2018年1月 8日 (月)

オカマなんていう言葉は、もう使われない!

今、テレビで「オカマ」なんて言う人はいないと思うけど、36年前(1982年)はオカマという言葉は、よく使われていた。
 
1982年の『薔薇族』8月号の「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「マスコミの世界からオカマという言葉を追放しよう!」というタイトルで書いている。
 
 
 
「5月21日(金)朝日新聞の夕刊文化欄のつかこうへい氏の「狂気横行の時代」を読んだでしょうか。
 
「臭いものには蓋をしてこその日本文化は、その住宅事情のせいで「あかずの間」「座敷牢」といった餓鬼を封じ込める空間を作る余裕を失い、百鬼夜行の時代に突入しつつある。
 
その顕著な例が「ワルガマ」の横行である。
 
本来ひかれものとしての身の不幸を嘆き、人知れず生き、そして滅びてゆくべきカマどもが、まるで市民権を得たとばかりに陽の高いうちからテレビや街角にしゃしゃり出てきては能書きをタレるようになり、困ったものである。
 
先日など、偶然に入った寿司屋で、意気と気っぷで売る板前にまで、性悪ガマが進出しているのを知り、唖然とした。
 
カウンターに座るなり、角刈りで鼻の横にホクロのある妙にクネクネした板前に、「よして小柱は今日のはイキが良くないの。トロが絶対おすすめよ」と、ウインクされたときは、さすがの私も、気色悪くて背筋が寒くなった。
 
とてもカマの手で握られた寿司を食う勇気はなく、ひたすらタマゴばかり注文していたら、言うに事欠いて、「あ~ら、こちらさんタマゴばっかり、いやらしいわね」と満座で笑いものにされた。
 
いったいタマゴのどこがいやらしいというのだ。
 
自尊心の異常に高い私は、あまりの屈辱に、その日以来、夜寝ていつも「カマから笑われた」と、うなされ続けている。
 
並の人以上に税金も払っている健全市民のこの私が、なにゆえ、カマふぜいに笑われなければならないのか。
 
私は別にカマが料理をしてはいけないと言ってるのではない。
 
そりゃなかには、料理好きのカマだっているだろう。
 
が、そういうカマには、レストランのようにキッチンの見えないところでやるモラルをもってもらいたい。
 
それが節度というものだ。
 
恥を知るカマ道というものだ。
 
しかし、こう無作法なカマが多くなっては、私も文化人の端くれとして本格的にカマ撲滅キャンペーンを始めなくてはと思う。
 
「放し飼い」にしてはならない前衛的な人間どもが横行し、私たち時代の先端をゆくべき演劇人の存在感のない時代になってきた。」
 
 
 
どうです、この文章。偏見と悪意に満ちた文書。なんとも感じませんか。
 
オカマと言われたって腹が立つのに、性悪ガマとは一体どういうことなのですか。
 
たしかにこの部分だけを読んだら、なんとひどいことを言うと、にえくりかえるぐらい腹が立つけど、最後まで読んでいけば、つかこうへい氏のジョークだということがわかり、腹も立たなくなるのです。
 
 
 
しかしです。
 
つかこうへい氏が悪いのではないのですが、オカマという言葉は、そのものが『薔薇族』に対する侮蔑の言葉ではないでしょうか。
 
ただ言葉を変えたからって、心の中で馬鹿にしていたのでは何もなりません。
 
意気と気っぷのいい人に見えたからって、そういう人にこそ、オカマなる人がいるのです。
 
ぼくはくねくねしている、この板前さんこそ、愛すべき正直な人だと思うのです。」
 
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2018年1月 6日 (土)

内藤ルネさん、『薔薇族』の表紙絵を描き続けたかった!

『薔薇族』の表紙絵を一番長く描いてくれた内藤ルネさん、恩人というべき人で忘れることのできない人だ。
 
藤田竜さんと、内藤ルネさんは、千駄ヶ谷の駅近くの部屋が何室もあるマンションに長いこと住んでいて、一緒に仕事をしていた。
 
竜さんとぼくが出会うことになり、マンションに足しげくスクーターに乗って訪れていたが、竜さんがルネさんをぼくに紹介してくれたのは、3年も過ぎてからのことだ。
 
それから長い月日が流れ、考えつかないようなことがあり、大変なことになってしまった。
 
 
 
ルネさんは思いついた時に、ノートに書くことが好きだったようで、その残されたノートを見ることができた時は、ショックだった。
 
 
 
「人生ってとんでもないことが突然おこるんですね。
 
1990年代の初頭、バブルのときに全く信じられない事件が私の上に降ってきて、今の金額にして約7億円以上を5人の男と、1人の女に次々に持っていかれて、その上にマンションまで持っていかれ、すっかり疲れきって、自殺も3回、考えました。
 
もう生きていくことに、すっかり絶望していた時、信じられないことに、いろんな関係のあった私の大切な会社たちも、すっかりバブルに巻き込まれて、すっかり仕事もなくなってしまったのです。
 
それまでの少女の絵や、陶器のマスコット人形の会社などの縁も切れてしまったのですよ。
 
もともと生活するために、食するために始まった私の絵の生活が、人生で初めてストップして、何もどこからも仕事がこなくなってしまった時、『薔薇族』の表紙の仕事を、伊藤文學氏から頼まれたときの驚き、それもセクシイこの上もない男の子たちの絵、驚きましたね。しかし、まったくありがたく、嬉しかったですよ。
 
 
 
そして我が人生で初めてのセクシイボーイズを描くことのこの上ない楽しさと、嬉しさをこのとき知りました。
 
ホモマガジンの性質上、とにかくセクシイにしなくてはならず、しかし、どんなに怪しくてセクシイでも、そこに清潔感をだして、店頭に並んでも、男性はもちろん女性たちにも愛されるボーイズを描こうと、心に決めました。
 
それからの楽しさ、恐ろしい事件も、『薔薇族』の表紙を描くことで、まったく忘れることができたのですよ。
 
毎回、毎月、しっかりとかえて、おもわずほほずりするような男の子たちを描くことの楽しさ、嬉しさを初めて知り、幸いなことに読者の好評を得ることができ、長く長く描き続けられたことの嬉しさとありがたさ!
 
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今ふりかえって伊藤さんと、夫人の久美子さんに心よりの大感謝を捧げます。
 
時の流れで『薔薇族』の表紙をやめることになった時の淋しさは、まったく当時、もっともっと描き続けたかったので、残念でくやしかったですよ。ですから今だって私は『薔薇族』の表紙をすぐにでも描きたいのです。
 
幸いなことにあれだけたくさん描いたルネ・ボーイズの表紙の男の子たちは色あせず、年を加えるごとに、自分でいうのもおかしいですが、輝きを増していますよ。
 
まったく見ているだけで、嬉しくなってくる男の子たち、それが『薔薇族』のルネ・ボーイズなのです。それが私のホモ男性に捧げた少年たちなのです。
 
不幸な時間を忘れさせてくれた『薔薇族』の表紙のルネ・ボーイたち、ありがとう、そして伊藤さんの幸運を今はなによりも心深く祈っていますよ。」
 
 
 
ルネさん、ありがとう。
 

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2017年12月11日 (月)

老後のことなど考えていないうちに!

1985年1月号(今から32年も前のことだ)ぼくが52歳の頃の『薔薇族』だ。
 
そんな若い頃の話なのに、「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「誰もが歳をとるのです」のタイトルで、ぼくはこんなことを書いている。
 
 
 
「昭和57年3月29日(1982年、35年も前)に亡くなられた、漫画家の富田英三さんがお元気だった頃の話です。
 
日本で一番早く『ゲイ』という単行本を出され、またアメリカのグリニッジビレッジの風俗をいち早く持ち帰って、若い芸術家を集めて「ビザールの会」を結成したのです。
 
「ビザール」とは、「風変わりな」という意味で、ちょっと変わった人間ばかり集まっていたのです。
 
とにかくいろんなことをやって、ぼくら夫婦(先妻の舞踊家・ミカ)も参加していた。
 
いちばん新宿が若い芸術家が集まって、燃えていた時代です。
 
(富田さんはパーティ好きで「マルキド・サドのジュスティーヌ」という映画が日本に入ってきた時に、ヘラルド映画が宣伝のために、渋谷の山手教会の地下の劇場「ジャンジャン」で、宣伝のためにマスコミを集めてイベントを開らき、ミカの踊りが話題を集めた)。
 
 
 
その頃の仲間の1人のFさんという広告代理店に勤めている人がいました。
 
ちょっと暗い人だなという印象があったけれど、当時のぼくはゲイの世界を知らなかったから気にも留めなかったが、時代が変わって、ぼくが新宿に「伊藤文学の談話室「祭」」を出した頃、そのFさんがひょっこり顔を出したのです。
 
Fさんのことなど忘れてしまっていたころ、突然電話がかかってきたのです。
 
 
 
下北沢の喫茶店で会ったのですが、前から痩せて神経質そうな人だったけれど、なおさら痩せてしまっていました。
 
ぼくより先に喫茶店で待っていたのに、何も注文していないのです。
 
もう、Fさんは60歳になっていたのです。
 
ぼくだって52歳にもなっているのだから、あっという間に20年以上も経っていたのです。
 
Fさんはまったくの無一文なので、コーヒーを注文しなかったのです。
 
最近、自殺未遂までしてしまって、東京にまた舞い戻ってきたとのことでした。
 
 
 
「どこかゲイ旅館で働くところがないでしょうか」というのが、ぼくを訪ねてきた理由だったのです(もう忘れてしまってるが、少しはお金をあげたのでは)。
 
しかし、ゲイ旅館といっても、60歳を過ぎた人をやとってくれません。
 
紹介をしたものの、どこも断られてしまいました。
 
 
 
Fさんのことから色々と考えさせられてしまったのですが、ぼくも14年間、いろんな読者を見てきました。
 
年配の人で女性と結婚せざるをえなくて、なんとか結婚して、子供を作った人。
 
うまくいかないで離婚してしまった人もいるでしょうが、そうした人たちは、まあ、まあうまくいっているようです。
 
 
 
ところが結婚しないで、1人で生活している人達です。
 
全部が全部みじめになっているわけでないし、優雅に暮らしてる人も多いが、Fさんのような人もいるのです。
 
女性と結婚して家庭を作れば、家も建てなければならないし、子供がいれば教育費もかかるから欲望のままにというわけにはいきません。
 
ひとり暮らしの人は自由気ままで、見栄っ張りで、おしゃれな人も多いから着る物や食物にぜいたくしてしまう。
 
それに飽きっぽい人が多いから、一つの仕事が長続きしない。
 
若いうちから老後のことを考えて、貯金もしておかねば。
 
 
 
みんな誰もが歳をとるのです。
 
歳をとったからといって死ぬわけにいかない。
 
みんな老後のことを考えましょう。」
 
 
 
いいこと書いてるけど、お前の今はどうなんだと言われてしまいそう。
 
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まだまだ元気です

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2017年11月20日 (月)

よくできた女房だったから!

女性と結婚してよかったという読者からの投稿。いろんな読者がいるものだ。
 
 
 
「1980年2月号の『薔薇族』に、真っ赤な薔薇は結婚するなの投稿を読み、ぼくなりの考え方を。
 
小学校の先生と、その奥さんになった女性というのは大変なんですね。結婚して2年間も(20日じゃないよ、2年間ですぞ)セックスなしとは、うーん、どうしてもウソとしか思えない。
 
2年間もやらないでいた亭主も亭主だが、それにつかえていた奥さんも奥さんである。教員の妻君とは、そんなにガマンしなければならないものなのか。
 
離婚というものがそんなに教員としてのダメージを受けるものなのか? そう言われて周りを見ると、教師で夫婦生活を解消したというカップルは非常に少ないような気がする。この記事を読み自分のことを考えてみた。
 
ぼくはもちろん『薔薇族』だけど「真っ赤な薔薇」ではない。淡いピンクの薔薇ということになるのかな。
 
 
 
女性と結婚して12年目になるんだけど、結婚生活でそんなに苦しんだ思い出はない。最初はこの人と同じだった。ぼくたちの初夜は式をあげてから10日め頃だ。
 
新婚旅行中、全然セックスはできないでいたんだけど、なぜかぼくたちは焦らなかった。10代の頃からふたりで一生懸命読んだ雑誌『平凡』や『明星』のセックスに関する記事の中で、ドクトル・チエコ先生が言っていた。
 
「初夜」というものは、結婚してすぐその夜を迎えてももちろんいいのだが、1週間たっても、また10日たっての初夜でもいいのです。
 
この言葉が頭の中にあり、わりとのんきにかまえていたような気がする。
 
それでも10日めに初めて深く結合したときは「この世の中に、こんなに具合のいいのがあったんだなあと、今までどうしても結合できなかったことが、うそみたいに、毎夜、毎夜、ときには朝や、昼休みにせっせとはげんだものだった。
 
そのとき24歳だったけど、男の味はすでに知っていたけど、バックの味は知らないでいたからよかったのかな。
 
結婚して6年ぐらい経ってから、初めてバックの味を知り、それから妻とのセックスが遠のいていったみたいな気がするが、妻は妻で子供を育てあげるのに一生懸命で、愛の交かんにはそんなに執着しなかったような気がする。(中略)
 
若い人が結婚にものすごく悩んでいる姿や、記事を見るにつけ、気持ちのうえでもっとオープンにしていたらいいのではないかと思う。
 
独身でいるということは、そりゃあもう、妻子あるぼくらから見れば最高なんだけど、でも結婚した相手の女性とも一緒に生活していれば、人間ならば愛情もわいてきて、大事にしてやると、また彼女もトーチャン、トーチャンと、とっても大事にしてくれるものだと思うな。
 
ぼくは両親と妻と子供らに囲まれて、健康にも恵まれて、仕事に遊びに、また一般社会との付き合いができるのも、やはり女房あってこそと思うんだけど…。
 
自分の殻に閉じこもり、自分というものをそんなに惨めにしないで、心を大きく持って、「結婚」というものでなく、「家庭の生活」というものに基本を置いて考えたら、また別の道がひらけてくると思う。
 
それにしても夫婦げんかをしたときの女房はにくいけれど、病気をしたとき看病してくれる女房は、まあ最高だよ」
 
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19世紀初頭のヨーロッパの絵葉書
 
こういう人のことをバイセクシャルというのかな。奥さんがよくできた女性だから、結婚生活が長く続いているのだろう。

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2017年11月18日 (土)

『薔薇族』をどんな人が買うの!

1984年(今から33年前)の『薔薇族』10月号(No.141)の「少年の部屋」のコーナーに、書店でアルバイトをした高校生の投稿が載っている。
 
 
 
「『薔薇族』発売日の1日をレポートします。本屋さんのとある場所に並んでから閉店までの観察です。結構いろんな人たちが買いに来るものですなあ。
 
本誌は当然、雑誌コーナーにあり、当たり前かもしれないけど、表紙が見えないように立てて置いてあるのです。
 
午後5時、オジさんが来て先月号と今月号を交換する。(どういう意味なのか)
 
このコーナーには本誌だけでなく、G誌、S誌など、さらに本誌増刊号、他誌別冊など結構置いてある。ちなみに本誌は3冊『ノック』は2冊置かれていました。
 
 
 
待つこと10分。メガネをかけたお兄さん登場。白のシャツにジーパンという姿。S誌を取りカラーグラビアを見る。活字の部分はパラパラとめくり、結局は本誌をとり、なぜか下向きでレジに行った。早速1冊売れたのである。スゴイ。
 
今度は2人の高校生。2人というせいか、わりと堂々とコーナーへ来た。ひとりはTシャツ、もうひとりはブルゾン。そしてスニーカー。本当にどこにでもいそうなやつである。
 
カラーページを見たり、見せたりしている。そのうち買うのが決まったらしく、S誌とG誌を持ってレジに行った。
 
残念ながら本誌は売れず。しかし、2人で来て、堂々と買っていく姿には感心しましたよ。おそらく回し読みでしょうな。
 
 
 
次に来たのは暗そうな大学生ふうの人。シワシワのシャツに色の落ちたズボン。汚ねえ靴。そして2冊ある本誌の右1冊を取り、じっくり立ち読み。
 
結構時間かけて読んでいる。20分ほどたち、見るところはみんな見たような顔で本誌を元に戻し、その場を立ち去った。まったく20分も立ち読みするなら買えばいいのに。
 
時刻は午後7時30分、あと30分で閉店、と思っていたら来ましたよ。作業ズボンのオジサン。もう頭にはこのコーナーのことしかないらしく、ツカツカと寄り、なんと本誌からS誌、G誌、他誌と全種をとり、レジに向かっていった。
 
すごい! なかにはいるんですな。
 
え? だれがあと1冊を買うのかって? もちろん俺だぜ。決まっているじゃん。
 
「ご来店のお客様に申し上げます。本店は間もなく閉店…」というアナウンスに急かされるように、俺は本誌を1冊持ち堂々とレジに向かい、表紙を上にして買い、小脇にかかえ家に帰りました。
 
みなさんもどういう人が買いに来るのかを見ていると、結構面白いですよ。そして俺のときはカッコいい男は来ませんでした。
 
声かけて本誌を持ってホテルへ、なんて最高じゃん。ひまな人、試してみたら。
 
おしまいに一言。この本買うなら堂々と買おうぜ!」(栃木県・辰徳)
 
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内藤ルネさん最後のイラスト
 
栃木県のどこの町かわからないが、そんなに大きな店ではなさそうだ。『薔薇族』は3冊。発売日に全部売れたのだろう。
 
コンビニが街に溢れるように開店し、雑誌を置くようになって、小さな書店は廃業せざるをえなくなっていく。
 
 
 
文通欄に栃木県の人が5人も載っている。足利氏のプロフィールさん
 
「さりげない毎日より、楽しく過ごすことの楽しさを。君と一緒に何かを考えてみたいんだ。俺まだあまりホモの世界を知らないけど、俺は俺なりの道でやっていくつもりだ。22歳、顔には多少自信あるけど、そんなものどうでもいいんだ」
 
みんな幸せになったのだろうか?
 

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2017年11月13日 (月)

「すみません」と最後の言葉を残して!

他人さまを使って、お店を経営するのは難しい。もうこの世にいない人だが、キャバレーのドアボーイから、ゲイホテルのオーナーにまでのぼりつめた人が、従業員の使い方や、お店の経営の仕方まで、いろいろと教えてくれた。
 
ぼくは学生時代にアルバイトで、朝顔園での仕事をしたぐらいで、人を使ったことがなかった。
 
渋谷で「千雅」というゲイホテルを成功させた人だ。キャバレーで働いていた時代は、お金をごまかすことばかり考えていたが、自分が経営者になると、従業員にお金をごまかされないように、いつも目をひからせていたそうだ。
 
 
 
ぼくの親父が戦後まもなくの昭和23年に、株式会社「第二書房」を立ち上げた。その年にぼくは駒沢大学の文学部、国文科に入学した。姉ひとり、妹2ふたりで男はぼくだけだから、学生時代から親父の出版の仕事を給料なしで、働かせられていた。
 
大学を出てもどこにも勤めず、出版の仕事を続け、それから他人さまに使われることなく今日に至っている。
 
自分で営業して『薔薇族』を置かせてもらっているポルノショップの売り上げは、自分のふところに入れてしまっていた。そうでもしなければ、なんにも買えなかったからだ。
 
 
 
靖国通りに面していて、となりが新宿厚生年金会館で、邱永漢さん(この世にない)が9階建ての「Qフラットビル」を建てた。
 
1階は駐車場で、2階をお店用に作られていたが、オイルショックのあとで景気が悪く、借り手がいなかった。
 
シャンソン歌手のMさんが、邱さんと親しかったので、一番奥の部屋を借りてクラブを開業した。
 
芸能人のお店って、信頼できる従業員に恵まれればいいが、仕事が忙しくなってお店に出られなくなると、お客は遠のいてしまう。
 
Mさんのお店に何度かお邪魔しているうちにぼくもお店を出そうと考えついた。Mさんのまん前に「祭」「伊藤文学の談話室・祭」をオープンさせたのだ。
 
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今はない新宿厚生年金会館
 
 
その時代、秀れた従業員を見つけることは難しかった。昼間から店を開けるというぼくの発想は当たったが、ぼくが毎日、店に顔を出すわけにいかない。雑誌の仕事だけで大変だったからだ。
 
女房も着物を着て店に出てくれていたが、親父の看病をしなければならなくなり、お店に行けなくなっていた。
 
 
 
1985年の『薔薇族』8月号(No.151号)は、大スクープ「日本人エイズ患者に単独会見」が載っている。その号の「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに、ぼくは「すみませんと言って無念の涙を流したY君のためにも「祭」はやめないぞ!」と書いているが、世の中、急に変化してきて、駅から20分以上も歩かなければならない場所に、読者が足を運んでくれなくなっていた。
 
新宿2丁目にゲイバアが増え、ゲイホテルも何軒もでき、「祭」の役目は終わっていた。
 
Mさんのクラブも店を閉めている。店長が売り上げをもって行方をくらませていた。
 
 
 
店を閉めていたら、ぜひ、やらせてほしいという若者と、若者と付き合っている中年の男が現れた。
 
あまりに熱心なので、店を開けてみたら、ひどい汚れかただった。3日もかけて掃除を終えたら、若者は柔道で高校時代に鍛えた体だったが、腰が痛み出して動けなくなってしまった。
 
東京湾の埋立地で、若者は焼身自殺してしまった。タクシーで若者を送ったが、「すみません」と言ったくやしそうな言葉が最後だった。

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2017年11月11日 (土)

誰にも相談できず、夜ひとり泣いて!

『薔薇族』は男性同性愛者のための雑誌だけど、2割ぐらい女性の読者がいたのでは。女性からの投稿を載せると、嫌がる読者がいたけれど、日本には女性同士の雑誌がないのだから、ぼくはできるだけ女性からの投稿も載せるようにしていた。
 
「夫が男を好きになって!」と題する大阪市のTONさんからの投稿。
 
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「私は25歳、結婚して5年、現在3人目を妊娠しています。主人は真面目で子煩悩で、去年の暮れまでは仕事と家の往復だけの人でした。
 
それが7ヶ月ほど前から外泊ばかりするようになり、浮気しているのかとも思いましたが、私自身3人目を妊娠しているのがわかり、つわりがひどく、自分のことで精一杯でした。
 
ところが先日、主人の口から「好きな人ができた」という言葉を聞き驚きましたが、その相手が男性であるというのを知り、すごいショックを受けました。
 
そんなときに、この『薔薇族』を見つけ、読みつくしました。100%理解できたわけではありませんが、「男と男」「男と女」みんな人間、一緒なんですよね。
 
 
 
それまではとにかく主人が悪いと責めてばかりいたけれど、私も妻として、主婦として悪いところはたくさんあるし、人間として私より彼のほうがステキだったのかもしれません。
 
誰にも相談できず、夜ひとりで泣いていると、たまたま電話をしてきた主人の母に、たまらなくて打ち明けてしまったりもしました。主人のプライドを傷つけてしまったかもしれません。
 
 
 
話が前後してしまいましたが、『薔薇族』のおかげで、主人に対する気持ち、「愛」を大切にしていこうと思いました。
 
主人を責めるのをやめ、ホモバアでの出来事など、主人の話をすべて聞くようにしました。聞いていると、結構面白かったりして。そのうち機会があれば、一緒に飲みに行こうなどという話まで出て楽しみにしている私です。
 
いまのところ特定の彼はいないようですが、この先のことはわからないし、エイズなどの病気のことも心配です。
 
子供たちが誰からか聞いたりして、自分の父親がホモであることを知って悩んだりするんじゃあないかなあ、なんてこともふと思うときもあるけど、私がしっかりしていれば「普通よりちょっと変わっていて面白いでしょ」なんて感じで過ごしていこうと思います。
 
 
 
人は好きな人ができれば、両思いになりたい、それが叶うと自分だけのものにしたい、などと次々と欲望が出てくるけど、私は主人を男として、ひとりの人間として愛しています。
 
正直に言えば、私だけのものでいてほしいけれど、愛する人と一緒に暮らせるだけでも幸福なことだと思います。
 
今の私は無事に出産することを考えて過ごしています。こんな夫婦、こんな男と女、こんな家庭、みなさんはどう思うかな。こんな私ってへんですか? できればみなさんの意見や考えを聞きたいです。
 
これからも主人と一緒にずっと『薔薇族』を愛読していきたいと思っています。」
 
 
 
この投稿が載った『薔薇族』は、1991年の5月号(26年も前のこと)この奥さん、51歳になっている。3人の子供さんも大きくなっているのでは。
 
夫がホモだとわかると、すぐに離婚してしまう女性もいたけれど、この奥さん、賢い人だ。きっと今でも幸せな家庭を作っていると信じている。
 

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2017年11月 4日 (土)

海軍の裏面史の貴重な記録!

『薔薇族』は1971年の創刊なので、終戦になって軍隊から戻ってきた人たちが、軍隊生活のことを投稿してくれている。これは貴重な体験記なので、記録として残しておきたいものだ。ただ長文なので全部を載せるわけにはいかない。1982年の11月号に載った海野武男さんの海軍時代の体験記だ。
 
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「戦時中に海軍に籍を置いた者に、軍隊生活の中で一番嫌であったことは何かと問えば、たいていの者は甲板整列と答えるだろう。
 
これは巡検(陸軍ならば、就床前の点呼のこと)のあとで兵隊たちが甲板上に整列させられて、その日の課業に対する励み方が充分でなかったことを理由にして、長々とお説教を聞かされたうえ、最後に下士官に活を入れらることである。
 
活の入れ方はいろいろあるが、平手あるいは拳による頬打ちが普通で、その他に樫の棒による肘打ちや、長時間の前へ支え(腕立て伏せのこと)などもよく行われた。
 
多くの場合、下士官によって殴られるのであるが、兵長が代行するときもある。疲れきった体を横にさせてもらう前に、足を開いて歯を食いしばって、一瞬気を失うほどの打擲に耐えねばならなかったことは、兵隊にとって最も辛いことであった。
 
 
 
さて、海軍生活の中で、その次に嫌なものは何であったかと聞かれれば、私は即座に月例検査と答えるだろう。これは毎月1回定期的に行われる健康診断のことであるが、主たる目的は性病の検診である。それに付随して、皮膚病の点検なども行われる。
 
「明日、月例検査を行う」と知らされた日の夕刻は、どの入浴場も大変な混雑である。明日のM検に備えて陰部を清潔にしておくため、全員が必ず入浴するからである。
 
どの兵隊も洗い場に包皮をめくってよく洗っている。なかには勃起してしまう者もいるが、みな比較的無関心に見過ごしている。まれにひょうきんな兵隊が、ふくらんでいる自分の陰茎を周囲の者に見せびらかしている場面もある。(中略)
 
 
 
「受診用意」の号令がかかると、一斉に立ち上がり、越中ふんどしをとって衣類の上に起き、全裸となって医務室左側の入口の前にタテの一列を作る。
 
長い列となるので控室の隅をぐるりとコの字型に囲んで、最後部の者は医務室右側の出口の付近に並んでいる。
 
お互いに性器丸見えである。中には平気で一向に気にしない者もいるが、程度の差こそあれ、なんとなく人の持ち物の形や、大小が気になって、それとなく観察している者もいる。
 
初めての月例検査のときなどは、恥ずかしさのあまり、あらかじめ渡されて手に持っている自分の検査表で、人に見えにくいように陰部を隠す者もいた。それをみつけた衛生下士官は、その者を指さしながら「前を隠すな! しゃばっけを出すな」と、怒鳴りつけた。
 
みんな一斉にそちらを見た。その兵隊は顔を真っ赤にしながら、前を覆っていた手をはずした。普通の性器であったが、包茎で陰毛が少なめであった。(中略)
 
今の若い人の陰茎の長さは、平均13.5cmぐらいと聞いている。戦時中の日本人は背も低く、確か平均が、12.5cmぐらいであったと記憶している。大きさや形状はまったく千差万別で、私は自分の粗チンに対して劣等感を持っていたが、あまり気にしなくなって入浴も手ぬぐいで前を隠すことはしなくなった。」
 
 
 
12ページにおよぶ体験記で、よくまあ観察したものだ。軍隊の裏面史で貴重な記録だ。

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2017年10月30日 (月)

老後をどう生きたらいいのか!

『薔薇族』の読者にとっては、異性との結婚の問題が大きな悩みごとだった。これは30年も前の話だ。
 
「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに、「独身男が増えているというけれど」と題して書いている。
 
 
 
「新潟県の一読者から、結婚についての手紙をもらいました。
 
結婚問題で悩んでいる人にひとこと。結婚を決意するとき、最低3つのことが必要。
 
①相手の女性を世界一、大切にできるか。
 
②その女性の髪を手でとかしたり、日光浴でオイルを体にぬってやっても、ぬられても違和感がないか。
 
③その女性を思い浮かべ、マスターベーションのフィニッシュを迎えられるか。
 
 
 
①は女性が結婚する時、家族を捨ててくるようなものだから、男性の方も、自分の両親や男友達、どれをとっても、その人を一番大切にできるかだ。
 
男友達と今まで通りセックスして、さらに結婚したい人は結婚するな。女を馬鹿にするにもほどがある。
 
 
 
②は生理的に女性が駄目な人。その女性に触れるだけで、鳥肌のたつ人。触れられても逃げ出したい人。宇宙の果てへとんで行け!
 
 
 
③結婚するには、お互いに努力が必要。その一例に書いたけど、もし、これができたら、君は大いに希望を持っていい。
 
ときには女房に甘える男っていいと思う。女房をときには守ってやれる男っていいと思う。
 
 
 
おれ、結婚3年目。女房と1歳の長男と、女房とお腹の中にひとりかなの3.5人家族。女房に小さな幸せしかやれないおれだけど、休みのとき、近くの公園にピクニックに行って、幸せ!という女房が一番好きだ。」
 
 
 
Y君、もう君の世界は違ってしまった。みんなにアドバイスはありがたいけれど、近くの公園にピクニックに行って「幸せ!」という女房が一番好きだという君。
 
もう、君はあちらの世界の人になってしまったのだから、『薔薇族』は、もう卒業したのだし、読まなくてもいい。手紙なんかよこしてはいけない。
 
君の言っていることは、まったくもってその通り。ひとつも間違っていない。しかし、相手の女性を思い浮かべ、マスターベーションのフィニッシュを迎えられる読者が果たして何人いるか? 君は例外中の例外だったから、女性ともうまくいき、子供も2人もつくることができた幸福な人だ。
 
君がいう条件が3つともかなわなくても、それでも結婚しなければならない読者がすべてなのだから悩みは深い。女がそばにきて、鳥肌たっても、女と結婚しなければならない『薔薇族』の読者の結婚は、業が深いというものだ。」
 
 
 
今の世の中、ノンケの人たちの中にも結婚することのわずらわしさを嫌って、女性と結婚しない人も増えてきている。
 
ただ世間体のために、親や、家族のために地獄の苦しみに耐えて女性との結婚にふみきる必要がなくなってきた。
 
今まで独身できたけれど、50歳を過ぎて、やはり同じくらいの女性、もうセックスをしなくてもいいような女性と結婚した人もいる。誰でも50をすぎれば、1人で暮らすことは不安なことだ。
 
お互いに病気の時など、二人で助け合って生きていかなければならない。年を重ねれば、1人よりも2人のほうがいいに決まっている。これもひとつの老後の生き方かもしれない。理想としては男同士で夫婦のように住んで、お互いに助け合っていくのが最良の方法とは思うけれど……。
 
B
明治時代の絵はがき

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2017年10月23日 (月)

尊敬していた小学校の先生が!

学校の教師にゲイの男が多いと書いたけれど、それを裏付けるような松山の高校2年生からの投稿。
 
 
 
「俺ね、小学校の先生に愛されたんだ。その先生46歳ぐらい。なんとなく俺のこといつも可愛がってくれていた。
 
小6のころだ。特別に勉強を教えてくれていたし、何でもよく教えてくれたもん。小学校を卒業して中学へ通うようになった。
 
あれは夏休みだったんだから中1だよね。キャンプに行こうと誘われたの。いいキャンプ場が近くにあったもんだから、俺大喜びで連れて行ってもらった。
 
俺と仲良しのAとBの3人。テントを張って、飯ごう炊さんやって、遊んで、4人で相撲などやって、歌を歌って……。星空がとても美しかった。
 
 
 
12時真夜中、いよいよテントに入って寝ることになった。ふたりずつ毛布に入ることになった。すると先生は、「二郎お前と先生だぞ」と、さっさと毛布に入ったのです。
 
AとBはきゃあ、きゃあはしゃぎながら毛布へもぐりこむ。俺少し恥ずかしかったけど、先生の横へ、そっともぐりこんだ。
 
なかなか眠れなかった。なぜか先生の体温が伝わってくるもんね。AとBはひそひそ毛布の中でささやいていた。そしていつの間にか静かになって眠ったらしい。
 
俺なぜか眠れない。先生はじっとしている。するとね、先生、くるっと俺の方へ向きを変えて、俺の頭の下へ左手を入れ、右手で俺のからだをぐっと抱くようにして引き寄せて、先生と向き合うようにしてしまったの。
 
当然向き合って体が密着してしまった。うわー、くすぐったいよう、でも俺、黙っていた。先生の息が首すじにかかる。いい匂いだった。先生から足を俺の足に絡ませて、まきこむようにした。もう、ぴったり。俺の耳に先生は唇を当てて、かむようにしているんだ。(中略)
 
 
 
「先生、苦しいよ。きついよう、暑いよう。」と言ったんだ。先生たら「次郎が可愛くてたまらん。もう、離さないぞ!」
 
ああ、やっぱり先生は俺のことを可愛がってくれるている。先生のとこ男の子がいないから、俺のことを自分の息子のように思っているんだな。そう思って苦しかったけど、がまんすることにしたんだ。
 
 
 
先生は腰をぐっと俺の方へ突っ張ってくるんだ。するとね、びっくりしちゃった。その時初めて気が付いたの。先生のチンポがすごくかたくなって、こりこりと俺のチンポとくっついていること。
 
俺のもどうしたのかかたくなっているんだ。いつの間になったんだろう。俺、変な気持ち。いやだ、先生たら、尊敬してた先生がチンポ勃てて…...。頭の中、ぐるぐるいろんなことが回転して、もう暑いのも苦しいのも忘れてた。
 
先生は俺を下に敷くようにして、俺の上に体をのせてきたんだ。こんどは、はっきりとチンポとチンポと、ぐりぐりと当たっている。
 
すると先生は突然、俺にキスしてきた。唇と唇がぴったり。あっ、これがキス。
 
先生の手が下へ伸びて俺のチンポをつかんだ。先生は俺のパンツを脱がそうとする。俺、お尻を持ち上げてやった。するとチンポとチンポがモロにぶつかって、先生、腰を使ってこすりつけてくる。(後略)
 
中学2年のころ、あの白い液が出たよ。それから中学卒業するまで、先生と一ヶ月に2回ぐらいの割で遊んだんだ。(松山市・星二郎)」
 
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大正時代の年賀状
 
いやらしい感じがしない。むしろ微笑ましい感じだ。少年愛なにが悪いんだ。いい話ではないか。

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