2017年6月12日 (月)

蛇、蛙、とかげ、バッタ、なんでも食べて!

戦時中から戦後の食糧難の時代、何を食べて生き抜いてきたのか、あまり記憶がないが、野草でも、芋の茎でも食べた記憶はある。
 
ニューギニアの兵士たち、本土からの物資の補給を絶たれ、戦友の死んだ肉まで食べたのは事実だったようだ。
 
 
 
「蛇、蛙、とかげ、バッタは言うまでもなく、ヒル、かたつむり、ムカデ、毛虫、蝶々、アリ、クモ、ミミズも食べた。まともにのどを通らないことはわかっていても、見つけるとすぐに食指が動くのだ。
 
蝶々は羽についている粉を指で掻き落とした上で食べる。クモは一旦舌の上に乗せると、歯と舌にガサガサという食感が伝わって、不思議と脳神経を刺激する気がした。
 
とかげは昔から焼いて食べると下痢に効くと聞いていたが、ただ蟻だけは一度苦い思いをして、あとは捕まえないことにした。
 
とにかく大抵のものは焼くか煮るかすれば、何とか食べられることがわかった。そして保存できるものは、ほんの少しでも蓄えるように心がけた。
 
きのこを採りに行った日の真夜中、もとの小屋の方角に銃声を聞いて目が覚めた。翌朝行ってみると、例のとなり部隊の患者が殺され、持っていた澱粉なども全部盗みとられていた。
 
この患者グループは7名ぐらいだったが、夜間はつたに空き缶を吊るし、鳴子を二重に張りめぐらした上、めいめいが小銃を抱えたまま寝るという用心深さだったのに、どうしてこういう結果を招いたのだろう。私は暗然として、彼の屍にひざまずいた」
 
「翌日の朝、隣の小屋の患者グループ6名が再び襲われた。小銃、食料はもちろん持ち物全部が奪われたうえ、6名全部が犠牲者となった。私はあまりにも無残な6名の遺体の前に立ったまま、もはやそれを片付ける気力もなく、呆然としていた。
 
やがて遺体から悪臭が漂いはじめ、幾日かの後、白骨に変わっていった。そんな悪夢のすぎたある日、2、3人の原住民を連れた1人の日本兵が、近づいてくるのがはっきりと目に映った。夢かと思った。私は夢中で日本兵のほうに向かって走り出したが、すぐにつまずいて転んでしまった。
 
私は隣の患者グループの累々たる白骨に向かって敬礼した後、救援の人たちに抱きかかえられるようにして、ブーツを離れた。」(石塚卓三『ニューギニア東部最前線』)
 
 
 
日本兵が同胞を襲撃する話を、私は戦争中は聞いたことがありませんでした。まがりなりにも軍の秩序が守られている地域では、そんなことをすればたちまち銃殺です。しかし軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中で、それに類した話を私は何回も耳にしました。
 
「あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ。」
 
兵士たちが朝晩復唱させられ、金科玉条のごとく叩きこまれた軍人勅諭の精神、「一つ軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。一つ軍人は礼儀を正しくすべし」という精神はもはやカケラもありません。あるのは原始時代の動物の掟だけです。これらの手記が何よりも雄弁にその事実を語っています。」
 
 
 
もうこの辺で悲惨な話はよそう。しかし最近になって、戦争の匂いが立ち込めてきている。若い人たちに戦争の悲惨さを少しでも知ってもらいたかった。そんな話知りたくはないだろうが。
 
 
 
(コメントを書いてくれる人が増えてきたような。カフエ「織部」の店長に見せてもらっています。コメントを書いてくれると励みになります。よろしく。)

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2017年6月10日 (土)

母に会いたい!日本に帰りたい!

『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』(飯田進著・新潮社新書)どのページを開いてもアメリカ軍や、オーストラリア軍に追われて奥地へと敗退する日本兵の悲惨な姿が描かれている。
 
ぼくの伯父さん、和平おじさんの死、戦わずして、飢えとマラリアによって死んでいった兵士たちの死を無駄死にだったとは思いたくない。
 
敗戦後、72年間、日本が平和で復興・繁栄できたのも、戦場で命を落とした多くの兵士たちの思いがつながったからと考えたい。戦後送られてきた和平おじさんの骨壷に石ころが1こ入っていただけだとしても。
 
大湿地帯の行進がいかに大変だったかというくだりを記してみよう。
 
 
 
「果てしなく続く湿地と、湿地を覆い尽くすような密林の中に、戦友が知らぬ間に黙って倒れてゆく。病人や、自決したものの遺体が前進するに従い増えていった。担架に乗せられた人はもちろん、重症患者だが、乗せられない同じ程度の患者はそれより多かった。そしてその中でも比較的病状の軽いものは、担架をかつがねばならないが、それが原因で自分自身が再び動けない重病人に追いやってしまう。
 
1人の重病人の命を救うため、自分自身を再び動けない重病人に追いやってしまう。1人の重病人の命を救うため4人がその犠牲になるというケースが次第に増え始めたため、ついに『担送はしない。自力で動けないものは自分で始末せよ』という残酷な命令が出された。要するにどんな重病人でも、4人がかりの担送はやめよ。自分1人の力で自分の体を動かせないものは、その場で自決せよ、というのである。」
 
 
 
「それからさらに幾日行軍が続いたか分からぬが隊の先頭と後尾との距離は離れるばかりで、誰がどの辺りを歩いてるか見当もつかない状態になっていた。
 
私は再びしんがりを歩いていた。なんとか隊本部の所属グループに追いつこうとするが、足がいうことをきかぬ。はじめ背負子や小銃で受けた両肩と背中の擦り傷の痛みや、両腕と脛のかき傷の化膿の痛みはまだ辛抱できたが、肝心の足の痛みには堪えきれなくなった。
 
馬皮の靴はすでに先端が口をあけ、靴底は半分が外れそうになっていた。ふやけた足は小石や泥土で皮がむけ、爪先は血がにじんでいた。
 
靴を何度脱ぎ捨てようと思ったか分からぬ。しかし、かかとと甲の皮がくっついているだけで、足の保護には十分役立つので、どうしても捨てる気になれない。歩き出すと靴の先がパクパク開くため、泥ねいの中ではどうしてもうまく進めない。
 
その中の夕方近く、再びサゴ椰子やマングローブの両側に密生する深い泥沼に差しかかった。そのあたりは深いだけでなく、底の方ほど、粘土質のため両足を交互に抜くことさえ難しく、泥沼に突っ立ったまま、立ち往生のような格好になった。私は右足を泥沼から抜くべく、まず左足に力を入れ、次に半歩前のやや固いここぞと思うところを踏みつけ、どうにか右足を抜き終わった。
 
するとそのとたん、今度は左足がずるずると深い年度の中に滑り込み、膝まで浸かってそのまま後ろ向きに倒れそうになった。
 
瞬間、頭がクラックラッとして全身の力が抜けていくような感じになった。もうだめかと観念しそうになった時、突然、母の顔が目の前をかすめた。紛れもないおでこの広い顔である。やさしい目でじっと私を見つめて何かを言いたそうである。
 
「母に会いたい」「日本に帰りたい」という気持ちが、忽然と体中に湧き始めると、不思議な力が出てきた。」

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2017年6月 5日 (月)

多くの餓え死にしていった兵士たちの死は?

『地獄の日本兵』の著者の飯田進さんは、この本の序文にこんなことを記している。
 
「多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。
 
その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。それは映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。2百数10万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。」
 
 
 
著者の飯田さんは、ニューギニアの戦線から生還した人だ。その体験から怒りをもってこの本を書かれたのだ。
 
ガダルカナル戦は、太平洋戦争においての日米両軍の初の本格的な戦いで、その敗北が決定的なものになってしまった。
 
「昨日、上陸地点をすぎてから、ときおり異様な臭気が鼻をつく。屍臭である。上陸当初に、生きのこりの設営部隊から、あの地点に日本兵の千人を超える屍体が雨ざらしになっているというのを、半信半疑で聞いたのであったが、まんざら嘘でもないらしい。
 
前線への強行軍の途中、落伍して本隊から離脱し、人里のないジャングルや椰子林を彷徨し、飢えと悪疫に倒れたわが友軍の屍体が、しぜんに腐敗していく臭気である。幸いに臭気だけで、屍体は雑草か木陰に隠れて目に入らないので、多少救われたような気もするのだが―。
 
ところが、今朝は進むにつれて、そのいやな臭いが非常に多く、連続的にやってくる。道程は右は椰子林から白砂につづく波打ち際、青い海原、水平線―と、まったく絵に描きたいようなのんびりとしたよい景色であるが、行く先々でこの臭気におそわれるのでは、感興もへちまもあったものではない。
 
「むっ、まただ」と鼻をおさえ、よそ見をしていないで行き過ぎるが、すぐに次の臭気が鼻をつく。」
 
 
 
激しい論議の末に、大本営はガダルカナルからの撤退を決定した。それは危険な賭けだったが、昭和18年2月、夜の闇の中で生き残った1万名の兵士が駆逐艦隊により救出され、撤収作戦は終了した。
 
3万1千人の兵力を投入したうち、2万8百人、実に67%が死亡したことになる。その大多数は飢えで命を落としたのだ。
大本営というのは東京にあり、現地の現状が分からずモールス信号で指示していて、その命令を守っていたのだから、軍隊というところは恐ろしい。
 
日本に住む日本国民は、大本営の発表でこのように報じられていた。負けたことは知らされなかったのだ。
 
「ソロモン群島ガダルカナル島において作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘敵戦力を激挫しつつありが、その目的を達成するに依り、2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」
 
日本の国民は神国日本だから、最期はかならず勝つと信じていた。うその報道にも疑いを持たなかったのだから恐ろしい。
 
原爆を広島、長崎に落とされ多くの人が死んだというのに、軍部はまだ戦おうとしていた。武器もなく竹槍でだ。
 
 
 
敗戦から70数年が経ち、戦争の仕方も変わってきている。北朝鮮はミサイルを何発も打ち上げている。今にも戦争が起こりそうな気配が立ち込めている今、飢え死にしていった兵士たちは無駄死にだったのか、よく考えるべきではなかろうか。

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2017年6月 3日 (土)

20万人もの兵士の1割しか帰還しなかった!

祖父、伊藤冨士雄が大正時代に、吉原や洲崎の遊郭のお女郎さんを地獄のような苦界から救い出した話は、何度もブログに書いてきた。それは『地獄の女郎たち=遊郭の中での悲惨な話』と題すべきだろうか。
 
 
 
ぼくは下北沢の南口にある「下北沢整形外科リューマチ科クリニック」の先生にお世話になっているが、午後3時からの診療時間より早く行き過ぎてしまい、ビルの1階にある古書店「DORAMA」の店先の百円均一の古書を見ていた。
 
その中に新潮新書・飯田進著『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』の「ニューギニア戦線」に目が張り付いてしまった。
 
ぼくの親父、祷一は冨士雄の長男で、その下に勤治・和平という弟がいる。長女は15歳ぐらいの時に病死している。
 
父は虚弱なからだだったので、兵隊にとられなかったが、勤治は中国に、一番下の和平は朝鮮の会社で働いていたので、朝鮮にある日本軍の部隊に招集されていた。
 
日本にいる時間は、たったの一週間、その間に結婚し、あわただしく朝鮮に旅立ってしまった。
 
祖父の冨士雄が「和平」と名付けただけあって、心やさしいおじさんだった。たった一週間の結婚生活だったのに嫁は妊娠し、女の子が生まれた。
 
 
 
日本軍は破竹の勢いで、南方の各地を占領していった。ニューギニアへも、朝鮮や、中国にいる兵士たちを南方各地へ送りこんでいた。
 
和平おじさんもニューギニアに運ばれたのだろう。たった一通、はがきがニューギニアあから送られてきたのを見た記憶があるのでニューギニアに無事に着いたのは間違いない。
 
しかし、昭和17年頃からアメリカ軍は攻勢に転じてきて、20万人ものニューギニアにたどり着いた日本軍も、日本本土から武器、弾薬、食料品を積んだ船は、アメリカ軍に撃沈され現地への補給はまったくとざされてしまった。
 
 
 
この本のカバア裏に、こんなことが記されている。
 
「敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士のほうが遥かに多かった―。
 
昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。
 
幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令……。
 
「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。」
 
 
 
ぼくは戦時中、小学校6年制だったから、戦時中から、戦後にかけての食糧難の時代を体験している。
 
道路はコンクリートで舗装されていなかったから、道路脇までたがやして野菜を育てていた。空き地という空き地は、隣組が管理していろんな野菜を植えて育てていた。
 
肥料は人糞を使っていたので、寄生虫には悩まされ、祖母の肛門から出てきた、太いうどんのような寄生虫の気味悪い姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 
母はどのように食料を調達して、4人の子どもたちに食べさせてくれていたのか。その頃の母親の写真を見ると、その痩せ方はみじめだった。
 
配給になる魚は隣組の組長だった母が、世帯別に大きな木の箱を区切って、人数分でくばっていたが、いつも「すけそうだら」ばかりだった。その頃の印象が強烈だったので、今でも「たら」は嫌いなわけではないが食べない。
 
 
 
この本を開くと、どの頁も悲惨な話ばかりでショックを受けてしまった。お女郎さんの地獄とは、比較するような話ではなかった。

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2017年5月27日 (土)

大正時代の蔵書票と明治・大正の絵葉書―過ぎ去りし日の小さな絵展―

日本は古来から中国の影響で印鑑(ハンコ)の国だ。愛書家は自分の所有する書物に、蔵書印を見返しに押した。ところが西洋には印鑑はない。
 
15世紀の後半、ドイツの神父、ヨハネス・クナベンスブルグが作った木版画の蔵書票が世界最古級のひとつといわれている。
 
 
 
15世紀の中頃、ドイツのヨハン・グーテンベルグによって活版印刷が発明され、それまでの羊皮紙の手写本の世界は一変する。
 
斜めの台の上に1冊ずつ並べられていた本は印刷術の発明により、現在見られるようなスタイルの本になり、大量生産されるようになる。
 
本の数が次第に増すにつれ、整理も大変になり、まず所有者を明らかにするため、本の見返しに小紙片を貼ることが考えられたのが、蔵書票の始まりである。
 
 
 
現在に見られるようなスタイルの蔵書票をはるばるチェコスロバキア生まれのエミール・オルリックが、船で日本に浮世絵の勉強のためにやってこなければ、日本に蔵書票なるものが知られるのは、ずっと後のことになっていただろう。
 
画家としても版画家としても有名だった、エミール・オルリックが自作の蔵書票を、与謝野晶子が主宰する『明星』に4枚、紹介した。当時の芸術家、知識人が『明星』を愛読していて.その影響力は絶大だった。
 
 
 
日本の若い版画家たちがオルリックの紹介した蔵書票に版画芸術の新しいジャンルとして関心を寄せて、制作されるようになっていった。
 
 
知識人のお金持ちも自らの蔵書票の制作を若い版画家たちに依頼するようになり、大正時代が日本の蔵書票の夜明けとなった。それだけに活気に満ちた、版画家が精魂込めた作品は実に個性的で、優れた作品が多い。
 
 
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創成期の大正時代の蔵書票が、こんなに大量に出展されることはなかった。
 
台湾に住むコレクターがな亡くなり、その遺族が売りに出したものを全て購入したものだ。その値段は忘れてしまっているが、おそらく10倍以上の金額であっただろうが、この価値を認めてくださった方々に購入していただければ幸いである。
 
 
 
ぼくが渋谷の渋谷区立松濤美術館で、1993年8月4日から9月12日まで開催された「特別展 フィリップ・バロス コレクション展 絵はがき芸術の楽しみ―忘れられていた小さな絵―」この展覧会を見に行ったのは、24年も前のことだ。明治33年、1900年の政令によって逓信省は民間ではがきを印刷し、販売することを許可し、私製の郵便はがきの発行が認められ、自由な図版ができるようになったのが、絵はがきのブームのきっかけとなった。
 
 
 
明治37年・38年の日露戦争で勝利し、戦争記念絵はがきが数多く作られ、戦地との交流に絵はがきが重宝がられた。
 
フランス人のフィリップ・バロス氏のコレクションは、当代一流の日本画家や、洋画家の制作されたものだけを展示している。
 
印刷技術を見ても、現在ではとても見られない手の込んだ精巧な作りで、数種の版を併用したり、透かしを入れてみたり、仕掛けを施したり、それぞれに意匠を凝らし技術を尽くしている。
 
 
 
ぼくのコレクションは、中途半端でとてもバロス氏のコレクションの足元にも及ばないが、いい作品もあるので見つけ出してください。
 
「ワイアート」では、ネットでも買える。絵はがきはまとめ買いすると格安になるようだ。
 
文ちゃんのふところが、少しでもあたたまるように、ご支援をお願いする。
 

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2017年5月15日 (月)

脳梅毒のために髪が抜け落ちて!

『娼妓解放哀話』から、もうひとつの話。
 
「大正3年9月28日のことであった。新吉原江戸町2丁目の中村楼にいる常盤木という娼妓から、1通の手紙が伊藤君のところに届いた。
 
読んでみると、ひらがなと、カタカナとを混ぜこぜにした、さっぱりわからないものではあったが、それでも廃業したいから、ぜひ来てくれということは読みとれた。
 
早速行って会ってみたが、形容のできないほどの意志薄弱な女で、どうにも手のつけようがなかった。
 
「とにかく、あなたは今日限り娼妓をやめたいと思うのですか?」
 
「はい、もう1日もこんな稼業はできませんから、やめたいと思います。」
 
「では、これから僕と一緒に警察に行きましょう」
 
「だけど、おかみさんに叱られますから」
 
「自分の意思で廃業するんだから、おかみさんだって、それを邪魔する権利はないんです」
 
「警察に行ったなら、きっと巡査さんに叱られるでしょう」
 
「そんなことはない、僕がそばについていてあげるから」
 
「廃業したあとで、私はどうなるんです」
 
「堅気になって働けば、いいじゃないですか、まだ若いんだから」
 
「だって女郎なんかした者をやとってくれる人はいないでしょうから」
 
「そんなこと言っていては果てしがない。早く決心しなさい」
 
「ええ、決心しているんだけど、私……」
 
 
 
そんな問答を百万べんくり返しても埒が明かないと思ったので、伊藤君は最後の駄目押しをおいて、一緒に警察にまで行くだけの勇気がでたならいつでも、救いに来てあげると言い置いて帰った。
 
ところが1週間ほど経って、常盤木はなじみ客に頚動脈を切られて死んだ。
 
男も一緒に死んだので、死人に口なし、事情はさっぱりわからないが、伊藤君の面会した時の事情から察すれば、やっぱりぐずぐず言っているうちに男から無理心中させられたものだろう。
 
その翌年、9月4日のことであった。同じ新吉原の一力楼にいる春駒という娼妓から手紙で自廃の助力を求めてきた。
 
この女性は常盤木よりも学問があって、手紙も一通り読めるように書いてあった。
 
手紙を読むとすぐに伊藤君は面会に行ったが、一力楼ではなかなか面会させない。
 
とうとう交番の巡査に頼んで面会することができたが、楼内で面会されては、他の娼妓たちへ自廃が伝染してはならないというので、仲の町の写真屋の2階でおかみ立会いのもとに面会してみると、春駒がかわいそうに脳梅毒のために、髪がすっかり抜けてしまって、かつらをかぶって稼業をしているのであった。
 
 
 
春駒は伊藤君に、今日はこのままひきとってほしいと言った。(中略)
 
かれこれするうちに9月も末となった。
 
かつら女だと知ってか知らずか、なじみでもない登楼客と刃物心中を企てて、二人とも絶命した。
 
後で同楼から自廃した女に聞いてみると、春駒はちょっと顔立ちのいい女であったから、かつらをかぶった女とは知らずに登楼した男が、酒に酔っぱらって、無理にかつらを取ってみたがるのがつらいと言って自廃を思い立ったのであって、かつらをとって見ろという男は登楼者だけに限ったことではないのだから、いろいろと考えあぐんで末が、心中ということに落ち着いたらしい。
 
千人近い自廃娼妓をとり扱った伊藤君が、その目的を達しえないで、心中の悲劇に走らしめたのは以上の3名だけであった。
 
遊郭で心中する男も女も、ことごとく性病からきた麻痺性痴呆症患者ですよ。この患者だけは手に負えないと、医師に教えられたそうだ。

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2017年5月12日 (金)

華やかな「花魁道中」の影に!

ぼくの祖父、伊東富士雄(大正12年・53歳で没)。救世軍の士官として、吉原や洲崎のお女郎さんを苦界から救い出す仕事をしていた。
 
昭和5年に中央公論社から刊行した『娼妓解放哀話』、祖父から聞き出した話を沖野岩三郎さんがまとめた本だ。
 
お女郎さんを廓の経営者から救い出すには、かなりの法律を熟知し、廓の経営者と渡り合う弁舌が必要だ。
 
お女郎さんを救い出す苦労話、この本にはいくつもの例が書かれている。
 
祖父は頭のいい人だったようだ。
 
 
 
「千葉県木更津から出てきたという50がらみの男が、救世軍本営に来て、娘の廃業を頼みますと泣きついてきた。
 
娘は19歳で吉原江戸の町の石◯楼に娼妓となって出て、4ヶ月目であるが、その半分は病院暮らしである。
 
全快すればまた嫌な稼業をしなければならないから、早く助けに来てくれと、父親に矢のような催促をしたので、父親は上京して吉原病院を訪ねて行ったが、楼主の許可がなければ面会させないとはねつけられた。(中略)
 
「私はこの子に650円(今だといくらぐらいになるのか?)出したのです。それに4ヶ月も半分しか稼がないで、廃業とはあんまりですと、泣きわめいた。
 
警察の警部(業者から賄賂をもらっているので廓の見方)も叱るように、「君たちふたりはぐるになって、650円の借金を踏み倒すつもりだな。廃業するのは勝手だが、650円という大金を、どうやって調達するつもりか。調達の見込みがないのに、廃業するのはけしからんじゃないか。さっ、その借金はどうするんだ!」と言う。
 
 
 
伊藤君はそばから口を出して、借金は借金で返済の義務があること、娼妓廃業は娼妓廃業で別問題であることを説いて、
 
「この親子ふたりが、あなたから650円の資本を借りて米屋を始めたとする。ところが4ヶ月を2ヶ月まで入院して、これでは米屋もできないと言って、廃業しようとするのを、米屋をすると言って、650円貸したんだから、病気だろうがなんだろうが米屋の廃業はまかりならぬ。
 
どんなに他に適当な事業があろうと、それに鞍替えしてはならない。なんでもかでも米屋を続けろと説諭する警部さんがあったとき、あなたはどうお考えになりますか。
 
そのとき米屋をやらないで、しょうゆ油屋をやろうとするのは、サギだとお考えになりますか?」と言ったので、係の警部は苦笑して説諭をやめた。
 
 
 
すると楼主は初めて、自分は若い女を質草に取ったのではないという理屈がわかったらしく、しきりに頭をかいて「そうですかなあ。そういう理屈ですかなあ。そうすると私たちほど弱い商売はありませんなあ」と言って、とうとう廃業に同意した。
 
「本当に弱い商売です。私は深くご同情いたします。どうか、1日も早くこんな弱い商売をおやめください」伊藤君は楼主に、そんな挨拶をして、警察を出てきた。」
 
 
 
ぼくの女房の古里、新潟県の弥彦村、そのとなりの町に分水という町がある。
 
川ぞいに桜並木があって、桜の季節には観光の目玉として「花魁道中」が華やかに催され、数万人の観光客が訪れる。
 
そのことにケチをつけるつもりはない。女郎の中でも教養があって、美しい女性が選ばれるのだろうが、貧しい親元からお金で売られてきた女性であることは同じだ。
 
いかにお女郎さんが、人権を無視され、ひどい仕打ちを受け、苦界に身を沈めていたかということを少しは知ってもらいたいものだ。

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2017年5月 8日 (月)

皮膚という衣裳を身に着けて踊っている!

藤田竜くんが全く一人で編集、制作した『青年画報』は、『薔薇族』の文字が小さくしか入っていない。
 
1号を買った読者の反響が2号の最後のページに載っている。「『薔薇族』の文字が小さいので買いやすいです。市内の書店で女性誌と並べて置いてあるところがありまして…」と札幌の読者が投稿している。
 
2号目はSM特集で、79年冬の号だ。
 
日本兵が中国の男性を数人で銃剣で刺し殺している、毎日新聞の「秘匿ネガ」が、「戦時中の人間性」と題して2枚の写真が載っている。
 
戦争っておそろしい。人間性を変えてしまうからだ。二度とこのようなことがあってはならない。
 
 
 
ぼくが先妻の舞踊家、ミカの「名作『O 嬢の物語』舞踊化の頃のこと」と題した文章が載っている。
 
文章が長いのでさわりのところだけ紹介しよう。
 
「初演は昭和42年の10月30日と31日の2日間、新宿の厚生年金会館の小ホール(700人収容)で行われた。
 
週刊新潮をはじめ、いろんな雑誌に紹介されて好評だった。
 
再演は暮れの12月26日、同じく新宿厚生年金会館小ホールで開かれた。
 
週刊誌で紹介されたこともあって、遠く北海道から駆けつけてきた人もあり、開演前に長蛇の列ができるほどだった。
 
「観客席の台の上のO嬢であるミカを見ながら観客は扉を出て行く。再演の時だった。O嬢の周りを取り囲み、何十人かのギラギラした男たちの目が、ねばりつくように注がれる。
 
公演の前日のことだった。ぼくがミカの全身の毛を剃り落として、童女のようになっていた。その裸体ににわとりの白い羽毛を全身にぬりつけたのりにはりつけたのだ。
 
下半身にはビキニの薄いパンティをつけてはいたが、それがわからないように羽毛がはりつけられていた。
 
ミカは観客の目に異様な殺気を感じた。全ての会場のライトは消されて、ミカの白い羽毛に覆われた裸身だけを浮き立たせるようにそこだけに光が当たっていた。
 
観客の中のひとりの男が、パンティの上から手を入れた。それを待っていたように、下からも、横からも、何人かの手がパンティの中にすべり込む。
 
もぐりこんだ指が、そこにあると思ったものがないのを察するかのように、びくっと手を引っ込める。のっぺりとしてそこに何にもないからだ。
 
上から入れられた指と、下から入れられた指とが、パンティーの中でさわる。お互いにぎくっとして手を引っ込める。
 
ミカは完全にO嬢になりきっていた。そのあと、そのたくさんの指が何をしたかは知らない。
 
静止した何分かが過ぎた。
 
「お疲れさま」
 
天井のライトがいっせいについて、舞台から舞台監督の荒木君がとび降りてくる。もう観客席には、1人の客もいなかった。
 
スタッフの全員が、口々に「お疲れさま」と声をかけあって、ミカの周りに集まってくる。
 
数日して、1通の手紙がミカのところに舞い込んだ。
 
白い羽毛が1枚と、完全にO嬢になりきっていたミカをほめたたえる手紙が入っていた。」
 
ミカは33歳の若さで風呂場で事故死してしまったが、もうこんな舞踊家は二度と現れないだろう。
 
興味を持たれた方は、ミカとの出会いから亡くなるまでの15年間を書いた、彩流社刊のぼくの著書「裸の女房」を読んでもらいたい。
 
この本にサインを求められると、ぼくは「ミカと出会えたことの幸せ」と書いている。

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2017年5月 6日 (土)

隠さなくったって、もういいじゃない!

新潮社からスゴイ書名の本が出版された。木下直之さんの『股間若衆』に次ぐ本だ。
 
『せいきの大問題=新股間若衆』、「せいき」は「世紀」と「性器」をかけた言葉だろう。
 
Seikinodaimondai
 
帯に「時をかけ、世界を股にかける若衆たち。隠さなくたって、もういいじゃない!」
 
俳優、小林聡美とある。帯に推薦文を書くくらいの方だから、有名な俳優さんなだろうが、どんな方なのかわからない。
 
こんなときにネットで調べれば、すぐにわかるのだろうが、ネットを触れないのだからどうにもならない。
 
「隠さなくたって、もういいじゃない!」と言いきるぐらいの方だから、それなりの活動をしている方だろう。
 
「男の、女の裸体表現の秘所をさぐる天下の奇書」とも書いてある。
 
 
 
ぼくが創刊した『薔薇族』の旗印は「隠れていないで表に出よう!」だったが、そう簡単には表に出られない。まだまだ隠れてひっそり暮らしている人が、大多数なのだから。
 
性器そのものでなく、女性が裸になることにだって抵抗がある。
 
 
 
それにしても木下直之さん、日本中の裸像の銅像をよく調べ上げたものだ。
 
時代によって、葉っぱで隠したり、もっこりだけのものもあるし、リアルに大きなものをぶら下げているものもある。
 
 
 
ぼくは警視庁の風紀係に、発禁4回、始末書を書かされること20数回、桜田門までの定期券を買えと、嫌味を言われたことさえある。
 
警視庁の建物が新しくなって、玄関の扉をあけると、広くなっていて、その壁面に朝倉文夫さんの作の男性の裸像がで〜んと置かれている。
 
風紀係に呼び出され玄関脇の受付で要件を告げると、係に連絡してくれて、係官が迎えに来てくれる。バッチみたいなものを胸につけて、係官とエレベーターに乗るのだが、ぼくは朝倉さんの裸像を指さして、「アレはいいのですか?」と、聞いてみた。
 
係官は「アレは自然な形だからいいので、君のところは不自然だから駄目なんだ」と。
 
警視庁もこの朝倉さんの裸像を今更撤去できないし、なんとなく後ろめたい気持ちがあるのか、写真撮影は許されていない。だから木下さんの本の中にこの裸像は出てこない。
 
 
 
都内の各所に男性の裸像が建てられているが、それを見る人ってあまりいないのでは。
 
その証拠に足立区の方で、ゲイの青年が殺された事件があり、警視庁の捜査一課の刑事さん二人が、ぼくに話を訊きにきたことがある。
 
殺された青年は毛深い男で、お尻のまわりも毛むくじゃらで、お尻の回りだけ、毛をそられていた。それは肛門性交するときに、毛があるのと痛いので剃ったのだろう。殺した男もゲイであることは間違いない。
 
二人の刑事さんに朝倉さんの男性像のことを聞いたら、毎日、通っているのに、その存在を知らないという。興味のないものは見ないということだ。
 
 
 
『せいきの大問題』全部読むとしたら、いつのことになるかわからない。それならば、この本が出ましたよと、ブログに書くことにした。これは面白そうだと思ったら買って読んでほしい。
 
この本の最後の方に、「ろくでなし子」さんのことが書かれている。木下さんは「ろくでなし子」さんの裁判を傍聴している。このへんのところは、じっくりと時間をかけて読んでみたい。
 
 
 
ぼくは30数年『薔薇族』を出し続けて、「股間」を見続けてきた。
 
木下直之さん、なんでそんなに「股間」に興味を持つのだろうか。
 
一般の人はそんなところに目を向けないのに、本にまでしてしまう木下さんって不思議なお人だ。

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2017年4月17日 (月)

桜の古木と同じように、ぼくも一花咲かせるか!

3月19日で85歳の誕生日を迎えてしまった。
 
親友のカメラマンの中嶌英雄君が経営する銀座のMUSIC&BAR「まじかな」で「文ちゃん85歳の誕生を祝う会」を開いてくれた。
 
身内はひとりも出席してくれなかったが、ネットの予告を見た人達が、20名を越え、にぎやかに祝ってくれて、楽しいひとときを過ごすことができた。
 
 
Party_2
 
 
85年、太平洋戦争を体験し、食べ物が全くない、ひもじい思いをして生き抜いてきた。
 
駒大時代も暖房も、クーラーもない教室で講義を聞いた。冬はオーバーを着たまま。かじかんだ手をこすりこすりだ。
 
 
 
ぼくは青山の隠田に生まれた。
 
生後間もなくして、世田谷区北沢5丁目1-75に、親類の金持ちが、貸家を建てたので、木造二階建(家賃は25円?)の家に越してきた。
 
祖母と両親、姉と赤ん坊のぼく、妹2人はこの家で生まれた。
 
その頃は田舎の川と同じように、自然のままのきれいな水が流れていた。
 
父が撮ったものだと思うが、川に沿った道をぼくは母親に抱かれ、誰だかわからない2人の女性が歩いている写真。
 
そこには植えられたばかりの桜が、倒れないように丸太で補強されて、桜並木になっている。
 
苗木から育ったとすると、90年近くになるのでは。
 
 
 
東急バスの車庫のある「淡島」から、環状7号線の道路まで、両岸に植えられている桜は何百本あるのだろうか。
 
ソメイヨシノの桜の寿命は、6、70年と言われているから、すでに1年は通り越している。
 
 
 
世田谷区の公園課は、古木の桜が強風で倒れて、通行人がけがでもしたら大変と、根元が腐ってきたりすると、情け容赦なく切り倒してしまい、また若木に植えかえている。
 
ぼくと同じ歳の古木は、あと何本残っているのだろうか。もう半分に満たないのではないか。
 
 
 
今年もお花見が、あちこちで開かれている。
 
その日は暖かい日だった。
 
以前住んでいた家の近所で、桜並木に面した家に住んでる金子さん。
 
嫁いだ娘さん、2人のご主人と小さなお孫さんが来ていて、バーベキューをやっていたところへ通りかかった。
 
金子さんのお母さんは、ぼくの母親とも仲良しだったが、すでにこの世にいない。
 
娘さんの小さい頃、よく写真を撮ってあげたことがある。2人とも結婚して子供までいるとは。
 
金子さんは、若い頃、ハワイに渡って、事業を起こし成功した人だ。今でも年に何回もハワイに行っているそうだ。
 
肉に野菜、いろんなものを焼いて食べさせてくれた。昔話に花が咲き、楽しいお花見になった。
 
 
 
切られずに残っている桜の古木、幹にコケが付いている。
 
この姿を見ると、同じ時代を生きてきたぼくとしては、もっともっと生き抜いて、春になれば見事に花を咲かせて、見る人を楽しませてほしいと思う。
 
この桜の古木が植えられた頃のこと覚えてる人は少ないだろう。ましてや誰がこの桜並木を植えて寄贈したのか。知っている人は、ぼくしかいないかもしれない。
 
この桜並木を斎藤茂吉や、横光利一などが散歩していたのも知らないし、若い人は、森茉莉さんのことすら知らない。
 
スマホを見ることに熱中している若者たち、苔むした桜の老木が必死に生きている姿を見てほしいものだ。

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