2017年6月19日 (月)

いじめられても、親や先生には言わなかった!

2017年6月4日の東京新聞の朝刊に「いじめ加害6人停学・山形の高校、男子バレー部」という小さな記事が載っている。
 
 
 
「いじめは昨秋ごろ、部内でのトレーニング方法をめぐるトラブルをきっかけに始まった。本年度に新入部員が加入してからも、暴行したり、飲食物をおごらせたりしていたという。5月22日、2年生の部員が鼻血を出しているのに気付いた部外の生徒が学校に伝え発覚した。」
 
 
 
1997年11月号の『薔薇族』(今から20年前)の「少年の部屋」のコーナーに山口県・パパゲーノ君が、「小説のような初体験」と題して、こんな投稿をしている。
 
 
 
「僕は北九州市内の私立高校に通う2年生です。僕がホモに目覚めたのは、中1の時に部活の先輩にいじめか(?)られたからです。
 
僕は中学の3年間、テニス部にいました。入部してすぐに先輩2人から、ズボンの上から揉まれたり、パンツを下ろされたり、ということを毎日されました。
 
ある日、その時のひとりにトイレでH本を見せられてしごかれ、初めてオナニーを知りました。それからはその先輩2人に、もう1人加わって3人に、もっとHなことをされました。ザーメンを飲まされたこともありました。
 
 
 
でも、そんなことをされながらも、そのうちのひとり(あとから入ってきた)Y先輩を好きになりました。
 
他の2人はブサイクだけど、Y先輩はとてもかっこよくて、頭はあまりよくなかったみたいだけど、部活もバリバリで背もまあまあ高かったのです。
 
そして夏の合宿のとき、合宿所のトイレに夜2人で行って、そこで初めてY先輩のアレを見ました。他の2人は僕に舐めさせたりしていたので見たことがあったけれど、Y先輩はずっとその行為を見てるだけで、自分からは何もしないので見ることも、ましてや触ることもできませんでした。
 
Y先輩のあれは仮性ホウケイで(自分も)、真っ黒で毛もボウボウで男らしいなと思いました。
 
B 僕は先輩の目の前でオナニーをしたあと、Y先輩のをしごいてあげました。Y先輩は1分もしないうちに、僕の口の中で発射しました。溜まっていたみたいで、たくさん出たので口だけでなく、Tジャケットにも飛び散りました。
 
Y先輩とは、それが最後のHな思い出になりました。それ以来、Y先輩は僕を避けるようになり、一言も口をきいてくれなくなりました。
 
そしてY先輩は卒業していきました。これは推測ですが、僕が他の2人の先輩にY先輩が仮性ホウケイだということをバラしたのが原因ではないかと思います。
 
このことがあって、僕はホモに目ざめたのでした。」
 
 
 
これに対して、編集部の竜さんか、もう1人のスタッフがコメントしている。ぼくじゃないことは間違いない。
 
 
 
「まるで小説みたいな初体験だね。後ろめたさや、苦しみみたいなものがなさそうなのもすごい。
 
少数派である僕らだけど、ホモだからこその楽しい人生は送れると僕は考えているんだ。諦めたり居直ったりの裏返しでゴーマンに生きるのではなくて、笑いながら自然に生きられるようになる道はあるんだ。
 
まず自分をきちんと見て、どんな自分になりたいかをよく考える。そのヒントは『薔薇族』のあちこちにこめてあるんだよ。」
 
 
 
『薔薇族』時代の少年たちは、このようなことがあっても、親や先生に絶対に言わなかった。

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2017年6月17日 (土)

燃えきらない、くすぶったままの青春時代!

「昭和16年(太平洋戦争の始まった年)当時の高等小学校を出ると近くの会社に入りました。
来る日も、来る日も、使い走りや雑用ばかりの仕事に夢破れて、嫌気のさしていた私に必要以上に陰になってかばってくれた上司のA さんがいたのです。
 
今思えば少年の私が同性への憧れに芽生えたのは、この頃だったようです。でもA さんは少年の私にそれ以上のことは何もせず、単なる同情でしかなかったようです。片思いのままの毎日でした。
 
 
 
A 戦局がだんだんきびしくなった昭和18年、遠く離れた軍港の町へ徴用になり、それからの2年間の生活のなかで、色々な人たちの出会いがありましたが、工場の組長だったB さんと、寮の室長のKさんとのことが、今でも忘れられないのです。今思えば2人ともずいぶん年上だったようです。
 
その頃の私は、青年期に入ろうとする年代です。望郷の念にかられながらも懸命に働いたものです。そんな中で2人とも、食べ物のない時代に、貴重なお菓子や、煙草を人に隠れてこっそりとくれたり、休日に町の映画館に連れて行ってくれるのです。
 
戦時映画のスクリーンを見ながら、手を握ってくれたことが一度だけありました。それ以上はいくら待ってても、その手が進んで来ないのです。
 
意気地なし、いえ、私が意気地なしだったのです。40年も経った今でもその時のことを思い出すのです。
 
そしてまた、別れの時が来ました。私に出征令状が来て軍隊に入ることになったのです。
 
 
 
軍隊生活は、わずか3か月間でしたが、私の班長だったDさんとの出会いがありました。今思えば厳しい軍隊生活の中で、どうしてあのような厚意を私に示してくれたのだろうかと、不思議に思うのです。
 
夜の不寝番の順番がきても、何かと理由をつけてはずしてくれたり、ひそかに連れ出して飯を腹一杯食わせてくれ、そしてたまに入浴時には必ず私の近くにいたような気がするのです。わざと指名して背中をこすれと言ったことです。でも、それ以上のことは何もなく、終戦になったのです。
 
 
 
今、私は当時のことを振り返ってみて思うのです。過去の青春期に出会った方たちが、他人の私になぜ特別に人への情を示して、人にわけへだてまでして優しくかばい、そして励ましてくれたのか、よくわかるのです。
 
人間、誰しも同性を愛する気持ちを、大なり小なり心の底に秘めているのではないでしょうか。
 
きびしい戦時下のあの頃では、どんなに好意を持ったとしても、最後のそのことだけは言い出せなかったのだろうか? 2人きりの機会がいくらでもあったのに、互いにその言葉を待っていたかもしれないのに……。
 
私の青春時代は燃えきらない、くすぶったままで終わり、それが今現在まで続いてるのです。
 
性向を隠し通して、それぞれの職業を持ち、健全な社会人として、善き家庭を持ちながら人に打ち明けることができない、この悩みを持っている中高年の方たちがたくさんいると思うのです。私もその1人なのです。(石川県・純)」
 
 
 
『薔薇族』は、1971年の創刊なので、軍隊生活から戻ってきた人たちの投稿手記も多く、それは貴重なものだと思う。
 
近くの本屋で『薔薇族』を買うことができず、離れた所でまで買いに行く。その後、この人の人生はどうなったのだろうか。ほのぼのとしたいい話だが……。

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2017年5月29日 (月)

学園闘争の激しかった時代の匂いが!

日本で初の同性愛誌『薔薇族』の創刊へと、いきなりたどり着いたわけではない。
 
小さな出版社はエロ本で生きるしかないと、昭和37年(1962年)に、武野藤介さんの『わいだん読本』を最初に、ナイトブックス(騎士と夜をかけたもの)と称して、新書版で60冊ものエロ本をひとりで出し続けた。
 
昭和41年(1966年)秋山政美さんの『ひとりぼっちの性生活=孤独に生きる日々のために』を刊行、これがヒットし新しい読者の存在に気づき、方向転換して男性同性愛者のための単行本発行に切り替えた。
 
 
 
20冊ほど雑誌を出す前に、同性愛者向けの単行本を出し続けたが、その時代、1冊の本の原稿を書ける人は少なかった。
 
一番最初に原稿を持ち込んでこられたのは農上輝樹さんで『薔薇の告白・女を愛さない男たち』で、自ら裸になってモデルになり、若い男とカバアを飾っている。書名も装幀もぼくひとりでやったもので、帯の宣伝文句もぼくが考えたものだ。
 
 
 
農上輝樹さん、『薔薇族』を創刊してからも、次々と原稿を寄せてくれた。かなり後になって知ったことだが、東京六大学の一つの大学の図書館で働いている方だった。
 
『薔薇の告白』の中の一節の「落書ホモの生態」が面白い。
 
 
 
「心に浮かぶ片々―単純で短く断片的な落書きの語句は、心の端的なスケッチであり、情念の吐露ともいえる。
 
淡彩ながら鋭くて、直截なそれは、フォトジェニックに正確なホモの心象風景でもある。物語作家の語る物語にも増して。
 
壁に咲いた落書き、メモに記された熱く重い魂の表白を集めて読者諸氏に送る。」
 
 
 
ネットや携帯電話などのない時代、トイレの壁に書かれた文字は、当時のホモの人たちの切実な叫びだった。
 
 
 
「学友のH・R君、きみのファロスをなめてあげたい。ういういしいきみの顔を見るたびにわしの胸は強い欲情で疼く。わしは今日もここで自らを汚す。
 
なんて形のいい尻なんだ。汝の幻影に向かい、汝の名を呻きながら、わしは今日も自らを汚す。(拓殖大学トイレ)」
 
「男のミルク飲みたい人、飲ませたい人、左記へ電話しな。電話番号(554)1919番(新宿日活名画座)」
 
「ちゃん ちゃん ちゃんこにケが生えた。珍々 珍子はカスむくれ テストが書けずに珍古カク(東京予備校)」
 
「じっくりと若者のにおいがしみこんだブリーフが欲しい。誰かはき古したヤツをここに脱いでいってくれ。毎晩7時に棚の上を見に来る。(競技場わきの円形トイレ)」
 
「おれんとこは下宿屋だ。誰もいないときに押入れを開けると、若い学生さんのがいろいろ検査できる。塩辛いような酸っぱいようなツーンとした鼻に染み渡るような匂いがするぞ。ゴワゴワの地図がついたものもある。欲しかったら連絡先書いておいてくれ。(同)」
 
「おれはヘルメットかぶって、フク面して、ピッチリした綿パンをはいた学生さんのが欲しい。ムッと汗にむれてて、またぐらのにおいをたっぷり吸い込んでいるヤツだ。(同)」
 
「全学の学友諸君、ひよるなよォ、屁をひるなよォ、臭ぇぞォ。(同)」
 
「機動隊のXと、全共闘のXをねじり合わせてしごいてみたい。(新宿・京王百貨店)」
 
「ヘルメットをつけたまま、5階便所の中で抱き合った。今井君はピクッピクッと死ぬように激しくケイレンして白いものを飛ばした。せまい四角い空間が、洗わないカレのにおいでいっぱいになった。(新宿・京王百貨店)」
 
 
 
学園闘争の激しかった時代、あの頃のにおいがむんむんとにおってくるようだ。

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2017年5月20日 (土)

LGBT を完全に理解し、語れる人っているの?

201705a LGBT という言葉が、新聞紙上で目につくようになってきた。
 
2017年5月13日の東京新聞に「LGBT を理解 企業を育む 東京五輪が後押し・社内で研修制度整備加速」という、大きな記事が載っている。
 
 
 
「同性愛や性同一性障害などの性的少数者(LGBT )が働きやすい職場にしようと、企業が研修や社内制度を整える動きが加速している。
 
2020年、東京五輪・パラリンピックの基本コンセプトに、「多様性と調和」を掲げ、好きな相手の性(性的指向)で差別しない方針を打ち出したことが、追い風になっている。」と、奥野斐記者の記事だ。
 
 
 
「隠れていないで表に出よう!」の旗印で、1971年に日本最初のゲイ雑誌『薔薇族』を創刊したぼくとしては、こんなに嬉しいことはない。
 
しかし、考えてみれば、このような機運になってくるまでには、50年という歳月が流れている。
 
まだまだ歩みだしたばかりで、ひとつの差別を解消するには、あと50年はかかるだろう。
 
 
 
国内の20〜59歳を対象にした電通の調査(2015年)では、7.6%。博報堂DYグループのシンクタンクによる同じ対象の調査(16年)では、約8%と推計している。
 
7.6%、8%というと少ない数ではないが、表に出ている人は、1割ぐらいで、あとはひっそりと隠れて暮らしているに違いない。
 
 
 
「住宅設備建材メーカLIXILは、4月、外部講師を招いて初めてのLGBT勉強会を開いた。
 
2日間で社員約300人が参加。」とある。
 
 
 
外部の講師を招いてということだが、どんな話をされたのか聞いてみたいものだ。
 
『<男性同性愛者>の社会史・アイデンティティの受容/クローゼットへの解放』の著者の前川直哉さんのように、自らゲイであることを公表し、本も出版されるような学者は、少ないというより、ほとんどいないと言っていいのでは。
 
同性愛の研究をしていると、あの先生はゲイではと言われてしまうし、女性と結婚もしているから、隠してる先生が多いだろう。
 
 
 
「男であって、男が好きな人」と言っても、いろんな人がいるのだから、30数年、ゲイの人と付き合ってきたけれど、奥が深いというか、まだまだわからないことが多い。
 
LGBT といっても、その全てを理解し、明解に答えられる人って、いないのでは。
 
 
 
『薔薇族』1985年4月号創刊150号記念特大号に、直木賞作家でもある、今は亡き邱永漢さんが「暗黒大陸への熱い視線」と題して寄稿してくれている。
 
 
 
「まだ社会的偏見に包まれているのは同性愛と近親相姦ぐらいなものですから、小説のテーマとして残された暗黒大陸と言ってもよいのかもしれません。
 
私の仲間の小説家の中にも、ホモセックスを取り上げたいと常々言っている人がいますが、いまだに実現していません。
 
ジャン・ジュネの『泥棒日記』から、デュベールの『薔薇日記』に至るまで、私もひととおりは目を通していますが、やたらに衒学的だったり、やたら即物的だったりして、まだこれこそ傑作中の傑作だという作品には出会っていません。というのも、ホモセックスをごく普通の人間の恋愛感情として扱う人が少なく、ひどく誇張したりしてみたり、あるいは自分は局外者だという立場を強調した作品に終始しているからです。」
 
同性愛は暗黒大陸といった邱永漢さん、そう簡単に、同性愛を語るものではないということなのだろうか。
 

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2017年4月29日 (土)

キリスト教が同性愛を嫌がるわけだ!

毎年、お中元や、お歳暮の季節になると、一番先に豪華なハムなどを送ってくれる人がいた。
 
それは三原橋で泌尿器科の医院を経営しているお医者さんからだ。
 
 
 
ぼくは『薔薇族』の巻末の「編集室から」にこの医院を紹介していた。性病のことや、肛門にゴルフのボールを入れて、とれなくなってしまったなどの電話がかかってくると、三原橋医院を教えてあげていた。どれだけの電話がかかってきたことか。
 
 
 
藤田竜さんは、この先生から「男と男の医学教室・16のギモン」」と題して、とんでもない質問をして、回答してもらっている。
 
「精液は栄養になるか?」の質問。
 
 
 
「飲んじゃったんだけど、大丈夫でしょうかという電話がよくあるらしいですね。精液というのは普通の人で4CCぐらいですよ。
 
ティスプーンで2杯ぐらいのものだし、そのうち90%は水分で、残りの10%がタンパク質みたいなものだと考えていいと思うんですよ。カロリーからいうと、タンパク質1グラムは4カロリーだから、16カロリーぐらいで栄養的にみたら問題にならない。
 
だからそんなのは栄養的に考えてもどうってことはないし、飲んでも別に差し支えないと思いますよ。
 
ただ、その人が淋病なんかを持っている場合、その人の精液を飲んじゃったということであれば、精液が出てくる時にどうしても尿道を通って出てくるので、淋菌も一緒に出てくるわけですよ。
 
例えば扁桃腺のひどいのとか、口内炎みたいなのを起こして、顎の下が腫れるとか、どうも治りにくい扁桃腺だとかいうこともあるようです。
 
 
 
だけど胃へいってしまうと、胃というのは胃酸が猛烈に強いんで、そういうばい菌なんかも、ほとんど死滅しちゃうんで、そこから下の淋病というのはわりにないようです。淋病のある人の精液を飲んでもですね。
 
だから精液を飲むということは、べつに害はないと思います。むしろ、タンパク質をちょっと飲んだ、卵の白身の何分の一かを飲んだという程度のものでしょう。
 
 
 
面白いのは精虫というのが、1CCの中に7千万ぐらいいるんです。オタマジャクシが泳ぎ回っているわけですね。だからそれが4CCとすると、2億から3億ぐらいの原虫を飲んだことになるね。1回の射精でそんなに出ちゃう。2億の大群を飲み込むという感じになりますからね。その精虫に色でも付いていたら、気持ちが悪くって、ちょっと飲めないだろうけど、単純な白いものだからね。
 
水っぽいのとか、ドロっと濃いのとかがあるのは、作る場所を考えるといいと思うんですよ。精液というのは睾丸でできると思うでしょうけど、そこはむしろ精虫だけなんです。
 
オタマジャクシだけと、考えていいわけ。
 
あとは前立腺というところと、精嚢で、ほとんどができるわけです。
 
 
 
前立腺というのは、いわゆる水っぽい液を出すところだし、精嚢というのは、いわゆるゼラチンみたいなものを出すところなんです。
 
精虫だけで泳ぎ出してくるわけではなくて、精虫を動かす働きをするために、そういういろいろな水が出てくるわけです。
 
だから一晩に何回もやると、第1回が4CCなら、第2回は2CCとか、ぐんぐん減るわけです。
 
ですからマスターベーションなんかやってますと、頻度によって精液の量はずいぶん違うと思うんです。
 
 
 
禁欲していれば、ドロリとするということもあるし、液の量も多いですね。もちろん虫も多いですよ。」
 
 
 
こんなこと医者に聞く人もいないだろうし、真面目に答える医者がいたなんて?
 

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2017年4月 8日 (土)

なつかしき「少年の部屋」!

『薔薇族』の中の「少年の部屋」という中高生の投稿ページ、なんという文字の小ささだ。こんな小さい文字を読んでいたのか。
 
85歳のぼくには、老眼鏡をかけて、その上大きな虫眼鏡を使って見なければ読めやしない。
 
その当時(今から30年も前)の中高生の想いがびっしり詰まっている。
 
 
 
「僕は16歳の高校2年生です。
 
昨日、初めて新宿2丁目というところへ行ってきました。
 
すごい人がたくさんいて、みんなホモなのかと思うと、ちょっと怖いような気がした。
 
 
 
店の中でも歩いてる時も、何人かに声をかけられたんだけど、変な人たちばかり。
 
嘘つきが多いって聞いたけど、ホントらしいね。
 
店の人とか、オネエ言葉使っているのには驚いた。
 
 
 
最初に声をかけてきたのは、28歳(?)の旅行関係の仕事をしている人。「もう年だから」を連発してた。だったらDCブランドなんか着ないでほしいよ。家賃が10万円のマンションに住んでるって、自慢にもならないことを自慢げに話していた。「給料の3分の1がちょうどいいって言うだろ」だって、残業ばかりで忙しいって言ってたな。ということは、そのうちのほとんどが残業手当なんじゃないんですか。女にモテた話とか、ペラペラとにかくうるさかった。
 
 
 
それから23歳の人は、S 大学出身で今は親の経営している会社で働いているって言うんだけど、実は僕、S大の付属に通ってて、姉もS大に通ってるんで、そのことは言わないで、いろいろ突っ込んだ話を聞いたんだ。
 
おかしいんだよね。S 大出身なんて、まるでウソ。最初はびっくりしたけど、嘘だとわかってほんとに腹が立った。なんか、おばちゃまぶってたけど
きっと転職のないプータローだろうな。
 
 
 
あと、40過ぎの汚いおっさん。
 
僕より一つ上くらいの子を口説いていて相手にされないと僕のところに来て、「君みたいのが本当のタイプなんだ」だってさ。さっきの子と全然違うんだけど、どういうこと?
 
 
 
高校生らしき人たちもいたけど、みんな遊びなれているようで、話しかけられなかった。目が合いそうになっても、わざと視線を逸らしちゃった。
 
 
 
行かなきゃよかったような気もするけど、行ってみて、実際どんなところかわかったような。みんなも知らないで行くと怖いよ。」
 
 
 
初めての新宿2丁目ルポ。よく書けているね。それからどうなったのかが心配だな。
 
 
 
「僕は高校2年の17歳です。
 
僕は小学校に入った頃ぐらいから、男に興味があったんです。そして中3の頃から好きになった同級生がいるんですよ。
 
そいつ中2の時に大阪から越してきて、2年の時は知らなかったんだけど、3年になって同じクラスになって、ひょんなことから友達になったんだ。
 
そいつなかなか、かっこいいんだよ。体格もいいし、性格もいい。顔まで俺の好みなんだ。
 
そいつ水泳やってて、高校に入ってからも同じ学校になったんで、そいつの行っているスイミングクラブに誘われて入ったんだ。
 
そいつの体ったら、もう最高! 思わずボッキしかけちゃったよ。
 
 
 
そのクラブの方針が自分の性格に合わなかったんで、1年足らずでやめてしまったんだ。
 
もったいないことしたと思ったけど、仕方がない。それで、それからそいつともあまり話をしなくなっちゃって、それきりなんだ。
 
時々会っても挨拶を交わす程度。どうしたらいいのかなあ」
 
 
 
なんか、つまらない話だけど、こんなことでいいのかな。
 
さわやかな話でよかったのでは……。

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2017年4月 3日 (月)

残り少ない人生を男の世界で!

「私が『薔薇族』を知ったのは12年前の夏だった。
 
夕方ぶらっと街へ出て、何気なく書店で本を引き抜いて手にとって見た時、美少年がふんどしをもっこり盛り上げているイラストに、思わずごくりと唾を飲み込んだのでした。
 
裏にはこれまた男性美あふれる三島剛さん描く毛むくじゃらの男!
 
パタンとページを閉じて、レジへ向かう時、53歳の私の胸は早鐘を打っていました。
 
 
 
幸いに店員さんは無表情に、カバアを付けて渡してくれました。
 
急いで家に帰り、自分の部屋の鍵をかけて、グラビアをむさぼるように見たのでした。
 
 
 
妻は私よりも3歳年上でしたが、娘に孫が生まれると、私をひとり置き去りにして娘のところへゆき、3ヶ月も過ごしてきました。
 
 
 
その夜、久しぶりに妻を抱きました。
 
妻も3ヶ月も留守にしていたので、仕方がなく私のなすがままにしていましたが、一向に燃える気配もなく、「さあ、早くして終わってほしい」という素振りがありありと見えました。
 
私はいきり立つものに、つばをつけて妻の上にのり、定めた位置にあてがって、腰をつき出した妻が、「ああ、お父さん、痛い、やめて」私はその言葉を聞かぬふりをして、腰を使って、溜まっていたものを一気に放出しました。
 
 
 
妻から離れてひとり精液にぬれた己のものを拭いていると、妻が「お父さん、お願いがあるの、私はもうセックスする気にならないの。孫の顔を見て過ごした3か月、楽しかったのよ。もう私たちも孫のいる歳になったんですもの…セックスするのやめましょうよ」
 
私は妻の言葉に、まじまじと顔を見た。(中略)
 
私はこの時、はっきりと夫婦がもう冷え切っている事を悟りました。
 
 
 
そんな時に『薔薇族』と出会ったのでした。
 
告白手記、小説、そして呼びかけの声、どれもこれも初めて知る未知の世界でした。
 
男同士が愛し合う、しかも、お互いのペニスを舐め合い、そして精液を放出してのセックス。
 
さらに愛が深まれば、お互いの肉体の中へ入れ合うセックスを知ったとき、私は驚きと喜びの入り混じった複雑な気持ちでした。
 
そのときふと、戦時中に兵隊同士が、弾の降る戦場で、今宵限りの命と思って、男同士でマスをかいたり、尻の穴へ入れたりして快楽にふけったことを小説で読んだことを思い出しました。
 
それからというものは、ハッテン場へ行き、年下の男をハントしてはふたりっきりの部屋の中で、男の宴を開きました。
 
 
 
ドロドロの愛の中に真実を見つけたとき、私は長い間の夫婦生活の中になかったものを体得しました。
 
私はよろこびに打ち震えました。
 
残り少ない人生を男の世界に生きていこうと決心しました。
 
 
 
上野のスナックにも通いました。
 
今度はどんなパートナーに会えるかと胸をときめかせてドアを開けるときの心境は、たとえようもなく新鮮で、私いっぺんにタイムトンネルの中を走り抜けて、若い頃に思いを馳せて、若返り、ハツラツとして人生がまさにバラ色になりました。
 
相手が女だと妊娠ということもありますが、相手が男なのでそんな心配もいらず、心ゆくまで自分の気の向くまま、思いっきりやりたいことやりながら今日を迎えました。
 
 
 
私は65歳、年金生活ですが、アパートを経営していますので、贅沢さえしなければお金に困ることはありません。」
 
 
 
この人、堅実な仕事をしてきたのだろう。
 
奥さんも幸せ、アパートを経営していて生活にも困らない。
 
羨ましいような生き方ではないか。
 
『薔薇族』読者の優等生だ。

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2017年2月27日 (月)

三島由紀夫は、近代日本文学史に残る偉大なゲイ文学者だ!

「でも、「よしだ」から連れ去った若者とは、まるで違ったタイプで、知的で爽やかな洗練された青年だった。
 
そこへ歌舞伎の中村芝翫の一家が入ってきた。
 
福助がまだ児太郎、橋之助は幸ニだった、まだ小学生の少年時代だ。
 
偶然に三島と逢った様子で、三島と同伴の青年が恥じらいの風情を見せていたのが、私には魅力ある光景だった。
 
 
 
三島さんは、「禁色」が、もし映像化されるなら、主人公の悠一は、松竹にいた大木実しかいないと書いている。
 
三島さんの「純白の夜」で、大木実は、木暮実千代の相手役をしている。
 
「禁色」の悠一のモデルと言われた、三島さんの当時の愛人だったIさんは、現在もときおり2丁目で遊んでいる。
 
老いてしまわれたけど、若いときは大木実似の美青年だった。
 
「仮面の告白」で、主人公が憧れる上級生、近江は、きっと大木実に似た面影の人だろう。
 
 
 
三島さんが自決して多くの人が、死についてさまざまな発言をした。
 
「森田必勝との男の心中だ」そう考えた人も多い。
 
遺体を解剖したら、三島さんの体から精液が検出されて、死を決したふたりが、決行の直前に情交したという風説もあった。
 
それが確かな事実であるなら、三島さんは受身のホモということにもなろう。
 
この噂は、ホモの人たちでなく、ノンケの人でも信じ込んでいる人もいる。
 
 
 
森田必勝は、りりしい美しさを持った、三島さん好みの青年だ。
 
着衣の写真しかみたことはないが、裸身も鍛えられた彫像の如き肢体であろうと思われる。
 
行動を共にしたが、生き残った3名の青年も、森田に劣らぬ美しさを持っている。
 
事件の公判を傍聴した人は、被告席に座った3人の信念の強さ、礼儀正しさ、目の清らかさなど、稀なる美しさを持った青年たちであると評している。
 
三島さんは、彼らを深く愛していたであろうが、彼らが三島さんの愛人として、ベッドを共にすることはなかったと思う。
 
まことしやかに伝えられる、三島さんの体に、男の欲望の果てが発見されたのが、事実であるとしたら、それは森田のではなく、まったく別の男、もしかしたら一夜限りの男であったかも知れない。
 
三島さんには、ホモとして、そうした暗い影の部分があったとは、考えられるのだ。
 
 
 
三島さんを論じる人の中には、ホモであることを否定しているのが、かなり沢山あって驚く。
 
その論拠としているのは、結婚している。子供もいる。女性に恋文を書いている。三島自身が否定している。「禁色」を書くために、エセホモを気どった一時期があったなどだが、同じ要素を持ったホモの人は数多くいるのだ。
 
 
 
作家は小説の登場人物に、自身を反映させる部分も多いものだが、三島作品「愛の渇き」とか、「鏡子の家」とかの女主人公は、三島さんを色濃く映し出している。
 
彼女たちが愛する青年像は、三島さんが心に描く男の像であるわけだ。
 
作家にしても、作品にしても、さまざまな面を持ち、あらゆる面から照射して論じることは大切だけれど、三島さんはホモとして論じなければ、、実像は浮かび上がらない。
 
私は三島さんは、近代日本文学史上に残る、偉大なゲイ文学者であったと思っている。」
 
 
 
こんなに長い文章を割愛しないで書き続けたことはない。
 
桂たかしさん、どんな方かまったく分からないが、必ずや三島文学を研究する人たちにとって、大いなる参考になることは間違いない。
 
三島由紀夫さんは、ゲイの人にとっての誇りではないか。

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2017年2月25日 (土)

三島由紀夫さん、「よしだ」に現れた!

「マスターは50代後半、妻帯していて、奥さんと娘がいた。
 
マスター不在の時には、奥さんが代わりをしていたから、事情をのみこんでいたのだろう。
 
マスターは話し好きで楽しい人柄だが、奥さんは無愛想だった。
 
 
 
客はふたりできて、ホテル代わりに使用する人が多い。
 
かわいい高校生を、それもくるたびに違う子を連れてくる教師とか、トイレなどで若い子をハントするのがうまいセールスマンとか、多い日は10組くらいの男たちが利用していた。
 
 
 
2つの部屋が利用中だと、ボックス席で終るのを待つわけだが、そんなとき、マスターは棒で天上をたたき、「そろそろ時間だよ」と、催促したりした。
 
 
 
ひとりでくる客もいる。
 
地元でない人が、誰かに聞いてやってくる。
 
マスターは好みを聞いては、電話で客を呼び出し、相手を見つけることもするが、そんなときは、わずかだが紹介料のようなものを取る。
 
しかし、飲み物にしろ、2階の部屋の利用料にしろ、じつに安いのだ。
 
 
 
マスターは若いノンケの子で相手をしてくれる子も何人かキープしてあり、そういう若者の場合は、その子にもいくらかの報酬を与えなければならないが、売り専などない頃だから、そうした利用客も多かった。
 
 
 
店は昼、11時頃から営業していたが、夜は遅くても10時には閉店する。
 
 
 
私は半年くらい、週に2、3回「よしだ」へ通った。
 
マスターと話をするのが楽しくて、飲んでしゃべって帰るのがほとんどだったが、4、5人は若い子を紹介してもらい、セックスの欲望を満足させてもらった。
 
でも2階の部屋を利用したのは、1回だけで、どうも落ち着かず、うす汚いのも嫌だったから、自分のアパートへ連れ帰っていた。
 
 
 
その店に三島由紀夫さんが現れたのである。
 
黒い革ジャンで、ぬっと入ってきた。
 
夜の8時頃だったと思う。私はカウンターで、常連客のひとりと飲んでいたが、三島さんはボックスに座り、そこへ出ていったマスターと話をした。
 
 
 
カウンターに戻ると、マスターは電話をして、お客さんがきたから、早くこいと、誰かに言った。
 
三島さんは無口で、マスターが大事にしている熱帯魚の水槽をのぞいたりしていた。
 
30分くらいそうしていたろうか。
 
 
 
そこへ背の高い若者が入ってきた。
 
工場へ勤めている24、5歳の青年で、ノンケの子、「よしだ」では人気のある、肉体が美しいと評判の子で、私も他の客に紹介されるのを何回もみていた。
 
三島さんは料金を支払い、その青年と連れ立って出ていった。
 
マスターは読書などしない人で、三島由紀夫と言っても名前すら知らない。
 
 
 
「へえ、小説書いてんのかね。
 
3、4回きたよ。
 
あの子がお気に入りで、今回も昼に電話で予約してからきたんだよ。
 
あの人、私には運送会社で働いていると言ってたと思うけど」
 
たしかに、その日の三島さんは、暗く革ジャンに身を包んだ、男っぽくしているホモ、そんな感じしか受けなかった。
 
 
 
私はまもなく恋人を得て、「よしだ」へも出入りしなくなったが、東京に戻ってからも、名古屋の恋人との仲は続き、3、4年後の夏に、彼と鳥羽国際ホテルに行ったとき、朝食のレストランで三島さんと逢った。
 
テーブルは離れていたけれど、三島さんは眉目秀麗な青年と同席していた。
 
「よしだ」でみて以来のことだし、朝食を共にしているからには、ふたりともホテルに宿泊していたと思われるから、ふたりはホモの付き合いだと、ゲスなもう妄想をめぐらしてしまった。」
 
 
 
これは三島さん、結婚する前の話では。

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2017年2月20日 (月)

三島由紀夫さんは、鍛えられた肉体を賛美されることが快楽!

「「黒蜥蜴」は三谷八重子、明智探偵は芥川比呂志、他に大空真弓、田宮二郎・賀原夏子など、ぜいたくな配役だった。
 
明智探偵の手下の役で、私のホモの友人も出演したので、私は初日に観に行った。
 
この手下役には、石坂浩二も出演していた。
 
 
 
ロビーには三島さんもいて、その時の服装は、白いなめし革で作ったシャツ、胸もとが大きく開き、ヒモで綾に結ばれているのだが、ボディビルで鍛えた筋肉の盛り上がりと、胸毛を強調するデザインのものだった。
 
その時も、私は挨拶をしたけど、三島さんは、ニコッと笑っただけで、何の言葉もかけてはくれなかった。
 
 
 
初めてお目にかかったときの三島さんは、気品のある美青年という印象だったが、ボディビルや剣道で、男らしさを強調する容姿作りをされ、すっかりイメージチェンジした。
 
ホモとして私の好むタイプでなくなり失望したが、そういう三島さんを好きなホモの友人もいた。
 
 
 
彼は三島さんに、ファンレターというより、ラブレター染みた手紙を出した。
 
しばらくすると、三島さんから巻紙に筆で書かれた返事が、細江英公撮影の『薔薇刑』という、三島さんの裸身をモデルにした豪華な写真集と共に、彼の所へ送られてきた。
 
彼は有頂天になり、私たちに見せびらかしたが、その後、一度だけ三島さんと会食したようだけれど、彼は三島さんの好むタイプではなかったらしく、あっけなく終わってしまった。
 
 
 
三島さんの死後、2丁目あたりで、三島さんからの手紙を持っているという人を何人か見かけたが、実物をみたわけではないから、真実かどうかわからないけれど、筆まめな人だったし、古書展などに、三島さんの手紙は、かなり出回っているから、熱心なファンには対応していたのだろう。
 
自分できびしい鍛錬を課して作り上げた肉体だから、それを賛美されることは、三島さんには限りない快楽だったのだろう。
 
 
 
私は20代の後半から、2年ほど名古屋に居住していた。その頃、大須観音の参道に「よしだ」という喫茶店があった。
 
古びた小さな店で、当時すでに大須観音は、さびれた盛り場だった。
 
戦前までは、見世物小屋など立ち並び、浅草のような感じの街だったらしい。
 
 
 
「よしだ」は、ホモの溜まり場だった。
 
男同士で、気軽に入れるホテルなどない時代だから、ホモのセックスをやれる場所でもあった。
 
1Fはカウンターに4席ぐらい、あとはボックスで、そちらも6、7人座れるスペースがあるだけだが、カウンター裏の急な階段を上がると、2階には3畳くらいの小部屋がふたつある。
 
そこにはせんべい布団が敷かれていて、枕もとにチリ紙が置いてあるだけ。
 
むろんシャワーも、トイレもない。
 
トイレは1階にあるだけだ。
 
その部屋で男たちは、セックスするわけだけれど、廊下もないし、部屋と部屋は、ふすまで仕切られているだけだ。
 
 
 
2組のカップルが、それぞれの部屋でセックスしたとすれば、お互いのよがり声などいやでも聞こえてくる。
 
奥の部屋の人が終わって帰るには、手前の部屋を通らなければ、階段を降りられないのだ。
 
 
 
シーツなども、客が入れ替わって交換することもなく、しみや体臭のついた布団でやるしかないが、常連客の中には、それがいいんだと言っていた人もいた。」
 
 
 
今のゲイホテルの清潔さは完璧だ。
 
「よしだ」の話は、あまり知られていないので、貴重な話と言えよう。

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