2020年4月 4日 (土)

同性愛者の父をもって生まれたなら!

ぼくが初めてテレビに出演したとき、司会をしてくれた人だ。最初のモーニングショウで、嫁同士で何人かおしゃべりし、次の日には姑同士がおしゃべりし、嫁と姑のいたばさみになっている男性を募集するテロップが流れた。

 

まさにぼくは嫁と姑のいたばさみの男性なので電話を何度もかけたが通じない。もうやめようとあきらめかけていたが、もう一度と思ってかけたらつながった。

 

出演することになった。今の世の中、嫁と朱止めと一緒に住んでいる人はいないようだ。その司会をしていた人が先日なくなった。ある新聞に2回にわたって、女性記者がインタビューしているが、あのときの司会者は結婚していて、子供さんもいる、それに奥さんはある方面で本もたくさん出され、テレビにも出演している有名な方だ。

 

だが彼はゲイだ。それは間違いないが、それを隠し通していたのか、奥さんが知っていたのか、どちらかだろう。そのインタビューは二人の仲睦まじさが描かれている。まさに理想の夫婦だ。奥さんが教養があって、仲良く暮らしていたから、記事に書かれているような感動的な夫婦になっていたのだろう。

 

1997年7月号の『薔薇族』の「編集室から」に衝撃の書というべき本の紹介が載っていた。内藤ルネさんの師匠というべき中原淳一さんの息子さんの告発の書だ。

 

中央公論社刊の「父、中原淳一」がそれだ。

 

淳一さんが亡くなられて週刊誌が取材しにくる。あの『フォーカス』の取材は、その目的が淳一さんが同性愛者であったかどうかを確認するためのものだった。彼らは予備取材を充分に済ませてきていて、遺族の口から直接言質が取れたなら、直ちに記事にするという態度がありありだったという。

 

息子さんは「絶対に父は同性愛者ではない」とフォーカスの記者に言明した。

息子さんはこうも書いている。

 

「生まれついての少数派に属する者で、自己を悩み疑い、葛藤しない者がはたしているだろうか。彼らはそれを隠していれば罪であり、明らかにすれば、それもまた罪となるのである。

 

彼らが自らを悩み疑うことをやめたときとは、自らが、あるいは社会によってか、いずれにせよ、彼らが少数者でなくなったということである」

 

息子さんはある時期に、お父さんである淳一さんが同性愛者であるということを知ったに違いない。またそれを否定する気持ちとの葛藤が長く続いたのだろう。でも、秀れた芸術家としての父を尊敬し、愛してもいたのだ。

 

告別式の時、息子さんはこう述べている。

 

「父はこの世を去りました。けれどその父の血はいままさに、なおぼくたち遺族の身体の中を流れています。ぼくたちは、その父の血が流れる身体と精神において、父を継承してゆきます。」

 

その挨拶の真意をこう説明もしている。

 

「父が亡くなった今、ぼくの身体の中を流れる血以外、生きた父のものは、もはや何も残されていない。

 

もし人がそれを奪おうとするのなら、このぼくを殺すしかない。しかし、もし人がぼくを殺すならば、その血も失われ亡びる。もはや誰にも生きた父のものを奪うことはできない。」

 

病気で倒れた淳一さんをシャンソン歌手の高英男さんが10何年間もひとり世話をし最後までみとられた。この間、家族は数回しか会えなかった。同性愛者の息子として生まれたその時代の悩みや、苦しみはどれほどのものだったのか。

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2020年3月28日 (土)

男性の性被害に理解をとは?

2020年3月19日の東京新聞夕刊に恐るべき見出しの記事が載っていた。

 

「中学時代に被害の20代「心殺された」」

「男性の性被害に理解を」「男は報われない」「笑われて話せず」

 

女性が男性に襲われて被害を受けたという話はよく新聞紙上に見受けられるが、男性が男性に被害を受けるという記事は、今まで載ったことはない。

 

「恐怖心や恥ずかしさ、さらに捜査や裁判への精神的な負担などから泣き寝入りすることが多いと言われる性被害。「男性も被害に遭っていると言い出しにくい」。新潟市で若者支援に取り組む支援者(38)から寄せられた。取材を進めると、男4人から性的暴行を受けた男性が思い口を開いてくれた。

 

「誰にも相談できず、ずっとひとりで抱えてきた」

 

6年前の冬、部活の先輩だった男4人から性的暴行を受けた20代男性は、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「信じてもらえるのか、軽蔑されるのではないかと打ち明けられなかった。そもそも誰に相談するべきかわからなかった」

 

一度だけ、自分が被害を受けたことは伏せて友人にそれとなく話したことがある。「男が襲われるわけないじゃん」。一笑にふされた。「そうだよな、あるわけないよな」と応じ、話すこともやめた。「こんなことに巻き込まれるのは自分だけなんだ。自分がおかしいんだ、と無理に自分を納得させた」と振り返る。

 

被害を受けた中学生当時、小柄だった男性は、男女問わず友人が多かった。ただ学校内の上下関係はきびしく「先輩に気軽に話しかけられる雰囲気はなかった」。

 

被害にあったのは年の瀬が迫った休日の夕方。友人と待ち合わせをしていた新潟市内の公園。ベンチに座って携帯用ゲーム機で遊んでいると、先輩のひとりが近づいてきた。挨拶をしようと立ち上がった瞬間、背後から腕で首を絞められ、頭にポリ袋をかぶせられた。

 

複数の男が馬乗りになり、顔、腹を殴られた。首にカッターナイフを当てられ「黙れ!」とどうかつされた。助け求めても、真冬の公園に人影はなかった。

 

服は破かれ、性行為を強要された。「唇を切ってにじんだ血の味は忘れられない」。解放されて起き上がると、友人がぐったりと横たわっていた。友人も被害に遭っていた。

 

翌日から「もう一回やらせろ」「いやなら金を持ってこい」と要求されるように。断ると「写真をばらまく」とおどされた。加害者が卒業するまで、3ヶ月続き、より過激になっていった。

 

男性は被害にあってから一度も女性と交際できていない。「間違いなく被害者だけど、俺にも落ち度があったのではないかと考えたこともあった。男としての自信がない」と言葉をつまらせ、こう続けた。

「体を傷つけられた。心は殺された」」

 

これが本当ならひどい話だ。『薔薇族』の誌上にも、運動部の部活で芸の先輩から迫られる話はよくあった。しかし、ゲイの人は、この話にあるような暴行したりするようなことはしない。

 

ゲイの先輩は後輩を愛していたからの行為だ。

 

「男性は被害に遭ってから一度も女性と交際できていない」とあるが、暴行されたからゲイになってしまうことはない。もともとゲイだったから、女性と交際できないのは当然のことだ。ゲイの人はやさしい人が多いから、こんな暴行をすることはありえない。

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2020年3月16日 (月)

神の心と、悪魔の心を持って!

これは『薔薇族』が売れに売れていた時代の話。1991年12月号No.227。
 
「編集室から」にぼくはこんなことを書いている。読者からの手紙の紹介だ。
 
「この欄を真剣に読んでくれている読者は『薔薇族』の優等生だから、関係ないかもしれないが、大事なことなのでじっくり読んでください。『薔薇族』ではハッテン場の情報を流し、一方ではそんなところに行くなと言うのは、大いなる矛盾ですが、この雑誌は神の心と、悪魔の心と両方持っていなければどうにもならないのです。
 
ぼくが学んだ駒沢大学のとなりの駒沢公園での話です。こんなショックな手紙をもらったので紹介します。
 
「ひとりの男を数人の男たちが取り囲み、腹めがけて思いっきり足蹴りしていた。あまりの苦痛に声も出ない被害者。
 
これは夜中の駒沢公園での出来事。うわさには聞いていた。集団暴行しているのは、一見、普通の学生。どこにでもいる高校生、大学生たちだ。むしろ、ホモ受けする学生タイプだろう。
 
連中の手口は夜のグランドの観客席で、二、三人でたむろしている。そしてひとりずつバラバラに歩き出す。そのひとりを、ひとりのホモがついていくと、暗いところでいきなり前を歩いていたやつが後ろを向き、ついてきた奴の腹めがけて、取り囲んでなぐる、けるの暴行。
 
あとはもう見ていられないほどひどい。この世の地獄の光景だ。そして一斉にその場から消え去るホモたち。これが彼らをのさばらせる原因なのだろう。
 
ひとりで来ている大人しそうな子をねらう連中のあくどさ。
 
後ろ髪を引かれながら自分も逃げた。泣きながら逃げた。泥棒でも人殺しでもないのになぜ逃げると思いながら…。
 
なぜ、大声で「助けて!」と、叫ばなかったのかと。犯罪者は彼らなのに。
 
連中よりも、もっと筋骨隆々のホモもたくさんいた。タンクトップを着て、真っ黒に日焼けした体はセックスのためだけのものなのか。
 
真っ先にその場から逃げていく姿は悲しかった。自分もこんな弱々しい体じゃなかったらって、くやしかったよ。筋肉をつけるのもいいけど、少しは被害者を見殺しにしたことを恥じてほしい。連中だって集団だから、誰も抵抗しないからやるのだ。
 
逃げて数十分後、どうしてもこのまま見過ごせなくて、集団暴行の現場に戻った。もしかしたら今度は自分が犠牲者になるのかもしれないとわかっていて、でも、がまんできなかった。
 
救急車を呼ばなかればいけないかもしれない。はやる気持ちで現場についた。さっきの惨状はうそのように静まり返っていた。
 
被害者はいなかった。帰りかけると、ものすごい光が目に飛び込んできた。警察官や私服の刑事たちだ。
 
「もっと早く言わなきゃ」と、大声で叫んでいた。誰かが110番したのかはわからない。病院にかけこめば当然、原因を聞かれ、警察に通報されるだろう。
 
警官らは現場をいとも簡単に調べた。まるでこいつらのために時間を使えるかという感じで。
 
あの学生の姿も、暴力魔たちの姿もなかった。いるのは数人できて、ゲラゲラ笑っているホモたちだった。そしてひとりでひている人は自分を入れて何人かだ次の犠牲者は、またこの中のひとりかもしれない。
 
これは作り話ではなく事実なのだ。」
 
このようなことは、他のハッテン場でもあった。今はもうこんなことはないだろう。

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2020年3月 9日 (月)

仲間が仲間を脅すとは嘆かわしい!

何人もの警察官の人たちと、年賀状だけのお付き合いだったけれど、この方がたみんな読者がプロの人に脅されたのを助けてくれた人たちだ。警察官の人たち、みんな親切に話を聞いて事件解決に協力してくれた。
 
今頃になって感謝しても仕方ないが、今年もおひとりだけ年賀状をくれた警察官がいた。この方ぼくが催すパーティにも出席してくれた方なので、3月20日の「文ちゃんの米寿を祝う会」のお知らせを送ったら、「是非お会いしたかったのですが、残念です。身体を大切にしてください。仕事の都合で欠席させていただきます。電話します。」と書いてあった。
 
この方とどんなことで知り合ったのかも忘れているし、お顔も覚えていないが、やさしい警察官だ。もう定年も近いのだろう。長い時間が経っているから。
 
532頁もある『薔薇族』1994年8月号No.259の背表紙には「文通欄・驚異空前・最多登場・900人」と大書されている。
 

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900人といえば、発行部数からもてもかなりの読者の人たちが文通欄に投稿していることになる。広告もたくさん載っているし、この年の一年前、女房の古里の新潟県弥彦村に「ロマンの泉美術館」をオープンさせたりして、調子に乗っていたのが、世の中、そう甘くはない。何が起こるかわからない。
 
ネットなるものが登場し、普及してきて10年後には廃刊に追い込まれてしまったのだから。
 
表紙は内藤ルネさんで、裏表紙にはルネさんのコレクションの中から選び出した「明治28年出版の石版による子供絵本の表紙」とあり「木馬に乗った軍服の少年が今にも飛び出してくるような躍動感が溢れていて、見ているだけで、力が湧いてきそう。列強の国々に追いつこうとする当時の日本の気迫が感じられる」と。

 

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明治28年というと、日清戦争の頃で、この時代から日本は戦争、戦争の時代が続いたので同性愛などは、まったく表に出なくなってしまった。
 
この号の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。白内障の手術のおかげでこんな小さな文字が、老眼鏡なしで読めるのだからありがたいことだ。
 
「7月号の『迫真ドキュメント・恐喝者!』読んでくれたでしょうか。
 
恐らく戦線はこのようなことはなかったと想像しますが、戦後の日本ではわれわれの仲間たちが、どれだけお金を恐喝されてとられ、その挙句に家庭が崩壊し、職場をやめざるをえなくなるなど、ひどい目にあってきたかは、考えるだけでもぞっとするものがあります。
 
それも相手の脅す側の人間も、同じ仲間だから嘆かわしいと言わざるを得ません。僕がこの雑誌を昭和46年に創刊してからも、かなりの数の人から相談を受けました。
 
カミングアウトして、誰もが自分の性癖を公表していれば、脅しの対象になどなりませんが、隠している以上、このようなことは当分の間、続くでしょう。
 
俵兵蔵さん(このドキュメントを書いた人)のような有名人で顔も知られているのにと、心配はしていたのですが、やはり脅されていたようです。
 
内心はビクビクだったでしょうが、よくも冷静に相手を見て判断し、追い返したものだと感心しました。やはり、こういうときは冷静に相手を見ることです。そうすれば相手だってこわいのだから、解決する道は開けるでしょう」
 
ネットの時代になって、仲間が仲間を脅すなどということはなくなったのだろうか?
 
脅しにあうようなことがあったら、今でも警察に助けを求めるべきだろう。

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2020年2月22日 (土)

今度は勇気を出して「祭」へ!

43年も前の『薔薇族』には「少年の部屋」というコーナーはまだなかったが、「チビバラつっぱる!」というページを作っていた。それは投稿してくる読者の手紙の中に、高校生からのものが増えて来たので高校生からの投稿を集めてのコーナーが「PART・Ⅲ」とあるから、Ⅰ・Ⅱも話題になったのだろう。「週間プレイボーイでもなんと大話題」と、見出しの頭につけている。どんな記事だったのかは記憶にない。「学校がつまらない」というタイトル。
 
「おれはもすうぐ16歳になる高校1年生だ。いま、おれは学校がつまらない。それには4つの理由がある。
 
1つめは中学の時のホモだちと別れたこと。おれとそのホモだちとのHとは部が同じだった。だから学校の帰りにH
の家によって、バッチリやっていたのだ。(バッチリって中学生でどんなことをしていたのか)
 
Hは今は静岡の学校に行っているので、最近は会っていないが、そのうちには会うつもりだ。
 
2つめ。おれの高校に対する期待の中にはカッコいい先輩とホモだちになるというものがあった。ところがカッコいい先輩がいないのだ。これはおれにとって高校生活を楽しくないものにさせた第一の原因だ。
 
3つめ。ちょっぴり期待していた同級生にもカッコいいのがいないこと。おれたちの学校は7クラスもあって、313人いて、そのうち男子は170人ぐらいいるが、どれもこれもダメなのだ。(おれにはナルシズムの気があるらしく、おれよりもカッコいいと、おれが認めたやつ以外は、ホモだちにしたくない)これが第2の原因だ。
 
4つめ。これはまずないだろうと思っていたのが、ぴったりと当たった。これとはカッコいい先生んのことである。でも少しは期待していたのに残念だ。でも来年になったら、また新しい先生もくるし、それを楽しみに待っていることにします。
 
まあ、高校生活はつまらないものだと思いたくないから、部に入ってそれで気をまぎらわすことにしている。ああ、カッコいい兄貴がほしいな。
 
最後にひとこと。夏休みになったら「伊藤文学の談話室・祭」に行くつもりです。じつは5月1日の日に、「祭」の店の前まで行ったのですが、入ることができませんでした。こんどは勇気を出して必ず行くつもりです。」
 
山梨県・ガッチャマン君からの投稿だ。
 
この時代の高校生、今時の高校生よりマセていたのかな。「祭」のビルの前まで来たものの、階段を2階まで上がれずに、帰ってしまった人は、高校生だけでなく大人でも扉を開けられず多かったようだ。
 
この高校生の投稿が載ったのは、No.56、1977年の9月号。高校ページもまだ18ページぐらい。「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「広告ページの「男町ガイド」毎号広告が増え続けています。名古屋のスナック「ミセン」のマスターからの手紙。
 
2月にオープンして私も夢中でお店を今まで続けて来ました。おかげさまでまあまあ、なんとか順調に伸びて来ています。
 
広告を見て初めてきてくださった方には、私も精一杯接待し、気持ちをリラックスしてもらうように努力しております。
 
広告の効果の偉大さをあらためて知り、深く感謝している次第です。
 
とにかく広告が効くようになったのは、6年間、『薔薇族』を出し続けて来たことへの読者の信頼感のあらわれだと思うのです。」
 
刷部数も増えてきたことも原因だろうが、ありがたいことだ。

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2020年2月15日 (土)

自分ひとり老いれば朽ちて!

昭和52年(1977年)10月号(今から43年も前)の「明日への発言」というコーナーに「マスコミよ、傷をつつくな!
=差別と偏見を考える」と題して、神奈川県の西村茂雄さんの投稿が載っている。あくまでも43年前の読者の投稿だということを頭に入れてから読んでほしい。
 
「ホモという性を汚い言葉ながらずばり表現すれば、相手が男でなければチンポが勃たないとしか言いようがない。それを正常なあなた方に理解してもらおうとも思わないし、理解してもらえるはずもない。
 
確かに女性を愛する男が正常であり、男しか愛せない男の私たちが、異常であることを私たち自身がいちばん痛く知っているのです。そしてホモというのはどこか狂ってしまっている精神病の一種としてもおかしくはないでしょう。しかし、他の精神病と違う点は、当の私たちがその狂っていることをはっきり知っていることです。俺は狂っていない。私は狂っていないと信じながら病院に送られる患者とは違うのです。自分が狂っていることを知っているからこそ苦しいのです。
 
自然の営みというものは植物であれ、動物であれ、生きているものすべて子孫を残すことに始まり、終わっています。それが性であり、その性が狂っていることを知りながら、社会で生活する私たちの苦しさをあなたたちは理解できないでしょう。
 
あなたたちは「ホモ野郎」「オンナオトコ」「中性」などという言葉と態度をまともに浴びせてきます。
 
精神病の患者に向かって、あなたたちは「テンカン野郎」「キチガイ」とまともに言いますか? ホモが精神病の一種と決めてそれに甘える気はありません。しかし、私たちは好きでホモに生まれついたわけではありません。中学から高校、友だちが異性の話に興じている中で、それを話を合わせながら、自分が異質であることを知った時、私たちは自分の性(さが)を悟るのです。(中略)
 
主婦むけのワイドショーや、三面記事的番組で事件や出来事の核心を忘れ、興味本位だけで構成した挙句、「おお気持ち悪い」とまでいう権利があなたたちにはあるのだろうか。
 
有名人の離婚に関して「夫はホモだった」という女がいる。それは夫婦間の問題であって、「夫は短小だった」「早漏で満足できなかった」という女がいるだろうか。
 
それを微に入り細に渡り報道するマスコミがいるだろうか。それがホモであるから記事になると言われるだろうが、わざわざ他人の足をすくい、ひとりの個人の人生を壊す権利があなたたちにあるのだろうか。(中略)
 
私たちはホモの解放運動など決して望みません。伊藤文学氏の言葉に「ホモも胸を張って明るい太陽の下に出よう」と言われていますが、それは決して出来ないことです。
 
私たちが自然の道理からはずれている以上、これからどのような時代が来ても太陽の下には飛び出せないでしょう。それを知っているからこそ私たちはある部分で、息をひそめて生きているのです。それを興味本位のさらしものとしてひきずりだし、傷をつつくようなことをしないでほしい。
 
私たち自身で自分たちが他人とは違っていることを知っているのだから、偏見からくる差別をも仕方なく受け入れながら心の中で闘い続けるでしょう。
 
偏見と差別など実際には悲しいながら慣れてしまっている面があり、本当に苦しくて辛いのは、友人たちが結婚をし、子供と奥さんに囲まれている姿を見るとき、ただ生まれてきて自分ひとり老いれば朽ちて、それだけの生命であることを感じることなのです。」
 
43年前の読者は、こんな思いの人が多かったのだ。

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2020年2月 1日 (土)

49年前に書いたぼくの記事!

『薔薇族』創刊2号目、11月号に「かくれていないで表に出よう!」と、2ページを使ってぼくが書いている。
 
「「かくれていないで表に出よう」と、プラカードをかかげて、ニューヨークのセントラルパークを5千人のホモたちがうずめつくしたとTBSのニュース解説の古谷綱武さんのレポートがテレビで報道されました。
 
アメリカではホモは法律によって公職につけないとされているそうです。ですからその偏見に抵抗して、人権運動、人間の権利の問題としてホモ・パワーが大きな力となって巻き起こっているのだろう。
 
日本では、はたしてどうなのか。キリスト教の国ではない日本ではホモを規制する何らかの法律もありません。ただ、それは法律がないというだけであって、自らを規制し、自らをしばりつけているものは、ホモ自身ではないかということです。
 
だれにも言わない。かくれている。だから偏見にあうことはない。親にも、先生にも、兄弟にも、友人にもかくしている。だからなにごともない。これがもし人に知れたらどうなるのだろう。
 
『薔薇族』を創刊して、仲間たちがこれを手に入れるのにどんなに苦労していることか。創刊を知らせるチラシをダイレクトしたら、もちろん封書で出したのだけど、もし見られたら大変だから送らないでくれという人が何人もいました。(創刊号を出す前に、単行本を出していたのでその読者に)
 
西宮市に住むYさんからこんな手紙が。
 
「週刊朝日を読んで、この雑誌の発刊を知ってあんとかして手に入れたいと方々の書店を探しましたが見つかりません。雑誌の名前をあげて店員に聞くこともできず、第二書房の所在地を訊こうとしましたが、それもできません。
 
そんなある日、ふと立ち寄った書店のレジの傍に、この雑誌を見つけたときの喜びは、全く何と表現したらいいのかわかりません。他の必要もない雑誌と一緒にさりげなく買ってきて、貪るように読みました。
 
「病気でないこと」「仲間がたくさんいること」を知り勇気を得ました。
 
私にはまだ自分がそうであると、世間に公表することはできません。自分の家族、友人たち、勤務先の人たちなど、私とつながりのある人たちはだれも知らないのです。知らないからこそ、みんなうまくいっているのです。私はかつて自分の本来のものをだれにも告白したことはありません。」
 
そうYさんは手紙に書いています。そしてあの小さな書店では次号を買わない。それは店の人が私を知るからだと言っています。だから10月のはじめに新幹線に乗って東京に出て雑誌を手に入れると書いています。
 
世間の人がこの手紙を読んだら笑うかもしれないけれど、これが日本の現在のホモたちの多くの姿なのです。
 
先日、第二書房まで77歳になる老人が杖をつきながら『薔薇族』を買いにきました。ぼくはその老人と立ち話をしました。6人もいる子供たちはみんな独立して世帯を持っているそうですが、一度も若いたくましい男に恋こがれながら抱き合うこともなく過ぎ去ってしまったという老人。それでも今でも若いたくましい男に恋こがれていると言う。
 
『薔薇族』を大事そうにかかえこんで、帰っていく後ろ姿を見送りながら、全国のホモたちに想いを馳せずにはいられません。
 
大多数のホモたちが、やはり老人と同じようになって年をとっていくのではないか、そんな悲しい気持ちにさせられてしまうのです。」
 
こんかことを書いたのは、昭和46年(1971年)今から49年前のことだ。一緒に『薔薇族』を立ち上げた、藤田竜さん、間宮浩さんもいない。ぼくだけが生きて仲間たちの姿を見届けたい。

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2020年1月27日 (月)

新兵ほど裸と縁の深いものはない!

「『まだ、まだ駄目だ。オチンチンの先が出てこんぞ。それともおまえ包茎か』後続の若者たちのなかには、そっとペニスにふれるものもある。ところが、たまたまあらわれた性病露見。さあ、大変だ。衛生兵がとんでくる。
 
『この野郎、尻を出せ』精神注入棒の乱打。はねかえってくる鈍い肉体の響き。いくすじもの赤い条痕が尻を飾る。それからみせしめにさらされる。
 
股を開いたまま腰を突出させ、苦しい弓なりの姿勢。時間には不自由しない。若者のあらあらしい呼吸。『そら、そら、ヨコネが見えんぞ。戦友にしっかり見せるんだ。陛下に捧げたからだを勝手に汚しやがって、それで申しわけが立つと思うか。
 
オチンチン様、私が悪うございました。お許しください。そういってみろ』
 
若者はささやくような小声。『バカ野郎』の一喝で途端に大声をはりあげる。『オチンチン様、私が悪うございました』『もう一度』リフレーン。リフレーン。若者の頬は涙の洗礼。
 
検便室で待ちかまえていた下士官。検便器の砲列。太い。試験官のナンバーは新兵になる若者の符号。尻を向ける。前かがみになり、背後に回した両手でふたつの尻たぶを左右に開く。展開される肛門。下士官はゆっくり検便器を挿入する。ごぼごぼと鳴るかすかなひびきが、下腹部をすりぬける空虚な虚脱感だけを残す。
 
尻をたたかれて、不動の姿勢に戻る。検査用紙を見て下士官は笑う。『おまえ、包茎か。こっちを向いてみろ』ふたたび玩具となったペニス。ある若者は間違えて四つん這いになった。
 
『尻の検査はすんだんだろ。となりを見ろ。ああいうようにけつの穴をしっかり見せるんだ』あわてて立ち上がった若者は、となりの若者に教えられて検便の姿勢に入る。紅が頬を流れ、無心の空が若者の眼前にたちこめる。
 
検便室に託された若者の尻は、もはや若者のものではない。一錢五厘(当時の葉書の値段)に買われた肉体の一部だ。
 
すべてが終わった。最後の諭告。素っ裸の若者は、おずおずと、それでも日本男子の誇りをこめて、査定官の面前に立つ。
 
『合格』もっとも、ほとんどが合格だ。痔の若者はふたたび調べられる。おなじ姿勢のくり返し。飛行作業には向かない。
 
以上は海兵団の入隊時の検査風景だ。若者は強制的にしゃばと断絶し、肉体の孤独を知らされる。

お もえば、兵隊、とくに新兵ほど裸と縁の深いものはない。入営生活では検査はつきものだ。定期検査がそれである。『身体検査5分前』のマイクが鳴ると、越中ふんどしをきらりとはずした若者たちが、デッキに並ぶのである。狭いデッキは検身のためのスペースをとると、二列横隊は前後の距離を失い、べったりかさなってしまう。こんなとき前の若者の尻の刺激でペニスを怒張させるものが出たりする。『おまえら、気分をだすなよ』班長はニヤニヤ笑いながら、新兵のペニスに注目する。
 
それが彼らを楽しませる貴重な風景になるのだ。
 
彼らはわざと精神注入棒で、へそのあたりを突っつきながら、まったく間合いのなくなった後列の裸に裸をおしつける。
 
後方の突起が前方の尻の割れ目をくすぐるのも、こんなときである。避けようのない感触が、後方の若者のあせりを伝える。それはときにははじらいに溶解した淡い快感をともなうことさえある。」
 
まだまだ話は続く。ぼくも5、6年早く生まれていたら、こんなことをさせられていたかも。あとはネットで見られるようになるから、おたのしみに!

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2020年1月25日 (土)

M検はシャバとお別れの儀式だ!

笹岡作治というペンネーム、これは劇画作家として有名になった山川純一と同じようにぼくが名付けたものだ。
 
『薔薇族』を創刊して2、3年経つ頃から地方に住み発表の場がなかった有名な方から続々と原稿が送られてくるようになってきた。
 
笹岡作治さん、九州に住む方で軍隊経験があり、戦時中の日本の軍隊の野蛮な風習を描いて投稿してくれた。
 
「ああ、M検物語」とタイトルをつけたがこの作品を昭和48年(1973年)7月号No.12に載せたら、次々と力作を送ってくれた。
 
戦時中、入学した世田谷中学にも地方から集められた兵隊たちがいた。
 
2年生から上の学生たちは軍需工場で働かせられていない。
 
ある日、廊下を歩いていたら、窓越しに全裸になって並ばされ、軍医や衛生兵たちにオチンチンの検査をさせられているところを見てしまい、ショックを受けたことがあった。
 
「戦中派といわれる年代にとって、ひそかな含羞を誘う思い出といえば、いわゆるM検にまつわる体験である。それは遠い屈辱の軌跡を滑稽な笑いの中に埋葬するにふさわしい、ささやかな追憶でもある。
 
紅にめくられた亀頭部をつややかに濡らした緊張。『アレ、この野郎気分を出してるぞ』若者の意識から断絶したところで、みるみるうちにふくらみ、立ち上がる肉茎。それは彼のあわてふためきをよそに検査官をたのしませる。
 
ざらざらした掌が開いた蕾をなぜまわす。それから薄皮をゆっくりはがし、ひきつる痛みもなんのそのだ。
 
すっかり立派になった一物に彼は満足し、若者をひやかすように凝視する。腰を落とし、股を大きく開いた肉体のポーズは、羞らいと緊張でかすかにふるえている。
 
精神注入棒を握った衛生兵が床をたたきながらわめき散らす。『会陰、肛門』の張り紙が、若者を羞恥の殿堂に追い込む入口だ。
 
『ふんどしをさっさとはずさんか。一箇所に集まるんじゃねえ。空いてるところにどんどん走っていけ。前のものがやることをよく見ておけ。いいか、最初はオチンチンだ。次は尻。わかったな、まごまごするな。検査官がキンタマを握ったら、おなかをしっかりふくらます。まちがえるなよ』
 
続々とつめかけた若者は、たちどころに素っ裸にされる。フンドシの洪水。四つん這いの列。検査官は尻たぶを両手でこじあける。と、緊張でひくひく痙攣するトンネルの入り口をじっとながめる。そして指の運動がはじまるのだ。
 
肛門に挿入された指は一回転し、そのままそけい部を走りながら、睾丸の付け根に達する。
 
『こら、けつをもっともちあげて、足をいっぱいに開くんだ。尻にでんと力をかけてみろ』
 
恐れの沈黙に閉ざされた順番を待つ若者。不動の姿勢は、すべすべした尻のふくらみをとらえている。それは成熟したばかりの青年のかおりを発散する。
 
尻をたたかれた若者は、立ち上がって検査室へ。走りさる若者の睾丸がおおっぴらにゆらゆら揺れている。
 
『次!』一歩前進。姓名申告。『声が小さい』そしてやりなおし。ありったけの声をふりしぼる。『何だ、何だ、お前のはしなびてるじゃないか。日本男子なら、しっかり立てろ、ほら、ほれ』片手で睾丸を軽くゆすりながら薄皮をさする。若者は真っ赤になる。」
 
女性には理解できない日本の軍隊の人権を無視した光景だ。
 
長い文章がまだまだ続く。

何回か紹介したことがあったが、今となっては面白い話だ。(つづく)

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2020年1月18日 (土)

ぼくにも帰りを待ってくれる人が!

ネットなんてものがなかった時代、昭和47年(1972年)の『薔薇族』3号の「薔薇通信」欄(すでに195名が載っている)を読むと、東京に住んでいる読者でも、寂しい思いが伝わってくる。
 
●東京都・中野区・S・A
 
大都会の空の下、ひとりで生きている23歳のぼくです。
 
仕事から帰ってもアパートの小部屋は真っ暗。ぼくにも帰りを待ってくれる人がいたらどんなに素晴らしいかと思います。身長172センチ、体重61キロのぼくですが、兄さん、あるいは父さんと呼べるような人を望みます。できれば少し太った人がいいのですが。
 
 
●東京都・葛飾区・K・K
 
街角を親子連れが楽しそうに語り合いながら歩いているのを見ると、とてもうらやましく感じます。
 
両親の顔すら知らない私に、ひとりぐらい息子がほしいと願うのは、私のわがままでしょうか。お互いに誠意を持って交際してくれる方。一緒に旅行などもしたいと思います。まじめに交際してくれる20代の人の連絡を待っています。
 
 
この人たちいい人とめぐりあえたのだろうか。
 
ぼくはひとりで生活したことがないから、真っ暗な部屋に帰ってくる気持ちって、寂しいだろうな。
 
どんな事情かはわからないけれど、両親の顔すら知らないという人。つらいな。幸せになってほしい。文通欄って大事な役割を果たしていたと思う。あまりにも切実な願いだから。
 
 
●福岡県・H
 
アメリカのロスの6番街のバスターミナルの前で「バカ、バカ、日本みたいなところにどうして帰るんだ。オレ、これからどうすればいいんだ。本当に死んじゃうぞ」と、わめきながら、黒い肌をかきむしり、大粒の涙を流した、私のかわいい助手、トムソン君のことを私はいまだに思い続けています。
 
21歳のすばらしい黒人青年でした。東洋人である私の黒人に対する好奇心ですら、ためらいなく受け入れてくれて、彼のベッドの半分を与えてくれた夜から、私は彼の赤ちゃんになったのです。
 
どなたか私をトムソン君がしてくれたようにこなごなにしてほしいのです。私は40歳、160cm、68kg。肌がきれいだと、トムソン君が言ってくれました。
 
 
どんな仕事をされていた方なのか。黒人青年を助手にしていたというこの人、願いどおりになったのだろうか。
 

 
●滋賀県・大津市・I
 
君の寂しそうな澄み切った瞳が、ぼくの胸を騒がせる。君の赤いくちびると、真夏の香りでいっぱいの浅黒い肌が、ぼくの心をはやらせる。清い果実のような君、ひとりでは世間を渡っていけないような君。そんな君がぼくの愛の対象なのだ。
 
初めて大津に住んで、右も左も分からないと満たされない思いがつのっていくだけ。東京に住んでいた頃は、多少しかるべき場所を知っていたので、孤独に悩むことはほとんどなかった。だが今は皇子山で運動して汗を流し、帰ってきてベッドに横になって眠るだけ。
 
むなしいというか、健全というか、性的不満が高まっていくだけなのだ。
 
夜が白むまで快楽の時を過ごしたい。あらゆるテクニックを使って何度も絶頂感をあじわいたい。君の赤いくちびるが浅黒い肌が、そしてたくましく大きい君自身が、ぼくのものと一体になって、限りない愛の世界へと昇華していく。これこそがぼくの求めている愛の姿なのだ。
 
 
地方に住んでいる人は、すぐ会える理想の男と出会うことは難しかったのでは。

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