【オークション】宇野亜喜良デザイン シルクスクリーン・ポスター→ 終了しました
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大正時代に、ぼくの祖父、伊藤富士雄は、(大正12年6月2日、53歳で亡くなっている。救世軍の士官として、廃娼運動に身体を張って千人近い、娼妓を解放させた。)が亡くなった。大正12年(1923年)9月1日(土)、11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖、80km(北緯35・1度、東経139・5度)を震源として発生した、マグニチュード7.9の大正関東地震で、神奈川県を中心に、千葉県、茨城県から静岡県東部までの内陸と、沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を受けた。
東京は地震によって、家屋が倒壊する被害と、当時はほとんど木造家屋なので、火災による被害が大きかったようだ。神奈川県では振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れや津波による被害もあった。
被害は地震によるものだけで、今回のような福島第一原発事故のような放射能による被害がなかっただけに、復興も早かったに違いない。
大正時代は情報の伝達の手段は新聞しかなかったから、大事件が起きたとき風評とか、デマのようなものは、人々の口から口へ伝わって、ゆがめられてしまったものもあったと思う。
一番大きな風評は、在日韓国人による暴動、そして放火だろう。本当にそういう事実があったのかはその時代に生きていないのだから、真実は分からない。
戦前のぼくの代沢小学校時代、昭和7年3月生まれだから、昭和14年に入学し、空襲が激しくなってきた、昭和19年に卒業し、世田谷中学(現在の世田谷学園)に入学している。
代沢小時代、近所に紙くず屋さんがあり、そこの息子、確か柳(りゅう)君と言ったとおぼえているが、一年上でからだが大きく、小学生の相撲大会で優勝したこともあった。
柳君はからだの小さなぼくをかわいがってくれ、今でも覚えているが、ブリキ製の機関車をもらったことがあった。立派なおもちゃだったから、今残っていれば、かなり高額な値段になるだろう。
当時、日本人が嫌がる仕事を韓国の人たちがやっていた。強制的に日本に連れてきたのかは分からないが、北海道の炭鉱で石炭を掘っていたのも韓国の人たちだ。
悪い人間は、どこの国にもいる。ぼくは柳君との思い出があるので、韓国の人を悪く思ったことはない。
10数年前にソウルを訪れて、ゲイバアなどを取材したが、日本語の上手な人が案内してくれたので楽しかった。
今回の東北の大震災、新聞、週刊誌、ラジオ、テレビ、インターネットと、いろんな報道をすぐに知らせてくれるのだから、大正時代とはまったく違う。
週刊誌などは売らんかなで、放射能の恐ろしさを伝えるものだから、どれを信用していいのか分からなくなってしまう。
稲のわらを食べた牛が、放射性セシウムが検出されたというと、焼肉屋さんのお客さんが、がたへりだという。子供を連れて家族で食べにきてくれるようなお客さんが、まったく姿をみせないそうだ。
昔ながらの稲わらを使った茨城県の特産品「わら納豆」が、売り上げを大きく落としているとか。
先日、女房の実家がある新潟の弥彦村に行ってきたが、昨年、収穫したお米をみんな買いしめているらしく、農家ではない町の人はお米が買えないと困っている。
ぼくの父が19歳の頃、関東大震災のあとに富久町(新宿から近い)に住んでいて、韓国人の暴動にそなえての自警団を作ったときの写真がみつかった。ほほづえをついて座っているのが19歳の頃の父だ。これは貴重な写真だと思うが。
父が住んでいた富久町の自警団。
韓国人の暴動を恐れてのことだろう。
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フランツ・フォン・バイロス(1866〜1924)という19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンとミュンヘンで活躍した画家の名前を知っている人は少ないだろう。
貴族の家に生まれながら、その経歴や彼が制作した作品の全貌があきらかでない。あれほど美しく優雅で艶治(えんや)で華麗な蔵書票や挿絵を残しながら、バイロスの名は一般の美術史から黙殺されている。
その理由は、彼の絵がエロティックで富豪や愛書家のための少数限定の特殊本の挿絵や蔵書票が多く、それが個人の書斎の奥深くに納められてしまうと、一般の人々の眼に触れる機会が少なかったためと思われる。
澁澤龍彦さんも次のように述べている。(「芸術新潮」6月号・1979年)
「デッサン力や構想力において、はるかに勝りながら、あのビアズレーの単純な線描に、その芸術的な品格の高さにおいて、はるかに及ばないのがバイロスという芸術家の宿命であった」
末っ子のバイロスは兄と二人の姉達に囲まれて、幸せな少年時代を送り、6歳の頃から好きで始めた絵を家族達は温かく援助してゆくとある。
1896年2月、バイロスは30際で結婚する。相手は当時ウィーン社交界で有名なワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世の娘である。ところが、この結婚はわずか1年で破局を迎える。理由は不明であるが、僕はバイロスはゲイだったと確信している。
僕がコレクションしたパリの画家、ルイ・イカールもゲイだったと思う。この2人の作品に出会い、日本で多少なりとも紹介したことに何かの因縁を感じている。
1992年11月1日から29日まで、新潟県弥彦村の「弥彦の丘美術館」で、世界に先駆けて「バイロス展」を開催した。
僕はバイロスの無念さをはらしたいという思いが強くあった。1911年、バイロスの画集「化粧台物語」がわいせつ罪で、ミュンヘン警察からわいせつ図画販売の容疑で摘発押収されていたからだ。
僕が発行していた『薔薇族』も、4回も発売禁止となり、風紀係には20数回も始末書を書かされていたから、バイロスの無念さをはらしてやりたいと強く思っていたからだ。
昭和54年10月に、山本芳樹さん(今はこの世にいない)が中心になって出版した「バイロス画集」(さばとやかた刊)が、神奈川県警からわいせつ図画販売の容疑で摘発され発禁になってしまった。
東京の書店で「バイロス画集」を買い求めた神奈川在住の人が、性器がむき出しに描かれているのに腹を立て神奈川県警に訴え出たのだ。
神奈川県警でも、県下の美術館の学芸員にバイロスについて聞いたが、誰も知らなかったという。
出版元の広政かほるさん(亡くなって、さばとやかたも今はない)は、3日間も留置されたというのだからひどい話だ。
しかし、この事件がマスコミの間で大きく報道されたので、バイロスの名前が知られるようになったとは皮肉な話だ。
今、僕は何としても今年中に本にしたいと思っているが、「背徳のエロスからかわいいものまで」という僕のコレクションを紹介する本を出すべく執筆を始めている。
森茉莉さんの作品に、すっと入っていける人は、バイロスの作品にも虜になってしまうだろう。不思議な感性の持ち主だけが知りえる世界なのかもしれない。乞うご期待だ。
本が出たら出版記念会を開き、作品を展示してお見せしたいというのが今年の夢だ。
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2011年(平成23年)7月27日(水)の夜、11時55分からのNHKの「SONGS クミコ・自分を信じて歌い続けた日々」という番組を見た。
クミコさんは、あの東北大震災の3月11日石巻市の体育館でコンサートを開くべく、リハーサル中に、地震と津波が押し寄せた。
衣裳も何もそのままにして、スタッフと共に裏山に駆け上って生命は助かったのだが、もう一度そこで歌いたいと、また訪れたのだ。
ぼくも東京大空襲の記憶は残っているが、津波というのは恐ろしい。何もかも海の中に運び去ってしまっている。
クミコさんもあまりに変わり果てた石巻の町を見て、どんな心境になったのだろうか。
ここから山に駆け上ったという場所は鉄製の金網が倒されている。倒されていなければ、かなり高いから、よじ登ることは出来なかったろう。誰かが逃げのびるために、金網を押し倒したに違いない。
会場になった体育館の廊下には、3月11日と入ったポスターがまだ貼ってあった。拾い集めたのか、クミコさんの衣裳も、使えないだろうが、竿に掛けてあった。クミコさんが生きていることが奇跡としか言いようがない。
クミコさん、紅白歌合戦に出場して、一流歌手に登りつめたわけだが、苦労人だけあって、30年ぐらい前に出会った時と、まったく変っていない。
葉書を送ると、すぐに葉書が送られてくる。昨日のテレビに出ていた、小さなシャンソン喫茶、お店の名前は分からないが、壁に金子國義さんの絵が掛っていた。独特の絵だから、はっきり撮っていなかったが、間違いはない。
以前はシャンソン喫茶は都内に何カ所もあったけれど、戸川昌子さんの「青い部屋」もなくなってしまったようだ。
NHKホールでの「パリ祭」には多くのシャンソン歌手が出演していたが、みんなどこで歌っているのだろうか。
今年も本を出せるか、分らないが、原稿を書いていると、年のせいか、すぐに眠くなってしまう。この暑さにも参っているが、どこも悪いところがないのだから、何とか年内に本を出して、クミコさんにお願いして、シャンソンをたっぷり聞かせてもらいたいものだ。
おそらくNHKも番組をクミコさんのために作っているのだから、今年も紅白に出場できると信じている。
ぼくの女房の名前もクミコ。クミコの名前をぼくのブログを見ている人に、もっともっと宣伝してもらいたいものだ。
じっくりと、心に沁みる歌を聞かせてくれる歌手って、そうはいない。クミコさんにはその力がある。長いこと応援してきたクミコさん、もっともっと大きな花を咲かせてもらいたいものだ。
神戸にも地震の前と、後でも行ったけど、立ち直りは早かった。東北は10年、20年はかかるだろうが、以前のように美しい街に生まれ変ってもらいたいものだ。
(仙台の紅陽グランドホテル、どうなっているか知っている人、知らせてほしい。
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2010年の7月17日に、シャンソン歌手の石井好子さんは亡くなられてしまった。
1963年7月13日に日比谷野外音楽堂で開かれた「パリ祭」は、石井好子さんと、芦野宏さんを筆頭に、石井音楽事務所に所属する歌手全員が出演した。それが第1回で今年で49回目になる。
昨年はご病気で出演されなかったが、一昨年はお元気でご挨拶をされた。いつの頃からかNHKホールで催されるようになったのか分からないが、ぼくはシャンソンが好きなので女房と何回か聞きに行った覚えがある。
なにしろ多くの歌手が歌うのだから、ひとりひとりを目だたせる演出が大事なことだ。わが家のご近所に住んでおられる演出家の高平哲郎さんご夫妻と知り合ったのは、先代がやっていた「小笹寿司」のカウンターで話かけたのが最初だった。
高平さんは代田川のせせらぎに面した桜並木沿いの住んでおられ、小さな犬を何匹も飼っていて、奥さんが散歩されているので出会うことがしばしばだった。
高平さんが石井さんから演出を頼まれたのは、2005年の第43回目からで、今年で7年になるそうだ。ぼくが5年目にひざの手術を受けたので「パリ祭」に行くことができなかったが、ありがたいことにご招待券を2枚頂いている。
代々木上原に住んでおられる舞台美術の朝倉摂さんにお願いして、それがずっと続いている。高平さんの奥さんが朝倉さんをお迎えに車を運転して行かれるそうだが、狭い道で難儀をしているそうだ。朝倉さん、89歳だそうで、ぼくよりも10歳も年上、それでも現役でいい仕事をされているのだから、ずごいお方だ。
今年は半世紀を迎える想い出から、忘れえぬシャンソンの名曲と、ジルベール・ペコの名曲で二部構成で楽しめた。
2日の土曜日と、3日に日曜日の2回、NHKホールで催されたが、3日の日曜日は、クミコさんが、今年の新曲「最後の恋~哀しみのソレアード」を歌うというので、高平さんにお願いして、3日の券をお願いしてしまった。
クミコさんに3日に行くとはがきを出したら、今年はCDとか、Tシャツを販売するをやめて、終了後、歌手全員がロビーで東北大震災の義援金をお客さんにお願いするので、そのときお会いしましょうと、すぐさま葉書をくれた。
超満員のお客さんが、ロビーで待ち受けている歌手にひと目会おうとなだれこんでいるのだから、大混雑だ。頭ごしに美川憲一さんの顔が、ちらっと見えたので、人ごみをかきわけて美川さんに近付いた。目と目が合った。美川さんの表情が一瞬かわった。
美川さんはぼくのことを覚えていてくれたのだ。うれしさがこみあげてきて、思わず抱き合ってしまった。回りの歌手の人たちが、何者かと思ったのか、けげんそうな顔をしてみつめている。
「伊藤さん、電話番号変ってないでしょう。電話しますよ」と言ってくれた。美川さんとの最初の出会いは、まったく覚えていないが、東急本店のレストラン街の「更科」のそば屋で美輪明宏さんのピアノを担当していたUさんに出会ったことがある。
オーチャードホールで美川さんが、シャンソンだけを歌う会をやるので、ピアノを頼まれているので、そのリハーサルに行くところだという。招待券を受付けにあずけておくからきませんかということだった。
Uさんと当日出会って、楽屋を訪ねたが、胡蝶らんの鉢植えがずらりと並んでいたのを覚えている。すごい人気なんだと。あれから10数年は経っているだろうか。
もちろんクミコさんとも出会えたし、昨日は本当にうれしい一日だった。
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ぼくがストリップショウなるのものを初めて見たのは、20代後半のことだから、半世紀も前のことだ。親友の「主婦と生活社」のカメラマンの橋本信一郎さんに連れられて、新宿の伊勢丹のメンズ館が建てられる前の建物で確か2階あったストリップ劇場だった。
餃子なるものも橋本さんと一緒で、それも新宿の汚い店でだ。それからストリップショウにはまりこんで、浅草通いが始った。
ストリップ劇場出で来し夜の街に透きとほる靴下を下げし店あり
「朝日歌壇」の歌誌「アララギ」の土屋文明先生が、ほめてくれて選んでくれた、ぼくの作品だ。当時はナイロンの靴下が出始めた頃で包装なんかされていず、小物問屋の店先にぶら下げてあったのが、妙になまめかしく見えたものだ。
その頃はストリップ劇場の全盛時代で、2・30軒もあったという。踊りの間にコントが入って、それが面白かった。そこで修業をした人たちがテレビの世界に入っていった。
東洋劇場が一番大きく、踊り子さんの粒もそろっていたし、コントの芸人さんも、その後、テレビで有名になった人が多くいた。
6月4日(月)、ある人にお会いするために、10数年ぶりかで浅草を訪れた。6区の映画街などすでになく、かつては人ごみであふれていたのが、暑いこともあってか、人影はまばらだ。映画館など一軒もない。
東洋劇場はかつて活躍した芸人たちが出演している劇場に変っていた。何年も前から朝日新聞の小泉信一郎記者から、一軒だけ残っている「ロック座」に行ってみたらとすすめられていた。
男性同性愛誌『薔薇族』の編集長が、ストリップショウを見に行くわけにはいかない。ところがもう雑誌は廃刊になってしまったし、編集長の肩書きもない。ただの人間だ。
「ロック座」はビルの2階にあった。人通りがまったくないのだから、誰かに見られることもない。階段を登ってチケット売場の前に立ったら、65歳以上シルバー割引で、6千円のところが、4千円とあり、免許証を見せたら4千円にしてくれた。
ドアを開けたら、ショウの最中で、椅子席は200人(そんなにないかな)ぐらい入れて、お客は前の方に20人足らずしかいない。
踊り子さんは11人。その中でスターは4・5人で、あとの人たちはバックで踊ってひき立て役で、せり出してくる丸い台が移動して、前の方に出てきて、その上ですべてを見せてくれる。
50年前と違うところは、照明だ。以前は手作業だったが、今はコンピューターで色彩を変えてきて、踊り子さんを美しく見せる照明設備がととのっている。それと音響設備も格段とよくなって迫力は充分だ。
それと衣裳もよくなっているのはもちろんのことだ。宝塚ほどにお金はかけられないだろうが、衣裳にも工夫をこらしている。
お客さんをジロジロと観察するわけにはいかないが、平日の昼間だから年配の人も多いし、若い人も手拍子を打って楽しんでいるようだから、定連のお客さんだろう。
一軒しか残っていない劇場だから、踊り子さんは、からだもきれいだし、顔も美しい。踊りもそう訓練されているわけではないだろうが、まずまずだ。
演出も苦労しているようで、ストーリーも少しはあるが、見せ場はスター4・5人のすべてを見せる場面だけだから、やりようがないのだろう。確かにからだは50年前の女性と違って均整がとれて美しいが、色気を感じさせない。時代は女性のからだも変えてしまったのか?
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中井英夫さんの著書『薔薇幻視』(平凡社カラー新書13・¥550)を買い求めたのは、1975年のことだから、『薔薇族』を創刊して数年のちのことだ。
ぼくは未だにこの本を完読したことはないが、その中のカラー写真の1頁だけに目がとまった。
その説明に「切手からメダルから薔薇に関するものなら何でも集めた小ていな薔薇博物館は、パリ近郊のライレローズにある。奥に創立者の肖像が、これも薔薇に埋もれて描かれている。」と。
よし、ぼくも薔薇のコレクションをあつめた美術館を造ろうと心に決めた。
中井英夫さんは、1922年東京生まれ、東京大学文学部中退。作家。第2回泉鏡花賞受賞。主な著書に『虚無への供物』(講談社)、短篇集『幻想博物館』(平凡社)など薔薇を主題にした作品も多い。
ところが中井さんの作品は読んだことがない。羽木というわが家の近くに住んでいたこともあり、よく訪ねてこられた。ぼくの父も短歌を作っており、中井さんは『短歌研究』という短歌誌の編集長もされており、寺山修司君、春日井健君なども世に出した方だ。(ある人が中井さんは角川の『短歌』の編集長と紹介していたが、これは間違いだ。)
この中井さんはゲイであり、『薔薇族』が創刊される20数年も前に、会員制の雑誌『アドニス』の編集長を途中から受け継いで発行していたことを知る人は少ない。
三島由紀夫さん、塚本邦雄さんなども『アドニス』にはペンネームで作品を載せている。
『薔薇幻視』のカバーの裏に、中井さん意味深なことを書かれているが、ぼくにはその深意は読みとれないが、『薔薇族』の読者への呼びかけではないかと思う。
「地上の薔薇はいかにも美しいが、世の薔薇、薔薇作り、薔薇愛好家が、もっぱらその外側だけ心を奪われて、内部のもうひとつの薔薇に美を探ろうとしないのが、私には不満であった。
かつて桜の下には屍体が埋まっていたように、薔薇の内部にはなおいっそう神秘な何者かが、ひそんでいはしないか。『薔薇幻視』は、いわば新しい旅への誘いである。」
「薔薇の神秘は何者か」それを知ることができる人は、ゲイの人ではなかろうか。
渋谷の東急本店「Bunkamura・ザ・ミュージアム」で「薔薇の画家・ルドゥーテ展」を見てきたが、確か7月2日で終了されてしまう。
ルドゥーテの作品のコレクター、またルドゥーテの作品を絶賛されている、美輪明宏さん、仮屋崎省吾さんなど、薔薇の本当の意味での美しさを理解されている人は、すべてといっていいほどゲイの人だということは、本当にうれしいし、誇りに思う。
ぼくはルドゥーテに負けないほど、細密な絵を描く人をたくさん知っていた。ところが最近は植物図鑑とか、動物図鑑などの本を出すところが少なくなってしまって、これらの画家たちの仕事場がなくなってしまった。
昔はこれらの画家たちを生活に困らないように援助していたお金持ちがいたからこそ、彼らは仕事に熱中していい仕事が残せたのだ。
画廊のご主人でも才能のある若い画家の面倒を見続けて大成させたという話を聞いたことがあるが、今でもそういう方がいるのだろうか。
今はデパートの画廊でも、どこの画廊でも、絵が売れないという話ばかりを聞く。昔のお金持ちは、絵画や美術品をコレクションした人が多かったが、今のIT産業でもうけたお金持ちは、絵画や美術品には興味がないのでは。
立ちどまって、庭先に咲いている薔薇の花を眺めるだけの心の余裕ぐらいは持ってほしいものだ。
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1964年(昭和39年、東京オリンピックが開催された年、「平凡パンチ」が創刊された年でもある)の7月1日に上北沢教習所でお世話になって自動車の免許が交付された。
なんとか長男の文人が誕生して関東中央病院を退院する日に間に合ったが、ぶつけたりしたら大変とタクシーで帰ってきてしまった思い出がある。
それから47年の今まで、交通違反は何度もあったけれど、事故というほどの事故を起こしたことがなく今日に至っている。
6月6日は女房の兄の越後堂製本の社長が亡くなった命日で、そろそろ3回忌を迎える。我が社発行の単行本、『薔薇族』は最終刊の382号まで製本を引き受けてくれていた。
借金もかなりあったのに帳消しにしてくれた恩もあって、6日の命日には毎月小石川にあるお墓に未亡人を迎えにいって欠かさず墓参りに行っている。
墓参りをすますと神田に出て、共立講堂の前にある戦前の建物、学士会館の中にあるレストランで食事をして姉さんとおしゃべりをして帰るのを楽しみにしている。
6日の日、小学4年生の孫が学校から帰ってくる時間がいつもより早いというので、近所のイタリアンレストランで食事をすることにした。
共同印刷や小石川の植物園に行く広い道で、桜の名所でもある通りに面してレストランがある。
ちょうど空いているところがあったので、バックして停めようとしたが、前に運転手が昼休みをしている軽自動車が停まっていて、ちょっと入れにくいなと思ったが、バックしたら前の車にかすってしまった。
運転手に声をかけて少し前に出てもらえば良かったのだが、かすってしまったのであわててしまい、切り替えたのは良かったのだが、無意識にアクセルを強く踏んでしまい、後ろに停まっていたBMWにど〜んとぶつかってしまった。
後ろの車には人が乗っていなかったのが幸いで、僕の車にも、女房も姉さんも先に降りていたので良かった。
レストランの人が警察官を呼んでくれた。富坂警察署の交通課の若い人で、事情を良く聞いてくれた。人身事故ではないのでパトカーなども来ず、もうひとり年配の警察官も来てくれた。
間もなく後ろの車の持ち主が戻ってきたが、30歳前後の若い夫婦で、ご主人はおとなしそうな人で奥さんが携帯電話で保険会社と連絡を取っていた。奥さんの方が強そうな人だ。僕の車にも保険がかけてあるので帰ってきてすぐに連絡を取った。
あとは保険会社同士が話し合って事故処理をしてくれるそうだ。
20年ほど前だろうか。その頃、血圧が高かったのか、第3京浜国道を走っているときにめまいがして怖い思いをしたことがあった。それ以来、高速道路を走ると手に汗をかくほど恐怖感がよみがえり、それを直すのには時間がかかった。
人間の神経って不思議なもので、事故を起こしてから小石川から下北沢まで帰ってきたのに、15日から新潟に行くのでガソリンを入れにいこうと思ったら、自然にブレーキを踏んでしまってうまく走れない。
そこで車の故障かと思ってJAFを呼び、よく調べてくれたが、故障ではないという。一緒に乗ってもらって走ったら何ごともなく走れた。
16日の東京新聞朝刊に「歩道4人はねられ死傷 81歳誤りアクセル」の記事。高齢者事故は10年で急増しており、75歳以上は2・2倍だそうだ。
高齢者講習も教習所で受けて、僕の免許証は「平成25年4月19日まで有効」とある。『薔薇族』編集長の肩書きに誇りを持ってやってきたが、これも竜君にゆずったし、この辺で車に乗ることもやめて、どこへ行くのも歩いて行こうと思う。
今年も何としても本を出したいし、それに集中しようと考えた。バスも子供料金で乗れることだし、心も子供に帰るべきと...。
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人声があふれ、多くの女性達がおめかしをして来館してくれた。売店には、僕が毎月1回は問屋街の横山馬喰町で日本一大きい問屋の「エトワール海渡」から仕入れてきた数々のかわいらしい商品がはなやかに並べられていた。
レストランも「バイロス館」と称して、シェフが工夫して作った西洋料理が人気で、1時間待ちは常識だった。
年に何回かは、新潟の人が絶対に見ることができないような浅草の芸人を招いたり、歌手も、売れなかった時代の秋元順子さん、クミコさんを招いた。それが紅白に出場するまで登りつめたのだから、僕としてはこんなに嬉しいことはなかった。
まさか僕が編集長の『薔薇族』が売れなくなるとは夢にも思わなかった。本の売れ行きだけで一切の費用が出て、広告料はすべてが利益になってしまうのだから、どうしても黒字減らしをしなければならない。莫大な税金ばかりを払っていたからだ。
昭和56年4月16日発行の「週刊文春」が見つかったので開いてみたら、世界のクロサワの映画「影武者」がアカデミー賞をもらうものと思っていたのが落選してしまったなんていう記事が載っている。
野球界でもスーパーヒーローのONが欠けて、次の時代は石毛と原だと書かれている。
『薔薇族』が創刊されて100号の記念号を出した時のことだ。なんと4ページを使って記事が載っている。その見出しを見てびっくり。「ホモ界の朝日新聞『薔薇族』百号記念までの悪戦苦闘」とあるではないか。
「朝日新聞社側では迷惑かもしれないけれど、とにかくその権威といい、信頼性といい、まさに●界の『朝日新聞』といった存在であるらしい。ホモ雑誌界の雄『薔薇族』が、このほど十周年を迎え、百号記念の特大号を発刊、盛大なパーティまで開かれた。が、ここに至るまでには四回の発禁など悪戦苦闘の連続」と見出しを付けたのだから、朝日新聞は『薔薇族』と一緒にされるとは何事だと怒り心頭、見出しの訂正を求めたが、本文は印刷した後なので、新聞広告などは訂正したようだ。
広告を取るための営業社員をひとりも雇わなくても、スポンサーの方から載せてほしいと頼んでくるところが、当時の朝日新聞と同じだったので、こうした見出しを付けたのだろう。
それが時代が変わってしまい、ネットや携帯電話がこんなに早く進歩し普及するとは誰も思わなかったに違いない。
本業の『薔薇族』が廃刊し、朝日だって部数が落ちて今や苦しいに違いない。
美術館は3年間、新潟の会社が引き受けて、営業を続けてくれたことは感謝している。先日も若いS君に運転してもらって、弥彦に片付けに行ってきたが、人間が出入りしていない建物というのは廃墟というしかない。
壊すにもお金がかかる。直すにもお金がかかる。何かに使ってくれるお金持ちはいないものだろうか。このまま朽ち果てさせるのはもったいなさすぎる。
今でも「ロマンの泉美術館」を忘れられず、外からだけでも見てきたという女性が弥彦のレストラン「マジック・ディッシュ・森」に食事に来られたという。新潟の人に忘れられない思い出だけでも残せたということは幸せだ。
僕の心の中にも、大きな夢の世界が今でも残っている。それだけに廃墟にしたくない思いは強いのだが...
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よみがえれバイロス!
これはひとつの快感
東京と新潟の違い
新潟の子供たち
女がひとりで
★『薔薇族』の注文の方法は、郵便局で1000円の定額小為替を購入し、下記までお送りください。〒155-0032 東京都世田谷区代沢3-9-5-202 伊藤文学宛
★下北沢に『薔薇族』を置いてくれる古本店・「ビビビ」があります。〒155-0031 東京都世田谷区北沢1-45-15 スズナリ横丁1F・北沢タウンホールの筋向いです。読書好きにはたまらない古書がたくさん置いてあります。電話03-3467-0085です。
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