2020年12月 5日 (土)

はかない恋は終わってしまった!

下北沢駅の南口から商店街を5分ほど歩いてくると、餃子の王将があり(以前は銭湯だった)、その筋向いに、間口は一間ほどで、奥行きが長い店がある。

 

クリーニングが入っていたのは覚えているが、すでに何軒か代替わりしていて、家賃が高いのか、長くは続かない。

 

今年の春ごろだったろうか。タピオカを飲ませる店がオープンした。タピオカってなんなのかと辞書で調べてみたら、「熱帯産のキャッサバという植物の根、茎からとれるでんぷん」とある。

 

あまり意味がわからない。一度どんなものかと思って店に入ってみた。女性の店員がいて台湾生まれのようだが、日本語はカタコトしか喋れない。

 

どんな味だったか今はよく覚えていないが、こころが通じるものがあったのか、ぼくが店の前を通り過ぎようと思うと、店の中から手を振るではないか。そうなれば店に入ってタピオカを飲まないわけにはいかない。

 

だんだん親しくなって、マスクを外して写真を撮らせてもらった。目がぱっちりしてかわいい子だった。

 

 Img_0103

 

今年の夏は暑かった。3月20日に三軒茶屋の銀座アスターで、ぼくの米寿を祝う会を開いた頃は、すたすたと歩けたが、コロナウイルスが大騒ぎになって、外に出られなくなり、家にいることが多くなってきて、歩けなくなってしまった。

 

10月に入って少し涼しくなってきたので買い物に下北沢のスーパーにいこうと思って、タピオカの店の前を通ったら、シャッターが降りたままになっていた。

 

その頃、新聞に表参道にもタピオカの店が何軒もあって、行列ができるほど飲みにきたお客さんがいたのに、ブームがすぎて店じまいしてしまったと記事に書かれていた。

 

王将の筋向かいのタピオカの店もシャッターを下ろしたままになっている。

 

確か「龍」さんという名前だったと記憶しているが、台湾にもどって幸せに暮らしているのだろうか。

 

はかない恋は終わってしまった。

 

世田谷区に介護保険を払っているので、お願いしたら、手押し車を貸してくれた。疲れた時は椅子にもなり、中に買い物をしたときに入れられる空間がある、ありがたい手押し車だ。それを押して駅前のスーパーに通っている。

 

日本人はお国の言うことをよく聞いて、マスクをほとんどの人がつけている。さからっているわけではないが、マスクはポケットに入れてもっていて、スーパーに入るときにはつけるが、外を歩いているときにはつけない。

 

人ごみの中を歩くのならマスクをつけるべきだが、裏通りを歩いてスーパーに行くのでマスクはつけない。

 

それにしてもコロナウイルスの患者は、なかなかなくならない。とんでもないものを中国は世界中に蔓延させてしまったものだ。なんとか押さえ込むことができなかったものか。

 

日本では死者の数は少ないが、アメリカは多くの死者を出している。少しでも早くコロナウイルスの騒ぎを終わらせたいものだ。

 

エイズが日本に入ってくるというので、ぼくが編集長だった『薔薇族』は、帝京大学の附属病院の松田重三先生の力を借りて、エイズと闘うことができた。が、コロナウイルスとはどうにもならない。

 

なんとも辛い話で、嫌な時代になってしまったものだ。

| | コメント (0)

2020年11月23日 (月)

菅総理、景気のいい時代にしてほしい!

1999年の頃(今から11年前)は、世の中、不況だったようだ。ぼくは「伊藤文学のひとりごと・293」に「ひとつの時代が終わったような」と題して書いている。

 

「6月12日の読売新聞によると、「自殺3万人、35%増、不況の影」との見出しでショッキングな記事を載せている。

 

「自殺者数は前年比で35%も急増し、初めて3万人を突破。特に4、50代男性の自殺が増えていることから、厚生省も「不況の影響も否定できない」としている。

 

自殺者の数は1000年の2万3千494人から35%も増加し、3万1千734人にのぼった。3万人を超えたのは初めてで、昨年の交通事故者数(9千211人)と比べても3倍以上になる。

 

なかでも50代男性の自殺は、前年の3千874人に比べ、5割以上多い5千967人。40代男性も97年の3千31人から、約千人増えて、4千33人だった。

 

自殺者数がこれまで最も多かったのは円高不況となった86年の2万5千667人。同省では不況の影響は否定できないとしている」

 

この3万人を越す自殺者のなかには、読者もいるのではないかと心配している。7月号の「編集室から」にも悲しい知らせを書きましたが、同じように金沢に住む読者から手紙を頂きました。

 

「4月29日の「北国新聞」朝刊3面記事のトップに記事が掲載された。名前こそ伏せてありますが、金沢で一番古いホモバア「スナック比呂」のマスターと従業員ののぼる君でした。

 

現在、私は52歳ですが、この店を知ったのは28歳の時、ひとりで飲みに行っても決して退屈させないマスターの人柄、本当に楽しい店でした。のぼる君は高校を卒業すると同時に従業員として働いており、マスターとのコンビが、一層店を盛り上げていたように思います。

 

私も近年はリストラ、失業、転職と、この平成の不況をなんとか乗り切ろうと必死で、「スナック比呂」へも数年行っていませんでした。

 

こんな形で新聞に乗るなんて、あまりにも寂しい二人の旅立ち、借金なんてこの頃はどうにでもなる時代なのに悔しいです。(中略)

 

昨日、「比呂」の店の前に花束を置いて、手を合わせてきました。一つの時代の終わりを告げるように、繁華街、香林坊からの吹きさらしの風が、ひときわ冷たく感じたのは、私の錯覚であったのでしょうか。」

 

金沢に住む52歳の一読者からの手紙だ。この人も数年「比呂」に行っていないという。この人だけでなく、常連でさえも行かなくなったり、手っ取り早く相手を見つけようとするために、インターネットを使ったり、電話を利用したりで、近年、バアに行くひとが 少なくなっているのでは。

 

ぼくも今では下北沢北口の「イカール館」しかお店をもっていないが、カウンターに座りお酒を飲む常連のお客さんがいなくなっている。

 

12時を過ぎても人通りが多かったのが、今では人通りも少ない。いつまでこの不況が続くのかはわからないが、お店も大変だろうし、お客さんのふところ具合も大変なんだと思う。

 

電話をかけてくる読者のなかには、失業しているという人も増えているという。こんな時は助け合って生きていくしかないだろう」

 

今の世の中どうなのか。夜、街中に出ることがないので、わからないが、下北沢の街も、個人商店はめまぐるしく変わって、古着屋だらけの街になっている。

 

現在、自殺者って増えているのだろうか?

| | コメント (0)

2020年11月21日 (土)

親友だったらもっと長生きしてほしかった!

ぼくの親友と呼べる男は、国学院大学教授の阿部正路だろう。彼の死は早すぎた。彼だけではない、多くの友人、知人があの世に旅立って、今のぼくには話す相手が誰ひとりいない。『薔薇族』の創刊4周年記念特大号に『薔薇族考』を阿部正路君が寄稿してくれている。

 

文章が長いからその一部分を書き記しておこう。

 

「伊藤文学君との思い出は尽きない。

 

最初に伊藤君と会った頃は、伊藤君は駒澤大学の学生で、ぼくは國學院大学の学生であった。駒澤大学はもと馬引沢と呼ばれていた土地に建っているのだが、ぼくはすぐ近くの深沢に住んでいた。僕らは奇妙なほど気があった。親友同士として自他ともに許し合う仲であった。

 

伊藤君は佛教を学ぶ大学に通い、僕は神道を建学の精神とする大学で学んでいたのだから、いわば神仏混淆の友人だったといってよい。伊藤君はむろん頭の毛を剃り落としていたわけではなく、有髪の青年だったから、ちょっとした毛坊主といったおもむきがあった。毛坊主は高い宗教観と俗世観との間に立って、さまざまに人を救い続けた人たちの総称であった。

 

だから伊藤君になんとなく毛坊主のイメージを抱いたとしてもさほど的外れではなかったわけである。しかも大変都会的に洗練されているのだから、いわば生粋の江戸っ子の家筋に生まれたといえようが、実際には僕は秋田市に生まれて育ち、遠い祖先は東北人なので、根は土俗的な人間である。その僕に伊藤君は次々と新しい世界を見せてくれたのである。

 

街の毛坊主は、僕を赤坂のナイトクラブや新宿のキャバレーにも案内してくれた。二人はいつもそこで静かに語り合って別れるだけなのだが、時間がありさえすれば、遠い地方の山間や海辺を旅行し、あとは自宅の書斎と大学の間を往復するのがほとんどの僕にとって、そこは目も眩むほどのきらびやかな世界なのだ。そうした世界の中でもっとも強烈に残っている印象は、あるすぐれた若い創作舞踊家の踊りの姿である。

 

街の毛坊主は時として、その創作舞踊家の裸体の照明係ともなった。時として街の毛坊主自身も舞台で踊った。

 

街の毛坊主は、その創作舞踊家のための舞台装置や衣装についても考えぬき、助言もしていたはずである。その創作舞踊家を育てたのは、ほかならぬ伊藤文学君であった。

 

多摩川を超えて、柿生の丘陵に遊びました。光っているすすきをわけて歩きました。萩の花もきれいでした。「あざみの花が一番好き」彼女はそんなことも言いました。どんぐりの実もとりました。人っ子一人いない丘の道は二人の道でした。

 

これは今も僕の手元にある伊藤君の若い日、手記のように長い手紙の一節である。これももう20年も前の思い出のひとこまである。

 

それは夏。伊藤君は東北行きの満員の汽車に乗り、そこで美しい少女と出逢い、その後2ヶ月ばかり経てから再会し、初めてデートしたときの印象の一端なのである。

 

ここには若い日の伊藤君の内面の優しさが溢れている。その後、小さな暗い養父との事件があって、伊藤君はその少女を守り抜こうと決心し、ついには立派な創作舞踊家までに育て上げていったのである。

 

そうしたやさしく強い意志が伊藤君の内部に今も消えることなく存在し続けていることを僕は知っている。

 

人が訪ねてくるとき、まずもってこまごましたプランを示し、そのことが『薔薇族』の友人たちのために守られ続けていることを僕は知っている。」

 

ミカとの出会いから、33歳で事故死するまでの15年間を『裸の女房』にあますところなく描いている。

 

ぜひ、アマゾンにご注文を!

 

Img_0054

| | コメント (0)

2020年11月 7日 (土)

『肉体の門』の田村泰次郎さんの思い出!

友人の朝日新聞編集委員、小泉信一さんが2020年11月8日の朝日新聞夕刊に「『肉体の門』1947年刊(今から73年前)田村泰次郎著「生きてやる焼け跡からの叫び=戦後のニヒリズムと欲望」と題して記事にしている。

 

なにしろ73年も前のことで、たまたま僕は縁があって、田村泰次郎さんを知っていたから、この記事を読んで懐かしく思い出してしまった。

 

1962年(昭和37年)12月(今から58年前)ぼくの親父が女に狂って、出版の仕事を投げ出し、ぼくにまかせきりになったので、ぼくの企画で「ナイト・ブックス」を新書版で出した第1号が、武野藤介の『わいだん読本』だった。

 

その後武野藤介さんの息子さんに嫁さんを世話したりしたので親しくなり吉祥寺に住む武野さん家によく遊びに行っていた。

 

その頃、中央線沿線に住む作家や画家たちが「カルヴァドスの会」を結成し、西荻窪駅前のレストラン「こけし屋」で会を開いていた。

 

NHKの人気番組「トンチ教室」の名司会者・青木一雄さんの司会で年末に会員が集まり、パーティが開かれ、武野さんの紹介で、先妻の舞踊家ミカが仲間の松前美奈子さんと二人で、余興に踊っていた。

 

中央線沿線に住む、有名な文士、評論家、画家、芸能人ら70人が「こけし屋」に集まった。

 

12月の忘年会とクリスマスをかねての華やかで豪華な会合だった。ミカは20代後半の頃で、ぼくは照明係をしていた。

 

2階の宴会場に料理屋お酒が運ばれて宴会が始まる。踊るといってもお客さんは通路の両側に座っていて、そのまんなかの狭い通路を使って踊りを見せるのだから、目の前にいるお客さんを注目させ、圧倒しなければならない。ストリップ・ショウならやりようがあるだろうが、衣装をつけての踊りだから、色気を出すといっても限界がある。

 

当然、アドリブで踊るのだから、表情や、体から発散するミカの迫力は見るものを圧倒していた。酒を飲んでガヤガヤしていたお客さんも、その動きの迫力で息を飲むばかりにシーンと静かになった。

 

踊りが終わって衣装を着替えて宴席に戻ってくると、若い女性は二人しかいないのだから、老人たちのホステス役にならざるをえない。

 

ご高齢の先生方もお酒が回ってくると、ミカたちは餌食になってしまって、抱きついたりするのは当たり前、キスまでされてしまう。それでもミカは当然のように嫌がることなく笑顔で老人たちのお相手をしていた。

 

今年、元気であっても翌年の会には、あの世にいかれてしまう方がいたから、老人方がひとときを喜んでくれたのだ。

 

田村泰次郎さんは毎回、ミカの踊りを見てくれていた。1965年(昭和40年)6月28日の夜に催された「伊藤ミカ・青津嘉子モダンダンス・リサイタル」のプログラムに「伊藤ミカさんの踊り」と題して一文を寄せてくれた。

 

「ふだん、相当に激しい、厳しい練習を積んでいることも、まちがいない。なぜなら、年ごとに彼女の踊りは上達しているように見え、私たちの目を見張らせるほどに、ぐんぐんと自分の道をつきすすんでいるからである。(中略)

 

彼女は黙っていても、踊り自身が伊藤さんの言葉である。ここまで観るものを感じさせるのは、並大抵のことではない」

 

小泉信一さんの記事を読んで、遠い昔のことを思い出した。ミカが亡くなって、もう50年にもなる。

| | コメント (0)

2020年10月26日 (月)

知らない人から送られてきた歌集!

まったくお会いした記憶がない歌人の加藤英彦さんという方から『歌集プレシピス』が送られてきた。

 

クロースの表紙に書名と著書名が箔押しされている。装丁は間宮俊一さんという方、「プレシビス」とは危機的な状況や断崖の謂いで、ここ数年、集団的自衛権や沖縄の基地問題、原発の再稼働や憲法改正など、政権は急速に危うい方向へと舵を切り始めたように思う。そんな暗鬱な時代への喩を込めて集名とした。と、あとがきにある。

 

略歴には「1954生まれ。(66歳)。1972〜1977年結社「創作」に所属。1976〜1987年結社「氷原」に所属。現在、無所属。現代歌人協会理事。日本歌人クラブ会員。日本文藝家協会会員」

 

発行元の「ながらみ書房」は、歌集の自費出版を手掛けている出版社で、社長の及川隆彦さんは、若い頃は出版社に勤めていた方だ。

 

2015年3月に「ながらみ書房」から大学歌人会の後輩の実践女子大学卒業の深井美奈子さんが豪華な『深井美奈子全歌集』を出版したときにあとがきを書かせてもらった。祖父も父親も、息子たちも医者という貧しさなど知らないお嬢様だ。

 

ぼくよりも5歳も年下なのに、もうこの世にいない。深井美奈子さんのあとがきを書いたご縁で、「ながらみ書房」の及川隆彦さんと知り合った。

 

おそらく加藤英彦さんの歌集『プレシビス』を送ってくれたのは、「ながらみ書房」の及川隆彦さんだろう。ぼくは作歌していたのは20代前半までで、それから短歌とは縁が切れている。

 

短歌を作っていたことから、「令和」の名付け親、中西進さんと知り合い、中西さんがぼくの作品を絶賛してくれたので、ぼくは自信を持ち、それからの人生は積極的になりいい仕事を残すことができた。

 

ぼくは短歌というものは、57577の引文字という規則を守り、その中で表現すべきで、加藤英彦さんの作品は、短詩というべきだろうが、今の時代、短歌の世界も変わっているので、ぼくがとやかく言うべきではない。

 

  階段にすわる少女を眸をあわす湯からあがりし母のまぼろし

 

  さっき富士をみて来ましたと夕風の束をかかえてもどりぬ母が

 

時局を歌った作品も多いが、両親を歌った作品が胸を打つ。

 

  まだひとり棲んでいるという夕まぐれ父よこの家にさまようをやめよ

 

  軽くなりたる父を湯舟に洗いおり触るれば楽器のような肋を

 

  父を焼く夢よりもどり来る母がくつくつと春の野菜を煮つむ

 

  少年は老いる速度をはかりおり見下ろす川のふかさが暗い

 

  遊園地にも陽はおちてメリーゴーランドの馬たちが一頭ずつ目をとじる

 

  撃たれたる子も夕ぐれはもどる家ありて厨にカレーが匂う

 

加藤英彦さん、親思いのやさしい方だ。ぼくは父親にはまったくなんの感情もない。母親が無学なので馬鹿にされていたが、病気になって母親の看護なしでは生きて行かれなくなってしまった。

 

加藤さん、うらやましい方だ。

| | コメント (0)

2020年10月10日 (土)

「ラブオイル」は不滅だ!

1991年の『薔薇族』5月号No.220に載っていたぼくが書いた記事がすごい。

 

「不思議な光を放つ<シアター・ミラ>」とタイトルがついている。

 

現在この劇場があるかはわからないが、ぼくが名付けた劇場だから、今もあるなら嬉しいけれど、時代の変化が激しい時代だったからどうなっていることか。

 

「東京一の出会いの場・新宿に誕生!と『薔薇族』4月号に記事が載ってすぐに読者がわっと押し寄せて、土日は超満員になってしまった。

 

ところがビルのオーナーから要望があって、「コメディシアター」という劇場名を改めることになった。そこで劇場側から、ぼくに急遽劇場名を考えて欲しいという依頼があった。そこもあまり、こっちの世界がストレートにわかる劇場名でなくて、ロマンティックな星の名前がいいということだった。

 

ぼくの長男が学生時代に読んだ本が、我が家に残っていたので探してみたら、社会思想社刊の草下英明著『星座の楽しみ』という文庫本が出てきた。

 

「ヘラクレス」とか「ペガサス」とか、いい名前はあるけど、みんなどこかのバアの名前になっている。

 

ダメかなと諦めた気持ちになってきたときに、ぼくの目に飛び込んできたのが、「ミラ」という星の名だった。ラテン語で「ふしぎ」の意味があり、「ふしぎな光」を放つ星だという。これだ!と思った。

 

「シアター・ミラ」は、すぐに決まった。劇場側の社長さんも喜んでOKしてくれて、すぐに看板や、チラシ類、広告まで書き換えが始まった。

 

何の関係もない劇場だけど、それこそ「ふしぎ」なご縁で、劇場の命名までしてしまったぼくとしては、この劇場が大盛況で、文字通り東京一の「出会いの場」になってくれないと困るのだ。

 

劇場側としても、ホールや、トイレなどの照明を落としたりして、出会いの場にふさわしい、ムード作りに懸命だ。

 

映画の他に実演などのイベントも次々に企画している。オールナイトの日もできるだけ増やすそうだから、2丁目で遊びすぎて終電車に乗り遅れたら、ゆったりとした椅子で朝まで過ごすのもいいだろう。

 

とにかく地方の人も状況したら、ぜひ立ち寄ってもらいたいものだ。」

 

 

『薔薇族』の宣伝効果は抜群だ。広告を載せると地方の小都市のバアでも、すぐにお客がやってきたようだ。『薔薇族』の信頼度が高かったからだろう。

 

40年ぐらい前に『薔薇族』から発売した「愛の潤滑液・ラブオイル」は、雑誌は廃刊になってしまったけれど、今でも大手のゲイホテル「24会館」「北欧館」ポルノショップなどでも売れている。ありがたいことだ。

 

ぼくのあだ名が「ラブオイル校長」なんて付けられてしまったくらいだ。どれだけ助かっているかわからない。

 

コロナの影響でどこのホテルも苦しんでいたようだが、徐々にお客が戻ってきているようだ。

 

ネットでも買えるので、ぜひ、使って欲しいものだ。

| | コメント (0)

2020年9月12日 (土)

うなぎ好きの茂吉が愛したうなぎ「花菱」!

2020年8月14日は、一緒に住んでいる次男夫婦のひとり息子、文一の19歳の誕生日だった。息子の嫁の智恵が誕生祝いに女房の久美子と5人で道玄坂の途中にある「うなぎ花菱」へタクシーへ行ってくれた。

 

「うなぎ花菱」は、歌人、斎藤茂吉(今時の若者は知らないかもしれないが、昭和の柿本人麻呂と言われた人で、教科書にも最初の歌集「赤光」から「死にたもう母」など作品が紹介されていた。

 

  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 

  死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

 

斎藤茂吉は無類のうなぎ好きだった。戦後、山形の疎開先から世田谷の代田八幡宮のそばに開業した、長男の茂太さんが院長の神経科の自宅兼診療所に戻ってこられた。

 

まだ環七などという広い道路のない時代に3年ほど住んでいたが、代田川の桜並木を通って斎藤書店(第一書房時代の父との同僚がいち早く出版社を創立していて、父はその仕事を手伝っていた)が、その途中にあって、茂吉のエッセイ集を手がけていた。ぼくは中学2年生の頃、わが家に訪ねていた茂吉に出会っている。

 

その頃、道玄坂の「うなぎ花菱」に通っていたのだろうか。「うなぎ花菱」のチラシには、「文豪がこよなく愛した渋谷道玄坂 うなぎ花菱」とあり、

 

  あたたかき鰻を食ひてかへりくる

 

  道玄坂に月おし照れり

 

お店の壁に茂吉の短冊が飾られている。ぼくは茂吉と出会った時の印刷物などをお店に残してきた。

 

最近になって「花菱」の女将 阿部真奈美さんからの手紙が届いた。美しい文字だ。

 

「先日はご来店いただきありがとうございます。お孫様のお誕生日のお祝いに花菱を選んでくださり感謝しております。また丁寧なお手紙をいただき大変恐縮しております。早くお返事をせねばと思いながら、日にちが経ってしまい申し訳ございません。

 

私は花菱3代目の嫁でございます。当日はお会いできず主人から文学先生のお話をお聞きお会いしたかったと残念に思っておりました。

 

茂吉先生は我々花菱にとっても恩人のような方で、茂吉の愛した鰻を食べてみたいとおっしゃるお客様が遠方からもこられます。

 

お孫さんの斎藤由香さん、茂一さんもいらしてくださいます。2年ほど前に主人と二人で山形の斎藤茂吉記念館や、生家、お墓を訪ね、主人と二人感激して帰ってまいりました。

 

このようなお知り合いになれたことをありがたいと思っております。歌集(中西進さん序文のぼくの豆歌集「渦」)もありがとうございます。

 

私の友人が先生のファンでブログに花菱のことが書いてあったと送ってくれました。また、是非お立寄り下さい。お会いできると嬉しいです。

 

花菱 女将 阿部真奈美」

 

 

タクシーでないと行けないけど、電話しておいて息子の嫁に連れて行ってもらいたいと思っている。

 

★渋谷区道玄坂2-16-7 花菱ビル1F 「うなぎ花菱」 予約・TEL 0120-262-203 月〜土(日・祝定休)

| | コメント (0)

2020年9月 7日 (月)

神経科の医師の診察を待つ若者たち!

ぼくは20年ぐらい前から前立腺肥大症で、夜、何回もトレイに起きる状態が続いている。もちろん泌尿器科の診療所に通い、薬を飲み続けてきたが快復しない。手術をしなければ駄目なのかも。

 

入院生活をしてベッドの生活を続けたら、今度は足腰が弱って歩けなってしまうだろう。

 

ここ数年、テレビで見る番組は時代劇だ。「鬼平犯科帳」「剣客商売」など、ありとあらゆる番組を見ている。その間に入るCMは年寄り向けの薬のCMばかりだ。

 

「ノコギリヤシ」最初は安い。次から高価になる。このてのCMはみんな同じだ。よほど長く続けなければ効果はないのだろう。

 

そこで医師に睡眠薬を出してもらうが、これがまた曲者だ。しばらくは効果があって眠れるが、続けて飲んでいると、効かなくなってしまう。

 

最近、女性の医師に、効かなくなってしまったからもう少し強い睡眠薬をと言ったら、ムッとした表情で、「それなら神経科の医師に出してもらいなさい」と言われてしまって、下北沢の北口にある神経科の医院を教えてもらった。

 

歩いてはとっても行けないので、車を持っている友人の田中さんに頼んで乗せていってもらった。夜、7時半と言うので行ったらビルの3階にある診療所、エレベーターで登ったら、なんと長い廊下に両側に椅子が置いてあって、20人以上の若い男女が診察の順番を待っているではないか。年寄りなんて一人もいない。みんなスマホを見ている。

 

神経科の医師って、患者から話を聞いて診察するので時間がかかる。窓口の女性に「どのくらい時間がかかりますか?」と聞いたら「2時間半ぐらいです」と言うので、これでは車で待っている田中さんに申し訳ないので「またきます」と、諦めて帰ってきてしまった。

 

若い男女が神経を患っている。一人ひとり話を聞くわけにはいかないが、今の時代を象徴しているのでは。

 

多くの若者たちがコロナウイルスの影響もあって、職を失ったりと悩み事が多いのだろう。

 

ずらっと並んで診察の順番を待っている若者たちを見て、少しぐらい眠れないからと言っている年寄りは我慢しなければと考えてしまった。

| | コメント (0)

2020年9月 5日 (土)

長いことぼくを支援してくれてありがとう!

『薔薇族』の誌上で「伊藤文学のひとりごと」と題して書き出したのは、1975年の1月号(No.24)からだ。

 

タイトルは「結婚のこと」。その時代、読者にとって、どうしても通らなければならない関所のようなもので、異性と結婚しないわけに行かなかった。

 

親・兄弟から結婚しろとうるさく言われてしまう。職場でも教師や銀行員など、結婚しないと周囲の信頼をなくしてしまうことに。

 

小学校の教師をしている読者からの相談でわが家に訪ねてきた。同僚の女性から愛されてしまって、親同士が積極的で出会い、式場の日取りまで決められてしまった。

 

相談に訪ねてきた教師は、女性とのセックスなどしたことはない。女性のアソコを見たこともない。これでは結婚して夫婦生活を続けられるわけがない。

 

次の号には「トイレの落書き」のタイトルで書いている。トイレが発展場なのは、日本だけでなく、よその国でも仲間たちは集まってくる。個室に入って鍵をかけてしまえば、二人だけの世界になってしまうからだ。

 

次の号には「秘密のこと」と題して書いている。

 

「東京には最近、ラブホテルが次々と開業しています。そうなるとどうしても数多くの人と交渉を持つようなことになりがちだし、その中に病気の人がひとりでもいると、次々と感染することは間違いありません。うつされた人が、奥さんのいる人だとすると、その奥さんにまでうつっていくでしょう。

 

1975年12月号には「中学、高校生の諸君へ!」と題して、ぼくはこんなことを書いている。

 

「東南アジアに旅行した一読者から、マレーシアの新聞『南洋商報』の切り抜きを送ってくれました。

 

「鶏姦少年罪名成立 報告漕監3年 加両下鞭笞」の見出しの文字が、まず目に飛び込んできました。

 

「鶏姦」忘れていたような言葉ですが、今の若い人には、鶏のあのときの状態など見たことがないから想像できないでしょう。

わが家では戦時中、何羽もの白色レグホンをおふくろが飼っていて、おんどりも一羽いたので、朝早くときを告げていたし、めんどりの上にのかっている光景を見たことがありました。「鞭笞」今どき鞭で打つ刑罰があるなんて想像もできないことでした。

記事の内容は21歳の青年が、2人の15歳の少年を道で待ち伏せしていて、空き地に連れ込み、お尻に入れ、それが母親に訴えられて捕らえられ、見出しのような刑に処されたということです。

 

日本はまさに薔薇族天国です。薔薇族を規制する何ものもないのですから。

ゲイバアもあるし、ゲイホテルも各地にできたし、日本の薔薇族はまだまだ幸せだとおもう。韓国の薔薇族たち、中国の薔薇族たちはいったいどんな立場に置かれているのでしょうか。きっとひっそりと生きているに違いないのです。」

 

『薔薇族』が発行されていた382号まで「伊藤文学のひとりごと」は書き続けた。廃刊後はネットで書き続けている。最初は息子の女房が、その後何人かがネットを触れないぼくを助けて土曜と月曜に更新してくれている。

 

原稿は送り返してくれるので、大きな段ボール箱にも入りきらないほどだ。何千枚も書いただろうか。

 

生命ある限り書き続けたいと思ってきた。

 

あと何年生きられるかわからないが、書くことが生きがいなので書き続けます。

| | コメント (1)

2020年8月17日 (月)

みんなに助けられて生きている!

温暖化の影響で台風の進路まで変わってしまっているようだ。日本に上陸しないで、韓国や中国を直撃している。

 

日本のテレビも新聞もほとんど韓国や中国の被害状況など報道されていない。今の世の中、ネットを見ることによって真実がわかるようだ。

 

友人の田中さんはネットをくまなく見ていて、中国の悲惨な状況を録画していて、ぼくに見せてくれる。ありがたいことだ。

 

日本の場合は大雨が降って、河川の堤防が決壊し田畑が水浸しになっても、すぐに水が引ける。ところが中国の場合は、川の大きさが違う。決壊して水が人家や田畑になだれこんだら、そのすさまじさはすごい。立派な家が次々と破壊され、流されてしまう。おびただしい車が水につかり流されている。

 

それにいつまでも水が引かないのだから、住民たちはどうやって生きているのだろう。泥水の中に流されてくる大きな魚を網ですくい上げている。その魚を食べているのだろう。中国人のしたたかさが見えるようだ。

 

日本のように小中学校の体育館に避難して、救援物資つがすぐに届けられて、食べるものも困らない。

 

中国の人たちはどうやって避難生活を送っているのだろう。中国共産党は避難民を救助しないようだ。

 

人間が多いから死んでもいいと考えているのだろうか。

 

大きなダムが決壊したら大都市まで水浸しになってしまう。水位が高くなって危ないと見ると、下流の堤防を破壊して防いでいる。

 

こんな国に生まれた人たちは惨めだ。日本人に生まれてよかったと、悲惨な映像を見ているとつくづく思う。

 

中国という国は恐ろしい国だ。中国共産党が権力を持って国を支配しているのだから、一般人民はなんにも言えない。

 

北朝鮮も大雨の被害を受けているに違いない。食料がなくなり、餓死している人もいるだろう。

 

日本のテレビはコロナのニュースばかりで見る気がしない。ネットを見れないぼくは田中さんのお陰で世界中のニュースを知ることができている。

 

それにしても年は取りなくない。自分のからだがヨタヨタで外にも出られないのだから情けない。

 

家の中のことは食事から、飲む薬まできちっと揃えてくれる。尿瓶の中に溜まった小便をトイレに流して洗って、ベッドの下に置いてくれる。女房がいなければ生きていけない。

 

友人、知人はみんなこの世を去り、生きているのはぼくだけだ。最後はどんな死に方をするのかはわからない。

 

一緒に住んでいる孫も8月14日で19歳になるという。次男の嫁が誕生日に歌人の斎藤茂吉がうなぎ好きで、よく通っていた渋谷の道玄坂にあるうなぎ屋で誕生祝いをするという。

 

ぼくは足手まといになるので遠慮して、昨日、田中さんに連れて行ってもらったスーパーのサミットで国産のうなぎを買ってきたので、ひとり寂しくわが家でうなぎを食べることにする。

 

明日は病院へ車で田中さんが送ってくれるという。診察とリハビリが終わるまで待っていてくれる。

 

外の生活は田中さんなしでは生きられない。「文ちゃんと語る会」もやめることになってしまったが、「サイゾー」の脇谷君の骨折りで『薔薇族』の創刊号からアマゾンで読めるようになった。

 

みんなに助けられてぼくは生きている。

| | コメント (1)

より以前の記事一覧