何度か訪ねてくれて貴女の気持ちに気付いていたし、かわいいとも思っていたけれど、私はこわくて貴女を抱けなかった。
 
寝つかれないで溜息ついてたのも、私の背中にそっと触れては、その手を引っ込めてたのも、みんな知っていたの。私も迷っていたけれど振り返れなかった。
 
 
 
9月4日、私の誕生日にマンションの前で私の帰りを待っていてくれた貴女。でも男の人の車から降りた私を見て、貴女は走り去ってしまった。目に涙をいっぱい浮かべて、好きだったのに……、ひとことつぶやいて…。
 
あの男性は仕事のスポンサーで食事に誘われただけなのに、そんな説明も聞かないで。電話をくれるのを待っていたのに。
 
 
 
もう、好きじゃなくなった? 私のこと忘れた? だとしたら仕方ないけれど……。
 
 
私、来春、契約が切れたら、母の待つベルギーに行きます。もし、貴女が電話をくれて、今でも同じ気持ちでいてくれるなら、必ず戻ってきて、私、貴女と一緒に人生送ってもいいと思っている。今度訪ねてくれたときは、私はもう、迷わない。今、はっきり気づいたの。
 
 
 
いつからか、貴女が私の心の中に住んでいること、今まで味わったことのない心のときめきと、いいようのない寂しさ。
 
オチビちゃん、私は貴女を愛し始めてしまったみたい……。
 
 
 
横浜市に住む、ファッション・モデルで、24歳になる女性からの愛の切々たる呼びかけの手紙なのです。
 
女の人のことを書くと嫌がる読者もいるかもしれないけれど、僕はこれが男同士ではなくて、女同士であるけれど、人間が人間を愛する気持ちに変わりはないと思うのです。まして女性同士の雑誌は日本にはないのだから、こうして『薔薇族』を読んでくれている女性になんとしても力になってあげたいのです。
 
ショウの舞台から観客席にいる人と目があって、それが恋に変わっていった。まるで小説の世界のことのように思えるけれど現実にこんな話ってあるのです。
 
僕も仙台の七夕まつりに行く夜汽車の中で出逢った女性と、恋をして結婚してしまったから、こういう偶然を信じるのです。
 
 
 
この女性たち、きっと誤解が解けて、出会い、ハッピーエンドになったと、信じています。『薔薇族』ならではの話でした。」
 
A
パリのBON MARCHEのカード

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2017年7月22日 (土)

会話だけのSEX『ベント』をもう一度観たい!

アメリカ大統領のトランプさんはゲイの人たちのことを嫌っているようだ。ドイツの独裁者、ヒットラーと、男らしさを必要としたナチス・ドイツにとって、ゲイは必要のないものだった。
 
1986年、7月4日の夜、渋谷の西武劇場で『ベント』の初日にぼくは観に行って「『ベント』は遠い昔の話ではない。現実にわれわれの身近かで起こりうることなのです」と『薔薇族』164号に観劇の感想を書いている。
 
 
 
ナチスはどんな方法で、同性愛者だということを見抜いたのだろうか。この劇中にもこんなシーンがある。ユダヤ人は黄色いワッペン、同性愛者はピンクのワッペンを付けさせられ、ピンクのワッペンを付けた男たちは、最低の人間として扱われた。
 
主人公のマックスが収容所へ送られる護送列車の中で、自分が同性愛者ではなく、ユダヤ人であるということを証明するために、ほんとちょっと前に弾丸で撃たれて息を引き取ったばかりの少女を護衛兵の目の前で犯した。
 
ぼくはいつかの札幌で起こった殺人事件のことを鮮明に思い出した。札幌で小料理店のマスターが殺されたときのことだ。殺されたマスターが同性愛者であることがわかり、犯人もゲイであろうと警察は目星をつけて犯人探しに乗り出した。
 
恐らくナチスもそうだと思うが、ひとり同性愛者を洗い出し、なぐる、けるの拷問をかければ、何人かの仲間の名前を教えざるをえなかった。
 
次から次へとあぶり出していく。今の日本の警察は、そこまではやらないだろうが、それに近いことが行われて、北海道全土でどれだけの仲間たちのリストが作られたことか。
 
事件が解決すれば、そのようなリストは捨ててしまうというが、そのまま信じることはできない。
 
 
 
東京の四谷署管内で起きたプロダクションの社長殺しのときも、四谷署で何百人ものゲイの人たちの写真を見せられたときのショックは忘れられるものではなかった。
 
もし、権力者によって仲間があぶり出されるようなことになり、そうなったら仲間を売るのは仲間でしかない。まさにこの世の地獄だ。
 
『ベント』は遠い昔の話ではない。今、現在、この地球上で行われていることであり、もっとも自由の国だと言われているアメリカで、そうだという現実をわれわれは忘れてはならない。
 
 
 
『ベント』の劇中、主人公のマックスとホルストが、いましめのために石を運ぶ作業をさせられながら、2時間の石を運ぶ作業の合間の休憩のたった3分間。それも直立不動で、2人が向き合ってでなく、2人とも同じ方向に向かせられて、護衛兵の見守る中で、会話だけでセックスするという、クライマックスのシーンがある。
 
マックス:お前が欲しい。
 
ホルスト:感じるか、お前の中に俺を?
 
マックス:入ってきてくれ。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:俺の中だ、お前は。
 
ホルスト:入った……。
 
マックス:強く。
 
ホルスト:感じるか、突いているのを?
 
マックス:ゆっくり。
 
ホルスト:腰を……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ああ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:もうすぐ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:感じるか……? もうすぐだ。
 
マックス:感じる、何もかも。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:そうとも……。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:ああ、ああ。
 
ホルスト:感じろ…。
 
マックス:ああ、強く……。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ううう……。
 
マックス:いいぞ……。
 
ホルスト:いいぞ……。
 
マックス:いい! (あえぐ)うう! あああ!(オルガスムスに達する)
 
ホルスト:ううう……! いいぞ! あああ……!(オルガスムスに達する。沈黙) お前……?
 
マックス:大したタマだぜ。
 
ホルスト:お前こそ。(沈黙)マックス?
 
マックス:何だ?
 
ホルスト:やったな……クソ衛兵に、クソ収容所……やったぜ、俺たち! 俺たちは殺されない。俺たちはやった。生きている。人間だ。愛を交わした。殺すことは出来ない。(沈黙)
 
マックス:俺まさか……。
 
ホルスト:何だ?
 
マックス:信じられない……。
 
ホルスト:どうした?
 
マックス:やっちまった。3分で。
 
(2人、笑う。サイレンが鳴る。2人は下に置いた岩をとり、あちらから、こちらへと運ぶ作業に戻る)(暗転)
 
 
 
2人の股間が一瞬にしてふくらみ、そして濡れたような錯覚にとらわれるほど、素晴らしいシーンだった。会話だけのギリギリの究極の世界でのセックスだった。
 
もう一度観たいものだ。
 
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イラスト・長谷川サダオ

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2017年7月 3日 (月)

「ああ、あのオカマさんの店」とニヤニヤと!

1955年7月号の『あまとりあ』今から62年も前の雑誌で、ぼくが23歳、駒大に通っていた頃のものだ。
 
敗戦後、数年の昭和24年には、早くも「シルバー・ドラゴン」というゲイ・バアが誕生している。
 
「ゲイ・バアの生態」と題して、かびや・かずひこさんがルポし、神田・銀座・新橋界隈のお店が紹介されている。
 
 
 
「神田のゲイ・バアでは、「シルバー・ドラゴン」が、まずあげられる。24年に開店し、約2年ほどは少数の外人客相手にひっそりと商売していたが、26年ごろからようやく衆道愛好者の間に、その名を知られてきて忙しくなったという。(中略)
 
シルバー・ドラゴンの名を言ったところ、酌の女が「ああ、あのオカマさんの店」と、ニヤニヤと薄笑いした。ただに飲み屋の女と限らず、一般世間人は男色に対してこの程度のアタマしかなく、この程度の理解しかないのが通例なのである。こんなところにゲイ・バアが向こう三軒両隣と調和しがたい悩みがあったのだろう。(中略)
 
男子同性愛に対して、一家言を持っていることでは、このママさんは恐らく都下ゲイ・バアのマスター中で随一であろう。借り物でない、自分の意見を持っているのだ。それだけにボーイに対する薫陶も、なかなか当を得ているようだ。
 
このように割りきっている彼にも、若いころには、社会との調和を考え、母親のすすめに、意に染まぬ異性との結婚をしたこともあったというが、同棲何ヶ月かにして、妻には指一本触れることなく、ついに離婚したのである。
 
母親とは現在も同居している。親孝行なのである。母親コンプレックスが、彼の同性愛の要因かもしれない。(中略)
 
「シルバー・ドラゴン」のボーイさんは、現在5人、年齢は20歳から25歳。ここのボーイもほとんどが、昼間は他の職業に従事しているか、あるいは職業の師について勉強している。
 
ママさんは店に新規のボーイが入ってくると、いつも次のように話すのだそうだ。
 
「お前さんたちは、今は若いからお客さんにチヤホヤされているが、いつまでもそうだと思っていたら大間違いだ。
25、6過ぎにでもなったら、誰も相手にしなくなる。ゲイ・バアのボーイなんて、若いうちだけが花なのよ。
 
だから年をとった時の用心に、今のうちから何か職を身につけておかなきゃいけない。その職もこういう店のボーイというと、誰も彼もがバレエをやりたいとか、日舞で身を立てたいとかいうが、それがお前さんたちのいけないところさ。怠けぐせの現れさね。そんなことに憧れるより、もっと地道なしっかりした職を習うようにするがいい。」
 
このような「薫陶」が、ボーイの処世術に影響しているわけである。
 
ソドミアが同性の相手を求める情は、普通人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強いものであることは事実である。それは何に所以するのか。
 
容易に愛の対象をもとに得られそうに見えるゲイ・バアのボーイにおいても、この念は同様だということだ。」
 
 
 
かなり話をカットしてしまったが、敗戦後いち早くゲイ・バアを開店させた、ゲイ・バアの黎明期のママさんたちは、しっかりした考え方をしていた人が多かったようだ。
 
「ゲイの人が同性の相手を求める情は、普通の人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強い」と、ママさんは言っているが、それはゲイの人たちが子供の頃から抑圧され続けてきたからだろう。それはこの時代と、今の時代でも変わりはないのでは……。

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2017年7月 1日 (土)

ドクターと呼ばれる顔にホモの?

川柳って、その時代の庶民の生活を反映させている。
 
1955年7月号(今から62年前)の『AMATORIA・あまとりあ』(あまとりあ社刊)が、書棚の中から見つかった。
 
この雑誌、第5巻とあるから、1950年・昭和25年頃に創刊されたのだろう。この時代、多くのエロ雑誌が創刊された。敗戦後、まだ5年しか経っていない頃だったからひどい時代だった。
 
ぼくは小さい出版社が生き残るにはエロ本しかないと「ナイト・ブックス」を出した第1号が、武野藤介さんの『わいだん読本』だった。昭和37年12月のことだ。まったく面識のない武野藤介さんを吉祥寺に訪ね、出版をお願いした。
 
その後、武野さんの本を何冊か出し、親しくなり、息子さんにお嫁さんを紹介したこともあった。
 
西荻窪駅のレストラン「こけし屋」で催される中央線沿線に居住する文化人が集まり、「カルヴァドスの会」の年末に開かれる宴会に先妻の舞踊家、ミカを余興に会員である武野さんが推薦してくれて、踊りを見せたことがあるから、武野さんは忘れられないお方だ。
 
『あまとりあ』の裏表紙に、武野さんの著書の広告が3冊も載っている。人との出会いって不思議なものだ。
 
 
 
『あまとりあ』の誌上に「現代風俗川柳傑作選」という投稿ページがあり、選者は岡田甫(はじめ)さんだ。
 
「天」に選ばれた句は、徳島の杉原芳水さん。
 
  男娼に頼まれて買う女下駄
 
「新奇な思いつきを採る」と、選者は書いているが、男が女下駄を買うのは恥ずかしい。女性に頼んだというところが面白い。
 
「地」は、これは驚き。『薔薇族』の読者は、肛門にいろんなものを入れて楽しんでいたが、入れたはいいが出せなくなってしまって、電話をかけてくる人がいたが、女性がオナニーをするのに、電球を使ったとは。割れたらケガをしてしまう。にんじんとか、きゅうり、なすぐらいにしてもらいたいものだ。
 
  電球(たま)割った話が彼の腑に落ちず
 
神戸市の田中富美子さんの句だ。選者はこんなことを書いている。
 
「女性のオナニーは、男性の想像もつかぬものを使用するとか。昔女学生が電球を使用し、それが割れて大ケガをした話は有名だ。」
 
この時代は「ラブオイル」もないし、オナニー用の用具も進化していない時代だから仕方がなかったのだろう。
 
 
 
秀逸欄には、こんな句も。
 
  ドクターと呼ばれる顔にホモの影
 
『薔薇族』の顧問ドクターだった、三原橋の医院の先生の顔がまず頭に浮かぶ。お医者さんも読者に多かった。
 
  男娼のハンドバックに脱毛剤
 
今なら「ラブオイル」も入っているのでは。
 
  間違えた電車のように鶏(とり)に下りる
 
北海道の比沙婆さんの句。鶏の交合って、そんなに早いのか。見たことないな。せせらぎの桜並木を散歩していて、初めて雀の交合を目撃したけど、メスのあとを何度もしつこく追い回していたっけ。
 
  こんなにも簡単なものオロシて来
 
東京の山北残月さんの句。女性が妊娠して堕胎するという大変なことを、こうも簡単に句にされてはやりきれない。
 
下北沢の北口にあった木造の汚い医院。母も堕胎したこともあり、親類の人、知人も紹介していたっけ。当時は法律で禁止されていたのでは。暗い話だ。
 
  珍毛がたまって頭薄くなり
 
芦屋の楠南坊さんの句。珍毛蒐集癖の男の話。長い時間をかけて珍毛を集めているうちに、自分の頭が薄くなってしまう。人生の悲哀を感じさせる。川柳って面白い。

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2017年6月26日 (月)

「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」で大当たり!

「渋谷千雅」は、ホモホテルの東京での草分けではない。すでに「大番会館」「24会館」などがあって渋谷では最初ということだ。
 
渋谷道玄坂を登りつめて、その頃はふとん屋があり、その路地の突き当たりにあった。その近辺は男女の連れ込みホテルが軒を連ねていて、「千雅」の前は連れ込みホテルだった。
 
男女の連れ込みホテルが廃業したので、そこを借りて、男性同性愛者のホテルにしたのだ。だから間違えて、アベックが扉を開けて入ってくるので、最初の頃は、断るのに苦労したと、聞いたことがある。
 
開業した頃は、渋谷の駅から歩いて20分ぐらいあるから、お客は少なかったようだ。親父さんと若いマネージャーが、我が家に訪ねてきて、なんとか誌上で宣伝してくれと、頼みに来たので、竜さんが考えて後の胡桃沢耕史さんにお願いして「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」となった。
 
さすがエロ作家として名を売った清水正二郎さん(後に直木賞を受賞して改名)の潜入記は、迫真の手記となり、これで「千雅」は大繁盛となった。
 
「サロンが高くつくのではないかとおじけづいた人(ふつうのホモバーとほとんど同じ低料金だったのに)派手めなのは敬遠する人はいたのだ。彼らは真っ暗な部屋で排泄してさっさと帰る。心と心の触れ合いなどには目をつぶったのだ。早く家庭に帰らねばならない人もいるだろう。事後のシャワーを浴びるのさえ避けたりして。
 
じつは「千雅」の真価、すばらしさは、このサロンにこそあったのだ。一流紳士とまではいかぬにしろ、ここの客筋はかなり良かったようで、下品にならず、なごやかなムードで楽しかった。
 
サロンに来る人は、まず乱交室には行かなかったそうだ。ハダシになり、浴衣に着替えて飲み、しゃべり、歌い、踊った。それだけで充分だったのだ。昼の社会生活のニガさを忘れられた。飲みすぎても部屋があるから安心でもあった。
 
乱交部屋のほうはふだんと同じだったが、サロンの方はさすがにラスト・ナイトがあって、入れ替わり、立ち替わり歌い、ここのショーの中心人物「夕霧」さんが大奮闘した。
 
この人、ここでのショーを変化づけるために、10年間いろんな衣裳をごっそり買い込んだ。「千雅」の楽屋に置いてあった山のようなそれらを、これから家庭のどこに隠すのだろう。
 
男っぽい顔のオジサンで、バレリーナもやるけど、本領は太鼓のバチを振り上げて、見栄を切ったりする男振りなのだ。こんなこと他の店ではやらせてくれないだろう。
 
その他、人の歌にあわせて、浴衣を踊りながら脱ぎ、六尺ふんどし1本でポーズをとって、六尺をはずして飛び跳ねる、男くさい顔でいいからだをしたスーパーのオジさんなんかもいたが、これから彼らはどうするのだろう。
 
「千雅」がなくなったことで、多くの男の人生に、また、苦みがもどってしまうのではなかろうか。
 
長い間、「千雅」さん、どうもありがとう!」
 
 
 
「千雅」が廃館になったのは、今から28年も前のことだ。
 
「千雅」の親父さん、胡桃沢耕史さん、そしてこの原稿を書いた藤田竜さんも、みんなこの世にいない。
 
その後の「千雅」の親父さんのことはブログに書いた記憶はある。ゲイホテルも進化しているから、竜さん心配することはない。どこも大繁盛で、日本のゲイたちは幸せだ。

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2017年6月24日 (土)

どれだけのザーメンが噴出したのか!―渋谷ホモ旅館「千雅」物語―

これはどうしても、ゲイホテルの歴史として残しておきたい話だ。
 
1989年9月号創刊200号18周年記念特大号に、ぼくの良き相棒だった藤田竜くんが「旅館「千雅」満14年で終業。のべ100万人の客だから売上15億円?」と題して書いている。
 
 
 
「東京のホモ旅館「千雅」が6月末でついに閉館してしまった。
 
創業者の名物社長、K さんの手から離れてからも4年間、営業を続けていたのだが、最近、付近の土地がまとまったので、大がかりなプロジェクトを開始することになり、ついでに「千雅」も跡かたもなくなることになったわけ。
 
「千雅」出現以前も東京には、同好者の集まるサウナや旅館はあったけれど、大がかりで大っぴらに『薔薇族』に広告を打って始めたのは「千雅」が最初だった。
 
時は『薔薇族』が創刊して4年後、つまりひっそりホモ、地味ホモがそろそろ世間に出て、楽しまねばと決心しだした頃だったから、そりゃもう、スタートしてしばらくは立錐の余地もないってくらいの大混雑だった。
 
やがて隣のビル(会社の社員寮だった)も買い、ドでかくなったところへ、全国から客が押し寄せ、男ではちきれそうだったのだ。今にして思えば、東京では史上空前絶後の乱交場であった。
 
 
 
今は直木賞作家となった胡桃沢耕史先生に、僕のアイデアで「ノンケ紳士」となってもらい、「潜入記」を『薔薇族』に書いてもらったのも、かなりの宣伝効果になったようだ。
 
先生、がっちりデブだから、えらくモテたようだけど、残念ながら男好きに転向することはなかった。
 
旧マスターは客筋の良さを誇った。確か「世界一流紳士が……」なんてコピーが広告によく使われていたっけ。
 
僕は開店当初、一度だけ行ったが、知り合いの子たちに何人も会って、ハレンチできなかったけど、前に一度見かけて好感を持っていた青年にしゃぶりついたのだけが、たったひとつラッキーだったなあ。
 
さて、今年6月30日(金)ラストの夜に行ってみたら、なに、乱交ルームはとりたてて満員でもなく、どうってことなかった。今夜でおしまいってことさえ知らない人も結構いたりして―。
 
ただ異様に外人が多いの。「千雅」は外人OK だったのだ。他の店はガイは入れないから、彼らには天国だったろう。
 
ガイ同士がバックしてるのを隣にしゃがんでしっかり見学した。日本のフトンの上でしてる姿って面白かった。
 
旧主人が引退した段階で少し客層は変わり、エイズ騒ぎで客数もやや減ったというが、ざっと換算すると、なんと入館料で15億円にもなる計算だ。ザーメンも勝手に流させて、このもうけだもん、すごいねえ。他に会員料、飲食料もあるんだよ。
 
何事も新しい仕事を早く大きく始めた人の勝ちなのだ。それにしてもどれだけの量のザーメンが、ここで噴出したのだろうか。
 
「千雅」拡大後は、広々としたドリンク・サロンができ、ここが一大社交場、ストレス発散所となった。
 
カラオケのステージがあり、踊れるスペースが広く、ボックスシートもたっぷりあって、他にちょっとない豪勢さなのだった。
 
乱交部屋のある4階の棟と、サロンは1階でつながっているとはいえ、サロンと乱交場は、客層がまるで別になってしまったのが計算外だったろう。」(つづく)
 
 
 
ひばりさんの歌を歌ったら、ずば抜けて上手い人もいた。夢のあとと言っていいだろう。

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2017年6月19日 (月)

いじめられても、親や先生には言わなかった!

2017年6月4日の東京新聞の朝刊に「いじめ加害6人停学・山形の高校、男子バレー部」という小さな記事が載っている。
 
 
 
「いじめは昨秋ごろ、部内でのトレーニング方法をめぐるトラブルをきっかけに始まった。本年度に新入部員が加入してからも、暴行したり、飲食物をおごらせたりしていたという。5月22日、2年生の部員が鼻血を出しているのに気付いた部外の生徒が学校に伝え発覚した。」
 
 
 
1997年11月号の『薔薇族』(今から20年前)の「少年の部屋」のコーナーに山口県・パパゲーノ君が、「小説のような初体験」と題して、こんな投稿をしている。
 
 
 
「僕は北九州市内の私立高校に通う2年生です。僕がホモに目覚めたのは、中1の時に部活の先輩にいじめか(?)られたからです。
 
僕は中学の3年間、テニス部にいました。入部してすぐに先輩2人から、ズボンの上から揉まれたり、パンツを下ろされたり、ということを毎日されました。
 
ある日、その時のひとりにトイレでH本を見せられてしごかれ、初めてオナニーを知りました。それからはその先輩2人に、もう1人加わって3人に、もっとHなことをされました。ザーメンを飲まされたこともありました。
 
 
 
でも、そんなことをされながらも、そのうちのひとり(あとから入ってきた)Y先輩を好きになりました。
 
他の2人はブサイクだけど、Y先輩はとてもかっこよくて、頭はあまりよくなかったみたいだけど、部活もバリバリで背もまあまあ高かったのです。
 
そして夏の合宿のとき、合宿所のトイレに夜2人で行って、そこで初めてY先輩のアレを見ました。他の2人は僕に舐めさせたりしていたので見たことがあったけれど、Y先輩はずっとその行為を見てるだけで、自分からは何もしないので見ることも、ましてや触ることもできませんでした。
 
Y先輩のあれは仮性ホウケイで(自分も)、真っ黒で毛もボウボウで男らしいなと思いました。
 
B 僕は先輩の目の前でオナニーをしたあと、Y先輩のをしごいてあげました。Y先輩は1分もしないうちに、僕の口の中で発射しました。溜まっていたみたいで、たくさん出たので口だけでなく、Tジャケットにも飛び散りました。
 
Y先輩とは、それが最後のHな思い出になりました。それ以来、Y先輩は僕を避けるようになり、一言も口をきいてくれなくなりました。
 
そしてY先輩は卒業していきました。これは推測ですが、僕が他の2人の先輩にY先輩が仮性ホウケイだということをバラしたのが原因ではないかと思います。
 
このことがあって、僕はホモに目ざめたのでした。」
 
 
 
これに対して、編集部の竜さんか、もう1人のスタッフがコメントしている。ぼくじゃないことは間違いない。
 
 
 
「まるで小説みたいな初体験だね。後ろめたさや、苦しみみたいなものがなさそうなのもすごい。
 
少数派である僕らだけど、ホモだからこその楽しい人生は送れると僕は考えているんだ。諦めたり居直ったりの裏返しでゴーマンに生きるのではなくて、笑いながら自然に生きられるようになる道はあるんだ。
 
まず自分をきちんと見て、どんな自分になりたいかをよく考える。そのヒントは『薔薇族』のあちこちにこめてあるんだよ。」
 
 
 
『薔薇族』時代の少年たちは、このようなことがあっても、親や先生に絶対に言わなかった。

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