2018年5月21日 (月)

内藤ルネさん、藤田竜さんのこと忘れないよ!

『薔薇族』の創刊以来のスタッフは、86歳のぼくひとりを残して、みんなこの世を去ってしまっている。
 
昭和の時代に『薔薇族』の読者が、どのようなことに悩み、どのように生きてきたかを語り部として、後の世の人に残しておきたい、そう思ってブログを書き続けている。
 
 
 
人間だれしも、ほめられればうれしいし、批判されれば気にするのは当然のことだ。
 
最近になってブログの終わりに「コメントをよろしく」と、つけ加えている。
 
そのためかコメントを書いてくれる人が、増えてきているのはうれしいことだ。
 
ぜひ、これからもコメントを書いてもらいたい。
 
どんなことを知りたいのか、こんなことを書いてもらいたいという要望があればありがたい。
 
 
 
ネットを触れないぼくは、百円ショップで購入した原稿用紙に4枚で1つの話をまとめている。
 
いつも次に何を書こうかと考えていることが、脳に刺激を与えてボケずにいられるのだろう。
 
自画自賛するわけではないが、読み返すと面白く、これからも書き続けなければという思いにさせられる。
 
 
 
おひとりのコメントに対して、弁解ではなく事実を書いておこう。
 
「雑誌『薔薇族』の全盛期の売れ行きは、年間で数億円?と推定します。永遠に続くものと誰でも思うでしょう。
実質編集長の藤田さんへも十分な利益の分配があったのか?は、多くの読者が興味ある永年の知りたいことです。」
 
というコメントだ。
 
 
 
内藤ルネさんと、藤田竜さんは、何十年も一緒に住み、ふたりで協力して、いろんなグッズを制作し、ひとときはその製品が街に溢れたことがあった。
 
千駄ヶ谷駅の近くの、部屋が何室もあるマンションに住み、最初に竜さんと出会った頃は、給料は200万もらっていると聞いたことがあった。
 
それが世の中が変わってきて、テレビの人気番組にまつわるグッズが現れるようになり、ルネさんの商品は影が薄くなってしまった。
 
バブルの時代に土地を売って、7億ものお金を手にしたが、世間知らずの竜さんは詐欺師に騙されて、7億なくし、その上、マンションまでとられてしまった。
 
 
 
その間、ぼくになんの相談もなく、マンションを出ることになって部屋を探したが、年とった男二人に部屋を貸してくれる不動産屋はなかった。
 
そこでやっと泣きついてきたので、ぼくの知人の不動産屋に頼んで、社員寮として、半分は会社が払い、半分は二人が払うようにして借り受けることができた。
 
膨大な彼らのコレクションは、ぼくの女房の兄の倉庫に十数年もタダで置いてもらった。
 
ぼくは修善寺に美術館を作ることには反対したが、これも誰にも相談せずに自宅兼美術館の建物を作り、オープンさせた。が、これも失敗に終わった。
 
 
 
すべてを無くした二人が美術館を建てられたのも、ぼくが二人にそれなりの給料を払っていたからだ。
 
雑誌づくりの名人だった竜さんだが、何か大きな足りないものがあったのでは……。
 
 
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2018年5月19日 (土)

ぼくが死んだら誰が記事にしてくれるのか?

いつの頃からか、最後のページを2ページも使って老眼鏡で見ても読めないくらいの小さな文字で、びっしりとその月の出来事などをぼくが書いている。
 
1986年11月号で、ルネさんの表紙絵だ。
 
 
 
「先日、朝早くから中年の夫婦が訪ねてこられた。末っ子の息子さんが高校3年生で17歳。
 
その息子さんのところへ知らない人から手紙がひんぱんに送られてくるので、開けてみてしまったのです。それでびっくりして編集部を訪ねてこられたのです。
 
元の原稿を調べてみたら、やはり18歳と書いてあるのです。未成年者は文通欄に載せないようにしているのは、このようなことになりかねないからです。
 
お父さんも温厚な方だからよかったものの、相手の人に怒鳴りこむお父さんもいるのです。
 
ぼくが書いた『薔薇族編集長奮戦記』をさしあげて、よく読むように言って、おひきとり願ったのですが、こんなときにこの本が役に立つのです。
 
 
 
この年齢のときには誰でも同性に目が向くことがあって、また異性に戻っていくのだということを、ご両親に希望をもたせたのですが、あまりにもショックを受けているご両親を見ていると、こちらまでガックリとくるのです。
 
男が好きだということは、悪いことではないという話をよくしてあげたのですが。」
 
 
 
また、こんなことも書いている。
 
 
 
「美しい娘さんを連れたお母さんが訪ねてこられた。
 
娘さんがお見合いをしたそうですが、相手の男性が何ヶ月かたつのに、手も握らないので変だというので、興信所に十何万円も出して調べさせたのだそうです。
 
商売とはいえ、よく調べたもので、はっきりと断定はしないものの、30何歳になるまで女性関係がまったくないのだから、疑われても仕方がありません。
 
ぼくは男性の味方をしないわけにいかないので、こうした女性が訪ねてくると、本当のところは困るのです。
 
まあ、興信所が調べあげてしまっているのだから、ぼくがとやかく言うまでもないのですが……。」
 
 
 
「編集室から」の裏のページには、藤田竜さんが1ページ使って「今月の裏話」を書いている。
 
「神戸のバー「豆」の多くのお客さんに愛された名物マスター、通称・大(おお)豆さんが、この夏のさなかに亡くなりました。食道がんでした。
 
弱音は、はかなかったそうですが、ものが食べづらいようで、少しずつ痩せてきたのだそうです。そして100日入院して、残念な結果になってしまいました。69歳でした。
 
とてもそんな年には見えない若々しさで、満員の店の中をニコニコして泳いでいたのに。
 
「豆」の7周年記念のパーティーを、新造の大型船を借りきって、瀬戸内海クルージングという派手やかで、楽しい形にしてくれた、去年のあの日と同じ日、奇しくもかっきり1年後の8月4日の夕方に亡くなったのです。
 
あの日、船の上で大豆さんは、ぼくに「息子たちにも店をもたせたし、もう自分は好きなことだけしていればいい」と、嬉しそうでした。
 
私生活と仕事でのよき相棒、通称・小(こ)豆ちゃんと知り合って十年あまり、充分しあわせな人生だったと言えるでしょう。
 
店は小豆ちゃんがひきついでいます。大豆さんには店が賑やかなのが何よりの供養になるのですから、一度でも行ったことのある人は、どうぞ、また行ってあげてください。
 
小豆ちゃんは、まだ死の実感がなくて、いつものように大豆さんが「おはよっさん」と現れるような気がしてならないと言っています。」
 
 
 
竜さんが亡くなって間もなく、養子にしたよっちゃんも亡くなってしまった。あわれ。
 
 
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2018年5月14日 (月)

死んでお金は、もっていかれない!

うらやましい老人の話が『薔薇族』1990年6月号に載っていた。
 
「若者とのセックスが命のこやし」と題して。
 
 
 
この老人は老後の小遣いにと建てたアパート(8室)の収入で楽に暮らしていると。
 
ぼくは美術館と別荘に、大金を投入して、すべてを失くしてしまった。
 
アパートなんてものでなく、マンションを建てられたろうに、今さら悔やんでもどうなるものでない。
 
 
 
この老人、73歳だそうだ。
 
「女房は3年前に天国へ行き、そのあとひとり暮らしをしています。息子も娘もそれぞれに独立していますので、たまに孫を連れてまいります。
 
ひとり暮らしの淋しさをまぎらわすため、スナックやバアで夜を過ごしています。
 
お酒が飲めない私は、若い人にビールや水割りをおごってやるのが生き甲斐です。
 
だから若い人たちから「お父さん」「パパ」と呼ばれ大切にしてもらっています。
 
 
 
フィーリングの合った若者と、ホテルで一夜をともに過ごすこともあります。
 
ただし、特定の人をつくらないように心がけているのです。
 
それは二度、三度と交際しているうちに情が移り、先方も甘えが出てくるからです。
 
 
 
この3年間に若者に貸した金は、百万円を超えたでしょう。
 
決してその金を惜しいと思ってはいません。
 
だってそうでしょう。73歳の老人のお相手をしてくれたんですもの。
 
たとえ一夜のおとぎでも、そこには愛があるんです。
 
 
 
あくる朝になって別れるとき、小遣いがほしいとねだる者には、その夜のサービスを思い出して、それなりに、A、B、Cのランクに分けて金をあげています。
 
3万円、2万円、1万円と……。
 
たとえひと時でも、SEXのときは真剣に愛してくれなくてはいやなのです。
 
 
 
でもなかには、正直にちゃんと返してくれる若者もいます。
 
そんなとき私は、
 
「あげるつもりだったんだよ。お金は余分にあっても邪魔にならないからとっておきなさいよ」
 
と言ってやるんです。
 
 
 
そういう若者にかぎって、私を心から慕い、尊敬の念すら持っていてくれるんです。
 
「人生の先輩として、いろいろお話するのが楽しみです」なんて、泣かせるセリフを言う若者もなかにはいます。
 
 
 
とにかく若者が老人と一緒に、楽しく遊んでくれるんですもの、その代償として多少の出費は仕方ありません。
 
ただ、毅然とした態度をとらないと、それこそケツの穴まで何とやらになりかねません。
 
 
 
あと何年生きられるかわからないのです。
 
たとえにもある通り、度を越さない程度の遊びをし、体力を考えて過度なSEXはつつしむことです。
 
若者が楽しむのを見ながら愛撫してやって、若い白い液を飛ばすのを見ているのも、けっこう若返りの薬になっています。
 
 
 
人はよく私のことを10歳は若く見えますと、お世辞を言いますが、それもこれも若者とのSEXが生命のこやしになっていることは事実です。
 
「俺のチ◯ポは、もう小便するホース」なんてのたまう老人が多いですが、この世界に生きている老人は、みんな若々しくて色つやがよい人ばかりです。
 
バアへ行っても考えてみればそうですよね。
 
家でテレビばかり見ている人々と、夜の街をハントする目的をもって歩いている人とでは違うのが、あたりまえですよね。」
 
 
 
もっと早くこの老人の投稿を読むべきだった。
 
読者の老人の中でも優等生、こんな人ばかりはいないのでは。
 
ああ、美術館なんて作らずにマンションを建てるべきだった。
 
もう、おそいか。
 
A
倉庫と化している別荘
 
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2018年5月12日 (土)

「文ちゃんと語る会」を再開します!

2018年4月21日(土)の「文ちゃんと語る会」は、5、6人しか集まらなかったが、その日はNHK名古屋支局が、同性愛の歴史を特集する番組づくりのため取材に来てくれた。
 
カメラに映されるのは困ると言うかと思ったら、みんなが「いいですよ」と承諾してくれた。ありがたいことだ。
 
会が終わってわが家への帰り道、杖をついてとぼとぼ歩いているうちに、「文ちゃんと語る会」は、今日限りでやめようという思いが強くなってきた。
 
確かに長いこと続けてきたし、『薔薇族』を毎月出していた頃と違って、読者が訪ねてきたり、ひっきりなしにかかってきた電話もなければ手紙も来ない。
 
話すこともなくなってきたから、やめどきかなと……。
 
 
 
1971年に『薔薇族』を創刊してからなんと47年にもなる。
 
創刊当時から雑誌づくりに関わってきた人は、みんなあの世に旅立ってしまい、生きているのは86歳になるぼくしかいない。
 
昭和の時代のゲイの人たちを語れるのはぼくしかいなくなっているではないか。
 
そう考えると、なんとしても「文ちゃんと語る会」は続けなければという思いが強くなってきた。
 
 
 
最近、ブログの文章の終わりに「コメントをよろしく」と付け加えている。
 
ブログを書くことが、ぼくの生き甲斐なのだから、読んでくれた人が、よかったとか、面白くなかったとかいうことは、問題ではないと思うものの、人間だれでもほめてくれればうれしいものだ。
 
「文ちゃんと語る会」を閉じるというぼくのブログを読んで、くろまめさんと名乗る20代の女性が、ひとりだけコメントしてくれていた。
 
 
 
「初めて投稿します。
昨年新宿二丁目のことを調べていた時に伊藤文學さんのことを知って、「文ちゃんと語る会」に参加したいと思ったものの、20代の女子一人で参加してもよいものだろうか…と躊躇していたところでした。思い立ったが吉日で参加すればよかったです。
機会があればぜひ文學さんのお話を伺いたいです!」
 
 
 
確かに若い女性が参加してくれると、ぼくのおしゃべりは熱をおびてくる。
 
男性ばかりだと力の入らないおしゃべりに。
 
これは意識しているわけでなく、自然とそうなってしまう。
 
20代の女性がひとりでは参加しにくいと言われるが、今までに多くの若い女性が参加している。
 
ぼくは『薔薇族』を出していた頃、どんな人が訪ねてきても、わけへだてなく応対してきた。それは今でも変わらない。
 
高齢になってくると、初対面の人と出会っておしゃべりすることが、脳を活性化させ、ボケない理由になるようだ。
 
初対面の人が20代の女性だったら、なおさらのことだ。
 
 
 
ぼくが30代のころ、19歳の女性、看護婦さんだが、恋に落ちたことがある。
 
それは86歳になっても若い女性が好きなことは今でも変わらない。
 
下北沢の街は若者の街だ。街を歩いている若い女性に目が向いてしまうのは自然のことだ。
 
若い頃から若い女性の胸の谷間を見るとわくわくしてくる。
 
今日はくもり空だが、下北沢の街へ行ってみるか。
 
Img_3335
若い女性っていいな。駒大の同窓会で
 
くろまめさんのコメントを読んだから、語る会を続けようと思いついたわけではないが、6月30日(土)午前11時から、カフエ「織部」で、「文ちゃんと語る会」を催します。
 
ぜひ、ぜひ、ご参加を!
 
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2018年4月30日 (月)

大切なのは胸にいつもバラを飾るってこと!  ―歌手、クミコさんとの長いお付き合いを―

福島県の石巻に演奏会があって、その準備中に大津波に襲われた時、高台に逃れて命は助かったが、衣装などはすべて海に流されてしまった。
 
「クミコ」の芸名での歌手をどのくらいの人が知っているだろうか? 紅白歌合戦にも一度だけ出演したことがある。
 
デビューした頃は、シャンソン歌手としてだったと思う。どんなご縁で「クミコ」と知り合ったのかは忘れてしまっているが、パーティー好きのぼくが、出版を祝う会を新宿の京王プラザホテルで開いた折に招いて歌ってもらったのが、30数年も前のことだ。
 
「クミコ」がまだ名前が売れていなかった時代に、下北沢のカフエ「イカール館」には何度も招いたことがあったし、新潟県弥彦村にオープンさせた「ロマンの泉美術館」にも招いたことがあった。
 
その頃の恩義を感じているのだろう。ぼくが80歳の誕生日を迎えたとき、友人が経営する銀座のバア「まじかな」で、お祝いの会を開いた折にも、かけつけてくれて「百万本のバラ」を歌ってくれた。
 
2009年の『クロワッサン』9月号に、連載エッセイ・23に「袖ふれあうもシャンソンの縁」というタイトルで、ぼくとのお付き合いを書いてくれている。
 
 
 
「なんだかやたら景気の良い時代だった。本も雑誌もちゃんと売れた時代だった。だからその創刊何周年だかのパーティーには、大勢の人が押しかけ、大きなホテルの会場は、飲んで食べて嗤う、オメデトウの客たちが雑踏のように溢れ、その騒音の中、ステージに呼ばれて唄わされたのが「バラが咲いた」。
 
なんでバラなのか。並べてある本はと見れば『薔薇族』。初めて見るオトコとオトコの愛の雑誌だった。
 
編集長の伊藤文学さんとのお付き合いはこうして始まった。
 
 
 
「クミコさんの活躍ぶりはすさまじく、当方は落日のようです。」
 
こんな年賀状が来たのが5年前。そのうち差し出した住所が、マンションの一室に変わった。苦しい時代に入っていた。
 
その文学さんが最近またパーティーを開いた。根っからのパーティー好きな人で、今回は38年前に亡くなった前の女房との壮絶な暮らしを書いた『裸の女房』の出版記念会。
 
この女性、前衛舞踏家だったそうで、今の女房が許してくれたんでと、汗をかきかき挨拶をする文学さんを遠目に、私の隣に座る今の女房が言う。
 
「アタシ出たくなかったんだ、こんなパーティー。
 
だって前のオンナの話だよ、まったくやんなっちゃうよ」
 
 
 
相変わらずの、この夫婦。嬉しくなってくる。
 
 
 
「アタシさ、他人(ひと)と話せなくなったんだ。一歩も外に出られなくなってさ。だってちっちゃなマンションの部屋だよ、それまでは3階建てのビルだったんだからね」
 
(中略)
 
古着と称して780円のシャツを着ていても、なぜかブランド品に見える。つくづく徳のある人なのだなあと思う。
 
 
 
「クミコさん、何か唄ってくれる。」
 
パーティーでの突然のご指名。
 
ちなみにこの日のパーティー会場は「白いバラ」(今はない)。
 
銀座に残るキャバレーの老舗。その昔「2・26事件」の前夜、将校たちがここで酒盃を重ねたという伝説を持つ。
 
 
 
バラってすごいな、なんだかそう思う。文学さんにとってバラは希望の象徴なんだろう。
 
そしてこの「バラはあこがれ。」ペコーの曲で一番好きな歌。
 
大切なのは胸にいつもバラを飾るってことなんだ。」
 
 
 
クミコさん、頑張って演奏活動を続けている。
 
クミコさんがこのエッセイを書いてから早9年の歳月が過ぎている。早いな。ぼくもこれからもうひと花咲かせなければ……。
 
B
娘のようなクミコさん
 
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2018年4月27日 (金)

内藤ルネさん、ご自分の死を予知していた?

立派な西洋館の別荘を、女房の古里新潟県弥彦村(人口8000人ぐらい)に、兄の住んでいる家のすぐそば(土地は兄のもの)に、建ててしまった。
 
車が運転できた頃は、どれだけ弥彦に行ったことか。高速道路が完成しない前は、三国峠を越えてのことだから、10時間近い時間がかかってしまった。
 
同じ弥彦村に平成5年、「ロマンの泉美術館」をオープンさせた。新潟に住む詩人の松井郁子さんが、こんな文章を寄せてくれた。
 
 
 
「―なぜ、こんなところに建物が?―
 
私は目を見張り、息をのんだ。足が震えるような驚きだった。
 
12月の風は身を切るように冷たい。その風が雲を追い払うと、月が煌々と美術館を照らし出した。
 
屋根の上の風見鶏、少女のブロンズ、ステンドグラス……私の深いところから熱いものがこみ上げてきた。自分の住む世界をようやく見つけたような、長い間、待っていたものに巡り逢えたような、そんな歓びと感動だった。」
 
 
 
『薔薇族』を創刊させたことで知り合った、美輪明宏さん、内藤ルネさんなど、多くの人と出会ったことで、自然とぼくの美意識や感性が磨かれたような気がする。「ロマンの泉美術館」は、その集大成だと思っている。
 
その「ロマンの泉美術館」が何年も閉じたままで廃墟になり、別荘は物置になって、車の運転をやめた今では、他人さまにお願いして、レンタカーを借り、日帰りで行くしかなくなってしまった。
 
 
 
4月の15日(日)、息子の友人の今田君、バスの運転手を15年もしている、安全運転が身についている人が、朝6時出発でぼくの女房とを乗せて東京を出発した。
 
その日は最悪の天候で、雨だけでなく、風も強い。弥彦村まで350キロ、安全運転で5時間かけて弥彦村に着いた。ずっと雨の中を走ったが、弥彦村は雨がやんでいた。
 
別荘はあちこちが痛んでいる。まだダンボールが山積みで、それをひとつ、ひとつ開いてお宝が出てこないか探し出すのが、ぼくの仕事。女房は実家で兄夫婦としばらくぶりの出会いでおしゃべりに。
 
今田君は内藤ルネさんが『薔薇族』の表紙絵を描いたものを探し出して、持ち帰り、オークションに出すために選び出す。
 
ルネさんの表紙絵は若い人に人気があり、NHKのテレビを見て、中身も見てみたいという若者が多かった。
 
まもなくネットのオークションに出すので、そのときは高値で買ってもらえれば幸いだ。
 
 
 
ダンボールの中から、ルネさんのぼくあての葉書を1枚見つけ出した。
 
7億ものお金を詐欺師に取られ、その上、マンションにまで住めなくなったルネさん。
 
修善寺に人形美術館を建てて移り住んだものの、お客は来ず、失意のどん底にいた頃だろう。
 
上野にあった「メディアソフト」という出版社が『薔薇族』を復刊させる前のようだ。
 
 
 
「中原淳一先生は、晩年に『女の部屋』というマガジンを出して、大失敗をしてスッテンテンになったようです。
 
文学さま、自分で本を出版するならともかくも、いったん他社で出版されたら、こちらの意見は2の次になります」(その通りになってしまった)
 
ぼくが『裸の女房」 (彩流社刊)を出版する直前で、ゲラを今から読みます。ドキドキですよ。と。
 
「このあとどれだけ生きていられるか? いろいろと私自身考えさせられることが多いです。」
 
 
 
ルネさん、一番つらいときで、死ぬときのことを予知していたのでは…。
 
A
内藤ルネさん2007年10月24日
享年74歳
この葉書は亡くなる1年前のものだ
 
 
★コメントをぜひ

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2018年4月21日 (土)

父の女狂いで『薔薇族』は誕生した!

ぼくはネットをいじれないので、いろんな昭和の出来事を調べることはできない。頼りにしてるのは、毎日新聞社刊の『毎日ムック戦後50年』(1995年3月25日刊)だ。
 
何度も何度も見ているので、カバアはボロボロになっている。
 
嬉しいことに、『薔薇族』創刊が載っていて、創刊号の写真までも。どれだけ雑誌が創刊されたか知らないが、載っているのは超有名な雑誌だけだ。
 
1971年には、新宿の京王プラザホテルが開業し、日本マクドナルド第1号が銀座三越の1階にオープンしている。
 
今から47年も前のことで、僕が39歳の時だ。
 
『薔薇族』が創刊される20年も前に、会員制の雑誌『アドニス』が、大阪では『同好』などで出版されていたが、発行元の住所、発行者の氏名なども載っていない非合法の部数の少ない雑誌だった。
 
ここから書くことは、あまり公にしたくない話だが、後世の研究者のために、嘘、偽りのない本当のことを書き残しておきたい。
 
その前に今の若い人たちは知らない、戦後日本の時代背景を書かなければならないが、とても短い文章では表現できない。
 
 
 
昭和41年(1966年)に、秋山正美さんの『ひとりぼっちの性生活』を刊行してからわが第二書房(社員は給料なしのぼくだけ)の刊行物は、ガラッと変わってしまった。
 
日本の時代背景は、毎日ムックを時代ごとに見てきても、とっても同性愛の人たちのことなど、マスコミでもタブーだし、隠花植物と言われていたように、世間の人たちも同性愛の人たちのことを異常性愛(辞書にもそう記されていた)だと思い、自らも異常だと思っていた。
 
第一書房は軍部の圧力で、自由に出版活動ができなくなってきたことを理由に、終戦の前の年に、社長が会社を解散してしまった。
 
その後、父は何社かの出版社で働いていたが、昭和23年に株式会社第二書房を設立した。
 
ぼくが駒沢大学に入学した年だが、姉1人と妹2人で、男はぼく1人。
 
父の出版の仕事を手伝わされるのは当然のことだ。
 
そのまま大学を出ても、どこにも勤めず、ずっと出版の仕事を続けることになってしまった。
 
 
 
処女出版に、吉田絃二郎という戦前から戦後にかけて、流行作家で女学校の教科書にまで載っている作家の妻の看病にあけてくれた手記を『夜や秋や日記』と題して出版した。
 
吉田さんは1956年4月21日(昭和31年)にパーキンソン氏病の手術を受けたが失敗し亡くなってしまった。
 
吉田さんには、2人の女中さんがいた。山形の貧しい農家の娘で、おはるさんが15歳の頃に紹介する人がいて、吉田さんの家の女中さんになった。
 
吉田さんは妻思いの人ということだったが、奥さんの生存中から、おはるさんと男と女の関係になっていた。
 
吉田さんには妹さんなどもいたのにかかわらず遺言を残して全ての財産が、おはるさんのものになってしまった。
 
美談としてマスコミは書き立てたが、実際はそうではなかった。亡くなったあとの諸々の仕事を父がやったようだが、驚くべきことに、今度は父と女中のおはるさんが男と女の関係になってしまった。
 
父は出版の仕事をぼくに任せて、女のところに通い続けるようになったので、ぼくひとりの決断で、本を出せた。
 
父がもし仕事を続けていたら、『薔薇族』は出せなかった。
 
父の女狂いが『薔薇族』を誕生させたということだ。
 
 
 
『風俗奇譚』『奇譚クラブ』などは、取次店(本の問屋)が扱わなかった。
 
社員がぼく1人ということと、昭和23年に創業し、実績があったから、『薔薇族』を全国の書店に並べることができたのだ。
 
これはぼくの大きな功績だった。
 
親父さん、女狂いしてくれてありがとう。
 
同性愛の雑誌は、ぼくが出さなかったら、あと5年、10年は出なかったろう。
 
 
★コメント書いてくれてありがとう。
 
A
姉とぼく。かわいかった

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2018年4月16日 (月)

『文藝春秋』より厚くなった『薔薇族』

1998年(平成10年)1月号が創刊300号になる。
 
特別寄稿として、井沢満さん、宇野亜喜良さん、花田紀凱さんが、お祝いの言葉を寄せている。
 
なんと584ページの分厚い『薔薇族』だ。そのうち広告ページが220ページにもなる。表紙絵は内藤ルネさんだ。
 
 
 
この原稿を書き始めたときに電話が鳴って、大阪のアメリカ屋梅田店から、「ラブオイル」50本の注文だ。
 
雑誌は廃刊になってしまったけど、「ラブオイル」は今でも売れている。ありがたいことだ。
 
 
 
花田紀凱旋さん。随分と長いお付き合いだ。
 
現在は株式会社飛鳥新社から『月刊Hanada』の編集長、70歳をとうに過ぎているのに頑張っている。
 
「『薔薇族』を記事にして同性愛者の多さを実感」と題して、お祝いの言葉を寄せてくれた。
 
 
 
「3号雑誌という言葉がある。創刊後3号くらいで廃刊になる雑誌という意味だが、それくらい雑誌の経営は難しいという意を含んでいる。
 
300号、ざっと25年。
 
『薔薇族』がこんなに続くとは、正直、思っていなかった。
 
 
 
「今度『薔薇族』という雑誌を創刊するんですよ」
 
伊藤さんが、例のシャイな笑顔で、そう言ったとき、まさか、同性愛の雑誌とは思わなかった。
 
イカール(フランスの美女を描いた画家)を愛し、エクスリブリス(蔵書票のこと。自分の所有物だと、本の見返しに画家に頼んで、好みの絵を書いてもらい貼った)を愛する伊藤さんのことだから、美しい少女たちを対象にした雑誌、たとえば戦後まもないころ、中原淳一さんのsenseで圧倒的な人気を呼んだ『ひまわり』や『それいゆ』のような雑誌を連想した。
 
 
 
ところが伊藤さんは、同性愛の雑誌だという。
 
「そんなもの売れるんですか?」
 
今、思えばずいぶん失礼な質問をしたものだ。
 
その頃、ぼくは『週刊文春』の編集部にいたので、早速翌週号で短い記事にした。
 
その短い記事にたくさんの問い合わせがあった。
 
そうか、同性愛の人って、こんなにたくさんいるんだ。こんなに悩んでいるのか。
 
伊藤さんはいいところに目をつけたのかもしれないな。
 
 
 
ぼく自身は、皆目、そのケはないので、毎号『薔薇族』が送られてきても、人前では封を切りにくかったことを覚えている。
 
「伊藤さんも妙な雑誌を出すよね」
 
とか言いつつ、ハダカの男たちをチラチラ見る。
 
編集部の大机の上に置いておくと、みんな一度は手に取った。そしていつの間にか消えていた。
 
あの頃、編集部に、その趣味(趣味じゃないよ)の人間がきっといたのだろう。
 
 
 
いつの間にか『薔薇族』という言葉がそういう人たちの代名詞になった。
 
ひとつの雑誌が代名詞になるというのは大変なことである。『クロワッサン症候群』『ハナコ族』……。
 
後続の雑誌も何誌か出、200号記念号は「弁当箱」と呼ばれた『文藝春秋』より厚い雑誌を作った。
 
「とうとう日本一厚い雑誌を作りましたよ」
 
伊藤さんは嬉しそうだった。
 
今でも本屋の店頭で『薔薇族』を目にすると、ぼくはいつも伊藤さんの優しい笑顔を思い浮かべる。『薔薇族』は伊藤文学さんそのものである。」
 
 
 
先日、新宿から小田急線に乗ったら、初老の紳士がカバンの中から取り出して読み始めたのは『Hanada』ではないか。うれしかった。

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2018年4月 7日 (土)

ひとりで誕生日のお祝いを!

「原稿を書き上げました」という電話があり、その何ヶ月後に親族から、亡くなられたという知らせがあった。
 
芝山はじめさん、わが社から出版した、新書版の「ナイト・ブックス」の15。『365日しびれる本』富田英三さんの装画で、280円。昭和39年8月31日発行(1964年)だ。今から54年も前の本。
 
父が女狂いで、出版の仕事は、ぼくに任せきり。すべてぼくひとりで、著者との交渉から、営業までやって、月に1冊は必ず出していた。
 
著者の略歴を見ると、大正14年11月生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。株式会社東急文化会館に入社。東京ジャーナル、東急文化寄席支配人をへて、現在、ロードショウ劇場、渋谷東急支配人。東急文化寄席在任中。NETテレビ寄席。お笑い横丁などを企画した。
 
コントのほか「犬のくせ」「映画見物」などの新作落語も多数執筆している。
 
 
 
『薔薇族』には、「コント69」と、「江戸色男考」を長いこと連載してくれた。
 
「江戸色男考」は、貴重な研究で、批評社から3冊の本になっている。
 
最後にまとめられた原稿は、何を書かれたのだろうか。芝山さんも気がかりになっていただろうが、本になるのを見ずに亡くなられてしまった。
 
今の時代、よほど面白い原稿でないと、自費出版するしか本にはできない。
 
芝山さん、無念だったと思うが、ぼくの力ではどうにもならない。
 
芝山さん、痩せていて色白で、病的な感じのする方だったが、よくぞ長生きされたものだ。
 
娘さんが2人いたように記憶しているが、もうかなりのお年になってるのでは。
 
パーティ好きのぼくは『365日しびれる本』を出したときに、東急文化会館の宴会場で出版記念会をしてあげた。
 
芝山さん、お友だちもあまりいないようで、出席者は少なかったが、芝山さんが考えた新作落語を演じた、有名な落語家、桂米丸さんも出席してくれた。
 
奥さんと娘さんも出席してくれたが、お会いしたのはそのときだけで、お顔もまったく覚えていない。
 
『薔薇族』に協力してくれた人たちが、次から次へと、あの世へ行かれてしまう。なんとも寂しい話だ。
 
 
 
3月19日のぼくの86歳の誕生日。
 
身内の者は、何の関心ももってくれないが、宅配で、冷凍のうなぎが届けられた。昨年も贈ってくれた男性だ。
 
B
 
薔薇の花も送られてきた。読売新聞社発行の『The西洋骨董・アンティック』(昭和52年1977年)豪華なムックと呼ばれる雑誌で何号も出ている。41年も前だ。
 
執筆者のほとんどがゲイの人だ。西洋骨董を愛する美意識の高い人たち、彼女も若い頃、これらの雑誌に執筆していたので、担当編集者が紹介してくれたのだと思う。美しい女性だった。
 
ゴルフの道具?を販売する会社の社長さんと結婚されたとき、披露宴に招かれて出席したことを覚えている。その女性から薔薇の花が送られてきた。よく覚えていたものだ。
 
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ケーキも何人からか送られてきた。身内は無関心なので、スーパーの「おおぜき」の中に売り場を持つ、梅ヶ丘の美登利寿司から、900円のお寿司を買ってきて、ひとりで誕生日を祝った。
 
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NHKの番組に『薔薇族』の内藤ルネさんが描いた号が紹介され、ぼくも初めてNHKでおしゃべりすることができた。
 
今年はいいことがありそうな予感が!
 
 
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2018年4月 2日 (月)

慰安婦なんていらない人というものの!

軍隊生活を経験したことのある人は、90歳を超えている。
 
軍隊から復員して、それぞれの職場で働くようになった人たちが、軍隊時代の経験を投稿してくれている。
 
日本がアメリカなどの連合軍に負けて、無条件降伏したのが、昭和20年(1945年)の8月15日だ。
 
『薔薇族』が創刊されたのが、1971年(昭和46年)の7月のことだから、敗戦の年から26年後のことだ。
 
40歳で復員してきたとしても、66歳ぐらいだから、軍隊生活を投稿してきたとしても不思議ではない。
 
これは貴重な投稿と言える。
 
昭和49年(1974年)の7月号(No.18)創刊3周年の記念号で、藤田竜君が表紙絵を描いている。
 
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「僕は軍隊では進級の早い方であった。同兵は農家や漁師の者が多く、学校の先生などは珍しかったからに違いない。
 
たちまち伍長、軍曹と進んで、いつの間にか班長さんになってしまった。戦況も不利になってくると、次から次へと少年兵が補強されてきて、僕は初年兵教育に大童であった。
 
初年兵教育は普通3ヶ月と決まっているものの、こう戦況が悪化してくると、のんびりとしてはいられない。
 
1、2ヶ月教育してどんどん前線へ送り込むのである。兵隊が内地から送られてくると、まず内務班に持ち物を整頓させ、次に風呂に入れる。これが大変である。せまい浴場はごった返しだから、浴場で脱衣させていては、衣服を間違ったり、紛失したりで後が煩わしいため、真っ裸で浴場に行かせる。
 
 
 
「私物の整理の終わったものは、その前に立て。ただいまから入浴するが、浴場は混雑するから、裸になってゆく。まず衣服を脱げ」
 
こうして次々と脱がせ、最後にはたった1枚のパンツもとらせてしまうのである。
 
「軍隊は地方人と違うから、前を隠す必要はない。手ぬぐいは鉢巻にせよ」
 
真っ裸の若者たちは、外に出ると営庭の外れにある浴場まで駆け足である。浴室では、じゃが芋を洗うようにして、どうにか汗を流した兵隊たちは、また駆け足で内務班に戻る。
 
この間、班長の僕は外面は恐い顔を見せながら、内心はニタニタとして、イキの良い若者の裸を思う存分楽しむのである。
 
自分の身の回りを世話させる当番兵を決めるのも、たいていこうした時にするのである。僕はあまり体格のいい若者は好みでない。
 
どちらかというと小柄で、女性的な方がなんとなく安心感がある。征服するにもしやすいような気がする。
 
僕が決めた当番兵は、体こそ小柄だが、ペニスは一番大きな若者であった。
 
 
 
夕食後、下士官室に呼んで、当番兵の役目を教える。
 
食事を運ぶこと、衣服の洗濯と手入れ、それに就寝の準備。演習に出るとき以外は、もっぱら班長のことだけをしていれば良い。夜も班長が床に入ってから下士官室を去る。
 
僕はある夜、床に入りながら「当番兵は役がらとくに病気を持っては困る、お前はどこも悪いところはないか」と、聞いた。
 
「はい、ありません」
 
「どら、見せろ」
 
僕はまず目や、口の中をのぞいてから、だんだんと、胸、腹と検査していった。
 
「裸になってみろ」もじもじしている当番兵を僕は布団の上に倒して、「病気がうつると困るから、当番兵は皆こうして検査されるのだ」と言った。
 
 
 
消灯ラッパが鳴る。もう誰もくる心配はない。僕は灯りを消すと、兵隊を身近に抱き寄せて唇を吸い、ペニスを吸った。
 
兵隊は身をかたくしていたが、ペニスは山のように大きくなりピクピク動いた。
 
兵隊はときどき体をのけぞって苦しそうな声を出す。僕はその顔を僕の股ぐらで押さえつけて、兵隊が射精するまで吸い続けた。
 
ぐっと大きく膨張してくる。
 
そして「ウーン」とうなったまま、激しい勢いで射精する。
 
僕は兵隊のあふれるような精液を夢中で飲み干しながら腰を動かす。
 
そして兵隊の口の中に僕自身を果ててしまう。
 
兵隊はその日から毎日、僕と自分の下着を洗濯するのが、日課となってしまう。
 
初めは身をかたくしていた兵隊が、だんだん僕の愛撫に慣れてきて、自ら僕の精液を求めるようになると、決まって前線行きとなる。
 
僕は何度、こうしてひそかに当番兵と悲しい別れをしたことだろう。」
 
 
 
全文を載せてしまった。
 
ここに書かれた時代は、太平洋戦争が始まった頃のことだろう。
 
兵舎がちゃんとあって、そこで訓練して前線に送り込む。
 
それにしても実弾で銃を撃ったことのない兵隊が戦えるわけがない。
 
無謀な戦争をしたものだ。
 
 
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