2017年3月27日 (月)

廓からの脱出の道は死しか!

時代劇をみていると、吉原がたびたび登場してくる。
 
これは祖父の伊藤冨士雄が、救世軍の婦人救済係として活躍していた大正時代の話だ。
 
「幕府の売春政策を継承することによって、見事な公娼制度が確立され、富国強兵策を裏側から支えた。
 
公認された廓は全国140数カ所におよび、鑑札を受けて肉体を売る娼妓は5万人を超えようとした。
 
廓と社会をつなぐ出入り口は一つしかなく、そこにある交番の巡査の許可なくしては、娼妓は廓の外に一歩も足を踏み出すことはできないのだ。
 
年期が明けるまで廓の外に出たことのない娼妓は少なくなかった。
 
檻に閉じ込められた娼妓は、どんな理由によっても、年期が明けるまでは、体を売ることをやめられなかった。
 
悲惨な娼妓の悲しい話を紹介してみよう。
 
東北の山村から桂庵に売られ、吉原の一力楼の春駒となった高橋久子は、客から業病(おそらく梅毒だろう)を背負わされた。
 
「じきに治る。今度から病気をもらわないように気をつけな」と、楼主は冷淡な態度で、検診(医者に性病の検査を定期的に見てもらうことが義務付けられていた。)は換玉でごまかして働かせた。(当時はコンドームをつけることなどしなかったのでは)
 
 
やがて春駒の髪の毛が不気味に抜け始めた。
 
「あたし、怖い。何とかしてください」春駒は泣いて楼主に訴えたが、「お前には銭がかかっているんだ。休まれてたまるか。稼ぎやがれ」と、楼主は春駒をにらみつけた。
 
 
 
そのうちに春駒の頭に一本の毛もなくなってしまった。
 
それでも楼主は、カツラをかぶせて春駒に客をとらせた。
 
 
 
みじめな自分の境涯を手紙にしたため、春駒は「命に関わりますから、1日も早くお救いくださいまし。」 と救出を訴えた。
 
すぐに救世軍婦人救済係の伊藤冨士雄が駆けつけて相談に応じた。
 
一刻も早く、春駒は廓を出たかった。
 
しかし、髪の毛のない自分の姿を思うと、人の助けを借りて、廓を出る勇気がくじけそうになった。
 
弱気になって決行が遅れ、楼主に見つかり、春駒は見せしめのリンチを受けて、それでもなおも客を取らされた。
 
 
 
「もう生きていたくない」
 
春駒が漏らした一言に、希望のない日々を送っている客が同情して、「俺だって、生きていていいことがあるわけじゃないさ」とつぶやいた。
 
二人は洗浄室に備えてある消毒液をあおった。
 
大正5年3月21日の夜も明けそめる頃だった。
 
脱出の道は死しかなかったのだろうか。
 
 
 
廓という金縛りの牢獄に閉じ込められた春駒のような女たちを救出するために、命を張った男もいたのである。」
 
 
 
大正3年8月2日、伊藤富士雄は洲崎病院におもむいた。
 
米河内楼の歌之助と、中野楼の信子を洲崎署に連れて行って廃業させるためであった。
 
急報で洲崎遊郭の旦那衆が、200名に及ぶ応援を連れ「待ちやがれ」と、口々に叫びたてる。
 
その中を伊藤は怯える二人の娼妓を両脇に守り、門を出ようとした。
 
 
 
「足抜きにされてたまるか。やれっ」
 
旦那衆の声で200人もの男どもが襲いかかってきた。
 
血にまみれた伊藤は気を失って路上に倒れ、娼妓は連れ去られたが、目の前の洲崎署は傍観し、一人の巡査も出てこなかった。
 
翌年にも洲崎遊郭で半殺しの目にあったが、このように体を張って実に987人の娼妓の廃業を助けた。
 
祖父、伊藤冨士雄はすごい。
 
B
違法な野外でござを敷いて性をする売春婦

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2017年3月20日 (月)

「個人情報」なんて規制がなかったら!

ぼくは朝日新聞のおかげでいい仕事を残すことができた。
 
昭和36年12月(1961年)末の妹、紀子が、突然の心臓発作で倒れ、昭和37年8月9日に、東京女子医大の心臓病棟401号室(6人部屋)に入院することになった。
 
病院の都合で手術の予定日が何度も延期されて、妹はやけくそになっていた。
 
そんな妹を見かねて、ぼくは朝日新聞の読者の投稿欄「読者のひろば」に、「妹に激励の手紙を」のタイトルで投稿した。
 
それが数日後「読者のひろば」のトップに載ったではないか。
 
これが載らなければ『ぼくどうして涙がでるの』の本も生まれなかったし、日活の映画化もなかっただろう。
 
これがぼくの心臓病との闘いのきっかけになった。
 
 
 
「個人情報」なる規制がまったく無い、いい時代だった。
 
投稿には我が家の住所、病室の住所、部屋番号まで書いてあったのだから、今ではありえないことだ。
 
昭和48年12月20日、妹は2人の男の子を残して32歳で、2度目の手術の甲斐なく亡くなった。
 
その死を朝日新聞は、社会面のトップで大きく報じてくれた。
 
「心臓病の子供を守る会」発足のきっかけを作り、保険で手術の費用がまかなえることにもなった。
 
 
 
それからぼくの仕事は同性愛の人たちへ目を向けることになっていった。
 
ぼくが弱い立場の人たちのためにはたらくのは、大正時代に吉原や洲崎の遊郭に、貧しいがために親に売られたお女郎さんを救い出す仕事をしていた祖父の伊東冨士雄の血を、受け継いでいるからかもしれない。
 
それと、岩手の山奥で育った母の辛抱強さも受け継いだのだろう。
 
 
 
朝日新聞の社会部の小泉信一さん。
 
この人が朝日の記者か、と思うぐらいラフな感じの人だ。
 
20数年前、新宿2丁目のことを記事にした時、朝日が初めて『薔薇族』のことを書いてくれた時の記者だ。
 
 
 
13年前、『薔薇族』が、382号で廃刊を余儀なくされたとき、小泉さんにだけ電話をかけた。
 
小泉さんが書いた『薔薇族』廃刊の記事の反響はすさまじかった。
 
週刊朝日も、ぼくのことを記事にしてくれたが、しばらくぶりに電話がかかってきた。
 
 
 
『薔薇族』は廃刊になってしまったが、その後「伊藤文学のひとりごと」のタイトルでブログを書き続けていることに、小泉さんは興味を持ってくれて、朝日朝刊の「ひと」というコーナーに取り上げてくれることになった。
 
 
 
ぼくが毎日のように買い物に行くたびに立ち寄るカフエ「織部」で取材を受けた。
 
シャツは古着で買ったものばかりだが、写真に写っているカーディガンは、イタリア製で30年も前に二子玉川の高島屋で、10数万円もしたものだ。
 
裏地は絹で少し破れているが、ずっと愛用している。
 
 
 
「ひと」は、2017年3月6日の朝刊に載った。
 
ぼくは薔薇族の取材を受けるときは笑顔をしたことはない。
 
それは今でも「気持ち悪い」と差別の目で同性愛の人のことを見ている人が多いからだ。
 
笑顔は見せられない。
 
 
 
「ひと」は全国版なので多くの人が見てくれただろう。
 
奇跡ってあるものだ。
 
妹が心臓手術で入院していた心臓病棟の401号室、その部屋で妹や、亡くなった芳っちゃんと同室で苦楽を共にした、名古屋に住む女性(80歳)と、ネットでつながったのだ。
 
 
 
新聞社に電話したら「教えられない」と断られ、ネットでぼくのブログにたどり着いて、ぼくの友人が経営する銀座の「まじかな」で、ぼくが3月24日の夜、85歳の誕生を祝う会のことを載せていた。
 
それで中嶌君に電話をかけて、ぼくの電話番号を教えてもらったということだ。
 
Nさん、外出して夕方に帰宅して新聞を見たそうだ。
 
昼間だったら「まじかな」は、留守電だ。
 
なにしろ54年も前に、妹と同室だったNさん、大学の教授だった。
 
ご主人は3年も前に他界して、2人の子供さんは独立しているそうだ。
 
 
 
こんなことってあるのだろうか。
 
感激した声が震えてしまった。
 
長生きしていて良かった。
 
Hito_2

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2017年3月18日 (土)

お上にも、お慈悲はある!

自慢するわけではないが、新聞の読者投稿欄に原稿を送って、ボツになったことがない。
 
今、購読している毎日新聞には、「みんなの広場」という投稿欄がある。
 
最近はブログや、ツイッターに書いているので、新聞への投稿はしばらくしていない。
 
一日中、家にいると足が弱ってしまうと思うので、下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」にお買い物がてらに散歩している。
 
早く歩けないので2、30分はかかってしまうが、杖なしで休まずに歩けるのだからありがたいことだ。
 
 
 
街を歩いていて気になることがあった。
 
だいぶ昔の話だが、女房が妊娠してお腹が大きくなってきた頃、大きなお腹をして歩いている女性に目が向いたものだ。
 
最近は子供を産む女性が少ないという。
 
近い将来には高齢者ばかりになってしまう。
 
子供を育てている母親に、国や、区が支援はしているのだろうが。
 
子供を保育園にあずけて働きたい女性も多いだろうが、保育園が足りないという。
 
 
 
背もたれのある自転車に幼児を乗せて、走っている母親に自然に目が向いてしまう。
 
中には子供を前と後ろに乗せて走っている母親がいて、それを見ると「頑張れ!」と言いたくなる。
 
たまに小さい子をおんぶし、前と後ろに3人も乗せて走っている姿を見るとなおさらのことだ。
 
代沢近辺は部屋を借りるにしても、家賃が高い。
 
ご主人も頑張って働いているのだろう。
 
 
 
世田谷区が業者に依頼してやっていることだろうが、定期的かどうかわからないが、歩道に置いてある自転車をトラックに乗せて、撤去している光景を見ることがある。
 
トラックに乗せられた自転車の中に、背もたれの付いた自転車が、何台かあるのを見ると悲しくなる。
 
幼児を乗せるための背もたれだ。
 
幼児のいない人が背もたれの付いた自転車に乗るわけがない。
 
歩道に自転車を置けば、歩行者にも邪魔になる。
 
撤去するのもやむなしとは思うが、背もたれの付いた自転車だけは、お目こぼししてほしいものだ。
 
 
 
ぼくが今、ハマっている時代劇のテレビで「お上にも、お慈悲はある」というセリフがよく出てくる。
 
「みんなの広場」への投稿のタイトルを「お上にもお慈悲はある」と付けたが、ボツに。
 
 
 
自転車を撤去する人たち、そこまで考えてはやってはいまい。
 
歩道に置いてあれば全て撤去する。
 
しかし、自転車に乗って買い物しに来る人も多い。
 
それを全て撤去してしまったら、商店街はさびれるばかりだ。
 
 
 
小さな個人商店は、高い家賃を毎月払うだけでも大変だ。
 
家賃を払うために働いているお店も多いだろう。
 
店をオープンしてもすぐにやめてしまう。
 
大きなチェーン店は変わらないが、個人商店の入れ替わりは、目まぐるしいばかりだ。
 
家賃を払わなくても、自分の持ち物だという店を何軒か知っているが、それでも黒字にならないというのだから、いかに家賃が重くのしかかっていることか。
 
下北沢の商店街は、土曜日・曜はお客が入っているが、平日の人通りは少ない。
 
それに景気もいっこうに上向かない。
 
 
 
話がそれてしまったが、自転車を撤去されて、それを取りに行くと、3000円も取られてしまう。
 
幼児を抱えている母親にとっては大きな負担といえる。
 
世田谷区長は弱い者の味方だから、背もたれの付いた自転車だけは、撤去しないように業者を指導してほしいものだ。
 
鬼平も悪者に鬼のような人だけど、優しい気持ちの持ち主でもあるのだから。

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2017年3月13日 (月)

伊藤晴雨の縄の絵が見られるぞ!

2017年3月20日(月)―4月1日(土)・会期中無(平日12時〜19時・土日祝・12時〜17時・入場料500円)
 
銀座のヴァニラ画廊で、「縄あわれ」展が開かれる。
 
美濃村晃・小宮山逢邦・中島圭一郎・ガースナイト・北村ケイ、特別出展・伊藤晴雨。
 
これだけの画家の作品を見ることができるとは、すごいことだ。
 
伊藤晴雨、ぼくのご先祖様みたいだが、他人さまで、美濃村晃さんの作品はぼくのコレクションだ。
 
 
 
昭和37年12月、親父とぼくしかいない第二書房は、女狂いの父は仕事はぼくにまかせっきり。
 
小出版社はエロ本を出すしかないと、ナイト・ブックス(夜と騎士をかねて命名)を新書版で次から次へと、月に1冊ずつ出しはじめた。
 
清水正二郎(後に直木賞を受賞して、胡桃沢耕史と名を変える)さんの本は、20冊ばかり。
 
最後の頃に藤見郁さん(この人、ペンネームをいくつか使って、濡木痴夢男の名でも。美濃村さんも藤見さんもこの世にいない)のSM小説の短編集を10冊ほど出している。
 
そのカバアの装画、本文中に入れた挿絵などを大切に保管していたものが、今回、展示される。
 
 
 
美濃村さんは、喜多玲子の女の名でも書いていたようだ。
 
『奇譚クラブ』は、1975年に廃刊になっているので、美濃村さんの作品は市場に出てくることはないのでは。
 
『サスペンス・マガジン』の4月号に、ぼくの先妻のミカが、『O嬢の物語』を新宿の厚生年金会館の小ホールで、旗揚げ公演したときに、美濃村さんと、飯田編集長(この人が藤見さんの本名だと思う)が、見に来た時のことを記事にして酷評している。
 
 
 
「画伯(美濃村さんのこと)「ひどいねえ、これ、原作の冒涜だよ。原作者が見たら怒るよ。」
 
 編集長「つまり、原作の真意がわかっていないんだ。うわっつらを撫でているにすぎないのさ。第一、表現が乏しいよ」
 
 画伯「こけおどかしさ。アア、もう、いやになった。出よう、出よう」
 
 編集長「まあ、もう少し我慢しましょう。そのうちに、きっと面白くなるよ」
 
 
 
結局、途中で3人は「O嬢」に別れを告げて、外へ出ました。
 
画伯と編集長は「つまらないものをみせられた」と、まだ、ブツブツぼやいている」
 
 
 
もう、おふたりとも、この世にはいないのだから、怒ったところでどうにもならない。
 
人それぞれに見方が違うのだから、仕方がないことだ。
 
ぼくの著書『裸の女房』を読んでいただければ、ミカの作品の評価は分かるだろう。
 
 
 
余計なことを書いてしまったが、美濃村さん、何度もお会いしたが、誠実な方で絶対にご自分の作品に手を抜かず描かれている。
 
画廊で見ていただければわかることだ。
 
藤見さんとも仕事場に、ちょくちょくお邪魔して、楽しいひとときを過ごした。
 
みんなこの世にいなくなって寂しい限りだ。
 
 
 
ぼくの85歳の誕生日が、3月19日、20日の初日に顔を出してみるか。
 
「縄のあわれ」展詳細
http://www.vanilla-gallery.com/archives/2017/20170320b.html

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2017年3月11日 (土)

愛煙家よ、声を大にして怒れ!

ぼくの憩いの場であり、自分が書いたブログを読めないぼくのために、店長の奥村君が見せてくれる。
 
カフエ織部には、朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。
 
それを読むのを楽しみにしているぼくのために置いてくれているようなもので、2、3人のお客しか読まないのでは。
 
 
 
日本経済新聞は、貧乏ぐらしのぼくには株を買うわけでなし、世の中の経済の動きを知ったところでどうにかなるわけでもない。
 
最後の頁の文化欄には「私の履歴書」というコーナーがあって、連載で経済界の大物が書いている。
 
成功した人の話は教えられるものがある。
 
 
 
それとわりと長文のエッセイが面白い。
 
2月26日(日)の朝刊に、石毛直道さんの「愛煙家のひとりごと」は、30平方メートル以下のひとりできりもりしているバアや、スナックだけが例外として喫煙を許されるなんて規制ができる時代に、こんなエッセイを載せていいものだろうか?
 
石毛さんは、1937年生まれ。民俗学者。国立民族学博物館名誉教授で、著書に「食卓文明論」「日本の食文化史」などがある。
 
ぼくは煙草は1度も吸ったことはない。
 
父が酒も煙草も縁がなかった、
 
母から学生時代に「煙草は吸うな」と言われていたので、素直なぼくは、母親の言うとおりになってしまった。
 
戦時中は酒や煙草は配給制で、どこの家にも公平にくばられていた。
 
母はそれを物々交換していたようだ。
 
 
 
「喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。
 
喫煙はあなたにとって脳卒中の危険性を高めます。
 
とは、日本で発売されている煙草の箱に記されている警告である。
 
たしかに煙草は健康に悪影響を与える嗜好品であろう。
 
しかし健康の関係でいえば、自動車の排気ガスも有害であろう。
 
自動車だけではなく、工業の動力源として使用される化石燃料による地球温暖化によって、大規模な環境変化が起こり、人類という種の存在に関わるような事態が発生するとの予測もある。
 
「煙草をやめろ」と言うならば、「自動車に乗るのもやめろ」といいたくなる。」
 
 
 
石毛さんのいわれるとおりだ。
 
石毛さんは書いていないけど、放射能だって飛び散っているに違いないのだ。
 
かつてぼくが経営していた、カフエ「イカール館」で「煙草を大いに吸おう」という催しを開いたことがある。
 
専売公社の方もふたり参加されてよろこんでくれた。
 
あのとき集まった愛煙家たちの幸せそうに煙草を吸う顔は、今でもまぶたの底に焼き付いている。
 
なんでこんなに、煙草を吸う人がいじめられ、悪者扱いにされなければならないのだ。
 
「怒れ! 愛煙家よ!」と、煙草を吸わないぼくが叫びたくなる。
 
 
 
わが家には、ぼくの女房と、一緒に住んでいる息子がヘビースモーカーだ。
 
中学3年生の男の子のそばでは吸うなと、いくら注意しても吸うので、もう、あきらめている。
 
石毛さんは、こんなことを書いてしめくくっている。
 
 
 
「もうすぐ80歳になるわたしが、これから禁煙したところで、どれだけ長生きできるものやら。
 
それより煙草をやめることにともなうストレスで寿命を縮めることになりそうだ。
 
そんな自分勝手な理屈をこねて、煙草に火をつける、この頃である」
 
 
 
「鬼平犯科帳」の吉右衛門のキセルで、きざみ煙草を吸うシーンをなくしてしまったら、つまらないものに。
 
煙草は文化なのだ。

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2017年3月 6日 (月)

ため息をつき、どうしようもない悲しみを!

ぼくは、毎日新聞をずっと購読している。
 
夏の暑い日の夜、汗をダラダラ垂らしながら、年配の勧誘員がやってきた。
 
ノルマにどうしても足りないのでと、泣きつかれれてしまった。
 
毎日新聞がいちばん経営状態が良くないことは知っていたので、同情する気持ちもあったので購読することにしてしまった。
 
 
 
もう7年も前のこと、2010年1月29日の夕刊に、鈴木琢磨記者が「酒に唄えば」というコーナーを担当していて、彩流社から出版した『裸の女房』を取り上げてくれた。
 
新宿のホテルの地下のお店で出会った。
 
なんと若い時に『薔薇族』の取材で、編集室を訪ねたことがあるというが、ぼくは全く覚えていない。
 
「愛こそ燃える火」というタイトルで。
 
 
 
「33歳で不慮の死を遂げた前菜の前衛舞踊家、伊藤ミカの評伝だった。
 
夜汽車での出会いから、公立中学の教師でありながら、地下文学の傑作「O嬢の物語」を全裸で踊ったスキャンダルまで。
 
全編から60年代の熱気が伝わってくる。」
 
 
 
あれから7年も経ってしまったとは。
 
鈴木琢磨さん、毎日新聞の夕刊担当で、いい記事を書き続けている。
 
 
 
84歳、ぼくと同じ年齢の人が亡くなると、そろそろかなと思ってしまう。
 
「戦後歌謡史を彩った作曲家・船村徹さんを悼む・いつも心で泣いていた」
 
2015年12月に船村さんをインタビューした時のことを長い記事にしている。
 
「日本人の心に響く演歌は時代が変わっても不滅だと思いますよ。
 
ただ危惧はしている。
 
北原白秋にしても、私が晩年に一緒に仕事をした西条八十にしても、日本の古典をよく勉強し、ずば抜けた国語力がありました。
 
近頃の日本の歌には、その力が欠けている。
 
それにリズム重視で、メロディもおろそかで。
 
そしてため息をつき、どうしようもない悲しみを語った。
 
 
 
美空ひばりもいない。
 
作詞家の星野哲郎もいない。
 
寿司屋なら、さしずめマグロがないような…。
 
寂しいんだ。
 
彼女らが亡くなってから、まだ100年も過ぎていないのに、すごく遠く感じるんです。」
 
 
 
短歌の世界も同じことが言える。
 
斎藤茂吉、折口信夫、北原白秋、佐々木信綱
 
そうそうたる大歌人が他界し、その弟子たちの
 
宮柊二、木俣修、佐藤佐太郎、福田英一、香川進、近藤芳美
 
これらの人たちも他界し、次の時代に移ると、みんな小粒になって、惨めとしか言いようがない。
 
 
 
NHK のうたコン司会者の谷原章介君、ぼくが下北沢の北口で経営していたカフエ「イカール館」で、1年以上もアルバイトをして働いてくれていた。
 
女性のお客も多かったが、特別にモテるという感じではなく、普通の学生だった。
 
それが芸能界でもまれていろんな役をこなしてあかぬけてしまった。
 
今やスターと言える存在になっている。
 
「イカール館」でアルバイトをしていた青年がスターに。
 
誇らしい気持ちにもなる。
 
 
 
歌手の「クミコ」さん。
 
売れなかった時代から応援してきて、今や歌手として貴重な存在になり、紅白にも出演し活動を続けている。
 
もうおひとりは、60歳を過ぎて脚光を浴びた秋元順子さん。
 
「イカール館」でも、「ロマンの泉美術館」でも、何度も歌ってくれた。
 
紅白でも2度出演し、この方もスターに。
 
いろんな人たちを応援できた時代を懐かしがっているようじゃ情けない。
 
まだまだだ。
 
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ロマンの泉美術館で歌う秋元順子さん

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2017年3月 4日 (土)

小林亜星さん「世の中動かす才能を待て!」

「「歌は世につれ、世は歌につれ」といわれる。
 
だが、どの世代からも愛され、世相を映し出すような流行歌をめっきり耳にしなくなった。
 
流行家はどこへ行ってしまったのか。
 
数々のCMソング、アニメ主題歌、歌謡曲などを手がけてきた作曲家の小林亜星さん(84)に聞いた。」
 
2月2日の毎日新聞に、森本英彦さんが聞き手で話をまとめている。
 
 
 
大晦日のNHK紅白歌合戦、ぼくはブログで見ないと書いたのに、全部見てしまった。
 
NHKもお金をかけている番組だから、視聴率をあげなければならない。
 
スタッフはいろいろと工夫している。
 
照明が進歩しているので、歌っている歌手のバックをさまざまに変えられる。
 
いまや踊れない歌手は少ない。
 
昔の歌手のように直立不動で歌う歌手なんていなくなってしまった。
 
踊りを見せているのか、歌を聞かせているのか分からなくさえなっている。
 
 
 
亜星さん、いいことをしゃべっているが、同じ世代なので同感することが多い。
 
とくに共感したのは、ぼくも同じことを考えていたからだ。
 
 
 
「ぼくたちの若い頃は、テレビ局にもレコード会社にもふらっと入れたんです。
 
プロデューサーに「何か仕事ないかね」というと、「誰か亜星ちゃんの仕事ない?」こんな感じです。
 
年中、皆で飲んだり食ったりして、時にはけんかもして、家族的だった。
 
その中からヒット曲が生まれた。
 
テロの後、社屋に入るのにいちいち通行証をもらわなきゃいけなくなって、そんな雰囲気も失われました。」
 
 
 
昭和30年台の後半の頃、妹の心臓病の闘病記を書いたのが、朝日新聞がとりあげてくれて、『ぼくどうして涙がでるの』が、大ヒットした。
 
日活で映画化が決定した頃、駒沢大学の同期生だった長田暁ニ君が、キングレコードでディレクターをしていて活躍していた。
 
第二書房の製本屋が、護国寺のすぐそばにあり、キングレコードの社屋もすぐ近くだった。
 
その頃、ぼくはスクーターに乗って飛び回っていた。
 
キングレコードの社屋の前の歩道にスクーターをとめて、長田君の仕事場を訪ねた。
 
守衛もガードマンもいない。
 
エレベーターに乗って仕事場へ。
 
ロビーみたいなところがあって、ゆったりしたソフアがいくつも置いてある。
 
そこには作曲家や、作詞家、有名な歌手も座って雑談している。
 
そんな中からヒット曲が生まれたのだろう。
 
長田君、ぼくの話を聞いて、即決でレコード化してくれた。
 
ぼくが書いた作詞を横井弘さんが補作してくれた。
 
ぼくが書いた作詞の原文をなくしてしまったので、どのように補作してくれたのかが分からないのは残念だ。
 
確か作詞料を3千円頂いたことは覚えている。
 
映画のタイトルの文字も、ぼくが書いた文字、そしてそのバックに曲が流れる。
 
あんないい気分は二度と味わえない。
 
 
 
妹が入院していた東京女子医大の心臓病棟も守衛もガードマンもいない。出入り自由だ。
 
いい時代だった。
 
そんな中から、ぼくの名作『ぼくどうして涙がでるの』がベストセラーになり、映画にまでなった。
 
 
 
妹が二度目の手術の前夜、看護婦さんの寮に行って、写真を見せてもらったり、くしもプレゼントしてくれたそうだ。
 
亜星さんの言うように、「世の中動かす才能を待て」」というけれど、かつてのように、みんな歌える流行歌を取り戻す道のりはけわしいということか。
 
残念ながら、そんなヒット曲はもう生まれそうもない。

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2017年2月 6日 (月)

死は我々全員の行き先です!

「kotoba」(集英社・クオータリー・コトバ)2012年、春号で「死を想う・現代人にとって「死」とは何か?」という特集号だ。
 
この豪華な雑誌、たしか渋谷の画廊で知り合った女性の編集者が、送ってくれたものだと思う。
 
ぼくはこの3月19日で満85歳、男性の平均死亡年齢を何年か越すことになっている。
 
末の妹の紀子が、2度目の心臓手術の甲斐なく、32歳で亡くなったのが、昭和48年12月20日のことだ。
 
東京女子医大の心臓病棟での長い闘病生活の間に多くの人々の死に直面した。
 
 
 
それからというもの、本を出版するたびに、新宿の京王プラザホテルなどで、多くの友人、知人を集めて、盛大な出版を祝う会を催すようになった。
 
下北沢にあったカフエ「イカール館」、そして新潟県の弥彦村の「ロマンの泉美術館」でも、どれだけパーティを開いたことか。
 
それはぼくが死んでしまって、人々が集まってくれたところで、どうなるものではない。
 
生きているうちに、友人、知人と出会うチャンスを作りたいと思っての催物だ。
 
 
 
古いアルバムをめくって見ると、すでにこの世にいない人が多いのには、がくぜんとしてしまう。
 
あのとき会っておいてよかったではないか。
 
もう銀座のキャバレー「白いばら」での3回もの出版を祝う会のような豪華な会はできないが、20、30人いや50人ぐらいの友人、知人を集めての会ならまだまだできそうだ。
 
 
 
そろそろあの世へ旅立つ準備をはじめていて、とにかく買い集めた、さまざまのコレクションを、手放している。
 
ぼくは物に対する執着心のようなものは、まったくない。
 
親父が残した家や、土地も失ってしまったが、がっかりもしていない。
 
多摩墓地にお墓だけはあるから、年間、2500縁を都の公園科に払えば、そこにお骨は収められる。
 
 
 
人間、どんな人でも死ななければならない。
 
ぼくは宗教心もないし、死んだら地に戻るだけだと思っているから、死をまったく恐れない。
 
「kotoba」の中に、有名人が残した「死を想う言葉」が載っている。
 
アメリカ人のスティーブ・ジョブズさんの残した言葉が、わかりやすく、そのとおりだ。
 
 
 
「誰も死にたくない。
 
天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいと思わないでしょう。
 
死は我々全員の行き先です。
 
死から逃れた人間は一人もいない。
 
それはあるべき姿なのです。
 
死はたぶん、生命の最高の発明です。
 
それは生物を進化させる担い手。
 
古いものを取り去り、新しいものを生み出す。
 
今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。
 
深刻な話で申し訳ないですが、真実です」
 
 
 
ジョブズさんが考えだした「Apple Ⅰ」なんて、ぼくは触りもしていないが、どれだけ世の中の役に立っていることか。
 
小説家の山田風太郎さんの残した言葉。
 
 
 
「性の快楽と死の苦痛は、万人平等である。
 
しからば、なぜ、それ以上の平等を求める必要があるのだろうか」
 
 
 
「性の快楽」なんてものを、まったく知らずに死んでしまう人がいることを山田風太郎さんは知らなかった。
 
さて、ぼくは死が近づいたときに、どんな言葉を残して死ぬだろうか。
 
まだ時間があるようだから、誰もがその通りだと、感心してくれる言葉を残すから、それまでぼくのブログは読み続けてほしいものだ。

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2017年1月30日 (月)

短歌は万葉集の時代に戻そう!

戦後まもない昭和23年に駒沢大学の文学部国文科に入学し、万葉集の研究者でもあり、歌人で「白路」を主催する森本治吉教授に出会ったことで、ぼくは短歌を作り始めた。
 
学生時代に作った短歌をまとめた「歌集 靴下と女」(1993年4月)の序文に、親友だった阿部正路君(当時は國學院大学生で、後に国学院大学教授)が、「伊藤文学君と初めて会ったのは、昭和25年の5月、東京大学の構内の三四郎池のほとりだった。」と、ある。
 
各大学の短歌を作歌する学生たちを集めて、阿部君と2人で運営した。
 
ぼくが催しを企画し、画期的な催し物を何度も開催した。
 
 
 
大学を卒業して、ぼくは間もなく、短歌とおさらばしてしまい、それから60数年、短歌とは縁がなくなってしまった。
 
大学歌人会の仲間たちで、今もなお作歌を続けている人は、歌壇でもかなりの地位を占めているのは嬉しいことだ。
 
いまさら短歌がどう変わろうが、ぼくには関係のないことだが、2017年1月14日の新聞に.新春恒例の宮中行事である「歌会始めの儀」が13日、皇居宮殿であり、天皇皇后両陛下や皇族方が詠まれた歌が披露された。
 
今年の題は「野」で、一般応募で2万205首から入選した10人の歌も詠み上げられた。
 
5人の選者の作品も出ていた。
 
 
 
その中の1人S 君は、大学歌人会の時の2年ほど後輩だ。
 
60年以上も作歌を続けているのだから、歌集も何冊も出しているのだろうが、目にしたことはない。
 
宮内庁の仕事をするようになってからは、ぼくとのお付き合いは途絶えている。
 
それは当然のことだ。
 
アウトローのぼくのようなものを避けるのは、S 君だけではない。
 
都立高校の校長にまでなった、クリスチャンのA 君にも敬遠されてしまった。
 
そんなことはどうでもいいことだが、選者のS君の作品の酷さを読んで.短歌を作歌している多くの人たちに苦言を呈したいと思ったのだ。
 
 
  書くためにすべての資料揃ふるが慣ひとなりしきまじめ野郎
 
 
これが選者の作品とは情けない。
 
作歌と60数年離れたとはいえ、作品の良い、悪いはわかる。
 
「きまじめ野郎」は、S 君、自分のことを言っているのだろうが「野郎」という言葉は下品な言葉で、「この野郎」と、怒って相手を罵る言葉だ。
 
ぼくがこの作品を添削すると、「きまじめな人」くらいにするだろう。
 
それにしても何の感動も呼ばないつまらない作品ではないか。
 
お題が「野」。下品な言葉の「野郎」。
 
たしかに「野」が入っているが、あまりにもこじつけ、「この野郎!」と、ののしってやりたいぐらいだ。
 
 
 
「俵なんとか」という女性の作品が話題になって、短詩というべき作品が、はんらんしているが、短歌はあくまでも、5・7・5・7・7の定型を守るべきだ。
 
もう一度、万葉時代の作品に戻るべきではないだろうか。
 
規則を守って、その中でいかによく表現するかが大切だ。
 
昔から口語短歌を作る人はいたが、いずれも成功していない。
 
5・7・5・7・7、誰が考えたのか知らないが、リズム感が良く、自然に定着したのだろう。
 
それに文語体のほうが格調がある。
 
絵画でも、その基礎になるデッサンをしっかり学ばなければならない。
 
短歌でも「写生」を勉強すべきだ。
 
これは正岡子規の言葉だったか。
 
文化勲章受章者で大学歌人会の先輩、万葉集研究の権威、中西進君はこの作品をどう評価するだろうか。

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2017年1月28日 (土)

路地のまた路地の奥にある「織部」へ

ぼくの仕事の発想のすべての元はといえば「オナニー」からだ。
 
1966年(昭和41年)に第二書房から出版した.秋山正美著『ひとりぼっちの性生活』、秋山さんは出版社に売り込みに歩いて果たせず、出版社など何社もない、世田谷の代沢にある第二書房に持ち込んできた。
 
それから51年にもなる今、パラパラとページをめくってみたが、こんな七面倒な本を読んでオナニーをしなければならなかったのか。
 
秋山さんは「まえがき」にこんなこと書いている。
 
 
 
「私は自分の意見を全く自分の意思にもとづいて書いた。
 
題も自分でつけた。
 
出版社のほうから依頼して、本書を出版していただいたのである。
 
こういう場合、出版物の内容を自社の出版企画に合わせようとして、原稿の一部を書き換えたり、削ったりする出版社がある。
 
けれども私の著書は、まさしく一字一句原文そのままに印刷され、出版されたのである。
 
したがって、私がこの本の内容のすべてにわたって全責任を取るのは、当然のことである。
 
この本が、孤独に生きるあなたの日々に、ほんの少しでも役立つことを祈りつつ。」
 
 
 
ぼくが51年前、この手書きの原稿を一字一句読んでいるわけがない。
 
「勘」というか、ぼく特有の「感性」で判断して、出版を決めたのだと思う。
 
学生時代にオナニーで悩んだ経験、当時はオナニーが体に害になると言われていた。
 
何かの雑誌に医学博士が書いた「害にならない」という記事を読んで、ほっとした気持ちになった事も覚えていたからだ。
 
 
 
この本がきっかけとなって、「レズビアンテクニック」「ホモテクニック」となり、何十冊かの同性愛の単行本に繋がっていった。
 
そして1971年7月に、日本初の同性愛誌『薔薇族』となった。
 
『薔薇族』は廃刊になってしまったが、30数年前に発売した「愛の潤滑液ラブオイル」は、多くの読者の信頼を得て、今も売れ続けている。ありがたいことだ。
 
 
 
オナニーのやり方を書いたが、「ひとりぼっちの性生活」を読まなくても、「ラブオイル」をぬってしごけば、気持ちよく、ひとりぼっちの性生活を楽しめる。
 
 
 
ぼくは本嫌いで本を読まないのではなく、難しい事を書いた本を理解できないから読まないだけのことだ。
 
「オナニーと日本人」ぼくはこの本を購入した記憶がないから、読者が送ってくれたものだろう。
 
オナニーにも古代ギリシャからの歴史があり、よく調べて書いたものだ。
 
オナニーの発想からいい仕事を生み出すことができたぼくとしては、この本を読んで、勉強すべきだろうが、老眼鏡をかけて、その上、大きな虫眼鏡で、小さな文字を読むのは大変なことなのだ。
 
ネットもいじったことがない、スマホなんてものも持たないぼくは、時代に取り残された人間かもしれない。
 
しかし、戦争の体験もある。
 
戦中、戦後の食物がなかった時代、日本が元気が良かった時代を知っている。
 
男性同性愛の雑誌『薔薇族』を創刊してから30数年の体験は、誰も知ることができないぼくだけのものだ。
 
「文ちゃんと語る会」の会場、カフエ「織部」、路地のまた路地の奥なのに、スマホで難なくこられてしまう。
 
便利なとことか幸せなのか。
 
探し歩いてやっと見つけたときの喜び。
 
感動のない生活って、わびしいのでは。

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