2019年10月 7日 (月)

スポーツ嫌いのぼくと世田谷学園柔道部!

駒大時代一度も体育の授業に出ないのに単位をくれた阿部先生(のちに日体大の教授に)小説を書かれていたので、文芸部の部長のぼくを目にかけてくれたからか。
 
スポーツとまったく縁のないぼくが世田谷学園の柔道部OB会の会長の目黒和幸さんや、監督を長く務めている持田さんと親しくなったなんて、不思議なご縁だ。
 
昨年の世田谷学園の同窓会総会、形式的な会なので出席者も少ないが、ぼくはNHKの番組に初めて二度も出演したり、週刊文春の「家の履歴書」に登場したので、会長にお願いして、少ししゃべらせてもらった。ブログを10数年も書いているので、読んでくださいと言ったのを目黒さんが聞いていて、エッセイを書いてくれと頼まれてしまった。
 
『世田谷学園柔道部=100年の栄光と未来』

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目黒さん、大変な仕事だったと思うが、長い時間をかけて資料を集め、立派な記念誌を作り上げた。
 
「ころんでも、けがをしなかった!」と題して、ぼくのエッセイが写真入りで載っている。
 
「子供のころ、ころんだことは何度もあったと思うが、70数年も前のことなど覚えているわけがない。
 
年をとってから、ころんだことが2度ある。年寄りが転ぶと骨折して、それから寝込んだりで足がおとろえていく。
 
なんとぼくは2度、コンクリートの上に、ばったりところんだことがあったが、けがひとつしなかった。それは世田谷中学1年生の時に、教えを受けた柔道の受け身のおかげだと思っている。
 
ぼくが世田谷中学に入学した時代は、敗戦1年前の4月のことだ。サイパン島から飛来するB29爆撃機の攻撃により、東京は焦土と化していた。
 
学校に残っているのは、1年生だけで2年生から上は、軍需工場に働きに行かされ、たまにしか学校に来なかった。
 
柔道、7段か8段のでっかい先生、剣道はキ○タマ親父と渾名されていた先生が指導していた。柔道着は学校から支給されたのか、母親がどこかで見つけてきたのか覚えていないが、柔道着をきていたことは確かだ。熱心に何度も何度も受け身の練習をさせられていたことが役に立ったのだ。
 
古賀選手、吉田選手などの活躍で、世田谷学園の存在は、日本中に知れ渡っていた。学内で祝勝会が催されたとき、ぼくも出席して古賀選手とツウショットで撮った写真は宝物だ。
 
その会場でぼくに抱きついてきた男がいた。学園の近くで理髪店を営む男で独身。柔道部の学生たちを家に招いて、料理を振る舞うのを楽しみにしていた人だ。柔道部の全盛時代の影の立役者だったのかもしれない。」
 
令和元年・9月28日(土)三軒茶屋キャロットタワーの最上階、ホテルオークラレストラン スカイキャロットで、世田谷学園柔道部100周年記念式典・懇親会が盛大に開かれた。
 
「式沢第」を開いてみたら、「懇親会次第」のところに開会の辞の次、来賓祝辞のトップにぼくの名前が書かれているではないか。
 
その次が自民党の衆議院議員、昭和42年卒業の松本文明様とある。かなり古い話だが、世田谷学園、駒澤大学卒の自民党幹事長、確か農林大臣もやられたと思うが、広川弘禅さんしかいないと思っていたが、松本文明さんが隣の席に座られたので話をすることができた。
 
同性婚の話をしたら、いろんな法律が絡み合っているので、すぐに実現は難しいということだ。ホテルオークラのシェフが作る料理は美味しかった。ぜひ、昼間はランチもあるので食べにいくのをおすすめだ。
 

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来賓のトップに祝辞を

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2019年9月23日 (月)

駒大健児、自信を取り戻せ!

2019年9月15日、来年の東京オリンピックマラソンランナーを決めるレースが開催された。
 
明治神宮外苑をスタートした選手たち。東洋大学出身の選手がトップを走って独走し、他の選手たちを2千米ぐらい引き離し、そのままゴールするかと思われた。
 
今、大学の中で活気があるのは、東洋大学、青山学院大学、国士舘大学だ。わが母校駒澤大学は数年前に多額のお金を変なものに投資し、それがパアになってその責任を取って理事長以下、総長、学長、理事たちが解任され新しい人たちがそれぞれの役についた。
 
曹洞宗の宗門の中で、そんなに優れた人材がいるわけがない。それから駒大はなんとなく活気を失っている。箱根駅伝も野球もふるわない。長く続いた国文科の同窓会も、通信費の援助がなくなり、続けられなくなってしまった。
 
東京5輪のマラソンランナーを決める大会、30人が出場した。東洋大学出身、ホンダの設楽選手、スタートから飛び出し、ぐんぐん後続を引き離し、中間点で2分1秒差まで拡げ、そのままゴールインと思ったら、37キロ付近で追い上げてきた9人の集団に飲み込まれてしまった。
 
「一発勝負 駆け抜け五輪へ」の東京新聞の大見出し。優勝した中村匠吾選手と駒澤大陸上部の大八木弘明監督と抱き合っている写真は泣かせた。森合正範記者の記事もいい。「駒大の師と二人三脚」の見出し。
 
「師と二人三脚でつかんだ五輪の切符だった。男子の中村選手はトップでゴールを駆け抜け、出迎えた駒澤大陸上部の大八木弘明監督と抱き合った。
 
「よくやった。おめでとう」。師匠の言葉に「ありがとうございます」と、くしゃくしゃの笑顔で応えた。
 
2013年、大学3年の時に東京五輪の開催が決まり、箱根駅伝6度優勝の名将、大八木監督から「マラソンで五輪を目指さないか」と声をかけられた。「監督となら(五輪に)たどり着くかもしれない」本気でマラソン代表を目指した瞬間だった。
 
駒澤大卒業を控え、実業団の富士通から勧誘された。こだわったのが練習拠点を大学に置き、指導を仰ぎ続けること。「自分を知っているのは監督だけ。今後も大学で練習させてください。」師に思いを告げると「本気で見るから、本気でやってくれ。」厳しく、愛情のある返事だった。以降は大学の近くに部屋を借り、一人暮らし。食事は学生寮を訪れ、大八木監督の妻で寮母の京子さんの手料理を食べる。
 
9年の師弟関係。大八木監督は、「無口で芯が強い子。来年はもっと重圧がかかる。潰されないように支えたい」中村選手は「監督に一つ恩返しができた。五輪へしっかり準備する」と師弟で新たな目標を見据えた。」
 
どこかの監督はテレビに出て、タレントみたいになっている。地味だけど大八木監督は素晴らしい。しばらくぶりに駒大健児は活気を取り戻せ。来年の箱根駅伝も優勝だ。
 
駒澤大学の同窓会事務局から「駒澤大学同窓会だより」が送られてきた。「同窓生紹介」のページがあって、初めて知ってびっくりしたのは、「NHKのど自慢」の名司会者、小田切千アナウンサーが(H6・3・法律学科卒)の駒澤大学の卒業生とは。
 
国士舘大学では毎月、広報の立派な雑誌を出している。有能な人材を集めて雑誌作り、雑誌がダメならネットで。もっと、もっと駒澤大学を宣伝しなければ。
 
駒大からNHKに入った人などいないと思っていたが、小田切さんが駒大卒とは。なんで小田切さんをうまく宣伝に使わないのか。欽ちゃんだってやめてしまったではないか。

 

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2019年9月 9日 (月)

昨日の敵は今日の友!

昭和38年(1958年・今から61年前)の4月1日、売春防止法施行され、廓の娼妓たちは解放されて、今では「ソープランド」と改名されて営業されている。
 
「吉原金瓶大黒楼訓」を江戸時代からの16当主のMさんからいただいたが、これは従業員に読ませるものだろうが、難しい。
 
 
 
一、お客様は神である。「神と仰ぐは米櫃だから。」
  
一、お客様は上(かみ)である。「上と仰ぐはお客様が立場上位だから。」
 
一、お客様は紙(かみ)である。「紙と仰ぐお客様の満足度は紙フィルターに通して煤けて見えるから。ただし、紙は一寸油断してしまえば、燃え散り木っ端微塵に引き裂かれることを戒めとせよ」
 
吉原金瓶大黒楼十六代当主
 
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十六代投手のMさん、まだ二、三回しかお会いしていないし、吉原の金瓶梅にお伺いして話をしたのが初めてで、一方的にしゃべりまくる方で、残念ながら耳が遠くなってきたぼくには半分は聞き取れない。
 
Mさんは頭のいい方であることは理解できるが、どんな学歴の方かはまだわからない。
 
神経は繊細な方で、よく気がつき、手先が器用なのか、ご自分で造形物を作られる。
 
目白のホテルの一室に招かれた時に同席していた後藤五郎さんに出会い、初めて漆喰を使った、鏝絵なるものを知った。
 
Mさんは後藤五郎さんの教えを受けて、作られているのだろう。
 
ソープランドのオーナーとは想像もつかない人だ。
 
金瓶梅の玄関先には、後藤五郎さん作の大きな龍の彫刻が建物にはめ込まれている。
 
壁の鏝絵は魔よけとともに、商売繁盛と家内安全、幸せをもたらすという、現世利益の願いが込められているそうだ。
 

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江戸時代、天保12年に伊豆の長八という人が、日本橋茅場町の薬師堂の建立にあたって柱に漆喰で龍を彫刻したところ、左官の鏝で製作されたものとは考えられない見事なもので、その後、長八が様々な技法を編み出し広がっていったそうだ。
 
ソープランドのオーナーに招かれてこのような人に出会い、話ができたことは幸いだった。
 
Mさん、ソープランドの中を案内してくれた。お客さんが待っている部屋は、中国の豪華な家具が置かれていて、廊下もトイレも清潔だ。女性がお客に奉仕する部屋も見せてくれたが、浴槽があって6畳ぐらいだろうか。もっと広い部屋もあるそうだが、若い女性もいたが暗い感じはしない。感じのいい女性ばかりだった。ぼくも若ければ一度は来てみたかったが、もうこの歳ではどうにもならない。
 
Mさん、上野にもお店を持っていて、そこではカラオケも歌える。ぼくがシャンソンが好きだと言ったら、越路吹雪さんの歌を何曲も熱唱してくれた。
 
「昨日の敵は今日の友」なんとも不思議な出会い。今風の扉がスイッチで開け閉めができる立派な仏壇に、ぼくもお線香をともして手を合わせた。深夜、自宅まで運転手さんが送ってくれた。

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2019年9月 7日 (土)

吉原の金瓶梅を訪ねるなんて!

ぼくの祖父、伊藤冨士雄は、大正12年の関東大震災の直前に53歳で病死している。
 
祖父は救世軍という軍隊組織で、全国に小隊を置き、キリスト教の布教活動をし、吉原などの遊郭のお女郎さんを自由廃業させる仕事をしていた。
 
祖父は救世軍士官として、娼妓の自由廃業に一身を捧げた闘士だった。1200名の娼妓から相談を受け、その中の987名を完全に廃業させた。廓の経営者はお金で買っているお女郎さんを救い出されては大損なので暴漢を雇っている。祖父は暴漢に襲われてなんども半死半生の大怪我を負って病院に担ぎ込まれた。
 
祖父から話を聞いて書かれた『娼妓解放哀話』に「吉原掟」が書かれている。
 
 
 
①遊女勤めの儀は、第一にいつわりをもっぱらとして、誠の心あるまじきこと
 
②美男、大過(遊びの道に詳しく通じている人のこと)心意義の面白き客たりとも、ほれることは停止致し置き候段、この儀はきっと相つつしみ申すべきこと。
 
③醜男、かげ武者、老人、または梅毒かきのお客なりとも、金たくさんの方はほれる体に見せかけること
 
④朝夕の食事は控え目にして、客のものをたんと食べ候よう心がけること
 
⑤召抱えのみぎり、代金相渡せる上は、年明けの日まで、主人より一銭の合力もこれなきあいだ、さよう心得、せいぜい主人方へ金を過分に取り入れるよう心がけること。
 
⑥衣類、夜具、頭のもの、その他の諸道具残らずこしらえ方致し候については、万事客人にねだりかけ、朋輩に負けぬよう気をつけ借金出来候ことは毛頭考え出すまじきこと
 
⑦定め通りの仕着せは地合あしく、値段の安い品をあたえる故なるだけ、自分の力で上等の衣類をこしらえ申すべく、仕着せは安物故使用致すを恥と心得、早速のけ候こと、勝手たるべきこと
 
 
 
このほか数箇条で、これがいつ頃書かれたものか、その時代は明確ではないが、この吉原掟の内容は、日本全国の遊郭を通じて長く実行されていた。
 
誰が考えたのかはわからないが、廓の経営者の都合のいいように書かれていて、今の時代の水商売にも通用する掟もいくつかある。
 
ぼくは祖父が命がけで娼妓を救い出したことを長生きした祖母からも話を聞いているので、お金で女性を買ったことは一度もない。しかし、父は女道楽で母を泣かせたものだ。
 
 
 
人との出会いって不思議なもので、長く生きていると考えられないような人との出会いもある。
 
江戸時代から続いている廓(今はソープランド)の16代目のオーナーとなんと親しくなっている。
 
祖父が活躍した吉原というところを一度は行ってみたいと長いこと考えていた。ぼくのブログの中で一番多くの人に読まれているのが、作家の吉屋信子さんが、昭和39年11月6日から40年4月29日まで読売新聞に連載された『ときのこえ』(救世軍の機関紙から命名)の中から紹介した淨閑寺(かけこみ寺)の話だ。
 
「生まれては苦海、死んでは淨閑寺」多くの娼妓たちの霊が祀られている。
 
2019年8月30日。なんと吉原で一番大きいソープランドのオーナーのMさんが「金瓶梅」を案内してくれるという夢のような話が舞い込んできた。
 
かつて『薔薇族』でヌード写真を撮ってくれていた津田君と渋谷で待ち合わせて、山手線の鶯谷からタクシーに乗って金瓶梅を訪れた。
 
考えてみればソープランドのオーナーは、祖父の目から見れば敵のようなものだ。Mさんってどんな人なのだろうか?
 
(つづく)

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2019年9月 2日 (月)

戦後のエロ雑誌の歴史を追いかけて!

ぼくの仕事部屋、3階建ての建物に住んでいた時は、長男が京都大学に入学して、いなくなった部屋を使っていた。
 
廊下には『薔薇族』の創刊号から、廃刊するまでの382号をきちっと並べてあった。それから2度住居が変わり、今のマンションに住むようなってからは、6畳の部屋がぼくの仕事部屋であり、中古品で買ったシングルベッドが置いてある。
 
このマンション、古い建物で収納する洋服ダンスなどが付いていないから、本箱、洋服ダンスも安物のものを買って置いてあるから狭いのなんのって、その上、『薔薇族』も並べてあるのだから息が詰まりそうだ。
 

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ただ机だけはイギリス製のアンティーク。40年ほど前の景気のいい時に買い求めたもので、引き出しがいっぱい付いている。

フランス映画で美少年に一目惚れした大学教授を描いた映画、題名がふっと思い出せないのだから歳はとりたくないものだ。

人の名前など、忘れてしまっていることが多い。それがしばらくして思い出すから不思議だ。ぼくのブログを読んでくれている人たちだって、87歳になった時、文ちゃんはあんなことを書いていたっけと思うかもしれない。

しかし、友人、知人はみんなこの世にいないのだから、元気でブログを忘れた文字は辞書を見て書き続けているだけでも幸せというものだ。

ぼくの大きな机は、映画の中で美少年に一目惚れした大学教授の部屋に置かれていたのを見た記憶がある。蓋を閉めることもできるが、今はいろんなものを置いてあるので、蓋は閉められない。

 

 

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NHKの名古屋支局の制作で、初めてNHKが『薔薇族』のこと、ぼくが仕事部屋でブログの原稿を書いているところを撮影してくれた。

安田理央著の『日本エロ本全史』紹介しきれなかったので、付け加えたい。



「雑誌というものは、あまりにも量が多い。全部を買い集める訳にはいかない。全て保存しておくわけにもいかない。そのうちにとりあえず創刊号を集めるというテーマが見えてきた。

そうなると、あの創刊号も欲しい、この創刊号も欲しい、というように意識して集めるようになる。気がつけばエロ雑誌の創刊号だけは数百冊を超えるコレクションになっていた(もちろんエロ雑誌以外を含めれば、もっと数は増える)。(中略)

こうして集めてきたエロ雑誌創刊号コレクションから、エポックメイキングな存在となった100冊をまとめて紹介させてもらうことになった。

それは当然、70年以上にわたる戦後エロ雑誌の歴史を追いかける旅となる。2010年代に入って、エロ雑誌は壊滅的な状況を迎えた。今はその命は風前の灯。というよりも、もう寿命を迎えてしまったという気がする」



かつて四谷にある出版クラブで、エロ本ばかり出版している30数社の社長達が集まり「出版問題懇話会」という会を毎月開いていた。もう40年も前のことだろうか。

その時代、警視庁の風紀係から発禁処分を受けたり、始末書を書かされることが多かったので、各社が情報を交換しあっていた。

『薔薇族』も発禁4回、始末書を呼びつけられて書かされたことが20数回。係官に桜田門までの定期を買えと、嫌味を言われたこともある。

エロ本の出版社の社長さんって、みんな真面目な人たちばかりだ。忘年会を開いたり、旅行をしたりしたが、もうほとんどの社長さんはこの世にいない。

『薔薇族』を100冊の創刊号に入れてくれた安田さんに感謝している。ありがたいことだ。

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2019年8月31日 (土)

エロ本、一つの文化の幕が下りて!

「学校やTVが教えてくれない大切なことは、大体エロ本から教わった。」(石野卓球)

『日本エロ本全史』(安田理央著・太田出版刊)のオビに書かれている。

石野卓球さんは、著書の友人とあとがきに書いてあるが、ネットで調べればどんな経歴の方かすぐにわかるのだろうが、ぼくにはそれができない。

「大切なことはエロ本から」確かにそのとおりだ。ぼくは学生時代にオナニーにはまって悩んでいた。当時はオナニーをすると体に害になると言われていた時代。エロ雑誌の小さな記事に「オナニーをしても体に害になることはない」という医学博士の記事を目にした時、気持ちが楽になった記憶がある。

ぼくの出版の仕事の発想は、オナニーからと言っても過言ではない。秋山正美さんの著書『ひとりぼっちの性生活』がヒットして、エロ本から大転換して、同性愛者向けの単行本を次々と出し、それが日本初の同性愛誌『薔薇族』の創刊へとつながっていったのだから。

ぼくは他人さまの書いた本をほとんど読まない。『日本エロ本全史』の広告を東京新聞で見たときに購入したと思ったがすでに何日か過ぎていた。

87歳ともなると脚が弱ってくる。早く歩けない。三軒茶屋のカフエで、世田谷学園時代の友人と出会い、帰り際に「蔦屋書店」に入り、脚を鍛える本を買おうと思って書棚を見ていたら、『日本エロ本全史』が置かれているではないか。即座に買い求めてしまった。
 

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昭和23年から父の出版の仕事を手伝ってきたからよくわかるが、書店は1ヶ月もすればすぐに返本してしまう。300ページを越す本をじっくり読んでブログに紹介してもそのときは本屋の書棚からは消えている。

今時の若者は書店で買わずにネットのアマゾンで購入するから関係ないのかもしれないが……。

安田理央さん、とんでもない雑誌好きの方だ。「はじめに」を読むと、こんなことが書かれている。



「もともと古本屋が好きだった。そしてエロ本も好きだった。

まだ中学生くらいの時は、書店でエロ本を買うのは勇気がいる行為だった。店員が何人もいる明るくて大きな書店よりも、おじいさんが一人でやっている古ぼけた古本屋の方が黙って売ってくれそうな気がしていた。

それに安い。中学生は少ないおこずかいの中から、なんとかひねり出して古本屋でのエロ本を買いあさっていたのだ。」



『薔薇族』を創刊した初期の頃、九州のデパートの中にある書店で、高校生の男子がレジに持って行けずに万引きしてしまった。

女店員に見つけられて警備員室に連れて行かれ、父親を呼ばれてしまった。少年は万引きしたことよりも、父親にゲイであることを知られてしまったことにショックを受け、トイレに行かせてくれと部屋を出て、階段を駆け上り、屋上から飛び降り自殺してしまった。

エロ雑誌は当たると、5万部、10万部と売れたようだが、『薔薇族』は、どんなにマスコミに紹介されても3万部を超えることはなかった。それは買うのにも大変な苦労をし、捨てるのにも苦労した雑誌だったからだ。この本には『薔薇族』だけがゲイ雑誌として、創刊号の写真入りで2ページも紹介されている。

1946年から2018年までの創刊号100冊をオールカラーで完全紹介しているのだから、3700円は安すぎる。

もう2度とこのような本は出せないだろう。「平成という時代の終わりとともに、一つの文化が、その幕を下ろしたのである。」と。

 

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2019年8月24日 (土)

子供の頃のトンボとりの話

東京新聞の夕刊の下段に、「この道」という欄があって、次々と色々な方が登場する楽しい読み物だ。
 
今は西村京太郎さんが子供の頃のことを書いている。おそらくぼくと同じ年齢(87歳)の方だろう。
 
戦時中は「小学校」とはいわず「国民学校」と呼んでいた。西村さんは小学校と書いているが、そう書かなければ読者が理解できないからだ。
 
 
 
「当時、小学校には、高等小学校制度というものがあった。商人の子は、中学校へ行く必要はないという考えがあった。そのため中学校に進学しない生徒のために、小学6年の上に、二年間の教育を受けさせる。これが高等小学校である。」
 
  
 
その当時は義務教育の新制中学がなかったから、商人の子供で、すぐに親の仕事を継がせようと思う子とか、私立の中学校にとっても入学できないような子供が仕方なく入学していた。
 
前にも書いたが、ぼくは私立の日本学園に入れずコネで世田谷中学(現在の世田谷学園)に入れてもらったが、「この道」の6回目のタイトルは「ガキ大将」とある。
 
高等小学校の卒業生に「ガキ大将」が多かったと西村さんは書いている。
 
 
 
「私たちの町内でも、高等小学校卒業の子、踏切の向こうの下駄屋の息子がガキ大将だった。
 
彼はトンボとりが好きだったので、私たちのグループは遊びといえば、トンボとりだった。網で取るのではなくて、鳥もちを使うやり方だった。竹竿に鳥もちを塗って、取るのである」
 
 
 
「もち」は今時の若者は見たこともないものだろうが、辞書で「もち」を調べたら、とんでもない難しい漢字で、ハズキルーペをかけて見ても書けない。もちの木、やまぐるまなどの木の皮で作った、粘り気の強いもの。鳥や虫などをとらえるのに使う。とある。
 
もちは子供が買い物に行く駄菓子屋で売っていた。竹竿も売っていたが、細くて長いものだ。その先っぽのほうに、もちを塗ってトンボをとるのだ。
 
我が家のすぐそばに桜並木があって、昔は川だった。田舎にもあるような川で、両岸はコンクリートでかためてなくて、自然な形をしていた。
 
夏になると蚊が飛んでくるから、それを狙って、大きなトンボがたくさん飛んでくる。トンボには、メスとオスがいるが、その名称をどうしても思い出せない。
 
夕方近くになると、多くの子供たちが両岸に竹竿を持って集まってきて、トンボとりに夢中になる。暗くなっても家に帰らないものだから、どこの家でも夕飯の時間、子供がやっと帰ってくると、母親に叱られたものだ。
 
西村さんの文章の終わりに、こんなことが書いてある。
 
「当時、鳥もちを使わずに捕まえるのが、流行っていた。難しいが、カッコよかったのだ」と。
 
明日の夕刊を読めば、カッコ良いトンボのとり方はわかるだろうが、これは誰に教わるというものでなく、子供たちの知恵で考え出したものだ。
 
当時は広いネギ畠などがあった。そこに飛んでくる大きなトンボを捕まえるのだが、昔の話で忘れかけているが、オスのトンボの胴体に、ネギの青いところをはめ込む。それは前の日にもちで捕まえたトンボだ。
 
それを糸で結んで飛ばすと、メスのトンボが交合しにやってくる。交合したところを網で捕まえる。何十年も前の話だから、あやふやだ。明日の夕刊が楽しみだ。

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2019年7月29日 (月)

ふるさとを捨てた人びとにやっと!

ぼくの父、祷一は「合同歌集・ふるさとを捨てて・伊藤柳涯子編・高原川柳会刊」のあとがきに、こんなことを書いている。
  
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「中学時代から俳句を高浜虚子に、日華事変ごろから短歌を斎藤茂吉に、川柳は斯界の巨匠、岸本水府に選んでもらい、師事できたので選者運は最高だと言ってよいと思う。ところがご本人が一筋の道を踏み通せなかったからしかたがなく、正岡子規よろしく短歌、俳句ぐらいにしておけばまだしも、川柳にまで手を染めたのだから、ついに収拾がつかなくなってしまった」と。
 
短歌もいい作品を残しているが、一番川柳が良かったのでは。
 
 人生は旅その旅で逢った人
 
ぼくも87歳まで生きてきて多くの人との出逢いがあったことを思い出させる。しみじみとしたいい句だ。
 
 
 
父はハンセン氏病の人たちのことを世に訴えたいと何冊も本を出版しているが、自らも草津にある「栗生楽泉園」(ハンセン氏病の人たちを収容する施設、一生ここから出られない)に通い詰めて、川柳を指導し、合同句集を出版している。昭和47年・11月刊。
 
ハンセン氏病は感染率が非常に低いにも関わらず、強制的に施設に入れられ、女性は妊娠ができないようにされ、一生を過ごすことになる。その家族も周囲の人たちから冷たい目で見られ、差別された。
 
それが最近になってやっと国が謝罪し、家族にまで生活を保障されるようになった。父もあの世で喜んでいるだろう。
 
施設から外に出ることができないのだから、短歌、俳句を学ぶ人も多く、川柳も父の指導で句集まで出すようになってきている。
 
歌集を探し出せないが、熊本のハンセン氏病の施設に入って作歌している伊藤保という歌壇では有名な方で、第二書房から「歌集・仰日」を出版し話題になったことがある。
 
伊藤保さんにも66年前に出した豆歌集「渦」を送ったようだ。そのお礼状の葉書が残っていた。
 
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「私はいつも簡単に美しい、こんな歌集で早く出版して世の人々に読んでもらえるようにしたら、かえってよいであろうと思っていました。ご内容については、ゆっくりと読ませていただきます」と、豆本のアイデアを褒めてくれている。
 
 一つ顔を想い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず
 
 日を受けて透きとおる靴下が垂れている窓を見てより君の扉に立つ
 
「感覚の新鮮、感情のやさしさ、こまやか、青春歌集としての意義を大きく見たい」
 
今は亡きハンセン氏病の短歌の第一人者からのお目の言葉は嬉しい。長い年月、差別と偏見から解き放された、今の時代だから余計に感じる。
 
 
 里恋し流れる雲にことよせて
 
 ふるさとは捨てたはずだが目に浮かぶ
 
 隠れ病む故郷はポストだけが知り
 
 夢でよし捨てた故郷が見たいもの
 
 生きのびていればいつかは逢える顔
 
 ふるさとを語るしあわせ持って病む
 
 母のもと離れて母のありがたみ
 
 
 
 ふたたび帰ることができない古里をしのびつつの川柳。つらい句ばかりだ。

 

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死刑。5人の刑務官が同時にボタンを!

死刑の話を書いていたら、全身に刺青を入れ、小指を切り落とした元ヤクザだった男から電話がかかってきた。
 
週に1、2度は電話がかかってくるが、「社長、社長」と言いながら話が長い。もう一人、毎日、一度は電話をかけてくる男がいる。この人は『薔薇族』にファッションの話などを執筆してくれた人だ。
 
脳梗塞を患われているので、呂律が回らないから、話がよくわからない。何の用もないのにかけてくる。他に電話をかけるところがないのだから、はい、はいと聞いてあげている。
 
刑務所の死刑台の話、13階段を登って絞首刑にされるのだが、5人の刑務官が同時にボタンを押すのだそうだ。ひとりでボタンを押したら嫌な気持ちになるだろうから、5人で押すとは考えたものだ。
 
 
 
「年々30名内外の死刑執行者がいるが、だいたいみんな従順である。覚悟がいい。もう死刑の宣告を受けて、罪が確定すると生命を限定されたことになるのだから、世の中に執着というものがさらになくなる。
 
罪の確定前、獄中で暴れた者でも、一旦死刑を宣告され、その罪が確定して、いつ、何時に自分は殺されるのだと思うと、ほとんど死人のように静かになる。
 
私の友人で一昨年、大阪で死刑を執行された者がいた。死刑の宣告を受けて、罪が確定すると、私のところへ電報で是非会いたいと言ってきた。
 
死刑囚である友人が、ふたりの看守に惹かれて入ってきた。いつになく落ち着いた態度に驚いた。私の顔を見ると笑いさえ浮かべて、
 
「君は新聞で読むと、とんでもないことをしたね。一体動機はどこにあるの?」
 
私がこう尋ねると
 
「別にとんでもないことをしたと僕自身は思っていない。しかし、法律上悪いことをしたことだけは俺も認めるし、動機なんか聞かないでくれ。ただ一言、人間のなすべきことをしたということだけは言っておく」
 
「で、君は死刑の宣告を受けたのだろう」
 
「そうだ、死刑さ。殺されるわけさ」
 
友人は顔色一つ変えずにこう言った。
 
「で、執行はいつなんだ」
 
「執行か、俺の殺される日か、それはまだわからぬが、4、5日中だ。だから俺がこの世で生きているのは、あと、4、5日というわけになるのさ。4、5日生きていれば結構な話だ」
 
「君はすっかり、覚悟しているのだね」
 
「覚悟なんて、そんなバカなことはない。当然のことだ。人間、自殺することも、病気で死ぬことも、また殺されるということも、死という結果には何の変わりもないのだからね」
 
死に臨んで、何か泣き言でもいうのかと思ってきた私には少々意外な感じがした。
 
「君などは死ということをどんなにか、恐ろしいものとでも思っているのだろう。俺だって死の宣告を受けるまでは、そう思わないでもなかった。しかし、ひとたび死の宣告を受けると、それによって人間の生命は決められたことになるのだから、その決められた範囲においてのみ生きようとするもので、それ以上生きようとは思わない」
 
「そうかね」
 
私は答えただけだった。友人はなおも言葉をついで「君に会いたかったのは、他のことではない。僕の友人に会ったら、Tは罪の前によろこんで死んでいったと伝えてくれ。また、僕の両親には君から、体を大切にといってくれたまえ、それだけで別にいうことはない」
 
友人はこう言って立ち上がった。そして再び看守に引かれて獄屋へ去った。」
  
 
 
この友人はどんな罪を犯したのか? 暗い話ばかり書いたが、僕が死を考える歳になってきたからだろうか。

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2019年7月27日 (土)

昔からの女性は、男よりも強かった!

2019年6月にしばらくぶりに女房の古里の弥彦村(新潟県)の別荘に行ってきた。「ロマンの泉美術館」(今は廃墟になっている)のフアンだった女性が、上越新幹線の「燕三条」駅まで車で待ってくれていて、別荘まで運んでくれるという。
 
 なんとガスが止められていて風呂に入れないので、ダンボールに入ったままのものを開いて、捨てるものと置いとくものを選び出してきた。その時持ち帰った92年前、昭和2年刊行の「文藝市場」という雑誌。
 
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サトウ・ハチローさんという詩人のエッセイ「東京不良少年往来」が載っている。若い頃、キングレコードのディレクターの友人、長田暁二君に連れられてお会いしたことがある。ぼくも長田くんも長生きしているということだ。
 
日本性愛奥義篇の秘具篇、張型考とある。これはオナニーをするときの道具のことだ。
 
他に獣姦雑考なども、とんでもない読物ばかりが載っている。その中に小座間茂さんという方の「死刑執行所覗き」はわかりやすいが、どういう仕事をされていて書かれたものかは不明だ。
 
昔の文章を読むのは大変だ。わかりやすくして興味のあるところを紹介したいと思う。こんな話が載っている。
 
 
 
「明治40年7月、仙台の第2師団の軍法会議で死刑を言い渡された一人の兵士がいた。
 
宮城県石狩郡の農家の山川藤五郎(27歳)で、死刑になる理由は、入営前からあるお茶屋の若い女と深い仲になっていたが、入営後は日曜ごとの休みの日でないと、逢うことができないので悩んでいた。そのうちに女が、足遠くなってきた藤五郎に飽き足らず、他に男ができて、一緒になろうとしている話を噂で聞いた。藤五郎は無理にでもその女と一緒になろうと決心したが、軍隊からは抜けられない。軍隊から脱走したが、すぐに発見されて、重営倉に投げ込まれてしまった。
 
それでも女を諦めきれずに、深夜に営倉から逃げ出して、兵舎に放火してしまう。八百屋お七(江戸時代の話)とよく似た気持ちの話である。
 
それも不幸に見つけられて、ついに死刑を言い渡されてしまった。そこで上官は藤五郎と戦友仲で、最も親しかった3名の兵士が選ばれて、3名の一斉射撃で銃殺されたという。」
 
 
 
銃殺されたのは、藤五郎で終わりで、それからは一般死刑囚と同じように、絞首刑になった。
 
昭和の初めの時代、毎年死刑になる者の数は、30名ぐらいである。試みに過去45年の統計を見ると、大正10年に31人、同11年に30人、同12年に28人、同13年に13人、同14年に11人死刑執行されている。直接執行の任に当たる刑務所長の話によると、裁判所で罪を裁かれるときは、男より女の方が女々しいが、いざ死刑を宣告されて、獄中にある間、まは執行の場合などになると、男より女の方が覚悟がいい。女性の方が死にたいして従順である。
 
男は死刑執行となると、狂人のようになって騒いだり、泣いたりするが、女性は涙一滴も流さないという。
 
かなり古い話だが(江戸時代)有名な高橋お伝という女が死刑になった。獄中で教誨師が「何か言いたいことはないか?」と尋ねたら、お伝は「別に言いたいことはないが、腹が空いたから何か食べさせてもらいたい」と落ち着き払って食べ物を注文した。
 
看守が今でいう親子丼のようなものを持ってくると、ペロリと平らげて、絞首台に上り死についたという。
 
人間、死刑にならなくても、死は必ずやってくる。落ち着いて死にたいものだ。

 

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「文藝市場」の裏表紙・三越は呉服店

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