2020年2月22日 (土)

今度は勇気を出して「祭」へ!

43年も前の『薔薇族』には「少年の部屋」というコーナーはまだなかったが、「チビバラつっぱる!」というページを作っていた。それは投稿してくる読者の手紙の中に、高校生からのものが増えて来たので高校生からの投稿を集めてのコーナーが「PART・Ⅲ」とあるから、Ⅰ・Ⅱも話題になったのだろう。「週間プレイボーイでもなんと大話題」と、見出しの頭につけている。どんな記事だったのかは記憶にない。「学校がつまらない」というタイトル。
 
「おれはもすうぐ16歳になる高校1年生だ。いま、おれは学校がつまらない。それには4つの理由がある。
 
1つめは中学の時のホモだちと別れたこと。おれとそのホモだちとのHとは部が同じだった。だから学校の帰りにH
の家によって、バッチリやっていたのだ。(バッチリって中学生でどんなことをしていたのか)
 
Hは今は静岡の学校に行っているので、最近は会っていないが、そのうちには会うつもりだ。
 
2つめ。おれの高校に対する期待の中にはカッコいい先輩とホモだちになるというものがあった。ところがカッコいい先輩がいないのだ。これはおれにとって高校生活を楽しくないものにさせた第一の原因だ。
 
3つめ。ちょっぴり期待していた同級生にもカッコいいのがいないこと。おれたちの学校は7クラスもあって、313人いて、そのうち男子は170人ぐらいいるが、どれもこれもダメなのだ。(おれにはナルシズムの気があるらしく、おれよりもカッコいいと、おれが認めたやつ以外は、ホモだちにしたくない)これが第2の原因だ。
 
4つめ。これはまずないだろうと思っていたのが、ぴったりと当たった。これとはカッコいい先生んのことである。でも少しは期待していたのに残念だ。でも来年になったら、また新しい先生もくるし、それを楽しみに待っていることにします。
 
まあ、高校生活はつまらないものだと思いたくないから、部に入ってそれで気をまぎらわすことにしている。ああ、カッコいい兄貴がほしいな。
 
最後にひとこと。夏休みになったら「伊藤文学の談話室・祭」に行くつもりです。じつは5月1日の日に、「祭」の店の前まで行ったのですが、入ることができませんでした。こんどは勇気を出して必ず行くつもりです。」
 
山梨県・ガッチャマン君からの投稿だ。
 
この時代の高校生、今時の高校生よりマセていたのかな。「祭」のビルの前まで来たものの、階段を2階まで上がれずに、帰ってしまった人は、高校生だけでなく大人でも扉を開けられず多かったようだ。
 
この高校生の投稿が載ったのは、No.56、1977年の9月号。高校ページもまだ18ページぐらい。「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「広告ページの「男町ガイド」毎号広告が増え続けています。名古屋のスナック「ミセン」のマスターからの手紙。
 
2月にオープンして私も夢中でお店を今まで続けて来ました。おかげさまでまあまあ、なんとか順調に伸びて来ています。
 
広告を見て初めてきてくださった方には、私も精一杯接待し、気持ちをリラックスしてもらうように努力しております。
 
広告の効果の偉大さをあらためて知り、深く感謝している次第です。
 
とにかく広告が効くようになったのは、6年間、『薔薇族』を出し続けて来たことへの読者の信頼感のあらわれだと思うのです。」
 
刷部数も増えてきたことも原因だろうが、ありがたいことだ。

| | コメント (0)

2020年2月15日 (土)

自分ひとり老いれば朽ちて!

昭和52年(1977年)10月号(今から43年も前)の「明日への発言」というコーナーに「マスコミよ、傷をつつくな!
=差別と偏見を考える」と題して、神奈川県の西村茂雄さんの投稿が載っている。あくまでも43年前の読者の投稿だということを頭に入れてから読んでほしい。
 
「ホモという性を汚い言葉ながらずばり表現すれば、相手が男でなければチンポが勃たないとしか言いようがない。それを正常なあなた方に理解してもらおうとも思わないし、理解してもらえるはずもない。
 
確かに女性を愛する男が正常であり、男しか愛せない男の私たちが、異常であることを私たち自身がいちばん痛く知っているのです。そしてホモというのはどこか狂ってしまっている精神病の一種としてもおかしくはないでしょう。しかし、他の精神病と違う点は、当の私たちがその狂っていることをはっきり知っていることです。俺は狂っていない。私は狂っていないと信じながら病院に送られる患者とは違うのです。自分が狂っていることを知っているからこそ苦しいのです。
 
自然の営みというものは植物であれ、動物であれ、生きているものすべて子孫を残すことに始まり、終わっています。それが性であり、その性が狂っていることを知りながら、社会で生活する私たちの苦しさをあなたたちは理解できないでしょう。
 
あなたたちは「ホモ野郎」「オンナオトコ」「中性」などという言葉と態度をまともに浴びせてきます。
 
精神病の患者に向かって、あなたたちは「テンカン野郎」「キチガイ」とまともに言いますか? ホモが精神病の一種と決めてそれに甘える気はありません。しかし、私たちは好きでホモに生まれついたわけではありません。中学から高校、友だちが異性の話に興じている中で、それを話を合わせながら、自分が異質であることを知った時、私たちは自分の性(さが)を悟るのです。(中略)
 
主婦むけのワイドショーや、三面記事的番組で事件や出来事の核心を忘れ、興味本位だけで構成した挙句、「おお気持ち悪い」とまでいう権利があなたたちにはあるのだろうか。
 
有名人の離婚に関して「夫はホモだった」という女がいる。それは夫婦間の問題であって、「夫は短小だった」「早漏で満足できなかった」という女がいるだろうか。
 
それを微に入り細に渡り報道するマスコミがいるだろうか。それがホモであるから記事になると言われるだろうが、わざわざ他人の足をすくい、ひとりの個人の人生を壊す権利があなたたちにあるのだろうか。(中略)
 
私たちはホモの解放運動など決して望みません。伊藤文学氏の言葉に「ホモも胸を張って明るい太陽の下に出よう」と言われていますが、それは決して出来ないことです。
 
私たちが自然の道理からはずれている以上、これからどのような時代が来ても太陽の下には飛び出せないでしょう。それを知っているからこそ私たちはある部分で、息をひそめて生きているのです。それを興味本位のさらしものとしてひきずりだし、傷をつつくようなことをしないでほしい。
 
私たち自身で自分たちが他人とは違っていることを知っているのだから、偏見からくる差別をも仕方なく受け入れながら心の中で闘い続けるでしょう。
 
偏見と差別など実際には悲しいながら慣れてしまっている面があり、本当に苦しくて辛いのは、友人たちが結婚をし、子供と奥さんに囲まれている姿を見るとき、ただ生まれてきて自分ひとり老いれば朽ちて、それだけの生命であることを感じることなのです。」
 
43年前の読者は、こんな思いの人が多かったのだ。

| | コメント (0)

2020年2月 1日 (土)

49年前に書いたぼくの記事!

『薔薇族』創刊2号目、11月号に「かくれていないで表に出よう!」と、2ページを使ってぼくが書いている。
 
「「かくれていないで表に出よう」と、プラカードをかかげて、ニューヨークのセントラルパークを5千人のホモたちがうずめつくしたとTBSのニュース解説の古谷綱武さんのレポートがテレビで報道されました。
 
アメリカではホモは法律によって公職につけないとされているそうです。ですからその偏見に抵抗して、人権運動、人間の権利の問題としてホモ・パワーが大きな力となって巻き起こっているのだろう。
 
日本では、はたしてどうなのか。キリスト教の国ではない日本ではホモを規制する何らかの法律もありません。ただ、それは法律がないというだけであって、自らを規制し、自らをしばりつけているものは、ホモ自身ではないかということです。
 
だれにも言わない。かくれている。だから偏見にあうことはない。親にも、先生にも、兄弟にも、友人にもかくしている。だからなにごともない。これがもし人に知れたらどうなるのだろう。
 
『薔薇族』を創刊して、仲間たちがこれを手に入れるのにどんなに苦労していることか。創刊を知らせるチラシをダイレクトしたら、もちろん封書で出したのだけど、もし見られたら大変だから送らないでくれという人が何人もいました。(創刊号を出す前に、単行本を出していたのでその読者に)
 
西宮市に住むYさんからこんな手紙が。
 
「週刊朝日を読んで、この雑誌の発刊を知ってあんとかして手に入れたいと方々の書店を探しましたが見つかりません。雑誌の名前をあげて店員に聞くこともできず、第二書房の所在地を訊こうとしましたが、それもできません。
 
そんなある日、ふと立ち寄った書店のレジの傍に、この雑誌を見つけたときの喜びは、全く何と表現したらいいのかわかりません。他の必要もない雑誌と一緒にさりげなく買ってきて、貪るように読みました。
 
「病気でないこと」「仲間がたくさんいること」を知り勇気を得ました。
 
私にはまだ自分がそうであると、世間に公表することはできません。自分の家族、友人たち、勤務先の人たちなど、私とつながりのある人たちはだれも知らないのです。知らないからこそ、みんなうまくいっているのです。私はかつて自分の本来のものをだれにも告白したことはありません。」
 
そうYさんは手紙に書いています。そしてあの小さな書店では次号を買わない。それは店の人が私を知るからだと言っています。だから10月のはじめに新幹線に乗って東京に出て雑誌を手に入れると書いています。
 
世間の人がこの手紙を読んだら笑うかもしれないけれど、これが日本の現在のホモたちの多くの姿なのです。
 
先日、第二書房まで77歳になる老人が杖をつきながら『薔薇族』を買いにきました。ぼくはその老人と立ち話をしました。6人もいる子供たちはみんな独立して世帯を持っているそうですが、一度も若いたくましい男に恋こがれながら抱き合うこともなく過ぎ去ってしまったという老人。それでも今でも若いたくましい男に恋こがれていると言う。
 
『薔薇族』を大事そうにかかえこんで、帰っていく後ろ姿を見送りながら、全国のホモたちに想いを馳せずにはいられません。
 
大多数のホモたちが、やはり老人と同じようになって年をとっていくのではないか、そんな悲しい気持ちにさせられてしまうのです。」
 
こんかことを書いたのは、昭和46年(1971年)今から49年前のことだ。一緒に『薔薇族』を立ち上げた、藤田竜さん、間宮浩さんもいない。ぼくだけが生きて仲間たちの姿を見届けたい。

| | コメント (0)

2020年1月27日 (月)

新兵ほど裸と縁の深いものはない!

「『まだ、まだ駄目だ。オチンチンの先が出てこんぞ。それともおまえ包茎か』後続の若者たちのなかには、そっとペニスにふれるものもある。ところが、たまたまあらわれた性病露見。さあ、大変だ。衛生兵がとんでくる。
 
『この野郎、尻を出せ』精神注入棒の乱打。はねかえってくる鈍い肉体の響き。いくすじもの赤い条痕が尻を飾る。それからみせしめにさらされる。
 
股を開いたまま腰を突出させ、苦しい弓なりの姿勢。時間には不自由しない。若者のあらあらしい呼吸。『そら、そら、ヨコネが見えんぞ。戦友にしっかり見せるんだ。陛下に捧げたからだを勝手に汚しやがって、それで申しわけが立つと思うか。
 
オチンチン様、私が悪うございました。お許しください。そういってみろ』
 
若者はささやくような小声。『バカ野郎』の一喝で途端に大声をはりあげる。『オチンチン様、私が悪うございました』『もう一度』リフレーン。リフレーン。若者の頬は涙の洗礼。
 
検便室で待ちかまえていた下士官。検便器の砲列。太い。試験官のナンバーは新兵になる若者の符号。尻を向ける。前かがみになり、背後に回した両手でふたつの尻たぶを左右に開く。展開される肛門。下士官はゆっくり検便器を挿入する。ごぼごぼと鳴るかすかなひびきが、下腹部をすりぬける空虚な虚脱感だけを残す。
 
尻をたたかれて、不動の姿勢に戻る。検査用紙を見て下士官は笑う。『おまえ、包茎か。こっちを向いてみろ』ふたたび玩具となったペニス。ある若者は間違えて四つん這いになった。
 
『尻の検査はすんだんだろ。となりを見ろ。ああいうようにけつの穴をしっかり見せるんだ』あわてて立ち上がった若者は、となりの若者に教えられて検便の姿勢に入る。紅が頬を流れ、無心の空が若者の眼前にたちこめる。
 
検便室に託された若者の尻は、もはや若者のものではない。一錢五厘(当時の葉書の値段)に買われた肉体の一部だ。
 
すべてが終わった。最後の諭告。素っ裸の若者は、おずおずと、それでも日本男子の誇りをこめて、査定官の面前に立つ。
 
『合格』もっとも、ほとんどが合格だ。痔の若者はふたたび調べられる。おなじ姿勢のくり返し。飛行作業には向かない。
 
以上は海兵団の入隊時の検査風景だ。若者は強制的にしゃばと断絶し、肉体の孤独を知らされる。

お もえば、兵隊、とくに新兵ほど裸と縁の深いものはない。入営生活では検査はつきものだ。定期検査がそれである。『身体検査5分前』のマイクが鳴ると、越中ふんどしをきらりとはずした若者たちが、デッキに並ぶのである。狭いデッキは検身のためのスペースをとると、二列横隊は前後の距離を失い、べったりかさなってしまう。こんなとき前の若者の尻の刺激でペニスを怒張させるものが出たりする。『おまえら、気分をだすなよ』班長はニヤニヤ笑いながら、新兵のペニスに注目する。
 
それが彼らを楽しませる貴重な風景になるのだ。
 
彼らはわざと精神注入棒で、へそのあたりを突っつきながら、まったく間合いのなくなった後列の裸に裸をおしつける。
 
後方の突起が前方の尻の割れ目をくすぐるのも、こんなときである。避けようのない感触が、後方の若者のあせりを伝える。それはときにははじらいに溶解した淡い快感をともなうことさえある。」
 
まだまだ話は続く。ぼくも5、6年早く生まれていたら、こんなことをさせられていたかも。あとはネットで見られるようになるから、おたのしみに!

| | コメント (0)

2020年1月25日 (土)

M検はシャバとお別れの儀式だ!

笹岡作治というペンネーム、これは劇画作家として有名になった山川純一と同じようにぼくが名付けたものだ。
 
『薔薇族』を創刊して2、3年経つ頃から地方に住み発表の場がなかった有名な方から続々と原稿が送られてくるようになってきた。
 
笹岡作治さん、九州に住む方で軍隊経験があり、戦時中の日本の軍隊の野蛮な風習を描いて投稿してくれた。
 
「ああ、M検物語」とタイトルをつけたがこの作品を昭和48年(1973年)7月号No.12に載せたら、次々と力作を送ってくれた。
 
戦時中、入学した世田谷中学にも地方から集められた兵隊たちがいた。
 
2年生から上の学生たちは軍需工場で働かせられていない。
 
ある日、廊下を歩いていたら、窓越しに全裸になって並ばされ、軍医や衛生兵たちにオチンチンの検査をさせられているところを見てしまい、ショックを受けたことがあった。
 
「戦中派といわれる年代にとって、ひそかな含羞を誘う思い出といえば、いわゆるM検にまつわる体験である。それは遠い屈辱の軌跡を滑稽な笑いの中に埋葬するにふさわしい、ささやかな追憶でもある。
 
紅にめくられた亀頭部をつややかに濡らした緊張。『アレ、この野郎気分を出してるぞ』若者の意識から断絶したところで、みるみるうちにふくらみ、立ち上がる肉茎。それは彼のあわてふためきをよそに検査官をたのしませる。
 
ざらざらした掌が開いた蕾をなぜまわす。それから薄皮をゆっくりはがし、ひきつる痛みもなんのそのだ。
 
すっかり立派になった一物に彼は満足し、若者をひやかすように凝視する。腰を落とし、股を大きく開いた肉体のポーズは、羞らいと緊張でかすかにふるえている。
 
精神注入棒を握った衛生兵が床をたたきながらわめき散らす。『会陰、肛門』の張り紙が、若者を羞恥の殿堂に追い込む入口だ。
 
『ふんどしをさっさとはずさんか。一箇所に集まるんじゃねえ。空いてるところにどんどん走っていけ。前のものがやることをよく見ておけ。いいか、最初はオチンチンだ。次は尻。わかったな、まごまごするな。検査官がキンタマを握ったら、おなかをしっかりふくらます。まちがえるなよ』
 
続々とつめかけた若者は、たちどころに素っ裸にされる。フンドシの洪水。四つん這いの列。検査官は尻たぶを両手でこじあける。と、緊張でひくひく痙攣するトンネルの入り口をじっとながめる。そして指の運動がはじまるのだ。
 
肛門に挿入された指は一回転し、そのままそけい部を走りながら、睾丸の付け根に達する。
 
『こら、けつをもっともちあげて、足をいっぱいに開くんだ。尻にでんと力をかけてみろ』
 
恐れの沈黙に閉ざされた順番を待つ若者。不動の姿勢は、すべすべした尻のふくらみをとらえている。それは成熟したばかりの青年のかおりを発散する。
 
尻をたたかれた若者は、立ち上がって検査室へ。走りさる若者の睾丸がおおっぴらにゆらゆら揺れている。
 
『次!』一歩前進。姓名申告。『声が小さい』そしてやりなおし。ありったけの声をふりしぼる。『何だ、何だ、お前のはしなびてるじゃないか。日本男子なら、しっかり立てろ、ほら、ほれ』片手で睾丸を軽くゆすりながら薄皮をさする。若者は真っ赤になる。」
 
女性には理解できない日本の軍隊の人権を無視した光景だ。
 
長い文章がまだまだ続く。

何回か紹介したことがあったが、今となっては面白い話だ。(つづく)

| | コメント (1)

2020年1月18日 (土)

ぼくにも帰りを待ってくれる人が!

ネットなんてものがなかった時代、昭和47年(1972年)の『薔薇族』3号の「薔薇通信」欄(すでに195名が載っている)を読むと、東京に住んでいる読者でも、寂しい思いが伝わってくる。
 
●東京都・中野区・S・A
 
大都会の空の下、ひとりで生きている23歳のぼくです。
 
仕事から帰ってもアパートの小部屋は真っ暗。ぼくにも帰りを待ってくれる人がいたらどんなに素晴らしいかと思います。身長172センチ、体重61キロのぼくですが、兄さん、あるいは父さんと呼べるような人を望みます。できれば少し太った人がいいのですが。
 
 
●東京都・葛飾区・K・K
 
街角を親子連れが楽しそうに語り合いながら歩いているのを見ると、とてもうらやましく感じます。
 
両親の顔すら知らない私に、ひとりぐらい息子がほしいと願うのは、私のわがままでしょうか。お互いに誠意を持って交際してくれる方。一緒に旅行などもしたいと思います。まじめに交際してくれる20代の人の連絡を待っています。
 
 
この人たちいい人とめぐりあえたのだろうか。
 
ぼくはひとりで生活したことがないから、真っ暗な部屋に帰ってくる気持ちって、寂しいだろうな。
 
どんな事情かはわからないけれど、両親の顔すら知らないという人。つらいな。幸せになってほしい。文通欄って大事な役割を果たしていたと思う。あまりにも切実な願いだから。
 
 
●福岡県・H
 
アメリカのロスの6番街のバスターミナルの前で「バカ、バカ、日本みたいなところにどうして帰るんだ。オレ、これからどうすればいいんだ。本当に死んじゃうぞ」と、わめきながら、黒い肌をかきむしり、大粒の涙を流した、私のかわいい助手、トムソン君のことを私はいまだに思い続けています。
 
21歳のすばらしい黒人青年でした。東洋人である私の黒人に対する好奇心ですら、ためらいなく受け入れてくれて、彼のベッドの半分を与えてくれた夜から、私は彼の赤ちゃんになったのです。
 
どなたか私をトムソン君がしてくれたようにこなごなにしてほしいのです。私は40歳、160cm、68kg。肌がきれいだと、トムソン君が言ってくれました。
 
 
どんな仕事をされていた方なのか。黒人青年を助手にしていたというこの人、願いどおりになったのだろうか。
 

 
●滋賀県・大津市・I
 
君の寂しそうな澄み切った瞳が、ぼくの胸を騒がせる。君の赤いくちびると、真夏の香りでいっぱいの浅黒い肌が、ぼくの心をはやらせる。清い果実のような君、ひとりでは世間を渡っていけないような君。そんな君がぼくの愛の対象なのだ。
 
初めて大津に住んで、右も左も分からないと満たされない思いがつのっていくだけ。東京に住んでいた頃は、多少しかるべき場所を知っていたので、孤独に悩むことはほとんどなかった。だが今は皇子山で運動して汗を流し、帰ってきてベッドに横になって眠るだけ。
 
むなしいというか、健全というか、性的不満が高まっていくだけなのだ。
 
夜が白むまで快楽の時を過ごしたい。あらゆるテクニックを使って何度も絶頂感をあじわいたい。君の赤いくちびるが浅黒い肌が、そしてたくましく大きい君自身が、ぼくのものと一体になって、限りない愛の世界へと昇華していく。これこそがぼくの求めている愛の姿なのだ。
 
 
地方に住んでいる人は、すぐ会える理想の男と出会うことは難しかったのでは。

| | コメント (0)

2020年1月 6日 (月)

ネットで『薔薇族』創刊号から読めるように!

昭和49年(1974年)という年は、東京都物価は、前年比20%を越す狂乱物価、1973年の地価上昇は過去最高32・4%。空前のゼネストで2日間マヒという時代だった。
 
『薔薇族』第15号(昭和49年1月刊)の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「また新しい年を迎えます。今年は日本にとっても、『薔薇族』にとっても大変な年になりそうです。インフレと物資の不足、物価の急騰で雑誌を続けることの難しさを痛切に感じます。
 
第二書房は創立25年、戦後のなんにもない時代に、会社を創立し、一向に大きくならないけれど、誰にも迷惑をかけずに今日まで続けてきました。
 
浮き沈みの激しい出版界にあって、なんとか続けてこられたのは、社員を使わなかったからです。出版の仕事は大きくやるか、ひとりでやるかです。今のような出版物だとなおさらです。何人か社員がいたら『薔薇族』は出せなかったでしょう。
 
現在は家族みんなが力を合わせて、手伝ってくれています。社員といえるのは藤田竜さんだけ。ぼくは企画・編集・営業から本運びまでの一切、父は経理と荷造り、母は郵便局へ行ったり、女房は文通欄を子供を見ながらやってくれ、姉もこのごろ手伝いに。
 
家族ぐるみの雑誌作りというわけ。だから読者の秘密は外部にもれることはないし、その点は安心し、信頼しきっていただけると思います。ちょっと大変だけど当分はこの態勢で頑張ろうとはりきっています。そのほうが読者のためにもなることだから……。だから日曜も夜もないけれど、朝9時前の電話と、夜中の電話だけはかんべんしてください。
 
皆さんにも喜んでもらいたいのですが、ぼくが育った木造二階建ての家がボロボロになってしまい、返本の重みで床が抜けてしまい、どうにもならなかったのですが、いよいよ一月の末には三階建ての鉄筋で小さな建物ですが完成します。
 
それが世田谷学園の同じクラスの友人、蟹江尚司君の設計、施工は秀建設の加藤五十吉君、電気工事も同じクラスのバレー部のキャプテン、鐘広電気の久保田真昭君と、友人たちが力を合わせて建ててくれています。
 
三階の大広間も読者が集まれる部屋にしたいと思います。美輪明宏さんが豪華な門灯を贈ってくれました。ゲイの世界を少しでも明るくしたいという願いをこめてのものです。門灯の明るい光が、きっと読者のひとり、ひとりの胸の中にさしこむ日が、きっと近い将来にやってくるに違いありません。
 
家族だけでなく、この雑誌を続けていくための大きな力になっている、藤田竜君の偉大な才能にも拍手をおくってください。また絵、小説などを贈ってくれている皆さんにも感謝の気持ちと、お礼をのべさせていただきます。」
 
文通欄への投稿数も、北は北海道から、南は沖縄までの読者から、295人にも増えている。それらに寄せられる手紙も、月に3千通を越しているが、それをひとりでひきうけていた女房に感謝。
 
こんなに多くの人が利用している通信欄は日本の雑誌の歴史にもなかったことだろう。
 
先日も電話で、40歳を過ぎた地方の妻も子もいる読者が、生まれて初めて文通欄を通して仲間ができてセックスしました。こんなにすごい刺激は初めてでした。と、声をはずませて聞かせてくれました。
 
写真も波賀九郎さんが登場し。小説も笹岡作治さん、楯四郎さんも力作を寄せてくれた。ページ数も122ページと増え、内容も充実してきていた。
 
針金とじの時代の『薔薇族』をネットで若い人たちに読んでもらえるようにしたいものだ。

| | コメント (1)

2019年12月30日 (月)

大波をくらってカメラも修理不能に!

1971年(昭和46年)に『薔薇族』を創刊してから2年目の昭和48年に『別冊・薔薇族No.1』を刊行している。内容は波賀九郎さんの力作、「怒涛」と題する写真がほとんどだ。
 
読み物はぼくの「東北大生・ホモ殺人事件に想う」と、月岡弦さんの「魅惑の裸像」と題する小説だけ。
 
巻頭に波賀九郎さんが「怒涛の男・撮影記」を書いている。六尺ふんどし姿のモデルは、精悍な顔つきで最高。からだもすばらしい。波賀さん、モデルにほれこんで撮影したに違いない。
 

Img_1558

 
「夏が終わりを告げた後の海は、しばしば私の写真の絶好の撮影場所ともなる。今回はかねてからの予定地、静岡県の焼津港に出かけて行った。モデルの学生のS君とである。
 
静かな港に一隻だけ男たちが忙しく立ち働いていた。照明、遠洋漁業に出かけるためであろうか。漁具や食料などをさかんに積み込んでいるところであった。
 
港の周辺で少し撮影をした後で、砂浜に出た。そこに沖を向いて並べられた古い墓地があった。S君は私がとくに要求もしないのに自分から進んでポーズをとってくれた。よくみると無縁仏の前であった。おそらくその昔、この焼津の漁の活気をしたって集まってきた各地の漁師たちが、荒波に出ては精一杯暴れ回れて、その終焉をこの土地で果てた人々や、シケにあってついに帰れなかった人たちのものであろうか。
 
私はS君が、ここを撮影場所に選んだ意味が少しわかる思いがした。(中略)撮影がすすんで陽光が西に傾くのも知らず、熱中していた私は、次第に潮が満ちてくるのを気づかなかった。そしてひときわ大きな波のうねりがおそってきた瞬間、S君も私も、そしてカメラもろとも大波をかぶって岩にたたきつけられていた。
 
やっとの思いで波の届かぬ岩にはいあがりよくみると、S君の日に焼けた、真っ黒な肌はずぶぬれで、からだ中、擦り傷だらけになっていた。
 
おかげで日頃から肌身離さず持ち歩いていたカメラは、もう塩水をかぶって修理不能なまでに破損してしまった。しかし、幸いなことにフィルムだけは生きていて、暗室のパットの中の印画紙の上に、まざまざとそのときの様子を再現してくれた。
 
こんな状況で、今回の焼津の撮影は終わった。出来上がった写真をS君に見せると、いつもは無口で言葉少なく、まして滅多に笑い顔など見せたことのない彼が、大きな目を一層大きく見開いて、「わあ、東映のやくざ路線ですね」と言って、カラカラと屈託のない笑い声を立てた。そのとき私は、足の傷や、腰の痛みも、カメラの損出も、すっかり忘れ去って、さわやかな彼の笑顔をただ、しげしげと眺めていた。」
 
まさに命がけで撮影した焼津港での写真。積み重ねられた無縁仏の墓跡の前のS君の写真、手を合わせたくなるくらいだ。
 
波しぶきの前での写真、岩の上での写真、波賀九郎の最高傑作だ。大波を浴びて姿がみえなくなっている写真、こんな写真で別冊を創刊2年目で出せたなんて夢のようだ。
 

Img_1559

 
「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。別冊も藤田竜君とふたりだけで出したのだからすごいことだ。
 
「今年は武田肇写真集『少年たち』、波賀九郎写真集『梵』、栗浜陽三写真集『褌遊』と3冊もひとりで出すことができたことは快挙というべきで、社員を何人も使っている出版社でもできないことをやってのけたことで、ひとりで満足している。
 
これはひとえに熱心な読者がぼくを支えてくれたからだ。「いい本ができました」と、激励の電話で元気が湧いてくる。」
 
ああ、いい時代だった。

| | コメント (3)

2019年12月 2日 (月)

刑務所の中での男同士の欲望は!

ぼくのブログの中で、現在一番多くの人の読まれているのは、刑務所の看守の読者が投稿してくれた「刑務所の中での男の世界」だ。
 
創刊して4年目の『薔薇族』1月号・No15藤田竜君が力をそそいでいた時代。「人生薔薇模様」の読者の投稿欄に「K刑務所での灰色の快楽」と題する(東京・いざわ・さわ男)さんの体験記が載っていて、貴重なものだ。
 
「この体験は私自身の何年か前の体験記です。人間として本能ぎりぎりの禁欲生活は当然、同性にしか求められない欲望は異様でもあり、残酷でもあります。その反面に理想の若者と所内で知り合い、肉体関係をした思い出が、今でも鮮烈に記憶の中に刻み込まれています。
 
所内でのホモ関係は信じられないほどジェラシーが強く、時代によっては三角関係、四角関係になって殺傷事件をひきおこすこともまれではない。
 
かわいいタイプの若い受刑者が新入りとして入ってくると、欲望に飢えた古い連中は、その新入りをマークする。運良く部屋が同じだったら、その喜びようは大変である。
 
もし、その相手が浮気でもしようものなら殺傷事件にまで発展しかねない。それを看守に発見されようものなら、独房に入れられて、相手の受刑者と出所するまで別れ別れにさせられてしまう。所内のホモ行為はタブーであり、きびしい掟でふたりはひきさかれてしまう。
 
刑期は人によって違うが、短い人は10ヶ月から一年半くらい。長い人は5年から10年くらいの人もかなりいる。そのほとんどが再犯者である。
 
中には少年刑務所からきた初犯者もいる。20代の受刑者が大半で、チンピラ、ヤクザ風のものも少なくない。
 
これらは血気盛んで相手とトラブルを起こしては独房行きである。やくざのおにいさんたちは、全身、上半身、下半身と色どりもあざやかな、バラ、ボタン、桜、竜、蛇、観音像といれずみを入れており、風呂に入った時は壮観で、そのからだはたくましく、湯からあがった身体にはられたいれずみは鮮明に浮かび出て、その美しさは目も眩むようである。
 
風呂は1週間に2回くらいで、1回に15人くらいは入れるほどの広さの浴場で、坊主頭の男性たちが一斉に湯船にはいるさまは異様でもある。
 
若い健康そのものの逞しい身体を、お互いに見せ合っているものもいる。中にはペニスを隠さず堂々と入っていて、目の前に大きなものをもってこられると身震いする。
 
仲間のひとりが相手の身体を触ったり、ペニスにも触ったりして、身体を洗いあっている姿を見ていると、受刑者であることを忘れてしまうほどの明るい気持ちにさせられる。
 
朝夕と舎房から工場へ、工場から舎房に行く途中に「検身場」がある。「カンカン踊り」と言われるもので、裸になって両手を上に上げて、「何号、何号」と叫びながら看守に全身を調べられる。この姿は肉親には見せられないつらい光景である。
 
所内でもっとも楽しい行事のひとつに、日曜日に行われる映画会がある。刺激のない作品がえらばれて上映される。この映画会の会場は受刑者たちの顔見せでもあり、所内唯一のデート場でもある。愛し愛されるふたりにとっては絶好なデートのチャンスであり、大胆なことはできないが、結構スリリングな愛撫がひそかにくりひろげられる。
 
出所してからもう何年か過ぎた今でも、若い受刑者の姿が、私の目に現れてくるような気持ちにさせられてしまう」
 
露骨なことは書かれていないが、貴重な体験記で、そこには残酷な愛があったのだろう。

| | コメント (0)

2019年11月30日 (土)

この世は天国と地獄がとなりあっている!

藤田竜さん、『薔薇族』の編集部から去ってしまった。それと同時に若い多摩美大卒のN君が入社してくれた。創刊のころ、訪ねてきてくれたことがある青年なので、前から知っていた青年で、毎日、楽しく仕事をしてくれていますと、「編集室から」にぼくは書いている。
 
竜さんは続いてこんなことを書いた。
 
「俺が考え出した「人生薔薇模様」にしても「男街13番地」にしても本当はこういう形でなかったのだけど、いろんなものは生まれるとひとり歩きしてゆくもので、だから、これからは俺もこの欄を利用させてもらうのに、かえって気持ちいい。
 
あんた、あの雑誌やってていい男いっぱい食ったんでしょ、なんて誤解は多いのであるけれど、実際は一人か、二人と付き合ったくらいで、まずは情けなくもなにもない。お客さまは神さまであるから手をつけてはいけないのだ。
 
もう、フリーだから、これからは薔薇通信も大いに利用させてもらう。ついでだから、ここに書いてしまう。
 
❤︎東京都・渋谷区・ドラゴン 初投稿の35歳。175×73。短髪、やや出腹、ヒゲと胸毛つき。人はやさしい目といいます。(このあと、くわしく希望を書いている)
 
これ、本気なんだからね。『薔薇族』と決別して傷ついている俺を誰かなぐさめてよ。今まで本誌でがんばってきたのだから、男のおあたいぐらいあってもよかろうと思うのだが、どんなものだろう。
 
ひとときでも幸福になりたい人は、ドラゴンさんに手紙を出そう。この文章に腹を立ててる人は、本質的に不幸になるだろう。
 
この世は常に天国と地獄がとなりあっている。そして男好きの男の世界ではその格差が激しい。不幸になる人は、己が罪とはいえ、どんどん不幸になるようになってる。それも人生。ドラゴンさんに気に入られたら、どんどん幸福になる。それも人生。ああ、愉快愉快。
 
ほんじゃ、ま、皆さん、お元気で。ほんとにさようなら。」
 
竜さんの大ファンで、すばらしい小説を書き残してくれたNHKのアナウンサーだった盾四郎さんが「花道から消えてしまった竜ちゃんに惜しみない拍手を!」と題して、うれしい一文を寄せてくれた。
 
「竜ちゃん
 
『薔薇族』から藤田竜が消えるなんて−−。
 
まるで海老蔵が突然引退しちゃったみたいなもので、僕はとっても寂しい。
 
今、僕は創刊号を手に取った時の、あの新鮮な驚きを思い出すのだ。こんな雑誌が発刊されるという予告は、それ以前に週刊誌か何かの記事で知ってはいた。そしておそらく、毒々しい表紙の、乱雑に活字がつまった、あの種の雑誌なのだろうという予想が僕にはあった。だから、今はない上野の地下道の本屋で創刊号をめくった時の清々しさは、むしろショックだと言ってよかった。この種の雑誌でもこんなに綺麗に作れるものなのかと、その発見がショックだったのだ。(中略)
 
とにもかくにも、君は大向こうをうならせて、飛び六法で花道から消えてしまった。チャリンと揚げ幕が閉まったいま、僕は客席より友情を込めて、惜しみない拍手を送るとしよう」
 
読者からも去っていた竜さんをおしむ手紙がたくさん寄せられた。
 
「竜さん、かっこ良すぎるぞ。いさぎ良すぎるぞ。僕はもっと竜さんの絵も見たいし、おフザケも、憎まれ口も聞きたかった。そして、竜さんの弱さもみたかった。(後略)(大阪市・Y)」
 
なんと数ヶ月して竜さん、戻ってきてしまった。新入社員のNさん、いられるわけがない。その後、Nさん、ラジオに番組をもったり、昨年はNHKの同性愛の戦後を描いた番組の主役にもなり活躍している。
 
天才には陰がつきものなのだ。竜さん、ありがとう。

| | コメント (1)

より以前の記事一覧