2020年5月23日 (土)

三軒茶屋はぼくの憩いの街だ!

昭和26年3月25日刊(1951年)の『現代詩鑑賞』大正期だけが書棚に残っていた。69年も前の本だから、悪い紙なので日に焼けて茶色く変色している。

 

ぼくがまだ駒沢大学に在学中の頃で、父親が企画したものだ。編集者に笹澤美明さんの名前がある。確か笹澤さんは、わが家からも歩いて20分ぐらいの池の上あたりに住んでいた。

 

当時の詩人たちは、みんな貧乏暮らしだった。親父がいくらぐらい印税を払っていたのかはわからないが、親父のことだから僅かの印税だろう。

 

ぼくはこの頃から親父の使い走りをsいていたので、ほとんどの詩人たちの家に、ゲラ刷りを持って行ったりしているので会っていた。

 

今はすべての人がこの世にいない。笹澤美明さんの息子さんは、後に流行作家になった笹澤佐保さん(1930・11・15〜2002・10・21)『木枯紋次郎』が代表作で、380冊もの本を出している。

 

お父さんは貧乏詩人で苦労をして息子さんを育てたのだろう。ぼくの妹から聞いた話だけど、笹澤美明さん、よく親父のところにお金を借りにきたそうだ。ケチな親父はお金を貸すわけがない。ぼくの母親が追いかけて行って、僅かばかりのお金や、お米などをあげていたそうだ。

 

朝9時からの「時代劇専門チャンネル」で笹澤佐保原作の「木枯紋次郎」が、しばらく放映されていた。主演は中村敦夫さん。左のほほに刀きずがあり、いつも長いようじをくわえている。なんでようじをくわえているのという質問には、たんなるくせだといつも答えている。

 

 

今、思い出せないが、名監督が演出、もしくは監修していての映像が美しい。ワンカットずつが絵になっていて見事だ。

 

いつまで続くことやら。新型コロナウイルスの感染騒ぎで、テレビも新聞も新型コロナウイルスの報道ばかり。新聞など読むところがないから、見出しだけしか見ていない。

 

そんなうっとうしい時代、年寄りは外に出るなと言う。狭い部屋にとじこもってばかりはいられない。

 

午前中は時代劇専門チャンネルのご厄介になって「木枯紋次郎」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」と見続けている。

 

今や江戸時代の長屋に住んでいるような気分になっていて、義理と人情に厚い長屋のおかみさんとも親しくなっていて世間話に夢中だ。

 

午後からはブログを2時間ぐらいかかって書き上げると、ポストに投函しに出かけ、バスはタダで乗れるので、三軒茶屋に出かける。

 

駒大に通っていた時代は、バスなんか走っていなかったから、砂利道を歩き、途中に両側に畠があって、その真ん中の細い道を通り抜けて、三軒茶屋の商店街に入ると僅かばかり。コンクリートで舗装されていた。

 

 

 ひとつ顔を思い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず

 

 

という短歌の作品を残したことがあったが、その頃は今のようなコンクリートで固められた舗道ではなかったので、ところどころ軟らかいところがあった。

 

小学校で1年下の阿部弥寿子さん、美しいセーラー服の高校生で、同じ道を通り、駒沢にあり駒大と同じ曹洞宗経営の駒沢学園に通っていた。たまに出会うと胸をわくわくさせて、あとをつけたものだ。

 

この三軒茶屋の商店街、ぼくが駒大に通っていた時代から残っている店が何軒かある。花屋さんもそうだし、楽器店のガラス越しに色の白い美しい奥さんの姿を見かけるのが楽しみだった。陶器屋さんもその当時と同じで、きちんと並べられていない。ごちゃごちゃに並んでいる。4年も通った三軒茶屋は忘れられない街だ。

 

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2020年4月20日 (月)

父を憎んでいるわけではない!

父、祷一にこんなやさしい面があったとは。祖父、伊藤冨士雄が救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教する団体)の将校として、苦界に苦しむお女郎さんを身体をはって、千人近くも廃業させた。

 

53歳でこの世をさった祖父、冨士雄の死を悼んでの「亡き父に捧ぐ」と題する原稿用紙7枚の手記だ。

 

岩手の山奥に育った無学の母親を馬鹿にして、浮気の限りを尽くしていた父。こんなやさしい面があったとは。

 

今でも忘れることはできない。父の母に対する暴力。父の気持ちも分からぬでもない。戦時中、1万円、2万円の生命保険をせっせとかけていたのに、敗戦後、貨幣価値が変わってしまって紙屑同然になってしまった。

 

郵便局の保険勧誘員のすすめで、母は簡易保険に入ってしまった。それを知った父は激怒、髪を掴んで引きずり回し、なぐる、けるの暴力。

 

母と一緒にもう窓口が閉まっていた郵便局の裏口から入って、契約を取り消してもらった。今でも忘れることはできない。そんな父が亡き祖父に捧げた手記。

 

「あなたのお写真と、あなたに対する哀悼の辞が、2、3の新聞紙上に出ました。

 

あなたの大好きな小さい弟(和平おじさん。ニューギニアで戦死、いや、餓死)は、『お父さんの写真だ』と言って、私や母の前にその新聞を広げました。私たちは新しい涙をその上に落とさねばならなかったのです。

 

父上、あなたは私たち兄弟のことを何よりもご心配になっていました。ことに一番小さい弟を愛しておられました。

 

そしてお馬になったり、お話をしたり、遊びになくてはならない相手でした。あなたをなくした弟の心はどんなでしょうか。

 

私はまだ何事も知らない、いたいけな弟をみるたびに涙なしではいられないのです。

 

父上、あなたは私のことをご心配になっておられました。私は行くzのない弱い人間です。卒業後の就職口について、私のために色々とお心にかけてくださいました。そしてA会社の課長さんをたずねられたり、M会社の知人にお頼みになったりして、八方に私のためにおつくしくださったのでした。

 

私はあなたの死後、そのことを知って心からありがたく思ったものでした。あなたは死を予期していたのです。きっとあなたは死が目前に迫っていることを知っていたのです。だからこそ私たち兄弟のために、ひとしお愛情をそそいでくれたのです。今、考えると感慨無量です。

 

父上、私があなたに恩返しもしないうちにあなたは、この世をお去りになりました。しかし、決してあなたは死んだのではないということを確信しています。あなたは一生涯を信仰によって神に奉仕なさいました。そしてあなたは凱歌をあげて、栄誉ある勝利者として神の膝元においでになったのです。

 

あなたの手によって、みじめな境遇に悩む数多くの女性を解放されました。ある人はあなたのことを「自廃の闘将」と言わしめました。またある人は「人道の戦士」だと言われました。いずれにしてもあなたは社会のためにおつくしになったのです。生命を恐れずに戦ったのです。

 

あなたは悲しみのどん底をさまよう、可憐な女性たちのために、何物をも惜しまなかったのです。(後略)」

 

父にこんなやさしい気持ちがあったのか。空々しく聞こえる。母が肺病で入院している時も、一度も見舞いに行かなかった。妹が心臓病の手術で入院している時も、一度も病院に行かなかった。父が亡くなった時、ぼくは、ああ、死んだかと思っただけだ。

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2020年4月11日 (土)

ころんでもけがをしないは、うそだった!

昨年のことだが、世田谷学園(母校)の柔道部が創部百周年の立派な記念の本を出した。柔道部の同窓会の会長さんにたまたま出会って、エッセイを書いてくれと頼まれてしまった。

 

戦時中のことだ。中学1年生の時、講堂館の7段か8段の花桐先生にわずかばかりだが柔道の受け身を習ったことがあった。そのおかげで歳をとってから3回転んだことがあったが、花桐先生に受け身を教えてもらったおかげでけがひとつしなかったという話を書いたことがある。

 

それは嘘っぱちで、ただ運が良くてけがをしなかっただけのことだ。88歳の米寿を祝う会を三軒茶屋の銀座アスターで開き、この新型コロナウイルス騒ぎの中で、50人ものひとたちが参加してくれてよろこんでいた束の間、長いこと前立腺肥大で、夜トイレに4、5回起きることが数年続いている。もうなれっこになっていて、トイレも近いし、それほど気にはしないのだが、少しでも睡眠時間を長くしようと思って睡眠薬をかかりつけの医師から処方してもらっているのだが、少しの間は効果があるが、しばらくすると切れてしまう。

 

何日か前に強い睡眠薬を出してもらった。それを飲んだら効果がありすぎて、翌日、ぼうっとしてふらふら状態に。3度も転んでしまった。

 

1度目は下北沢の駅前のスーパーに買い物に行って、帰りに座れるところが店の前にあるので、座ろうとしたら、ふらふらとよろけて倒れてしまった。起き上がることができない。幸い人が多いところだから、親切な若者が手を引っ張って立ち上がらせてくれた。日本はまだまだ親切な人がいる。ありがたかった。中国では人が倒れていても誰も知らんふりしていると新聞で読んだことがあるから。

 

その日は我が家で2度も転んでしまったが、今度大学に入学する男の子の孫が助けてくれて、けがもなかった。

 

頭を打ったらしくて、左の頭を指で触ると、はれてもいるようで指で押すと痛い。どこで転んで、どんなふうに頭を打ったのか、まったく記憶がない。

 

88歳まで生きて来て健康でいられるので、みんなに羨ましがられるが、耳は聞こえなくなるし、足腰も弱って杖をついてやっと歩いている始末だ。でも生きていることはたしかだ。周りを見渡せば、みんなあの世に旅立ってしまっているのだから。

 

ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村(人口8千人)に、平成5年に「ロマンの泉美術館」をオープンさせた。

 

フランス、イギリスの家具や、照明器具を使い、ぼくの美意識、感性を集大成させた美術館だ。長くは続けられなかったが、多くの人たちを楽しませることはできた。美術館に何度も来てくれた新潟県知事の平山征夫さんが、米寿を迎えたぼくにお祝いの手紙を送ってくれた。

 

「一生懸命生きて来たご褒美だと思います。『薔薇族』という道の真ん中を歩けなかった人たちに優しい目を向けられて来たご褒美でしょう。年月は残酷ですから、誰にも死をもたらしますが、伊藤さんについてはずっと先にしてもらって、もう少し人生をエンジョイしてください。それだけの価値のある人生を送ってこられた人に対する神の配慮をと願っています。」

 

今は平山征夫さん、引退されているがありがたい言葉なので、祝う会の冒頭に息子の嫁の知恵さんが司会の役をやっていて読み上げてくれた。

 

ついに今日我が家の前で転んでしまい立ち上がれなくなっていたのを通りがかった若者が助けてくれた。初めてひたいに傷を負ったが、軽くて済んだ。脇腹も押すと痛い。気をつけて歩かなくては。

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2020年3月14日 (土)

70代横綱・日馬富士さんって立派な人だ!

第70代横綱、日馬富士さんのことなど、次から次へといろんな事件が起こるので覚えている人は少ないだろう。
 
東京の新聞やテレビでは全く報道されていないが、女房の古里、新潟県弥彦村の隣の街、三條市(昔から刃物造りで有名な街、ノーベル賞授賞式の宴会で使われるナイフやフォークは三條の工場で作られている)の新聞「三條新聞」には、日馬富士さんのことが何度も一面をさいて報道されている。
 
日馬富士さんの古里、モンゴルと新潟県三條市、弥彦村との交流は長く、弥彦村の小学生10人ほどが村長や校長に連れられて、毎年モンゴルを訪れ、またモンゴルの子供たちも弥彦村を訪れている。
 
2020年2月16日の三條新聞には、「日本とモンゴル架け橋の学校へ」と題して一面を使い大きな記事になっている。
 
「故郷モンゴルで日本式教育を取り入れた学校づくりに取り組む大70代横綱日馬富士公平さん(35)が、14、15の一泊二日で新潟県を訪問。
 
15日は午前11時から弥彦神社で交流会が開かれ、後援会関係者、ファンなど約70人が集まる中、日馬富士さんは『これから全身全霊で、まっすぐ前向きにがんばっていくので応援をお願いします』と、日本とモンゴルの架け橋となる学校づくりへの協力を呼びかけた」とある。
 
すでに日馬富士さんは現役時代から、モンゴルに日本式教育を取り入れた学校づくりに取組み、平成30年に首都、ウランバートルに小中校一貫校「新モンゴル日馬富士学園」を創立し、理事長に就任している。
 
日馬富士学園では、日本に感謝する気持ち、ものを大切にする心を育てるとともに、日本とモンゴルの架け橋になってもらおうと、三条市などで廃校になった学校で使っていた机や椅子などの学校用品を集めてもらい、自費でモンゴルに送っている。
 
今年9月の新学期には、児童生徒数は1千800人になり、あと500の机、椅子が必要となるので、日馬富士さんの後援会に協力を呼びかけている。
 
日馬富士さんは、後援者の集まりの会で、こんなことを話した。
 
「児童生徒数1千百78人という現在の学校の様子については、5年前には相撲道で学んだ礼儀、道徳をモンゴルの子供達に教えたちという夢を持ち、おかげさまで2年前に日馬富士学園をオープンできた。
 
最初、子供たちは『おはようございます』というあいさつになかなかなれなかったが、今はきちっとあいさつするようになった。
 
子供たちに何を学んだか、何が変わったかと聞いたら、すぐに礼をする癖がついたという。
 
制服を着ているから行儀を良くしないといけない。ゴミが落ちていたら拾って捨てるということを、誰にも言われなくてもできるようになった。
 
勉強というより人間性。正しいことを自分で判断できるようになって、自分が変わったような気がすると子供たちは言っている」と、日馬富士さんは後援者の前で報告した。
 
私利私欲ことしか考えない、日本の議員さんに聴かせたい話ではないか。かつての日本人はみんなこんな気持ちを持っていたのに、日馬富士さんの話を聞いて恥ずかしい気持ちになってくる。
 
日馬富士さんは、30人ぐらいモンゴルの子供たちが日本の大学に入りたいという。その前に新潟に来て、日本の素晴らしさを見せたら本当に頑張るのではと。日馬富士さんって立派な人だ。日本の今は暗い。ぱっと明るくしたいものだ。

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2020年3月 7日 (土)

「性的虐待」嫌な言葉をなくしたい!

「文ちゃんと語る会」を毎月開いている「器とコーヒーの店・織部下北沢店」には、会長の考えで店の風格を持たせるためか、朝日新聞と日本経済新聞をオープン以来置いている。
 
本当は毎日立ち寄って新聞を読みたいところだが、2、3日おきぐらいには、コーヒーをのみ、新聞を読むのが楽しみだ。
 
2020年2月19日の朝日新聞に驚くべき記事が載っていた。ニューヨーク在住の藤原学思記者が書いた記事だ。
 
ぼくが一番心配している少年愛者の恐るべき記事なので、書き写して持ち帰った。
 
当然のことで少年の好きな人は、少年に近づける仕事についている。何度も書いていることだが、趣味で少年を好きになった人はいない。もって生まれたものなのだ。
 
「ボーイズスカウト米連盟破産申請」という見出しの小さな記事で、「110年の歴史を誇る全米最大の青少年組織「ボーイスカウトアメリカ連盟」(BSA)が18日、連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を東部デラウェア州の裁判所に申請した。
 
青少年への性的虐待で数百件の訴訟を抱えており、今後も活動を続けながら、裁判所のもとで性的虐待の被害者に公平な支援や、補償を行うためとしている。
 
BSAは現在5〜21歳の青少年220万人と、ボランティア80万人で構成され、大統領経験者ら著名人も多く輩出。
 
これまで1億人以上が参加したが、2010年以降、その活動を通じた過去の性的虐待が広く取り沙汰されるようになった。
 
19年4月には委託を受けた外部の弁護士がBSA内の資料を精査した結果を公表。
 
1944年から2016年にかけ、加害者は7819人、被害者は1万2254人に上ったという。
 
米メディアによると、ニューヨークなど一部の州が性的虐待に関する提訴期限を一時的に撤廃したことなどから、BSAを相手取った訴訟が相次いだが、今回の破産申請で全ての手続きが止まることになる。
 
BSAはキャンプ場などに幅広い資産の売却によって、10億ドル(約1100億円)以上になるとみられる補償費用を捻出する見通しで、被害者は今後定められた期限内に破産裁判所に補償を申し出ることになるという。
 
青少年への性的虐待をめぐっては、ローマカトリック教会で長期間放置されたことが社会問題になり、米国の複数の管区が破産申請したほか、米体操連盟も所属医師による性的虐待を受けた選手に補償するため破産申請を受けている」
 
全文を引用してしまったが、朝日新聞はすごい新聞だ。このような記事を載せてもらったことはありがたいことだ。
 
アメリカは国が大きいこともあるが、少年愛者の加害者の数も、被害者の数の多さにも驚かされる。
 
日本にもボーイスカウトはある。ネットで調べられないから、その活動状況や、参加している指導者や、少年たちの数はわからない。
 
お祭のときなど交通整理をしたりしている制服姿の少年たちを見かけることはある。
 
アメリカは些細なことでも弁護士を使って相手を訴えることが多いと聞いたことがあるが、日本では被害者の少年たちも親や、先生に言わない子が多い。
 
ボーイスカウトの指導者が訴えられたという話は聞いたことはない。日本の弁護士さんは人数が多すぎるのか、訴えを起こす人が少ないのか、最近はひとりで事務所を持つ人が少なくなっている。
 
何度も言うようだが、「性的虐待」などという言葉はなくしたいものだ。

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2020年3月 2日 (月)

「白内障」の15分の手術中に見たもの!

友人の石塚冨士雄君の紹介で、2019年10月18日、渋谷区恵比寿南1-3-6 CIビル2F 電話(3793)8940
「角谷眼科医院」で診察を受けた。白内障が悪化しているので、手術をした方がいいと言われてしまった。
 
お母さんと娘さんが交代で診察していて、看護師さんも女性ばかり。待合室の調度品も女性らしい繊細さで、壁にかけられた油絵も、お花と果物。熱帯魚も目を楽しませてくれる。
 
長い間、手書きで300枚を越す年賀状を書き続けてきたのに、さすがに目が弱って疲れやすく書く気力がない。
 
令和2年は3月19日が誕生日で、「米寿」の年でもあり、令和の年号の名付親の中西進さんご夫妻の仲人で、久美子と結婚して50年にもなる。
 
すばらしい年賀状を作ろうと考えていたのに出せなかったので、伊藤文学はあの世に旅だったのかと思われたに違いない。
 
角谷眼科の紹介で港区北青山3-6-16表参道サンケイビル3F「表参道内科眼科」を訪れた。
 
「白内障日帰り手術のご案内」には、こう書かれている。
 
「人の目はカメラと同じような構造をしています。そのうちのレンズに相当する水晶体が濁るものを白内障といいます。
 
原因は加齢性白内障が最も多く、糖尿病など身体の病気に併発するもの、外傷性のもの薬剤性のものなど、さまざまの種類があります。」
 
ぼくの場合は加齢性白内障で、視力が低下してきたということだ。「表参道内科眼科」の利点は、内科の診察も行っているということだ。血液検査、心電図もとり、レントゲンで胸部の撮影もしてくれたが、まったく異常はなかった。
 
この病院は日帰り手術で、最新の超音波装置を用いて、約3ミリの小さな切開創から手術を行うので、以前の方法と比べて出血が少なく、術後の視力回復が早い。社会復帰が早期にできるといった利点がある。
 
手術をする医師は東邦病院の名誉教授で、ベテランの方だ。ぼくはまったく手術の不安はなく、医師を信頼して15分ほどで終わるという手術日を待つだけだ。
 
2月5日、左の目を先に手術し、一週間後の2月12日、右の目を手術するようだ。
 
渋谷までバスで行き、タクシーで表参道へ。わずか10分ほどのところだ。通りの向こうに長いこと週刊新潮の表紙絵を描いた谷内六郎さんのかわいい絵をタイルを使って壁に貼り付けた書店が見える。
 
書店が閉店してしまったのか、手術で行った時にはなんと写真の広告に変わっていた。いつまでも残しておきたかったのに。
 
手術着に着替えて帽子をかぶり手術台に。厚手の布を顔にかぶせられて、手術をする片方だけの目の部分が開いているようだ。
 
麻酔を目だけにかけているから痛みはない。医師が手術をしている15分に見たもの。大方の人は「万華鏡を見ているみたい」と言うそうだ。
 
ぼくはそうは思わなかった。万華鏡はいくつかの形の繰り返しで、それとは違う。最初はピンク色の映像で、ひとつの形にはなっていない。次から次へと形も変わり、色彩も変わっていく。抽象的な現代絵画を動画にしたようで、芸術的な世界だ。
 
こんな映像は2度と見られまい。動画にして残すことはできないのだろうか。終わる頃にはさまざまな色彩が出てきて。華麗な世界がくりひろげられていた。
 
術後、こんなによく見えるようになるとは驚きだ。よき医師に出会えてぼくは幸せ者だ。

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2020年2月29日 (土)

ご自由にお持ちください!

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長さ20センチ、金属の真鍮銅と亜鉛との合金で作られたものだ。なんでこんなもの、どこで購入したのかも忘れてしまっている。
   
丸い輪っかが取り付けられているから、これは紐でぶらさげて、体につけていたものだろう。
 
何に使ったものかを今時の若者は知る由もない。こんなものを使って商売している人は今はいないから。
 
太平洋戦争が始まる前、ぼくが小学生のころは、いろんな物売りがいた。リアカーや、自転車の荷台に木箱をつけて、豆腐を売りにくる豆腐屋さんが、吹き鳴らすラッパなのだ。
 
ぷ〜うっと吹くと、すごい音が出る。その当時の家のガラス窓は、今の頑丈なガラス窓と違って室内にいても、外で吹き鳴らすぷ〜うっという音を聞き取れる。豆腐屋さんが来たなというのがすぐわかるから、お皿を持って外に出て豆腐屋さんに声をかける。
 
朝早く「なっとう、なっとう」と叫びながら、売り歩く納豆売りのおばさんや、少年もいた。わらに包まれた納豆だ。
 
新聞配達のおじさんは、巾の広いひもで重い新聞をかかえて、徒歩でくばっていたのだから大変な重労働だ。新聞を取っていない家なんてなかったから。我が家は朝日、読売、毎日、東京新聞と親父は購読していた。
 
新聞配達人は小気味いい、ピューっと音を出して、ポストに投げ入れる。あの音は今でも脳裏に残っているが、なんのためにピューっと新聞をしごいてポストに投げ入れたのか意味はわからない。かっこいいところを見せたかったのかも。
 
豆腐屋のラッパはおそらく町工場みたいなところで職人が手作りで作っていたのだろうが、よくできている。骨董屋で探しても今では見つけられないだろう。
 
ぼくは手許に寝るときも置いている。それは夜中にからだの具合が悪くなったりした時に吹き鳴らして、となりの部屋で寝ている女房に助けを求めるためだ。おかげさまでいびきはかくようだが、元気なので女房を呼ぶためにつかったことはまだない。
 
ぼくの住んでいる2階建の3LDKのマンションの家主さんは、江戸時代からこの地に住んでいる名主さんで、江戸時代に建てられた赤門は保存されていて、世田谷区の重要文化財に指定されている。見事な彫刻がほどかされていて見るものを圧倒させる。
 
近所の住宅はお金持ちが住んでいる。元総理大臣の竹下登さんの家もある。新築になったわが母校、代沢小学校から淡島通りへ抜ける道は裏通りで車は通るが、人通りは少ない。ぼくはその通りを歩いて、下北沢の駅前のスーパーオオゼキに買い物をかねて、運動のために杖をつきながら、通る人にみんな追い越されながらも、ゆっくり歩いている。
 
たまにだが玄関先にダンボールに入れられた不用品なのだろう、「ご自由にお持ちください」と張り紙がしてあって、いろいろなものが置かれていることがある。
 

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そのなかから役に立ちそうなものを頂いてきて、机の上に載せている。時計はよく置き忘れることがあるので、腕からはずすとこのガラスの器に置くようにしている。
 
ガレーの作品の350万円もする花瓶を「なんでも鑑定団」に出品したりしたこともあるぼくが、なんという変わりようだと思うだろうが、こんな生活も楽しいものだ。
 
フリーマーケットで大きな貝殻をいくつも500円で買ったり、何百円かで珍しいものを見つけたりで、ぼくの机の上はお宝でいっぱいだ。

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2020年2月24日 (月)

みんなに支えられて「米寿」を迎えます!

株式会社サイゾーのお世話になって、ネットで見られる「薔薇族の人々」と題して、一編が400字詰原稿用紙4枚(1週間分)それを4編書いて、1ヶ月分、『薔薇族』を支えてくれた方々を紹介している。
 
原稿用紙に書き、写真をつけて編集者の方に郵送しているのだが、スマホは2、3年前に購入し持っているが、勉強嫌いのぼくには、ブログとツイッターは、やっと読むことができるようになったが、電話もかけられないし、写真も撮れない。ましてやメールなんてものを送ることも。
 
下北沢の商店街には、スマホを売る店が何件もあるが、最近開店した店で、使い方を教えますと書いた店がある。他社のものでもとあるので参加してみようと思いながら、その店の前を通るが、もうすでに何ヶ月か経っている。
 
思い出せば1971年4月ごろ、その頃はエロ本から秋山正美さんの『ひとりぼっちの性生活』から始まって、方向転換してゲイの本ばかり出す出版社になっていた。
 
父が女に夢中になって、仕事をぼくにまかせっきりになってしまったことが幸い?して次から次へとゲイの人向けの単行本を出し続けていた。
 
書店で買いにくいので、はるばると下北沢のわが家まで遠方から購入にこられるお客さんが多かった。それらの人たちから悩み事を聞き、雑誌を出すことを思い立った。
 
ゲイ向けの単行本の後書きに雑誌を出したいと書いたら、すぐに手紙が送られて来た。『風俗奇譚』にゲイ向けの小説を書いていた間宮浩さんだ。
 
その手紙は今も大切に保存している。間宮浩さんと一緒に『風俗奇譚』にエッセイなどを書いていた仲間の藤田竜さん。すぐに電話をかけて新宿でふたりに出会い、4月に出会って、7月に創刊号を出してしまったのだから、ぼくの決断力はすごい。
 
ふたりに出会わなかったら、雑誌作りの経験のないぼくひとりでは創刊できなかったろう。
 
ありがたいことにぼくは運が強く、多くの男絵師、小説家、多くの有能な読者に支えられて、382号までの30数年間、ゲイの歴史に残るような雑誌を出し続けることができた。『薔薇族』を支え続けてくれた人たちのことをネットに残しておきたいと書き続けているが、ぼくよりも若い人だったのに、みんな他界してしまっている。
 
伊藤さんはノンケだから、男と寝たことがないから、本当のことはわからないと言い続けた藤田竜さん。
 
間宮浩さん、怒った顔など見たことがない温厚ないつもスーツを着ていた方で、やさしい方だった。
 
胸に真っ赤な薔薇のいれずみをしていた三島剛さん。初めて会った日に、画集を出すことを快諾してくれた。
 
幻のSM作家、笹岡作治さん。日本のホモポルノ写真の草分けの大阪のオッチャン。
 
NHKのアナウンサーだった楯四郎さん。男写真の第一人者、波賀九郎さん。縛りの美学を貫き通した大川辰次さん。稚拙さとワイセツ感がよかった裸夢丸さん。
 
まだまだ、多くの人たち、また読者、書店に支えられて、ぼくだけ生き残って88歳。3月19日で「米寿」を迎えます。それと女房久美子と「令和」の名付親・中西進さんの仲人で結婚して50年。
 
3月20日(春分の日)のひる12時から「ふだん着の街、気さくな街」三軒茶屋の田園都市線「三軒茶屋駅」南口A出口前「銀座アスター」で、「文ちゃんの米寿を祝う会」を開きます。お酒も飲み放題、料理も最高。
 
本来なら会費1万円いただかないと開ないのですが、読者のおひとりが寄付をしてくれたので若い人にも来てもらいたいと、会費・3千円にします。くわしくはまたブログやツイッターに書きますが、3月20日を今から予定しておいてください。

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2020年2月10日 (月)

貝殻は建築家、生存を懸けて!

ぼくは東京新聞だけをずっと購読している。理由は購読料が一番安いということだが、安くたって記事は他紙にないような独特なものが多いからだ。
 
2020年1月21日の朝刊に「貝は建築家=生存懸け、多様な形」と見出しがある。

 

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文・吉田薫、写真・安江実、紙面構成・安藤秀樹。
 
以前から貝について知りたかったことがくわしく書かれているので、引用させていただく。
 
ぼくが貝がらに興味をもつようになったのは、今は亡き澁澤龍彦さんの鎌倉の自宅を撮影した篠山紀信さんの写真集を見たときのことだ。
 
書棚には多くの本が並べられていて、その棚の空間にいくつもの大きな貝がらが置かれていた。なぜかその貝がらが、ぼくの脳裏から離れることはなかった。しかし、大きな貝がらってどこで売られているのか、ネットで調べることができないぼくには探しようがない。
 
昨年のことだったか、井の頭線の下北沢の次の駅、池之上の商店街で、フリーマーケットが開かれるというので行ってみた。
 
下北沢でもフリーマーケットは開かれるが出店する人が若い人がほとんどなので、ぼくが欲しいと思うようなものはあまり見当たらない。
 
池之上のフリーマーケットは、出店する人の中には年配の人が多い午後3時すぎだったろうか。その日はくもり空で、いつ雨が降ってきてもおかしくないような空模様だった。
 
ぽつぽつ雨が降り出してきたので、衣類を売っている人たちは片付けはじめていた。そんなときに台の上に、いくつもの大きな貝がらを並べている年配のおじさんがいたではないか。
 
「これいくらですか?」と聞いてみた。
 
「いくらでもいいよ。全部で500円にするよ」と、おじさんがいう。
 
「全部買いますよ」と言ったらビニール袋に入れてくれた。うれしかった。やっと大きな貝がらを5個も手にすることができて、永年の望みがかなえられたではないか。
 
東京新聞の見出しには、こんなことが書かれている。
 
「貝は自然界の建築家だ。自分で材料を作り出し、それを使って、ぐるぐる巻きだったり、細長く伸びたり、部屋がたくさんあったり、個性豊かな自分だけの「すみか」を構築する。そんな不思議な特別展示が、東京大学総合研究博物館小石川分館(文京区白山)で開かれている。
 
「貝の建築学」3月15日まで。文京区白山3−7−1の東京大学総合研究博物館小石川分館。10〜16時30分(入館は16時まで)。月曜から水曜までは休館。祝日は開館。入場無料。問い合わせは、ハローダイヤル 03(5777)8600へ」
 
貝って10万種あるといわれ、実に多様なんだそうだ。
 
貝がらのいちばんの役割は、敵から身を守ることにある。軟体動物である貝は、そのまま襲われたらひとたまりもない。
 
「切断面を拡大して観察すると、無数の結晶が規則正しく配列されている。建築に例えると、レンガやブロックに相当する部材を体内で生産し、多層に組み合わせて、こわれにくい構造をつくりあげているのです。」
 
佐々木准教授は語っている。
 
観覧者は、貝のコレクターだけでなく、建築やデザイン分野の人も目立つとあるが、ゲイの人も多いのではないか。
 
澁澤さんがどんな思いで、貝がらを集めたのか知るよしもないが、恐らく貝がらにロマンを感じたのでは。

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2020年1月20日 (月)

死んだ者は帰ってこない!

先妻のミカ(本名・君子)が風呂桶の中で酸欠死してから、2020年1月11日で50年になる。
 
2009年の6月に彩流社から、ミカとの出会いから事故死するまでを書いた『裸の女房』を出版することができた。
 
「死んだ者は帰ってこない」という小見出しでこんなことを書いている。
 
「1969年(昭和44年)の12月のことだ。幼稚園の年少組の5歳になる息子(文人・ミカの子供)は、おばあさん子で自宅からすぐ近くの森厳寺さんが運営している淡島幼稚園に通っていた。子供のことはおばあさんまかせで、何の心配もなかった。
 
1970年(昭和45年)の年が明けて最初の月曜日(1月4日)、その日からクラブ「スペース・カプセル」のショウの演目が変わって「雪女」だった。1回目のショウということでいくらかの不満な点があったのだろう。お弟子さんと二人で、真剣に明日の2度目のショウに備えて駄目押しをしていた。やっと終わってお弟子さんを車で自宅にまで送り届けて、さて風呂に入ろうということになった。ぼくはその日に限ってサウナに入ってきたので、「今日は風呂に入らないよ」と言って、ふとんに入って寝てしまった。」
 
その日は、わが家の第二書房の本を製本してくれている越後堂製本の社長の小林さんが、本の取次店の係長のI
さんを招待して、ぼくと3人で新宿のキャバレーに誘ってくれた。
 
キャバレーを出てから、Iさんがサウナに入りたいと言い出したので、サウナに入って小田急の最終電車でわが家に帰ってきた。
 
その頃、お金の収入が増えてきたので、ミカは生活の匂いがしないところで、舞踊の創作をしたいというので、近所に新築のアパートが建ったのでそこを借りたばかりだった。
 
「いつもならぼくが風呂を沸かして「どうぞお入りください」ということで、ミカは風呂に入っていた。アパートの風呂は浴室の中でガスに点火するようになっている。小さい窓があるが、少し窓を開けておけば外気が入って、問題はなかったが、冬の寒い時期だったので窓はしまったままだった。
 
水を入れる音がして、ゴオーッというガスが燃える音を聞いたか、聞かないうちに眠ってしまった。しかし、心の片隅で心配だったのか、どのくらいの時間寝てしまったのかはわからないが、ふっと目が覚めた。
 
風呂場に入ってみると、もうもうと湯気がたっていて、ミカはすでにこときれていた。
 
ガスの火は消えている。すぐにガス栓を閉めて、風呂桶に手を入れたが、熱湯になっていて手も入れられない。手で触ったらミカのからだの皮がするっとむけた。水道の蛇口をひねって水をそそぎこみ、外に運び出そうと持ち上げようとしたが、重くて持ち上げるものではなかった。ミカは座禅を組んだ形で足を組んで死んでいた。
 
まだ部屋を借りたばかりで電話がひけていない。表通りへとびだして当時あった交番へ走ったが警察官はいなかった。机の上に置かれている電話で110番へ電話した。
 
まだ朝早く、白白と夜は明けていたが、両親を起こしてはかわいそうだと思って、7時ごろになって自宅に行って知らせた。それから埼玉の実家の両親、友人、知人にと次から次へと電話をかけたが、正月の11日のことなので、電話をかけると誰もが「おめでとう」と言われてしまうのには困ってしまった。
 
5歳の息子はその日も、お婆さんに連れられて幼稚園に行き、先生に「ママは今朝死にましたけど、ぼくは悲しくない。死んだものは帰ってこないから」と伝えたそうだ。
 
その息子も55歳、子供も二人も独立している。半世紀も経っているのに、その日のことは鮮明に覚えている。

 

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