2020年10月10日 (土)

「ラブオイル」は不滅だ!

1991年の『薔薇族』5月号No.220に載っていたぼくが書いた記事がすごい。

 

「不思議な光を放つ<シアター・ミラ>」とタイトルがついている。

 

現在この劇場があるかはわからないが、ぼくが名付けた劇場だから、今もあるなら嬉しいけれど、時代の変化が激しい時代だったからどうなっていることか。

 

「東京一の出会いの場・新宿に誕生!と『薔薇族』4月号に記事が載ってすぐに読者がわっと押し寄せて、土日は超満員になってしまった。

 

ところがビルのオーナーから要望があって、「コメディシアター」という劇場名を改めることになった。そこで劇場側から、ぼくに急遽劇場名を考えて欲しいという依頼があった。そこもあまり、こっちの世界がストレートにわかる劇場名でなくて、ロマンティックな星の名前がいいということだった。

 

ぼくの長男が学生時代に読んだ本が、我が家に残っていたので探してみたら、社会思想社刊の草下英明著『星座の楽しみ』という文庫本が出てきた。

 

「ヘラクレス」とか「ペガサス」とか、いい名前はあるけど、みんなどこかのバアの名前になっている。

 

ダメかなと諦めた気持ちになってきたときに、ぼくの目に飛び込んできたのが、「ミラ」という星の名だった。ラテン語で「ふしぎ」の意味があり、「ふしぎな光」を放つ星だという。これだ!と思った。

 

「シアター・ミラ」は、すぐに決まった。劇場側の社長さんも喜んでOKしてくれて、すぐに看板や、チラシ類、広告まで書き換えが始まった。

 

何の関係もない劇場だけど、それこそ「ふしぎ」なご縁で、劇場の命名までしてしまったぼくとしては、この劇場が大盛況で、文字通り東京一の「出会いの場」になってくれないと困るのだ。

 

劇場側としても、ホールや、トイレなどの照明を落としたりして、出会いの場にふさわしい、ムード作りに懸命だ。

 

映画の他に実演などのイベントも次々に企画している。オールナイトの日もできるだけ増やすそうだから、2丁目で遊びすぎて終電車に乗り遅れたら、ゆったりとした椅子で朝まで過ごすのもいいだろう。

 

とにかく地方の人も状況したら、ぜひ立ち寄ってもらいたいものだ。」

 

 

『薔薇族』の宣伝効果は抜群だ。広告を載せると地方の小都市のバアでも、すぐにお客がやってきたようだ。『薔薇族』の信頼度が高かったからだろう。

 

40年ぐらい前に『薔薇族』から発売した「愛の潤滑液・ラブオイル」は、雑誌は廃刊になってしまったけれど、今でも大手のゲイホテル「24会館」「北欧館」ポルノショップなどでも売れている。ありがたいことだ。

 

ぼくのあだ名が「ラブオイル校長」なんて付けられてしまったくらいだ。どれだけ助かっているかわからない。

 

コロナの影響でどこのホテルも苦しんでいたようだが、徐々にお客が戻ってきているようだ。

 

ネットでも買えるので、ぜひ、使って欲しいものだ。

| | コメント (0)

2020年9月12日 (土)

うなぎ好きの茂吉が愛したうなぎ「花菱」!

2020年8月14日は、一緒に住んでいる次男夫婦のひとり息子、文一の19歳の誕生日だった。息子の嫁の智恵が誕生祝いに女房の久美子と5人で道玄坂の途中にある「うなぎ花菱」へタクシーへ行ってくれた。

 

「うなぎ花菱」は、歌人、斎藤茂吉(今時の若者は知らないかもしれないが、昭和の柿本人麻呂と言われた人で、教科書にも最初の歌集「赤光」から「死にたもう母」など作品が紹介されていた。

 

  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 

  死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

 

斎藤茂吉は無類のうなぎ好きだった。戦後、山形の疎開先から世田谷の代田八幡宮のそばに開業した、長男の茂太さんが院長の神経科の自宅兼診療所に戻ってこられた。

 

まだ環七などという広い道路のない時代に3年ほど住んでいたが、代田川の桜並木を通って斎藤書店(第一書房時代の父との同僚がいち早く出版社を創立していて、父はその仕事を手伝っていた)が、その途中にあって、茂吉のエッセイ集を手がけていた。ぼくは中学2年生の頃、わが家に訪ねていた茂吉に出会っている。

 

その頃、道玄坂の「うなぎ花菱」に通っていたのだろうか。「うなぎ花菱」のチラシには、「文豪がこよなく愛した渋谷道玄坂 うなぎ花菱」とあり、

 

  あたたかき鰻を食ひてかへりくる

 

  道玄坂に月おし照れり

 

お店の壁に茂吉の短冊が飾られている。ぼくは茂吉と出会った時の印刷物などをお店に残してきた。

 

最近になって「花菱」の女将 阿部真奈美さんからの手紙が届いた。美しい文字だ。

 

「先日はご来店いただきありがとうございます。お孫様のお誕生日のお祝いに花菱を選んでくださり感謝しております。また丁寧なお手紙をいただき大変恐縮しております。早くお返事をせねばと思いながら、日にちが経ってしまい申し訳ございません。

 

私は花菱3代目の嫁でございます。当日はお会いできず主人から文学先生のお話をお聞きお会いしたかったと残念に思っておりました。

 

茂吉先生は我々花菱にとっても恩人のような方で、茂吉の愛した鰻を食べてみたいとおっしゃるお客様が遠方からもこられます。

 

お孫さんの斎藤由香さん、茂一さんもいらしてくださいます。2年ほど前に主人と二人で山形の斎藤茂吉記念館や、生家、お墓を訪ね、主人と二人感激して帰ってまいりました。

 

このようなお知り合いになれたことをありがたいと思っております。歌集(中西進さん序文のぼくの豆歌集「渦」)もありがとうございます。

 

私の友人が先生のファンでブログに花菱のことが書いてあったと送ってくれました。また、是非お立寄り下さい。お会いできると嬉しいです。

 

花菱 女将 阿部真奈美」

 

 

タクシーでないと行けないけど、電話しておいて息子の嫁に連れて行ってもらいたいと思っている。

 

★渋谷区道玄坂2-16-7 花菱ビル1F 「うなぎ花菱」 予約・TEL 0120-262-203 月〜土(日・祝定休)

| | コメント (0)

2020年9月 7日 (月)

神経科の医師の診察を待つ若者たち!

ぼくは20年ぐらい前から前立腺肥大症で、夜、何回もトレイに起きる状態が続いている。もちろん泌尿器科の診療所に通い、薬を飲み続けてきたが快復しない。手術をしなければ駄目なのかも。

 

入院生活をしてベッドの生活を続けたら、今度は足腰が弱って歩けなってしまうだろう。

 

ここ数年、テレビで見る番組は時代劇だ。「鬼平犯科帳」「剣客商売」など、ありとあらゆる番組を見ている。その間に入るCMは年寄り向けの薬のCMばかりだ。

 

「ノコギリヤシ」最初は安い。次から高価になる。このてのCMはみんな同じだ。よほど長く続けなければ効果はないのだろう。

 

そこで医師に睡眠薬を出してもらうが、これがまた曲者だ。しばらくは効果があって眠れるが、続けて飲んでいると、効かなくなってしまう。

 

最近、女性の医師に、効かなくなってしまったからもう少し強い睡眠薬をと言ったら、ムッとした表情で、「それなら神経科の医師に出してもらいなさい」と言われてしまって、下北沢の北口にある神経科の医院を教えてもらった。

 

歩いてはとっても行けないので、車を持っている友人の田中さんに頼んで乗せていってもらった。夜、7時半と言うので行ったらビルの3階にある診療所、エレベーターで登ったら、なんと長い廊下に両側に椅子が置いてあって、20人以上の若い男女が診察の順番を待っているではないか。年寄りなんて一人もいない。みんなスマホを見ている。

 

神経科の医師って、患者から話を聞いて診察するので時間がかかる。窓口の女性に「どのくらい時間がかかりますか?」と聞いたら「2時間半ぐらいです」と言うので、これでは車で待っている田中さんに申し訳ないので「またきます」と、諦めて帰ってきてしまった。

 

若い男女が神経を患っている。一人ひとり話を聞くわけにはいかないが、今の時代を象徴しているのでは。

 

多くの若者たちがコロナウイルスの影響もあって、職を失ったりと悩み事が多いのだろう。

 

ずらっと並んで診察の順番を待っている若者たちを見て、少しぐらい眠れないからと言っている年寄りは我慢しなければと考えてしまった。

| | コメント (0)

2020年9月 5日 (土)

長いことぼくを支援してくれてありがとう!

『薔薇族』の誌上で「伊藤文学のひとりごと」と題して書き出したのは、1975年の1月号(No.24)からだ。

 

タイトルは「結婚のこと」。その時代、読者にとって、どうしても通らなければならない関所のようなもので、異性と結婚しないわけに行かなかった。

 

親・兄弟から結婚しろとうるさく言われてしまう。職場でも教師や銀行員など、結婚しないと周囲の信頼をなくしてしまうことに。

 

小学校の教師をしている読者からの相談でわが家に訪ねてきた。同僚の女性から愛されてしまって、親同士が積極的で出会い、式場の日取りまで決められてしまった。

 

相談に訪ねてきた教師は、女性とのセックスなどしたことはない。女性のアソコを見たこともない。これでは結婚して夫婦生活を続けられるわけがない。

 

次の号には「トイレの落書き」のタイトルで書いている。トイレが発展場なのは、日本だけでなく、よその国でも仲間たちは集まってくる。個室に入って鍵をかけてしまえば、二人だけの世界になってしまうからだ。

 

次の号には「秘密のこと」と題して書いている。

 

「東京には最近、ラブホテルが次々と開業しています。そうなるとどうしても数多くの人と交渉を持つようなことになりがちだし、その中に病気の人がひとりでもいると、次々と感染することは間違いありません。うつされた人が、奥さんのいる人だとすると、その奥さんにまでうつっていくでしょう。

 

1975年12月号には「中学、高校生の諸君へ!」と題して、ぼくはこんなことを書いている。

 

「東南アジアに旅行した一読者から、マレーシアの新聞『南洋商報』の切り抜きを送ってくれました。

 

「鶏姦少年罪名成立 報告漕監3年 加両下鞭笞」の見出しの文字が、まず目に飛び込んできました。

 

「鶏姦」忘れていたような言葉ですが、今の若い人には、鶏のあのときの状態など見たことがないから想像できないでしょう。

わが家では戦時中、何羽もの白色レグホンをおふくろが飼っていて、おんどりも一羽いたので、朝早くときを告げていたし、めんどりの上にのかっている光景を見たことがありました。「鞭笞」今どき鞭で打つ刑罰があるなんて想像もできないことでした。

記事の内容は21歳の青年が、2人の15歳の少年を道で待ち伏せしていて、空き地に連れ込み、お尻に入れ、それが母親に訴えられて捕らえられ、見出しのような刑に処されたということです。

 

日本はまさに薔薇族天国です。薔薇族を規制する何ものもないのですから。

ゲイバアもあるし、ゲイホテルも各地にできたし、日本の薔薇族はまだまだ幸せだとおもう。韓国の薔薇族たち、中国の薔薇族たちはいったいどんな立場に置かれているのでしょうか。きっとひっそりと生きているに違いないのです。」

 

『薔薇族』が発行されていた382号まで「伊藤文学のひとりごと」は書き続けた。廃刊後はネットで書き続けている。最初は息子の女房が、その後何人かがネットを触れないぼくを助けて土曜と月曜に更新してくれている。

 

原稿は送り返してくれるので、大きな段ボール箱にも入りきらないほどだ。何千枚も書いただろうか。

 

生命ある限り書き続けたいと思ってきた。

 

あと何年生きられるかわからないが、書くことが生きがいなので書き続けます。

| | コメント (1)

2020年8月17日 (月)

みんなに助けられて生きている!

温暖化の影響で台風の進路まで変わってしまっているようだ。日本に上陸しないで、韓国や中国を直撃している。

 

日本のテレビも新聞もほとんど韓国や中国の被害状況など報道されていない。今の世の中、ネットを見ることによって真実がわかるようだ。

 

友人の田中さんはネットをくまなく見ていて、中国の悲惨な状況を録画していて、ぼくに見せてくれる。ありがたいことだ。

 

日本の場合は大雨が降って、河川の堤防が決壊し田畑が水浸しになっても、すぐに水が引ける。ところが中国の場合は、川の大きさが違う。決壊して水が人家や田畑になだれこんだら、そのすさまじさはすごい。立派な家が次々と破壊され、流されてしまう。おびただしい車が水につかり流されている。

 

それにいつまでも水が引かないのだから、住民たちはどうやって生きているのだろう。泥水の中に流されてくる大きな魚を網ですくい上げている。その魚を食べているのだろう。中国人のしたたかさが見えるようだ。

 

日本のように小中学校の体育館に避難して、救援物資つがすぐに届けられて、食べるものも困らない。

 

中国の人たちはどうやって避難生活を送っているのだろう。中国共産党は避難民を救助しないようだ。

 

人間が多いから死んでもいいと考えているのだろうか。

 

大きなダムが決壊したら大都市まで水浸しになってしまう。水位が高くなって危ないと見ると、下流の堤防を破壊して防いでいる。

 

こんな国に生まれた人たちは惨めだ。日本人に生まれてよかったと、悲惨な映像を見ているとつくづく思う。

 

中国という国は恐ろしい国だ。中国共産党が権力を持って国を支配しているのだから、一般人民はなんにも言えない。

 

北朝鮮も大雨の被害を受けているに違いない。食料がなくなり、餓死している人もいるだろう。

 

日本のテレビはコロナのニュースばかりで見る気がしない。ネットを見れないぼくは田中さんのお陰で世界中のニュースを知ることができている。

 

それにしても年は取りなくない。自分のからだがヨタヨタで外にも出られないのだから情けない。

 

家の中のことは食事から、飲む薬まできちっと揃えてくれる。尿瓶の中に溜まった小便をトイレに流して洗って、ベッドの下に置いてくれる。女房がいなければ生きていけない。

 

友人、知人はみんなこの世を去り、生きているのはぼくだけだ。最後はどんな死に方をするのかはわからない。

 

一緒に住んでいる孫も8月14日で19歳になるという。次男の嫁が誕生日に歌人の斎藤茂吉がうなぎ好きで、よく通っていた渋谷の道玄坂にあるうなぎ屋で誕生祝いをするという。

 

ぼくは足手まといになるので遠慮して、昨日、田中さんに連れて行ってもらったスーパーのサミットで国産のうなぎを買ってきたので、ひとり寂しくわが家でうなぎを食べることにする。

 

明日は病院へ車で田中さんが送ってくれるという。診察とリハビリが終わるまで待っていてくれる。

 

外の生活は田中さんなしでは生きられない。「文ちゃんと語る会」もやめることになってしまったが、「サイゾー」の脇谷君の骨折りで『薔薇族』の創刊号からアマゾンで読めるようになった。

 

みんなに助けられてぼくは生きている。

| | コメント (0)

2020年8月15日 (土)

ネットで『薔薇族』創刊号が読める !

2020年8月6日、広島に原爆が投下され、多くの人が亡くなった。それから75年の時が過ぎている。

 

ぼくはその頃、国民学校から世田谷中学に入学した一年生だった。新型爆弾ということで新聞にも小さくしか扱われなかったから、そんなに威力のあるものとは知らなかった。それから長崎にも投下され、軍部も無条件降伏するのかと思ったら、一億総玉砕とまだまだ戦うつもりだった。

 

ぼくが卒業した国民学校には、地方から集められた兵隊たちが宿泊していた。20代の兵隊はいない。30歳を過ぎた兵隊ばかりだ。

 

門番だけは小銃を持っていたが、兵隊たちは竹槍で相手を殺す練習ばかりを校庭でやらせられていた。中学生の僕らも竹槍で米兵を刺殺す練習ばかりをさせられていた。アメリカ軍が東京湾に上陸してきたらひとたまりもなく殺されてしまっただろう。

 

物資の豊かな国に勝てるわけがない。ああ、もう75年も時が過ぎてしまったのか。父親が株式会社第二書房を創立したのは、敗戦後の昭和23年、ぼくが駒沢大学に入学した時だ。

 

社員はひとりもいない。我が家には女ばかりで男はぼくひとり。学生時代から父の仕事を手伝わされていた。

 

30歳になった頃、ぼくは父に教わったわけではないのに、一応仕事は覚えていた。父が戦前流行作家でもあった人に、15歳の頃、山形の山奥から出てきて17年も作家の面倒を見てきたお手伝いさんが、遺言どおり莫大な遺産をもらうことになってしまった。

 

作家のY氏は女房思い出有名だったが病気で亡くなるまでの看病の手記は泣かされる。

 

第二書房の処女出版はY氏の女房の看病の手記をまとめた『夜や秋や日記』だ。

 

Y氏はなんと、お手伝いさんと女房が生きていた頃から、男女の関係になっていた。出なければ遺産をお手伝いさんに残すわけがない。

 

Y氏が亡くなってから、父が全ての後始末を片付けてしまった。そのお手伝いさんと父が男女の関係になってしまったのだからなんという男だ。

 

お手伝いさんと関係ができてから出版の仕事をぼくに任せて、お手伝いさんのところに通い詰めていた。ぼくに任せきりになってしまったので、ぼくは思うままに出版の仕事をたったひとりで、本を出し続けることができた。

 

ぼくは運が良かったのか、ぼくが考えた出版物がよく売れて利益を出すことができたので、『薔薇族』に繋がることができた。

 

藤田竜さん、間宮浩さんとの出会いもありがたかった。創刊号の藤田竜さんの表紙絵は今見ても傑作だ。これが男のヌード写真なんかだったらマスコミが取り上げるわけがない。

 

日本最初の同性愛の雑誌ということで、一流週刊誌がこぞって取り上げてくれた。創刊号がマスコミの話題になるなんてありえないことだ。

 

その創刊号がネットで見れることに。「サイゾー」の脇谷怜生弥さんの骨折りで8月6日から有料だけど読める。

 

ぼくのブログを読んでくれている人で、創刊号など読んだ人はいないと思う。

 

藤田竜さんの才能を発揮した創刊号、ぜひ読んでもらいたい。毎月、2号、3号と読めるようにしてくれるそうだ。

 

藤田竜さんも天国で喜んでくれているに違いない。

| | コメント (0)

2020年8月 1日 (土)

みんなに支えられて生きている!

最近、足腰が弱ってきて、以前のように下北沢駅前のスーパーオオゼキに買い物に行けなくなってしまった。歩かないから身体が疲れないのか、夜、寝られなくなっている。

 

そこそこ運動はしているのだが、やはり歩くことが一番の健康法だ。それができないので体重が73キロにもなってしまった。食べることが一番の楽しみになっていたのがいけなかった。今、ダイエットを始めている。

 

トマト、キューリ、レタスと野菜を主に食べ、ご飯はわずかに食べるだけ。いつまで続くことか。

 

88歳の米寿のお祝いを3月20日、三軒茶屋の「銀座アスター」でコロナ騒ぎが寸前ときで、盛大に何事もなく終えることができた。

 

人間どんな死に方をするのかはわからないから生きていられる。しかし、死が近づいてきていることは間違いない。

 

週刊現代の広告を見て、女房にコンビニで買ってきてもらった。「大特集・人に迷惑をかけないで、この世から消えていくために」

 

サラリーマンを定年退職した人たちをターゲットにした企画だろう。ぼくには当てはならない。

 

三平さんの奥さんの海老名香葉子さん(86歳)は「情をかけ合う付き合いが何より大切です」と語る。

 

「人は助けたり、助けられたりする中でしか生きていけません。死ぬ時だって、絶対に誰かの世話になって死んでいくんだから、互いに情をかけ合うことが欠かせないのです」

 

共感できたの香葉子さんの言葉だけだった。

 

ありがたいことに後妻の久美子がよくぼくの面倒を見てくれている。血のつながりがない先妻の舞踊家、ミカの息子をわが子のように可愛がり、家庭教師をつけて勉強させ、念願の京都大学の理学部に入学させた。卒業後、バブルの時代だったので、引く手数多でソニーに入社することができた。

 

その息子の子供(孫)は、お婆さん子で中学に入るまで、お風呂にいっしょに入っていた。久美子に感謝していることは、ぼくの父親や母親を亡くなるまで面倒を見てくれたことだ。母親など長生きしたので、車椅子を押して連れて歩いてくれた。

 

幸いなことはぼくの仕事が順調なときに、二人とも亡くなったことだ。京王プラザホテルでの出版を祝う会に、二人も来てくれて、親友の江田和雄君、阿部正路君(二人ともこの世にいない)に話しかけられてニコニコしている写真が残っている。

 

ヨタヨタの老人になってしまっているぼくを面倒見てくれているのは、女房の久美子だ。夜、何度も起きるのでベッドの下に尿瓶をおいて小便をしている。それが一晩でいっぱいになるのをトイレで流してきれいに洗ってくれる。

 

食事も食卓を前に座っていれば、トマト、キューリ、レタスを用意してくれる。食べ終わると、薬をきちんと用意してティッシュの上に並べてくれる。

 

とにかく世話が焼ける老人になってしまった。今や女房の久美子なしでは生きていけない。

 

いっしょに住んでいる次男夫婦もよく面倒を見てくれる。しばらくぶりに「小笹寿司」に選挙の日、投票を終えてから立ち寄った。マスターはよくぼくの好みを覚えてくれていて、次から次へと握ってくれた。

 

料金もサービスしてくれたようだ。

 

歩いても5、6分のところなのにタクシーを呼んできてくれた。

 

みんなに助けられて何とか生きている。ブログだけは書き続けて、一人でも多くの人に同性愛者のことを理解してもらいたいものだ。

| | コメント (0)

2020年7月 6日 (月)

縁側は子供たちの社交場だった!

戦前の木造の家には縁側(座敷の外の庭に面した細長い板敷)が必ずあった。

 

ぼくが生まれたのは、青山の穏田というところらしいが、祖父(救世軍で郭のお女郎さんを千人近くも救い出した)伊藤冨士雄の妹には娘一人しかいなかった。その娘の亭主が有能な人で、山野製作所という測量器械を作る工場を持っていて、工場の隣に2階建木造の豪邸があり、3人で住んでいた。

 

昭和の初め頃の北沢の街は、畠、原っぱ、竹やぶばかりで家は少なかった。豪邸のすぐそばに貸家として50坪くらいの土地に2軒の2階建てを建てた。

 

そこへ青山の穏田に住んでいた、ぼくの両親と祖母、姉に声がかかり、北沢に越してくるように誘いがあった。2階は6畳、下は8畳の座敷、南向きで陽もあたり、そこに縁側がついていた。居間は6畳、応接間は6畳・風呂場に面した着替える部屋が3畳、家賃は25円だった。

 

桜並木を母親に抱かれて、歩いている写真が残っているが、今は老木になって10数本しか残っていない。なんと植樹されたばかりの桜の木だ。88年、桜の木とともにぼくは生きてきたことになる。

 

縁側に妹(昭子)とならんで座っているぼくの写真がある。小学校に入学した頃の写真で、父はその頃、第一書房という出版社に勤めていた。

 

講談社の絵本が月に何冊か刊行されていた。一流の挿絵画家が描いていて、父が買ってくれたのでぼくはこの絵本にはお世話になった。

 

近所の子供たちの親は大工さん、植木屋さんだったりで、子供に本を買うような親はいなかった。

 

学校が終わると近所の子供たちが裏木戸を開けて縁側にやってくる。積み上げられた講談社の絵本を貪り読んだものだ。陽の当たる縁側に座って子供たちはおしゃべりもする。縁側はまさに子供たちの社交場だったが、こういう光景は今では見ることはできない。

 

縁側にやってくるのは子供たちだけではない。ご用聞きと呼ばれるいろんなお店のご主人たちだ。

 

庭の木戸を開けて入ってきて、縁側に腰をかける。まずは洗濯屋さんだ。その頃、我が家に来ていたのは下北沢の駅の北口商店街に店を持つ洗濯屋さんで、自転車の荷台に大きなシートの入れ物を積んでやってくる。

 

ぼくのお袋は、必ずお茶を出し、お菓子なども出して、長いことおしゃべりして帰っていく。

 

炭屋さんも来たっけ。あとは魚屋さん。まだご用聞きに来た人もいたけど忘れてしまった。そのころは時間がゆっくりと流れていて、のんびりとしていた時代だった。

 

父は戦後、昭和23年に資本金25万円で株式会社第二書房を事務所など借りないで、我が家で仕事を始めたのだ。

 

ぼくが駒沢大学に入学した頃で、電話もまだなかった。庭を隔てた山野の家の台所の窓が開いて「伊藤さん、電話ですよ」と大声で呼んでくれる。

 

やはり縁側にあった電話で用を足したものだ。当時、電話を引くのには時間がかかった。

 

03−3421−5462番、その頃の電話がまだ我が家には残っている。使い慣れた懐かしい電話だ。たまにこの電話にかかってくることがあると、若かりし頃のことが思い出される。

 

メールなんて使えないぼくには電話が大事だ。誰かこの電話にかけてみて!

 

★コメントを是非!

| | コメント (0)

2020年6月29日 (月)

「島を返せ!」の叫び声は!

ぼくのことを一番最初に記事にしてくれた朝日新聞の記者、小泉信一さん。先妻の舞踊家、伊藤ミカのことを書いた『裸の女房』も大きな記事にしてくれた。

 

1991年に小泉さんが自ら志願して、日本の最北端、北海道の朝日新聞通信局(現・支局)に95年まで赴いた時に、浅草のバアで送別会が開かれた。

 

ぼくも出席したが、その時くじ引きで当たった掛け時計が、我が家の壁にかかっていて時を刻んでくれている。

 

毎日、新聞も週刊誌も、テレビも新型コロナウイルスのことばかり報道していて、読む記事がない。

 

そんな時に2020年6月8日から12日まで、朝日新聞の夕刊に5回にわたって「望郷の島々 北方領土」が、小泉信一さんの記事で掲載された。

 

1回めは「現場へ! 色あせない桜の花の記憶よ」のタイトルで。根室の支局に5年もいた小泉さんでなければかけない記事だ。

 

「淡いピンクの花びらが海風に揺れる。北方領土の島々をのぞむ北海道根室市。今年のチシマザクラの開花は5月9日。市観光協会によると例年より9日早いという。

 

満開の桜を愛でながら、元島民らと酒を酌み交わした日が懐かしい。1991年から95年まで、私は朝日新聞根室通信局(現・支局)に勤めていた。長い冬を経てようやく訪れた春の喜び。宴席にいた一人がほろ酔い気分で郷里の歌を口ずさんだのを思い出す。

 

  千島恋しや 朝露夜露 島よ還れとなくかもめ」

 

太平洋戦争の敗戦によって、北方領土はソ連に占領されてしまった。ソ連は国は広いけれど使える土地は少ないから、北方領土を返すわけがない。北方領土に自衛隊の墓地ができたり、米軍の基地ができたらソ連は困るからだ。

 

「ようやく根室市の市街地に入ると左側に大きく島影が見えてくる。オホーツク海に浮かぶ北方領土の国後島だ。

 

「へえー、驚いた。こんなに近いんですね」

 

私が根室に勤務していた頃、東京から視察に訪れた政治家の多くが、手をかざしてこんな発言をした。その度に地元では失笑が漏れた。

 

「冗談じゃない。島はずっと同じ場所にあるのに」

 

笑い話のようだが、おそらく今も同じようなやりとりが繰り広げられているのかもしれない」

 

こんな政治家たちがいる日本に、ソ連が北方領土を返すわけがない。

 

「昨年8月。北海道根室市の祭りを訪ねた私は、馴染みの露天商と一緒に夜の街を歩いた。「フルカマップ」「水晶島」……。懐かしいスナックはどこもシャッターが下りていた。「南千島」というキャバレーもあった。「北海の大統領」と呼ばれた大物船主が経営していた店だった。

 

「昔は景気が良かったなあ」と露天商はいう。確かに飲みに行くと札束を懐に忍ばせた漁師によく会った。「今日は国後まで行ってカニさとってきた」。漁師が自慢げに話していたのを思い出す。悪びれた様子はなかった。

 

「あそこは、もともと俺たちの海。どこにどんな魚がいるかはみんな知っている」。そんな思いが強かったのだろう。

 

ロシアは日本漁船の操業に目を光らせ、違反があれば臨検や連行も辞さない。」

 

今ではロシアからカニなど買っているのでは。

 

「島の帰属をめぐって日ソ両政府の交渉が難航している今、立ち止まり、この北辺の町が歩んできた歴史を見つめ直したい」と、小泉信一記者は結んでいる。

| | コメント (0)

2020年6月22日 (月)

今のぼくの心の癒しは、台湾娘と会うことだ!

我が家の近くにカフエ「芳洋」がある。すぐそばをせせらぎが流れていて、そこにエビがにが生息している。そこのご主人が孫が小さかったときに連れていくと、ご主人が紐の先にイカの干物をつけて、エビがにをとってくれた。

 

その頃ご主人は台湾に足繁く通っていて、木彫りの木像を買い込んできて店に並べている。木像だでなく台湾は烏龍茶が美味しいそうで、買ってきて飲ませてくれた。

 

ご主人は脳梗塞で倒れられて、後遺症が残り、何を喋っているのか聞き取れない。今では奥さんがおいしいコーヒーを淹れてくれる。

 

ぼくは台湾には一度も行ったことはない。マニラとソウルには行ったことがあったが、今は泣き邱永漢さんと親しかったので、台湾の話はよく聞いていた。

下北沢の南口で降りて、南口商店街を下ってくると、右側に大きな「王将」がある。その筋向かいに間口一間ぐらいの小さな台湾タピオカ専門店下北沢店がオープンした。

 

A_20200626120401

▲「王将」の筋向かいだ

 

この店、何軒もの店が開店しては潰れている店だ。タピオカってなんのことかと辞書を引いてみたら「熱帯さんのキャッサバという植物の根、茎から取れるデンプン」とある。

 

若い女の子がマスクをして一人で店番をしている。タピオカってどんなものかと思ってはいってみた。太いストローが容器についていて、黒い粒が底の方にいくつも沈んでいる。ストローが太いわけがわかった。太くないと黒い粒を吸い取れないからだ。

 

店の名前は「千禧茶」(SENKICHA)とある。その店の前を通って駅前のスーパーに買い物にいくのだが、一度しか入ったことのない店なのに、カウンターの中の女の子が手を振るではないか。

 

それから店の前を通る度に手を振るので入らないわけにいかない。その女の子、台湾の子で日本語がカタコトしか喋れない。喋れなくても目と目が合えば言葉はいらない。

 

何度か店に入るたびに女の子に親しみが湧いてきた。マスクを外してもらって写真を撮ったが、目が澄んでいて可愛い子だった。

 

お店の社長が考えたキャッチフレーズだそうだが「たとえ君の中で一番ではなくとも僕の中で君は一番なんだ」とある。頭の悪いぼくにはわかったような、わからない言葉だ。誰かこういう意味だということを教えてもらいたい。

 

C_20200626120601

▲意味がよくわからない

 

このお店、北海道の札幌だとか、いろんなところに5軒もあるそうだ。下北沢って家賃が高い。それにも関わらず、潰れてもまたすぐに店を出す人がいる不思議な街だ。

 

新型コロナウイルスの感染を恐れて街へ出る人が少ない。このお店の売り上げもしれている。台湾のお金持ちが経営しているのだろうが、なんとか続けて欲しいものだ。

 

下北沢の商店街って道が狭いから、たくさん人が歩いているように見える。歩いている若者はあまりお金を持たない人たちだ。

 

大学生も宴会など今はしないのだろう。居酒屋の前に多くの若者たちがたむろしていた光景はひと昔も前のことだ。

 

利幅のある古着屋だけでも100軒は越すだろう。南口の商店街だけでも古着屋だらけだ。

 

女の子の前はりゅう・れいさんというそうだ。営業時間は12時〜19時まで。下北沢の街をあるいていても知ってる人に出会うことはない。88歳も長く生きていると、みんなこの世にいなくなっているからだ。

 

ぼくの心の癒しは、美しい目をしたりゅう・れいさんに会うことだけだ。

 

B_20200626120401

▲目が美しいりゅう・れいさん

 

★コメントを是非!

| | コメント (0)

より以前の記事一覧