2019年11月11日 (月)

「令和」の考案者、中西進さんがぼくのことを!

ぼくはふところ具合の関係で、講読料が一番安い東京新聞をずっと購読している。

購読料が安いからといって、他紙に比べて内容が悪いわけではない。父が戦後独立して、昭和23年に第二書房を設立した頃から、東京新聞には広告を出していた。

帝国ホテルで東京新聞がスポンサーを招待してのパーティに出席したことがあったが、双子の歌手「ザ・ピーナッツ」が歌っていた。現在は名古屋の中日新聞の子会社になっているようだ。

「令和」の年号の考案者の中西進さん、90歳になられているのにお元気で、若い3人目の奥様を迎えて、京都で暮らしている。

読売新聞を購読している、ぼくより2歳年下の妹から電話がかかってきて、「文ちゃんのこと新聞に出ているよ」というので、コンビニで買い求めて読んでみた。

「時代の証言者」という連載の記事で、「令和の心 万葉の旅 中西進」というタイトルで、中西さんがしゃべったことを読売新聞の編集委員がまとめている。

10月26日の「文ちゃんと語る会」の常連のひとりが1回目から切り抜いて持ってきてくれていたので、中西進さんの話が連載されていることは知っていた。

10月31日の読売新聞朝刊に「令和の心 万葉の心」の12回目のタイトルは「短歌人熱中 東大でも」とある。

中西さんが早稲田大学の学生だったとは知らなかった。中西さんはこんなことをしゃべっている。

「早稲田時代は短歌に熱中しました。たまたま読んでいた「早稲田文学」に都筑省吾という先生の短歌が出ていたので、教室で「読みました」と伝えたら、先生は大喜びでねえ。

「君、うちへ遊びにこないか?」

それが縁となり、先生が主宰していた窪田空穂系の短歌結社「槻の木」に入り、歌を作り始めたのです。厳しい先生で、最初の日、「今度来るときに100首もってらっしゃい」という。ほかにも何人か同じことを言われましたが、持って行ったのは僕だけです。(中略)

5月がスタートだった国立の東京大学文化2類を受験したいと思っていたからです。短歌熱は東大時代も続き、東大短歌会をつくり、東大俳句会にも所属しました。3年になってからの文学部時代には、本郷キャンパスの三四郎池近くにあった建物を会場に、大学連合の歌会もやりました。(このとき、ぼくは駒沢大学から一人参加し、ぼくの作品を中西さんが絶賛してくれたので、ぼくは自信を持つことができ、のちのぼくの人生が変わり、いい仕事を残すことができた)

当時の雑誌をみると、慶應大からは医学部の岡井隆さん、駒沢大では日本初のゲイ雑誌『薔薇族』創刊で有名になった伊藤文学さん、早稲田からは篠弘さん(現在、宮内庁のお歌所の選者、毎日歌壇の選者。短歌だけで高収入を得ている数少ない人のひとり)が参加しています。

後には歌人、宮柊二さんの門をたたき、東京日比谷の松本楼で開かれた宮さん主催の「コスモス」(ぼくの父が立ち上げた)短歌会の結成大会に出席しています。その後、読売文学賞をとる「万葉集の比較文学研究」の執筆で忙しくなった頃でしょうか、研究と創作の両立は難しいと感じ、創作からは離れました。でも、短歌を実作していたことは万葉研究にも役立ったと思います」

ぼくも短歌を作ることをやめてよかった。でも、本の誌名を考えたり、小説の題名を考えたり、見出しを考えたり、広告の宣伝文句もと、大いに役に立った。

なによりも『薔薇族』という歴史に残る誌名を思いついたのだから……。

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2019年11月 9日 (土)

伊藤文学はあの世に行ってしまったと!

3年ぐらい前のことだったろうか。左目になにか異物感を感じることがあったので、近所の眼医者に診てもらったことがあった。

年をとってくると、誰もが悪くなってくる目の病気のようだ。「白内障」(辞書にはこう記されている。眼球の水晶体が白く濁って、視力が低下する病気)

左膝に人工膝を入れる手術をしてもらって、半年に一回、手術をしてくれた医師がレントゲンを撮って診察してくれている新宿のすぐ近くの東京医大の眼科に紹介してもらって診てもらった。

手術をしても今以上によくはなりませんよ。と言われて目薬を処方してくれた。その薬をずっと使っていたら、その後、異物感もなく目の調子も良かった。それが最近になってまたおかしくなってきたので、近所の眼医者に行って診てもらったら、左老眼鏡の度が合わなくなったので、メガネを変えなさいと言われて、眼鏡屋に持っていく資料を書いてくれた。

老眼鏡のせいではないと不信感を持ったので、カフエで知り合った友人(?)年中、医者通いをしていて、いろんな医院を知っている人に相談したら、渋谷から山手線でひとつめの駅、恵比寿のすぐ近くの角屋眼科医院を紹介してくれた。

会社に行くときに車で医院の前まで送ってくれる親切な人だ。女医さんでお母さんと娘さんが交代で診てくれる。看護婦さんもみんな女性だ。

待合室も小さな熱帯魚がたくさん泳いでいる。部屋全体が女性の繊細な美意識で、壁にかかっている油絵もいい。

検査の器具も何台もあって、詳しく調べてくれた。やはり白内障が悪化しているとのことで、表参道にある専門医を紹介してくれそうだ。

片方ずつ手術するようで、日帰りでいいようだ。11月にはどうしてもすましておかなければならないことがあるので、11月の20日すぎに手術をしてもらうことにして、それまでの目薬を処方してもらった。

「文ちゃんと語る会」をいつから始めたのか忘れてしまっているが、10年は続けているから多くの人に出会うことができた。

最初は和物の骨董品がずらりと飾られているカフエ「邪宗門」、それから下北沢の北口の「占茶」(いまはない)、そして作家のよしもとばななさんが常連の「つゆ艸」そして今の器とコーヒーの「織部」のお世話になって続いている。

どれだけ多くの人に出会ったことか。みんなに支えられて、ボケずに87歳まで元気に生きてこられた。

しかし、残念ながら11月は「文ちゃんと語る会」はお休みということにした。

一回も休まずに続けてきたのに残念だけど仕方がない。12月にはみんなの顔もはっきりと見えるようになって「文ちゃんと語る会」を続けるつもりだ。

それともうひとつ無念なことは年賀状だ。毎年、工夫をして19世紀の古い絵はがきを使ったりして、「織部」の店長にデザインしてもらい、工夫を凝らした年賀状を作り、手書きで住所を書き、ひとりひとり、顔を思い浮かべながら、添え書きもしてきた。

来年は「米寿」のおめでたい年でもあるので、いいものを作りたいと思っていたのに、これもあきらめることにした。

新潟の「ロマンの泉美術館」で出会った常連のお客さん(女性が多い)だけでも50名は越す年賀状を送ってきた。

ぼくの年賀状が届かなければ、伊藤文学は、あの世に行ってしまったのかと思うに違いない。ああ、年はとりたくないものだ。

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2019年11月 4日 (月)

ぼくが誕生したのと同じ87年前の雑誌が!

2019年・令和元年10月18日から20日まで、女房の古里、弥彦村にある別荘に「文ちゃんと語る会」で出会った音楽通の70代の親切な方が、ご自分の車を運転して連れて行ってくれた。
 
なにしろ代沢の3階建ての建物の中にある、父母が残したものから、一切合切を段ボール箱に詰め込んで、トラック何台もで運び込んでしまったのだから、別荘は倉庫と化してしまった。
 
ぼくが段ボール箱を開けて、ひとつ、ひとつを見て捨てるものと、残すものとを判断しなければならなかった。
 
書籍は読まないのに、持っていたからその量も大変な数になる。父が残した本はいいものがあったが、近所の古書店で処分してもらい、二束三文にしかならなかった。
 
ぼくの本も本の取次店(問屋)の親しい書籍仕入れ課の人に頼まれて、新潮社刊の「三島由紀夫全集」一冊1万円ぐらいした豪華本もページも開かず段ボールの中で眠っている。
 
店を持たずにネットで売っている古書店の人もめぼしい本は根こそぎ車で持って行ってしまった。
 
『薔薇族』も内藤ルネさんの表紙絵のものは、中野にある「まんだらけ」が高値で買い取ってくれた。今度も『薔薇族』を200冊ばかりと、単行本を60冊ほど送ったがいくらで買ってくれるものか。
 
残った雑誌で値段がつくものは少ない。『薔薇族』ってありがたい雑誌だ。類誌は値段がつかないのだから。
 
ぼくが生まれた日は、昭和7年3月19日だが、段ボールの中から「昭和7年・2月号の月刊・日本文學」(定価五十銭・日本文学社発行)を見つけ出した。ぼくと同じ87年も生き残っていた雑誌だ。父が勤めていた「第一書房」の広告が載っているから父が所蔵していたものだろう。
 
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執筆者の10人の先生方のお名前は、勉強しなかったぼくには知らない方ばかりだ。
 
日本文学社が開講する「国文学演習・会員募集」の広告の先生方のなかに、ぼくの駒大時代の恩師、森本治吉先生の名があった。
 
20名の講師の中で知っているお名前の先生は、久松潜一先生、武田祐吉先生だけとは情けない。令和の年号の考案者、中西進先生なら、みんな知っている方だろうが。
 
「編集後記」(編集発行兼印刷人の吉川興志次)を読むと、今風の文章に直してしまうとこんなことが書かれている。
 
「君よ、完全にお面一本取られながらも、なお、かすった、横だ、すべったなど、やせ我慢をはってはならない。『日本文学と国文学とは、その言葉が異なる。
 
名がちがえば実もちがってくる。父という場合と、お父さんという場合とは全く同じではない』などといっているのは、昨夜の寝不足のためではありませんか。
 
言語の持つ意味と、その感じとをごっちゃにしてはいけない。日本文学と国文学となるほど言葉の異うと共にふたつから来る感じの相違はわれわれも認める。しかし日本文学も国文学も、その外延と内容とは同じものだということに合点されたい。
 
二度数えるのも大人気ないが、君に教えを受ける学生たちが気の毒だと思い、簡単に申し上げておきます。とは後記子から某誌編集者某氏に與る一書である。」
 
分かったような、分からないような、どうも他の雑誌に書いた先生を批判しているのだろうか。
 
ぼくは「編集後記」を30数年書き続けてきたが、読者をおもう気持ちで書いてきた。それにしても父は「文學」などというとんでもない名前をつけてくれたものだ。

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2019年11月 2日 (土)

今や下北沢は古着屋の街に!

ぼくが住んでいる下北沢の街。日本の敗戦の年、昭和20年の8月15日ごろは、世田谷学園の1年生だったから、戦前、戦後の下北沢の街をずっと見続けてきたことになる。

現在、下北沢の南口商店街が、一番にぎやかな通りだが、戦前は北口の商店街がにぎやかで、南口は大きな民家の植木で囲まれた堀が連なっていて、お店は何軒もなかった。

ぼくが住んでいた代沢小学校の正門前のじゃり道の三軒茶屋につながる、今は茶沢通りと言われる道に面しては、お店が何軒もあった。

代沢小学校の正門前には、お米屋さん、ブリキ屋さん、文房具屋さん、酒屋さん、ぼくが住んでいた家の角には、のんき屋という餅菓子屋があり、その並びには魚屋、下駄屋、炭屋、そば屋、ほうき屋、駄菓子屋もあったっけ。そんなこと知っている人は、もうぼくだけになってしまった。

令和元年「せたがや」10月25日号の広報誌が新聞の折り込みに入っていた。

「世田谷区長、保坂展人さんが「下北沢の線路跡地」で魅力発信へ!」と題して書かれている。

小田急線が地下深くに線路を引いてしまったので「線路跡地」をどう開発するかで、長いこと協議が続いていて、やっと全体構想がまとまってきて、2年後には完成するようだが、ぼくはそれを見ることができるかどうかわからない。

地方から出てきた若者たちが、もっとも住みたい街が、下北沢だった時代があった。だが、それは3、40年前のことで、今はそのランクから消えてしまっている。

一軒一軒のお店の土地が狭い、今や路地の民家だったところも、売ってしまいお店に変わっている。広い土地が少ないから、ゆったりとした建物を建てられない。ビルを作っても設計にお金をかけて、しゃれたビルを作る人もいない。なるべく安く作ることしか考えていないから、外観も平凡なビルばかりだ。

土地代も高いから家賃も高くなってしまう。だが南口商店街を歩いている人は多い。それは道路が狭いから多く見えるだけで、広い道だったら人はパラパラだ。

こんなに人が歩いているから商売になるだろうと、個人商店が店を出してもすぐつぶれてしまう。しかし、また誰かが店を出す。

続いているのは大手のチェーン店だけになってしまう。大手の店も採算が取れないと見ると、すぐ店をたたんでしまう。

3、40年は数軒しかなかった古着屋が、いまは何十軒にも増えている。ぼくが経営していたカフエ「イカール館」(メガネ屋の2階)も古着屋で、今でも続いている。

数えたことはないが、南口、北口の商店街で古着屋は数十軒もあり、今でも増えているから不思議な現象だ。これでは新品の高級な洋服を売る店は成り立たない。

他人が来た服を着るのは嫌だと思う人は「ユニクロ」の大きな店があるから、そこで買っているのだろう。

先日、女房の古里、弥彦村にある別荘まで車で送ってくれた親切な人がいたので、山積みになっている衣類を段ボールを開けてブランド物だけを持ち帰ってきた。

早速、10点ばかりを古着屋に持って行ったら、査定するのに2時間かかるという。スーパーで買い物をして、カフエ「織部」でコーヒーをのんで、日経と朝日を読んで時間をつぶし、また古着屋に行ってみたら、10点のうち5点は返品。あとの5点で1350円くれた。

お茶屋の親父さんが言うのには、古着屋ほど利幅のある商売はない。家賃が高くてもなんということはないと。これで納得できた。洗濯代にもならないお金で仕入れて、何千円で売るのだから……。

 

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下の店は古着屋ではありません

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2019年10月28日 (月)

これからの戦争は自然との戦いだ!

中国の軍事パレードの映像をテレビで見てあんな国と戦争になったら、日本はどうなるのだろう。
 
小学6年生の頃に見た、アメリカの爆撃機B29が編隊を組んで、1万メートルの上空を何百機と飛んできたような戦争はもう過去のものだ。これからの戦争はどんなことになるのか、考えるだけでも恐ろしい。もう2度と戦争はごめんだ。
 
2019年10月16日の東京新聞朝刊の「本音のコラム」、「防衛と防災」と題する文芸評論家・斎藤美奈子さんのコラムが目についた。ぼくが考えていたことと同じことを書かれている。
 
「大勢の人の命がいっぺんに奪われ、生活が破壊される事態といえば、戦争と自然災害だ。
 
戦後70数年、ひとまず日本は(国内での)戦争は経験しないできた。
 
その一方でこの国は、ほぼ毎年、なんらかの大災害に遭遇している。2011年の東日本大震災だけでも、激甚災害に指定された災害は30件近い。その大部分は梅雨前線や台風による暴風雨や豪雨である。
 
国の最大の責務が「国民の生命と財産を守ること」であるなら、国防以上に防災、他国からの攻撃よりも南の海から列島めがけてやってくる台風への備えが重要なはずである。しかるに予算配分はどうか。19年度の防衛予算は過去最高の5兆2千6百億円。防災、減災・国土強靭化対策を含む防災関係予算は1兆3千5百億円、前年度の補正予算をあわせても2兆4千億円だ。防衛予算のたった半分。これ、逆じゃありません?
 
9月の台風15号に続いて東日本一帯を直撃した台風19号は「想定外の」「今まで経験したことのない」といった形容がもう通用しないことを示した。戦争は外交努力で回避もできるが、自然災害は避けられない。災害大国であることを思えば、防衛省を防災省に、自衛隊を災害救助中心の隊に再編したっていいくらいである。国際貢献も災害支援に特化させれば、それが最大の安全保障になるのに。」
 
斎藤美奈子さんの書かれているとおりだ。これからの日本は国と国と戦争ではない。自然との戦争だ。
 
戦闘機を130機もアメリカから買っている時ではない。空中戦をやるような戦い方はもう過去の戦争だ。それよりも早く河川の決壊をなくす頑丈な堤防を作らなければ、また台風が襲ってくれば、水浸しになってしまう。
 
テレビや、新聞は連日、台風の被害を伝えているが、台風19号上陸から一週間の時点で依然として、9万5千戸以上で断水、3千9百人以上が避難を続けていて、生活再建の道のりは遠い。
 
自衛隊を中東へ派遣するという。そんなことにお金を使うよりも、被害に遭った人たちを助けるほうが先ではないか。ボランティアの人たちも片付けを手伝っているようだが、宿泊はどこで寝泊りしているのだろう。被害に合わなかった近所の人が手伝いに来るのならわかるが、遠くから手助けに来るのは大変なことだ。自衛隊の人たちも大変だろうが、こんなときに手助けをしてもらいたいものだ。
 
先日、東京新聞の読書投稿欄に、初めて日赤を批判する投稿が載った。それは赤い羽の募金に協力した街が、日赤に20万円寄付したら半分が戻ってきたのでおかしいという発言だ。学生たちが街角で募金をする光景を見るが、やはり集めたお金の半分は戻ってくるのだろう。そのお金は何に使われているのか。
 
東北大震災のとき、世界中から莫大な募金があったが、半分は返したのだろうか。そのお金は被災地にどのように届けられたのかはわからない。不思議な話だ。

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2019年10月21日 (月)

三條新聞だけがポストに!

新潟県三条市にある日刊紙三條新聞、ぼくが平成5年に女房の古里、弥彦村(人口8千人)にロマンの泉美術館をオープンさせたとき、展示品を変えたり、東京から芸能人を招いて催し物を開くと、大きな記事にしてくれた。
  
最近はポストに入っている郵便物は少ないというより、ない日の方が多い。三條新聞だけは、今でも無料で送ってくれるありがたい新聞で、ポストに三條新聞だけが入っている日が……。
  
「無題録」というコーナーは「杉」というベテランの記者が書いているので、そこだけは必ず読んでいる。
  
令和元年10月11日に、新潮社を批判する記事が。
  
「新潮社がおかしい。大手出版社らしくないトラブルが続いている。昨年は『新潮45』8月号に「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。」と主張する杉田水脈代議士の論文を掲載した。
  
人権侵害だと批判されると、同誌10月号で「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という反論特集を組んだ。
  
LGBTと痴漢症候群の男性を比較し、「後者の困苦こそきわめて根深ろう」と主張する文芸評論家、小川栄太郎氏の論文を載せた。「真っ当な議論をしよう」と組んだ特集だったが、より強い批判を浴びることになり、社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」があったと認めて謝罪、同誌を休刊にした。
  
今月4日には新潮社が出版した作家、百田直樹氏の新作小説『夏の騎士』のキャンペーンで、この作品を「ほめちぎる読書感想文」を募集した。百田氏を気持ちよくさせた20人に、1万円分の図書カードをプレゼントするという。同社ツイッターには、金箔を塗った上半身裸の百田氏の写真を載せ、「読書がすんだらヨイショせよ」「ヨイショ感想文求む」。さらに「『国語の教科書に載せるべきだ』読了後、最初に浮かんだ気持ちだ。この作品は人生に必要なすべてをおしみなく読者に与えてくれる。知らぬ間に涙が頬を伝っていた。『そうか。この本と出会うために、僕は生まれてきたんだ」という、ヨイショの見本まで載せた。
  
インターネット販売の口コミ欄などに、販売者が消費者になりすまして宣伝文句を書き込んだり、消費者に金銭を支払って好意的な評価を書いてらうのがステルスマーケティング。いわゆるサクラ行為だ。
  
普通は他の消費者にバレないように隠れて行うが、新潮社は図書券を餌に堂々と募集した。「あまりに品がない」「作者や作品をバカにしている」といった批判を浴び、わずか二日でキャンペーンは中止した。「新潮文庫の百冊」を選定してきた知性やセンスはどこに行ってしまったのだろう。」
  
全文を引用してしまった。三條新聞の紙代を払わなければ申し訳ないか。三條新聞は梨がとれる季節になると毎年大きな梨を一箱送ってくれるありがたい新聞社だ。
  
とにかく本が売れない時代、新潮社のような大きな出版社だって、変わった宣伝をしなければならないのだろう。
  
ぼくのブログもコメントを寄せてくれる人は少ない。何かプレゼントして、サクラでコメントを寄せてもらうか。とも思ったがブログを書き続けているのは、ボケ防止で書いているのだから、何人ぐらいの人が読んでくれているのかわからないが、ネットで見れるようにしてくれるS君がいる限り描き続けたい。
  
もう昭和の芸の人たちの悩みや、苦しみを知っている人は、ぼくしかいなくなってしまったのだから……。

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2019年10月 7日 (月)

スポーツ嫌いのぼくと世田谷学園柔道部!

駒大時代一度も体育の授業に出ないのに単位をくれた阿部先生(のちに日体大の教授に)小説を書かれていたので、文芸部の部長のぼくを目にかけてくれたからか。
 
スポーツとまったく縁のないぼくが世田谷学園の柔道部OB会の会長の目黒和幸さんや、監督を長く務めている持田さんと親しくなったなんて、不思議なご縁だ。
 
昨年の世田谷学園の同窓会総会、形式的な会なので出席者も少ないが、ぼくはNHKの番組に初めて二度も出演したり、週刊文春の「家の履歴書」に登場したので、会長にお願いして、少ししゃべらせてもらった。ブログを10数年も書いているので、読んでくださいと言ったのを目黒さんが聞いていて、エッセイを書いてくれと頼まれてしまった。
 
『世田谷学園柔道部=100年の栄光と未来』

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目黒さん、大変な仕事だったと思うが、長い時間をかけて資料を集め、立派な記念誌を作り上げた。
 
「ころんでも、けがをしなかった!」と題して、ぼくのエッセイが写真入りで載っている。
 
「子供のころ、ころんだことは何度もあったと思うが、70数年も前のことなど覚えているわけがない。
 
年をとってから、ころんだことが2度ある。年寄りが転ぶと骨折して、それから寝込んだりで足がおとろえていく。
 
なんとぼくは2度、コンクリートの上に、ばったりところんだことがあったが、けがひとつしなかった。それは世田谷中学1年生の時に、教えを受けた柔道の受け身のおかげだと思っている。
 
ぼくが世田谷中学に入学した時代は、敗戦1年前の4月のことだ。サイパン島から飛来するB29爆撃機の攻撃により、東京は焦土と化していた。
 
学校に残っているのは、1年生だけで2年生から上は、軍需工場に働きに行かされ、たまにしか学校に来なかった。
 
柔道、7段か8段のでっかい先生、剣道はキ○タマ親父と渾名されていた先生が指導していた。柔道着は学校から支給されたのか、母親がどこかで見つけてきたのか覚えていないが、柔道着をきていたことは確かだ。熱心に何度も何度も受け身の練習をさせられていたことが役に立ったのだ。
 
古賀選手、吉田選手などの活躍で、世田谷学園の存在は、日本中に知れ渡っていた。学内で祝勝会が催されたとき、ぼくも出席して古賀選手とツウショットで撮った写真は宝物だ。
 
その会場でぼくに抱きついてきた男がいた。学園の近くで理髪店を営む男で独身。柔道部の学生たちを家に招いて、料理を振る舞うのを楽しみにしていた人だ。柔道部の全盛時代の影の立役者だったのかもしれない。」
 
令和元年・9月28日(土)三軒茶屋キャロットタワーの最上階、ホテルオークラレストラン スカイキャロットで、世田谷学園柔道部100周年記念式典・懇親会が盛大に開かれた。
 
「式沢第」を開いてみたら、「懇親会次第」のところに開会の辞の次、来賓祝辞のトップにぼくの名前が書かれているではないか。
 
その次が自民党の衆議院議員、昭和42年卒業の松本文明様とある。かなり古い話だが、世田谷学園、駒澤大学卒の自民党幹事長、確か農林大臣もやられたと思うが、広川弘禅さんしかいないと思っていたが、松本文明さんが隣の席に座られたので話をすることができた。
 
同性婚の話をしたら、いろんな法律が絡み合っているので、すぐに実現は難しいということだ。ホテルオークラのシェフが作る料理は美味しかった。ぜひ、昼間はランチもあるので食べにいくのをおすすめだ。
 

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来賓のトップに祝辞を

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2019年9月23日 (月)

駒大健児、自信を取り戻せ!

2019年9月15日、来年の東京オリンピックマラソンランナーを決めるレースが開催された。
 
明治神宮外苑をスタートした選手たち。東洋大学出身の選手がトップを走って独走し、他の選手たちを2千米ぐらい引き離し、そのままゴールするかと思われた。
 
今、大学の中で活気があるのは、東洋大学、青山学院大学、国士舘大学だ。わが母校駒澤大学は数年前に多額のお金を変なものに投資し、それがパアになってその責任を取って理事長以下、総長、学長、理事たちが解任され新しい人たちがそれぞれの役についた。
 
曹洞宗の宗門の中で、そんなに優れた人材がいるわけがない。それから駒大はなんとなく活気を失っている。箱根駅伝も野球もふるわない。長く続いた国文科の同窓会も、通信費の援助がなくなり、続けられなくなってしまった。
 
東京5輪のマラソンランナーを決める大会、30人が出場した。東洋大学出身、ホンダの設楽選手、スタートから飛び出し、ぐんぐん後続を引き離し、中間点で2分1秒差まで拡げ、そのままゴールインと思ったら、37キロ付近で追い上げてきた9人の集団に飲み込まれてしまった。
 
「一発勝負 駆け抜け五輪へ」の東京新聞の大見出し。優勝した中村匠吾選手と駒澤大陸上部の大八木弘明監督と抱き合っている写真は泣かせた。森合正範記者の記事もいい。「駒大の師と二人三脚」の見出し。
 
「師と二人三脚でつかんだ五輪の切符だった。男子の中村選手はトップでゴールを駆け抜け、出迎えた駒澤大陸上部の大八木弘明監督と抱き合った。
 
「よくやった。おめでとう」。師匠の言葉に「ありがとうございます」と、くしゃくしゃの笑顔で応えた。
 
2013年、大学3年の時に東京五輪の開催が決まり、箱根駅伝6度優勝の名将、大八木監督から「マラソンで五輪を目指さないか」と声をかけられた。「監督となら(五輪に)たどり着くかもしれない」本気でマラソン代表を目指した瞬間だった。
 
駒澤大卒業を控え、実業団の富士通から勧誘された。こだわったのが練習拠点を大学に置き、指導を仰ぎ続けること。「自分を知っているのは監督だけ。今後も大学で練習させてください。」師に思いを告げると「本気で見るから、本気でやってくれ。」厳しく、愛情のある返事だった。以降は大学の近くに部屋を借り、一人暮らし。食事は学生寮を訪れ、大八木監督の妻で寮母の京子さんの手料理を食べる。
 
9年の師弟関係。大八木監督は、「無口で芯が強い子。来年はもっと重圧がかかる。潰されないように支えたい」中村選手は「監督に一つ恩返しができた。五輪へしっかり準備する」と師弟で新たな目標を見据えた。」
 
どこかの監督はテレビに出て、タレントみたいになっている。地味だけど大八木監督は素晴らしい。しばらくぶりに駒大健児は活気を取り戻せ。来年の箱根駅伝も優勝だ。
 
駒澤大学の同窓会事務局から「駒澤大学同窓会だより」が送られてきた。「同窓生紹介」のページがあって、初めて知ってびっくりしたのは、「NHKのど自慢」の名司会者、小田切千アナウンサーが(H6・3・法律学科卒)の駒澤大学の卒業生とは。
 
国士舘大学では毎月、広報の立派な雑誌を出している。有能な人材を集めて雑誌作り、雑誌がダメならネットで。もっと、もっと駒澤大学を宣伝しなければ。
 
駒大からNHKに入った人などいないと思っていたが、小田切さんが駒大卒とは。なんで小田切さんをうまく宣伝に使わないのか。欽ちゃんだってやめてしまったではないか。

 

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2019年9月 9日 (月)

昨日の敵は今日の友!

昭和38年(1958年・今から61年前)の4月1日、売春防止法施行され、廓の娼妓たちは解放されて、今では「ソープランド」と改名されて営業されている。
 
「吉原金瓶大黒楼訓」を江戸時代からの16当主のMさんからいただいたが、これは従業員に読ませるものだろうが、難しい。
 
 
 
一、お客様は神である。「神と仰ぐは米櫃だから。」
  
一、お客様は上(かみ)である。「上と仰ぐはお客様が立場上位だから。」
 
一、お客様は紙(かみ)である。「紙と仰ぐお客様の満足度は紙フィルターに通して煤けて見えるから。ただし、紙は一寸油断してしまえば、燃え散り木っ端微塵に引き裂かれることを戒めとせよ」
 
吉原金瓶大黒楼十六代当主
 
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十六代投手のMさん、まだ二、三回しかお会いしていないし、吉原の金瓶梅にお伺いして話をしたのが初めてで、一方的にしゃべりまくる方で、残念ながら耳が遠くなってきたぼくには半分は聞き取れない。
 
Mさんは頭のいい方であることは理解できるが、どんな学歴の方かはまだわからない。
 
神経は繊細な方で、よく気がつき、手先が器用なのか、ご自分で造形物を作られる。
 
目白のホテルの一室に招かれた時に同席していた後藤五郎さんに出会い、初めて漆喰を使った、鏝絵なるものを知った。
 
Mさんは後藤五郎さんの教えを受けて、作られているのだろう。
 
ソープランドのオーナーとは想像もつかない人だ。
 
金瓶梅の玄関先には、後藤五郎さん作の大きな龍の彫刻が建物にはめ込まれている。
 
壁の鏝絵は魔よけとともに、商売繁盛と家内安全、幸せをもたらすという、現世利益の願いが込められているそうだ。
 

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江戸時代、天保12年に伊豆の長八という人が、日本橋茅場町の薬師堂の建立にあたって柱に漆喰で龍を彫刻したところ、左官の鏝で製作されたものとは考えられない見事なもので、その後、長八が様々な技法を編み出し広がっていったそうだ。
 
ソープランドのオーナーに招かれてこのような人に出会い、話ができたことは幸いだった。
 
Mさん、ソープランドの中を案内してくれた。お客さんが待っている部屋は、中国の豪華な家具が置かれていて、廊下もトイレも清潔だ。女性がお客に奉仕する部屋も見せてくれたが、浴槽があって6畳ぐらいだろうか。もっと広い部屋もあるそうだが、若い女性もいたが暗い感じはしない。感じのいい女性ばかりだった。ぼくも若ければ一度は来てみたかったが、もうこの歳ではどうにもならない。
 
Mさん、上野にもお店を持っていて、そこではカラオケも歌える。ぼくがシャンソンが好きだと言ったら、越路吹雪さんの歌を何曲も熱唱してくれた。
 
「昨日の敵は今日の友」なんとも不思議な出会い。今風の扉がスイッチで開け閉めができる立派な仏壇に、ぼくもお線香をともして手を合わせた。深夜、自宅まで運転手さんが送ってくれた。

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2019年9月 7日 (土)

吉原の金瓶梅を訪ねるなんて!

ぼくの祖父、伊藤冨士雄は、大正12年の関東大震災の直前に53歳で病死している。
 
祖父は救世軍という軍隊組織で、全国に小隊を置き、キリスト教の布教活動をし、吉原などの遊郭のお女郎さんを自由廃業させる仕事をしていた。
 
祖父は救世軍士官として、娼妓の自由廃業に一身を捧げた闘士だった。1200名の娼妓から相談を受け、その中の987名を完全に廃業させた。廓の経営者はお金で買っているお女郎さんを救い出されては大損なので暴漢を雇っている。祖父は暴漢に襲われてなんども半死半生の大怪我を負って病院に担ぎ込まれた。
 
祖父から話を聞いて書かれた『娼妓解放哀話』に「吉原掟」が書かれている。
 
 
 
①遊女勤めの儀は、第一にいつわりをもっぱらとして、誠の心あるまじきこと
 
②美男、大過(遊びの道に詳しく通じている人のこと)心意義の面白き客たりとも、ほれることは停止致し置き候段、この儀はきっと相つつしみ申すべきこと。
 
③醜男、かげ武者、老人、または梅毒かきのお客なりとも、金たくさんの方はほれる体に見せかけること
 
④朝夕の食事は控え目にして、客のものをたんと食べ候よう心がけること
 
⑤召抱えのみぎり、代金相渡せる上は、年明けの日まで、主人より一銭の合力もこれなきあいだ、さよう心得、せいぜい主人方へ金を過分に取り入れるよう心がけること。
 
⑥衣類、夜具、頭のもの、その他の諸道具残らずこしらえ方致し候については、万事客人にねだりかけ、朋輩に負けぬよう気をつけ借金出来候ことは毛頭考え出すまじきこと
 
⑦定め通りの仕着せは地合あしく、値段の安い品をあたえる故なるだけ、自分の力で上等の衣類をこしらえ申すべく、仕着せは安物故使用致すを恥と心得、早速のけ候こと、勝手たるべきこと
 
 
 
このほか数箇条で、これがいつ頃書かれたものか、その時代は明確ではないが、この吉原掟の内容は、日本全国の遊郭を通じて長く実行されていた。
 
誰が考えたのかはわからないが、廓の経営者の都合のいいように書かれていて、今の時代の水商売にも通用する掟もいくつかある。
 
ぼくは祖父が命がけで娼妓を救い出したことを長生きした祖母からも話を聞いているので、お金で女性を買ったことは一度もない。しかし、父は女道楽で母を泣かせたものだ。
 
 
 
人との出会いって不思議なもので、長く生きていると考えられないような人との出会いもある。
 
江戸時代から続いている廓(今はソープランド)の16代目のオーナーとなんと親しくなっている。
 
祖父が活躍した吉原というところを一度は行ってみたいと長いこと考えていた。ぼくのブログの中で一番多くの人に読まれているのが、作家の吉屋信子さんが、昭和39年11月6日から40年4月29日まで読売新聞に連載された『ときのこえ』(救世軍の機関紙から命名)の中から紹介した淨閑寺(かけこみ寺)の話だ。
 
「生まれては苦海、死んでは淨閑寺」多くの娼妓たちの霊が祀られている。
 
2019年8月30日。なんと吉原で一番大きいソープランドのオーナーのMさんが「金瓶梅」を案内してくれるという夢のような話が舞い込んできた。
 
かつて『薔薇族』でヌード写真を撮ってくれていた津田君と渋谷で待ち合わせて、山手線の鶯谷からタクシーに乗って金瓶梅を訪れた。
 
考えてみればソープランドのオーナーは、祖父の目から見れば敵のようなものだ。Mさんってどんな人なのだろうか?
 
(つづく)

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