2020年3月14日 (土)

70代横綱・日馬富士さんって立派な人だ!

第70代横綱、日馬富士さんのことなど、次から次へといろんな事件が起こるので覚えている人は少ないだろう。
 
東京の新聞やテレビでは全く報道されていないが、女房の古里、新潟県弥彦村の隣の街、三條市(昔から刃物造りで有名な街、ノーベル賞授賞式の宴会で使われるナイフやフォークは三條の工場で作られている)の新聞「三條新聞」には、日馬富士さんのことが何度も一面をさいて報道されている。
 
日馬富士さんの古里、モンゴルと新潟県三條市、弥彦村との交流は長く、弥彦村の小学生10人ほどが村長や校長に連れられて、毎年モンゴルを訪れ、またモンゴルの子供たちも弥彦村を訪れている。
 
2020年2月16日の三條新聞には、「日本とモンゴル架け橋の学校へ」と題して一面を使い大きな記事になっている。
 
「故郷モンゴルで日本式教育を取り入れた学校づくりに取り組む大70代横綱日馬富士公平さん(35)が、14、15の一泊二日で新潟県を訪問。
 
15日は午前11時から弥彦神社で交流会が開かれ、後援会関係者、ファンなど約70人が集まる中、日馬富士さんは『これから全身全霊で、まっすぐ前向きにがんばっていくので応援をお願いします』と、日本とモンゴルの架け橋となる学校づくりへの協力を呼びかけた」とある。
 
すでに日馬富士さんは現役時代から、モンゴルに日本式教育を取り入れた学校づくりに取組み、平成30年に首都、ウランバートルに小中校一貫校「新モンゴル日馬富士学園」を創立し、理事長に就任している。
 
日馬富士学園では、日本に感謝する気持ち、ものを大切にする心を育てるとともに、日本とモンゴルの架け橋になってもらおうと、三条市などで廃校になった学校で使っていた机や椅子などの学校用品を集めてもらい、自費でモンゴルに送っている。
 
今年9月の新学期には、児童生徒数は1千800人になり、あと500の机、椅子が必要となるので、日馬富士さんの後援会に協力を呼びかけている。
 
日馬富士さんは、後援者の集まりの会で、こんなことを話した。
 
「児童生徒数1千百78人という現在の学校の様子については、5年前には相撲道で学んだ礼儀、道徳をモンゴルの子供達に教えたちという夢を持ち、おかげさまで2年前に日馬富士学園をオープンできた。
 
最初、子供たちは『おはようございます』というあいさつになかなかなれなかったが、今はきちっとあいさつするようになった。
 
子供たちに何を学んだか、何が変わったかと聞いたら、すぐに礼をする癖がついたという。
 
制服を着ているから行儀を良くしないといけない。ゴミが落ちていたら拾って捨てるということを、誰にも言われなくてもできるようになった。
 
勉強というより人間性。正しいことを自分で判断できるようになって、自分が変わったような気がすると子供たちは言っている」と、日馬富士さんは後援者の前で報告した。
 
私利私欲ことしか考えない、日本の議員さんに聴かせたい話ではないか。かつての日本人はみんなこんな気持ちを持っていたのに、日馬富士さんの話を聞いて恥ずかしい気持ちになってくる。
 
日馬富士さんは、30人ぐらいモンゴルの子供たちが日本の大学に入りたいという。その前に新潟に来て、日本の素晴らしさを見せたら本当に頑張るのではと。日馬富士さんって立派な人だ。日本の今は暗い。ぱっと明るくしたいものだ。

| | コメント (0)

2020年3月 7日 (土)

「性的虐待」嫌な言葉をなくしたい!

「文ちゃんと語る会」を毎月開いている「器とコーヒーの店・織部下北沢店」には、会長の考えで店の風格を持たせるためか、朝日新聞と日本経済新聞をオープン以来置いている。
 
本当は毎日立ち寄って新聞を読みたいところだが、2、3日おきぐらいには、コーヒーをのみ、新聞を読むのが楽しみだ。
 
2020年2月19日の朝日新聞に驚くべき記事が載っていた。ニューヨーク在住の藤原学思記者が書いた記事だ。
 
ぼくが一番心配している少年愛者の恐るべき記事なので、書き写して持ち帰った。
 
当然のことで少年の好きな人は、少年に近づける仕事についている。何度も書いていることだが、趣味で少年を好きになった人はいない。もって生まれたものなのだ。
 
「ボーイズスカウト米連盟破産申請」という見出しの小さな記事で、「110年の歴史を誇る全米最大の青少年組織「ボーイスカウトアメリカ連盟」(BSA)が18日、連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を東部デラウェア州の裁判所に申請した。
 
青少年への性的虐待で数百件の訴訟を抱えており、今後も活動を続けながら、裁判所のもとで性的虐待の被害者に公平な支援や、補償を行うためとしている。
 
BSAは現在5〜21歳の青少年220万人と、ボランティア80万人で構成され、大統領経験者ら著名人も多く輩出。
 
これまで1億人以上が参加したが、2010年以降、その活動を通じた過去の性的虐待が広く取り沙汰されるようになった。
 
19年4月には委託を受けた外部の弁護士がBSA内の資料を精査した結果を公表。
 
1944年から2016年にかけ、加害者は7819人、被害者は1万2254人に上ったという。
 
米メディアによると、ニューヨークなど一部の州が性的虐待に関する提訴期限を一時的に撤廃したことなどから、BSAを相手取った訴訟が相次いだが、今回の破産申請で全ての手続きが止まることになる。
 
BSAはキャンプ場などに幅広い資産の売却によって、10億ドル(約1100億円)以上になるとみられる補償費用を捻出する見通しで、被害者は今後定められた期限内に破産裁判所に補償を申し出ることになるという。
 
青少年への性的虐待をめぐっては、ローマカトリック教会で長期間放置されたことが社会問題になり、米国の複数の管区が破産申請したほか、米体操連盟も所属医師による性的虐待を受けた選手に補償するため破産申請を受けている」
 
全文を引用してしまったが、朝日新聞はすごい新聞だ。このような記事を載せてもらったことはありがたいことだ。
 
アメリカは国が大きいこともあるが、少年愛者の加害者の数も、被害者の数の多さにも驚かされる。
 
日本にもボーイスカウトはある。ネットで調べられないから、その活動状況や、参加している指導者や、少年たちの数はわからない。
 
お祭のときなど交通整理をしたりしている制服姿の少年たちを見かけることはある。
 
アメリカは些細なことでも弁護士を使って相手を訴えることが多いと聞いたことがあるが、日本では被害者の少年たちも親や、先生に言わない子が多い。
 
ボーイスカウトの指導者が訴えられたという話は聞いたことはない。日本の弁護士さんは人数が多すぎるのか、訴えを起こす人が少ないのか、最近はひとりで事務所を持つ人が少なくなっている。
 
何度も言うようだが、「性的虐待」などという言葉はなくしたいものだ。

| | コメント (0)

2020年3月 2日 (月)

「白内障」の15分の手術中に見たもの!

友人の石塚冨士雄君の紹介で、2019年10月18日、渋谷区恵比寿南1-3-6 CIビル2F 電話(3793)8940
「角谷眼科医院」で診察を受けた。白内障が悪化しているので、手術をした方がいいと言われてしまった。
 
お母さんと娘さんが交代で診察していて、看護師さんも女性ばかり。待合室の調度品も女性らしい繊細さで、壁にかけられた油絵も、お花と果物。熱帯魚も目を楽しませてくれる。
 
長い間、手書きで300枚を越す年賀状を書き続けてきたのに、さすがに目が弱って疲れやすく書く気力がない。
 
令和2年は3月19日が誕生日で、「米寿」の年でもあり、令和の年号の名付親の中西進さんご夫妻の仲人で、久美子と結婚して50年にもなる。
 
すばらしい年賀状を作ろうと考えていたのに出せなかったので、伊藤文学はあの世に旅だったのかと思われたに違いない。
 
角谷眼科の紹介で港区北青山3-6-16表参道サンケイビル3F「表参道内科眼科」を訪れた。
 
「白内障日帰り手術のご案内」には、こう書かれている。
 
「人の目はカメラと同じような構造をしています。そのうちのレンズに相当する水晶体が濁るものを白内障といいます。
 
原因は加齢性白内障が最も多く、糖尿病など身体の病気に併発するもの、外傷性のもの薬剤性のものなど、さまざまの種類があります。」
 
ぼくの場合は加齢性白内障で、視力が低下してきたということだ。「表参道内科眼科」の利点は、内科の診察も行っているということだ。血液検査、心電図もとり、レントゲンで胸部の撮影もしてくれたが、まったく異常はなかった。
 
この病院は日帰り手術で、最新の超音波装置を用いて、約3ミリの小さな切開創から手術を行うので、以前の方法と比べて出血が少なく、術後の視力回復が早い。社会復帰が早期にできるといった利点がある。
 
手術をする医師は東邦病院の名誉教授で、ベテランの方だ。ぼくはまったく手術の不安はなく、医師を信頼して15分ほどで終わるという手術日を待つだけだ。
 
2月5日、左の目を先に手術し、一週間後の2月12日、右の目を手術するようだ。
 
渋谷までバスで行き、タクシーで表参道へ。わずか10分ほどのところだ。通りの向こうに長いこと週刊新潮の表紙絵を描いた谷内六郎さんのかわいい絵をタイルを使って壁に貼り付けた書店が見える。
 
書店が閉店してしまったのか、手術で行った時にはなんと写真の広告に変わっていた。いつまでも残しておきたかったのに。
 
手術着に着替えて帽子をかぶり手術台に。厚手の布を顔にかぶせられて、手術をする片方だけの目の部分が開いているようだ。
 
麻酔を目だけにかけているから痛みはない。医師が手術をしている15分に見たもの。大方の人は「万華鏡を見ているみたい」と言うそうだ。
 
ぼくはそうは思わなかった。万華鏡はいくつかの形の繰り返しで、それとは違う。最初はピンク色の映像で、ひとつの形にはなっていない。次から次へと形も変わり、色彩も変わっていく。抽象的な現代絵画を動画にしたようで、芸術的な世界だ。
 
こんな映像は2度と見られまい。動画にして残すことはできないのだろうか。終わる頃にはさまざまな色彩が出てきて。華麗な世界がくりひろげられていた。
 
術後、こんなによく見えるようになるとは驚きだ。よき医師に出会えてぼくは幸せ者だ。

| | コメント (0)

2020年2月29日 (土)

ご自由にお持ちください!

Img_5882

 

長さ20センチ、金属の真鍮銅と亜鉛との合金で作られたものだ。なんでこんなもの、どこで購入したのかも忘れてしまっている。
   
丸い輪っかが取り付けられているから、これは紐でぶらさげて、体につけていたものだろう。
 
何に使ったものかを今時の若者は知る由もない。こんなものを使って商売している人は今はいないから。
 
太平洋戦争が始まる前、ぼくが小学生のころは、いろんな物売りがいた。リアカーや、自転車の荷台に木箱をつけて、豆腐を売りにくる豆腐屋さんが、吹き鳴らすラッパなのだ。
 
ぷ〜うっと吹くと、すごい音が出る。その当時の家のガラス窓は、今の頑丈なガラス窓と違って室内にいても、外で吹き鳴らすぷ〜うっという音を聞き取れる。豆腐屋さんが来たなというのがすぐわかるから、お皿を持って外に出て豆腐屋さんに声をかける。
 
朝早く「なっとう、なっとう」と叫びながら、売り歩く納豆売りのおばさんや、少年もいた。わらに包まれた納豆だ。
 
新聞配達のおじさんは、巾の広いひもで重い新聞をかかえて、徒歩でくばっていたのだから大変な重労働だ。新聞を取っていない家なんてなかったから。我が家は朝日、読売、毎日、東京新聞と親父は購読していた。
 
新聞配達人は小気味いい、ピューっと音を出して、ポストに投げ入れる。あの音は今でも脳裏に残っているが、なんのためにピューっと新聞をしごいてポストに投げ入れたのか意味はわからない。かっこいいところを見せたかったのかも。
 
豆腐屋のラッパはおそらく町工場みたいなところで職人が手作りで作っていたのだろうが、よくできている。骨董屋で探しても今では見つけられないだろう。
 
ぼくは手許に寝るときも置いている。それは夜中にからだの具合が悪くなったりした時に吹き鳴らして、となりの部屋で寝ている女房に助けを求めるためだ。おかげさまでいびきはかくようだが、元気なので女房を呼ぶためにつかったことはまだない。
 
ぼくの住んでいる2階建の3LDKのマンションの家主さんは、江戸時代からこの地に住んでいる名主さんで、江戸時代に建てられた赤門は保存されていて、世田谷区の重要文化財に指定されている。見事な彫刻がほどかされていて見るものを圧倒させる。
 
近所の住宅はお金持ちが住んでいる。元総理大臣の竹下登さんの家もある。新築になったわが母校、代沢小学校から淡島通りへ抜ける道は裏通りで車は通るが、人通りは少ない。ぼくはその通りを歩いて、下北沢の駅前のスーパーオオゼキに買い物をかねて、運動のために杖をつきながら、通る人にみんな追い越されながらも、ゆっくり歩いている。
 
たまにだが玄関先にダンボールに入れられた不用品なのだろう、「ご自由にお持ちください」と張り紙がしてあって、いろいろなものが置かれていることがある。
 

Img_5883

 
そのなかから役に立ちそうなものを頂いてきて、机の上に載せている。時計はよく置き忘れることがあるので、腕からはずすとこのガラスの器に置くようにしている。
 
ガレーの作品の350万円もする花瓶を「なんでも鑑定団」に出品したりしたこともあるぼくが、なんという変わりようだと思うだろうが、こんな生活も楽しいものだ。
 
フリーマーケットで大きな貝殻をいくつも500円で買ったり、何百円かで珍しいものを見つけたりで、ぼくの机の上はお宝でいっぱいだ。

| | コメント (0)

2020年2月24日 (月)

みんなに支えられて「米寿」を迎えます!

株式会社サイゾーのお世話になって、ネットで見られる「薔薇族の人々」と題して、一編が400字詰原稿用紙4枚(1週間分)それを4編書いて、1ヶ月分、『薔薇族』を支えてくれた方々を紹介している。
 
原稿用紙に書き、写真をつけて編集者の方に郵送しているのだが、スマホは2、3年前に購入し持っているが、勉強嫌いのぼくには、ブログとツイッターは、やっと読むことができるようになったが、電話もかけられないし、写真も撮れない。ましてやメールなんてものを送ることも。
 
下北沢の商店街には、スマホを売る店が何件もあるが、最近開店した店で、使い方を教えますと書いた店がある。他社のものでもとあるので参加してみようと思いながら、その店の前を通るが、もうすでに何ヶ月か経っている。
 
思い出せば1971年4月ごろ、その頃はエロ本から秋山正美さんの『ひとりぼっちの性生活』から始まって、方向転換してゲイの本ばかり出す出版社になっていた。
 
父が女に夢中になって、仕事をぼくにまかせっきりになってしまったことが幸い?して次から次へとゲイの人向けの単行本を出し続けていた。
 
書店で買いにくいので、はるばると下北沢のわが家まで遠方から購入にこられるお客さんが多かった。それらの人たちから悩み事を聞き、雑誌を出すことを思い立った。
 
ゲイ向けの単行本の後書きに雑誌を出したいと書いたら、すぐに手紙が送られて来た。『風俗奇譚』にゲイ向けの小説を書いていた間宮浩さんだ。
 
その手紙は今も大切に保存している。間宮浩さんと一緒に『風俗奇譚』にエッセイなどを書いていた仲間の藤田竜さん。すぐに電話をかけて新宿でふたりに出会い、4月に出会って、7月に創刊号を出してしまったのだから、ぼくの決断力はすごい。
 
ふたりに出会わなかったら、雑誌作りの経験のないぼくひとりでは創刊できなかったろう。
 
ありがたいことにぼくは運が強く、多くの男絵師、小説家、多くの有能な読者に支えられて、382号までの30数年間、ゲイの歴史に残るような雑誌を出し続けることができた。『薔薇族』を支え続けてくれた人たちのことをネットに残しておきたいと書き続けているが、ぼくよりも若い人だったのに、みんな他界してしまっている。
 
伊藤さんはノンケだから、男と寝たことがないから、本当のことはわからないと言い続けた藤田竜さん。
 
間宮浩さん、怒った顔など見たことがない温厚ないつもスーツを着ていた方で、やさしい方だった。
 
胸に真っ赤な薔薇のいれずみをしていた三島剛さん。初めて会った日に、画集を出すことを快諾してくれた。
 
幻のSM作家、笹岡作治さん。日本のホモポルノ写真の草分けの大阪のオッチャン。
 
NHKのアナウンサーだった楯四郎さん。男写真の第一人者、波賀九郎さん。縛りの美学を貫き通した大川辰次さん。稚拙さとワイセツ感がよかった裸夢丸さん。
 
まだまだ、多くの人たち、また読者、書店に支えられて、ぼくだけ生き残って88歳。3月19日で「米寿」を迎えます。それと女房久美子と「令和」の名付親・中西進さんの仲人で結婚して50年。
 
3月20日(春分の日)のひる12時から「ふだん着の街、気さくな街」三軒茶屋の田園都市線「三軒茶屋駅」南口A出口前「銀座アスター」で、「文ちゃんの米寿を祝う会」を開きます。お酒も飲み放題、料理も最高。
 
本来なら会費1万円いただかないと開ないのですが、読者のおひとりが寄付をしてくれたので若い人にも来てもらいたいと、会費・3千円にします。くわしくはまたブログやツイッターに書きますが、3月20日を今から予定しておいてください。

| | コメント (0)

2020年2月10日 (月)

貝殻は建築家、生存を懸けて!

ぼくは東京新聞だけをずっと購読している。理由は購読料が一番安いということだが、安くたって記事は他紙にないような独特なものが多いからだ。
 
2020年1月21日の朝刊に「貝は建築家=生存懸け、多様な形」と見出しがある。

 

0_20200125102201


 
文・吉田薫、写真・安江実、紙面構成・安藤秀樹。
 
以前から貝について知りたかったことがくわしく書かれているので、引用させていただく。
 
ぼくが貝がらに興味をもつようになったのは、今は亡き澁澤龍彦さんの鎌倉の自宅を撮影した篠山紀信さんの写真集を見たときのことだ。
 
書棚には多くの本が並べられていて、その棚の空間にいくつもの大きな貝がらが置かれていた。なぜかその貝がらが、ぼくの脳裏から離れることはなかった。しかし、大きな貝がらってどこで売られているのか、ネットで調べることができないぼくには探しようがない。
 
昨年のことだったか、井の頭線の下北沢の次の駅、池之上の商店街で、フリーマーケットが開かれるというので行ってみた。
 
下北沢でもフリーマーケットは開かれるが出店する人が若い人がほとんどなので、ぼくが欲しいと思うようなものはあまり見当たらない。
 
池之上のフリーマーケットは、出店する人の中には年配の人が多い午後3時すぎだったろうか。その日はくもり空で、いつ雨が降ってきてもおかしくないような空模様だった。
 
ぽつぽつ雨が降り出してきたので、衣類を売っている人たちは片付けはじめていた。そんなときに台の上に、いくつもの大きな貝がらを並べている年配のおじさんがいたではないか。
 
「これいくらですか?」と聞いてみた。
 
「いくらでもいいよ。全部で500円にするよ」と、おじさんがいう。
 
「全部買いますよ」と言ったらビニール袋に入れてくれた。うれしかった。やっと大きな貝がらを5個も手にすることができて、永年の望みがかなえられたではないか。
 
東京新聞の見出しには、こんなことが書かれている。
 
「貝は自然界の建築家だ。自分で材料を作り出し、それを使って、ぐるぐる巻きだったり、細長く伸びたり、部屋がたくさんあったり、個性豊かな自分だけの「すみか」を構築する。そんな不思議な特別展示が、東京大学総合研究博物館小石川分館(文京区白山)で開かれている。
 
「貝の建築学」3月15日まで。文京区白山3−7−1の東京大学総合研究博物館小石川分館。10〜16時30分(入館は16時まで)。月曜から水曜までは休館。祝日は開館。入場無料。問い合わせは、ハローダイヤル 03(5777)8600へ」
 
貝って10万種あるといわれ、実に多様なんだそうだ。
 
貝がらのいちばんの役割は、敵から身を守ることにある。軟体動物である貝は、そのまま襲われたらひとたまりもない。
 
「切断面を拡大して観察すると、無数の結晶が規則正しく配列されている。建築に例えると、レンガやブロックに相当する部材を体内で生産し、多層に組み合わせて、こわれにくい構造をつくりあげているのです。」
 
佐々木准教授は語っている。
 
観覧者は、貝のコレクターだけでなく、建築やデザイン分野の人も目立つとあるが、ゲイの人も多いのではないか。
 
澁澤さんがどんな思いで、貝がらを集めたのか知るよしもないが、恐らく貝がらにロマンを感じたのでは。

| | コメント (0)

2020年1月20日 (月)

死んだ者は帰ってこない!

先妻のミカ(本名・君子)が風呂桶の中で酸欠死してから、2020年1月11日で50年になる。
 
2009年の6月に彩流社から、ミカとの出会いから事故死するまでを書いた『裸の女房』を出版することができた。
 
「死んだ者は帰ってこない」という小見出しでこんなことを書いている。
 
「1969年(昭和44年)の12月のことだ。幼稚園の年少組の5歳になる息子(文人・ミカの子供)は、おばあさん子で自宅からすぐ近くの森厳寺さんが運営している淡島幼稚園に通っていた。子供のことはおばあさんまかせで、何の心配もなかった。
 
1970年(昭和45年)の年が明けて最初の月曜日(1月4日)、その日からクラブ「スペース・カプセル」のショウの演目が変わって「雪女」だった。1回目のショウということでいくらかの不満な点があったのだろう。お弟子さんと二人で、真剣に明日の2度目のショウに備えて駄目押しをしていた。やっと終わってお弟子さんを車で自宅にまで送り届けて、さて風呂に入ろうということになった。ぼくはその日に限ってサウナに入ってきたので、「今日は風呂に入らないよ」と言って、ふとんに入って寝てしまった。」
 
その日は、わが家の第二書房の本を製本してくれている越後堂製本の社長の小林さんが、本の取次店の係長のI
さんを招待して、ぼくと3人で新宿のキャバレーに誘ってくれた。
 
キャバレーを出てから、Iさんがサウナに入りたいと言い出したので、サウナに入って小田急の最終電車でわが家に帰ってきた。
 
その頃、お金の収入が増えてきたので、ミカは生活の匂いがしないところで、舞踊の創作をしたいというので、近所に新築のアパートが建ったのでそこを借りたばかりだった。
 
「いつもならぼくが風呂を沸かして「どうぞお入りください」ということで、ミカは風呂に入っていた。アパートの風呂は浴室の中でガスに点火するようになっている。小さい窓があるが、少し窓を開けておけば外気が入って、問題はなかったが、冬の寒い時期だったので窓はしまったままだった。
 
水を入れる音がして、ゴオーッというガスが燃える音を聞いたか、聞かないうちに眠ってしまった。しかし、心の片隅で心配だったのか、どのくらいの時間寝てしまったのかはわからないが、ふっと目が覚めた。
 
風呂場に入ってみると、もうもうと湯気がたっていて、ミカはすでにこときれていた。
 
ガスの火は消えている。すぐにガス栓を閉めて、風呂桶に手を入れたが、熱湯になっていて手も入れられない。手で触ったらミカのからだの皮がするっとむけた。水道の蛇口をひねって水をそそぎこみ、外に運び出そうと持ち上げようとしたが、重くて持ち上げるものではなかった。ミカは座禅を組んだ形で足を組んで死んでいた。
 
まだ部屋を借りたばかりで電話がひけていない。表通りへとびだして当時あった交番へ走ったが警察官はいなかった。机の上に置かれている電話で110番へ電話した。
 
まだ朝早く、白白と夜は明けていたが、両親を起こしてはかわいそうだと思って、7時ごろになって自宅に行って知らせた。それから埼玉の実家の両親、友人、知人にと次から次へと電話をかけたが、正月の11日のことなので、電話をかけると誰もが「おめでとう」と言われてしまうのには困ってしまった。
 
5歳の息子はその日も、お婆さんに連れられて幼稚園に行き、先生に「ママは今朝死にましたけど、ぼくは悲しくない。死んだものは帰ってこないから」と伝えたそうだ。
 
その息子も55歳、子供も二人も独立している。半世紀も経っているのに、その日のことは鮮明に覚えている。

 

「オー嬢の物語 ポスター」の画像検索結果

| | コメント (0)

2020年1月 4日 (土)

88歳のぼくに2度目の革命が!

東京新聞を愛読しているが、朝刊に「東京物語」というコーナーがあって、女優の十朱幸代さんが登場している。
 
昭和40年度(1965年)の秋の芸術祭参加作品になった、ぼくと心臓病で亡くなった妹、紀子(みちこ)原作が日活で映画化されたとき、『ぼくどうして涙がでるの』で初めて主役となり熱演してくれた。
 
妹は2度目の手術で、32歳で男の子、2人を残して亡くなってしまったが、十朱さんの記事を読んでいると、妹が生きているような気持ちになってくる。
 
東京新聞12月24日の朝刊に、毎月一回「東京新聞読者の生活情報紙・暮らすめいと」1月号が入っていた。その1面に「街の唄」というコーナーがあって、(哲)さんという記者が「駅ピアノ」と題して書いている。
 
「駅の雑踏からピアノ演奏が流れてきた。広場の片隅にピアノがあり、椅子にちょこんと座った男の子が懸命に弾いている。軽快で情感こもる音色。うわさに聞く「駅ピアノ」だ。弾き終わると、周囲から大きな拍手が沸いた。聞けば小学1年生で、曲はショパンのワルツとか。やるねえ。思わず感嘆。
 
「駅ピアノ」は外国の鉄道駅や、空港に置かれ、誰もが自由に弾いたり、歌ったりできるピアノ。BSテレビの人気番組で、ご存知の方もいよう。それが東京の駅にも登場したわけだ。
 
男の子に続き女性や若者も挑み、心和ます曲が喧騒の駅広場に響いていく。
 
音楽は心の治癒薬ともいう。今やスマホ依存症は深刻で、事故やトラブルになる場合も多いと聞く。時には演奏や風景を楽しみ、心の洗濯が必要と思うのだが、しょせんは「大きなお世話」と言われるのがオチか。」
 
なんでこんな記事に目がむいたかというと「ピアノ」だ。最近知り合ったTさん。72歳の方だが、ピアノの調律(日本に6千人もいるそうだ)と、古いピアノの修復と音を作る仕事をされている方だ。
 
ドイツで修復の技術を勉強されてきた方で、古いピアノを修復できる人は、日本に数えるほどしかいなくて、Tさんはそのトップに立っている。
 
ぼくはハモニカもふけないし、音楽の知識はまったくない。Tさんは音楽の話となると、限りがない。
 
「令和」の年号の考案者、中西進さんが、各大学の短歌愛好者が集まった歌会で当時、東大国文科の2年先輩の中西進さんが、駒沢大学国文科の学生で、劣等感のかたまりだったぼくの作品をなんと絶賛してくれた。
 
それからのぼくの人生は、自信をもって生き続け、次々と日本で最初という仕事をこなしてくることができた。
 
令和2年で88歳で米寿を迎えんとするぼくが、Tさんとの出会いで、音楽に対して目を向けるようになった。
 
安物のデッキで石原裕次郎の昭和の名曲を歌ったCD(5枚セット)を購入し寝る前に聴いていたが、TさんがすばらしいヘッドホーンとCDデッキを購入してくれた。
 
革命とも言える耳に飛び込んでくる音色。
 
裕次郎の甘く、やさしい心が伝わってくる歌の伴奏のピアノや、いろいろの楽器の音色が聞き分けられる。この年になって初めて知ることができた。Tさんに感謝。
 
ベヒシュタインピアノで弾く、ピアニスト、川村奈美子さんの演奏会にも連れて行ってくれた。
 
下北沢の駅も、今かわろうとしている。区長は文化あふれる街というが、ピアノの音が流れてくるような駅にしたいものだ。

| | コメント (2)

2019年12月28日 (土)

パワハラ防止法をお国が作るなんて!

2019年(令和元年)12月15日の東京新聞1面トップ記事を読んで、「えっ、そんなことあるの」とびっくりしてしまった。
 
ぼくは幸か不幸か、他人さまに使われて働いた経験が87歳になる今日まで1日もない。学生時代のアルバイトだけだ。
 
駒沢大学在学中、下北沢にガラス磨きの親方? がいて、アルバイトで銀座のお店(当時はビルが少なく、一階か二階の喫茶店とか焦点)のガラス磨きで、危険なことはやらなかった。
 
敗戦後、数年しか経っていない時代で、進駐軍の物資が珍重されていて、どこで手に入れたのか、米軍のブリキの石鹸が入っていた缶になんのことはない、磨き砂を入れてもったいぶって使っていた。
 
4、50軒のお店のお得意さんがあれば、ガラスってすぐに汚れるから商売になっていたようだ。
 
銀座の服部時計店の前の「三愛」の窓ガラスを拭いていたときは、知っている人が通りやしないかと、はらはらしたものだ。
 
今でもカフエに入っても、ガラスが美しく磨かれていると、気持ちがいい。
 
「政府のハラスメント対策指針・就活生も義務化を」という池尾伸一・嶋村光希子さんの記事で、3人の女性から座談会の形式で就活で企業に面接に行ったときの驚くべき話だ。
 
Kさん(4年生・被害体験者)の話。
 
「就活中は嫌な思いばかり。面接で必ず聞かれたのが、『将来結婚するの』とか『彼氏いるの』など。『どのくらい遊んでるの』も。
 
こっちはスーツでばっちり決めて、業界のことも勉強しているのに、聞かれるのはそんなことだけ。面接後『ハイ、ありがとう』と肩を触られたことも。ショックだったのはひどい言動に抗議もできず、受け流すしかなかったことです。」
 
町田彩夏さん(大学院生・被害体験者)
 
「いま大学院に通っていますが、もう就活しようと考えられなくなってしまいました。大学4年時に受けた広告代理店の面接で『化粧が濃い』とか『君みたいに容姿のきれいな女性がハキハキしゃべるのが気に入らない』と言われました。
 
次の役員面接では、化粧を地味にし、気弱そうに話したら、人事担当者に『今日、生理だった? だとしても役員面接に体調合わせられないのは社会人失格』と言われました。」
 
町田さん(大学院生・被害体験者)
 
友人の体験だと訪問したOBに遅い時間に高級レストランに呼ばれて、終電がなくなるのでホテルに、という流れを作られてしまったケースを聞きます」
 
Kさん。「社内で女性へのセクハラや、差別的言動が『通常運行』で行われているから、就活生にもそれが表れるのだと思います。何十社と受けましたが、役員面接で女性が役員というのは、たった一回」
 
これが本当の話ならひどい、ひどすぎる。就職しようと思う学生たちは、誰しも一流企業に就職したいと思うのは当然のことだ。
 
こんな人事の役員ばかりいる会社って、すべての会社とは考えたくないが、一流企業の役員のおごりを感じる。
 
中小企業と給料の差もあるから、みんな一流企業に就職を考える。中小企業では人手が足りないし、どうしても有能な社員を入れたいと思うからこんな馬鹿げた質問はしないだろう。
 
女性差別の気持ちを強く感じるが、ゲイの役員がいたとしたら、男子学生にどんな質問をするのだろうか。嫌な時代になったものだ。

| | コメント (0)

2019年12月23日 (月)

世の中には同じような悩みを持つ人が!

1971年に創刊した『薔薇族』は、隔月刊だった。5号目の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「第4号の高校生特集は、おほめの言葉をいただいた。ばば君のレポートが出色の出来栄えだったからだろう。『週刊現代』『週刊ポスト』が紹介記事を書いてくれた。
 
『子連れ狼』の連載で売れに売れている『漫画アクション』3月9日号が、1ページを使ってぼくのことを紹介してくれたので、たくさんのお電話をいただいた。」
 
マスコミが取り上げてくれることもあってから、女性の読者も増えてきている。7号目には「私は異性を愛せない女」と題して、清水純子さんの投稿を載せているが、当時のレズビアンの女性の気持ちを知ることができる。
 
「ふとしたことで『薔薇族』を手にし、それから毎号愛読している一女性です。
 
男性でさえ最初は戸惑うであろうと思える内容の雑誌でした。ところが女である私は少しも戸惑わなかったのです。なぜなら私が持っているのと同じ悩みが『薔薇族』に満載されていたからです。
 
世の中には同じような悩みを持った人が多くいることかと、私は心強く思ったのです。私は田舎(北陸)から上京してきて、もう5年になります。私は両親からや、兄嫁の「結婚しなさい」の言葉を聞くのが嫌で、田舎から逃げ出してきたのです。普通の男性と平凡に結婚して、子供を育てるなんていうのは私には不可能です。
 
中学2年生のとき、私は人並みに初恋をしました。なんと相手の人は同じクラスの女の子だったのです。(中略)
 
当然のことのように私にも結婚話が起こりました。それがいやで東京に出てきて池袋に住むようになったのは42年11月でした。
 
美容院に勤めた私は、そこの先生と親しくなりました。お酒なんか飲めもしないのに、先生を誘って飲みに行き新宿のホテルに2人で泊まりました。
 
全然、自然ではありませんでした。2時ごろベッドに入って、先生に甘えられたのに、なかなか手が出せなくて、5時ごろやっと結ばれたのですから……。しかも、先生の指図どおりにやらされました。
 
先生(女性)は彼氏と別れたばかりだったので、私を男の代用品として寂しさをまぎらわすために利用したのでしょう。そんなことは何も知らなかった私は、先生によって男役としてめざめさせられたのです。
 
両親と一緒に住んでいた先生は、ついに私のアパートに移ってきて、毎晩愛し合うことを要求してきたのです。それから4年間、まったくの夫婦気取りの生活をしてきました。
 
先生は私にとっては、こわい存在でした。私が男役といっても夜だけで、昼は私を子供のように扱って自由なんてありませんでした。田舎に電話するにも先生に報告しなければならないし、友だちと付き合うことも禁じられました。
 
2人で共同で店を経営していましたが、先生に飼育されているので私は強いことを言えませんでした。とうとう田舎の両親が私たちのことに口出しするようになり、2人の間もだんだん変になり、仲をさかれてしまったのです。私は泣く泣く別れました。
 
今になって思えば、それでよかったのだと思います。先生のそばにいても両親を安心させることはできませんでしたそれに私が好きで一緒になった人ではなかったのですから……。ただ一緒になって自然に情が湧いて愛するようになったということです。」
 
この女性、結論は『薔薇族』の読者と結婚したいという希望だけど、相手が見つかったのかは記憶にない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧