2017年5月27日 (土)

大正時代の蔵書票と明治・大正の絵葉書―過ぎ去りし日の小さな絵展―

日本は古来から中国の影響で印鑑(ハンコ)の国だ。愛書家は自分の所有する書物に、蔵書印を見返しに押した。ところが西洋には印鑑はない。
 
15世紀の後半、ドイツの神父、ヨハネス・クナベンスブルグが作った木版画の蔵書票が世界最古級のひとつといわれている。
 
 
 
15世紀の中頃、ドイツのヨハン・グーテンベルグによって活版印刷が発明され、それまでの羊皮紙の手写本の世界は一変する。
 
斜めの台の上に1冊ずつ並べられていた本は印刷術の発明により、現在見られるようなスタイルの本になり、大量生産されるようになる。
 
本の数が次第に増すにつれ、整理も大変になり、まず所有者を明らかにするため、本の見返しに小紙片を貼ることが考えられたのが、蔵書票の始まりである。
 
 
 
現在に見られるようなスタイルの蔵書票をはるばるチェコスロバキア生まれのエミール・オルリックが、船で日本に浮世絵の勉強のためにやってこなければ、日本に蔵書票なるものが知られるのは、ずっと後のことになっていただろう。
 
画家としても版画家としても有名だった、エミール・オルリックが自作の蔵書票を、与謝野晶子が主宰する『明星』に4枚、紹介した。当時の芸術家、知識人が『明星』を愛読していて.その影響力は絶大だった。
 
 
 
日本の若い版画家たちがオルリックの紹介した蔵書票に版画芸術の新しいジャンルとして関心を寄せて、制作されるようになっていった。
 
 
知識人のお金持ちも自らの蔵書票の制作を若い版画家たちに依頼するようになり、大正時代が日本の蔵書票の夜明けとなった。それだけに活気に満ちた、版画家が精魂込めた作品は実に個性的で、優れた作品が多い。
 
 
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創成期の大正時代の蔵書票が、こんなに大量に出展されることはなかった。
 
台湾に住むコレクターがな亡くなり、その遺族が売りに出したものを全て購入したものだ。その値段は忘れてしまっているが、おそらく10倍以上の金額であっただろうが、この価値を認めてくださった方々に購入していただければ幸いである。
 
 
 
ぼくが渋谷の渋谷区立松濤美術館で、1993年8月4日から9月12日まで開催された「特別展 フィリップ・バロス コレクション展 絵はがき芸術の楽しみ―忘れられていた小さな絵―」この展覧会を見に行ったのは、24年も前のことだ。明治33年、1900年の政令によって逓信省は民間ではがきを印刷し、販売することを許可し、私製の郵便はがきの発行が認められ、自由な図版ができるようになったのが、絵はがきのブームのきっかけとなった。
 
 
 
明治37年・38年の日露戦争で勝利し、戦争記念絵はがきが数多く作られ、戦地との交流に絵はがきが重宝がられた。
 
フランス人のフィリップ・バロス氏のコレクションは、当代一流の日本画家や、洋画家の制作されたものだけを展示している。
 
印刷技術を見ても、現在ではとても見られない手の込んだ精巧な作りで、数種の版を併用したり、透かしを入れてみたり、仕掛けを施したり、それぞれに意匠を凝らし技術を尽くしている。
 
 
 
ぼくのコレクションは、中途半端でとてもバロス氏のコレクションの足元にも及ばないが、いい作品もあるので見つけ出してください。
 
「ワイアート」では、ネットでも買える。絵はがきはまとめ買いすると格安になるようだ。
 
文ちゃんのふところが、少しでもあたたまるように、ご支援をお願いする。
 

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2017年5月15日 (月)

脳梅毒のために髪が抜け落ちて!

『娼妓解放哀話』から、もうひとつの話。
 
「大正3年9月28日のことであった。新吉原江戸町2丁目の中村楼にいる常盤木という娼妓から、1通の手紙が伊藤君のところに届いた。
 
読んでみると、ひらがなと、カタカナとを混ぜこぜにした、さっぱりわからないものではあったが、それでも廃業したいから、ぜひ来てくれということは読みとれた。
 
早速行って会ってみたが、形容のできないほどの意志薄弱な女で、どうにも手のつけようがなかった。
 
「とにかく、あなたは今日限り娼妓をやめたいと思うのですか?」
 
「はい、もう1日もこんな稼業はできませんから、やめたいと思います。」
 
「では、これから僕と一緒に警察に行きましょう」
 
「だけど、おかみさんに叱られますから」
 
「自分の意思で廃業するんだから、おかみさんだって、それを邪魔する権利はないんです」
 
「警察に行ったなら、きっと巡査さんに叱られるでしょう」
 
「そんなことはない、僕がそばについていてあげるから」
 
「廃業したあとで、私はどうなるんです」
 
「堅気になって働けば、いいじゃないですか、まだ若いんだから」
 
「だって女郎なんかした者をやとってくれる人はいないでしょうから」
 
「そんなこと言っていては果てしがない。早く決心しなさい」
 
「ええ、決心しているんだけど、私……」
 
 
 
そんな問答を百万べんくり返しても埒が明かないと思ったので、伊藤君は最後の駄目押しをおいて、一緒に警察にまで行くだけの勇気がでたならいつでも、救いに来てあげると言い置いて帰った。
 
ところが1週間ほど経って、常盤木はなじみ客に頚動脈を切られて死んだ。
 
男も一緒に死んだので、死人に口なし、事情はさっぱりわからないが、伊藤君の面会した時の事情から察すれば、やっぱりぐずぐず言っているうちに男から無理心中させられたものだろう。
 
その翌年、9月4日のことであった。同じ新吉原の一力楼にいる春駒という娼妓から手紙で自廃の助力を求めてきた。
 
この女性は常盤木よりも学問があって、手紙も一通り読めるように書いてあった。
 
手紙を読むとすぐに伊藤君は面会に行ったが、一力楼ではなかなか面会させない。
 
とうとう交番の巡査に頼んで面会することができたが、楼内で面会されては、他の娼妓たちへ自廃が伝染してはならないというので、仲の町の写真屋の2階でおかみ立会いのもとに面会してみると、春駒がかわいそうに脳梅毒のために、髪がすっかり抜けてしまって、かつらをかぶって稼業をしているのであった。
 
 
 
春駒は伊藤君に、今日はこのままひきとってほしいと言った。(中略)
 
かれこれするうちに9月も末となった。
 
かつら女だと知ってか知らずか、なじみでもない登楼客と刃物心中を企てて、二人とも絶命した。
 
後で同楼から自廃した女に聞いてみると、春駒はちょっと顔立ちのいい女であったから、かつらをかぶった女とは知らずに登楼した男が、酒に酔っぱらって、無理にかつらを取ってみたがるのがつらいと言って自廃を思い立ったのであって、かつらをとって見ろという男は登楼者だけに限ったことではないのだから、いろいろと考えあぐんで末が、心中ということに落ち着いたらしい。
 
千人近い自廃娼妓をとり扱った伊藤君が、その目的を達しえないで、心中の悲劇に走らしめたのは以上の3名だけであった。
 
遊郭で心中する男も女も、ことごとく性病からきた麻痺性痴呆症患者ですよ。この患者だけは手に負えないと、医師に教えられたそうだ。

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2017年5月12日 (金)

華やかな「花魁道中」の影に!

ぼくの祖父、伊東富士雄(大正12年・53歳で没)。救世軍の士官として、吉原や洲崎のお女郎さんを苦界から救い出す仕事をしていた。
 
昭和5年に中央公論社から刊行した『娼妓解放哀話』、祖父から聞き出した話を沖野岩三郎さんがまとめた本だ。
 
お女郎さんを廓の経営者から救い出すには、かなりの法律を熟知し、廓の経営者と渡り合う弁舌が必要だ。
 
お女郎さんを救い出す苦労話、この本にはいくつもの例が書かれている。
 
祖父は頭のいい人だったようだ。
 
 
 
「千葉県木更津から出てきたという50がらみの男が、救世軍本営に来て、娘の廃業を頼みますと泣きついてきた。
 
娘は19歳で吉原江戸の町の石◯楼に娼妓となって出て、4ヶ月目であるが、その半分は病院暮らしである。
 
全快すればまた嫌な稼業をしなければならないから、早く助けに来てくれと、父親に矢のような催促をしたので、父親は上京して吉原病院を訪ねて行ったが、楼主の許可がなければ面会させないとはねつけられた。(中略)
 
「私はこの子に650円(今だといくらぐらいになるのか?)出したのです。それに4ヶ月も半分しか稼がないで、廃業とはあんまりですと、泣きわめいた。
 
警察の警部(業者から賄賂をもらっているので廓の見方)も叱るように、「君たちふたりはぐるになって、650円の借金を踏み倒すつもりだな。廃業するのは勝手だが、650円という大金を、どうやって調達するつもりか。調達の見込みがないのに、廃業するのはけしからんじゃないか。さっ、その借金はどうするんだ!」と言う。
 
 
 
伊藤君はそばから口を出して、借金は借金で返済の義務があること、娼妓廃業は娼妓廃業で別問題であることを説いて、
 
「この親子ふたりが、あなたから650円の資本を借りて米屋を始めたとする。ところが4ヶ月を2ヶ月まで入院して、これでは米屋もできないと言って、廃業しようとするのを、米屋をすると言って、650円貸したんだから、病気だろうがなんだろうが米屋の廃業はまかりならぬ。
 
どんなに他に適当な事業があろうと、それに鞍替えしてはならない。なんでもかでも米屋を続けろと説諭する警部さんがあったとき、あなたはどうお考えになりますか。
 
そのとき米屋をやらないで、しょうゆ油屋をやろうとするのは、サギだとお考えになりますか?」と言ったので、係の警部は苦笑して説諭をやめた。
 
 
 
すると楼主は初めて、自分は若い女を質草に取ったのではないという理屈がわかったらしく、しきりに頭をかいて「そうですかなあ。そういう理屈ですかなあ。そうすると私たちほど弱い商売はありませんなあ」と言って、とうとう廃業に同意した。
 
「本当に弱い商売です。私は深くご同情いたします。どうか、1日も早くこんな弱い商売をおやめください」伊藤君は楼主に、そんな挨拶をして、警察を出てきた。」
 
 
 
ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村、そのとなりの町に分水という町がある。
 
川ぞいに桜並木があって、桜の季節には観光の目玉として「花魁道中」が華やかに催され、数万人の観光客が訪れる。
 
そのことにケチをつけるつもりはない。女郎の中でも教養があって、美しい女性が選ばれるのだろうが、貧しい親元からお金で売られてきた女性であることは同じだ。
 
いかにお女郎さんが、人権を無視され、ひどい仕打ちを受け、苦界に身を沈めていたかということを少しは知ってもらいたいものだ。

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2017年5月 8日 (月)

皮膚という衣裳を身に着けて踊っている!

藤田竜くんが全く一人で編集、制作した『青年画報』は、『薔薇族』の文字が小さくしか入っていない。
 
1号を買った読者の反響が2号の最後のページに載っている。「『薔薇族』の文字が小さいので買いやすいです。市内の書店で女性誌と並べて置いてあるところがありまして…」と札幌の読者が投稿している。
 
2号目はSM特集で、79年冬の号だ。
 
日本兵が中国の男性を数人で銃剣で刺し殺している、毎日新聞の「秘匿ネガ」が、「戦時中の人間性」と題して2枚の写真が載っている。
 
戦争っておそろしい。人間性を変えてしまうからだ。二度とこのようなことがあってはならない。
 
 
 
ぼくが先妻の舞踊家、ミカの「名作『O 嬢の物語』舞踊化の頃のこと」と題した文章が載っている。
 
文章が長いのでさわりのところだけ紹介しよう。
 
「初演は昭和42年の10月30日と31日の2日間、新宿の厚生年金会館の小ホール(700人収容)で行われた。
 
週刊新潮をはじめ、いろんな雑誌に紹介されて好評だった。
 
再演は暮れの12月26日、同じく新宿厚生年金会館小ホールで開かれた。
 
週刊誌で紹介されたこともあって、遠く北海道から駆けつけてきた人もあり、開演前に長蛇の列ができるほどだった。
 
「観客席の台の上のO嬢であるミカを見ながら観客は扉を出て行く。再演の時だった。O嬢の周りを取り囲み、何十人かのギラギラした男たちの目が、ねばりつくように注がれる。
 
公演の前日のことだった。ぼくがミカの全身の毛を剃り落として、童女のようになっていた。その裸体ににわとりの白い羽毛を全身にぬりつけたのりにはりつけたのだ。
 
下半身にはビキニの薄いパンティをつけてはいたが、それがわからないように羽毛がはりつけられていた。
 
ミカは観客の目に異様な殺気を感じた。全ての会場のライトは消されて、ミカの白い羽毛に覆われた裸身だけを浮き立たせるようにそこだけに光が当たっていた。
 
観客の中のひとりの男が、パンティの上から手を入れた。それを待っていたように、下からも、横からも、何人かの手がパンティの中にすべり込む。
 
もぐりこんだ指が、そこにあると思ったものがないのを察するかのように、びくっと手を引っ込める。のっぺりとしてそこに何にもないからだ。
 
上から入れられた指と、下から入れられた指とが、パンティーの中でさわる。お互いにぎくっとして手を引っ込める。
 
ミカは完全にO嬢になりきっていた。そのあと、そのたくさんの指が何をしたかは知らない。
 
静止した何分かが過ぎた。
 
「お疲れさま」
 
天井のライトがいっせいについて、舞台から舞台監督の荒木君がとび降りてくる。もう観客席には、1人の客もいなかった。
 
スタッフの全員が、口々に「お疲れさま」と声をかけあって、ミカの周りに集まってくる。
 
数日して、1通の手紙がミカのところに舞い込んだ。
 
白い羽毛が1枚と、完全にO嬢になりきっていたミカをほめたたえる手紙が入っていた。」
 
ミカは33歳の若さで風呂場で事故死してしまったが、もうこんな舞踊家は二度と現れないだろう。
 
興味を持たれた方は、ミカとの出会いから亡くなるまでの15年間を書いた、彩流社刊のぼくの著書「裸の女房」を読んでもらいたい。
 
この本にサインを求められると、ぼくは「ミカと出会えたことの幸せ」と書いている。

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2017年5月 6日 (土)

隠さなくったって、もういいじゃない!

新潮社からスゴイ書名の本が出版された。木下直之さんの『股間若衆』に次ぐ本だ。
 
『せいきの大問題=新股間若衆』、「せいき」は「世紀」と「性器」をかけた言葉だろう。
 
Seikinodaimondai
 
帯に「時をかけ、世界を股にかける若衆たち。隠さなくたって、もういいじゃない!」
 
俳優、小林聡美とある。帯に推薦文を書くくらいの方だから、有名な俳優さんなだろうが、どんな方なのかわからない。
 
こんなときにネットで調べれば、すぐにわかるのだろうが、ネットを触れないのだからどうにもならない。
 
「隠さなくたって、もういいじゃない!」と言いきるぐらいの方だから、それなりの活動をしている方だろう。
 
「男の、女の裸体表現の秘所をさぐる天下の奇書」とも書いてある。
 
 
 
ぼくが創刊した『薔薇族』の旗印は「隠れていないで表に出よう!」だったが、そう簡単には表に出られない。まだまだ隠れてひっそり暮らしている人が、大多数なのだから。
 
性器そのものでなく、女性が裸になることにだって抵抗がある。
 
 
 
それにしても木下直之さん、日本中の裸像の銅像をよく調べ上げたものだ。
 
時代によって、葉っぱで隠したり、もっこりだけのものもあるし、リアルに大きなものをぶら下げているものもある。
 
 
 
ぼくは警視庁の風紀係に、発禁4回、始末書を書かされること20数回、桜田門までの定期券を買えと、嫌味を言われたことさえある。
 
警視庁の建物が新しくなって、玄関の扉をあけると、広くなっていて、その壁面に朝倉文夫さんの作の男性の裸像がで〜んと置かれている。
 
風紀係に呼び出され玄関脇の受付で要件を告げると、係に連絡してくれて、係官が迎えに来てくれる。バッチみたいなものを胸につけて、係官とエレベーターに乗るのだが、ぼくは朝倉さんの裸像を指さして、「アレはいいのですか?」と、聞いてみた。
 
係官は「アレは自然な形だからいいので、君のところは不自然だから駄目なんだ」と。
 
警視庁もこの朝倉さんの裸像を今更撤去できないし、なんとなく後ろめたい気持ちがあるのか、写真撮影は許されていない。だから木下さんの本の中にこの裸像は出てこない。
 
 
 
都内の各所に男性の裸像が建てられているが、それを見る人ってあまりいないのでは。
 
その証拠に足立区の方で、ゲイの青年が殺された事件があり、警視庁の捜査一課の刑事さん二人が、ぼくに話を訊きにきたことがある。
 
殺された青年は毛深い男で、お尻のまわりも毛むくじゃらで、お尻の回りだけ、毛をそられていた。それは肛門性交するときに、毛があるのと痛いので剃ったのだろう。殺した男もゲイであることは間違いない。
 
二人の刑事さんに朝倉さんの男性像のことを聞いたら、毎日、通っているのに、その存在を知らないという。興味のないものは見ないということだ。
 
 
 
『せいきの大問題』全部読むとしたら、いつのことになるかわからない。それならば、この本が出ましたよと、ブログに書くことにした。これは面白そうだと思ったら買って読んでほしい。
 
この本の最後の方に、「ろくでなし子」さんのことが書かれている。木下さんは「ろくでなし子」さんの裁判を傍聴している。このへんのところは、じっくりと時間をかけて読んでみたい。
 
 
 
ぼくは30数年『薔薇族』を出し続けて、「股間」を見続けてきた。
 
木下直之さん、なんでそんなに「股間」に興味を持つのだろうか。
 
一般の人はそんなところに目を向けないのに、本にまでしてしまう木下さんって不思議なお人だ。

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2017年4月17日 (月)

桜の古木と同じように、ぼくも一花咲かせるか!

3月19日で85歳の誕生日を迎えてしまった。
 
親友のカメラマンの中嶌英雄君が経営する銀座のMUSIC&BAR「まじかな」で「文ちゃん85歳の誕生を祝う会」を開いてくれた。
 
身内はひとりも出席してくれなかったが、ネットの予告を見た人達が、20名を越え、にぎやかに祝ってくれて、楽しいひとときを過ごすことができた。
 
 
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85年、太平洋戦争を体験し、食べ物が全くない、ひもじい思いをして生き抜いてきた。
 
駒大時代も暖房も、クーラーもない教室で講義を聞いた。冬はオーバーを着たまま。かじかんだ手をこすりこすりだ。
 
 
 
ぼくは青山の隠田に生まれた。
 
生後間もなくして、世田谷区北沢5丁目1-75に、親類の金持ちが、貸家を建てたので、木造二階建(家賃は25円?)の家に越してきた。
 
祖母と両親、姉と赤ん坊のぼく、妹2人はこの家で生まれた。
 
その頃は田舎の川と同じように、自然のままのきれいな水が流れていた。
 
父が撮ったものだと思うが、川に沿った道をぼくは母親に抱かれ、誰だかわからない2人の女性が歩いている写真。
 
そこには植えられたばかりの桜が、倒れないように丸太で補強されて、桜並木になっている。
 
苗木から育ったとすると、90年近くになるのでは。
 
 
 
東急バスの車庫のある「淡島」から、環状7号線の道路まで、両岸に植えられている桜は何百本あるのだろうか。
 
ソメイヨシノの桜の寿命は、6、70年と言われているから、すでに1年は通り越している。
 
 
 
世田谷区の公園課は、古木の桜が強風で倒れて、通行人がけがでもしたら大変と、根元が腐ってきたりすると、情け容赦なく切り倒してしまい、また若木に植えかえている。
 
ぼくと同じ歳の古木は、あと何本残っているのだろうか。もう半分に満たないのではないか。
 
 
 
今年もお花見が、あちこちで開かれている。
 
その日は暖かい日だった。
 
以前住んでいた家の近所で、桜並木に面した家に住んでる金子さん。
 
嫁いだ娘さん、2人のご主人と小さなお孫さんが来ていて、バーベキューをやっていたところへ通りかかった。
 
金子さんのお母さんは、ぼくの母親とも仲良しだったが、すでにこの世にいない。
 
娘さんの小さい頃、よく写真を撮ってあげたことがある。2人とも結婚して子供までいるとは。
 
金子さんは、若い頃、ハワイに渡って、事業を起こし成功した人だ。今でも年に何回もハワイに行っているそうだ。
 
肉に野菜、いろんなものを焼いて食べさせてくれた。昔話に花が咲き、楽しいお花見になった。
 
 
 
切られずに残っている桜の古木、幹にコケが付いている。
 
この姿を見ると、同じ時代を生きてきたぼくとしては、もっともっと生き抜いて、春になれば見事に花を咲かせて、見る人を楽しませてほしいと思う。
 
この桜の古木が植えられた頃のこと覚えてる人は少ないだろう。ましてや誰がこの桜並木を植えて寄贈したのか。知っている人は、ぼくしかいないかもしれない。
 
この桜並木を斎藤茂吉や、横光利一などが散歩していたのも知らないし、若い人は、森茉莉さんのことすら知らない。
 
スマホを見ることに熱中している若者たち、苔むした桜の老木が必死に生きている姿を見てほしいものだ。

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2017年4月10日 (月)

山川純一作品の劇画よ、永遠なれ!

『ウホッ!!いい男たち2 ヤマジュン未発表作品』(2009年11月20日発行。(株)復刊ドットコム刊・やらないかバンダナ付き・定価3675・本体3500円・5%税込)
 
もう刊行されて8年になるとは。消費税が5%の時代だった。
 
『ウホッ!!いい男たち・ヤマジュンパーフェクト」(復刊ドットコム刊・定価本体4800円+税)574ページでの値段だから高くはないのだろう。若い人たちがこんな高い本をよく買ってくれたものだと、今さらながらにヤマジュン劇画の魅力と人気の続いていることには驚かされる。
 
2003年に初版を刊行したのだから、なんと14年にもなる。
 
 
 
ヤマジュンの未発表作品は4作だ。
 
顔が長い、髪の毛が長いということだけで『薔薇族』スタッフ、と言っても2人だけだが、「載せるな!」と、あまりうるさく言うものだから、載せるのをやめてしまった。
 
ヤマジュンはぼくが支払う原稿料だけで生活しているのだから、止めてしまったら生活できない。
 
こんなに辛いことはなかった。彼に死ねと言うのに等しい。載せなくなっても作品を持ってくれば、原稿料をあげていた。
 
彼にしては耐えられなかったのだろう。ぷっつりと現れなくなってしまった。
 
未発表の4作品、それと1作を加えて刊行したのが『ウホッ!!いい男たち2』だ。
 
バンダナ付きとはいえ、100ページにも満たない本が、3500円とは、ちょっと高いのでは。
 
 
 
印刷製本はシナノ書籍印刷株式会社とある。
 
戦時中、大本営も長野県に移るということで、巨大な地下壕を掘ったそうだ。
 
その頃、空襲を逃れて、印刷会社も長野に工場を移したという話を聞いたことがある。
 
シナノ書籍印刷という会社、印刷製本を安く作るということで有名な会社だそうだ。
 
本の奥付を見ると、この会社の名をよく見かける。部数が少ない自費出版の歌集まで作っている。
 
東京よりは人件費も安いのだろうが、かなり大きな工場を持っている会社に違いない。
 
今の時代、何もかもネットで事足りてしまうのだから、活字を1本、1本ひろって組んでいた時代に出版の仕事をしていた人間には想像がつかない。
 
 
 
話が脱線してしまったが、4作品をしばらくぶりに読んでみたが、発想がすごい。
 
1作目の「絆」は、緋堂組というヤクザの世界を描いている。
 
「くどいぞ! 俺は2代目として親父のかたきをとらねばならんのだ」
 
「殴りこみは予定通り決行する!」
 
「関竜組に殴り込みましょう! が、その前に若にある儀式を行ってほしいのです」
 
若には大学生の男がいる。
 
「何の若のためなら秀も喜んで抱かれまする。
 
その真珠入りの巨根を思い切り使いなすって」
 
それからの2人のセックスシーンが派手に。
 
兄弟でがっちりと手を組んで殴りこみに。それが「絆」だ。
 
 
 
2作目は「義父」。
 
出産のために妻が実家に帰っている。
 
東京の出張の帰りに俺の様子を見てきてくれと、妻に頼まれての訪問。
 
その義父とのセックス。
 
「君のことは前から可愛くて仕方なかったのだが、してはいけないことだった、あんなことは」
 
 
 
3作目は「ショーボーイ」 同棲相手のとおるとのセックスをお金を取って、オッサンたちに見せるという話。話の展開が面白い。
 
 
 
4作目は「疾走する獣たち」 暴走族の話だ。
 
 
 
しばらくぶりに山川純一作品を読んでみたが、長い間、若者たちに愛されているのが、よくわかる。
 
これからも愛され続けるだろう!

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2017年3月27日 (月)

廓からの脱出の道は死しか!

時代劇をみていると、吉原がたびたび登場してくる。
 
これは祖父の伊藤冨士雄が、救世軍の婦人救済係として活躍していた大正時代の話だ。
 
「幕府の売春政策を継承することによって、見事な公娼制度が確立され、富国強兵策を裏側から支えた。
 
公認された廓は全国140数カ所におよび、鑑札を受けて肉体を売る娼妓は5万人を超えようとした。
 
廓と社会をつなぐ出入り口は一つしかなく、そこにある交番の巡査の許可なくしては、娼妓は廓の外に一歩も足を踏み出すことはできないのだ。
 
年期が明けるまで廓の外に出たことのない娼妓は少なくなかった。
 
檻に閉じ込められた娼妓は、どんな理由によっても、年期が明けるまでは、体を売ることをやめられなかった。
 
悲惨な娼妓の悲しい話を紹介してみよう。
 
東北の山村から桂庵に売られ、吉原の一力楼の春駒となった高橋久子は、客から業病(おそらく梅毒だろう)を背負わされた。
 
「じきに治る。今度から病気をもらわないように気をつけな」と、楼主は冷淡な態度で、検診(医者に性病の検査を定期的に見てもらうことが義務付けられていた。)は換玉でごまかして働かせた。(当時はコンドームをつけることなどしなかったのでは)
 
 
やがて春駒の髪の毛が不気味に抜け始めた。
 
「あたし、怖い。何とかしてください」春駒は泣いて楼主に訴えたが、「お前には銭がかかっているんだ。休まれてたまるか。稼ぎやがれ」と、楼主は春駒をにらみつけた。
 
 
 
そのうちに春駒の頭に一本の毛もなくなってしまった。
 
それでも楼主は、カツラをかぶせて春駒に客をとらせた。
 
 
 
みじめな自分の境涯を手紙にしたため、春駒は「命に関わりますから、1日も早くお救いくださいまし。」 と救出を訴えた。
 
すぐに救世軍婦人救済係の伊藤冨士雄が駆けつけて相談に応じた。
 
一刻も早く、春駒は廓を出たかった。
 
しかし、髪の毛のない自分の姿を思うと、人の助けを借りて、廓を出る勇気がくじけそうになった。
 
弱気になって決行が遅れ、楼主に見つかり、春駒は見せしめのリンチを受けて、それでもなおも客を取らされた。
 
 
 
「もう生きていたくない」
 
春駒が漏らした一言に、希望のない日々を送っている客が同情して、「俺だって、生きていていいことがあるわけじゃないさ」とつぶやいた。
 
二人は洗浄室に備えてある消毒液をあおった。
 
大正5年3月21日の夜も明けそめる頃だった。
 
脱出の道は死しかなかったのだろうか。
 
 
 
廓という金縛りの牢獄に閉じ込められた春駒のような女たちを救出するために、命を張った男もいたのである。」
 
 
 
大正3年8月2日、伊藤富士雄は洲崎病院におもむいた。
 
米河内楼の歌之助と、中野楼の信子を洲崎署に連れて行って廃業させるためであった。
 
急報で洲崎遊郭の旦那衆が、200名に及ぶ応援を連れ「待ちやがれ」と、口々に叫びたてる。
 
その中を伊藤は怯える二人の娼妓を両脇に守り、門を出ようとした。
 
 
 
「足抜きにされてたまるか。やれっ」
 
旦那衆の声で200人もの男どもが襲いかかってきた。
 
血にまみれた伊藤は気を失って路上に倒れ、娼妓は連れ去られたが、目の前の洲崎署は傍観し、一人の巡査も出てこなかった。
 
翌年にも洲崎遊郭で半殺しの目にあったが、このように体を張って実に987人の娼妓の廃業を助けた。
 
祖父、伊藤冨士雄はすごい。
 
B
違法な野外でござを敷いて性をする売春婦

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2017年3月20日 (月)

「個人情報」なんて規制がなかったら!

ぼくは朝日新聞のおかげでいい仕事を残すことができた。
 
昭和36年12月(1961年)末の妹、紀子が、突然の心臓発作で倒れ、昭和37年8月9日に、東京女子医大の心臓病棟401号室(6人部屋)に入院することになった。
 
病院の都合で手術の予定日が何度も延期されて、妹はやけくそになっていた。
 
そんな妹を見かねて、ぼくは朝日新聞の読者の投稿欄「読者のひろば」に、「妹に激励の手紙を」のタイトルで投稿した。
 
それが数日後「読者のひろば」のトップに載ったではないか。
 
これが載らなければ『ぼくどうして涙がでるの』の本も生まれなかったし、日活の映画化もなかっただろう。
 
これがぼくの心臓病との闘いのきっかけになった。
 
 
 
「個人情報」なる規制がまったく無い、いい時代だった。
 
投稿には我が家の住所、病室の住所、部屋番号まで書いてあったのだから、今ではありえないことだ。
 
昭和48年12月20日、妹は2人の男の子を残して32歳で、2度目の手術の甲斐なく亡くなった。
 
その死を朝日新聞は、社会面のトップで大きく報じてくれた。
 
「心臓病の子供を守る会」発足のきっかけを作り、保険で手術の費用がまかなえることにもなった。
 
 
 
それからぼくの仕事は同性愛の人たちへ目を向けることになっていった。
 
ぼくが弱い立場の人たちのためにはたらくのは、大正時代に吉原や洲崎の遊郭に、貧しいがために親に売られたお女郎さんを救い出す仕事をしていた祖父の伊東冨士雄の血を、受け継いでいるからかもしれない。
 
それと、岩手の山奥で育った母の辛抱強さも受け継いだのだろう。
 
 
 
朝日新聞の社会部の小泉信一さん。
 
この人が朝日の記者か、と思うぐらいラフな感じの人だ。
 
20数年前、新宿2丁目のことを記事にした時、朝日が初めて『薔薇族』のことを書いてくれた時の記者だ。
 
 
 
13年前、『薔薇族』が、382号で廃刊を余儀なくされたとき、小泉さんにだけ電話をかけた。
 
小泉さんが書いた『薔薇族』廃刊の記事の反響はすさまじかった。
 
週刊朝日も、ぼくのことを記事にしてくれたが、しばらくぶりに電話がかかってきた。
 
 
 
『薔薇族』は廃刊になってしまったが、その後「伊藤文学のひとりごと」のタイトルでブログを書き続けていることに、小泉さんは興味を持ってくれて、朝日朝刊の「ひと」というコーナーに取り上げてくれることになった。
 
 
 
ぼくが毎日のように買い物に行くたびに立ち寄るカフエ「織部」で取材を受けた。
 
シャツは古着で買ったものばかりだが、写真に写っているカーディガンは、イタリア製で30年も前に二子玉川の高島屋で、10数万円もしたものだ。
 
裏地は絹で少し破れているが、ずっと愛用している。
 
 
 
「ひと」は、2017年3月6日の朝刊に載った。
 
ぼくは薔薇族の取材を受けるときは笑顔をしたことはない。
 
それは今でも「気持ち悪い」と差別の目で同性愛の人のことを見ている人が多いからだ。
 
笑顔は見せられない。
 
 
 
「ひと」は全国版なので多くの人が見てくれただろう。
 
奇跡ってあるものだ。
 
妹が心臓手術で入院していた心臓病棟の401号室、その部屋で妹や、亡くなった芳っちゃんと同室で苦楽を共にした、名古屋に住む女性(80歳)と、ネットでつながったのだ。
 
 
 
新聞社に電話したら「教えられない」と断られ、ネットでぼくのブログにたどり着いて、ぼくの友人が経営する銀座の「まじかな」で、ぼくが3月24日の夜、85歳の誕生を祝う会のことを載せていた。
 
それで中嶌君に電話をかけて、ぼくの電話番号を教えてもらったということだ。
 
Nさん、外出して夕方に帰宅して新聞を見たそうだ。
 
昼間だったら「まじかな」は、留守電だ。
 
なにしろ54年も前に、妹と同室だったNさん、大学の教授だった。
 
ご主人は3年も前に他界して、2人の子供さんは独立しているそうだ。
 
 
 
こんなことってあるのだろうか。
 
感激した声が震えてしまった。
 
長生きしていて良かった。
 
Hito_2

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2017年3月18日 (土)

お上にも、お慈悲はある!

自慢するわけではないが、新聞の読者投稿欄に原稿を送って、ボツになったことがない。
 
今、購読している毎日新聞には、「みんなの広場」という投稿欄がある。
 
最近はブログや、ツイッターに書いているので、新聞への投稿はしばらくしていない。
 
一日中、家にいると足が弱ってしまうと思うので、下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」にお買い物がてらに散歩している。
 
早く歩けないので2、30分はかかってしまうが、杖なしで休まずに歩けるのだからありがたいことだ。
 
 
 
街を歩いていて気になることがあった。
 
だいぶ昔の話だが、女房が妊娠してお腹が大きくなってきた頃、大きなお腹をして歩いている女性に目が向いたものだ。
 
最近は子供を産む女性が少ないという。
 
近い将来には高齢者ばかりになってしまう。
 
子供を育てている母親に、国や、区が支援はしているのだろうが。
 
子供を保育園にあずけて働きたい女性も多いだろうが、保育園が足りないという。
 
 
 
背もたれのある自転車に幼児を乗せて、走っている母親に自然に目が向いてしまう。
 
中には子供を前と後ろに乗せて走っている母親がいて、それを見ると「頑張れ!」と言いたくなる。
 
たまに小さい子をおんぶし、前と後ろに3人も乗せて走っている姿を見るとなおさらのことだ。
 
代沢近辺は部屋を借りるにしても、家賃が高い。
 
ご主人も頑張って働いているのだろう。
 
 
 
世田谷区が業者に依頼してやっていることだろうが、定期的かどうかわからないが、歩道に置いてある自転車をトラックに乗せて、撤去している光景を見ることがある。
 
トラックに乗せられた自転車の中に、背もたれの付いた自転車が、何台かあるのを見ると悲しくなる。
 
幼児を乗せるための背もたれだ。
 
幼児のいない人が背もたれの付いた自転車に乗るわけがない。
 
歩道に自転車を置けば、歩行者にも邪魔になる。
 
撤去するのもやむなしとは思うが、背もたれの付いた自転車だけは、お目こぼししてほしいものだ。
 
 
 
ぼくが今、ハマっている時代劇のテレビで「お上にも、お慈悲はある」というセリフがよく出てくる。
 
「みんなの広場」への投稿のタイトルを「お上にもお慈悲はある」と付けたが、ボツに。
 
 
 
自転車を撤去する人たち、そこまで考えてはやってはいまい。
 
歩道に置いてあれば全て撤去する。
 
しかし、自転車に乗って買い物しに来る人も多い。
 
それを全て撤去してしまったら、商店街はさびれるばかりだ。
 
 
 
小さな個人商店は、高い家賃を毎月払うだけでも大変だ。
 
家賃を払うために働いているお店も多いだろう。
 
店をオープンしてもすぐにやめてしまう。
 
大きなチェーン店は変わらないが、個人商店の入れ替わりは、目まぐるしいばかりだ。
 
家賃を払わなくても、自分の持ち物だという店を何軒か知っているが、それでも黒字にならないというのだから、いかに家賃が重くのしかかっていることか。
 
下北沢の商店街は、土曜日・曜はお客が入っているが、平日の人通りは少ない。
 
それに景気もいっこうに上向かない。
 
 
 
話がそれてしまったが、自転車を撤去されて、それを取りに行くと、3000円も取られてしまう。
 
幼児を抱えている母親にとっては大きな負担といえる。
 
世田谷区長は弱い者の味方だから、背もたれの付いた自転車だけは、撤去しないように業者を指導してほしいものだ。
 
鬼平も悪者に鬼のような人だけど、優しい気持ちの持ち主でもあるのだから。

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