2021年1月11日 (月)

「暴れん坊将軍」の中で生き続けている!

ぼくはもう何年も時代劇にはまっている。世田谷文学館が創立されたころ、友の会を立ち上げようということになった。

 

10人近い人が役員になったが、その中のひとりにぼくも。東方の映画監督から、テレビの時代になって、「鬼平犯科帳」などの監督になった高瀬昌彦さんもそのひとりだったので親しくなった。

 

その後、会長もあの世に去り、役員会も立ち消えになってしまった。

 

「鬼平犯科帳」の原作者、池波正太郎さん、子供さんがいなかったようで、版権の所有者は、めい子さんになっている。

 

不思議なえんで、そのめい子さんのご主人と知り合い、画家だったので『薔薇族』の表紙絵を描いてもらったこともある。

 

時代劇はよくできている。『暴れん坊将軍』は、松平健さんの当たり役で、視聴率もよかったのだろう、多くの作品が残っている。原作はないようで、脚本家が才能のある人で、じつに面白い作品になっている。

 

最後は悪いやつが斬られるのだが、必ず30人ほどの斬られ役の役者が登場する。その中のひとりが福本清三さんだ。

 

「5万回斬られた男」と題して、その死を新聞が報じている。1日、肺がんのために死去した。77歳だった。

 

兵庫県生まれで、15歳で東映京都撮影所に専属演技者として入所、映画『野球一族の陰謀』やテレビ『暴れん坊将軍』『水戸黄門』など、時代劇を中心に出演し、派手に後ろ向きに倒れる、鮮やかな斬られ方で人気を集めた。

 

2003年に米映画『ラストサムライ』に出演。04年には第27回日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。14年の映画「大秦ライムライト」で初めて出演を務め、カナダの第18回ファンタジア国際映画祭の最優秀主演男優賞に並ばれた。

 

時代劇の撮影で、斬られた。「お前死に方が上手だな」。主役の萬屋錦之介に声をかけられたという。「芝居が上手ということだよ」とも。うまい芝居をしている意識などなかった俳優・福本清三さんは、その言葉で斬られ役の誇るべき面に気づいたという。

 

斬られて倒れると薄目をあけて、他の俳優の斬られ方を学んだ。洋画からは笑いを誘うチャプリンの倒れ方などもヒントにした。無念の思いを残すように倒れる独特の斬られ方を編み出している。

 

2021年1月6日の東京新聞「筆洗」から引用させて頂いているが、ベテランの記者が書かれている短い文章で、福本清三さんの生涯が見事に描かれている。

 

死に方、斬られ方という脚光を浴びない脇役の場所に、独自の美学を築き上げた福本さんが77歳で亡くなった。

 

大部屋時代は一日十本の出演も珍しくない。名前もセリフもない役ばかり。そこから磨いたのは他人を輝かせる演技だった。「斬られずにいかず、斬りにいく。そうしないと斬る側が目立たない」

 

50歳になるころから注目されるようになった。テレビ番組で知ったという中学生からは「感想文」が来た。「どうせ補欠やと腐ってたけど、福本さんを見て、努力すれば絶対にレギュラーになれると思いました」「底辺でも一生懸命やることがいかに大事かわかりました」

 

スターよりも多くの人を励ました役者かもしれない。

 

ぼくは長いことセリフがなかったころから「暴れん坊将軍」を見続けているので、福本さんは、ぼくに生きる勇気を与えてもらった。

 

福本さんは、この世にいなくても、「暴れん坊将軍」の映像の中で生き続けている。

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2021年1月 9日 (土)

駒大・逆転優勝! 感動した!

「駒大逆転 箱根駅伝」総合優勝を決めゴールテープを切る駒大の石川拓慎(3日午後東京大手町の読売新聞社前で)。読売新聞の4日朝刊1面に。

 

「創価大と2分21秒差でスタートした駒沢大は、山下りの6区で2位に浮上。創価大は9区で3分19秒のリードを奪ったが、駒沢大のアンカー石川拓慎(3年)が猛進。残り2キロ付近で逆転を果たし、優勝を決めた。」

 

母校、駒大は数年前だったろうか、へんなものに投資して、百何十億円かのお金が詐欺にあい、パアになってしまった。

 

そのおかげで長年続いていた駒大国文科の同窓会が卒業生に出す郵送料をもらえなくなり開けなくなってしまった。

 

理事長はじめ首脳陣が責任をとって辞め、新しい首脳陣になったが、曹洞宗の宗門にそんなに人材がいるわけがない。暗いムードが学内にただよっていた。それが創価大の9分どうり優勝と思っていたのが、最後の最後での逆転勝ち。

 

感動することなどなかったのに、ガッツポーズで1位のテープを切る駒大の姿を見て、学生たちも、卒業生もみんな明るい笑顔を浮かべたに違いない。

 

正月早々の箱根駅伝での優勝は、多大の宣伝効果をもたらす。駒大は地の利を得ているので、新入生が集まらないということはないが、監督や、選手たちがテレビの報道番組にあちこちで出演。

 

青山学院大学の監督は、その後、スター気取りに。おごれるもの久しからずで、今年は優勝できなかった。

 

読売新聞2面の「顔」欄に、駒沢大監督の大八木弘明さん(62)が紹介されている。

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「「男だろ!」。そう運営管理車から選手にかける熱い叱咤は健在ながら、今年は変化があった。「今日はいいぞ」。褒め言葉を交えて背中を押し、13年ぶりに箱根を制した。(中略)

 

選手に寄り合い、サウナで語り合った。この春には年齢を理由にやめていた自転車で並走しての指導を6年ぶりに再開。選手は話しやすいと慕い、6区区間賞の花岡悠紀選手(3年)は「第2の父」と言う。

 

卒業生から「優しくなった」と茶化されるが、そんな自分も気に入っている。」

 

運動部・後藤静華さんの文章もいい。写真は早坂洋治さん。いい表情をとらえている。

 

記事には奥さんのことは書かれていないが今度の優勝のかげの力は、監督の奥さんの力があったことを忘れてはいけない。

 

合宿している選手たちの食事は奥さんが調理しているようだ。

 

多くの選手達の健康に注意して、スタミナがつくような食事を一日、三度も調理することは大変なご苦労だ。

 

手伝う人は何人かいるのだろうが、あきないように調理することは大変なことだ。

 

監督は選手たちを「子供たち」と呼ぶ。夫婦が選手たちを自分の子供のように思って接しているということだ。

 

監督と奥さんの人柄がいい。選手たちの親も安心して子どもたちをあずけているに違いない。

 

今度の優勝は、選手の両親、親族たちがどんなにかよろこび、誇りに思ったことか。

 

また、卒業生がぼくをふくめて、どれだけ感動し、生きる力を与えてくれたことか。

 

他の運動部の学生たち、野球部は最近元気がないが、負けてはならずと頑張るに違いない。

 

88歳のぼくだって、いつゴールするかわからないが、最後の最後までの勇気をもらうことができた。

 

優勝おめでとう! こんなにうれしく感動したことは、最近なかったことだ。

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2021年1月 2日 (土)

なんとしてもコロナに打ち勝たねば!

多くの人に支えられ、「米寿の祝い」も、三軒茶屋の銀座アスターで、50人もの友人知人が参加してくれて、盛大に祝うことができた。

 

世田谷区も老人をいたわってくれて、椅子にもなる手押し車をくれたので、それを押して毎日、下北沢のスーパーに買い物に行ったり、カフエにもいくことができている。

 

風呂場にはつかまることができる、丈夫なものをとりつけてくれたので、風呂桶から立ち上がることができている。ありがたいことだ。

 

日曜のたんびに車で迎えに来てくれて、どこにも行けずにいるぼくを連れ出して、自宅でぼくには見れない、アメリカや中国、韓国などのニュースを見せてくれる田中英資さんには感謝のしようがない。

 

ありがたいことだが、一日に何時間も諸外国の様子をネットで見ているので、それをしゃべりまくるので、他所の国のことなど興味をもたないぼくは、眠くなってしまう。

 

昨夜はピアニストで、ご主人を亡くしてひとりで麻布十番のマンションに住んでいる、ケイ子さんの自宅に連れて行ってくれた。

 

百歳近い老人で、今でもヴァイオリンを弾く方もきていて、おどろいたことに顔にシミひとつない若々しい方で、おひとりで生活していて、杖もつかずに電車に乗っているそうだ。

 

もうひとりのお客さんは、ベトナムに住みベトナム人の奥様がいて、事業をしている方のようで、ベトナムの奥さんから電話が入り、映像も見れるので立派な家に住んでいるようだ。

 

ケイ子さんも、ぼくの女房が着ていた洋服を着てくれていて、体型が似ているのでよく似合いありがたいことだ。

 

よくベトナムに行き来している西山さん、やはりベトナム人の奥さんがいて、今、帰れなくなっているようだが、この人もぼくが着ていた派手なセーターを着てくれている。

 

田中さんもぼくの着ていたシャツと、カーディガン、ケイ子さんも女房の着ていたもの、西山さんもぼくのセーター、妙な気持ちにさせられてしまって……。

 

スウェーデンから持ち帰ったシャンデリアが3つも天井からぶさがり、豪華な鏡が三面、扉の外にちょこんと三毛猫が。いつもえさを与えているのだろう。

 

今日はお客さんのえさ?で大変なので、猫ちゃん、あきらめてどこかへ行ってしまったが。

 

千葉のホテル三日月が、ベトナムに豪華なホテルを作り、そこにピアノを持っていって、ケイ子さんがお客さんにピアノを聞かせるそうだ。

 

コロナ騒ぎがおさまらないと実現しないが、長いアメリカとの戦争に勝ち、復興したベトナム。一度訪ねてみたいものだ。すこぶる親日の国民だそうだ。

 

国民の半数が農業に従事していて、素朴な国民のようだ。とにかく戦争はすべてを破壊してしまう。平和ということがどんなに大切なことか。

 

東京の下町は、アメリカのB29の爆撃で焼け野原に。そこから立ち上がった日本。もう二度と戦争はごめんだ。

 

それがなんとコロナとの戦い。今年の正月は出歩かないで、なんとしてもコロナをふさぎこまないと。

 

令和3年、血圧も薬を飲んでいるので平常値に下がり、まだまだ元気。

 

今年もブログを書き続けますので、ぜひ、読んでください。

今年もよろしく。

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2020年12月28日 (月)

星のひとつになってしまった!

とにかくぼくは人を集めることが好きな人間だ。ぼくの著書は12,3冊だが、本を出版するたんびに友人、知人を招いて、新宿の京王プラザホテルが一番多かったが、大きなホールを借りて、出版を祝う会を開いた。

 

これはお世話になった冨田英三先生の影響だと思う。先生も人を集めることが好きな方だった。

 

1969年(昭和44年)が、先妻の舞踊家・君子(芸名・ミカ)一番精力的に活躍して輝いていた年だ。次の年の9月17日の夜に催された、渋谷の山の手教会の地下にある小劇場「ジャン・ジャン」(現在はカフエ)でのイベントが一番記憶に残っている。

 

このイベントは西独とイタリアの合作映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』(ヘラルド映画)の宣伝のためのものだ。

 

企画を立てたのは画家の冨田英三さん。この先生、無類のイベント好きで、この先生とミカが組んでのイベントは数しれずだ。

 

冨田先生、前衛的な若者を集めて「ビザールの会」を結成していて、その会にミカもぼくも参加している。「ビザール」って「風変わりな」という意味だそうで、それで「伊藤ミカ・ビザール・バレエ・グループ」と名付けたのだ。

 

『週刊ポスト』の10月3日号の記事によると、「教会の下のサド・ストリップがあげた宣伝効果」と題して、「この催しは日本ヘラルド映画『マルキ・ド・サドのジュステイヌ』のPRのためのもの。20万円出したというヘラルド側も、この日、集まったジャーナリストが55人というわけで安い宣伝費だと大ニコニコ。サドの後継者をもって任ずる前衛舞踊家が商魂に踊らされた。この一幕、地下のサドが見たらサド悲しむだろう」と皮肉めいた記事にしている。

 

その頃、ぼくは駒沢大学のOBで都内の住人をターゲットにして、御茶ノ水カフエを借り切って会を開いたことがあった。

 

神津島(伊豆7島の中のひとつ。大島の先の島だ)ここも東京都なので、神尾くんにも案内状を出してしまった。

 

当日、なんと東京に来る漁船に乗って、神尾くん(あだ名、ガミさん)が出席してくれたではないか。

 

神尾くんはぼくより年上だが、国文科の同期生だ。神津島村には小学校と中学しかない。本土から島に渡った先生方も、2,3年もしないうちに逃げ帰ってしまう。

 

神尾くんはなんと10年以上も島に残り、写真を撮るのが得意なので、島の人達の子供の7・5・3のお祝いの写真とか、結婚式の写真など撮っていた。

 

本土から都のお役人が視察になどくると、案内人もしていた。ぼくはガミさんに誘われて島に渡ってしまった。

 

その頃は港がないので大きな船は横付けにできない。沖の方で停泊し、小さな船に乗り移って島に渡る。

 

ぼくはすっかり島に魅せられて、それから先妻のミカがお弟子さんを連れて、島に渡り何年か合宿したことがあった。

 

一番の親友の松前美奈子さん。砂浜でふたりで踊っている写真がある。ミカは神津島の海岸で踊ることによって、舞踊への目が開けたと言っていた。

 

このときの写真を見ると、生き生きとしていて美しい。その相棒の松前美奈子さん、2020年の12月24日、クリスマスイブの日に老衰で亡くなったと、娘さんから電話があった。

 

ガミさんもすでにこの世にいない。

 

ミカの生き生きとした、美しい表情。もう神津島に行くことはできない。神津島は一番美しく星を見れる島だそうだ。ミカも美奈子さんもその中の星のひとつになっているのでは。

 

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2020年12月24日、83歳で亡くなった松前さん

 

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駒大の同期の神尾くん

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2020年12月12日 (土)

大木に柱時計がかけられているなんて!

今の若い人には知るよしもないが、昭和の20年代、30年代の頃だったろうか。父が出した本で、『狂人物語』という新書版がある。

 

ペンネームだが大川徳二著とある。本名は確か鈴木一念という人だ。歌人でもあるので、父も作歌していたので知り合いだったのだろう。

 

この人の弟は鈴木信太郎という有名な画家だ。

 

ぼくは父の使い走りで、吉祥寺の少し手前の久我山というところに住んでいる、鈴木信太郎さんの豪邸を尋ねたことがある。

 

庭が広くて庭を眺められる和風の家だ。同じ時代に活躍された方で、フランス文学の同姓同名の方がいるが、鈴木信太郎さんは画家だ。

 

友人の田中英資さんが、ネットで調べて紙焼きにしてくれて、画歴などをコピーしてくれたのに、どこにしまいこんでしまったのか、みつからない。

 

鈴木信太郎さん、幼い頃の脚の病気での身体障害者で、奥さまがしっかりした方で、マネージメントをされている。

 

奥さまとしては、ご主人のお兄さんが神経をわずらい長いこと脳病院での生活をされていたことをよくは思っていなかっただろう。

 

父が鈴木一念さんの脳病院での生活を描いた『狂人物語』。装画を描いてくれた。鈴木信太郎さんの画風は、子供っぽく描くことで人気のあった方だ。

 

西荻窪にある「こけし屋」というレストランは、鈴木信太郎さんの描いた絵を作って、マッチにしたり、チラシやメニューにも使っているようだ。ご近所なので食事に行ったりして知り合ったのだろう。

 

先日、田中さんが運転してくれて、女房の古里、新潟県の弥彦村にある、別荘の伊藤館に行って、段ボールの中から、鈴木信太郎さんの原画を見つけ出した。

 

大きな木の幹に柱時計がかけてあり、その横に杖をもった黒い服に、黒い帽子をかぶった人が立っている。赤い雲が四つ描かれている。その発想が面白く、ほのぼのとも感じさせる絵だ。

 

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原画が出てきたので、これはお宝だ。早速壁にかけて、毎日、眺めている。

 

この本を出版したのは、もう今から60年以上も前のことで、ぼくが駒大在学中だったのか、卒業した頃のことか、まったく覚えていない。この本、売れなかったと思う。

 

脳病院の中での出来事に興味をもつ人は、いないのでは。しかし、大木の幹に下げられている柱時計は、今でも時を知らせてくれているようだ。

 

とうの昔に鈴木信太郎さんは亡くなっているが…。

 

あの日、鈴木信太郎さんの家を尋ねて、庭園を眺めた時のことは、今でもはっきりと覚えている。

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2020年12月 7日 (月)

ルネさんも、竜さんもこの世にいない!

ぼくのベッドのすぐ前の壁に、ぼくのよき相棒だった藤田竜さんが描いた美青年の絵が飾ってある。

 

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そのキャンバスの裏に「祝・社屋新築・昭和49年4月・竜」と書かれている。『薔薇族』が創刊されたのは、1971年(昭和46年)だから、創刊して3年ごに鉄筋3階建(世田谷学園の同期生が設計してくれた)の「薔薇の館」が建設された。美輪明宏さんが豪華な門灯を暗い同性愛の世界を少しでも明るくなるようにと贈ってくれた。

 

藤田竜さん、内藤ルネさんの全財産7億ものお金を詐欺師に取られてしまった世間知らずの大馬鹿者だが、ぼくのために美青年の絵を贈ってくれたとは。

 

1971年に『薔薇族』を創刊して、382号で廃刊になるまで、藤田竜さんは雑誌作りの才能を発揮してくれて、同性愛の歴史に残るような『薔薇族』を支え続けてくれた。

 

竜さんは『薔薇族』の誌上に、イラストを描き続けてくれたが、着色したものはない。ぼくはこの絵はずっと後になって描かれたもので、廃刊になる前にぼくに感謝の気持ちをこめて描かれたものと思っていたが、新築祝いに描いたものとは知らなかった。

 

数ヶ月前に友人の田中さんが車を運転してくれて、弥彦村の別荘に行った時、段ボールの中から見つけ出したものだ。

 

じつに丁寧に描かれていて、見事な出来栄えで、今はルネさんも、竜さんも、この世にいない。毎日、この絵を見ては、ありし日のルネさんや、竜さんのことを思い出している。

 

ぼくも平成5年に女房の古里、弥彦村に「ロマンの泉美術館」を芝信用金庫から2億5銭万円もかけてオープンさせた。

 

美術館なんてもうかるわけがないが、竜さんも修善寺に「内藤ルネ人形美術館」をオープンさせたが、それを社団法人化したいと思ったらしい。社団法人化して税金を少しでも安くしたいと思って、悪用する人がいたので、お国は規制を強めていた。そこに詐欺師がうまいこと言って法人化させると竜さんをだましたに違いない。

 

7億もとられる前に気がつきそうなものだが、全部だましとられて、その上、千駄ヶ谷にあった億ションまでとられてしまった。

 

ルネさん、すべてお金のことは竜さんいまかせていたので、全財産をだましとられても愚痴ひとつ言わなかったそうだ。

 

年とった男二人に部屋を貸してくれる不動産屋はいない。そこでぼくに泣きついてきたので、北沢法人会で知り合った桜上水の駅前の不動産屋が、ぼくが経営する第二書房の社員寮として借りて、古いマンションの5階に、かなり古いが広い部屋を貸してくれた。

 

ルネさんの多くのコレクション(お人形など)は、たまたま女房の実家の兄が経営する小林組(土建業)が事務所を新築したので、古い事務所にルネさんのコレクションを段ボールにつめて運びこんだ。

 

美術館なんて作らないほうがいいと、ぼくは忠告したのに、二人の夢だった人形美術館をオープンさせてしまった。入館料千円を五百円に下げたって、修善寺まで見にくる人は少ない。一年もしないうちに閉館してしまう。

 

ぼくも見に行ったが、見事な美術館だったが、修善寺の温泉街も落ち目で、客足が遠のいていた。

 

ヨッちゃんという若者を竜さんは養子にしたが、二人とも亡くなってしまい、ヨッちゃんに全財産が残されたが、なんとなくヨッちゃんも新宿2丁目にゲイバアをオープンさせたが、数年もしないうちに早死にしてしまった。

 

ヨッちゃんからルネさんや、竜さんのコレクションを買った人が、その後、全国のでバートで「内藤ルネ展」を開催し、多くのお客さんで賑わっている。それでよかったのかも。

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2020年12月 5日 (土)

はかない恋は終わってしまった!

下北沢駅の南口から商店街を5分ほど歩いてくると、餃子の王将があり(以前は銭湯だった)、その筋向いに、間口は一間ほどで、奥行きが長い店がある。

 

クリーニングが入っていたのは覚えているが、すでに何軒か代替わりしていて、家賃が高いのか、長くは続かない。

 

今年の春ごろだったろうか。タピオカを飲ませる店がオープンした。タピオカってなんなのかと辞書で調べてみたら、「熱帯産のキャッサバという植物の根、茎からとれるでんぷん」とある。

 

あまり意味がわからない。一度どんなものかと思って店に入ってみた。女性の店員がいて台湾生まれのようだが、日本語はカタコトしか喋れない。

 

どんな味だったか今はよく覚えていないが、こころが通じるものがあったのか、ぼくが店の前を通り過ぎようと思うと、店の中から手を振るではないか。そうなれば店に入ってタピオカを飲まないわけにはいかない。

 

だんだん親しくなって、マスクを外して写真を撮らせてもらった。目がぱっちりしてかわいい子だった。

 

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今年の夏は暑かった。3月20日に三軒茶屋の銀座アスターで、ぼくの米寿を祝う会を開いた頃は、すたすたと歩けたが、コロナウイルスが大騒ぎになって、外に出られなくなり、家にいることが多くなってきて、歩けなくなってしまった。

 

10月に入って少し涼しくなってきたので買い物に下北沢のスーパーにいこうと思って、タピオカの店の前を通ったら、シャッターが降りたままになっていた。

 

その頃、新聞に表参道にもタピオカの店が何軒もあって、行列ができるほど飲みにきたお客さんがいたのに、ブームがすぎて店じまいしてしまったと記事に書かれていた。

 

王将の筋向かいのタピオカの店もシャッターを下ろしたままになっている。

 

確か「龍」さんという名前だったと記憶しているが、台湾にもどって幸せに暮らしているのだろうか。

 

はかない恋は終わってしまった。

 

世田谷区に介護保険を払っているので、お願いしたら、手押し車を貸してくれた。疲れた時は椅子にもなり、中に買い物をしたときに入れられる空間がある、ありがたい手押し車だ。それを押して駅前のスーパーに通っている。

 

日本人はお国の言うことをよく聞いて、マスクをほとんどの人がつけている。さからっているわけではないが、マスクはポケットに入れてもっていて、スーパーに入るときにはつけるが、外を歩いているときにはつけない。

 

人ごみの中を歩くのならマスクをつけるべきだが、裏通りを歩いてスーパーに行くのでマスクはつけない。

 

それにしてもコロナウイルスの患者は、なかなかなくならない。とんでもないものを中国は世界中に蔓延させてしまったものだ。なんとか押さえ込むことができなかったものか。

 

日本では死者の数は少ないが、アメリカは多くの死者を出している。少しでも早くコロナウイルスの騒ぎを終わらせたいものだ。

 

エイズが日本に入ってくるというので、ぼくが編集長だった『薔薇族』は、帝京大学の附属病院の松田重三先生の力を借りて、エイズと闘うことができた。が、コロナウイルスとはどうにもならない。

 

なんとも辛い話で、嫌な時代になってしまったものだ。

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2020年11月23日 (月)

菅総理、景気のいい時代にしてほしい!

1999年の頃(今から11年前)は、世の中、不況だったようだ。ぼくは「伊藤文学のひとりごと・293」に「ひとつの時代が終わったような」と題して書いている。

 

「6月12日の読売新聞によると、「自殺3万人、35%増、不況の影」との見出しでショッキングな記事を載せている。

 

「自殺者数は前年比で35%も急増し、初めて3万人を突破。特に4、50代男性の自殺が増えていることから、厚生省も「不況の影響も否定できない」としている。

 

自殺者の数は1000年の2万3千494人から35%も増加し、3万1千734人にのぼった。3万人を超えたのは初めてで、昨年の交通事故者数(9千211人)と比べても3倍以上になる。

 

なかでも50代男性の自殺は、前年の3千874人に比べ、5割以上多い5千967人。40代男性も97年の3千31人から、約千人増えて、4千33人だった。

 

自殺者数がこれまで最も多かったのは円高不況となった86年の2万5千667人。同省では不況の影響は否定できないとしている」

 

この3万人を越す自殺者のなかには、読者もいるのではないかと心配している。7月号の「編集室から」にも悲しい知らせを書きましたが、同じように金沢に住む読者から手紙を頂きました。

 

「4月29日の「北国新聞」朝刊3面記事のトップに記事が掲載された。名前こそ伏せてありますが、金沢で一番古いホモバア「スナック比呂」のマスターと従業員ののぼる君でした。

 

現在、私は52歳ですが、この店を知ったのは28歳の時、ひとりで飲みに行っても決して退屈させないマスターの人柄、本当に楽しい店でした。のぼる君は高校を卒業すると同時に従業員として働いており、マスターとのコンビが、一層店を盛り上げていたように思います。

 

私も近年はリストラ、失業、転職と、この平成の不況をなんとか乗り切ろうと必死で、「スナック比呂」へも数年行っていませんでした。

 

こんな形で新聞に乗るなんて、あまりにも寂しい二人の旅立ち、借金なんてこの頃はどうにでもなる時代なのに悔しいです。(中略)

 

昨日、「比呂」の店の前に花束を置いて、手を合わせてきました。一つの時代の終わりを告げるように、繁華街、香林坊からの吹きさらしの風が、ひときわ冷たく感じたのは、私の錯覚であったのでしょうか。」

 

金沢に住む52歳の一読者からの手紙だ。この人も数年「比呂」に行っていないという。この人だけでなく、常連でさえも行かなくなったり、手っ取り早く相手を見つけようとするために、インターネットを使ったり、電話を利用したりで、近年、バアに行くひとが 少なくなっているのでは。

 

ぼくも今では下北沢北口の「イカール館」しかお店をもっていないが、カウンターに座りお酒を飲む常連のお客さんがいなくなっている。

 

12時を過ぎても人通りが多かったのが、今では人通りも少ない。いつまでこの不況が続くのかはわからないが、お店も大変だろうし、お客さんのふところ具合も大変なんだと思う。

 

電話をかけてくる読者のなかには、失業しているという人も増えているという。こんな時は助け合って生きていくしかないだろう」

 

今の世の中どうなのか。夜、街中に出ることがないので、わからないが、下北沢の街も、個人商店はめまぐるしく変わって、古着屋だらけの街になっている。

 

現在、自殺者って増えているのだろうか?

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2020年11月21日 (土)

親友だったらもっと長生きしてほしかった!

ぼくの親友と呼べる男は、国学院大学教授の阿部正路だろう。彼の死は早すぎた。彼だけではない、多くの友人、知人があの世に旅立って、今のぼくには話す相手が誰ひとりいない。『薔薇族』の創刊4周年記念特大号に『薔薇族考』を阿部正路君が寄稿してくれている。

 

文章が長いからその一部分を書き記しておこう。

 

「伊藤文学君との思い出は尽きない。

 

最初に伊藤君と会った頃は、伊藤君は駒澤大学の学生で、ぼくは國學院大学の学生であった。駒澤大学はもと馬引沢と呼ばれていた土地に建っているのだが、ぼくはすぐ近くの深沢に住んでいた。僕らは奇妙なほど気があった。親友同士として自他ともに許し合う仲であった。

 

伊藤君は佛教を学ぶ大学に通い、僕は神道を建学の精神とする大学で学んでいたのだから、いわば神仏混淆の友人だったといってよい。伊藤君はむろん頭の毛を剃り落としていたわけではなく、有髪の青年だったから、ちょっとした毛坊主といったおもむきがあった。毛坊主は高い宗教観と俗世観との間に立って、さまざまに人を救い続けた人たちの総称であった。

 

だから伊藤君になんとなく毛坊主のイメージを抱いたとしてもさほど的外れではなかったわけである。しかも大変都会的に洗練されているのだから、いわば生粋の江戸っ子の家筋に生まれたといえようが、実際には僕は秋田市に生まれて育ち、遠い祖先は東北人なので、根は土俗的な人間である。その僕に伊藤君は次々と新しい世界を見せてくれたのである。

 

街の毛坊主は、僕を赤坂のナイトクラブや新宿のキャバレーにも案内してくれた。二人はいつもそこで静かに語り合って別れるだけなのだが、時間がありさえすれば、遠い地方の山間や海辺を旅行し、あとは自宅の書斎と大学の間を往復するのがほとんどの僕にとって、そこは目も眩むほどのきらびやかな世界なのだ。そうした世界の中でもっとも強烈に残っている印象は、あるすぐれた若い創作舞踊家の踊りの姿である。

 

街の毛坊主は時として、その創作舞踊家の裸体の照明係ともなった。時として街の毛坊主自身も舞台で踊った。

 

街の毛坊主は、その創作舞踊家のための舞台装置や衣装についても考えぬき、助言もしていたはずである。その創作舞踊家を育てたのは、ほかならぬ伊藤文学君であった。

 

多摩川を超えて、柿生の丘陵に遊びました。光っているすすきをわけて歩きました。萩の花もきれいでした。「あざみの花が一番好き」彼女はそんなことも言いました。どんぐりの実もとりました。人っ子一人いない丘の道は二人の道でした。

 

これは今も僕の手元にある伊藤君の若い日、手記のように長い手紙の一節である。これももう20年も前の思い出のひとこまである。

 

それは夏。伊藤君は東北行きの満員の汽車に乗り、そこで美しい少女と出逢い、その後2ヶ月ばかり経てから再会し、初めてデートしたときの印象の一端なのである。

 

ここには若い日の伊藤君の内面の優しさが溢れている。その後、小さな暗い養父との事件があって、伊藤君はその少女を守り抜こうと決心し、ついには立派な創作舞踊家までに育て上げていったのである。

 

そうしたやさしく強い意志が伊藤君の内部に今も消えることなく存在し続けていることを僕は知っている。

 

人が訪ねてくるとき、まずもってこまごましたプランを示し、そのことが『薔薇族』の友人たちのために守られ続けていることを僕は知っている。」

 

ミカとの出会いから、33歳で事故死するまでの15年間を『裸の女房』にあますところなく描いている。

 

ぜひ、アマゾンにご注文を!

 

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2020年11月 7日 (土)

『肉体の門』の田村泰次郎さんの思い出!

友人の朝日新聞編集委員、小泉信一さんが2020年11月8日の朝日新聞夕刊に「『肉体の門』1947年刊(今から73年前)田村泰次郎著「生きてやる焼け跡からの叫び=戦後のニヒリズムと欲望」と題して記事にしている。

 

なにしろ73年も前のことで、たまたま僕は縁があって、田村泰次郎さんを知っていたから、この記事を読んで懐かしく思い出してしまった。

 

1962年(昭和37年)12月(今から58年前)ぼくの親父が女に狂って、出版の仕事を投げ出し、ぼくにまかせきりになったので、ぼくの企画で「ナイト・ブックス」を新書版で出した第1号が、武野藤介の『わいだん読本』だった。

 

その後武野藤介さんの息子さんに嫁さんを世話したりしたので親しくなり吉祥寺に住む武野さん家によく遊びに行っていた。

 

その頃、中央線沿線に住む作家や画家たちが「カルヴァドスの会」を結成し、西荻窪駅前のレストラン「こけし屋」で会を開いていた。

 

NHKの人気番組「トンチ教室」の名司会者・青木一雄さんの司会で年末に会員が集まり、パーティが開かれ、武野さんの紹介で、先妻の舞踊家ミカが仲間の松前美奈子さんと二人で、余興に踊っていた。

 

中央線沿線に住む、有名な文士、評論家、画家、芸能人ら70人が「こけし屋」に集まった。

 

12月の忘年会とクリスマスをかねての華やかで豪華な会合だった。ミカは20代後半の頃で、ぼくは照明係をしていた。

 

2階の宴会場に料理屋お酒が運ばれて宴会が始まる。踊るといってもお客さんは通路の両側に座っていて、そのまんなかの狭い通路を使って踊りを見せるのだから、目の前にいるお客さんを注目させ、圧倒しなければならない。ストリップ・ショウならやりようがあるだろうが、衣装をつけての踊りだから、色気を出すといっても限界がある。

 

当然、アドリブで踊るのだから、表情や、体から発散するミカの迫力は見るものを圧倒していた。酒を飲んでガヤガヤしていたお客さんも、その動きの迫力で息を飲むばかりにシーンと静かになった。

 

踊りが終わって衣装を着替えて宴席に戻ってくると、若い女性は二人しかいないのだから、老人たちのホステス役にならざるをえない。

 

ご高齢の先生方もお酒が回ってくると、ミカたちは餌食になってしまって、抱きついたりするのは当たり前、キスまでされてしまう。それでもミカは当然のように嫌がることなく笑顔で老人たちのお相手をしていた。

 

今年、元気であっても翌年の会には、あの世にいかれてしまう方がいたから、老人方がひとときを喜んでくれたのだ。

 

田村泰次郎さんは毎回、ミカの踊りを見てくれていた。1965年(昭和40年)6月28日の夜に催された「伊藤ミカ・青津嘉子モダンダンス・リサイタル」のプログラムに「伊藤ミカさんの踊り」と題して一文を寄せてくれた。

 

「ふだん、相当に激しい、厳しい練習を積んでいることも、まちがいない。なぜなら、年ごとに彼女の踊りは上達しているように見え、私たちの目を見張らせるほどに、ぐんぐんと自分の道をつきすすんでいるからである。(中略)

 

彼女は黙っていても、踊り自身が伊藤さんの言葉である。ここまで観るものを感じさせるのは、並大抵のことではない」

 

小泉信一さんの記事を読んで、遠い昔のことを思い出した。ミカが亡くなって、もう50年にもなる。

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