2017年8月14日 (月)

毎日を豊かに彩ってくれるカフエ「つゆ艸」

わずかな年金暮らしなので、無駄遣いをしてはいけないと、ここ数年、ぼくは家計簿をつけている。
 
昨日が7月の終わりだったので、計算機で集計してみた。合計で11万3996円だった。
 
年金は月にすると8万円ぐらいだから、3万4000円ぐらい赤字ということだが、雑収入がそこそこあるので、なんとかなっている。
 
衣類は以前古着で買ったものが、たくさんあるので、一切買わないし、旅行なんて何年も行ったことがない。
 
何にお金を一番使っているかというと、家族5人分の夕食のおかず代だ。息子の嫁が勤めの休みの日は、嫁が用意してくれるが、勤めが遅いときは、ぼくがスーパーで見繕って、買ってくると、女房が料理して食卓に出してくれる。
 
自宅から下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」まで歩いて30分近くかかる。早く歩けないが、杖をつかずで今のところ途中で休まずになんとか歩いている。
 
7月に使ったカフエのコーヒー代は8800円だ。カフエ「織部」とカフエ「つゆ艸」のどちらかに、オオゼキの買い物のあとに立ち寄ることにしている。
 
「織部」の店長の奥村君とは、開店以来のお付き合いで、彼は元デザイナーだったので年賀状のデザイン、催物を開いたときのチラシのデザイン、それからネットで調べたいことがあると、すぐに調べてくれる。
 
「文ちゃんと語る会」も、この店で毎月最後の土曜日の11時から開いている。何でも相談できる友人たちがみんなこの世にいなくなっているので、息子のような奥村君が頼りになる若い友人だ。
 
 
 
カフエ「つゆ艸」は、今は7階建てのビルの1階にある。以前は古い木造の建物で、茶沢通りに面していて、カフエもあり、ご主人の露崎君は居酒屋をやっていた。
 
桜の大木が道路に面してあって、春になると見事な花を咲かせたが、ビルに建て替えられる時に切り倒されてしまった。
 
露崎君は骨董店もやっていて、ご両親とおばあさんもいて、おばあさんが店先に座っていると、それだけで絵になった。
 
おばあさんの写真を撮っておけばよかったと悔やんでいる。古い木造の2階建の建物は風格があって、雑誌に紹介もされていた。
 
 
 
作家のよしもとばななさんが、「つゆ艸」の常連で、『ku:nel・クウネル』という女性誌(マガジンハウス刊)に、「彼方の方から見てみよう」というエッセイ欄に、「センスの妙」と題して、「つゆ艸」のご夫婦のこと、お店の中の様子が実によく観察して書かれている名文だ。
 
コーヒー代に8800円も使ったなんて、みみっちいことを書いてしまったが、「つゆ艸」のカウンター(3席しかない)に座って、由美さんとおしゃべりすることが、ぼくの活力になっている。
 
コーヒー代、500円なんて安いものだ。由美さんの笑顔がぼくの心を癒してくれるからだ。ばななさんは最後にこんなことを書いている。
 
 
 
「近所の常連さんのお年寄りたちが、必ず誰かしらカウンターに座ってコーヒーを飲んでおしゃべりしている。
 
美しい内装の中に奥様の優しいうなずきが響いているのを聞いていると、この店がこの人たちの毎日を豊かに彩っているんだなあとしみじみ思う。」
 
「毎日を豊かに彩って」ぼくもそのお年寄りの1人だ。
 
A
落ち着いたカフエ「つゆ艸」

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2017年8月 7日 (月)

少年愛者は、かげろうのような恋に!

「かげろうのようなはかない恋、少年愛者に幸せな日は来るのか! マイケルの「性的虐待」の文字に思う。」
 
1993年の『薔薇族』12月号No.251に、2ページを使って、僕は見えない人たちに向かって、怒りの文章を書いている。
 
 
 
「マイケル・ジャクソンのフアンでもない僕にとって、彼がどんなスキャンダルで世間から非難されようが関係のないことだ。
 
しかし、どの雑誌、テレビを見ても、「マイケル性的虐待」の見出しなので、僕の心は穏やかではない。
 
『FOCUS』の9月10日号を見ると、「マイケルを訴えた美少年の告白―ディープキスやフェラチオも、という13歳」という見出しをつけた記事が載っている。
 
その記事によると、「マイケル・ジャクソン(35)には、セックス・スキャンダルがないと思っていたら、よりによって飛び出してきたのがホモセクシャル・ハラスメントの性的虐待容疑。今年2月から付き合っていたジョーダン・チャンドラー・シュワルツ君が父親に連れられて、心理療法のセラピストを訪ね、マイケルとの秘密について告白「初めはベッドでホッペにキスされるだけだったけど、そのうち口にキスされて、それから彼の舌が中に入ってくるようになった」と打ち明けて事件が発覚したとある。
 
それから「マスターベーションは素晴らしいことだと言ったり、お風呂に一緒に入ることを強制して、僕にフェラチオをした」というのだとある。事実とすれば、これは驚くべき犯罪だと、『FOCUS』は決めつけている。
 
 
 
『薔薇族』を出し続けてきて、いいか、悪いか判断しかねていることといえば少年愛のことだ。
 
少年愛が悪か、善かというならば、どんな偉い人でも結論を出せるものではない。もしこの世に神がいるならば、神に責任を取ってもうらうしかないからだ。
 
誰が好き好んで少年を愛の対象になどするものか。これは生まれながらに少年を好きなのだから、本人の意思では変えられない。いくら齢をとっても同じことだ。
 
少年の好みや、いろんな人がいるが、どっちにしても未成年者だから、自分のことを自分で決められない年頃の子供だ。その子供たちに手を出すこと犯罪だということはよくわかる。
 
「性的虐待」いやな言葉だ。確かに少年を殺してしまう変質者もいる。これはまさしく変質者で例外だ。女の好きな人の中にもいる。しかし、大多数の少年愛の人たちは、「性的虐待」などするものはいない。
 
 
 
マイケルに肩を持つつもりはないが、少年が好きなために自分の農園に遊園地まで作って子供たちを遊ばせ、楽しませている。そんな心やさしいマイケルが虐待などするものか。
 
少年愛は少年を愛したい、かわいがりたいという願望だ。それなのに虐待するわけがない。
 
嫌がるものをキスしたり、愛撫したりすることはよくない。ほとんどの少年愛の人たちは、空想するだけで、自分の理性で抑えている人たちだ。しかし、抑えきれなくなって、行動に走ってしまう人もいることは事実だ。
 
運よく自分の好みの少年と仲良くなれたとしても、少年は年々変化していく。そうなると、もう自分の願望の対象ではなくなってしまう。少年が自分の恋人(女性)を連れてきたりすると、悲しくなるけれど、その反面ほっとすることもあるという。
 
なんとも、はかない恋が少年愛の人たちの宿命なのだ。神よ、あなたはなんということをしてくれたのだ。このかげろうのような恋に幸せはくるのだろうか?」
 
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パリのBON MARCHEのカード

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2017年7月31日 (月)

江戸時代は褌を締めたまま風呂に!

『薔薇族』の読者には、褌マニアが多かった。「六尺」というバアもあったぐらいだ。
 
芝山はじめさん。90歳になっていると思うが、お元気のようだ。長いこと東急に勤めておられて、「パンテオン」の支配人をされていた頃は、よく入場券をいただいた。
 
『薔薇族』には、コントと「江戸男色考」を連載されていて、「江戸男色考」は、3冊も単行本化されている。
 
 
 
「褌」というタイトルで書かれたものがある。
 
「銭湯に軽重の石三つあり
 
江戸の湯屋(風呂屋)には、踵の垢すり用の軽石と手切り用の石が2つ必ず常備されていた。
 
式亭三馬の『浮世風呂・上』にも、糠洗粉、軽石、糸瓜皮にて垢を落とし、石ころで毛を切るたぐひ」とある。毛切石は主として男湯用のもので、尻端折りをする当時の男たちの風習から、褌の両側からはみ出す毛を除去する必要があった。除草法は、この他、紙燭や線香で焼き切る方法、刃物で剃る方法、蛤貝や毛抜きなどで抜き取る方法などがあった。
 
 
 
ざくろ口蛙鳴くなり毛切り石
 
ざくろ口はご存知のとおり、湯を冷やさないように狭くしてあった当時の風呂屋の出入口のことだが、中で男たちが毛を切っている音が、蛙の鳴くように聞こえるという意味である。
 
褌といえば、宝永2年(1625年)の「御前独狂言」に、酒に酔って入浴した男が、つい褌を解いて入って人々に大笑いされたという記事が見える。当時は褌をつけたまま入るのが常識だった。
 
西鶴の『好色一代男』『三代男』などの絵を見ても、みんな褌を着けたまま入浴している。こういう習慣は、慶安の頃まで続いたらしく、「洗場手引書」(嘉永4年1851年)に、慶安の頃まで男女共、洗場に行くに別の褌を持来りて、これをしめかえて湯に入る。上るときは、底浅き下もたらいにて洗いすまし持帰る」
とある。それ以後、手拭いで前を隠して入るようになったが、下だらいは天保の初め(1830年代)まで、江戸の湯屋に残っていたという。
 
つまり、慶安の頃まで、褌には2種類、風呂ふどし・替ふどしと呼ばれたものがそれだ。
 
ふどしとは、踏通しという語源から発した下帯(ふんどし)のことである。ちなみに風呂といっても、慶安、承応(1654年頃)までは、いわゆる戸棚風呂で、蒸し風呂であった。風呂が現代のように湯を溜めたものになるのは、それ以後のことである。
 
 
 
褌を足場にこいつ慣れた奴
 
という川柳がある。これは夜這いをする男のテクニックで、畳の上を歩いたり、這ったりすると、どうしてもミシミシ、ピタピタなんて音がする。そこでまず褌をとって、それを敷いて行動したわけだ。もっともそういうことをする奴は、相当なベテランである」
 
 
 
時代劇専門チャンネルで、『鬼平犯科帳』や『剣客商売』などばかり見ているぼくにとって、江戸時代は、身近な存在だ。人情味あふれる人々ばかり住んでいる長屋の住人のような気分にさえなっている。
 
あのどぶ板がいいな。どこを見てもコンクリートで固められた街って、息が詰まりそうだ。
 
褌ってしめたこと一度もないが、褌をしめるのが名人だった波賀九郎さんもこの世にいないし、しめたらどんな感じかな。
 
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イラスト・長谷川サダオ

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2017年7月29日 (土)

ルールを守って、いい作品を作り出す!

駒沢大学の学生時代、斎藤茂吉さんのお弟子さんで、歌人の森本治吉さんの教えを受けていた。
 
森本治吉教授は万葉集の研究者であり、『白路』という結社を主宰していた。ぼくは短歌を作歌することを森本先生の指導で『白路』の会員になった。
 
森本先生は熊本の五高から、東大の国文科に入られたが、九州の財閥の息子の太田さんと同期生だった。後に太田さんは東邦生命の社長にまでなられたが、『白路』のスポンサーでもあり、表紙裏に東邦生命の広告が載り、保険のよさを歌った太田さんの作品が添えられていた。太田さんは歌人でもあったのだ。
 
ぼくは学生時代は作歌に夢中になっていたが、今度は恋人に夢中になり、作歌をやめてしまった。それからもう60数年になる。
 
 
 
朝日新聞の週に一度の1ページを使っての「朝日・俳壇・歌壇」は、ちらっとだけ目を通している。
 
大江隆弘(歌人)さんの「短歌時評 歌会こわい」に目がとまった。
 
「先月、ツイッターで、「リアルな歌会はこわい」という意見が、数多く書き込まれる事態が起こった。「歌会こわい事件」とも呼ぶべき異常事態だった。
 
この事態は「歌会は真剣な批評の場であるべきだ」という主張がツイッター上に載せられたことから始まった。ネット上で短歌を始め、リアルな歌会に参加したことが少ない若者にとって、この意見は、短歌会の権威主義的な体質を感じさせられるものだったのだろう。
 
結果「歌会は批評の場である」という発言をした個人は沈黙せざるを得なくなってしまった。私はこの「事件」の背景に、短歌会の大きな地殻変動を感じた。」
 
 
 
昭和の初めから口語短歌を作る人はいたが、いつの間にか消えてしまった。それが1987年(30年前)に、俵万智さんの『サラダ記念日』がベストセラーになり、その新鮮さが口語短歌の勢いを増してしまった。
 
大江隆弘さんは、こう続ける。
 
「自分の歌を歌会に出し、他人の意見を聞く。それによって自分では気づかなかった自作の長所と短所が見えてくる。歌会は、最も効果的な批評の場であったはずだ。が、今、その常識は通じない。
 
現在、短歌は、口語で作られるのが普通になった。」
 
 
 
口語で短歌を作るのは、一向に構わない。しかし、それを「短歌」と呼んでほしくない。それは「短詩」というべきだ。
 
スポーツでもなんでもルール(規則)というものがあり、ルールに従って行われる。短歌は5・7・5・7・7の定型で成り立っている。そして文語体を使う。そのルールの中で、各自が表現し、いい作品をつくり出す。
 
世の中、変わったとはいえ、伝統を守って作歌している人がいるに違いない。
 
ぼくは必ずテレビ東京の「和風総本家」を観ているが、昔からの伝統を守って、昔からの技法でものを作り続けている職人がいる。短歌もそうあってほしいものだ。
 
 
 
「Twitterに自分の歌を載せる。それを見た人々が「いいね」を押してくれる。何もリアルな歌会に出て、他人の批評を受けて傷つく必要はない。「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい。批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない。」
 
大江さんの言うとおりだ。
 
A

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2017年7月24日 (月)

地球の温暖化を防がなければ!

最近の日本は地球温暖化現象によるものだろうか、日本各地で局所的にかつてないくらいの大雨で、川は氾濫し、田畑や、民家を流す。山はくずれ、大量の土砂が家を押しつぶす。
 
これは日本だけの現象でなく、世界の各地で異変が起きている。北極や、南極の氷が溶けはじめているというし、海の水が増えて、島が水浸しになり、住めなくなっている。
 
世界中の人が人事だと思わず、温暖化を少しでも食い止めることを考えないと、今に大変なことになるだろう。
 
 
 
かつての日本の家屋のほとんどが木造で、屋根は瓦で、地震や火災に弱い。
 
ぼくの祖父、伊藤富士雄、父、祷一が残した明治末期の絵はがきが見つかった。
 
今の時代は自衛隊が、人命救助や、後片付けにかけつけているが、当時は軍隊の工兵隊の兵士たちが、被害の現場に駆けつけている。当時はテレビなどのない時代だ。惨状を伝えるために、記録として残しておくために絵はがきが、その役目を果たしている。
 
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今の時代もそうだが、被害を受けた人たちはどうやって立ち直ったのだろうか。
 
東北の各地で津波の被害に遭った人たち、次から次へ、各地で被害に遭う人たちが出てくるので、忘れられてしまっている。
 
世界各地からも援助金が寄せられた。日赤はそのお金をどうしてしまったのだろうか?

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2017年7月14日 (金)

コンクリートの僅かなすき間で生きている!

  線香花火を囲みてかがむ幼等の顔だけが影をつけて明るし
 
  紅く熟れし烏瓜白き壁に垂れ外科医院の窓のかたく閉ざせり
 
  仕事終えし日傭人夫の女たち後向きになりて身づくろせり
 
  ストリップ劇場出でこし夜の街に透きとほる靴下を下げし店あり
 
  掛声がもれくる地下の窓にして路上に吹きくる体臭を含む風
 
 
 
これらの短歌は大学生時代に作歌したものだ。短歌を作ることをやめてしまって、60年もの歳月が流れているが、何でもないような人の仕草や、行動半径は極端に狭くなっているが、街の表情などを感じとる習慣はなんとなく身についている。
 
 
 
家にばかりいては足が弱ってしまうので、1日に1度は買物をかねて、下北沢の商店街を通り過ぎて下北沢駅前のスーパーオオゼキに行くことが多い。
 
杖などいらないが、早くは歩けない。片道2、30分はかかるだろうか。今のところ途中で休まずに、スーパーにたどり着く。
 
帰りはカフエ「織部」か、「つゆ艸」に立ち寄る。「織部」には、朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。日経はいい新聞で文化欄も充実している。世の中の経済状態がよくわかる。
 
今時の大学生は新聞を読まないようだが、日本経済新聞だけは絶対に読むべきだ。
 
 
 
わが家から下北沢に向かうには、竹下元総理の自宅の前の住宅街を通り過ぎる。人の通りはほとんどない静かな住宅街だ。舗道も狭くてぼくが歩いていると、車道によけて通り過ぎる。その舗道のコンクリートの僅かなすき間になんの木かわからないが、5センチほど顔を出している。そのかわいい木をひきぬいてわが家に持ち帰り、小さな鉢に植え替えた。
 
もう1週間ほどになるが、根もついていたので生きているのだろう。どこからか種が飛んできて、コンクリートの僅かなすき間に入り込み生きていたのだ。その生命力の強さには驚くばかりだ。
 
たんぽぽ、小さなかわいいすみれ、なども見つけることがある。どこもかしこもコンクリートになっているのに、少しでも土があれば、そこに住みつく。
 
かつては川だったところが、道路になってその下を下水が流れている。森厳寺の裏手が今は歩道になっていて、そこを通ると駅に行く近道だ。歩道の両側は、つつじや、あじさいなどが植えられ、花の咲くころは目を楽しませてくれる。
 
 
 
とにかく85年も下北沢の街に住んでるのだから、街の変わりようは目まぐるしいばかりだ。
 
最近は外人がめだって多くなってきている。それも観光客でなく、住みついている人のようだ。中国人や、韓国の人はしゃべらない限り見分けがつかない。もう街に溶け込んでいるようだ。
 
 
 
「つゆ艸」のママの由美さんのお父さんが、最近、87歳で亡くなられた。数年前までは、9月のお祭りには必ず九州から出てこられていたので、何度かおめにかかったことがある。
 
最近、急に弱られていたようだ。若いころは製材所をやっておられていたそうで、木に愛着があり、器用にスプーンを作られていた。
 
「つゆ艸」のお店には、由美さんのお父さんが作られたスプーンが壁に飾られている。お父さんはいつまでも生きているようだ。
 
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小さな木よ、大きくなれ!

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2017年7月10日 (月)

戦争の記憶が薄れてくると!

2017年7月2日の都議会選挙の投票日の東京新聞朝刊の記事だ。この時はまだ自民党が大惨敗するとは、誰も思っていなかった。
 
「戦争の惨めさを知った・満蒙開拓国ソ連兵へ『性接待』」の見出しだ。この記事の最後に「デスクメモ」があり、こんなことが書かれている。
 
 
 
「生きて捕虜の辱めを受けずと威張っていた人物が捕虜になるや、平然と同胞を売ったという話は「昭和」まではよく聞いた。
 
人の浅ましさ。戦争の記憶が薄れるにつれ、またぞろこの種の「愛国者」たちが跋扈している。素性は進行中の政権の醜聞を見る限り、変わらない。(牧)」
 
その日の深夜、自民党は大惨敗した。この記事を書いた、東京新聞の佐藤六さんもスカッとしたに違いない。
 
 
 
「ソ連兵の性接待の被害者だった89歳の女性が、戦後70年を過ぎたところから、つらい記憶を綴り始めた。
 
女性は戦前、岐阜県黒川村(現白川町)の「黒川開拓団の一員として満州に渡った。敗戦直後、ソ連兵への「性接待」を強いられた。
 
当時、17才。「ものすごく恥ずかしく、戦争の惨めさをさんざん知った。(中略)
 
食料の提供を受けるためにも、ソ連兵に女性たちを「差し出す」という。女性は逃げたかったが、開拓団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えなかった。
 
開拓団の共用施設の一室には、ずらりと布団が並べられていた。仕切りも何もない。交代でソ連兵の相手をさせられた。ソ連兵は銃の先で女性たちの体を小突き、丸太のように倒した。
 
「慌てているわ、扱いは恐ろしいわ、物扱い。」
 
ソ連兵が駐留した11月まで「性接待」は続いた。(後略)」
 
 
 
Img_5949 わが第二書房では、昭和31年11月10日発行の三上綾子著の『匪賊と共に―チチハル脱出記』を刊行している(1956年。今から52年前のことだ)。
 
この本が発売されるや、大きな反響を呼び「週刊新潮」が「性のいけにえになった女性群」という見出しで、5ページほど使って記事にしてくれ、その年のベストセラーになった。
 
その本の内容はすさまじく、戦争を経験した者でなければ理解できないだろう。
 
「満州における日本人開拓団は、未開の曠野に鍬を入れて、開墾の土地を切り開いていったのではなかった。
 
内地農家の満州移住を楽土建設をうたって、笛と太鼓で奨励した日本政府は、満州国政府に指令して、満人農家の人たちが祖先伝来営々として経営してきた豊穣な土地を、安く、タダみたいな金で強制的に買い上げると、そこへ日本開拓団を送り込んだのである。
 
こうした好条件で迎え入れられた開拓団の人の中には、それが全部とはむろん言わないけれど、次第と開拓の精神を忘れて、安逸をむさぼる者も当然出てきた。
 
正直な話、内地の豪農でいたものが、土地を捨てて満州へ移住なぞしなかったであろう。たいていが貧農なるがゆえの満州移住であったのだ。
 
「そう言っちゃなんだけど、比較的教養の低い人が多いように思うんだ。それで……」
 
満州へ来て、一躍、膨大な土地の主となった彼らの中には、満人を小作人として酷使したものもあった。
 
「畜生!いつかは……と思っていた。積もりに積もっていた満人の憤懣が、日本の敗北で爆発したんだ。ともかく開拓団に対する満人の反感は根が深いからね。」
 
 
 
稲田朋美防衛相、東京新聞の記事を読んでもらいたい。こんな防衛相のために生命を投げ出す自衛隊員がいるのだろうか?
 
 
 携帯を孫に教わる情けなさ

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2017年7月 8日 (土)

ぼくにスマホを使いこなせる日が?

デザイナーであり、イラストレーターでもある、80歳を過ぎても大活躍している宇野亜喜良さん。携帯電話など持たないし、事務所には、FAXもなければ、コピーもない。
 
今は亡き澁澤龍彦さんは、テレビもご自分で操作できなかったと聞いている。偉大なお二人の真似をしたわけではなく、ぼくの場合は頭が悪くて覚えられないから、文明の利器を使えないということだ。
 
そんなぼくが、なんと最新式の携帯電話を息子や、息子の嫁(一緒に同居している)に何の相談もなく、買い求めてしまったのだ。
 
 
 
我が家のすぐ近くにコジマがある。東急バスが渋谷と若林折返所を走っているが、わが家すぐ近くの「淡島」から乗ると、10分足らずでコジマのある若林折返所に着く。そこから歩いてコジマまで5分ほどだ。
 
ソニーの小さなカメラに充電できなったので、電池を買いにコジマに行ったのだ(それがトンマな話で、充電する機械?が二通りあって間違って使っていたの)。
 
「JCOM」と背中に書いてある制服を着た若者が、電池を探してくれた。この人、コジマの社員でなく、JCOMから派遣されている人で、自社の製品を売っている人だった。
 
我が家には、女房の部屋と、リビングにソニー製のテレビがあるが、リビングにあるテレビしか、BSとか時代劇を見れない。その話をしたら、すぐに担当の者を我が家に寄こして、2台とも時代劇でも映画でも見れるようにしてくれるという。ありがたいことだ。
 
その若者は『薔薇族』のことをよく知っていた。その若者に勧められたのでは買わないわけにはいかない。
 
今、ぼくの口座から落ちている金額が今より安くなるという。携帯の使用料も月に1000円足らずで、今、落ちている金額と同じくらいで、5分間以内の通話が、どこにかけても無料というからありがたい。
 
年寄りが使う携帯電話と、スマホとかいう新しいものと値段は同じだというから、新しいものにしてもらった。
 
 
 
携帯電話が送られてきて、手に持ったが、果たして使いこなせるかどうか。
 
昔なら孫に教わるなんてことはなかったが、携帯の使い方を教わるなんて、なんとも情けない。
 
カフエ「織部」の店長に、ブログを見る方法を教わったが、すぐに忘れてしまう。それでも自分が書いたブログを自分の力で見れた時の感動は忘れることはできない。
 
バスの中でも、電車の中でも、人々は携帯電話をいじっている。何を見ているのだろうか。ぼくにそのようなことができる日が訪れるのだろうか。生きているうちに。
 
 
 
都議会議員選挙、自民惨敗に終わった。
 
ぼくは世田谷学園には、大きな三つの恩があるので、愛校心は人一倍強いつもりだ。世田谷学園の同窓会の副会長の大場康宣君を世田谷区議会の議員だったころから、都議になってからもずっと支持してきた。
 
しかし、今回は大場さんに投票しなかった。世田谷区は18人も立候補者がいて、当選するのは8人。大場さん最下位の8人目でかろうじて当選した。
 
世田谷区には、世田谷学園の卒業生は多いのでは。同窓会がもっと機能していれば大場君は楽々当選できただろう。
 
同窓会の会長が無能で、同窓会は活発ではない。これから子供が少なくなっていく。同窓会を盛り上げないといけないのでは。

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2017年6月12日 (月)

蛇、蛙、とかげ、バッタ、なんでも食べて!

戦時中から戦後の食糧難の時代、何を食べて生き抜いてきたのか、あまり記憶がないが、野草でも、芋の茎でも食べた記憶はある。
 
ニューギニアの兵士たち、本土からの物資の補給を絶たれ、戦友の死んだ肉まで食べたのは事実だったようだ。
 
 
 
「蛇、蛙、とかげ、バッタは言うまでもなく、ヒル、かたつむり、ムカデ、毛虫、蝶々、アリ、クモ、ミミズも食べた。まともにのどを通らないことはわかっていても、見つけるとすぐに食指が動くのだ。
 
蝶々は羽についている粉を指で掻き落とした上で食べる。クモは一旦舌の上に乗せると、歯と舌にガサガサという食感が伝わって、不思議と脳神経を刺激する気がした。
 
とかげは昔から焼いて食べると下痢に効くと聞いていたが、ただ蟻だけは一度苦い思いをして、あとは捕まえないことにした。
 
とにかく大抵のものは焼くか煮るかすれば、何とか食べられることがわかった。そして保存できるものは、ほんの少しでも蓄えるように心がけた。
 
きのこを採りに行った日の真夜中、もとの小屋の方角に銃声を聞いて目が覚めた。翌朝行ってみると、例のとなり部隊の患者が殺され、持っていた澱粉なども全部盗みとられていた。
 
この患者グループは7名ぐらいだったが、夜間はつたに空き缶を吊るし、鳴子を二重に張りめぐらした上、めいめいが小銃を抱えたまま寝るという用心深さだったのに、どうしてこういう結果を招いたのだろう。私は暗然として、彼の屍にひざまずいた」
 
「翌日の朝、隣の小屋の患者グループ6名が再び襲われた。小銃、食料はもちろん持ち物全部が奪われたうえ、6名全部が犠牲者となった。私はあまりにも無残な6名の遺体の前に立ったまま、もはやそれを片付ける気力もなく、呆然としていた。
 
やがて遺体から悪臭が漂いはじめ、幾日かの後、白骨に変わっていった。そんな悪夢のすぎたある日、2、3人の原住民を連れた1人の日本兵が、近づいてくるのがはっきりと目に映った。夢かと思った。私は夢中で日本兵のほうに向かって走り出したが、すぐにつまずいて転んでしまった。
 
私は隣の患者グループの累々たる白骨に向かって敬礼した後、救援の人たちに抱きかかえられるようにして、ブーツを離れた。」(石塚卓三『ニューギニア東部最前線』)
 
 
 
日本兵が同胞を襲撃する話を、私は戦争中は聞いたことがありませんでした。まがりなりにも軍の秩序が守られている地域では、そんなことをすればたちまち銃殺です。しかし軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中で、それに類した話を私は何回も耳にしました。
 
「あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ。」
 
兵士たちが朝晩復唱させられ、金科玉条のごとく叩きこまれた軍人勅諭の精神、「一つ軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。一つ軍人は礼儀を正しくすべし」という精神はもはやカケラもありません。あるのは原始時代の動物の掟だけです。これらの手記が何よりも雄弁にその事実を語っています。」
 
 
 
もうこの辺で悲惨な話はよそう。しかし最近になって、戦争の匂いが立ち込めてきている。若い人たちに戦争の悲惨さを少しでも知ってもらいたかった。そんな話知りたくはないだろうが。
 
 
 
(コメントを書いてくれる人が増えてきたような。カフエ「織部」の店長に見せてもらっています。コメントを書いてくれると励みになります。よろしく。)

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2017年6月10日 (土)

母に会いたい!日本に帰りたい!

『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』(飯田進著・新潮社新書)どのページを開いてもアメリカ軍や、オーストラリア軍に追われて奥地へと敗退する日本兵の悲惨な姿が描かれている。
 
ぼくの伯父さん、和平おじさんの死、戦わずして、飢えとマラリアによって死んでいった兵士たちの死を無駄死にだったとは思いたくない。
 
敗戦後、72年間、日本が平和で復興・繁栄できたのも、戦場で命を落とした多くの兵士たちの思いがつながったからと考えたい。戦後送られてきた和平おじさんの骨壷に石ころが1こ入っていただけだとしても。
 
大湿地帯の行進がいかに大変だったかというくだりを記してみよう。
 
 
 
「果てしなく続く湿地と、湿地を覆い尽くすような密林の中に、戦友が知らぬ間に黙って倒れてゆく。病人や、自決したものの遺体が前進するに従い増えていった。担架に乗せられた人はもちろん、重症患者だが、乗せられない同じ程度の患者はそれより多かった。そしてその中でも比較的病状の軽いものは、担架をかつがねばならないが、それが原因で自分自身が再び動けない重病人に追いやってしまう。
 
1人の重病人の命を救うため、自分自身を再び動けない重病人に追いやってしまう。1人の重病人の命を救うため4人がその犠牲になるというケースが次第に増え始めたため、ついに『担送はしない。自力で動けないものは自分で始末せよ』という残酷な命令が出された。要するにどんな重病人でも、4人がかりの担送はやめよ。自分1人の力で自分の体を動かせないものは、その場で自決せよ、というのである。」
 
 
 
「それからさらに幾日行軍が続いたか分からぬが隊の先頭と後尾との距離は離れるばかりで、誰がどの辺りを歩いてるか見当もつかない状態になっていた。
 
私は再びしんがりを歩いていた。なんとか隊本部の所属グループに追いつこうとするが、足がいうことをきかぬ。はじめ背負子や小銃で受けた両肩と背中の擦り傷の痛みや、両腕と脛のかき傷の化膿の痛みはまだ辛抱できたが、肝心の足の痛みには堪えきれなくなった。
 
馬皮の靴はすでに先端が口をあけ、靴底は半分が外れそうになっていた。ふやけた足は小石や泥土で皮がむけ、爪先は血がにじんでいた。
 
靴を何度脱ぎ捨てようと思ったか分からぬ。しかし、かかとと甲の皮がくっついているだけで、足の保護には十分役立つので、どうしても捨てる気になれない。歩き出すと靴の先がパクパク開くため、泥ねいの中ではどうしてもうまく進めない。
 
その中の夕方近く、再びサゴ椰子やマングローブの両側に密生する深い泥沼に差しかかった。そのあたりは深いだけでなく、底の方ほど、粘土質のため両足を交互に抜くことさえ難しく、泥沼に突っ立ったまま、立ち往生のような格好になった。私は右足を泥沼から抜くべく、まず左足に力を入れ、次に半歩前のやや固いここぞと思うところを踏みつけ、どうにか右足を抜き終わった。
 
するとそのとたん、今度は左足がずるずると深い年度の中に滑り込み、膝まで浸かってそのまま後ろ向きに倒れそうになった。
 
瞬間、頭がクラックラッとして全身の力が抜けていくような感じになった。もうだめかと観念しそうになった時、突然、母の顔が目の前をかすめた。紛れもないおでこの広い顔である。やさしい目でじっと私を見つめて何かを言いたそうである。
 
「母に会いたい」「日本に帰りたい」という気持ちが、忽然と体中に湧き始めると、不思議な力が出てきた。」

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