2017年7月14日 (金)

コンクリートの僅かなすき間で生きている!

  線香花火を囲みてかがむ幼等の顔だけが影をつけて明るし
 
  紅く熟れし烏瓜白き壁に垂れ外科医院の窓のかたく閉ざせり
 
  仕事終えし日傭人夫の女たち後向きになりて身づくろせり
 
  ストリップ劇場出でこし夜の街に透きとほる靴下を下げし店あり
 
  掛声がもれくる地下の窓にして路上に吹きくる体臭を含む風
 
 
 
これらの短歌は大学生時代に作歌したものだ。短歌を作ることをやめてしまって、60年もの歳月が流れているが、何でもないような人の仕草や、行動半径は極端に狭くなっているが、街の表情などを感じとる習慣はなんとなく身についている。
 
 
 
家にばかりいては足が弱ってしまうので、1日に1度は買物をかねて、下北沢の商店街を通り過ぎて下北沢駅前のスーパーオオゼキに行くことが多い。
 
杖などいらないが、早くは歩けない。片道2、30分はかかるだろうか。今のところ途中で休まずに、スーパーにたどり着く。
 
帰りはカフエ「織部」か、「つゆ艸」に立ち寄る。「織部」には、朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。日経はいい新聞で文化欄も充実している。世の中の経済状態がよくわかる。
 
今時の大学生は新聞を読まないようだが、日本経済新聞だけは絶対に読むべきだ。
 
 
 
わが家から下北沢に向かうには、竹下元総理の自宅の前の住宅街を通り過ぎる。人の通りはほとんどない静かな住宅街だ。舗道も狭くてぼくが歩いていると、車道によけて通り過ぎる。その舗道のコンクリートの僅かなすき間になんの木かわからないが、5センチほど顔を出している。そのかわいい木をひきぬいてわが家に持ち帰り、小さな鉢に植え替えた。
 
もう1週間ほどになるが、根もついていたので生きているのだろう。どこからか種が飛んできて、コンクリートの僅かなすき間に入り込み生きていたのだ。その生命力の強さには驚くばかりだ。
 
たんぽぽ、小さなかわいいすみれ、なども見つけることがある。どこもかしこもコンクリートになっているのに、少しでも土があれば、そこに住みつく。
 
かつては川だったところが、道路になってその下を下水が流れている。森厳寺の裏手が今は歩道になっていて、そこを通ると駅に行く近道だ。歩道の両側は、つつじや、あじさいなどが植えられ、花の咲くころは目を楽しませてくれる。
 
 
 
とにかく85年も下北沢の街に住んでるのだから、街の変わりようは目まぐるしいばかりだ。
 
最近は外人がめだって多くなってきている。それも観光客でなく、住みついている人のようだ。中国人や、韓国の人はしゃべらない限り見分けがつかない。もう街に溶け込んでいるようだ。
 
 
 
「つゆ艸」のママの由美さんのお父さんが、最近、87歳で亡くなられた。数年前までは、9月のお祭りには必ず九州から出てこられていたので、何度かおめにかかったことがある。
 
最近、急に弱られていたようだ。若いころは製材所をやっておられていたそうで、木に愛着があり、器用にスプーンを作られていた。
 
「つゆ艸」のお店には、由美さんのお父さんが作られたスプーンが壁に飾られている。お父さんはいつまでも生きているようだ。
 
A
小さな木よ、大きくなれ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月10日 (月)

戦争の記憶が薄れてくると!

2017年7月2日の都議会選挙の投票日の東京新聞朝刊の記事だ。この時はまだ自民党が大惨敗するとは、誰も思っていなかった。
 
「戦争の惨めさを知った・満蒙開拓国ソ連兵へ『性接待』」の見出しだ。この記事の最後に「デスクメモ」があり、こんなことが書かれている。
 
 
 
「生きて捕虜の辱めを受けずと威張っていた人物が捕虜になるや、平然と同胞を売ったという話は「昭和」まではよく聞いた。
 
人の浅ましさ。戦争の記憶が薄れるにつれ、またぞろこの種の「愛国者」たちが跋扈している。素性は進行中の政権の醜聞を見る限り、変わらない。(牧)」
 
その日の深夜、自民党は大惨敗した。この記事を書いた、東京新聞の佐藤六さんもスカッとしたに違いない。
 
 
 
「ソ連兵の性接待の被害者だった89歳の女性が、戦後70年を過ぎたところから、つらい記憶を綴り始めた。
 
女性は戦前、岐阜県黒川村(現白川町)の「黒川開拓団の一員として満州に渡った。敗戦直後、ソ連兵への「性接待」を強いられた。
 
当時、17才。「ものすごく恥ずかしく、戦争の惨めさをさんざん知った。(中略)
 
食料の提供を受けるためにも、ソ連兵に女性たちを「差し出す」という。女性は逃げたかったが、開拓団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えなかった。
 
開拓団の共用施設の一室には、ずらりと布団が並べられていた。仕切りも何もない。交代でソ連兵の相手をさせられた。ソ連兵は銃の先で女性たちの体を小突き、丸太のように倒した。
 
「慌てているわ、扱いは恐ろしいわ、物扱い。」
 
ソ連兵が駐留した11月まで「性接待」は続いた。(後略)」
 
 
 
Img_5949 わが第二書房では、昭和31年11月10日発行の三上綾子著の『匪賊と共に―チチハル脱出記』を刊行している(1956年。今から52年前のことだ)。
 
この本が発売されるや、大きな反響を呼び「週刊新潮」が「性のいけにえになった女性群」という見出しで、5ページほど使って記事にしてくれ、その年のベストセラーになった。
 
その本の内容はすさまじく、戦争を経験した者でなければ理解できないだろう。
 
「満州における日本人開拓団は、未開の曠野に鍬を入れて、開墾の土地を切り開いていったのではなかった。
 
内地農家の満州移住を楽土建設をうたって、笛と太鼓で奨励した日本政府は、満州国政府に指令して、満人農家の人たちが祖先伝来営々として経営してきた豊穣な土地を、安く、タダみたいな金で強制的に買い上げると、そこへ日本開拓団を送り込んだのである。
 
こうした好条件で迎え入れられた開拓団の人の中には、それが全部とはむろん言わないけれど、次第と開拓の精神を忘れて、安逸をむさぼる者も当然出てきた。
 
正直な話、内地の豪農でいたものが、土地を捨てて満州へ移住なぞしなかったであろう。たいていが貧農なるがゆえの満州移住であったのだ。
 
「そう言っちゃなんだけど、比較的教養の低い人が多いように思うんだ。それで……」
 
満州へ来て、一躍、膨大な土地の主となった彼らの中には、満人を小作人として酷使したものもあった。
 
「畜生!いつかは……と思っていた。積もりに積もっていた満人の憤懣が、日本の敗北で爆発したんだ。ともかく開拓団に対する満人の反感は根が深いからね。」
 
 
 
稲田朋美防衛相、東京新聞の記事を読んでもらいたい。こんな防衛相のために生命を投げ出す自衛隊員がいるのだろうか?
 
 
 携帯を孫に教わる情けなさ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 8日 (土)

ぼくにスマホを使いこなせる日が?

デザイナーであり、イラストレーターでもある、80歳を過ぎても大活躍している宇野亜喜良さん。携帯電話など持たないし、事務所には、FAXもなければ、コピーもない。
 
今は亡き澁澤龍彦さんは、テレビもご自分で操作できなかったと聞いている。偉大なお二人の真似をしたわけではなく、ぼくの場合は頭が悪くて覚えられないから、文明の利器を使えないということだ。
 
そんなぼくが、なんと最新式の携帯電話を息子や、息子の嫁(一緒に同居している)に何の相談もなく、買い求めてしまったのだ。
 
 
 
我が家のすぐ近くにコジマがある。東急バスが渋谷と若林折返所を走っているが、わが家すぐ近くの「淡島」から乗ると、10分足らずでコジマのある若林折返所に着く。そこから歩いてコジマまで5分ほどだ。
 
ソニーの小さなカメラに充電できなったので、電池を買いにコジマに行ったのだ(それがトンマな話で、充電する機械?が二通りあって間違って使っていたの)。
 
「JCOM」と背中に書いてある制服を着た若者が、電池を探してくれた。この人、コジマの社員でなく、JCOMから派遣されている人で、自社の製品を売っている人だった。
 
我が家には、女房の部屋と、リビングにソニー製のテレビがあるが、リビングにあるテレビしか、BSとか時代劇を見れない。その話をしたら、すぐに担当の者を我が家に寄こして、2台とも時代劇でも映画でも見れるようにしてくれるという。ありがたいことだ。
 
その若者は『薔薇族』のことをよく知っていた。その若者に勧められたのでは買わないわけにはいかない。
 
今、ぼくの口座から落ちている金額が今より安くなるという。携帯の使用料も月に1000円足らずで、今、落ちている金額と同じくらいで、5分間以内の通話が、どこにかけても無料というからありがたい。
 
年寄りが使う携帯電話と、スマホとかいう新しいものと値段は同じだというから、新しいものにしてもらった。
 
 
 
携帯電話が送られてきて、手に持ったが、果たして使いこなせるかどうか。
 
昔なら孫に教わるなんてことはなかったが、携帯の使い方を教わるなんて、なんとも情けない。
 
カフエ「織部」の店長に、ブログを見る方法を教わったが、すぐに忘れてしまう。それでも自分が書いたブログを自分の力で見れた時の感動は忘れることはできない。
 
バスの中でも、電車の中でも、人々は携帯電話をいじっている。何を見ているのだろうか。ぼくにそのようなことができる日が訪れるのだろうか。生きているうちに。
 
 
 
都議会議員選挙、自民惨敗に終わった。
 
ぼくは世田谷学園には、大きな三つの恩があるので、愛校心は人一倍強いつもりだ。世田谷学園の同窓会の副会長の大場康宣君を世田谷区議会の議員だったころから、都議になってからもずっと支持してきた。
 
しかし、今回は大場さんに投票しなかった。世田谷区は18人も立候補者がいて、当選するのは8人。大場さん最下位の8人目でかろうじて当選した。
 
世田谷区には、世田谷学園の卒業生は多いのでは。同窓会がもっと機能していれば大場君は楽々当選できただろう。
 
同窓会の会長が無能で、同窓会は活発ではない。これから子供が少なくなっていく。同窓会を盛り上げないといけないのでは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月12日 (月)

蛇、蛙、とかげ、バッタ、なんでも食べて!

戦時中から戦後の食糧難の時代、何を食べて生き抜いてきたのか、あまり記憶がないが、野草でも、芋の茎でも食べた記憶はある。
 
ニューギニアの兵士たち、本土からの物資の補給を絶たれ、戦友の死んだ肉まで食べたのは事実だったようだ。
 
 
 
「蛇、蛙、とかげ、バッタは言うまでもなく、ヒル、かたつむり、ムカデ、毛虫、蝶々、アリ、クモ、ミミズも食べた。まともにのどを通らないことはわかっていても、見つけるとすぐに食指が動くのだ。
 
蝶々は羽についている粉を指で掻き落とした上で食べる。クモは一旦舌の上に乗せると、歯と舌にガサガサという食感が伝わって、不思議と脳神経を刺激する気がした。
 
とかげは昔から焼いて食べると下痢に効くと聞いていたが、ただ蟻だけは一度苦い思いをして、あとは捕まえないことにした。
 
とにかく大抵のものは焼くか煮るかすれば、何とか食べられることがわかった。そして保存できるものは、ほんの少しでも蓄えるように心がけた。
 
きのこを採りに行った日の真夜中、もとの小屋の方角に銃声を聞いて目が覚めた。翌朝行ってみると、例のとなり部隊の患者が殺され、持っていた澱粉なども全部盗みとられていた。
 
この患者グループは7名ぐらいだったが、夜間はつたに空き缶を吊るし、鳴子を二重に張りめぐらした上、めいめいが小銃を抱えたまま寝るという用心深さだったのに、どうしてこういう結果を招いたのだろう。私は暗然として、彼の屍にひざまずいた」
 
「翌日の朝、隣の小屋の患者グループ6名が再び襲われた。小銃、食料はもちろん持ち物全部が奪われたうえ、6名全部が犠牲者となった。私はあまりにも無残な6名の遺体の前に立ったまま、もはやそれを片付ける気力もなく、呆然としていた。
 
やがて遺体から悪臭が漂いはじめ、幾日かの後、白骨に変わっていった。そんな悪夢のすぎたある日、2、3人の原住民を連れた1人の日本兵が、近づいてくるのがはっきりと目に映った。夢かと思った。私は夢中で日本兵のほうに向かって走り出したが、すぐにつまずいて転んでしまった。
 
私は隣の患者グループの累々たる白骨に向かって敬礼した後、救援の人たちに抱きかかえられるようにして、ブーツを離れた。」(石塚卓三『ニューギニア東部最前線』)
 
 
 
日本兵が同胞を襲撃する話を、私は戦争中は聞いたことがありませんでした。まがりなりにも軍の秩序が守られている地域では、そんなことをすればたちまち銃殺です。しかし軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中で、それに類した話を私は何回も耳にしました。
 
「あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ。」
 
兵士たちが朝晩復唱させられ、金科玉条のごとく叩きこまれた軍人勅諭の精神、「一つ軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。一つ軍人は礼儀を正しくすべし」という精神はもはやカケラもありません。あるのは原始時代の動物の掟だけです。これらの手記が何よりも雄弁にその事実を語っています。」
 
 
 
もうこの辺で悲惨な話はよそう。しかし最近になって、戦争の匂いが立ち込めてきている。若い人たちに戦争の悲惨さを少しでも知ってもらいたかった。そんな話知りたくはないだろうが。
 
 
 
(コメントを書いてくれる人が増えてきたような。カフエ「織部」の店長に見せてもらっています。コメントを書いてくれると励みになります。よろしく。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月10日 (土)

母に会いたい!日本に帰りたい!

『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』(飯田進著・新潮社新書)どのページを開いてもアメリカ軍や、オーストラリア軍に追われて奥地へと敗退する日本兵の悲惨な姿が描かれている。
 
ぼくの伯父さん、和平おじさんの死、戦わずして、飢えとマラリアによって死んでいった兵士たちの死を無駄死にだったとは思いたくない。
 
敗戦後、72年間、日本が平和で復興・繁栄できたのも、戦場で命を落とした多くの兵士たちの思いがつながったからと考えたい。戦後送られてきた和平おじさんの骨壷に石ころが1こ入っていただけだとしても。
 
大湿地帯の行進がいかに大変だったかというくだりを記してみよう。
 
 
 
「果てしなく続く湿地と、湿地を覆い尽くすような密林の中に、戦友が知らぬ間に黙って倒れてゆく。病人や、自決したものの遺体が前進するに従い増えていった。担架に乗せられた人はもちろん、重症患者だが、乗せられない同じ程度の患者はそれより多かった。そしてその中でも比較的病状の軽いものは、担架をかつがねばならないが、それが原因で自分自身が再び動けない重病人に追いやってしまう。
 
1人の重病人の命を救うため、自分自身を再び動けない重病人に追いやってしまう。1人の重病人の命を救うため4人がその犠牲になるというケースが次第に増え始めたため、ついに『担送はしない。自力で動けないものは自分で始末せよ』という残酷な命令が出された。要するにどんな重病人でも、4人がかりの担送はやめよ。自分1人の力で自分の体を動かせないものは、その場で自決せよ、というのである。」
 
 
 
「それからさらに幾日行軍が続いたか分からぬが隊の先頭と後尾との距離は離れるばかりで、誰がどの辺りを歩いてるか見当もつかない状態になっていた。
 
私は再びしんがりを歩いていた。なんとか隊本部の所属グループに追いつこうとするが、足がいうことをきかぬ。はじめ背負子や小銃で受けた両肩と背中の擦り傷の痛みや、両腕と脛のかき傷の化膿の痛みはまだ辛抱できたが、肝心の足の痛みには堪えきれなくなった。
 
馬皮の靴はすでに先端が口をあけ、靴底は半分が外れそうになっていた。ふやけた足は小石や泥土で皮がむけ、爪先は血がにじんでいた。
 
靴を何度脱ぎ捨てようと思ったか分からぬ。しかし、かかとと甲の皮がくっついているだけで、足の保護には十分役立つので、どうしても捨てる気になれない。歩き出すと靴の先がパクパク開くため、泥ねいの中ではどうしてもうまく進めない。
 
その中の夕方近く、再びサゴ椰子やマングローブの両側に密生する深い泥沼に差しかかった。そのあたりは深いだけでなく、底の方ほど、粘土質のため両足を交互に抜くことさえ難しく、泥沼に突っ立ったまま、立ち往生のような格好になった。私は右足を泥沼から抜くべく、まず左足に力を入れ、次に半歩前のやや固いここぞと思うところを踏みつけ、どうにか右足を抜き終わった。
 
するとそのとたん、今度は左足がずるずると深い年度の中に滑り込み、膝まで浸かってそのまま後ろ向きに倒れそうになった。
 
瞬間、頭がクラックラッとして全身の力が抜けていくような感じになった。もうだめかと観念しそうになった時、突然、母の顔が目の前をかすめた。紛れもないおでこの広い顔である。やさしい目でじっと私を見つめて何かを言いたそうである。
 
「母に会いたい」「日本に帰りたい」という気持ちが、忽然と体中に湧き始めると、不思議な力が出てきた。」

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2017年6月 5日 (月)

多くの餓え死にしていった兵士たちの死は?

『地獄の日本兵』の著者の飯田進さんは、この本の序文にこんなことを記している。
 
「多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。
 
その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。それは映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。2百数10万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。」
 
 
 
著者の飯田さんは、ニューギニアの戦線から生還した人だ。その体験から怒りをもってこの本を書かれたのだ。
 
ガダルカナル戦は、太平洋戦争においての日米両軍の初の本格的な戦いで、その敗北が決定的なものになってしまった。
 
「昨日、上陸地点をすぎてから、ときおり異様な臭気が鼻をつく。屍臭である。上陸当初に、生きのこりの設営部隊から、あの地点に日本兵の千人を超える屍体が雨ざらしになっているというのを、半信半疑で聞いたのであったが、まんざら嘘でもないらしい。
 
前線への強行軍の途中、落伍して本隊から離脱し、人里のないジャングルや椰子林を彷徨し、飢えと悪疫に倒れたわが友軍の屍体が、しぜんに腐敗していく臭気である。幸いに臭気だけで、屍体は雑草か木陰に隠れて目に入らないので、多少救われたような気もするのだが―。
 
ところが、今朝は進むにつれて、そのいやな臭いが非常に多く、連続的にやってくる。道程は右は椰子林から白砂につづく波打ち際、青い海原、水平線―と、まったく絵に描きたいようなのんびりとしたよい景色であるが、行く先々でこの臭気におそわれるのでは、感興もへちまもあったものではない。
 
「むっ、まただ」と鼻をおさえ、よそ見をしていないで行き過ぎるが、すぐに次の臭気が鼻をつく。」
 
 
 
激しい論議の末に、大本営はガダルカナルからの撤退を決定した。それは危険な賭けだったが、昭和18年2月、夜の闇の中で生き残った1万名の兵士が駆逐艦隊により救出され、撤収作戦は終了した。
 
3万1千人の兵力を投入したうち、2万8百人、実に67%が死亡したことになる。その大多数は飢えで命を落としたのだ。
大本営というのは東京にあり、現地の現状が分からずモールス信号で指示していて、その命令を守っていたのだから、軍隊というところは恐ろしい。
 
日本に住む日本国民は、大本営の発表でこのように報じられていた。負けたことは知らされなかったのだ。
 
「ソロモン群島ガダルカナル島において作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘敵戦力を激挫しつつありが、その目的を達成するに依り、2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」
 
日本の国民は神国日本だから、最期はかならず勝つと信じていた。うその報道にも疑いを持たなかったのだから恐ろしい。
 
原爆を広島、長崎に落とされ多くの人が死んだというのに、軍部はまだ戦おうとしていた。武器もなく竹槍でだ。
 
 
 
敗戦から70数年が経ち、戦争の仕方も変わってきている。北朝鮮はミサイルを何発も打ち上げている。今にも戦争が起こりそうな気配が立ち込めている今、飢え死にしていった兵士たちは無駄死にだったのか、よく考えるべきではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 3日 (土)

20万人もの兵士の1割しか帰還しなかった!

祖父、伊藤冨士雄が大正時代に、吉原や洲崎の遊郭のお女郎さんを地獄のような苦界から救い出した話は、何度もブログに書いてきた。それは『地獄の女郎たち=遊郭の中での悲惨な話』と題すべきだろうか。
 
 
 
ぼくは下北沢の南口にある「下北沢整形外科リューマチ科クリニック」の先生にお世話になっているが、午後3時からの診療時間より早く行き過ぎてしまい、ビルの1階にある古書店「DORAMA」の店先の百円均一の古書を見ていた。
 
その中に新潮新書・飯田進著『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』の「ニューギニア戦線」に目が張り付いてしまった。
 
ぼくの親父、祷一は冨士雄の長男で、その下に勤治・和平という弟がいる。長女は15歳ぐらいの時に病死している。
 
父は虚弱なからだだったので、兵隊にとられなかったが、勤治は中国に、一番下の和平は朝鮮の会社で働いていたので、朝鮮にある日本軍の部隊に招集されていた。
 
日本にいる時間は、たったの一週間、その間に結婚し、あわただしく朝鮮に旅立ってしまった。
 
祖父の冨士雄が「和平」と名付けただけあって、心やさしいおじさんだった。たった一週間の結婚生活だったのに嫁は妊娠し、女の子が生まれた。
 
 
 
日本軍は破竹の勢いで、南方の各地を占領していった。ニューギニアへも、朝鮮や、中国にいる兵士たちを南方各地へ送りこんでいた。
 
和平おじさんもニューギニアに運ばれたのだろう。たった一通、はがきがニューギニアあから送られてきたのを見た記憶があるのでニューギニアに無事に着いたのは間違いない。
 
しかし、昭和17年頃からアメリカ軍は攻勢に転じてきて、20万人ものニューギニアにたどり着いた日本軍も、日本本土から武器、弾薬、食料品を積んだ船は、アメリカ軍に撃沈され現地への補給はまったくとざされてしまった。
 
 
 
この本のカバア裏に、こんなことが記されている。
 
「敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士のほうが遥かに多かった―。
 
昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。
 
幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令……。
 
「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。」
 
 
 
ぼくは戦時中、小学校6年制だったから、戦時中から、戦後にかけての食糧難の時代を体験している。
 
道路はコンクリートで舗装されていなかったから、道路脇までたがやして野菜を育てていた。空き地という空き地は、隣組が管理していろんな野菜を植えて育てていた。
 
肥料は人糞を使っていたので、寄生虫には悩まされ、祖母の肛門から出てきた、太いうどんのような寄生虫の気味悪い姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 
母はどのように食料を調達して、4人の子どもたちに食べさせてくれていたのか。その頃の母親の写真を見ると、その痩せ方はみじめだった。
 
配給になる魚は隣組の組長だった母が、世帯別に大きな木の箱を区切って、人数分でくばっていたが、いつも「すけそうだら」ばかりだった。その頃の印象が強烈だったので、今でも「たら」は嫌いなわけではないが食べない。
 
 
 
この本を開くと、どの頁も悲惨な話ばかりでショックを受けてしまった。お女郎さんの地獄とは、比較するような話ではなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月27日 (土)

大正時代の蔵書票と明治・大正の絵葉書―過ぎ去りし日の小さな絵展―

日本は古来から中国の影響で印鑑(ハンコ)の国だ。愛書家は自分の所有する書物に、蔵書印を見返しに押した。ところが西洋には印鑑はない。
 
15世紀の後半、ドイツの神父、ヨハネス・クナベンスブルグが作った木版画の蔵書票が世界最古級のひとつといわれている。
 
 
 
15世紀の中頃、ドイツのヨハン・グーテンベルグによって活版印刷が発明され、それまでの羊皮紙の手写本の世界は一変する。
 
斜めの台の上に1冊ずつ並べられていた本は印刷術の発明により、現在見られるようなスタイルの本になり、大量生産されるようになる。
 
本の数が次第に増すにつれ、整理も大変になり、まず所有者を明らかにするため、本の見返しに小紙片を貼ることが考えられたのが、蔵書票の始まりである。
 
 
 
現在に見られるようなスタイルの蔵書票をはるばるチェコスロバキア生まれのエミール・オルリックが、船で日本に浮世絵の勉強のためにやってこなければ、日本に蔵書票なるものが知られるのは、ずっと後のことになっていただろう。
 
画家としても版画家としても有名だった、エミール・オルリックが自作の蔵書票を、与謝野晶子が主宰する『明星』に4枚、紹介した。当時の芸術家、知識人が『明星』を愛読していて.その影響力は絶大だった。
 
 
 
日本の若い版画家たちがオルリックの紹介した蔵書票に版画芸術の新しいジャンルとして関心を寄せて、制作されるようになっていった。
 
 
知識人のお金持ちも自らの蔵書票の制作を若い版画家たちに依頼するようになり、大正時代が日本の蔵書票の夜明けとなった。それだけに活気に満ちた、版画家が精魂込めた作品は実に個性的で、優れた作品が多い。
 
 
Scan001_2
Scan002_2
 
 
創成期の大正時代の蔵書票が、こんなに大量に出展されることはなかった。
 
台湾に住むコレクターがな亡くなり、その遺族が売りに出したものを全て購入したものだ。その値段は忘れてしまっているが、おそらく10倍以上の金額であっただろうが、この価値を認めてくださった方々に購入していただければ幸いである。
 
 
 
ぼくが渋谷の渋谷区立松濤美術館で、1993年8月4日から9月12日まで開催された「特別展 フィリップ・バロス コレクション展 絵はがき芸術の楽しみ―忘れられていた小さな絵―」この展覧会を見に行ったのは、24年も前のことだ。明治33年、1900年の政令によって逓信省は民間ではがきを印刷し、販売することを許可し、私製の郵便はがきの発行が認められ、自由な図版ができるようになったのが、絵はがきのブームのきっかけとなった。
 
 
 
明治37年・38年の日露戦争で勝利し、戦争記念絵はがきが数多く作られ、戦地との交流に絵はがきが重宝がられた。
 
フランス人のフィリップ・バロス氏のコレクションは、当代一流の日本画家や、洋画家の制作されたものだけを展示している。
 
印刷技術を見ても、現在ではとても見られない手の込んだ精巧な作りで、数種の版を併用したり、透かしを入れてみたり、仕掛けを施したり、それぞれに意匠を凝らし技術を尽くしている。
 
 
 
ぼくのコレクションは、中途半端でとてもバロス氏のコレクションの足元にも及ばないが、いい作品もあるので見つけ出してください。
 
「ワイアート」では、ネットでも買える。絵はがきはまとめ買いすると格安になるようだ。
 
文ちゃんのふところが、少しでもあたたまるように、ご支援をお願いする。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月15日 (月)

脳梅毒のために髪が抜け落ちて!

『娼妓解放哀話』から、もうひとつの話。
 
「大正3年9月28日のことであった。新吉原江戸町2丁目の中村楼にいる常盤木という娼妓から、1通の手紙が伊藤君のところに届いた。
 
読んでみると、ひらがなと、カタカナとを混ぜこぜにした、さっぱりわからないものではあったが、それでも廃業したいから、ぜひ来てくれということは読みとれた。
 
早速行って会ってみたが、形容のできないほどの意志薄弱な女で、どうにも手のつけようがなかった。
 
「とにかく、あなたは今日限り娼妓をやめたいと思うのですか?」
 
「はい、もう1日もこんな稼業はできませんから、やめたいと思います。」
 
「では、これから僕と一緒に警察に行きましょう」
 
「だけど、おかみさんに叱られますから」
 
「自分の意思で廃業するんだから、おかみさんだって、それを邪魔する権利はないんです」
 
「警察に行ったなら、きっと巡査さんに叱られるでしょう」
 
「そんなことはない、僕がそばについていてあげるから」
 
「廃業したあとで、私はどうなるんです」
 
「堅気になって働けば、いいじゃないですか、まだ若いんだから」
 
「だって女郎なんかした者をやとってくれる人はいないでしょうから」
 
「そんなこと言っていては果てしがない。早く決心しなさい」
 
「ええ、決心しているんだけど、私……」
 
 
 
そんな問答を百万べんくり返しても埒が明かないと思ったので、伊藤君は最後の駄目押しをおいて、一緒に警察にまで行くだけの勇気がでたならいつでも、救いに来てあげると言い置いて帰った。
 
ところが1週間ほど経って、常盤木はなじみ客に頚動脈を切られて死んだ。
 
男も一緒に死んだので、死人に口なし、事情はさっぱりわからないが、伊藤君の面会した時の事情から察すれば、やっぱりぐずぐず言っているうちに男から無理心中させられたものだろう。
 
その翌年、9月4日のことであった。同じ新吉原の一力楼にいる春駒という娼妓から手紙で自廃の助力を求めてきた。
 
この女性は常盤木よりも学問があって、手紙も一通り読めるように書いてあった。
 
手紙を読むとすぐに伊藤君は面会に行ったが、一力楼ではなかなか面会させない。
 
とうとう交番の巡査に頼んで面会することができたが、楼内で面会されては、他の娼妓たちへ自廃が伝染してはならないというので、仲の町の写真屋の2階でおかみ立会いのもとに面会してみると、春駒がかわいそうに脳梅毒のために、髪がすっかり抜けてしまって、かつらをかぶって稼業をしているのであった。
 
 
 
春駒は伊藤君に、今日はこのままひきとってほしいと言った。(中略)
 
かれこれするうちに9月も末となった。
 
かつら女だと知ってか知らずか、なじみでもない登楼客と刃物心中を企てて、二人とも絶命した。
 
後で同楼から自廃した女に聞いてみると、春駒はちょっと顔立ちのいい女であったから、かつらをかぶった女とは知らずに登楼した男が、酒に酔っぱらって、無理にかつらを取ってみたがるのがつらいと言って自廃を思い立ったのであって、かつらをとって見ろという男は登楼者だけに限ったことではないのだから、いろいろと考えあぐんで末が、心中ということに落ち着いたらしい。
 
千人近い自廃娼妓をとり扱った伊藤君が、その目的を達しえないで、心中の悲劇に走らしめたのは以上の3名だけであった。
 
遊郭で心中する男も女も、ことごとく性病からきた麻痺性痴呆症患者ですよ。この患者だけは手に負えないと、医師に教えられたそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月12日 (金)

華やかな「花魁道中」の影に!

ぼくの祖父、伊東富士雄(大正12年・53歳で没)。救世軍の士官として、吉原や洲崎のお女郎さんを苦界から救い出す仕事をしていた。
 
昭和5年に中央公論社から刊行した『娼妓解放哀話』、祖父から聞き出した話を沖野岩三郎さんがまとめた本だ。
 
お女郎さんを廓の経営者から救い出すには、かなりの法律を熟知し、廓の経営者と渡り合う弁舌が必要だ。
 
お女郎さんを救い出す苦労話、この本にはいくつもの例が書かれている。
 
祖父は頭のいい人だったようだ。
 
 
 
「千葉県木更津から出てきたという50がらみの男が、救世軍本営に来て、娘の廃業を頼みますと泣きついてきた。
 
娘は19歳で吉原江戸の町の石◯楼に娼妓となって出て、4ヶ月目であるが、その半分は病院暮らしである。
 
全快すればまた嫌な稼業をしなければならないから、早く助けに来てくれと、父親に矢のような催促をしたので、父親は上京して吉原病院を訪ねて行ったが、楼主の許可がなければ面会させないとはねつけられた。(中略)
 
「私はこの子に650円(今だといくらぐらいになるのか?)出したのです。それに4ヶ月も半分しか稼がないで、廃業とはあんまりですと、泣きわめいた。
 
警察の警部(業者から賄賂をもらっているので廓の見方)も叱るように、「君たちふたりはぐるになって、650円の借金を踏み倒すつもりだな。廃業するのは勝手だが、650円という大金を、どうやって調達するつもりか。調達の見込みがないのに、廃業するのはけしからんじゃないか。さっ、その借金はどうするんだ!」と言う。
 
 
 
伊藤君はそばから口を出して、借金は借金で返済の義務があること、娼妓廃業は娼妓廃業で別問題であることを説いて、
 
「この親子ふたりが、あなたから650円の資本を借りて米屋を始めたとする。ところが4ヶ月を2ヶ月まで入院して、これでは米屋もできないと言って、廃業しようとするのを、米屋をすると言って、650円貸したんだから、病気だろうがなんだろうが米屋の廃業はまかりならぬ。
 
どんなに他に適当な事業があろうと、それに鞍替えしてはならない。なんでもかでも米屋を続けろと説諭する警部さんがあったとき、あなたはどうお考えになりますか。
 
そのとき米屋をやらないで、しょうゆ油屋をやろうとするのは、サギだとお考えになりますか?」と言ったので、係の警部は苦笑して説諭をやめた。
 
 
 
すると楼主は初めて、自分は若い女を質草に取ったのではないという理屈がわかったらしく、しきりに頭をかいて「そうですかなあ。そういう理屈ですかなあ。そうすると私たちほど弱い商売はありませんなあ」と言って、とうとう廃業に同意した。
 
「本当に弱い商売です。私は深くご同情いたします。どうか、1日も早くこんな弱い商売をおやめください」伊藤君は楼主に、そんな挨拶をして、警察を出てきた。」
 
 
 
ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村、そのとなりの町に分水という町がある。
 
川ぞいに桜並木があって、桜の季節には観光の目玉として「花魁道中」が華やかに催され、数万人の観光客が訪れる。
 
そのことにケチをつけるつもりはない。女郎の中でも教養があって、美しい女性が選ばれるのだろうが、貧しい親元からお金で売られてきた女性であることは同じだ。
 
いかにお女郎さんが、人権を無視され、ひどい仕打ちを受け、苦界に身を沈めていたかということを少しは知ってもらいたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧