2018年4月23日 (月)

「暗黒大陸への熱い視線」は過去のこと!

そろそろ先が見えてきているので、身辺の整理をし始めている。
 
書棚の中の本も、まともに読み終わった本はないが、いらないなと思ったら古本屋に運んでいる。
 
新書版で薄い本なので目にとまらなかったのか、自分で購入した覚えが全くない『邱永漢の「予見力」』という、2009年11月7日刊行の集英社新書で、玉村豊男さんという方の著書が目に留まった。
 
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邱さんが亡くなられた年は、2012年だ。
 
この本には、2009年、邱さん85歳の年譜までが載っている。
 
邱さんに出会ったのは、新宿の厚生年金会館(今はない)の手前にQフラットビル(7階建)の2階に美輪明宏さんが、クラブ「巴里」を開業し、そのあと、ぼくが「伊藤文学の談話室「祭」」をオープンさせたときのことだ。
 
1971年に『薔薇族』を創刊してから4、5年経った頃だと思うが、その時代はオイルショックの後の、日本が不景気な時代で、ビルの2階は通路の両側ともお店に貸すべく用意されていたが、借り手が全くなかった。
 
渋谷に邱さんがオーナーのシャンソン喫茶があって、そこでぼくの女房と一緒にお会いし、家賃などの交渉をしたのが最初だった。
 
玉村さんの本の帯に、にこやかな邱さんの写真と、「「株の神様」邱永漢が予見する中国ビジネスの近未来像・過去にこだわるより日本人も太っ腹になって新しいアジアの扉を開け」とあるが、その予見が当たり、中国や、アジアに日本の企業は進出している。
 
カフエ「織部」で読んだ日経新聞にはユニクロが国内の売り上げより、海外での売上が多くなっていると。
 
 
 
書きたいことはこれからだ。親しくなった邱さんには『薔薇族』を毎号送っていた。
 
創刊150号の記念号には、お金儲けの神様でもあり、直木賞作家でもある邱さんがお祝いの言葉を寄せている。
 
それは『薔薇族』とぼくへの予見で、見事に当たっていた。
 
「暗黒大陸への熱い視線」と題して。
 
 
 
「まだ社会的偏見に包まれているのは、同性愛と近親相関くらいなものですから、小説のテーマとして残された暗黒大陸といってよいかもしれません。私の仲間の小説家の中にもホモセックスを取り上げたいと、常々言っている人がいますが、いまだに実現していません。
 
ジャン・ジュネの『泥棒日記』から、デュヴェールの『薔薇日記』に至るまで、私もひととおりは目を通していますが、やたら衒学的だったり、やたら即物的だったりして、まだこれこそ傑作中の傑作だという作品には出会っていません。というのもホモセックスを、ごく普通の人間の恋愛感情として扱う人が少なく、ひどく誇張してみたり、あるいは自分は局外者だという立場を強調した作品に終始しているからです。
 
もう少し時間が経ったら、人間は男と女という性別だけで人間を見分けることをやめて、人間の心理の中にひそむMとWだけでなくて、M、Mとか、W、Wといった因子の複合体としての人間心理を分析するようになるだろうと、私は予想しています。
 
その時がきたら、ホモセックスも今よりもう少しは正当な位置づけが行われるようになるでしょう。そこに至るまでは、まだまだ多くの人々の心の中で、さまざまの葛藤が繰り返されるはずであり、伊藤文学さんに活躍してもらわなければならない修羅場もまだたくさん残っていると思います。」
 
 
 
邱さん、本当のことを言えずに書いた苦しい文章だ。
 
邱さん、もう少し生きていてほしかった。
 
日本のゲイたちも、ゲイの人たちを見る目も少しずつ変わってきましたよ。
ぼくも長生きして頑張ります。NHKが取り上げるようになってきたのだから。
 
 
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2018年4月14日 (土)

藤田竜君のしんみり話から、ルネさんの偉大さが!

『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君が、こんなしんみりとした話を書いているとは知らなかった。
 
今から31年前、1987年(昭和62年8月号・№175号)一番後ろのほうのページに、藤田竜君が書いている。
 
 
 
「僕の母が5月の末、87歳で死にました。今回は私事を交えて書かせてもらいます。
 
うちは男ばかりの3人兄弟で、父は戦後早く死に、母は力仕事や住み込みの下働きをして、子供を育てました。
 
子供たちが社会人となり、少しは生活が楽になった頃、外のアパートにいた長兄が嫁と家に帰ってき、次兄はよそへ家庭を持ちました。
 
僕は男(ルネさんのこと)と暮らしていたのですが、母は長兄夫婦のいるわが家を出て、僕のところへ来て、特別養護老人ホームに入るまでの約20年をずっと一緒に暮らしました。
 
いくつになっても結婚しない末っ子に、やはり最も自分の子供という感情があったのでしょうし、嫁たちと居ればいろいろ無理をしなくてはいけず、僕のところが一番気楽だったのだと思います。
 
扶養家族はいないのだから金回りだって、末っ子がいちばんよく、経済的な気兼ねも不要です。
 
 
 
僕がごく若いうちは結婚の話もわずかにしましたが、それだけであとは何も言いませんでした。
 
男とひとつ家にいて、時には女言葉を使う僕を、いくら無学の田舎者でも、どういう人間かわかって当然です。
 
ホモはノンケより母親に優しいし、気も合います。結婚しないで一緒に暮らすことは、あるいは母親への最大の親孝行ではないかと、僕は昔から考えています。(中略)
 
 
 
30前後の寮母さんたちに、おきらくなホモの僕は人気があったし、そんな明るい息子がしょっちゅう見舞いに来るので、母は在園の老人たちに羨ましがられていました。
 
入院して死ぬ直前までの1ヶ月間が、全身痛んでかわいそうでしたが、その他はまあ悪くない一生だったと思います。
 
僕と暮らしている男(ルネさん)が、実の息子より何かと良くしてくれたことが最大の要因です。
 
彼と母はよく何かにつけて大笑いしていました。3人で旅行もずいぶんしました。
 
 
 
20余年、そういう不思議なかたちでの一家の暮らしがあって、それは父が生きていた若い頃と同じくらいに充実していたでしょう。
 
僕の一緒に暮らしている相手が女だったら、どんなに出来た人だったとしても、あそこまでのびのび生活できたかどうかわかりません。
 
親孝行のために女性と結婚する人はよくいます。
 
でもこんなふうに結婚しないことが親孝行になることもあるのです。
 
どちらも勇気のいることです。
 
 
 
最近は男も女も結婚しない人が増えてきていますから、少し前みたいに、まわりからワイワイ言われることは少しは減ってくるかもしれません。
 
結婚しないでもいい職業なら、なんとか独身でいられるよう努力をしてください。
 
そして、どうぞ母親にやさしくしてあげてください。(中略)
 
母が病院で生きている間は、不憫でたまりませんでしたが、死んだらもう痛い思いをしなくても済むものだと、僕は救われた思いです。」
 
 
 
おかあさんと一緒で、亡くなるまで看病したという人を何人も知っています。
 
藤田君の場合は、ルネさんという人がいて、そこにお母さんを連れてきたわけだから、ルネさんという人は、どんなにか我慢強い人だったのでは。
 
お母さんの部屋が取れる部屋数の多いマンションだからできたことでは。
 
それにしても31年前とは。
 
時の過ぎ行くことの早いこと。
 
★コメント書いてね
 
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イラスト・藤田竜

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2018年4月 9日 (月)

書棚に眠っていた竜超君の本!

彩流社から出版したぼくの著書『裸の女房』と『やらないか!』手元に1冊もなくなっていた。ついつい出会った人にあげてしまうからだ。
 
彩流社の河野和憲さんに、5冊ずつ送ってもらおうと、電話番号を探したが、人名簿に載っていない。
 
書棚の中を見たら、竜超君の著書『消える新宿二丁目』が目に入った。
 
 
 
9年前に出版されたものだ。
 
カバーの装画は山川純一君の画集から使っている。
 
勝手に使ってけしからんと思うものの9年前のことだから仕方がないか。
 
276ページもの上製本で、定価2500円+税、本嫌いのぼくは目を通した記憶はない。
 
9年間も書棚で眠っていて、彩流社の電話番号を知るために、眠りから覚めたというわけだ。
 
 
 
パラパラとページをめくってみると、よくまあ調べて書いている。
 
2008年(今から10年も前)11月25日、下北沢にてとあり、「ゲイマガジン創始者が振り返る、その隆盛と凋落」と題して、竜超との対談が18ページを使って載っている。
 
そんなことがあったのかと思うだけで、すっかり忘れてしまっている。
 
昨日、誰と会い、何を食べたのか忘れているぐらいだから、10年前のことなど記憶にない。
 
しかし、その対談をしたときの本というものは残ってしまうものだから、嘘、偽りのない本当のことをしゃべっている。
 
単行本の中に残してくれたのはありがたいことだ。
 
 
 
略歴が書かれている上に、ぼくの写真が載っているが、10年前ってまだまだ若い。
 
『薔薇族』が200号になったときに、新宿のヒルトンホテルで盛大な出版記念パーティーを開いた。その頃がピークだったのかも。
 
ピーコさんも来てくれたし、京王ホテルで飛び降り自殺をした沖雅也さん。今のぼくは時代劇を多く見ているが、若い時の沖雅也さんは魅力的な俳優さんだった。
 
日本テレビの連続ドラマ『同窓会』は、初めて男同士のゲイの世界をお茶の間に飛び込ませた画期的なドラマで、「ラブオイル」を画面にアップさせてくれたので、「ラブオイル」の売り上げもアップした。
 
『薔薇族』のノンケの編集者M君が、力をつけてきて、その反面、藤田竜くんが体を悪くして、力が入らなくなってしまい、全体を統一するカラーというものが、だんだん薄れてきてしまった。
 
ビデオの会社とタイアップして、モデルを撮影している間に写真も撮り、それを『薔薇族』に提供してもらう。
 
これはいいアイデアだったけど、ちゃんとしたカメラマンが撮った写真とは、迫力がないのは仕方がないことだった。
 
木村健二君なんて、プロレスの写真を撮っていたカメラマンだけど、自衛隊時代に写真を学び、結婚式場での写真を撮っていた人なので、今見てもいい写真だった。
 
亡くなられてしまったけれど、波賀九郎さんの存在は忘れることはできない。
 
サヂスティックな写真を撮る人なので、いきなりオチンチンをぐっと握ったり、口に含んだ水を顔にかけて、モデルがびっくりしてる写真は迫力があった。
 
アメリカ人のボブさんと知り合ったおかげで日本では手に入らなかった、アメリカでのゲイ雑誌や、ビデオをトランクいっぱいに詰め込んで持ってきてくれた。
 
ジェフ・ストライカーのオチンチンは巨大で、コカコーラの瓶をぶら下げているようなモデルだった。その写真を袋とじにして売ったのだから反響はすごかった。
 
 
 
忘れるところだった。竜超君ってすごい才人だ。ゆっくり読んでみようと思う。
 
 
★コメント書いてくれてありがとう。コメントよろしく。
 
 
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右側・藤田竜君、左側・おすぎさん

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2018年3月24日 (土)

今の時代、ゲイの人の結婚は?

ぼくが経営していた「伊藤文学の談話室・祭」には、ノートが10冊ばかり置いてあり、このノートには人に言えない悩みごとが書かれている。
 
その中の1冊を読んでいたら、かなり深刻なことが書かれていた。
 
 
 
「あと10日もすれば結婚する俺だ。今、婚約者の女性とデートをして、その帰りにこの「祭」に直行してきた。
 
女とデートをしても、まったくといっても良いくらいに楽しさがない。それどころかすっかり白けきって、やるせなくなって、それの埋めあわせをしに、急いでここへきたのだ。
 
こんな晴れた日の昼下がり、好みの若い男と手をつないで歩いてたほうがよっぽど楽しいよ。
 
新婚旅行も一応はするけど、本当はちっともうれしくない。
 
好きな男と旅行に行くことができれば、どんなにか楽しいだろうにと思うよ。つくづく。
 
 
 
ところであのほうは大丈夫かということになるが、どうにかやれることはやれそうだ。
 
実をいうと以前一度だけ、女とやったことがある。あまり楽しさはなかったけれど、なんとかやることができた。
 
男の体だけが好きで、女の裸を見ても、ぜんぜん感じない俺だけど、暗くして男の裸を抱いているつもりでやったから。
 
結婚したら、いつも男の裸ばかり空想しながら、女を抱かねばならない。つらいな。もう結婚をやめたい気分が支配的だけど、立場上、そうもいかない。
 
 
 
町を歩いているときも、電車に乗っているときも、若い男の顔と尻ばかりおっかけている。
 
そしていい男がみつかると、心のなかでその男を裸にして思いっきり抱きしめている。
 
昨日も結婚前だというのに、押し入れの裏から『薔薇族』をひっぱり出してきて、男性ヌード写真を見ながら、2回も出してしまった。
 
6月号の『薔薇族』にものすごくかわいい顔をした男のヌードがのっているね。石仏の前でとった写真の男。俺はああいうのがたまらなく好きなのだ。
 
 
 
結婚式が終わったら、もう蒸発してしまおうかな。
 
マッサージ師になって、いい男を探しに全国を旅しながら歩く人生なんて、なかなかロマンチックじゃないか」
 
 
 
どこの誰が書いたのか分からないけれど、なんにも知らずに結婚する女性はあまりにもかわいそうではないか。
 
この時代、女性と結婚しないわけにいかなかった。どっちが悪いと言いようなかったのだから……。
 
この間も「祭」にきた一流商社に勤める人の結婚に対する悩みを聞いたし、ある銀行に勤める青年の訴えも聞いた。どうしても立場上、結婚しなければ自分の地位を守ることができなくなるというのだ。
 
 
 
このノートに綴った青年の心情は、『薔薇族』全読者の結婚を前にした心情だと思う。
 
女性とセックスができるという自信がないままに結婚してしまうと、新婚旅行に行ってもなにもできず、帰ってきてもなにもできない。
 
そうなると夜が来るのが恐ろしくて、新婚早々だというのに、会社が終わってから、毎晩パチンコをして時間をつぶし、夜おそくなって、奥さんが寝てしまったころを見はからって帰宅する。
 
そんな青年の悩みを聞いたことがある。それが1ヶ月や2ヶ月ならいざしらず、一生そんな状態が続くわけがない。
 
 
 
お見合いであれば、よく相手をえらぶべきで、さばさばした気性、男っぽく大ざっぱで細かいことに気づかない女性がいい。
 
何人も男と寝た経験のある女性だったら、すぐに気づかれてしまう。
 
難しいな。
 
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2018年3月19日 (月)

セックスとは性器だけでするものではない!

『薔薇族』の読者の投稿頁「人生薔薇模様」は、みんな文章力があり、それにロマンティックな人も多く、いろんな人生を見せてくれた。
 
編集部では投稿の文章をなおしたりはしない。そのまま載せるようにしていた。
 
『薔薇族』って読者と一緒に作っているといっていいのでは……。
 
これから紹介する投稿は、あまりにも悲劇的な話だが、悲しい出来事に負けずに生きようとする逞しさを感じる話だ。
 
 
 
「ぼくは42年(昭和)当時、小学6年生のとき、父の酒を買いに出かけて交通事故にあい、背骨を強度に損傷、以来下半身マヒで、もう12年も車椅子使用の生活を送っています。
 
ぼくがホモの傾向に気づいたのは、16歳のころでした。交通事故にあい、完全に寝たきりの状態が2年3ヶ月も続き、当時12歳の幼いぼくにとって、毎日天井を見つめる生活はあまりにも辛く、生きる望みさえ失って、童心ながらにも真剣に自殺を考えたものでした。
 
肉体の傷は未だに治ることはなく、歩くことはできません。
 
心の傷は歳月がたつにつれてやわらぎ、冷静さを取り戻してきました。
 
身障者となった自分の人生を前向きに描き出し、自分の胸に言い聞かせるように、「肉体は不自由であっても、精神は健全なものと同等でなければ」そんなことを肝に銘じて生活をおくるようになりました。(中略)
 
 
 
「悩みでもあるのか?」と医師に言われ、事のすべてを打ち明けました。その医師は36歳、体格のいい優しい人で、常日ごろからぼくは憧れていました。
 
医師S先生は、休日の誰もいない自分の医務室で話をしてくれました。
 
その部屋は12畳ほどで、当直用のベッド1台と、わけの分からぬ医学書が所狭しと本棚に並んでいました。
 
その中の1冊を取り出し、ぼくに見せながら「君の場合は交通事故にあったときに、背骨の中枢神経を損傷したので、Pが勃起不全となり、セックスは不能となった。これは下半身麻痺の難問で、現代の医学ではどうにもならないんだ。でもセックスとは性器だけでするものではなく、体全体を使ってする行為なんだよ」
 
そんな言葉を言われました。
 
そのあとでS先生は外国の医学書を出して、勃起したPの写真が載っているページを開き、見せてくれました。(中略)
 
ぼくの心のなかに好奇心からとんでもないことが浮かんできました。
 
S先生に対して「先生のもこんなに大きいのですか?」と聞くと、苦笑しながら「そんなにないよ」と言って顔を赤らめていました。
 
 
 
ぼくはS先生とふたりきりをいいことに、勇気を出して、先生のふくらみに手をのばし「写真じゃなくて実物を見せて下さい」と言いながらズボンの上からつまみだしました。
 
すると先生は「誰かが来たらどうするんだ。ぼくはまずくなるよ」と言いながらドアの方に行って、ドアをロックしたのです。
 
ぼくの手はいつしか先生のズボンのチャックを下げ、ブリーフに手をさし入れ、Pをつまみ出し握っていました。
 
ズボンを脱ぎ、ブリーフを脱ぎ、下半身裸になり、当直用のベッドに横たわった。
 
ぼくもベッドにのって先生のかたくなったPを握りこすっていました。
 
 
 
「おい尺八できるか?」と言われ迷いましたが、ぼくは先生のPを口に含みました。
 
S先生はその後、アメリカの病院に移り、もう2度と逢うことはできません。ぼくにまったく性欲がないのに、男の人に尺八をするよろこびをおぼえてしまい、どうにも辛い毎日です。
 
文通欄にも出しましたが、ぼくが身障者であるためか、返事はもらえません。」
 
 
 
仙台の方にも身障者で呼びかけている人がいたけど無理だった。
 
今頃どうしていることか。
 
※コメントをぜひ書いて下さい
 
 
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2018年3月17日 (土)

夜がくるのが、恐ろしい!

『薔薇族』№85・1980年2月号、木村べん君の表紙絵だ。「人生薔薇模様」読者の投稿欄につらい話が載っていた。
 
今から38年も前の時代、異性との結婚の問題が読者にとって、大きな問題だった。4頁も使って投稿をよせている。とっても全文は載せられないが、一番言いたいと思われるところを紹介しよう。この人、少年愛の人のようだ。
 
 
 
「大学を出て教師になった。何を隠そう、私は小学校の教師。そして私の同性愛は少年愛というジャンル。学校生活は楽しかった。
 
少年愛の若い青年教師が少年たちに囲まれて毎日を過ごす。それは本当にバラ色の天国であった。この世界を知っていたらば、次々と少年たちを犯したろう。
 
けれど私はなにも知らなかったから、積極的にセックスなんて求めなかった。相撲をとったり、さわっりこしたり、中学生同士が遊ぶのと変わりはなかったのである。それでよかったのだ。
 
 
 
ある年齢がきて親にすすめられて、なんとなく結婚してしまった。それほど悩みはしなかった。本当に無知だったのだ。
 
そして初夜。結婚したからには、男と女がするようなことをしなければならないのだろうと思い、女に抱きついていた。女も初めてであった。けれど私のものは全然エレクトしなかった。それどころか逆に縮こまってしまって……。
 
そのうえ女の鼻息が首のほうにかかるのが気持ち悪く、暗い部屋で何か蛇にからまれているような、熊に抱きつかれているような、たまらない嫌悪感を抱いた。
 
身震いしそうで、じんましんでも出そうな嫌な感じにおそわれたのである。あの男の子たちと抱き合ってじゃれあう時の快感、いつの間にかみんな性器をかたくしてさわりっこしたり、大きいとか小さいとか遊び回った快感とは似ても似つかないいやな感じ。
 
 
 
日が経った。夜が来るのが恐かった。夜が来るのがいやでたまらなかった。一緒に寝るのは寝た。そうすることが義務のように思えたから。
 
妻も初心だったけれど、毎晩私に挑んでくるようになった。妻のほうからキスしてきたり、抱きついたり。もう私は気持ち悪くて逃げ出したかった。
 
 
 
とうとう1年間、セックスできなかった。女にとってこんな不幸はあるだろうか。離婚話が持ち上がっても不思議ではない。けれど私の妻は離婚などとは言わなかった。
 
せめてもの幸せであったのか、あっさりと別れていたほうがいいのか。学校の宿直が待ち遠しかった。一人で寝られる。好きな男の子と抱き合って寝られる。
 
 
 
ある夜、必死の思いで、一所懸命で一番好きな少年のことを思いながら、妻と結合できたのである。私は泣いた。うれしかったのか、安堵したのか、でもきたないと思った。何も快感はなかった。痛かった。ほんと、やっとできたという感じだった。もう2度としたくないと思った。
 
けれど次の晩は妻はいそいそと、ちり紙を用意したり、いかにも満ち足りた女みたいに、化粧をして赤い寝間着に着替えたりしているのを見ると、はき気がするくらい、いやでいやでたまらなかった。
 
2晩めはできなかった。妻は泣いた。よくまあ25年も続いたものだと思う。でも子どもが2人できたのです。
 
 
 
今は妻に対する感情は愛情ではなく、感謝の気持ちと、家庭円満のための奉仕作業のつもりで、妻とのセックスをなんとか一所懸命努力して勤めている」
 
 
 
四国の人で少年愛の教師、脳梗塞で倒れ、奥さんの介護で生きている。
 
ぼくにしても両親が本当に愛し合って生まれたとは思えない。この教師の子どもたちも、そんなこと考えもしないだろう。それでいいのかも。
 
※コメントをぜひ、書いて下さい
 
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2018年2月10日 (土)

バイセクシュアルってなあに!

『LGBTってなんだろう=からだの性・こころの性・好きになる性』(合同出版株式会社刊)
 
ぼくが購入した本は、2016年4月5日・第4刷発行とある。いまは何度も増刷されているだろう。
 
「LGBT」という言葉は、だれが考えてつけたのかは知らないが、最近とくに目につく言葉だ。
 
企業でも知らないではすまされないから、講師を招いて講習会を開いているようだが、この言葉を的確に話せる人はいないだろう。
 
最近、話題になった岩波書店刊の広辞苑(第7版)が解説文に誤りがあったと、訂正した解説文とともにお詫びをサイト上で謝罪している。
 
広辞苑が間違うぐらいだから、LGBTを短い言葉で解説するのは難しい。
 
LGBTを巡っては、当初、「多数派とは異なる性的指向をもつ人々としていた。しかしT(トランスジェンダー)は、体の性別を自認する人を差す。
 
自らの性別をどう認識するかという「性自認」についての説明がなく、誤りを指摘する声が上がっていた」(2018・1・26毎日新聞朝刊)
 
この合同出版株式会社の著者は、みんな若い人ばかりで、ネットや携帯電話などなかった時代、ゲイの人や、レズビアンの人たちがどんな生活をしていたか、知る由もない。
 
参考図書の中に、1971年に日本最初の男性同性愛者を対象にした『薔薇族』のことなど無視されている。ましてやぼくの著書のことも。
 
 
 
「バイセクシュアル」について書いてみよう。
 
男も女も同じように愛することができる人。そんな人っているのだろうか?
 
『薔薇族』が創刊されたのは、今から49年前の1971年のことだ。
 
その頃は「ゲイ」と言わず「ホモ」「オカマ」と呼ばれていた時代だ。
 
書店で書いにくいので、下北沢の自宅まで買いに来る人が多かった。自分から「ぼくはゲイです」という人はいない。
 
「ぼくはバイセクシュアルです」という若者が多かった。
 
かっこよく聞こえるし、ゲイの人の逃げ場になる言葉だった。
 
50年も前の日本の社会では、女性は25歳を過ぎて結婚しないでいると、「売れ残り」と悪口を言われ、男性は30歳を過ぎて結婚しないでいると、「あの人、少しおかしい、ホモでは」と言われてしまう。
 
両親は早く結婚して、孫の顔を見たい、おせっかいな人も多かったから、お見合い用の写真が持ち込まれてくる。
 
会社の上司も結婚話を持ち込んでくる。
 
結婚していないと、出世の妨げにもなった。
 
女性もその時代は、勤め先が限られていたから、男性と結婚し専業主婦にならざるを得なかった。
 
昔の男性はよくもがまんして好きでもない女性と、セックスしたものだ。
 
結婚式の当日新郎がいなくなってしまったという話を聞いたことがある。
 
どうしたら女性とセックスができるかの方法を雑誌にも書き、電話でもくわしく教えたものだ。
 
女性がそばに寄ってくるだけでも、鳥肌だってしまうような人は、どう考えても結婚生活は無理だ。
 
今の世の中、結婚しない男女が増えているから、いい時代になったものだ。
 
テレビによく出てくる女性が、50代になって老人と結婚したという話。
 
籍を入れなくても一緒に暮らすだけでも心強いのでは。
 
ぼくも病気になって、家族のありがたみを実感したぐらいだから……。
 

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2018年1月 8日 (月)

オカマなんていう言葉は、もう使われない!

今、テレビで「オカマ」なんて言う人はいないと思うけど、36年前(1982年)はオカマという言葉は、よく使われていた。
 
1982年の『薔薇族』8月号の「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「マスコミの世界からオカマという言葉を追放しよう!」というタイトルで書いている。
 
 
 
「5月21日(金)朝日新聞の夕刊文化欄のつかこうへい氏の「狂気横行の時代」を読んだでしょうか。
 
「臭いものには蓋をしてこその日本文化は、その住宅事情のせいで「あかずの間」「座敷牢」といった餓鬼を封じ込める空間を作る余裕を失い、百鬼夜行の時代に突入しつつある。
 
その顕著な例が「ワルガマ」の横行である。
 
本来ひかれものとしての身の不幸を嘆き、人知れず生き、そして滅びてゆくべきカマどもが、まるで市民権を得たとばかりに陽の高いうちからテレビや街角にしゃしゃり出てきては能書きをタレるようになり、困ったものである。
 
先日など、偶然に入った寿司屋で、意気と気っぷで売る板前にまで、性悪ガマが進出しているのを知り、唖然とした。
 
カウンターに座るなり、角刈りで鼻の横にホクロのある妙にクネクネした板前に、「よして小柱は今日のはイキが良くないの。トロが絶対おすすめよ」と、ウインクされたときは、さすがの私も、気色悪くて背筋が寒くなった。
 
とてもカマの手で握られた寿司を食う勇気はなく、ひたすらタマゴばかり注文していたら、言うに事欠いて、「あ~ら、こちらさんタマゴばっかり、いやらしいわね」と満座で笑いものにされた。
 
いったいタマゴのどこがいやらしいというのだ。
 
自尊心の異常に高い私は、あまりの屈辱に、その日以来、夜寝ていつも「カマから笑われた」と、うなされ続けている。
 
並の人以上に税金も払っている健全市民のこの私が、なにゆえ、カマふぜいに笑われなければならないのか。
 
私は別にカマが料理をしてはいけないと言ってるのではない。
 
そりゃなかには、料理好きのカマだっているだろう。
 
が、そういうカマには、レストランのようにキッチンの見えないところでやるモラルをもってもらいたい。
 
それが節度というものだ。
 
恥を知るカマ道というものだ。
 
しかし、こう無作法なカマが多くなっては、私も文化人の端くれとして本格的にカマ撲滅キャンペーンを始めなくてはと思う。
 
「放し飼い」にしてはならない前衛的な人間どもが横行し、私たち時代の先端をゆくべき演劇人の存在感のない時代になってきた。」
 
 
 
どうです、この文章。偏見と悪意に満ちた文書。なんとも感じませんか。
 
オカマと言われたって腹が立つのに、性悪ガマとは一体どういうことなのですか。
 
たしかにこの部分だけを読んだら、なんとひどいことを言うと、にえくりかえるぐらい腹が立つけど、最後まで読んでいけば、つかこうへい氏のジョークだということがわかり、腹も立たなくなるのです。
 
 
 
しかしです。
 
つかこうへい氏が悪いのではないのですが、オカマという言葉は、そのものが『薔薇族』に対する侮蔑の言葉ではないでしょうか。
 
ただ言葉を変えたからって、心の中で馬鹿にしていたのでは何もなりません。
 
意気と気っぷのいい人に見えたからって、そういう人にこそ、オカマなる人がいるのです。
 
ぼくはくねくねしている、この板前さんこそ、愛すべき正直な人だと思うのです。」
 
A

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2018年1月 6日 (土)

内藤ルネさん、『薔薇族』の表紙絵を描き続けたかった!

『薔薇族』の表紙絵を一番長く描いてくれた内藤ルネさん、恩人というべき人で忘れることのできない人だ。
 
藤田竜さんと、内藤ルネさんは、千駄ヶ谷の駅近くの部屋が何室もあるマンションに長いこと住んでいて、一緒に仕事をしていた。
 
竜さんとぼくが出会うことになり、マンションに足しげくスクーターに乗って訪れていたが、竜さんがルネさんをぼくに紹介してくれたのは、3年も過ぎてからのことだ。
 
それから長い月日が流れ、考えつかないようなことがあり、大変なことになってしまった。
 
 
 
ルネさんは思いついた時に、ノートに書くことが好きだったようで、その残されたノートを見ることができた時は、ショックだった。
 
 
 
「人生ってとんでもないことが突然おこるんですね。
 
1990年代の初頭、バブルのときに全く信じられない事件が私の上に降ってきて、今の金額にして約7億円以上を5人の男と、1人の女に次々に持っていかれて、その上にマンションまで持っていかれ、すっかり疲れきって、自殺も3回、考えました。
 
もう生きていくことに、すっかり絶望していた時、信じられないことに、いろんな関係のあった私の大切な会社たちも、すっかりバブルに巻き込まれて、すっかり仕事もなくなってしまったのです。
 
それまでの少女の絵や、陶器のマスコット人形の会社などの縁も切れてしまったのですよ。
 
もともと生活するために、食するために始まった私の絵の生活が、人生で初めてストップして、何もどこからも仕事がこなくなってしまった時、『薔薇族』の表紙の仕事を、伊藤文學氏から頼まれたときの驚き、それもセクシイこの上もない男の子たちの絵、驚きましたね。しかし、まったくありがたく、嬉しかったですよ。
 
 
 
そして我が人生で初めてのセクシイボーイズを描くことのこの上ない楽しさと、嬉しさをこのとき知りました。
 
ホモマガジンの性質上、とにかくセクシイにしなくてはならず、しかし、どんなに怪しくてセクシイでも、そこに清潔感をだして、店頭に並んでも、男性はもちろん女性たちにも愛されるボーイズを描こうと、心に決めました。
 
それからの楽しさ、恐ろしい事件も、『薔薇族』の表紙を描くことで、まったく忘れることができたのですよ。
 
毎回、毎月、しっかりとかえて、おもわずほほずりするような男の子たちを描くことの楽しさ、嬉しさを初めて知り、幸いなことに読者の好評を得ることができ、長く長く描き続けられたことの嬉しさとありがたさ!
 
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今ふりかえって伊藤さんと、夫人の久美子さんに心よりの大感謝を捧げます。
 
時の流れで『薔薇族』の表紙をやめることになった時の淋しさは、まったく当時、もっともっと描き続けたかったので、残念でくやしかったですよ。ですから今だって私は『薔薇族』の表紙をすぐにでも描きたいのです。
 
幸いなことにあれだけたくさん描いたルネ・ボーイズの表紙の男の子たちは色あせず、年を加えるごとに、自分でいうのもおかしいですが、輝きを増していますよ。
 
まったく見ているだけで、嬉しくなってくる男の子たち、それが『薔薇族』のルネ・ボーイズなのです。それが私のホモ男性に捧げた少年たちなのです。
 
不幸な時間を忘れさせてくれた『薔薇族』の表紙のルネ・ボーイたち、ありがとう、そして伊藤さんの幸運を今はなによりも心深く祈っていますよ。」
 
 
 
ルネさん、ありがとう。
 

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2017年12月11日 (月)

老後のことなど考えていないうちに!

1985年1月号(今から32年も前のことだ)ぼくが52歳の頃の『薔薇族』だ。
 
そんな若い頃の話なのに、「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「誰もが歳をとるのです」のタイトルで、ぼくはこんなことを書いている。
 
 
 
「昭和57年3月29日(1982年、35年も前)に亡くなられた、漫画家の富田英三さんがお元気だった頃の話です。
 
日本で一番早く『ゲイ』という単行本を出され、またアメリカのグリニッジビレッジの風俗をいち早く持ち帰って、若い芸術家を集めて「ビザールの会」を結成したのです。
 
「ビザール」とは、「風変わりな」という意味で、ちょっと変わった人間ばかり集まっていたのです。
 
とにかくいろんなことをやって、ぼくら夫婦(先妻の舞踊家・ミカ)も参加していた。
 
いちばん新宿が若い芸術家が集まって、燃えていた時代です。
 
(富田さんはパーティ好きで「マルキド・サドのジュスティーヌ」という映画が日本に入ってきた時に、ヘラルド映画が宣伝のために、渋谷の山手教会の地下の劇場「ジャンジャン」で、宣伝のためにマスコミを集めてイベントを開らき、ミカの踊りが話題を集めた)。
 
 
 
その頃の仲間の1人のFさんという広告代理店に勤めている人がいました。
 
ちょっと暗い人だなという印象があったけれど、当時のぼくはゲイの世界を知らなかったから気にも留めなかったが、時代が変わって、ぼくが新宿に「伊藤文学の談話室「祭」」を出した頃、そのFさんがひょっこり顔を出したのです。
 
Fさんのことなど忘れてしまっていたころ、突然電話がかかってきたのです。
 
 
 
下北沢の喫茶店で会ったのですが、前から痩せて神経質そうな人だったけれど、なおさら痩せてしまっていました。
 
ぼくより先に喫茶店で待っていたのに、何も注文していないのです。
 
もう、Fさんは60歳になっていたのです。
 
ぼくだって52歳にもなっているのだから、あっという間に20年以上も経っていたのです。
 
Fさんはまったくの無一文なので、コーヒーを注文しなかったのです。
 
最近、自殺未遂までしてしまって、東京にまた舞い戻ってきたとのことでした。
 
 
 
「どこかゲイ旅館で働くところがないでしょうか」というのが、ぼくを訪ねてきた理由だったのです(もう忘れてしまってるが、少しはお金をあげたのでは)。
 
しかし、ゲイ旅館といっても、60歳を過ぎた人をやとってくれません。
 
紹介をしたものの、どこも断られてしまいました。
 
 
 
Fさんのことから色々と考えさせられてしまったのですが、ぼくも14年間、いろんな読者を見てきました。
 
年配の人で女性と結婚せざるをえなくて、なんとか結婚して、子供を作った人。
 
うまくいかないで離婚してしまった人もいるでしょうが、そうした人たちは、まあ、まあうまくいっているようです。
 
 
 
ところが結婚しないで、1人で生活している人達です。
 
全部が全部みじめになっているわけでないし、優雅に暮らしてる人も多いが、Fさんのような人もいるのです。
 
女性と結婚して家庭を作れば、家も建てなければならないし、子供がいれば教育費もかかるから欲望のままにというわけにはいきません。
 
ひとり暮らしの人は自由気ままで、見栄っ張りで、おしゃれな人も多いから着る物や食物にぜいたくしてしまう。
 
それに飽きっぽい人が多いから、一つの仕事が長続きしない。
 
若いうちから老後のことを考えて、貯金もしておかねば。
 
 
 
みんな誰もが歳をとるのです。
 
歳をとったからといって死ぬわけにいかない。
 
みんな老後のことを考えましょう。」
 
 
 
いいこと書いてるけど、お前の今はどうなんだと言われてしまいそう。
 
B
まだまだ元気です

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