2021年8月23日 (月)

老人天国の「グリレディ池の上」

89歳になってしまって、友人、知人がみんなこの世を去ってしまい、話し相手がいなくなってしまったのは、寂しくもあり悲しい。

 

ありがたいことに世田谷区が老人のための天国のような施設を、歩いてでも行けるような「池の上」に、8月からオープンしてくれた。

 

なんと午前10時ごろ、車で迎えにきて連れて行ってくれる。

 

椅子の背もたれの色がグリーンなので、名付けられたのだろうか。建物は世田谷区が建てたものらしいが、運営は民間の会社がやっているようだ。

 

男性の社員が2人、女性が3人、まだオープンしたばかりかもしれないが、参加している老人は男女含めて3、4人、なんともぜいたくな施設だ。

 

学校の一教室ぐらいの広さで、トイレが2箇所、足を伸ばして入れるお風呂もあり、入れてくれて頭をまず洗ってくれ、背中も流してくれる天国のような施設だ。

 

有料のようだが昼になると食事も仕出し屋からとって、おいしい昼飯も出る。3時になるとおやつも出してくれる。

 

とっても採算が取れないと思うが、区が補助しているのだろうか。老人を大事にしてくれる職員もみんなやさしい。よく面倒をみてくれるからありがたい。

 

男性の職員が体操をしてくれる。これが老人にとっていい運動になる。それが終わると脳トレというのだろうか、大きなテレビの画面を使って、いろんな問題を出して答えさせる。

 

参加している人は、ぼくよりも若い人だがボケていて答えられない。ぼくはまだまだボケていないので、すらすら答えている。

 

ぼくのお目当ては高校を卒業して、この施設に入ったばかりの千葉県出身の19歳の女性、かわいい子だ。彼氏もいるようだが、この女性に出会うのが楽しみだ。街でこのような若い女性と出会うことはできない。天女というべきだろうか。

 

週に3日間だが楽しみにしている。

 

食事をスプーンで食べさせてもらっているぼくよりもずっと若い老女がいつも来ている。このボケヅラをそばて見ているだけで辛い。

 

それにしても歳はとりたくないものだ。雨さえ降らなければ、区から借りてもらっている手押し車を押して、休み休み駅前のスーパーに好きな食べ物を買いに行っている。

 

歳をとると食べ物しか楽しみがない。太るからなるべく量を減らしているが、ついつい食べてしまうので、お腹がぽっこりだ。

 

寝る前には30分ばかり、脚を鍛える運動をしているが弱るばかりだ。駅前のスーパーに買い物に行くまでに何度も手押し車を椅子にして休み休み通っている。

 

街を歩いていて、90にもなる老人は見かけない。ぼくなどはまだ元気なほうなのだろう。歳をとった老人は家にいてテレビでも見ているのだろうか。

 

ぼくは毎月お金を払って、時代劇ばかり見ている。昔の時代劇はよくできている。もうこんな時代劇は作れないだろう。鬼平などは何度見てもよい作品だ。ありがたいことに忘れっぽくなっているから、ストーリーを忘れているので、いつも新鮮に見られる。

 

さて、雨が降っていないようだから、この原稿をポストに入れながら、出かけてくるか。

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2021年7月10日 (土)

くちなしの木の思い出

「くちなしの花 白い花」の歌を聞くと思い出されることがある。その頃、ぼくには「くちなしの花」のようなかわいい彼女がいたわけではない。

 

駒澤大学に入学したのは、戦後、3年が過ぎた頃のことだ。その頃の駒澤大学の校舎は、広い中庭があり、それを囲むように地下1階、地上3階の校舎が建っていた。

 

広い中庭にすみれの花でも植えられていたら、心が和んだだろうが、雑草が生い茂っていた。

 

学校当局が廊下をベニヤ板で仕切って、いくつかの部屋を作り、そのうちのひとつをぼくが部長を務めている文芸部の部屋に使わしてくれていた。

 

ちょうど、今頃「くちなしの花」が咲いていた。「くちなし」の木は、するどい棘があるので、侵入者をふせぐ垣根には適しているのだろう。学園の周りは「くちなしの木」が道路を区切る垣根になっていた。それが2メートルを越す木になっていたから、かなり以前に植えられたものだろう。

 

文芸部の部屋は、2、30人は座れる机や椅子があり、当時の写真を見ると机の上に七輪が置かれている。冷房や暖房などあるわけがない。教授も学生もオーバーを着たまま授業を受けていた。地下1階の教室の寒かったこと。今でも思い出される。

 

今どきの学生は幸せだ、冷暖房は完備し、エスカレーターまでついている学校で勉強しているのだから。しっかり勉強してもらわねば。

 

ぼくは国文科に入学したものの、万葉集や古事記を読んだわけはない。ただ斎藤茂吉の弟子の森本治吉教授が、短歌の結社「白路」を主催していたので、ぼくは入会し短歌を作歌することを学ばせてもらった。

 

先生にはかわいがられて、よく自宅にお邪魔したが、奥様は男っぽい方で先生の面倒を見ない。先生の部屋はゴミ屋敷だった。

 

先生のお弟子さんの若浜汐子さん、お母さんと一緒に住んでおられた。先生は若浜さんの部屋で「白路」の会員の選歌をされていたので、ぼくもよく若浜さんの部屋を訪れて、お手伝いをした。

 

ぼくは勉強はしなかったけれど、短歌を作ることには熱中した。東大の山上会議所で、各大学の短歌を愛好する学生たちが集まり歌会を開いた折に、2年先輩の東大国文科の学生で年号「令和」の名付親の中西進さんが、なんとぼくの歌を絶賛してくれ、のちに歌集を出したとき序文を書いてくれ、結婚したときには仲人も引き受けてくれた。

 

中西進さんがぼくの歌をほめてくれたおかげで、それからのぼくの人生が積極的になり大きく変わったのだから、ありがたいことだ。今日あるのは中西進さんのおかげだ。感謝のしようがない。

 

今、その頃のぼくの短歌の作品を読んでみると、自分でほめるのはなんだがいい作品だ。それは阿部弥寿子さんという、すばらしい女性に出会えたからだ。

 

美しいだけでなく、上品な人だった。好きだと告白したこともなく、手も握ったこともないけれど、ただ話をするだけで満足だった。

 

青春時代に阿部弥寿子さんと出会えたことは、ぼくにとって幸せだった。美人薄明というけれど、若くして弥寿子さんは亡くなってしまった。が、ぼくの心の中では今でも生き続けている。



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2021年6月26日 (土)

おさげ髪の少女に会いたかった!

ぼくの大好きな唄に「白い花の咲くころ」がある。おさげ髪の少女が唄われている。一度、おさげ髪の少女に出会ってみたいと、思い続けていたが、果たせなかった。

 

ぼくがほれこんだ看護婦さん、たしか19歳だったと思うが短髪だった。今、下北沢の街を歩いていても、おさげ髪の少女に出会うことはない。おさげ髪は過去の髪型なのだろうか。長い髪の毛の少女で、おさげ髪にしてくれる少女はいないものだろうか。

 

「令和」の名付け親、中西進さんが、ぼくの恋の歌を絶賛してくれたが、その相手の女性は阿部弥寿子さん。わが家から百米ほど離れたところに住んでいた。

 

どうして弥寿子さんの家に入り込めるようなったのかは忘れてしまっているが、平家の粗末な家だった。お父さんは都電の運転手だったと思う。

弥寿子さんは養女だった。弟さんも同じ農家から養子になったのだから、おそらく、5、6人も子供がいたのだろう。

 

小学校の3、4年のころ、近所のおせっかいなおばさんから「あんたはもらいっ子だよ」と言われてしまい、それから甘えていた母親を離れて見るようになってしまったそうだ。

 

中西進さんが絶賛してくれた、ぼくの恋の歌。

 

  光る鋪道をうつむき寝たる君を見て手に持つ鞄を小脇に抱ふ

 

  一つ顔を想ひ描きて歩みゆく鋪道に軟き部分を感ず

 

  君がため購ひきたる奎の鉢そのままになりて幾日もあり

 

  冬の日にぬくむ石堀に沿ひてゆくひとつの顔を想ひ描きて

 

  扉を開くるをためらひて君は植え込みの葉をむしれるを見たり

 

  スクリーンに目をみはりゐてたまたまに飴の一つを君が手にのす

 

  足早に帰る人らが意識にあれど去り難くして君とたたずむ

 

  影と影が引き合ふさまに似し心にて一つのベンチに寄りそひてゐる

 

  たんぽぽの白く呆けてとぶ中に君を立たしめ写真を撮りぬ

 

 あんなに美しく、上品な女性がご主人が早死にしてしまったあと、ひとりでいられたのは、彼女は男をあまり好きでない人だったからだ。

 

 ぼくにしても彼女の手を握ったことなく、ただカフエでおしゃべりするだけだったが、それで満足だった。

 

 阿部弥寿子さんと出会えて、ぼくは幸せだった。駒大には女性は4、5人しかいなかった。その頃、詩を作る学生が多かったので、近所の高校、大学の学生の詩を募集して、コンクールを開いたことがある。

 親父が「現代詩鑑賞」という本を出していたので、親父の使い走りで当時の詩人たちと面識があった。

 

 詩人を招いて選をしてもらい、それを駒沢学園の阿部弥寿子さんなどに朗読してもらった。

 弥寿子さんは舞踊部にも所属していて、なにかあると講堂で踊ってくれた。あのときの弥寿子さんの踊っている姿は忘れることはできない。


 後に舞踊家として活躍した先妻のミカと出会ったのだから不思議な話だ。

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2021年6月19日 (土)

コロナウイルスが世の中を変えてしまった!

朝日新聞夕刊の「現場へ!ゴールデン街 結束したのに 店の社交場 コロナ禍の1年」の小泉信一記者の記事は読みごたえがある。

 

ぼくはお酒を飲まないので、居酒屋に行ったことはない。新宿歌舞伎町の新宿ゴールデン街には行ったことがない。

 

ただ新宿2丁目地下の「タミー」だけは女房のお気に入りの店なので、よく二人で行ったことがある。

 

マスターは太って豚みたいな人で、店の壁に豚の絵が飾ってある。従業員は二人いて、ひとりは日劇ダンシングチームにいた人なので、歌も上手だし踊りもうまい。もうひとりの若い人はシャンソンを勉強している。この二人を新潟のロマンの泉美術館に招いてショウをひらいたことが何度もある。

 

そのサービス精神は抜群で、新潟の女性に大受けだった。

 

「4ヶ月がすぎ、再び出た緊急事態宣言。6月に入り「もう黙っていられない」と営業を再開する店も都内でで始めたが、休業中の店はまだ圧倒的に多い。

 

「酒を飲み、語り合う文化がここまで否定されたら、これから先どうなるのか。肩を寄せ合い、誰もが分け隔てなく語り合えるのがゴールデン街だったのに……」

 

常連のエッセイスト吉田類さん(72)は困惑する。」

 

「自粛警察 監視し合う社会」の見出し。悲しい見出しだ。

 

ぼくは買い物に下北沢の駅前にあるスーパーに手押し車を押して、休み休み行っている。マスクはポケットに入れているが、裏通りなので人の通りも少ない。マスクをつけないで歩いていると、通りすがりのおばさんにマスクをつけなさいと注意されたことが2、3度ある。

 

日本人はお国の言うことをよく聞く。街を歩いている人で、マスクをつけていない人はいない。これでは注意されるのが当然かもしれない。

 

「親しかったスナックのママさんが3人も自殺したんです。」店の収入がへることよりも、仕事そのものができなくなることへの落胆が大きかったそうである。

 

一方、東京歌舞伎町のガールズバー。2回目の緊急事態宣言が出た今年以降も10人ほどのスタッフの生活を考え午前0時までの営業を続けたという。東京五輪に出場するソフトボール女子豪州選手団が合宿している群馬県太田市で、夜遅くまで営業しているキャバクラがある。

 

「一度閉めると、開いている店に常連が流れてしまう。店側が危機感を抱くのが当然。いずれにしても、どこも店が閉まっているような光景の方が異常だ」。盛り場に盛り場らしさが戻るのはいつの日か。」

 

「コロナウイルス」、えらいものがひろがってしまったものだ。すっかり世の中変わってしまったようだ。

 

89歳のぼくは、雨さえ降らなければ手押し車を押して、休み休みスーパーに買い物に行くだけの日々だが、若い人たちはどんな生活を送っているのだろうか。

 

一緒に住んでいる19歳の孫は、学校にも行けない。ネットを使って先生が授業をしてくれているようだが、友達もつくることができない。いつまでこんな状態が続くのだろうか。

 

いやな世の中になってしまったものだ。

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2021年5月24日 (月)

短歌に出会えよかった!

意外な記事が目にとまった。読売新聞2021/5/19夕刊「短歌の月刊誌 異例の売れ行き」のタイトルでだ。

 

「90年近い歴史を持つ月刊誌「短歌研究」(短歌研究社)の5月号が、短歌専門誌としては異例の売れ行きで、創刊以来初めて増刷された。今号は「ディスタンス(距離)」をテーマに歌人300人の新作を集めた。同誌編集部は「コロナをテーマとした特集に、初めて短歌雑誌を手に取った人も多いようだ」とする。

 

売れたと言っても初刷=4000を完売し、今月12日に500部を増刷。まだ売れ続けており21日に6月号が発売されるが、5月号の再増刷も検討しているという。

 

ぼくは戦後まもなく昭和24年に駒澤大学の予科に入学し、一年経って新制大学に制度が変わり、また一年に入ることになった。

 

国文科には斎藤茂吉の弟子で歌人でもあり万葉集の研究者でもある森本治吉教授がおられた。本を読まないぼくは源氏物語も万葉集も読んだことはないが、短歌を作ることだけは学ぶことができた。

 

森本教授は「白路」という短歌結社を主催していたので、ぼくはすぐさま会員になった。教授にかわいがられて、「白路」編集のお手伝いをするようになっていた。

 

奥様は教授の面倒を見ないので、先生の部屋はゴミ屋敷のようだった。お弟子さんの若浜汐子さんが独身で、お母さんと一緒に住んでおられたので、若浜さんの部屋が「白路」の編集室になっていた。

 

ぼくは若浜さんの部屋にもお邪魔して、原稿の整理のお手伝いをしていた。ぼくも居心地がよかったので、先生もずっとわが家よりも居心地がよかったのでは。

 

ぼくが短歌を森本先生に師事して、本は読まなかったけれど、作歌に熱中することができた。

 

そのことがぼくの人生を大きく変えたのだから、不思議な話だ。

 

その頃、各大学で短歌の愛好者がいて、とりわけ国学院大学、共立女子大学(歌人の中河幹子さんが指導していた)などは短歌を作る学生が多かった。

 

昭和25年に東大の山上会議所で、各大学の短歌愛好者が集い、短歌会が開かれた。駒大からはぼくだけの参加だったが、なんとぼくの作品を東大国文科の中西進さん(令和の名付親)がぼくの恋の歌を絶賛してくれたではないか。

 

その後、ぼくのアイデアで定価10円の豆歌集「渦」(千部)を刊行したおりには、序文を書いてくれ、ミカと結婚したとき、仲人までひきうけてくれた。

 

中西進さんにぼくの恋の歌が絶賛されたことで、ぼくは劣等感がなくなり、積極的に人生を送るようになっていた。ありがたいことだ。

 

人をほめるということが、いかに大事だということを中西さんから教えられた。こんなに人間が変わってしまうのだから。

 

ぼくの恋の歌の対象になった阿部弥寿子さんとの出会いが、ぼくの人生を変えたのかもしれない。

 

あんなに美しく、上品な人に出逢えたなんて、ぼくは幸せ者だ。ぼくの先妻の舞踊家、ミカももらいっ子だったが、弥寿子さんも養女だった。

養父、養母というのは打算的で、子供に対する真の愛情はない。歳を取ったら面倒を見てもらうそれしか考えていない。

 

今時本当の子供だって年老いた親の面倒を見ないことが多いというのに。あわれとしか言いようがない。

 

ぼくの2度目の女房は、ぼくの年老いた両親の面倒をよく見てくれた。今度はぼくの面倒で大変だ。1日中、おこられっぱなしだ。年はとりたくないものだ。

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2021年5月22日 (土)

短歌と出会えて幸せだ!

ぼくの短歌の作品を絶賛してくれた「令和」の名付け親、万葉集研究の権威の中西進さん、駒澤大学在学中、斎藤茂吉の弟子で歌誌「白路」の主催者の森本治吉教授に短歌を作ることを教えてもらったことだけがよかったことだ。

 

短歌との出会いがなければ、今日のぼくはない。国文科に入学したものの、万葉集や、源氏物語を読むことはなかった。

 

読書をまったくしないぼくに卒業論文を書けるわけがない。森本教授はぼくのことを心配して父に手紙をよこしている。

 

「大学院に入り、そこで卒論を書けばいい」と言ってくれたが、大学院に入ったからといって卒論を書けるわけがない。

 

ぼくは卒業式までいたが、卒論を書かなかったので卒業証書をもらえないままに終わってしまった。

 

だからぼくの著書の略歴に「駒澤大学を出た」とだけ記している。それが年を経て、卒業証書をもらえたのだから、ありがたい大学だ。

 

日活で映画化され、ベストセラーにまでなったぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』が、君の卒論だよと言って、2、30年経ってから卒業証書をくれた総務課の恩人のお名前を思い出せない。

 

中西進さんが絶賛してくれた、ぼくの恋の歌、その恋のお相手が阿部弥寿子さんだ。

 

代沢小学校の一年後輩で、わが家から100米ぐらい離れたところに住んでいた。彼女は子供のいないおじさん父母のところに山形の貧しい農家からもらわれてきた養女だ。弟さんも養子になっているのだから、兄弟は5、6人いたのかも知れない。

 

小さい時にもらわれてきたのだから、本当の母親だと思って甘えていた。それが小学校4、5年のころ、近所に住むお節介やきのおばさんが「あんたはもらいっ子だよ」と言ってしまった。それから母親と距離をもって見るようになってしまったという。ひどい女がいたものだ。

 

彼女の家にどうして出入りできるようになったのか記憶にない。粗末な平家の家だったが父親は都電の運転手だった。

 

母親は酒好きで坂を降りてきた道路の向かい側に居酒屋があり、そこにいりびたっていた。

 

弥寿子さんは、高校は曹洞宗が経営する「駒沢学園」に入学し、駒澤大学のすぐそばに校舎があった。

 

その頃は三軒茶屋までバスなどなく、じゃり道を歩いて30分はかかった。弥寿子さんも同じ道を歩いて三軒茶屋から玉電に乗って、「駒沢」で降りる。駒大から反対側にあり、駒大から15分ぐらいで歩いていける。

 

その頃の駒大は女子学生は、4、5人、ブスばかりだ。そのうちのひとりは助教授と結婚してしまったから、残るは数人。

 

休み時間になると、その数人の女性を男たちがとりかこんでいた。その頃、近所の高校、大学で詩を作る人が多かった。

 

父が『現代詩鑑賞』明治・大正・昭和編を出版していたので、父の使い走りで、多くの詩人たちの家を訪ねていた。

 

大江満雄さんの家を訪ねたときなどは、この人、話好きで、初対面なのに何時間も話を聞かされてしまった。トイレに行く時にも接続詞を残すということだ。

 

多くの詩人と知り合ったことで、駒大の講堂で、詩のコンクールを開いたことがある。

 

近所の高校、大学から多くの作品が寄せられた。その中から優れた作品を選び出して朗読することに。朗読を駒沢学園の文芸部の女性たちにお願いした。その中に弥寿子さんもいたのだ。

弥寿子さんのことはまだまだ書ききれない、美しいだけでなく、気品がある女性だ。弥寿子さんと知り合えてぼくは幸せ者だ。


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2021年5月 1日 (土)

さようなら「伊藤文学のひとりごと」

『薔薇族』の最終号は、382号、いつも目の前の本棚に置いてあるのに、それが見つからない。

 

それから16、17年になるのだろうか。朝日新聞の小泉信一記者が「『薔薇族』廃刊」と夕刊で報じてくれて、その日の夜はマスコミが押しかけてきて大変な騒ぎになったことが、昨日のように思い出される。

 

雑誌がなくなってしまったのだから、ぼくの文章を発表する場がなくなって途方に暮れていたら、次男の嫁の智恵さんが、「お父さん、原稿用紙に書いてくれたら、ネットで読めるようにするから」と言ってくれたので、それから書き出しのが、原稿用紙4枚でひとつの話にまとめた「伊藤文学のひとりごと」だ。

 

土曜日と月曜日の2回、更新するようにしてきた。そのうち智恵さんが勤めに出るようになってしまったので、続けられなくなってしまった。

 

読者の何人かがあとをついでくれたが続かず、偶然出会ったのがS君だ。ぼくの長男が住んでいるのは、マンションの3階、その真上の4階に、S君は両親と弟さんの4人で住んでいた。

 

そのうち彼は家を出て新宿のマンションへ。そのS君がずっと面倒な仕事をひきうけてくれて、ぼくのブログを更新してくれている。なんと感謝していいことか。

 

原稿がたまると、どかっと原稿を戻してくれる。それが大きなダンボール箱にいっぱいになってしまったのだから驚きだ。よくも書き続けたものだ。

 

ぼくのブログを読んでくれている女性が紙焼きにして送ってくれた。それをまとめたのが、2010年11月20日に彩流社から発行された『やらないか!『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』。

編集担当の河野和憲君が本にしてくれた。現在、河野君は彩流社の社長として活躍している。

 

序文は早稲田大学教授の丹尾安憲先生が書いてくれた。「本書を読み、伊藤の祖父・伊藤冨士雄が娼妓解放に力を尽くした人であることを知り、この下北沢のオッチャンの肉体に受け継がれてきた血の質にはじめて触れた気がした」と。

 

この本はまだ在庫があると思うので、自分でほめるのはおかしいが、今読んでみても読みごたえのある本なので、ぜひ、読んで欲しいものだ。

 

S君が、ここ10年ぐらい書き続けてきた「伊藤文学のひとりごと」を日本に一冊しかない文庫本にして残してくれている。ありがたいことだ。

 

現在、ぼくは89歳、もうまわりを見回してもこの世にいる人はいない。

 

来年は卒寿、90歳だ。88歳の米寿の祝いの会を新潟の魚沼に住む人が、ぼくが若い頃によくしてあげたことを覚えてくれていて、多額のお金を寄付してくれたので、三軒茶屋の「銀座アスター」で50人もの人を集めて、盛大なお祝いの会を開くことができた。

 

来年の卒寿の祝いの会をやりなさいと手紙をくれたので、なんとか元気でいて、またにぎやかな祝いの会をやりたいと思っている。

 

「伊藤文学のひとりごと」も、これで終わりにしたい。言いたいことは言い尽くしてしまったし。

 

長いことぼくを支えてくれてありがとう。

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2021年4月10日 (土)

ケヤキの大木だけが見続けてくれた!

1971年に日本最初の同性愛誌『薔薇族』を創刊したときに、何誌もの週刊誌がとりあげてくれた。

 

週刊文春は「ホモでない男が出したホモの雑誌?」というタイトルだったか、数ページを使っての取材、ありがたかった。

 

ぼくは男好きでないから、編集部を訪ねてくる読者を招き入れた。目の悪い人もいたし、口の聞けない人も。どんな人でも同じように話を聞いた。

 

相棒の藤田竜さんには「伊藤さんはノンケで男と寝たことがないから、ホモの人の本当の気持ちはわからないのでは」とよく言われたものだ。だからこそ読者の声をよく聞いた。

 

わが家のとなりのとなりに、渋谷のデパートに勤める人が住んでいて、その娘さんが池袋の方だったか、目の不自由な人を世話する施設に事務員として勤めていた。

 

その施設に出入りしている全盲の男性がホモで、『薔薇族』の読者だった。わが家に目が見えないのによくぞ探し当てて訪ねてきたものだ。

 

なんとのその全盲の男性と、事務の女性が結婚したのだから驚きだ。彼のことを女性の両親に教えるわけにはいかない。

 

そのうちに子供が生まれたではないか。

 

その頃、『薔薇族』では、世田谷学園の同期生の高橋民夫君が、長野県の「女神湖ホテル」の支配人をやっていたので、新宿からバス3台をやとって、ホテルを借り切って旅行会をしたことがあった。

 

ぼくは女房と一緒に参加したが、運転手が景色のいいところを案内しましょうかと言ってくれたが、参加者は早くホテルへということだった。

 

その夜、どんなことになったのかは知るよしもないが、全盲の若者も参加して、大活躍?したようだ。

 

大手の自動車メーカーの迎賓館がすぐ近くにあって、そこの支配人も参加してくれた。ゴルフ場もあって、夏期の頃には東京からコックさんを連れていって、お客さんをもてなすようだ。

 

迎賓館を案内してくれたが、日本一の自動車メーカーの経営する迎賓館だから、豪華な建物だった。この方、イラストを描くのが上手な方で、小説の挿絵をよく描いてくれた忘れられない人だ。

 

『薔薇族』の読者には、どんな偉い人がいたのかは知るよしもないが、わが家を訪ねてきた着物姿の上品な方は、ちらっと「私は人間国宝だ」と。

 

大学教授は何人もおられたが、吉祥寺にあった前進座のどんちょうを描かれたという話は記憶に残っている。

 

『薔薇族』を創刊してから5、6年経った頃世田谷学園の同期生の設計士が設計してくれた鉄筋建3階で、南側の方を家族が住むように、北側を仕事場に使えるようにしてくれた。

 

3階は16畳で、そこに読者を招いて、いろんな催し物をした。高校生ばかり集めたり、大学生ばかり集めたりと。

 

高校生ばかりを集めたときなどは、終わる頃に大人たちが何人も外で待ち受けていた。近所の女性たちが、わが家にくる男たちをじろじろと見ているのは困ったものだ。

 

美輪明宏さんが、豪華な門灯を寄贈してくれた。そうでなくても暗いホモの世界に少しでも明るい光をと願ってのことだ。

 

今はその建物はない。ただ残っているのはとなりの家の平家の垣根に植えられたケヤキの木が一本だけ、東邦薬品の駐車場の真ん中に大木に成長して残っている。社長にお願いしたら残してくれたのだ。

 

ケヤキの大木が『薔薇族』の最初から終わりまで見続けてくれたということだ。

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2021年4月 3日 (土)

「文ちゃんと語る会」は、ぼくの生き甲斐だ!

「1992年・バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで、切れ味鋭い一本背負いで「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦さんが24日、がんのため死去した。53歳だった。」と、2021年3月25日の朝日新聞が報じている。

 

古賀君は世田谷学園の後輩でもある。母校で金メダルの祝勝会が催された時に、ツウショットの写真を気軽に撮らせてくれた。

 

今、その写真を見ながらこのブログを書いている。

 

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古賀君は福岡県生まれ、佐賀県で育った。小学校を卒業後、柔道私塾「講道学舎」に入門。とある。「講道学舎」は確か世田谷区の上馬にあり、寄宿舎が完備していて、そこに日本中から有能な柔道の選手を集めて指導していた。

「講道学舎」の塾長というか、指導者のお名前を忘れてしまっているが、世田谷文学館で何度もお会いしている。

 

いつも黒いつめえりの服を着ていられて、温厚な方だった。この方の日本の柔道界への貢献は大変なものだ。何年も前に亡くなられてしまったが、娘さんだけなのでその仕事を残せなかったのは残念だ。

 

世田谷学園の柔道部も創部100年だそうで、立派な記念号を出版したが、ぼくも寄稿することができた。

 

戦時中、中学1年のときに講道館の花桐8段に少しばかり教えを受けたが、2度もすってんころりところんだが、そのとき教わった受け身のお陰と書いたが、それは嘘で運が良かったからだった。

 

89歳になるまで、家の中などでもころんだことはなく、脚は弱っているが、区から手押し車を借りて、それを押して天気が良ければ買い物に行ったり、カフエに立ち寄ったりしている。

 

先日、東京医大で3度目のMRIの検査を受けたが、脳の中に出血していたのを薬を飲んでいて、それが効いたのか、脳は正常に戻っていた。

 

今のところ食欲もあるし、毎日歩いているので、まだまだ生きられそうだ。しかし、友人、知人がみんなこの世を去って、話し相手がいないのはさびしい。

 

「文ちゃんと語る会」で出会った若い女性はもう20年近くも続けているのだから、何人にもなる。いろんな事情でそう長くは続かないが、出版社に勤めていた岩崎梓さんは、ぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』を復刻してくれた。

 

横須賀に住むご両親もぼくの催すパーティにも出席してくれて、今では畠をたがやしていろんな野菜を育てている。それをときたま送ってくれるのでありがたい。

 

明治大学の大学院の学生だったイタリア人に卒論のお手伝いをしたことがあったが、もう何年もまで、その後、東京の会社に就職して働いているようだ。3月27日の「文ちゃんと語る会」にしばらくぶりに出席すると、メールを寄せてくれて、息子の嫁が見せてくれた。しばらくぶりの出会いで楽しみだ。

 

「文ちゃんと語る会」で出会ったり、食事をしたりして楽しかった。

 

「文ちゃんと語る会」の出会いが、ぼくの生き甲斐になっていることは間違いない。歩けるうちは続けたいものだ。

 

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2021年3月22日 (月)

89年も生きていたなんて!

2011年3月19日、今日はぼくの89際の誕生日、昨年の3月20日、三軒茶屋の「中国名菜・銀座アスター」で、「ふだん着の街・気さくな街・三茶でひらく文ちゃんの米寿を祝う会」をひらくことができた。

 

80歳の誕生日には、オープンしたばかりの友人のカメラマン中嶌くんが経営する銀座の「まじかな」で、シャンソン歌手のクミコさんも参加してくれて、「百万本のバラ」などを歌ってくれた。

 

中嶌くんは当然、「米寿を祝う会」は「まじかな」でと思っていたに違いない。しかし、年齢にはどうもならない。銀座までの地下鉄の階段の登り降りはつらい。

 

三軒茶屋の「銀座アスター」の常連のお客で駒大の後輩の石塚さんが、会をひらくなら「銀座アスター」でと、支配人に頼み込んでくれた。コロナ騒ぎで多くの人を集めての会ができにくくなっていた。もう少しおそかったら会をひらけなかったろう。

 

『薔薇族』を出していたころ、ぼくは忘れていたが新潟県の魚沼に住む薬剤師の方が、長いことお母さんを看病していたが亡くなられてしまい、ひとりで住んでおられた。

 

その方が「文ちゃんと語る会」に参加してくれて、多額のお金を寄付してくれた。

 

ぼくが彼が若い頃面倒をみていたようだ。若い頃のことを恩に着ての寄付だ。

 

本来なら会費を一万円いただかなければならないのだが、寄付のおかげで若い人でも参加できる会費を3千円にすることができた。

 

ひとりずつ椅子に座って、次々とコースで料理が運ばれてくる。友人の田中英資さんのはからいで、バリトン歌手の北村哲朗さん、ピアノの伴奏は岩谷令子さん。

 

次男の嫁の友人たちのベリーダンサーの派手なダンス。お祝いの花輪も、「駒沢大学」「世田谷学園」お金持ちの石塚さんが贈ってくれて盛大な会になりました。

 

89歳まで生きているのは、周りを見回してもぼくひとりだけ。あと何年生きられることか。

 

ぼくはこの89年間、入院したのは50年ほど前、胆石の手術で1ヶ月入院したのと数年前、痔の手術で6日間入院しただけ。

 

胆石の手術の時も、おうだんになってしまったので、それが回復するまで手術できなかったので、長引いてしまった。

 

内臓も悪いところがないので、入院生活はそれだけだ。あとは16年前、ひざに人工ひざを入れる手術で東京医大の整形外科で左ひざに人工ひざを入れた。半年ごとにレントゲンを撮って手術医が診てくれているが、骨がしっかりしているので問題はないようだ。

 

ブログを長いこと書き続けている。これはネットをさわれないぼくが原稿用紙4枚にひとつ話をまとめて郵送すると、ありがたいことにボランティアで、土曜と月曜に更新してくれる若者がいる。感謝のしようがない。

 

ブログを書き続けているので、年相応に忘れっぽくなっているが、痴呆症にはならずにすんでいる。

 

ぼくは運が良かったのか、生まれた表参道に住んでいたら、空襲で焼け死んでいたのかもしれない。

 

生後百日目ごろ、救世軍の伊藤冨士雄の妹のひとり娘、その亭主が測量機械の製作の工場を作り、二階建ての豪邸に住んでいた。

 

二階建ての貸家を2軒建てたので、呼ばれて北沢に移り住むことができた。そこに住むこと75年。駐車場が地続きの東邦薬品が買い取ってくれたので、美術館建設の借金を返済することができた。

 

今の代沢3丁目の2階建てのマンションは住みやすい。ここで生涯が終わりになることだろう。6畳のぼくの部屋、ベッドもあり、仕事部屋でもある。あと何年生きられることか。

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