2020年8月 1日 (土)

みんなに支えられて生きている!

最近、足腰が弱ってきて、以前のように下北沢駅前のスーパーオオゼキに買い物に行けなくなってしまった。歩かないから身体が疲れないのか、夜、寝られなくなっている。

 

そこそこ運動はしているのだが、やはり歩くことが一番の健康法だ。それができないので体重が73キロにもなってしまった。食べることが一番の楽しみになっていたのがいけなかった。今、ダイエットを始めている。

 

トマト、キューリ、レタスと野菜を主に食べ、ご飯はわずかに食べるだけ。いつまで続くことか。

 

88歳の米寿のお祝いを3月20日、三軒茶屋の「銀座アスター」でコロナ騒ぎが寸前ときで、盛大に何事もなく終えることができた。

 

人間どんな死に方をするのかはわからないから生きていられる。しかし、死が近づいてきていることは間違いない。

 

週刊現代の広告を見て、女房にコンビニで買ってきてもらった。「大特集・人に迷惑をかけないで、この世から消えていくために」

 

サラリーマンを定年退職した人たちをターゲットにした企画だろう。ぼくには当てはならない。

 

三平さんの奥さんの海老名香葉子さん(86歳)は「情をかけ合う付き合いが何より大切です」と語る。

 

「人は助けたり、助けられたりする中でしか生きていけません。死ぬ時だって、絶対に誰かの世話になって死んでいくんだから、互いに情をかけ合うことが欠かせないのです」

 

共感できたの香葉子さんの言葉だけだった。

 

ありがたいことに後妻の久美子がよくぼくの面倒を見てくれている。血のつながりがない先妻の舞踊家、ミカの息子をわが子のように可愛がり、家庭教師をつけて勉強させ、念願の京都大学の理学部に入学させた。卒業後、バブルの時代だったので、引く手数多でソニーに入社することができた。

 

その息子の子供(孫)は、お婆さん子で中学に入るまで、お風呂にいっしょに入っていた。久美子に感謝していることは、ぼくの父親や母親を亡くなるまで面倒を見てくれたことだ。母親など長生きしたので、車椅子を押して連れて歩いてくれた。

 

幸いなことはぼくの仕事が順調なときに、二人とも亡くなったことだ。京王プラザホテルでの出版を祝う会に、二人も来てくれて、親友の江田和雄君、阿部正路君(二人ともこの世にいない)に話しかけられてニコニコしている写真が残っている。

 

ヨタヨタの老人になってしまっているぼくを面倒見てくれているのは、女房の久美子だ。夜、何度も起きるのでベッドの下に尿瓶をおいて小便をしている。それが一晩でいっぱいになるのをトイレで流してきれいに洗ってくれる。

 

食事も食卓を前に座っていれば、トマト、キューリ、レタスを用意してくれる。食べ終わると、薬をきちんと用意してティッシュの上に並べてくれる。

 

とにかく世話が焼ける老人になってしまった。今や女房の久美子なしでは生きていけない。

 

いっしょに住んでいる次男夫婦もよく面倒を見てくれる。しばらくぶりに「小笹寿司」に選挙の日、投票を終えてから立ち寄った。マスターはよくぼくの好みを覚えてくれていて、次から次へと握ってくれた。

 

料金もサービスしてくれたようだ。

 

歩いても5、6分のところなのにタクシーを呼んできてくれた。

 

みんなに助けられて何とか生きている。ブログだけは書き続けて、一人でも多くの人に同性愛者のことを理解してもらいたいものだ。

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2020年7月 6日 (月)

縁側は子供たちの社交場だった!

戦前の木造の家には縁側(座敷の外の庭に面した細長い板敷)が必ずあった。

 

ぼくが生まれたのは、青山の穏田というところらしいが、祖父(救世軍で郭のお女郎さんを千人近くも救い出した)伊藤冨士雄の妹には娘一人しかいなかった。その娘の亭主が有能な人で、山野製作所という測量器械を作る工場を持っていて、工場の隣に2階建木造の豪邸があり、3人で住んでいた。

 

昭和の初め頃の北沢の街は、畠、原っぱ、竹やぶばかりで家は少なかった。豪邸のすぐそばに貸家として50坪くらいの土地に2軒の2階建てを建てた。

 

そこへ青山の穏田に住んでいた、ぼくの両親と祖母、姉に声がかかり、北沢に越してくるように誘いがあった。2階は6畳、下は8畳の座敷、南向きで陽もあたり、そこに縁側がついていた。居間は6畳、応接間は6畳・風呂場に面した着替える部屋が3畳、家賃は25円だった。

 

桜並木を母親に抱かれて、歩いている写真が残っているが、今は老木になって10数本しか残っていない。なんと植樹されたばかりの桜の木だ。88年、桜の木とともにぼくは生きてきたことになる。

 

縁側に妹(昭子)とならんで座っているぼくの写真がある。小学校に入学した頃の写真で、父はその頃、第一書房という出版社に勤めていた。

 

講談社の絵本が月に何冊か刊行されていた。一流の挿絵画家が描いていて、父が買ってくれたのでぼくはこの絵本にはお世話になった。

 

近所の子供たちの親は大工さん、植木屋さんだったりで、子供に本を買うような親はいなかった。

 

学校が終わると近所の子供たちが裏木戸を開けて縁側にやってくる。積み上げられた講談社の絵本を貪り読んだものだ。陽の当たる縁側に座って子供たちはおしゃべりもする。縁側はまさに子供たちの社交場だったが、こういう光景は今では見ることはできない。

 

縁側にやってくるのは子供たちだけではない。ご用聞きと呼ばれるいろんなお店のご主人たちだ。

 

庭の木戸を開けて入ってきて、縁側に腰をかける。まずは洗濯屋さんだ。その頃、我が家に来ていたのは下北沢の駅の北口商店街に店を持つ洗濯屋さんで、自転車の荷台に大きなシートの入れ物を積んでやってくる。

 

ぼくのお袋は、必ずお茶を出し、お菓子なども出して、長いことおしゃべりして帰っていく。

 

炭屋さんも来たっけ。あとは魚屋さん。まだご用聞きに来た人もいたけど忘れてしまった。そのころは時間がゆっくりと流れていて、のんびりとしていた時代だった。

 

父は戦後、昭和23年に資本金25万円で株式会社第二書房を事務所など借りないで、我が家で仕事を始めたのだ。

 

ぼくが駒沢大学に入学した頃で、電話もまだなかった。庭を隔てた山野の家の台所の窓が開いて「伊藤さん、電話ですよ」と大声で呼んでくれる。

 

やはり縁側にあった電話で用を足したものだ。当時、電話を引くのには時間がかかった。

 

03−3421−5462番、その頃の電話がまだ我が家には残っている。使い慣れた懐かしい電話だ。たまにこの電話にかかってくることがあると、若かりし頃のことが思い出される。

 

メールなんて使えないぼくには電話が大事だ。誰かこの電話にかけてみて!

 

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2020年6月29日 (月)

「島を返せ!」の叫び声は!

ぼくのことを一番最初に記事にしてくれた朝日新聞の記者、小泉信一さん。先妻の舞踊家、伊藤ミカのことを書いた『裸の女房』も大きな記事にしてくれた。

 

1991年に小泉さんが自ら志願して、日本の最北端、北海道の朝日新聞通信局(現・支局)に95年まで赴いた時に、浅草のバアで送別会が開かれた。

 

ぼくも出席したが、その時くじ引きで当たった掛け時計が、我が家の壁にかかっていて時を刻んでくれている。

 

毎日、新聞も週刊誌も、テレビも新型コロナウイルスのことばかり報道していて、読む記事がない。

 

そんな時に2020年6月8日から12日まで、朝日新聞の夕刊に5回にわたって「望郷の島々 北方領土」が、小泉信一さんの記事で掲載された。

 

1回めは「現場へ! 色あせない桜の花の記憶よ」のタイトルで。根室の支局に5年もいた小泉さんでなければかけない記事だ。

 

「淡いピンクの花びらが海風に揺れる。北方領土の島々をのぞむ北海道根室市。今年のチシマザクラの開花は5月9日。市観光協会によると例年より9日早いという。

 

満開の桜を愛でながら、元島民らと酒を酌み交わした日が懐かしい。1991年から95年まで、私は朝日新聞根室通信局(現・支局)に勤めていた。長い冬を経てようやく訪れた春の喜び。宴席にいた一人がほろ酔い気分で郷里の歌を口ずさんだのを思い出す。

 

  千島恋しや 朝露夜露 島よ還れとなくかもめ」

 

太平洋戦争の敗戦によって、北方領土はソ連に占領されてしまった。ソ連は国は広いけれど使える土地は少ないから、北方領土を返すわけがない。北方領土に自衛隊の墓地ができたり、米軍の基地ができたらソ連は困るからだ。

 

「ようやく根室市の市街地に入ると左側に大きく島影が見えてくる。オホーツク海に浮かぶ北方領土の国後島だ。

 

「へえー、驚いた。こんなに近いんですね」

 

私が根室に勤務していた頃、東京から視察に訪れた政治家の多くが、手をかざしてこんな発言をした。その度に地元では失笑が漏れた。

 

「冗談じゃない。島はずっと同じ場所にあるのに」

 

笑い話のようだが、おそらく今も同じようなやりとりが繰り広げられているのかもしれない」

 

こんな政治家たちがいる日本に、ソ連が北方領土を返すわけがない。

 

「昨年8月。北海道根室市の祭りを訪ねた私は、馴染みの露天商と一緒に夜の街を歩いた。「フルカマップ」「水晶島」……。懐かしいスナックはどこもシャッターが下りていた。「南千島」というキャバレーもあった。「北海の大統領」と呼ばれた大物船主が経営していた店だった。

 

「昔は景気が良かったなあ」と露天商はいう。確かに飲みに行くと札束を懐に忍ばせた漁師によく会った。「今日は国後まで行ってカニさとってきた」。漁師が自慢げに話していたのを思い出す。悪びれた様子はなかった。

 

「あそこは、もともと俺たちの海。どこにどんな魚がいるかはみんな知っている」。そんな思いが強かったのだろう。

 

ロシアは日本漁船の操業に目を光らせ、違反があれば臨検や連行も辞さない。」

 

今ではロシアからカニなど買っているのでは。

 

「島の帰属をめぐって日ソ両政府の交渉が難航している今、立ち止まり、この北辺の町が歩んできた歴史を見つめ直したい」と、小泉信一記者は結んでいる。

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2020年6月22日 (月)

今のぼくの心の癒しは、台湾娘と会うことだ!

我が家の近くにカフエ「芳洋」がある。すぐそばをせせらぎが流れていて、そこにエビがにが生息している。そこのご主人が孫が小さかったときに連れていくと、ご主人が紐の先にイカの干物をつけて、エビがにをとってくれた。

 

その頃ご主人は台湾に足繁く通っていて、木彫りの木像を買い込んできて店に並べている。木像だでなく台湾は烏龍茶が美味しいそうで、買ってきて飲ませてくれた。

 

ご主人は脳梗塞で倒れられて、後遺症が残り、何を喋っているのか聞き取れない。今では奥さんがおいしいコーヒーを淹れてくれる。

 

ぼくは台湾には一度も行ったことはない。マニラとソウルには行ったことがあったが、今は泣き邱永漢さんと親しかったので、台湾の話はよく聞いていた。

下北沢の南口で降りて、南口商店街を下ってくると、右側に大きな「王将」がある。その筋向かいに間口一間ぐらいの小さな台湾タピオカ専門店下北沢店がオープンした。

 

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▲「王将」の筋向かいだ

 

この店、何軒もの店が開店しては潰れている店だ。タピオカってなんのことかと辞書を引いてみたら「熱帯さんのキャッサバという植物の根、茎から取れるデンプン」とある。

 

若い女の子がマスクをして一人で店番をしている。タピオカってどんなものかと思ってはいってみた。太いストローが容器についていて、黒い粒が底の方にいくつも沈んでいる。ストローが太いわけがわかった。太くないと黒い粒を吸い取れないからだ。

 

店の名前は「千禧茶」(SENKICHA)とある。その店の前を通って駅前のスーパーに買い物にいくのだが、一度しか入ったことのない店なのに、カウンターの中の女の子が手を振るではないか。

 

それから店の前を通る度に手を振るので入らないわけにいかない。その女の子、台湾の子で日本語がカタコトしか喋れない。喋れなくても目と目が合えば言葉はいらない。

 

何度か店に入るたびに女の子に親しみが湧いてきた。マスクを外してもらって写真を撮ったが、目が澄んでいて可愛い子だった。

 

お店の社長が考えたキャッチフレーズだそうだが「たとえ君の中で一番ではなくとも僕の中で君は一番なんだ」とある。頭の悪いぼくにはわかったような、わからない言葉だ。誰かこういう意味だということを教えてもらいたい。

 

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▲意味がよくわからない

 

このお店、北海道の札幌だとか、いろんなところに5軒もあるそうだ。下北沢って家賃が高い。それにも関わらず、潰れてもまたすぐに店を出す人がいる不思議な街だ。

 

新型コロナウイルスの感染を恐れて街へ出る人が少ない。このお店の売り上げもしれている。台湾のお金持ちが経営しているのだろうが、なんとか続けて欲しいものだ。

 

下北沢の商店街って道が狭いから、たくさん人が歩いているように見える。歩いている若者はあまりお金を持たない人たちだ。

 

大学生も宴会など今はしないのだろう。居酒屋の前に多くの若者たちがたむろしていた光景はひと昔も前のことだ。

 

利幅のある古着屋だけでも100軒は越すだろう。南口の商店街だけでも古着屋だらけだ。

 

女の子の前はりゅう・れいさんというそうだ。営業時間は12時〜19時まで。下北沢の街をあるいていても知ってる人に出会うことはない。88歳も長く生きていると、みんなこの世にいなくなっているからだ。

 

ぼくの心の癒しは、美しい目をしたりゅう・れいさんに会うことだけだ。

 

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▲目が美しいりゅう・れいさん

 

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2020年6月 6日 (土)

めだたない庶民の暮らしに目を向けて!

「あの酒場どうしているだろう」(4月24日朝刊)というタイトルで、朝日新聞の編集委員、小泉信一さんが長い記事を書いている。「文化的空間」「街の止まり木」に誠実な補償をともと「しばらくの間、休業します」と貼り紙をして店を閉じている、小さな酒場に小泉さんの目が。

 

小泉信一さんはめだたない庶民の暮らしにいつも目を向けている記者だ。30年以上も前のことだったろうか、朝日新聞が初めて新宿2丁目のこと、『薔薇族』のこと、ぼくのことを記事にしてくれた最初の記者だった。

 

それからのお付き合いで、先妻の舞踊家、ミカとの汽車の中での出会いから、33歳の若さで風呂場で酸欠死してしまったまでの15年の暮らしを書いた『裸の女房』を出版した時も、大きな記事にしてくれた。

 

16年前に『薔薇族』が廃刊になった時、『薔薇族』廃刊と朝日新聞に報じてくれて大反響をまきおこした記事を書いてくれたのも小泉信一記者だった。

 

小泉さんが『週刊朝日』に連載したエロ事師たちを書いた記事をまとめて一冊の本になった。朝日出版からの本なので社員だから印税はなしということだった。

 

書名もいつ出版記念会をやったのか、忘れてしまっている。築地の朝日新聞の本社の中のレストランでの祝う会で、早めに着いてしまったので、車内を見学させてくれた。

 

その椅子に座っている社員たちの数は多い。本社だけでも数千人はいるそうだ。こんなに多くの記者たちがいて、紙面に記事が載ることは月に一度でもあるのだろうか。

 

記者の数は2,300人でいいと思うけど、大きな組織を変えることは難しいようだ。そんな中で小泉さんは紙上に記事を多く書いている方なのだろう。

 

2020年4月28日の朝刊から始まって、「語るー人生の贈り物ー・厳しい今こそユーモアの底力を」と題して、演出家のテリー伊藤さんとのインタビュー記事を小泉さんが連載している。

 

10回で終わりだと思って、読後感を書いて送ってしまったら、小さく全15回と書いてあったのを見過ごしてしまった。

 

小泉さんの自宅の住所を知っているので、いつも記事を読むと読後感を送っている。そんな人いないだろうから、必ずお礼の電話をかけてくれる。

 

テリー伊藤さんって、いつもスタジオで帽子をかぶっている。ぼくが育った時代では、部屋の中では帽子を取るものだと教えられていたから、テリー伊藤さんの帽子姿は気になっていた。

 

テリー伊藤さんの帽子は、彼のトレードマークで何十種類も持っているそうだ。芸能人っていうのは、他の人と違ったファッションを心がけることが必要だから、テリー伊藤さんの帽子姿は理解できた。

 

ぼくは学生時代にアルバイトで、永福町にあった朝顔園で働いたことがあるだけで、社員のいない親父ひとりの「第二書房」でどこにも勤めたことがなく、今日に至ってしまった。

 

テリー伊藤さんが演出家としてテレビによく出演するようになるまでは、すし職人の見習いになったりと、苦労をしたようだ。

 

テリー伊藤さん、兄が3人、姉が1人とあるから、末っ子ではないだろうか。『薔薇族』的な目でみれば、お母さんはしっかりした人のようだし、母親とのかかわり合いは強かったのでは。

 

奥さんがいるのかは記事にはふれていないが、いるいないはとにかくとして、神経は繊細で心の優しい人ではないかと思われる。そして感性も豊かな人ではないかと。

 

コロナの記事と広告ばかりで読むところがない。小泉さんの記事には心が救われた。

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2020年5月30日 (土)

花田紀凱さん、ボケてきたか心配だ!

『月刊・Hanada』の編集長・花田紀凱さんとの出会いは古い。花田さんが週刊文春の記者だったころからだ。

1971年に『薔薇族』を創刊した時に取材に来てくれたのが最初だから、半世紀の歳月が流れている。

 

それからぼくは本を出すたんびに出版を祝う会をホテルで開いたが、いつもかかさず参加してくれた。

 

彩流社から出版した『やらないか』の出版を祝う会は、銀座に一軒だけ残っていた、キャバレー「白いばら」を借り切って、盛大に催したが、参加してスピーチをしてくれた。

 

いつまでも残しておきたいキャバレー「白いばら」は、建物が老朽化してきたというので、長い歴史に幕を閉じてしまった。ぼくらの年代には、忘れられない華やかなキャバレー「白いばら」。生バンドの演奏、訓練されたダンサーたちのショウと、楽しかった。

 

新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ人を多く集める集会はやめたほうがいいと、周りの者に言われたが、ぼくは2020年3月20日に、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく・文ちゃんの米寿を祝う会」を開くことにしてしまった。

 

チラシを息子の嫁に印刷してもらい、出欠を書くはがきを入れて、100人近い友人たちに発送した。なんと一番早く出席のはがきを送ってくれたのは、花田紀凱さんだった。

『リベラルタイム』に、花田さんは「盛大に行われた米寿を祝う会」と題して記事を書いてくれている。

 

「緊急事態宣言が出る前のことだが、三軒茶屋の東天紅で伊藤文学さんの傘寿を祝う会。

 

正論大賞パーティ、和田誠さんを偲ぶ会等、次々に中止になっているさなかだったが、開催されるというので出かけた。

 

案内をもらった時、出席の返事を出すと、伊藤さんからすぐにハガキが届いた。

 

(打てばひびくというけれど、こんなに早く出席のハガキが送られてくるとは。花田さんが一番先。うれしいな。スピーチの最初は花田さん、よろしく)

 

「ぼくは雑誌編集者としてたくさんの人に会ってきました。だけど伊藤さんくらい純粋な人は会ったことがない。この齢になっても、少年時代、青年時代の純粋さを失っていない稀有の人です。『薔薇族』という、当時は世間から後ろ指さされるような雑誌をこれだけ長く続けてきたのも(現在はネットのみ)伊藤さんの彼らを思う純粋な気持ちからでしょう」

 

ちょっと遅れたため一番最初とはいかなかったが、ぼくはこんな話から始めた。(中略)

 

会はオペラ歌手の北村哲朗んの朗々たる歌があり、LYLAさんとそのお弟子さんたちによるベリーダンスがあり、楽しい三時間であった。

 

「好きなことをして、この齢まで生きてこられた。そして今日、50人もの人が集まってくれました。ぼくは幸せ者です」

 

伊藤さんらしい謙虚なお礼の挨拶であった」

 

ほめられてうれしかったが、「傘寿」は80歳のお祝い、それと会場は「銀座アスター」を「東天紅」に。

 

花田さん、78歳。ぼくの女房と同じ齢だ。

 

ぼくの「傘寿」のお祝いの会は、銀座の「まじかな」で開き、花田さんもきてくれたではないか。ぼくのことを10歳も若いと思っての思い違いならいいのだが。「銀座アスター」より「東天紅」のほうが「格」が上の中華料理のお店ならそれもいいけれど?

 

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10歳ちがいの花田さんとぼく

 

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2020年5月23日 (土)

三軒茶屋はぼくの憩いの街だ!

昭和26年3月25日刊(1951年)の『現代詩鑑賞』大正期だけが書棚に残っていた。69年も前の本だから、悪い紙なので日に焼けて茶色く変色している。

 

ぼくがまだ駒沢大学に在学中の頃で、父親が企画したものだ。編集者に笹澤美明さんの名前がある。確か笹澤さんは、わが家からも歩いて20分ぐらいの池の上あたりに住んでいた。

 

当時の詩人たちは、みんな貧乏暮らしだった。親父がいくらぐらい印税を払っていたのかはわからないが、親父のことだから僅かの印税だろう。

 

ぼくはこの頃から親父の使い走りをsいていたので、ほとんどの詩人たちの家に、ゲラ刷りを持って行ったりしているので会っていた。

 

今はすべての人がこの世にいない。笹澤美明さんの息子さんは、後に流行作家になった笹澤佐保さん(1930・11・15〜2002・10・21)『木枯紋次郎』が代表作で、380冊もの本を出している。

 

お父さんは貧乏詩人で苦労をして息子さんを育てたのだろう。ぼくの妹から聞いた話だけど、笹澤美明さん、よく親父のところにお金を借りにきたそうだ。ケチな親父はお金を貸すわけがない。ぼくの母親が追いかけて行って、僅かばかりのお金や、お米などをあげていたそうだ。

 

朝9時からの「時代劇専門チャンネル」で笹澤佐保原作の「木枯紋次郎」が、しばらく放映されていた。主演は中村敦夫さん。左のほほに刀きずがあり、いつも長いようじをくわえている。なんでようじをくわえているのという質問には、たんなるくせだといつも答えている。

 

 

今、思い出せないが、名監督が演出、もしくは監修していての映像が美しい。ワンカットずつが絵になっていて見事だ。

 

いつまで続くことやら。新型コロナウイルスの感染騒ぎで、テレビも新聞も新型コロナウイルスの報道ばかり。新聞など読むところがないから、見出しだけしか見ていない。

 

そんなうっとうしい時代、年寄りは外に出るなと言う。狭い部屋にとじこもってばかりはいられない。

 

午前中は時代劇専門チャンネルのご厄介になって「木枯紋次郎」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」と見続けている。

 

今や江戸時代の長屋に住んでいるような気分になっていて、義理と人情に厚い長屋のおかみさんとも親しくなっていて世間話に夢中だ。

 

午後からはブログを2時間ぐらいかかって書き上げると、ポストに投函しに出かけ、バスはタダで乗れるので、三軒茶屋に出かける。

 

駒大に通っていた時代は、バスなんか走っていなかったから、砂利道を歩き、途中に両側に畠があって、その真ん中の細い道を通り抜けて、三軒茶屋の商店街に入ると僅かばかり。コンクリートで舗装されていた。

 

 

 ひとつ顔を思い描きて歩みゆく舗道に軟き部分を感ず

 

 

という短歌の作品を残したことがあったが、その頃は今のようなコンクリートで固められた舗道ではなかったので、ところどころ軟らかいところがあった。

 

小学校で1年下の阿部弥寿子さん、美しいセーラー服の高校生で、同じ道を通り、駒沢にあり駒大と同じ曹洞宗経営の駒沢学園に通っていた。たまに出会うと胸をわくわくさせて、あとをつけたものだ。

 

この三軒茶屋の商店街、ぼくが駒大に通っていた時代から残っている店が何軒かある。花屋さんもそうだし、楽器店のガラス越しに色の白い美しい奥さんの姿を見かけるのが楽しみだった。陶器屋さんもその当時と同じで、きちんと並べられていない。ごちゃごちゃに並んでいる。4年も通った三軒茶屋は忘れられない街だ。

 

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2020年4月20日 (月)

父を憎んでいるわけではない!

父、祷一にこんなやさしい面があったとは。祖父、伊藤冨士雄が救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教する団体)の将校として、苦界に苦しむお女郎さんを身体をはって、千人近くも廃業させた。

 

53歳でこの世をさった祖父、冨士雄の死を悼んでの「亡き父に捧ぐ」と題する原稿用紙7枚の手記だ。

 

岩手の山奥に育った無学の母親を馬鹿にして、浮気の限りを尽くしていた父。こんなやさしい面があったとは。

 

今でも忘れることはできない。父の母に対する暴力。父の気持ちも分からぬでもない。戦時中、1万円、2万円の生命保険をせっせとかけていたのに、敗戦後、貨幣価値が変わってしまって紙屑同然になってしまった。

 

郵便局の保険勧誘員のすすめで、母は簡易保険に入ってしまった。それを知った父は激怒、髪を掴んで引きずり回し、なぐる、けるの暴力。

 

母と一緒にもう窓口が閉まっていた郵便局の裏口から入って、契約を取り消してもらった。今でも忘れることはできない。そんな父が亡き祖父に捧げた手記。

 

「あなたのお写真と、あなたに対する哀悼の辞が、2、3の新聞紙上に出ました。

 

あなたの大好きな小さい弟(和平おじさん。ニューギニアで戦死、いや、餓死)は、『お父さんの写真だ』と言って、私や母の前にその新聞を広げました。私たちは新しい涙をその上に落とさねばならなかったのです。

 

父上、あなたは私たち兄弟のことを何よりもご心配になっていました。ことに一番小さい弟を愛しておられました。

 

そしてお馬になったり、お話をしたり、遊びになくてはならない相手でした。あなたをなくした弟の心はどんなでしょうか。

 

私はまだ何事も知らない、いたいけな弟をみるたびに涙なしではいられないのです。

 

父上、あなたは私のことをご心配になっておられました。私は行くzのない弱い人間です。卒業後の就職口について、私のために色々とお心にかけてくださいました。そしてA会社の課長さんをたずねられたり、M会社の知人にお頼みになったりして、八方に私のためにおつくしくださったのでした。

 

私はあなたの死後、そのことを知って心からありがたく思ったものでした。あなたは死を予期していたのです。きっとあなたは死が目前に迫っていることを知っていたのです。だからこそ私たち兄弟のために、ひとしお愛情をそそいでくれたのです。今、考えると感慨無量です。

 

父上、私があなたに恩返しもしないうちにあなたは、この世をお去りになりました。しかし、決してあなたは死んだのではないということを確信しています。あなたは一生涯を信仰によって神に奉仕なさいました。そしてあなたは凱歌をあげて、栄誉ある勝利者として神の膝元においでになったのです。

 

あなたの手によって、みじめな境遇に悩む数多くの女性を解放されました。ある人はあなたのことを「自廃の闘将」と言わしめました。またある人は「人道の戦士」だと言われました。いずれにしてもあなたは社会のためにおつくしになったのです。生命を恐れずに戦ったのです。

 

あなたは悲しみのどん底をさまよう、可憐な女性たちのために、何物をも惜しまなかったのです。(後略)」

 

父にこんなやさしい気持ちがあったのか。空々しく聞こえる。母が肺病で入院している時も、一度も見舞いに行かなかった。妹が心臓病の手術で入院している時も、一度も病院に行かなかった。父が亡くなった時、ぼくは、ああ、死んだかと思っただけだ。

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2020年4月11日 (土)

ころんでもけがをしないは、うそだった!

昨年のことだが、世田谷学園(母校)の柔道部が創部百周年の立派な記念の本を出した。柔道部の同窓会の会長さんにたまたま出会って、エッセイを書いてくれと頼まれてしまった。

 

戦時中のことだ。中学1年生の時、講堂館の7段か8段の花桐先生にわずかばかりだが柔道の受け身を習ったことがあった。そのおかげで歳をとってから3回転んだことがあったが、花桐先生に受け身を教えてもらったおかげでけがひとつしなかったという話を書いたことがある。

 

それは嘘っぱちで、ただ運が良くてけがをしなかっただけのことだ。88歳の米寿を祝う会を三軒茶屋の銀座アスターで開き、この新型コロナウイルス騒ぎの中で、50人ものひとたちが参加してくれてよろこんでいた束の間、長いこと前立腺肥大で、夜トイレに4、5回起きることが数年続いている。もうなれっこになっていて、トイレも近いし、それほど気にはしないのだが、少しでも睡眠時間を長くしようと思って睡眠薬をかかりつけの医師から処方してもらっているのだが、少しの間は効果があるが、しばらくすると切れてしまう。

 

何日か前に強い睡眠薬を出してもらった。それを飲んだら効果がありすぎて、翌日、ぼうっとしてふらふら状態に。3度も転んでしまった。

 

1度目は下北沢の駅前のスーパーに買い物に行って、帰りに座れるところが店の前にあるので、座ろうとしたら、ふらふらとよろけて倒れてしまった。起き上がることができない。幸い人が多いところだから、親切な若者が手を引っ張って立ち上がらせてくれた。日本はまだまだ親切な人がいる。ありがたかった。中国では人が倒れていても誰も知らんふりしていると新聞で読んだことがあるから。

 

その日は我が家で2度も転んでしまったが、今度大学に入学する男の子の孫が助けてくれて、けがもなかった。

 

頭を打ったらしくて、左の頭を指で触ると、はれてもいるようで指で押すと痛い。どこで転んで、どんなふうに頭を打ったのか、まったく記憶がない。

 

88歳まで生きて来て健康でいられるので、みんなに羨ましがられるが、耳は聞こえなくなるし、足腰も弱って杖をついてやっと歩いている始末だ。でも生きていることはたしかだ。周りを見渡せば、みんなあの世に旅立ってしまっているのだから。

 

ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村(人口8千人)に、平成5年に「ロマンの泉美術館」をオープンさせた。

 

フランス、イギリスの家具や、照明器具を使い、ぼくの美意識、感性を集大成させた美術館だ。長くは続けられなかったが、多くの人たちを楽しませることはできた。美術館に何度も来てくれた新潟県知事の平山征夫さんが、米寿を迎えたぼくにお祝いの手紙を送ってくれた。

 

「一生懸命生きて来たご褒美だと思います。『薔薇族』という道の真ん中を歩けなかった人たちに優しい目を向けられて来たご褒美でしょう。年月は残酷ですから、誰にも死をもたらしますが、伊藤さんについてはずっと先にしてもらって、もう少し人生をエンジョイしてください。それだけの価値のある人生を送ってこられた人に対する神の配慮をと願っています。」

 

今は平山征夫さん、引退されているがありがたい言葉なので、祝う会の冒頭に息子の嫁の知恵さんが司会の役をやっていて読み上げてくれた。

 

ついに今日我が家の前で転んでしまい立ち上がれなくなっていたのを通りがかった若者が助けてくれた。初めてひたいに傷を負ったが、軽くて済んだ。脇腹も押すと痛い。気をつけて歩かなくては。

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2020年3月14日 (土)

70代横綱・日馬富士さんって立派な人だ!

第70代横綱、日馬富士さんのことなど、次から次へといろんな事件が起こるので覚えている人は少ないだろう。
 
東京の新聞やテレビでは全く報道されていないが、女房の古里、新潟県弥彦村の隣の街、三條市(昔から刃物造りで有名な街、ノーベル賞授賞式の宴会で使われるナイフやフォークは三條の工場で作られている)の新聞「三條新聞」には、日馬富士さんのことが何度も一面をさいて報道されている。
 
日馬富士さんの古里、モンゴルと新潟県三條市、弥彦村との交流は長く、弥彦村の小学生10人ほどが村長や校長に連れられて、毎年モンゴルを訪れ、またモンゴルの子供たちも弥彦村を訪れている。
 
2020年2月16日の三條新聞には、「日本とモンゴル架け橋の学校へ」と題して一面を使い大きな記事になっている。
 
「故郷モンゴルで日本式教育を取り入れた学校づくりに取り組む大70代横綱日馬富士公平さん(35)が、14、15の一泊二日で新潟県を訪問。
 
15日は午前11時から弥彦神社で交流会が開かれ、後援会関係者、ファンなど約70人が集まる中、日馬富士さんは『これから全身全霊で、まっすぐ前向きにがんばっていくので応援をお願いします』と、日本とモンゴルの架け橋となる学校づくりへの協力を呼びかけた」とある。
 
すでに日馬富士さんは現役時代から、モンゴルに日本式教育を取り入れた学校づくりに取組み、平成30年に首都、ウランバートルに小中校一貫校「新モンゴル日馬富士学園」を創立し、理事長に就任している。
 
日馬富士学園では、日本に感謝する気持ち、ものを大切にする心を育てるとともに、日本とモンゴルの架け橋になってもらおうと、三条市などで廃校になった学校で使っていた机や椅子などの学校用品を集めてもらい、自費でモンゴルに送っている。
 
今年9月の新学期には、児童生徒数は1千800人になり、あと500の机、椅子が必要となるので、日馬富士さんの後援会に協力を呼びかけている。
 
日馬富士さんは、後援者の集まりの会で、こんなことを話した。
 
「児童生徒数1千百78人という現在の学校の様子については、5年前には相撲道で学んだ礼儀、道徳をモンゴルの子供達に教えたちという夢を持ち、おかげさまで2年前に日馬富士学園をオープンできた。
 
最初、子供たちは『おはようございます』というあいさつになかなかなれなかったが、今はきちっとあいさつするようになった。
 
子供たちに何を学んだか、何が変わったかと聞いたら、すぐに礼をする癖がついたという。
 
制服を着ているから行儀を良くしないといけない。ゴミが落ちていたら拾って捨てるということを、誰にも言われなくてもできるようになった。
 
勉強というより人間性。正しいことを自分で判断できるようになって、自分が変わったような気がすると子供たちは言っている」と、日馬富士さんは後援者の前で報告した。
 
私利私欲ことしか考えない、日本の議員さんに聴かせたい話ではないか。かつての日本人はみんなこんな気持ちを持っていたのに、日馬富士さんの話を聞いて恥ずかしい気持ちになってくる。
 
日馬富士さんは、30人ぐらいモンゴルの子供たちが日本の大学に入りたいという。その前に新潟に来て、日本の素晴らしさを見せたら本当に頑張るのではと。日馬富士さんって立派な人だ。日本の今は暗い。ぱっと明るくしたいものだ。

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