2017年7月22日 (土)

会話だけのSEX『ベント』をもう一度観たい!

アメリカ大統領のトランプさんはゲイの人たちのことを嫌っているようだ。ドイツの独裁者、ヒットラーと、男らしさを必要としたナチス・ドイツにとって、ゲイは必要のないものだった。
 
1986年、7月4日の夜、渋谷の西武劇場で『ベント』の初日にぼくは観に行って「『ベント』は遠い昔の話ではない。現実にわれわれの身近かで起こりうることなのです」と『薔薇族』164号に観劇の感想を書いている。
 
 
 
ナチスはどんな方法で、同性愛者だということを見抜いたのだろうか。この劇中にもこんなシーンがある。ユダヤ人は黄色いワッペン、同性愛者はピンクのワッペンを付けさせられ、ピンクのワッペンを付けた男たちは、最低の人間として扱われた。
 
主人公のマックスが収容所へ送られる護送列車の中で、自分が同性愛者ではなく、ユダヤ人であるということを証明するために、ほんとちょっと前に弾丸で撃たれて息を引き取ったばかりの少女を護衛兵の目の前で犯した。
 
ぼくはいつかの札幌で起こった殺人事件のことを鮮明に思い出した。札幌で小料理店のマスターが殺されたときのことだ。殺されたマスターが同性愛者であることがわかり、犯人もゲイであろうと警察は目星をつけて犯人探しに乗り出した。
 
恐らくナチスもそうだと思うが、ひとり同性愛者を洗い出し、なぐる、けるの拷問をかければ、何人かの仲間の名前を教えざるをえなかった。
 
次から次へとあぶり出していく。今の日本の警察は、そこまではやらないだろうが、それに近いことが行われて、北海道全土でどれだけの仲間たちのリストが作られたことか。
 
事件が解決すれば、そのようなリストは捨ててしまうというが、そのまま信じることはできない。
 
 
 
東京の四谷署管内で起きたプロダクションの社長殺しのときも、四谷署で何百人ものゲイの人たちの写真を見せられたときのショックは忘れられるものではなかった。
 
もし、権力者によって仲間があぶり出されるようなことになり、そうなったら仲間を売るのは仲間でしかない。まさにこの世の地獄だ。
 
『ベント』は遠い昔の話ではない。今、現在、この地球上で行われていることであり、もっとも自由の国だと言われているアメリカで、そうだという現実をわれわれは忘れてはならない。
 
 
 
『ベント』の劇中、主人公のマックスとホルストが、いましめのために石を運ぶ作業をさせられながら、2時間の石を運ぶ作業の合間の休憩のたった3分間。それも直立不動で、2人が向き合ってでなく、2人とも同じ方向に向かせられて、護衛兵の見守る中で、会話だけでセックスするという、クライマックスのシーンがある。
 
マックス:お前が欲しい。
 
ホルスト:感じるか、お前の中に俺を?
 
マックス:入ってきてくれ。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:俺の中だ、お前は。
 
ホルスト:入った……。
 
マックス:強く。
 
ホルスト:感じるか、突いているのを?
 
マックス:ゆっくり。
 
ホルスト:腰を……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ああ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:もうすぐ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:感じるか……? もうすぐだ。
 
マックス:感じる、何もかも。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:そうとも……。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:ああ、ああ。
 
ホルスト:感じろ…。
 
マックス:ああ、強く……。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ううう……。
 
マックス:いいぞ……。
 
ホルスト:いいぞ……。
 
マックス:いい! (あえぐ)うう! あああ!(オルガスムスに達する)
 
ホルスト:ううう……! いいぞ! あああ……!(オルガスムスに達する。沈黙) お前……?
 
マックス:大したタマだぜ。
 
ホルスト:お前こそ。(沈黙)マックス?
 
マックス:何だ?
 
ホルスト:やったな……クソ衛兵に、クソ収容所……やったぜ、俺たち! 俺たちは殺されない。俺たちはやった。生きている。人間だ。愛を交わした。殺すことは出来ない。(沈黙)
 
マックス:俺まさか……。
 
ホルスト:何だ?
 
マックス:信じられない……。
 
ホルスト:どうした?
 
マックス:やっちまった。3分で。
 
(2人、笑う。サイレンが鳴る。2人は下に置いた岩をとり、あちらから、こちらへと運ぶ作業に戻る)(暗転)
 
 
 
2人の股間が一瞬にしてふくらみ、そして濡れたような錯覚にとらわれるほど、素晴らしいシーンだった。会話だけのギリギリの究極の世界でのセックスだった。
 
もう一度観たいものだ。
 
A
イラスト・長谷川サダオ

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2017年7月 3日 (月)

「ああ、あのオカマさんの店」とニヤニヤと!

1955年7月号の『あまとりあ』今から62年も前の雑誌で、ぼくが23歳、駒大に通っていた頃のものだ。
 
敗戦後、数年の昭和24年には、早くも「シルバー・ドラゴン」というゲイ・バアが誕生している。
 
「ゲイ・バアの生態」と題して、かびや・かずひこさんがルポし、神田・銀座・新橋界隈のお店が紹介されている。
 
 
 
「神田のゲイ・バアでは、「シルバー・ドラゴン」が、まずあげられる。24年に開店し、約2年ほどは少数の外人客相手にひっそりと商売していたが、26年ごろからようやく衆道愛好者の間に、その名を知られてきて忙しくなったという。(中略)
 
シルバー・ドラゴンの名を言ったところ、酌の女が「ああ、あのオカマさんの店」と、ニヤニヤと薄笑いした。ただに飲み屋の女と限らず、一般世間人は男色に対してこの程度のアタマしかなく、この程度の理解しかないのが通例なのである。こんなところにゲイ・バアが向こう三軒両隣と調和しがたい悩みがあったのだろう。(中略)
 
男子同性愛に対して、一家言を持っていることでは、このママさんは恐らく都下ゲイ・バアのマスター中で随一であろう。借り物でない、自分の意見を持っているのだ。それだけにボーイに対する薫陶も、なかなか当を得ているようだ。
 
このように割りきっている彼にも、若いころには、社会との調和を考え、母親のすすめに、意に染まぬ異性との結婚をしたこともあったというが、同棲何ヶ月かにして、妻には指一本触れることなく、ついに離婚したのである。
 
母親とは現在も同居している。親孝行なのである。母親コンプレックスが、彼の同性愛の要因かもしれない。(中略)
 
「シルバー・ドラゴン」のボーイさんは、現在5人、年齢は20歳から25歳。ここのボーイもほとんどが、昼間は他の職業に従事しているか、あるいは職業の師について勉強している。
 
ママさんは店に新規のボーイが入ってくると、いつも次のように話すのだそうだ。
 
「お前さんたちは、今は若いからお客さんにチヤホヤされているが、いつまでもそうだと思っていたら大間違いだ。
25、6過ぎにでもなったら、誰も相手にしなくなる。ゲイ・バアのボーイなんて、若いうちだけが花なのよ。
 
だから年をとった時の用心に、今のうちから何か職を身につけておかなきゃいけない。その職もこういう店のボーイというと、誰も彼もがバレエをやりたいとか、日舞で身を立てたいとかいうが、それがお前さんたちのいけないところさ。怠けぐせの現れさね。そんなことに憧れるより、もっと地道なしっかりした職を習うようにするがいい。」
 
このような「薫陶」が、ボーイの処世術に影響しているわけである。
 
ソドミアが同性の相手を求める情は、普通人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強いものであることは事実である。それは何に所以するのか。
 
容易に愛の対象をもとに得られそうに見えるゲイ・バアのボーイにおいても、この念は同様だということだ。」
 
 
 
かなり話をカットしてしまったが、敗戦後いち早くゲイ・バアを開店させた、ゲイ・バアの黎明期のママさんたちは、しっかりした考え方をしていた人が多かったようだ。
 
「ゲイの人が同性の相手を求める情は、普通の人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強い」と、ママさんは言っているが、それはゲイの人たちが子供の頃から抑圧され続けてきたからだろう。それはこの時代と、今の時代でも変わりはないのでは……。

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2017年7月 1日 (土)

ドクターと呼ばれる顔にホモの?

川柳って、その時代の庶民の生活を反映させている。
 
1955年7月号(今から62年前)の『AMATORIA・あまとりあ』(あまとりあ社刊)が、書棚の中から見つかった。
 
この雑誌、第5巻とあるから、1950年・昭和25年頃に創刊されたのだろう。この時代、多くのエロ雑誌が創刊された。敗戦後、まだ5年しか経っていない頃だったからひどい時代だった。
 
ぼくは小さい出版社が生き残るにはエロ本しかないと「ナイト・ブックス」を出した第1号が、武野藤介さんの『わいだん読本』だった。昭和37年12月のことだ。まったく面識のない武野藤介さんを吉祥寺に訪ね、出版をお願いした。
 
その後、武野さんの本を何冊か出し、親しくなり、息子さんにお嫁さんを紹介したこともあった。
 
西荻窪駅のレストラン「こけし屋」で催される中央線沿線に居住する文化人が集まり、「カルヴァドスの会」の年末に開かれる宴会に先妻の舞踊家、ミカを余興に会員である武野さんが推薦してくれて、踊りを見せたことがあるから、武野さんは忘れられないお方だ。
 
『あまとりあ』の裏表紙に、武野さんの著書の広告が3冊も載っている。人との出会いって不思議なものだ。
 
 
 
『あまとりあ』の誌上に「現代風俗川柳傑作選」という投稿ページがあり、選者は岡田甫(はじめ)さんだ。
 
「天」に選ばれた句は、徳島の杉原芳水さん。
 
  男娼に頼まれて買う女下駄
 
「新奇な思いつきを採る」と、選者は書いているが、男が女下駄を買うのは恥ずかしい。女性に頼んだというところが面白い。
 
「地」は、これは驚き。『薔薇族』の読者は、肛門にいろんなものを入れて楽しんでいたが、入れたはいいが出せなくなってしまって、電話をかけてくる人がいたが、女性がオナニーをするのに、電球を使ったとは。割れたらケガをしてしまう。にんじんとか、きゅうり、なすぐらいにしてもらいたいものだ。
 
  電球(たま)割った話が彼の腑に落ちず
 
神戸市の田中富美子さんの句だ。選者はこんなことを書いている。
 
「女性のオナニーは、男性の想像もつかぬものを使用するとか。昔女学生が電球を使用し、それが割れて大ケガをした話は有名だ。」
 
この時代は「ラブオイル」もないし、オナニー用の用具も進化していない時代だから仕方がなかったのだろう。
 
 
 
秀逸欄には、こんな句も。
 
  ドクターと呼ばれる顔にホモの影
 
『薔薇族』の顧問ドクターだった、三原橋の医院の先生の顔がまず頭に浮かぶ。お医者さんも読者に多かった。
 
  男娼のハンドバックに脱毛剤
 
今なら「ラブオイル」も入っているのでは。
 
  間違えた電車のように鶏(とり)に下りる
 
北海道の比沙婆さんの句。鶏の交合って、そんなに早いのか。見たことないな。せせらぎの桜並木を散歩していて、初めて雀の交合を目撃したけど、メスのあとを何度もしつこく追い回していたっけ。
 
  こんなにも簡単なものオロシて来
 
東京の山北残月さんの句。女性が妊娠して堕胎するという大変なことを、こうも簡単に句にされてはやりきれない。
 
下北沢の北口にあった木造の汚い医院。母も堕胎したこともあり、親類の人、知人も紹介していたっけ。当時は法律で禁止されていたのでは。暗い話だ。
 
  珍毛がたまって頭薄くなり
 
芦屋の楠南坊さんの句。珍毛蒐集癖の男の話。長い時間をかけて珍毛を集めているうちに、自分の頭が薄くなってしまう。人生の悲哀を感じさせる。川柳って面白い。

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2017年6月26日 (月)

「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」で大当たり!

「渋谷千雅」は、ホモホテルの東京での草分けではない。すでに「大番会館」「24会館」などがあって渋谷では最初ということだ。
 
渋谷道玄坂を登りつめて、その頃はふとん屋があり、その路地の突き当たりにあった。その近辺は男女の連れ込みホテルが軒を連ねていて、「千雅」の前は連れ込みホテルだった。
 
男女の連れ込みホテルが廃業したので、そこを借りて、男性同性愛者のホテルにしたのだ。だから間違えて、アベックが扉を開けて入ってくるので、最初の頃は、断るのに苦労したと、聞いたことがある。
 
開業した頃は、渋谷の駅から歩いて20分ぐらいあるから、お客は少なかったようだ。親父さんと若いマネージャーが、我が家に訪ねてきて、なんとか誌上で宣伝してくれと、頼みに来たので、竜さんが考えて後の胡桃沢耕史さんにお願いして「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」となった。
 
さすがエロ作家として名を売った清水正二郎さん(後に直木賞を受賞して改名)の潜入記は、迫真の手記となり、これで「千雅」は大繁盛となった。
 
「サロンが高くつくのではないかとおじけづいた人(ふつうのホモバーとほとんど同じ低料金だったのに)派手めなのは敬遠する人はいたのだ。彼らは真っ暗な部屋で排泄してさっさと帰る。心と心の触れ合いなどには目をつぶったのだ。早く家庭に帰らねばならない人もいるだろう。事後のシャワーを浴びるのさえ避けたりして。
 
じつは「千雅」の真価、すばらしさは、このサロンにこそあったのだ。一流紳士とまではいかぬにしろ、ここの客筋はかなり良かったようで、下品にならず、なごやかなムードで楽しかった。
 
サロンに来る人は、まず乱交室には行かなかったそうだ。ハダシになり、浴衣に着替えて飲み、しゃべり、歌い、踊った。それだけで充分だったのだ。昼の社会生活のニガさを忘れられた。飲みすぎても部屋があるから安心でもあった。
 
乱交部屋のほうはふだんと同じだったが、サロンの方はさすがにラスト・ナイトがあって、入れ替わり、立ち替わり歌い、ここのショーの中心人物「夕霧」さんが大奮闘した。
 
この人、ここでのショーを変化づけるために、10年間いろんな衣裳をごっそり買い込んだ。「千雅」の楽屋に置いてあった山のようなそれらを、これから家庭のどこに隠すのだろう。
 
男っぽい顔のオジサンで、バレリーナもやるけど、本領は太鼓のバチを振り上げて、見栄を切ったりする男振りなのだ。こんなこと他の店ではやらせてくれないだろう。
 
その他、人の歌にあわせて、浴衣を踊りながら脱ぎ、六尺ふんどし1本でポーズをとって、六尺をはずして飛び跳ねる、男くさい顔でいいからだをしたスーパーのオジさんなんかもいたが、これから彼らはどうするのだろう。
 
「千雅」がなくなったことで、多くの男の人生に、また、苦みがもどってしまうのではなかろうか。
 
長い間、「千雅」さん、どうもありがとう!」
 
 
 
「千雅」が廃館になったのは、今から28年も前のことだ。
 
「千雅」の親父さん、胡桃沢耕史さん、そしてこの原稿を書いた藤田竜さんも、みんなこの世にいない。
 
その後の「千雅」の親父さんのことはブログに書いた記憶はある。ゲイホテルも進化しているから、竜さん心配することはない。どこも大繁盛で、日本のゲイたちは幸せだ。

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2017年6月24日 (土)

どれだけのザーメンが噴出したのか!―渋谷ホモ旅館「千雅」物語―

これはどうしても、ゲイホテルの歴史として残しておきたい話だ。
 
1989年9月号創刊200号18周年記念特大号に、ぼくの良き相棒だった藤田竜くんが「旅館「千雅」満14年で終業。のべ100万人の客だから売上15億円?」と題して書いている。
 
 
 
「東京のホモ旅館「千雅」が6月末でついに閉館してしまった。
 
創業者の名物社長、K さんの手から離れてからも4年間、営業を続けていたのだが、最近、付近の土地がまとまったので、大がかりなプロジェクトを開始することになり、ついでに「千雅」も跡かたもなくなることになったわけ。
 
「千雅」出現以前も東京には、同好者の集まるサウナや旅館はあったけれど、大がかりで大っぴらに『薔薇族』に広告を打って始めたのは「千雅」が最初だった。
 
時は『薔薇族』が創刊して4年後、つまりひっそりホモ、地味ホモがそろそろ世間に出て、楽しまねばと決心しだした頃だったから、そりゃもう、スタートしてしばらくは立錐の余地もないってくらいの大混雑だった。
 
やがて隣のビル(会社の社員寮だった)も買い、ドでかくなったところへ、全国から客が押し寄せ、男ではちきれそうだったのだ。今にして思えば、東京では史上空前絶後の乱交場であった。
 
 
 
今は直木賞作家となった胡桃沢耕史先生に、僕のアイデアで「ノンケ紳士」となってもらい、「潜入記」を『薔薇族』に書いてもらったのも、かなりの宣伝効果になったようだ。
 
先生、がっちりデブだから、えらくモテたようだけど、残念ながら男好きに転向することはなかった。
 
旧マスターは客筋の良さを誇った。確か「世界一流紳士が……」なんてコピーが広告によく使われていたっけ。
 
僕は開店当初、一度だけ行ったが、知り合いの子たちに何人も会って、ハレンチできなかったけど、前に一度見かけて好感を持っていた青年にしゃぶりついたのだけが、たったひとつラッキーだったなあ。
 
さて、今年6月30日(金)ラストの夜に行ってみたら、なに、乱交ルームはとりたてて満員でもなく、どうってことなかった。今夜でおしまいってことさえ知らない人も結構いたりして―。
 
ただ異様に外人が多いの。「千雅」は外人OK だったのだ。他の店はガイは入れないから、彼らには天国だったろう。
 
ガイ同士がバックしてるのを隣にしゃがんでしっかり見学した。日本のフトンの上でしてる姿って面白かった。
 
旧主人が引退した段階で少し客層は変わり、エイズ騒ぎで客数もやや減ったというが、ざっと換算すると、なんと入館料で15億円にもなる計算だ。ザーメンも勝手に流させて、このもうけだもん、すごいねえ。他に会員料、飲食料もあるんだよ。
 
何事も新しい仕事を早く大きく始めた人の勝ちなのだ。それにしてもどれだけの量のザーメンが、ここで噴出したのだろうか。
 
「千雅」拡大後は、広々としたドリンク・サロンができ、ここが一大社交場、ストレス発散所となった。
 
カラオケのステージがあり、踊れるスペースが広く、ボックスシートもたっぷりあって、他にちょっとない豪勢さなのだった。
 
乱交部屋のある4階の棟と、サロンは1階でつながっているとはいえ、サロンと乱交場は、客層がまるで別になってしまったのが計算外だったろう。」(つづく)
 
 
 
ひばりさんの歌を歌ったら、ずば抜けて上手い人もいた。夢のあとと言っていいだろう。

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2017年6月19日 (月)

いじめられても、親や先生には言わなかった!

2017年6月4日の東京新聞の朝刊に「いじめ加害6人停学・山形の高校、男子バレー部」という小さな記事が載っている。
 
 
 
「いじめは昨秋ごろ、部内でのトレーニング方法をめぐるトラブルをきっかけに始まった。本年度に新入部員が加入してからも、暴行したり、飲食物をおごらせたりしていたという。5月22日、2年生の部員が鼻血を出しているのに気付いた部外の生徒が学校に伝え発覚した。」
 
 
 
1997年11月号の『薔薇族』(今から20年前)の「少年の部屋」のコーナーに山口県・パパゲーノ君が、「小説のような初体験」と題して、こんな投稿をしている。
 
 
 
「僕は北九州市内の私立高校に通う2年生です。僕がホモに目覚めたのは、中1の時に部活の先輩にいじめか(?)られたからです。
 
僕は中学の3年間、テニス部にいました。入部してすぐに先輩2人から、ズボンの上から揉まれたり、パンツを下ろされたり、ということを毎日されました。
 
ある日、その時のひとりにトイレでH本を見せられてしごかれ、初めてオナニーを知りました。それからはその先輩2人に、もう1人加わって3人に、もっとHなことをされました。ザーメンを飲まされたこともありました。
 
 
 
でも、そんなことをされながらも、そのうちのひとり(あとから入ってきた)Y先輩を好きになりました。
 
他の2人はブサイクだけど、Y先輩はとてもかっこよくて、頭はあまりよくなかったみたいだけど、部活もバリバリで背もまあまあ高かったのです。
 
そして夏の合宿のとき、合宿所のトイレに夜2人で行って、そこで初めてY先輩のアレを見ました。他の2人は僕に舐めさせたりしていたので見たことがあったけれど、Y先輩はずっとその行為を見てるだけで、自分からは何もしないので見ることも、ましてや触ることもできませんでした。
 
Y先輩のあれは仮性ホウケイで(自分も)、真っ黒で毛もボウボウで男らしいなと思いました。
 
B 僕は先輩の目の前でオナニーをしたあと、Y先輩のをしごいてあげました。Y先輩は1分もしないうちに、僕の口の中で発射しました。溜まっていたみたいで、たくさん出たので口だけでなく、Tジャケットにも飛び散りました。
 
Y先輩とは、それが最後のHな思い出になりました。それ以来、Y先輩は僕を避けるようになり、一言も口をきいてくれなくなりました。
 
そしてY先輩は卒業していきました。これは推測ですが、僕が他の2人の先輩にY先輩が仮性ホウケイだということをバラしたのが原因ではないかと思います。
 
このことがあって、僕はホモに目ざめたのでした。」
 
 
 
これに対して、編集部の竜さんか、もう1人のスタッフがコメントしている。ぼくじゃないことは間違いない。
 
 
 
「まるで小説みたいな初体験だね。後ろめたさや、苦しみみたいなものがなさそうなのもすごい。
 
少数派である僕らだけど、ホモだからこその楽しい人生は送れると僕は考えているんだ。諦めたり居直ったりの裏返しでゴーマンに生きるのではなくて、笑いながら自然に生きられるようになる道はあるんだ。
 
まず自分をきちんと見て、どんな自分になりたいかをよく考える。そのヒントは『薔薇族』のあちこちにこめてあるんだよ。」
 
 
 
『薔薇族』時代の少年たちは、このようなことがあっても、親や先生に絶対に言わなかった。

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2017年6月17日 (土)

燃えきらない、くすぶったままの青春時代!

「昭和16年(太平洋戦争の始まった年)当時の高等小学校を出ると近くの会社に入りました。
来る日も、来る日も、使い走りや雑用ばかりの仕事に夢破れて、嫌気のさしていた私に必要以上に陰になってかばってくれた上司のA さんがいたのです。
 
今思えば少年の私が同性への憧れに芽生えたのは、この頃だったようです。でもA さんは少年の私にそれ以上のことは何もせず、単なる同情でしかなかったようです。片思いのままの毎日でした。
 
 
 
A 戦局がだんだんきびしくなった昭和18年、遠く離れた軍港の町へ徴用になり、それからの2年間の生活のなかで、色々な人たちの出会いがありましたが、工場の組長だったB さんと、寮の室長のKさんとのことが、今でも忘れられないのです。今思えば2人ともずいぶん年上だったようです。
 
その頃の私は、青年期に入ろうとする年代です。望郷の念にかられながらも懸命に働いたものです。そんな中で2人とも、食べ物のない時代に、貴重なお菓子や、煙草を人に隠れてこっそりとくれたり、休日に町の映画館に連れて行ってくれるのです。
 
戦時映画のスクリーンを見ながら、手を握ってくれたことが一度だけありました。それ以上はいくら待ってても、その手が進んで来ないのです。
 
意気地なし、いえ、私が意気地なしだったのです。40年も経った今でもその時のことを思い出すのです。
 
そしてまた、別れの時が来ました。私に出征令状が来て軍隊に入ることになったのです。
 
 
 
軍隊生活は、わずか3か月間でしたが、私の班長だったDさんとの出会いがありました。今思えば厳しい軍隊生活の中で、どうしてあのような厚意を私に示してくれたのだろうかと、不思議に思うのです。
 
夜の不寝番の順番がきても、何かと理由をつけてはずしてくれたり、ひそかに連れ出して飯を腹一杯食わせてくれ、そしてたまに入浴時には必ず私の近くにいたような気がするのです。わざと指名して背中をこすれと言ったことです。でも、それ以上のことは何もなく、終戦になったのです。
 
 
 
今、私は当時のことを振り返ってみて思うのです。過去の青春期に出会った方たちが、他人の私になぜ特別に人への情を示して、人にわけへだてまでして優しくかばい、そして励ましてくれたのか、よくわかるのです。
 
人間、誰しも同性を愛する気持ちを、大なり小なり心の底に秘めているのではないでしょうか。
 
きびしい戦時下のあの頃では、どんなに好意を持ったとしても、最後のそのことだけは言い出せなかったのだろうか? 2人きりの機会がいくらでもあったのに、互いにその言葉を待っていたかもしれないのに……。
 
私の青春時代は燃えきらない、くすぶったままで終わり、それが今現在まで続いてるのです。
 
性向を隠し通して、それぞれの職業を持ち、健全な社会人として、善き家庭を持ちながら人に打ち明けることができない、この悩みを持っている中高年の方たちがたくさんいると思うのです。私もその1人なのです。(石川県・純)」
 
 
 
『薔薇族』は、1971年の創刊なので、軍隊生活から戻ってきた人たちの投稿手記も多く、それは貴重なものだと思う。
 
近くの本屋で『薔薇族』を買うことができず、離れた所でまで買いに行く。その後、この人の人生はどうなったのだろうか。ほのぼのとしたいい話だが……。

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2017年5月29日 (月)

学園闘争の激しかった時代の匂いが!

日本で初の同性愛誌『薔薇族』の創刊へと、いきなりたどり着いたわけではない。
 
小さな出版社はエロ本で生きるしかないと、昭和37年(1962年)に、武野藤介さんの『わいだん読本』を最初に、ナイトブックス(騎士と夜をかけたもの)と称して、新書版で60冊ものエロ本をひとりで出し続けた。
 
昭和41年(1966年)秋山政美さんの『ひとりぼっちの性生活=孤独に生きる日々のために』を刊行、これがヒットし新しい読者の存在に気づき、方向転換して男性同性愛者のための単行本発行に切り替えた。
 
 
 
20冊ほど雑誌を出す前に、同性愛者向けの単行本を出し続けたが、その時代、1冊の本の原稿を書ける人は少なかった。
 
一番最初に原稿を持ち込んでこられたのは農上輝樹さんで『薔薇の告白・女を愛さない男たち』で、自ら裸になってモデルになり、若い男とカバアを飾っている。書名も装幀もぼくひとりでやったもので、帯の宣伝文句もぼくが考えたものだ。
 
 
 
農上輝樹さん、『薔薇族』を創刊してからも、次々と原稿を寄せてくれた。かなり後になって知ったことだが、東京六大学の一つの大学の図書館で働いている方だった。
 
『薔薇の告白』の中の一節の「落書ホモの生態」が面白い。
 
 
 
「心に浮かぶ片々―単純で短く断片的な落書きの語句は、心の端的なスケッチであり、情念の吐露ともいえる。
 
淡彩ながら鋭くて、直截なそれは、フォトジェニックに正確なホモの心象風景でもある。物語作家の語る物語にも増して。
 
壁に咲いた落書き、メモに記された熱く重い魂の表白を集めて読者諸氏に送る。」
 
 
 
ネットや携帯電話などのない時代、トイレの壁に書かれた文字は、当時のホモの人たちの切実な叫びだった。
 
 
 
「学友のH・R君、きみのファロスをなめてあげたい。ういういしいきみの顔を見るたびにわしの胸は強い欲情で疼く。わしは今日もここで自らを汚す。
 
なんて形のいい尻なんだ。汝の幻影に向かい、汝の名を呻きながら、わしは今日も自らを汚す。(拓殖大学トイレ)」
 
「男のミルク飲みたい人、飲ませたい人、左記へ電話しな。電話番号(554)1919番(新宿日活名画座)」
 
「ちゃん ちゃん ちゃんこにケが生えた。珍々 珍子はカスむくれ テストが書けずに珍古カク(東京予備校)」
 
「じっくりと若者のにおいがしみこんだブリーフが欲しい。誰かはき古したヤツをここに脱いでいってくれ。毎晩7時に棚の上を見に来る。(競技場わきの円形トイレ)」
 
「おれんとこは下宿屋だ。誰もいないときに押入れを開けると、若い学生さんのがいろいろ検査できる。塩辛いような酸っぱいようなツーンとした鼻に染み渡るような匂いがするぞ。ゴワゴワの地図がついたものもある。欲しかったら連絡先書いておいてくれ。(同)」
 
「おれはヘルメットかぶって、フク面して、ピッチリした綿パンをはいた学生さんのが欲しい。ムッと汗にむれてて、またぐらのにおいをたっぷり吸い込んでいるヤツだ。(同)」
 
「全学の学友諸君、ひよるなよォ、屁をひるなよォ、臭ぇぞォ。(同)」
 
「機動隊のXと、全共闘のXをねじり合わせてしごいてみたい。(新宿・京王百貨店)」
 
「ヘルメットをつけたまま、5階便所の中で抱き合った。今井君はピクッピクッと死ぬように激しくケイレンして白いものを飛ばした。せまい四角い空間が、洗わないカレのにおいでいっぱいになった。(新宿・京王百貨店)」
 
 
 
学園闘争の激しかった時代、あの頃のにおいがむんむんとにおってくるようだ。

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2017年5月20日 (土)

LGBT を完全に理解し、語れる人っているの?

201705a LGBT という言葉が、新聞紙上で目につくようになってきた。
 
2017年5月13日の東京新聞に「LGBT を理解 企業を育む 東京五輪が後押し・社内で研修制度整備加速」という、大きな記事が載っている。
 
 
 
「同性愛や性同一性障害などの性的少数者(LGBT )が働きやすい職場にしようと、企業が研修や社内制度を整える動きが加速している。
 
2020年、東京五輪・パラリンピックの基本コンセプトに、「多様性と調和」を掲げ、好きな相手の性(性的指向)で差別しない方針を打ち出したことが、追い風になっている。」と、奥野斐記者の記事だ。
 
 
 
「隠れていないで表に出よう!」の旗印で、1971年に日本最初のゲイ雑誌『薔薇族』を創刊したぼくとしては、こんなに嬉しいことはない。
 
しかし、考えてみれば、このような機運になってくるまでには、50年という歳月が流れている。
 
まだまだ歩みだしたばかりで、ひとつの差別を解消するには、あと50年はかかるだろう。
 
 
 
国内の20〜59歳を対象にした電通の調査(2015年)では、7.6%。博報堂DYグループのシンクタンクによる同じ対象の調査(16年)では、約8%と推計している。
 
7.6%、8%というと少ない数ではないが、表に出ている人は、1割ぐらいで、あとはひっそりと隠れて暮らしているに違いない。
 
 
 
「住宅設備建材メーカLIXILは、4月、外部講師を招いて初めてのLGBT勉強会を開いた。
 
2日間で社員約300人が参加。」とある。
 
 
 
外部の講師を招いてということだが、どんな話をされたのか聞いてみたいものだ。
 
『<男性同性愛者>の社会史・アイデンティティの受容/クローゼットへの解放』の著者の前川直哉さんのように、自らゲイであることを公表し、本も出版されるような学者は、少ないというより、ほとんどいないと言っていいのでは。
 
同性愛の研究をしていると、あの先生はゲイではと言われてしまうし、女性と結婚もしているから、隠してる先生が多いだろう。
 
 
 
「男であって、男が好きな人」と言っても、いろんな人がいるのだから、30数年、ゲイの人と付き合ってきたけれど、奥が深いというか、まだまだわからないことが多い。
 
LGBT といっても、その全てを理解し、明解に答えられる人って、いないのでは。
 
 
 
『薔薇族』1985年4月号創刊150号記念特大号に、直木賞作家でもある、今は亡き邱永漢さんが「暗黒大陸への熱い視線」と題して寄稿してくれている。
 
 
 
「まだ社会的偏見に包まれているのは同性愛と近親相姦ぐらいなものですから、小説のテーマとして残された暗黒大陸と言ってもよいのかもしれません。
 
私の仲間の小説家の中にも、ホモセックスを取り上げたいと常々言っている人がいますが、いまだに実現していません。
 
ジャン・ジュネの『泥棒日記』から、デュベールの『薔薇日記』に至るまで、私もひととおりは目を通していますが、やたらに衒学的だったり、やたら即物的だったりして、まだこれこそ傑作中の傑作だという作品には出会っていません。というのも、ホモセックスをごく普通の人間の恋愛感情として扱う人が少なく、ひどく誇張したりしてみたり、あるいは自分は局外者だという立場を強調した作品に終始しているからです。」
 
同性愛は暗黒大陸といった邱永漢さん、そう簡単に、同性愛を語るものではないということなのだろうか。
 

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2017年4月29日 (土)

キリスト教が同性愛を嫌がるわけだ!

毎年、お中元や、お歳暮の季節になると、一番先に豪華なハムなどを送ってくれる人がいた。
 
それは三原橋で泌尿器科の医院を経営しているお医者さんからだ。
 
 
 
ぼくは『薔薇族』の巻末の「編集室から」にこの医院を紹介していた。性病のことや、肛門にゴルフのボールを入れて、とれなくなってしまったなどの電話がかかってくると、三原橋医院を教えてあげていた。どれだけの電話がかかってきたことか。
 
 
 
藤田竜さんは、この先生から「男と男の医学教室・16のギモン」」と題して、とんでもない質問をして、回答してもらっている。
 
「精液は栄養になるか?」の質問。
 
 
 
「飲んじゃったんだけど、大丈夫でしょうかという電話がよくあるらしいですね。精液というのは普通の人で4CCぐらいですよ。
 
ティスプーンで2杯ぐらいのものだし、そのうち90%は水分で、残りの10%がタンパク質みたいなものだと考えていいと思うんですよ。カロリーからいうと、タンパク質1グラムは4カロリーだから、16カロリーぐらいで栄養的にみたら問題にならない。
 
だからそんなのは栄養的に考えてもどうってことはないし、飲んでも別に差し支えないと思いますよ。
 
ただ、その人が淋病なんかを持っている場合、その人の精液を飲んじゃったということであれば、精液が出てくる時にどうしても尿道を通って出てくるので、淋菌も一緒に出てくるわけですよ。
 
例えば扁桃腺のひどいのとか、口内炎みたいなのを起こして、顎の下が腫れるとか、どうも治りにくい扁桃腺だとかいうこともあるようです。
 
 
 
だけど胃へいってしまうと、胃というのは胃酸が猛烈に強いんで、そういうばい菌なんかも、ほとんど死滅しちゃうんで、そこから下の淋病というのはわりにないようです。淋病のある人の精液を飲んでもですね。
 
だから精液を飲むということは、べつに害はないと思います。むしろ、タンパク質をちょっと飲んだ、卵の白身の何分の一かを飲んだという程度のものでしょう。
 
 
 
面白いのは精虫というのが、1CCの中に7千万ぐらいいるんです。オタマジャクシが泳ぎ回っているわけですね。だからそれが4CCとすると、2億から3億ぐらいの原虫を飲んだことになるね。1回の射精でそんなに出ちゃう。2億の大群を飲み込むという感じになりますからね。その精虫に色でも付いていたら、気持ちが悪くって、ちょっと飲めないだろうけど、単純な白いものだからね。
 
水っぽいのとか、ドロっと濃いのとかがあるのは、作る場所を考えるといいと思うんですよ。精液というのは睾丸でできると思うでしょうけど、そこはむしろ精虫だけなんです。
 
オタマジャクシだけと、考えていいわけ。
 
あとは前立腺というところと、精嚢で、ほとんどができるわけです。
 
 
 
前立腺というのは、いわゆる水っぽい液を出すところだし、精嚢というのは、いわゆるゼラチンみたいなものを出すところなんです。
 
精虫だけで泳ぎ出してくるわけではなくて、精虫を動かす働きをするために、そういういろいろな水が出てくるわけです。
 
だから一晩に何回もやると、第1回が4CCなら、第2回は2CCとか、ぐんぐん減るわけです。
 
ですからマスターベーションなんかやってますと、頻度によって精液の量はずいぶん違うと思うんです。
 
 
 
禁欲していれば、ドロリとするということもあるし、液の量も多いですね。もちろん虫も多いですよ。」
 
 
 
こんなこと医者に聞く人もいないだろうし、真面目に答える医者がいたなんて?
 

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