2021年4月10日 (土)

ケヤキの大木だけが見続けてくれた!

1971年に日本最初の同性愛誌『薔薇族』を創刊したときに、何誌もの週刊誌がとりあげてくれた。

 

週刊文春は「ホモでない男が出したホモの雑誌?」というタイトルだったか、数ページを使っての取材、ありがたかった。

 

ぼくは男好きでないから、編集部を訪ねてくる読者を招き入れた。目の悪い人もいたし、口の聞けない人も。どんな人でも同じように話を聞いた。

 

相棒の藤田竜さんには「伊藤さんはノンケで男と寝たことがないから、ホモの人の本当の気持ちはわからないのでは」とよく言われたものだ。だからこそ読者の声をよく聞いた。

 

わが家のとなりのとなりに、渋谷のデパートに勤める人が住んでいて、その娘さんが池袋の方だったか、目の不自由な人を世話する施設に事務員として勤めていた。

 

その施設に出入りしている全盲の男性がホモで、『薔薇族』の読者だった。わが家に目が見えないのによくぞ探し当てて訪ねてきたものだ。

 

なんとのその全盲の男性と、事務の女性が結婚したのだから驚きだ。彼のことを女性の両親に教えるわけにはいかない。

 

そのうちに子供が生まれたではないか。

 

その頃、『薔薇族』では、世田谷学園の同期生の高橋民夫君が、長野県の「女神湖ホテル」の支配人をやっていたので、新宿からバス3台をやとって、ホテルを借り切って旅行会をしたことがあった。

 

ぼくは女房と一緒に参加したが、運転手が景色のいいところを案内しましょうかと言ってくれたが、参加者は早くホテルへということだった。

 

その夜、どんなことになったのかは知るよしもないが、全盲の若者も参加して、大活躍?したようだ。

 

大手の自動車メーカーの迎賓館がすぐ近くにあって、そこの支配人も参加してくれた。ゴルフ場もあって、夏期の頃には東京からコックさんを連れていって、お客さんをもてなすようだ。

 

迎賓館を案内してくれたが、日本一の自動車メーカーの経営する迎賓館だから、豪華な建物だった。この方、イラストを描くのが上手な方で、小説の挿絵をよく描いてくれた忘れられない人だ。

 

『薔薇族』の読者には、どんな偉い人がいたのかは知るよしもないが、わが家を訪ねてきた着物姿の上品な方は、ちらっと「私は人間国宝だ」と。

 

大学教授は何人もおられたが、吉祥寺にあった前進座のどんちょうを描かれたという話は記憶に残っている。

 

『薔薇族』を創刊してから5、6年経った頃世田谷学園の同期生の設計士が設計してくれた鉄筋建3階で、南側の方を家族が住むように、北側を仕事場に使えるようにしてくれた。

 

3階は16畳で、そこに読者を招いて、いろんな催し物をした。高校生ばかり集めたり、大学生ばかり集めたりと。

 

高校生ばかりを集めたときなどは、終わる頃に大人たちが何人も外で待ち受けていた。近所の女性たちが、わが家にくる男たちをじろじろと見ているのは困ったものだ。

 

美輪明宏さんが、豪華な門灯を寄贈してくれた。そうでなくても暗いホモの世界に少しでも明るい光をと願ってのことだ。

 

今はその建物はない。ただ残っているのはとなりの家の平家の垣根に植えられたケヤキの木が一本だけ、東邦薬品の駐車場の真ん中に大木に成長して残っている。社長にお願いしたら残してくれたのだ。

 

ケヤキの大木が『薔薇族』の最初から終わりまで見続けてくれたということだ。

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2021年4月 3日 (土)

「文ちゃんと語る会」は、ぼくの生き甲斐だ!

「1992年・バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで、切れ味鋭い一本背負いで「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦さんが24日、がんのため死去した。53歳だった。」と、2021年3月25日の朝日新聞が報じている。

 

古賀君は世田谷学園の後輩でもある。母校で金メダルの祝勝会が催された時に、ツウショットの写真を気軽に撮らせてくれた。

 

今、その写真を見ながらこのブログを書いている。

 

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古賀君は福岡県生まれ、佐賀県で育った。小学校を卒業後、柔道私塾「講道学舎」に入門。とある。「講道学舎」は確か世田谷区の上馬にあり、寄宿舎が完備していて、そこに日本中から有能な柔道の選手を集めて指導していた。

「講道学舎」の塾長というか、指導者のお名前を忘れてしまっているが、世田谷文学館で何度もお会いしている。

 

いつも黒いつめえりの服を着ていられて、温厚な方だった。この方の日本の柔道界への貢献は大変なものだ。何年も前に亡くなられてしまったが、娘さんだけなのでその仕事を残せなかったのは残念だ。

 

世田谷学園の柔道部も創部100年だそうで、立派な記念号を出版したが、ぼくも寄稿することができた。

 

戦時中、中学1年のときに講道館の花桐8段に少しばかり教えを受けたが、2度もすってんころりところんだが、そのとき教わった受け身のお陰と書いたが、それは嘘で運が良かったからだった。

 

89歳になるまで、家の中などでもころんだことはなく、脚は弱っているが、区から手押し車を借りて、それを押して天気が良ければ買い物に行ったり、カフエに立ち寄ったりしている。

 

先日、東京医大で3度目のMRIの検査を受けたが、脳の中に出血していたのを薬を飲んでいて、それが効いたのか、脳は正常に戻っていた。

 

今のところ食欲もあるし、毎日歩いているので、まだまだ生きられそうだ。しかし、友人、知人がみんなこの世を去って、話し相手がいないのはさびしい。

 

「文ちゃんと語る会」で出会った若い女性はもう20年近くも続けているのだから、何人にもなる。いろんな事情でそう長くは続かないが、出版社に勤めていた岩崎梓さんは、ぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』を復刻してくれた。

 

横須賀に住むご両親もぼくの催すパーティにも出席してくれて、今では畠をたがやしていろんな野菜を育てている。それをときたま送ってくれるのでありがたい。

 

明治大学の大学院の学生だったイタリア人に卒論のお手伝いをしたことがあったが、もう何年もまで、その後、東京の会社に就職して働いているようだ。3月27日の「文ちゃんと語る会」にしばらくぶりに出席すると、メールを寄せてくれて、息子の嫁が見せてくれた。しばらくぶりの出会いで楽しみだ。

 

「文ちゃんと語る会」で出会ったり、食事をしたりして楽しかった。

 

「文ちゃんと語る会」の出会いが、ぼくの生き甲斐になっていることは間違いない。歩けるうちは続けたいものだ。

 

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2021年3月22日 (月)

89年も生きていたなんて!

2011年3月19日、今日はぼくの89際の誕生日、昨年の3月20日、三軒茶屋の「中国名菜・銀座アスター」で、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく文ちゃんの米寿を祝う会」をひらくことができた。

 

80歳の誕生日には、オープンしたばかりの友人のカメラマン中嶌くんが経営する銀座の「まじかな」で、シャンソン歌手のクミコさんも参加してくれて、「百万本のバラ」などを歌ってくれた。

 

中嶌くんは当然、「米寿を祝う会」は「まじかな」でと思っていたに違いない。しかし、年齢にはどうもならない。銀座までの地下鉄の階段の登り降りはつらい。

 

三軒茶屋の「銀座アスター」の常連のお客で駒大の後輩の石塚さんが、会をひらくなら「銀座アスター」でと、支配人に頼み込んでくれた。コロナ騒ぎで多くの人を集めての会ができにくくなっていた。もう少しおそかったら会をひらけなかったろう。

 

『薔薇族』を出していたころ、ぼくは忘れていたが新潟県の魚沼に住む薬剤師の方が、長いことお母さんを看病していたが亡くなられてしまい、ひとりで住んでおられた。

 

その方が「文ちゃんと語る会」に参加してくれて、多額のお金を寄付してくれた。

 

ぼくが彼が若い頃面倒をみていたようだ。若い頃のことを恩に着ての寄付だ。

 

本来なら会費を一万円いただかなければならないのだが、寄付のおかげで若い人でも参加できる会費を3千円にすることができた。

 

ひとりずつ椅子に座って、次々とコースで料理が運ばれてくる。友人の田中英資さんのはからいで、バリトン歌手の北村哲朗さん、ピアノの伴奏は岩谷令子さん。

 

次男の嫁の友人たちのベリーダンサーの派手なダンス。お祝いの花輪も、「駒沢大学」「世田谷学園」お金持ちの石塚さんが贈ってくれて盛大な会になりました。

 

89歳まで生きているのは、周りを見回してもぼくひとりだけ。あと何年生きられることか。

 

ぼくはこの89年間、入院したのは50年ほど前、胆石の手術で1ヶ月入院したのと数年前、痔の手術で6日間入院しただけ。

 

胆石の手術の時も、おうだんになってしまったので、それが回復するまで手術できなかったので、長引いてしまった。

 

内臓も悪いところがないので、入院生活はそれだけだ。あとは16年前、ひざに人工ひざを入れる手術で東京医大の整形外科で左ひざに人工ひざを入れた。半年ごとにレントゲンを撮って手術医が診てくれているが、骨がしっかりしているので問題はないようだ。

 

ブログを長いこと書き続けている。これはネットをさわれないぼくが原稿用紙4枚にひとつ話をまとめて郵送すると、ありがたいことにボランティアで、土曜と月曜に更新してくれる若者がいる。感謝のしようがない。

 

ブログを書き続けているので、年相応に忘れっぽくなっているが、痴呆症にはならずにすんでいる。

 

ぼくは運が良かったのか、生まれた表参道に住んでいたら、空襲で焼け死んでいたのかもしれない。

 

生後百日目ごろ、救世軍の伊藤冨士雄の妹のひとり娘、その亭主が測量機械の製作の工場を作り、二階建ての豪邸に住んでいた。

 

二階建ての貸家を2軒建てたので、呼ばれて北沢に移り住むことができた。そこに住むこと75年。駐車場が地続きの東邦薬品が買い取ってくれたので、美術館建設の借金を返済することができた。

 

今の代沢3丁目の2階建てのマンションは住みやすい。ここで生涯が終わりになることだろう。6畳のぼくの部屋、ベッドもあり、仕事部屋でもある。あと何年生きられることか。

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2021年3月15日 (月)

代沢の街は住みよい街だ!

読売新聞2021年3月11日を読むと、「大空襲76年・幾多の犠牲忘れない」の見出しで「太平洋戦争末期、米軍の無差別爆撃で一夜にして約10万人が犠牲となった東京大空襲から76年となった10日、墨田区の都慰霊堂で追悼法要が営まれた。」とある。

 

サイパン島が米軍に占領され、そこに墓地ができ、数百機のB29爆撃機が配備され、日本に向けて、大編隊を組んで襲いかかってきた。

 

そのころ、ぼくは代沢小学校のすぐそばに昭和7年から住んでいて、父親もからだが貧弱なので軍隊にとられずに出版社に勤めていた。

 

そのころのぼくは代沢小学校(当時は国民学校)の6年生、5年以下は長野県のお寺に疎開していて、わずかな生徒しか残っていなかった。

 

ありがたいことに代沢の街はB29の爆撃も受けず、真っ赤になった下町の空を見つめているだけだった。戦争の末期、代沢の街もB29の焼夷弾の攻撃を受けたが、この日は風が強く、頭の上を通り越して、淡島のほうへ飛んでいき焼野原となってしまった。

 

その日の朝、学校へ行ったが途中にある淡島のバスの車庫、測機社の工場、多聞小学校は焼け落ち、キンカンの工場もまだ燃えていた。

 

道路には不発弾がごろごろころがっていて、すさまじい光景だ。世田谷中学も焼け落ちていると思ったら、なんと残っているではないか。寄宿生たちが消しとめたのだそうだ。

 

焼夷弾は屋根をぶちぬき天井裏で燃えるようにできていたので、天井裏を全部はずしてあった。となりの教室の声が聞こえるのは仕方がない。それよりも毎日、空襲警報が鳴るのでわが家に帰ってくると、勉強どころではなかった。

 

石鹸がないから、母親も苦労したのだろう。同じ洋服ばかり着ているから、しらみがうようよ。母親は大きな鍋で下着を煮沸して殺していた。

 

朝起きてふとんをめくると、のみがぴょんぴょんと飛び跳ねる。それをつかまえて、指でころす。今どきの若者には想像もつかない光景だ。

 

食べるものもない。その頃の世田谷は奥の方へ行くと農家がまだかなりあった。母親に連れられて買い出しに行ったことがある。母親の着物は食物にかわっていた。

 

親父は第一書房の本などを山形の古本屋に送って食物を送ってもらっていたようだ。その頃の母親の写真を見ると、痩せ細っている。

 

世田谷中学のお昼どき、弁当のふたを開けると、大根だったかも入っていて。片方にかたよっていた。それでも弁当を持ってこれる生徒はいいほうで、昼どき校庭の片隅で弁当をもってこずに座り込んでいる生徒もいた。

 

その頃、母親は近所のとなり組の組長をしていた。配給になるのは、すけそうだらばかりだ。その頃、北海道ですけそうだらがたくさん獲れたのだろう。

 

今でもその頃のことを思い出すので、すけそうだらは食べない。

 

配給はお酒を飲まない家にもくれる。煙草もだ。それを別の食物に変えてくれるところが駅の近くにあったらしく、母親はそこで変えてくるようだった。

4人の子供をかかえて、母親は食べさせるに苦労したに違いない。

 

幸いなことは父親も兵隊に行かず、空襲にもあわず、家も焼け残ったことだ。今はマンション住まいだが、今の生活が一番いい。あの3階建の家に住んでいたら、あちこち悪くなって修理代で大変だったろう。

 

今のマンション2階建で6畳が3部屋、孫の勉強部屋がなくてかわいそうだが、このマンションでぼくの人生は終わりに。路地の奥なので静かで住み心地がいい。ありがたいことだ。

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2021年3月13日 (土)

思いきって『薔薇族』を創刊して良かった!

ぼくの著書に『やらないか!『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』(彩流社刊)、編集部の河野和憲さんが本にしてくれた。もう1冊、先妻の舞踊家ミカとの出逢いから事故死するまdねお15年間を書いた『裸の女房=60年代を疾風のごとく駆け抜けた前衛舞踊家・伊藤ミカ』も本にしてくれた。

 

現在、河野和憲君は彩流社の社長となり、10数名の社員をかかえて活躍しているが、今の世の中、本が売れない。かなり河野君、苦労しているようなので、ときどき2冊の本を取り寄せて、友人たちに読んでもらっている。『やらないか』は早稲田大学教授の丹尾安典先生がすばらしい序文を寄せてくれた。

 

ぼくはブロウを10数年書き続けている。原稿用紙4枚でひとつの話をまとめている。ネットを使えないぼくが郵送すると、土曜日と日曜日に更新してくれる。なんとも感謝のしようがない若者がボランティアでだ。もう何千枚も書いている。

 

11年前にぼくのブログを紙焼きにしてくれたフアンの女性がいたので、その中から選んで本にすることができた。

 

『薔薇族』を出していた時代は、『伊藤文学のひとりごと』という2頁のコーナーを毎月書いていた。それをまとめて本にしたこともある。

 

長年書き続けているので、自分で自分のことをほめるのはおかしな話だが、よく書けている。ぼくは他人さまの本は読まないし、頭もよくないから難しいことは書けないが、思ったことを素直に書いている。

 

『やらないか』を読み返してみると面白い。何部製作して、何部売れたのか教えてくれないから、どのくらい売れたのかはわからない。

 

文藝春秋社の子会社の「文春ネスコ」から『編集長「秘話」』、上製本で立派な本を出してくれた。確か初刷6千部だったと思う。

 

『週刊文春』に1ページを使っての書評。文藝春秋社発行の雑誌すべてに広告が。書店の平台の目立つところに並べられていた。

 

増刷にはならなかったが、数年して全部売れたようだ。何十部か残っていたのを送ってくれた。この本はのちに他社から文庫にもなった。

 

1971年7月の創刊号、日本で最初の同性愛誌ということで、マスコミがとりあげてくれた。

 

創刊号の藤田竜さんの表紙絵もよかったと思う。ウリ専かのボーイを使っての表紙絵だったら『週刊朝日』は取り上げてくれなかっただろう。『週刊ポスト』を皮切りに、『週刊文春』は「ホモでない男が創刊したホモの雑誌」というタイトルでぼくのことを紹介してくれた。

 

『平凡パンチ』と『東京スポーツ新聞』が1ページを使って特集し、一流の週刊誌が真面目に取り上げてくれたことは何よりの喜びだった。

 

文通欄に投稿してくれた読者は、創刊号で7名、2号目には57名、3号目は195名と号を重ねるごとに増え続けていた。どれだけ読者が待ち望んでいたことか。

 

創刊から3年間は隔月刊だったので、発売を待ちきれない読者から、矢のような催促の電話がなり続けることになる。

 

文通欄に出したくても家族がいたりして出せない人も多かったに違いない。どれだけ多くの読者が、地方にいけばいくほど、仲間がほしかったのでは。

 

創刊号の『薔薇族』は一万部、完売だった。大手の取次店である東販、日販が仕入れてくれた力は絶大で、一流書店にも堂々と並べられた。しかし、地方の読者は大変だったようだ。10数軒の書店を探し求めて、やっと手に入れたという読者もいた。創刊して本当によかった。

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2021年1月11日 (月)

「暴れん坊将軍」の中で生き続けている!

ぼくはもう何年も時代劇にはまっている。世田谷文学館が創立されたころ、友の会を立ち上げようということになった。

 

10人近い人が役員になったが、その中のひとりにぼくも。東方の映画監督から、テレビの時代になって、「鬼平犯科帳」などの監督になった高瀬昌彦さんもそのひとりだったので親しくなった。

 

その後、会長もあの世に去り、役員会も立ち消えになってしまった。

 

「鬼平犯科帳」の原作者、池波正太郎さん、子供さんがいなかったようで、版権の所有者は、めい子さんになっている。

 

不思議なえんで、そのめい子さんのご主人と知り合い、画家だったので『薔薇族』の表紙絵を描いてもらったこともある。

 

時代劇はよくできている。『暴れん坊将軍』は、松平健さんの当たり役で、視聴率もよかったのだろう、多くの作品が残っている。原作はないようで、脚本家が才能のある人で、じつに面白い作品になっている。

 

最後は悪いやつが斬られるのだが、必ず30人ほどの斬られ役の役者が登場する。その中のひとりが福本清三さんだ。

 

「5万回斬られた男」と題して、その死を新聞が報じている。1日、肺がんのために死去した。77歳だった。

 

兵庫県生まれで、15歳で東映京都撮影所に専属演技者として入所、映画『野球一族の陰謀』やテレビ『暴れん坊将軍』『水戸黄門』など、時代劇を中心に出演し、派手に後ろ向きに倒れる、鮮やかな斬られ方で人気を集めた。

 

2003年に米映画『ラストサムライ』に出演。04年には第27回日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。14年の映画「大秦ライムライト」で初めて出演を務め、カナダの第18回ファンタジア国際映画祭の最優秀主演男優賞に並ばれた。

 

時代劇の撮影で、斬られた。「お前死に方が上手だな」。主役の萬屋錦之介に声をかけられたという。「芝居が上手ということだよ」とも。うまい芝居をしている意識などなかった俳優・福本清三さんは、その言葉で斬られ役の誇るべき面に気づいたという。

 

斬られて倒れると薄目をあけて、他の俳優の斬られ方を学んだ。洋画からは笑いを誘うチャプリンの倒れ方などもヒントにした。無念の思いを残すように倒れる独特の斬られ方を編み出している。

 

2021年1月6日の東京新聞「筆洗」から引用させて頂いているが、ベテランの記者が書かれている短い文章で、福本清三さんの生涯が見事に描かれている。

 

死に方、斬られ方という脚光を浴びない脇役の場所に、独自の美学を築き上げた福本さんが77歳で亡くなった。

 

大部屋時代は一日十本の出演も珍しくない。名前もセリフもない役ばかり。そこから磨いたのは他人を輝かせる演技だった。「斬られずにいかず、斬りにいく。そうしないと斬る側が目立たない」

 

50歳になるころから注目されるようになった。テレビ番組で知ったという中学生からは「感想文」が来た。「どうせ補欠やと腐ってたけど、福本さんを見て、努力すれば絶対にレギュラーになれると思いました」「底辺でも一生懸命やることがいかに大事かわかりました」

 

スターよりも多くの人を励ました役者かもしれない。

 

ぼくは長いことセリフがなかったころから「暴れん坊将軍」を見続けているので、福本さんは、ぼくに生きる勇気を与えてもらった。

 

福本さんは、この世にいなくても、「暴れん坊将軍」の映像の中で生き続けている。

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2021年1月 9日 (土)

駒大・逆転優勝! 感動した!

「駒大逆転 箱根駅伝」総合優勝を決めゴールテープを切る駒大の石川拓慎(3日午後東京大手町の読売新聞社前で)。読売新聞の4日朝刊1面に。

 

「創価大と2分21秒差でスタートした駒沢大は、山下りの6区で2位に浮上。創価大は9区で3分19秒のリードを奪ったが、駒沢大のアンカー石川拓慎(3年)が猛進。残り2キロ付近で逆転を果たし、優勝を決めた。」

 

母校、駒大は数年前だったろうか、へんなものに投資して、百何十億円かのお金が詐欺にあい、パアになってしまった。

 

そのおかげで長年続いていた駒大国文科の同窓会が卒業生に出す郵送料をもらえなくなり開けなくなってしまった。

 

理事長はじめ首脳陣が責任をとって辞め、新しい首脳陣になったが、曹洞宗の宗門にそんなに人材がいるわけがない。暗いムードが学内にただよっていた。それが創価大の9分どうり優勝と思っていたのが、最後の最後での逆転勝ち。

 

感動することなどなかったのに、ガッツポーズで1位のテープを切る駒大の姿を見て、学生たちも、卒業生もみんな明るい笑顔を浮かべたに違いない。

 

正月早々の箱根駅伝での優勝は、多大の宣伝効果をもたらす。駒大は地の利を得ているので、新入生が集まらないということはないが、監督や、選手たちがテレビの報道番組にあちこちで出演。

 

青山学院大学の監督は、その後、スター気取りに。おごれるもの久しからずで、今年は優勝できなかった。

 

読売新聞2面の「顔」欄に、駒沢大監督の大八木弘明さん(62)が紹介されている。

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「「男だろ!」。そう運営管理車から選手にかける熱い叱咤は健在ながら、今年は変化があった。「今日はいいぞ」。褒め言葉を交えて背中を押し、13年ぶりに箱根を制した。(中略)

 

選手に寄り合い、サウナで語り合った。この春には年齢を理由にやめていた自転車で並走しての指導を6年ぶりに再開。選手は話しやすいと慕い、6区区間賞の花岡悠紀選手(3年)は「第2の父」と言う。

 

卒業生から「優しくなった」と茶化されるが、そんな自分も気に入っている。」

 

運動部・後藤静華さんの文章もいい。写真は早坂洋治さん。いい表情をとらえている。

 

記事には奥さんのことは書かれていないが今度の優勝のかげの力は、監督の奥さんの力があったことを忘れてはいけない。

 

合宿している選手たちの食事は奥さんが調理しているようだ。

 

多くの選手達の健康に注意して、スタミナがつくような食事を一日、三度も調理することは大変なご苦労だ。

 

手伝う人は何人かいるのだろうが、あきないように調理することは大変なことだ。

 

監督は選手たちを「子供たち」と呼ぶ。夫婦が選手たちを自分の子供のように思って接しているということだ。

 

監督と奥さんの人柄がいい。選手たちの親も安心して子どもたちをあずけているに違いない。

 

今度の優勝は、選手の両親、親族たちがどんなにかよろこび、誇りに思ったことか。

 

また、卒業生がぼくをふくめて、どれだけ感動し、生きる力を与えてくれたことか。

 

他の運動部の学生たち、野球部は最近元気がないが、負けてはならずと頑張るに違いない。

 

88歳のぼくだって、いつゴールするかわからないが、最後の最後までの勇気をもらうことができた。

 

優勝おめでとう! こんなにうれしく感動したことは、最近なかったことだ。

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2021年1月 2日 (土)

なんとしてもコロナに打ち勝たねば!

多くの人に支えられ、「米寿の祝い」も、三軒茶屋の銀座アスターで、50人もの友人知人が参加してくれて、盛大に祝うことができた。

 

世田谷区も老人をいたわってくれて、椅子にもなる手押し車をくれたので、それを押して毎日、下北沢のスーパーに買い物に行ったり、カフエにもいくことができている。

 

風呂場にはつかまることができる、丈夫なものをとりつけてくれたので、風呂桶から立ち上がることができている。ありがたいことだ。

 

日曜のたんびに車で迎えに来てくれて、どこにも行けずにいるぼくを連れ出して、自宅でぼくには見れない、アメリカや中国、韓国などのニュースを見せてくれる田中英資さんには感謝のしようがない。

 

ありがたいことだが、一日に何時間も諸外国の様子をネットで見ているので、それをしゃべりまくるので、他所の国のことなど興味をもたないぼくは、眠くなってしまう。

 

昨夜はピアニストで、ご主人を亡くしてひとりで麻布十番のマンションに住んでいる、ケイ子さんの自宅に連れて行ってくれた。

 

百歳近い老人で、今でもヴァイオリンを弾く方もきていて、おどろいたことに顔にシミひとつない若々しい方で、おひとりで生活していて、杖もつかずに電車に乗っているそうだ。

 

もうひとりのお客さんは、ベトナムに住みベトナム人の奥様がいて、事業をしている方のようで、ベトナムの奥さんから電話が入り、映像も見れるので立派な家に住んでいるようだ。

 

ケイ子さんも、ぼくの女房が着ていた洋服を着てくれていて、体型が似ているのでよく似合いありがたいことだ。

 

よくベトナムに行き来している西山さん、やはりベトナム人の奥さんがいて、今、帰れなくなっているようだが、この人もぼくが着ていた派手なセーターを着てくれている。

 

田中さんもぼくの着ていたシャツと、カーディガン、ケイ子さんも女房の着ていたもの、西山さんもぼくのセーター、妙な気持ちにさせられてしまって……。

 

スウェーデンから持ち帰ったシャンデリアが3つも天井からぶさがり、豪華な鏡が三面、扉の外にちょこんと三毛猫が。いつもえさを与えているのだろう。

 

今日はお客さんのえさ?で大変なので、猫ちゃん、あきらめてどこかへ行ってしまったが。

 

千葉のホテル三日月が、ベトナムに豪華なホテルを作り、そこにピアノを持っていって、ケイ子さんがお客さんにピアノを聞かせるそうだ。

 

コロナ騒ぎがおさまらないと実現しないが、長いアメリカとの戦争に勝ち、復興したベトナム。一度訪ねてみたいものだ。すこぶる親日の国民だそうだ。

 

国民の半数が農業に従事していて、素朴な国民のようだ。とにかく戦争はすべてを破壊してしまう。平和ということがどんなに大切なことか。

 

東京の下町は、アメリカのB29の爆撃で焼け野原に。そこから立ち上がった日本。もう二度と戦争はごめんだ。

 

それがなんとコロナとの戦い。今年の正月は出歩かないで、なんとしてもコロナをふさぎこまないと。

 

令和3年、血圧も薬を飲んでいるので平常値に下がり、まだまだ元気。

 

今年もブログを書き続けますので、ぜひ、読んでください。

今年もよろしく。

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2020年12月28日 (月)

星のひとつになってしまった!

とにかくぼくは人を集めることが好きな人間だ。ぼくの著書は12,3冊だが、本を出版するたんびに友人、知人を招いて、新宿の京王プラザホテルが一番多かったが、大きなホールを借りて、出版を祝う会を開いた。

 

これはお世話になった冨田英三先生の影響だと思う。先生も人を集めることが好きな方だった。

 

1969年(昭和44年)が、先妻の舞踊家・君子(芸名・ミカ)一番精力的に活躍して輝いていた年だ。次の年の9月17日の夜に催された、渋谷の山の手教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」(現在はカフエ)でのイベントが一番記憶に残っている。

 

このイベントは西独とイタリアの合作映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』(ヘラルド映画)の宣伝のためのものだ。

 

企画を立てたのは画家の冨田英三さん。この先生、無類のイベント好きで、この先生とミカが組んでのイベントは数しれずだ。

 

冨田先生、前衛的な若者を集めて「ビザールの会」を結成していて、その会にミカもぼくも参加している。「ビザール」って「風変わりな」という意味だそうで、それで「伊藤ミカ・ビザール・バレエ・グループ」と名付けたのだ。

 

『週刊ポスト』の10月3日号の記事によると、「教会の下のサド・ストリップがあげた宣伝効果」と題して、「この催しは日本ヘラルド映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』のPRのためのもの。20万円出したというヘラルド側も、この日、集まったジャーナリストが55人というわけで安い宣伝費だと大ニコニコ。サドの後継者をもって任ずる前衛舞踊家が商魂に踊らされた。この一幕、地下のサドが見たらサド悲しむだろう」と皮肉めいた記事にしている。

 

その頃、ぼくは駒沢大学のOBで都内の住人をターゲットにして、御茶ノ水カフエを借り切って会を開いたことがあった。

 

神津島(伊豆7島の中のひとつ。大島の先の島だ)ここも東京都なので、神尾くんにも案内状を出してしまった。

 

当日、なんと東京に来る漁船に乗って、神尾くん(あだ名、ガミさん)が出席してくれたではないか。

 

神尾くんはぼくより年上だが、国文科の同期生だ。神津島村には小学校と中学しかない。本土から島に渡った先生方も、2,3年もしないうちに逃げ帰ってしまう。

 

神尾くんはなんと10年以上も島に残り、写真を撮るのが得意なので、島の人達の子供の7・5・3のお祝いの写真とか、結婚式の写真など撮っていた。

 

本土から都のお役人が視察になどくると、案内人もしていた。ぼくはガミさんに誘われて島に渡ってしまった。

 

その頃は港がないので大きな船は横付けにできない。沖の方で停泊し、小さな船に乗り移って島に渡る。

 

ぼくはすっかり島に魅せられて、それから先妻のミカがお弟子さんを連れて、島に渡り何年か合宿したことがあった。

 

一番の親友の松前美奈子さん。砂浜でふたりで踊っている写真がある。ミカは神津島の海岸で踊ることによって、舞踊への目が開けたと言っていた。

 

このときの写真を見ると、生き生きとしていて美しい。その相棒の松前美奈子さん、2020年の12月24日、クリスマスイブの日に老衰で亡くなったと、娘さんから電話があった。

 

ガミさんもすでにこの世にいない。

 

ミカの生き生きとした、美しい表情。もう神津島に行くことはできない。神津島は一番美しく星を見れる島だそうだ。ミカも美奈子さんもその中の星のひとつになっているのでは。

 

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2020年12月24日、83歳で亡くなった松前さん

 

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駒大の同期の神尾くん

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2020年12月12日 (土)

大木に柱時計がかけられているなんて!

今の若い人には知るよしもないが、昭和の20年代、30年代の頃だったろうか。父が出した本で、『狂人物語』という新書版がある。

 

ペンネームだが大川徳二著とある。本名は確か鈴木一念という人だ。歌人でもあるので、父も作歌していたので知り合いだったのだろう。

 

この人の弟は鈴木信太郎という有名な画家だ。

 

ぼくは父の使い走りで、吉祥寺の少し手前の久我山というところに住んでいる、鈴木信太郎さんの豪邸を尋ねたことがある。

 

庭が広くて庭を眺められる和風の家だ。同じ時代に活躍された方で、フランス文学の同姓同名の方がいるが、鈴木信太郎さんは画家だ。

 

友人の田中英資さんが、ネットで調べて紙焼きにしてくれて、画歴などをコピーしてくれたのに、どこにしまいこんでしまったのか、みつからない。

 

鈴木信太郎さん、幼い頃の脚の病気での身体障害者で、奥さまがしっかりした方で、マネージメントをされている。

 

奥さまとしては、ご主人のお兄さんが神経をわずらい長いこと脳病院での生活をされていたことをよくは思っていなかっただろう。

 

父が鈴木一念さんの脳病院での生活を描いた『狂人物語』。装画を描いてくれた。鈴木信太郎さんの画風は、子供っぽく描くことで人気のあった方だ。

 

西荻窪にある「こけし屋」というレストランは、鈴木信太郎さんの描いた絵を作って、マッチにしたり、チラシやメニューにも使っているようだ。ご近所なので食事に行ったりして知り合ったのだろう。

 

先日、田中さんが運転してくれて、女房の古里、新潟県の弥彦村にある、別荘の伊藤館に行って、段ボールの中から、鈴木信太郎さんの原画を見つけ出した。

 

大きな木の幹に柱時計がかけてあり、その横に杖をもった黒い服に、黒い帽子をかぶった人が立っている。赤い雲が四つ描かれている。その発想が面白く、ほのぼのとも感じさせる絵だ。

 

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原画が出てきたので、これはお宝だ。早速壁にかけて、毎日、眺めている。

 

この本を出版したのは、もう今から60年以上も前のことで、ぼくが駒大在学中だったのか、卒業した頃のことか、まったく覚えていない。この本、売れなかったと思う。

 

脳病院の中での出来事に興味をもつ人は、いないのでは。しかし、大木の幹に下げられている柱時計は、今でも時を知らせてくれているようだ。

 

とうの昔に鈴木信太郎さんは亡くなっているが…。

 

あの日、鈴木信太郎さんの家を尋ねて、庭園を眺めた時のことは、今でもはっきりと覚えている。

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