2020年1月20日 (月)

死んだ者は帰ってこない!

先妻のミカ(本名・君子)が風呂桶の中で酸欠死してから、2020年1月11日で50年になる。
 
2009年の6月に彩流社から、ミカとの出会いから事故死するまでを書いた『裸の女房』を出版することができた。
 
「死んだ者は帰ってこない」という小見出しでこんなことを書いている。
 
「1969年(昭和44年)の12月のことだ。幼稚園の年少組の5歳になる息子(文人・ミカの子供)は、おばあさん子で自宅からすぐ近くの森厳寺さんが運営している淡島幼稚園に通っていた。子供のことはおばあさんまかせで、何の心配もなかった。
 
1970年(昭和45年)の年が明けて最初の月曜日(1月4日)、その日からクラブ「スペース・カプセル」のショウの演目が変わって「雪女」だった。1回目のショウということでいくらかの不満な点があったのだろう。お弟子さんと二人で、真剣に明日の2度目のショウに備えて駄目押しをしていた。やっと終わってお弟子さんを車で自宅にまで送り届けて、さて風呂に入ろうということになった。ぼくはその日に限ってサウナに入ってきたので、「今日は風呂に入らないよ」と言って、ふとんに入って寝てしまった。」
 
その日は、わが家の第二書房の本を製本してくれている越後堂製本の社長の小林さんが、本の取次店の係長のI
さんを招待して、ぼくと3人で新宿のキャバレーに誘ってくれた。
 
キャバレーを出てから、Iさんがサウナに入りたいと言い出したので、サウナに入って小田急の最終電車でわが家に帰ってきた。
 
その頃、お金の収入が増えてきたので、ミカは生活の匂いがしないところで、舞踊の創作をしたいというので、近所に新築のアパートが建ったのでそこを借りたばかりだった。
 
「いつもならぼくが風呂を沸かして「どうぞお入りください」ということで、ミカは風呂に入っていた。アパートの風呂は浴室の中でガスに点火するようになっている。小さい窓があるが、少し窓を開けておけば外気が入って、問題はなかったが、冬の寒い時期だったので窓はしまったままだった。
 
水を入れる音がして、ゴオーッというガスが燃える音を聞いたか、聞かないうちに眠ってしまった。しかし、心の片隅で心配だったのか、どのくらいの時間寝てしまったのかはわからないが、ふっと目が覚めた。
 
風呂場に入ってみると、もうもうと湯気がたっていて、ミカはすでにこときれていた。
 
ガスの火は消えている。すぐにガス栓を閉めて、風呂桶に手を入れたが、熱湯になっていて手も入れられない。手で触ったらミカのからだの皮がするっとむけた。水道の蛇口をひねって水をそそぎこみ、外に運び出そうと持ち上げようとしたが、重くて持ち上げるものではなかった。ミカは座禅を組んだ形で足を組んで死んでいた。
 
まだ部屋を借りたばかりで電話がひけていない。表通りへとびだして当時あった交番へ走ったが警察官はいなかった。机の上に置かれている電話で110番へ電話した。
 
まだ朝早く、白白と夜は明けていたが、両親を起こしてはかわいそうだと思って、7時ごろになって自宅に行って知らせた。それから埼玉の実家の両親、友人、知人にと次から次へと電話をかけたが、正月の11日のことなので、電話をかけると誰もが「おめでとう」と言われてしまうのには困ってしまった。
 
5歳の息子はその日も、お婆さんに連れられて幼稚園に行き、先生に「ママは今朝死にましたけど、ぼくは悲しくない。死んだものは帰ってこないから」と伝えたそうだ。
 
その息子も55歳、子供も二人も独立している。半世紀も経っているのに、その日のことは鮮明に覚えている。

 

「オー嬢の物語 ポスター」の画像検索結果

| | コメント (0)

2020年1月 4日 (土)

88歳のぼくに2度目の革命が!

東京新聞を愛読しているが、朝刊に「東京物語」というコーナーがあって、女優の十朱幸代さんが登場している。
 
昭和40年度(1965年)の秋の芸術祭参加作品になった、ぼくと心臓病で亡くなった妹、紀子(みちこ)原作が日活で映画化されたとき、『ぼくどうして涙がでるの』で初めて主役となり熱演してくれた。
 
妹は2度目の手術で、32歳で男の子、2人を残して亡くなってしまったが、十朱さんの記事を読んでいると、妹が生きているような気持ちになってくる。
 
東京新聞12月24日の朝刊に、毎月一回「東京新聞読者の生活情報紙・暮らすめいと」1月号が入っていた。その1面に「街の唄」というコーナーがあって、(哲)さんという記者が「駅ピアノ」と題して書いている。
 
「駅の雑踏からピアノ演奏が流れてきた。広場の片隅にピアノがあり、椅子にちょこんと座った男の子が懸命に弾いている。軽快で情感こもる音色。うわさに聞く「駅ピアノ」だ。弾き終わると、周囲から大きな拍手が沸いた。聞けば小学1年生で、曲はショパンのワルツとか。やるねえ。思わず感嘆。
 
「駅ピアノ」は外国の鉄道駅や、空港に置かれ、誰もが自由に弾いたり、歌ったりできるピアノ。BSテレビの人気番組で、ご存知の方もいよう。それが東京の駅にも登場したわけだ。
 
男の子に続き女性や若者も挑み、心和ます曲が喧騒の駅広場に響いていく。
 
音楽は心の治癒薬ともいう。今やスマホ依存症は深刻で、事故やトラブルになる場合も多いと聞く。時には演奏や風景を楽しみ、心の洗濯が必要と思うのだが、しょせんは「大きなお世話」と言われるのがオチか。」
 
なんでこんな記事に目がむいたかというと「ピアノ」だ。最近知り合ったTさん。72歳の方だが、ピアノの調律(日本に6千人もいるそうだ)と、古いピアノの修復と音を作る仕事をされている方だ。
 
ドイツで修復の技術を勉強されてきた方で、古いピアノを修復できる人は、日本に数えるほどしかいなくて、Tさんはそのトップに立っている。
 
ぼくはハモニカもふけないし、音楽の知識はまったくない。Tさんは音楽の話となると、限りがない。
 
「令和」の年号の考案者、中西進さんが、各大学の短歌愛好者が集まった歌会で当時、東大国文科の2年先輩の中西進さんが、駒沢大学国文科の学生で、劣等感のかたまりだったぼくの作品をなんと絶賛してくれた。
 
それからのぼくの人生は、自信をもって生き続け、次々と日本で最初という仕事をこなしてくることができた。
 
令和2年で88歳で米寿を迎えんとするぼくが、Tさんとの出会いで、音楽に対して目を向けるようになった。
 
安物のデッキで石原裕次郎の昭和の名曲を歌ったCD(5枚セット)を購入し寝る前に聴いていたが、TさんがすばらしいヘッドホーンとCDデッキを購入してくれた。
 
革命とも言える耳に飛び込んでくる音色。
 
裕次郎の甘く、やさしい心が伝わってくる歌の伴奏のピアノや、いろいろの楽器の音色が聞き分けられる。この年になって初めて知ることができた。Tさんに感謝。
 
ベヒシュタインピアノで弾く、ピアニスト、川村奈美子さんの演奏会にも連れて行ってくれた。
 
下北沢の駅も、今かわろうとしている。区長は文化あふれる街というが、ピアノの音が流れてくるような駅にしたいものだ。

| | コメント (2)

2019年12月28日 (土)

パワハラ防止法をお国が作るなんて!

2019年(令和元年)12月15日の東京新聞1面トップ記事を読んで、「えっ、そんなことあるの」とびっくりしてしまった。
 
ぼくは幸か不幸か、他人さまに使われて働いた経験が87歳になる今日まで1日もない。学生時代のアルバイトだけだ。
 
駒沢大学在学中、下北沢にガラス磨きの親方? がいて、アルバイトで銀座のお店(当時はビルが少なく、一階か二階の喫茶店とか焦点)のガラス磨きで、危険なことはやらなかった。
 
敗戦後、数年しか経っていない時代で、進駐軍の物資が珍重されていて、どこで手に入れたのか、米軍のブリキの石鹸が入っていた缶になんのことはない、磨き砂を入れてもったいぶって使っていた。
 
4、50軒のお店のお得意さんがあれば、ガラスってすぐに汚れるから商売になっていたようだ。
 
銀座の服部時計店の前の「三愛」の窓ガラスを拭いていたときは、知っている人が通りやしないかと、はらはらしたものだ。
 
今でもカフエに入っても、ガラスが美しく磨かれていると、気持ちがいい。
 
「政府のハラスメント対策指針・就活生も義務化を」という池尾伸一・嶋村光希子さんの記事で、3人の女性から座談会の形式で就活で企業に面接に行ったときの驚くべき話だ。
 
Kさん(4年生・被害体験者)の話。
 
「就活中は嫌な思いばかり。面接で必ず聞かれたのが、『将来結婚するの』とか『彼氏いるの』など。『どのくらい遊んでるの』も。
 
こっちはスーツでばっちり決めて、業界のことも勉強しているのに、聞かれるのはそんなことだけ。面接後『ハイ、ありがとう』と肩を触られたことも。ショックだったのはひどい言動に抗議もできず、受け流すしかなかったことです。」
 
町田彩夏さん(大学院生・被害体験者)
 
「いま大学院に通っていますが、もう就活しようと考えられなくなってしまいました。大学4年時に受けた広告代理店の面接で『化粧が濃い』とか『君みたいに容姿のきれいな女性がハキハキしゃべるのが気に入らない』と言われました。
 
次の役員面接では、化粧を地味にし、気弱そうに話したら、人事担当者に『今日、生理だった? だとしても役員面接に体調合わせられないのは社会人失格』と言われました。」
 
町田さん(大学院生・被害体験者)
 
友人の体験だと訪問したOBに遅い時間に高級レストランに呼ばれて、終電がなくなるのでホテルに、という流れを作られてしまったケースを聞きます」
 
Kさん。「社内で女性へのセクハラや、差別的言動が『通常運行』で行われているから、就活生にもそれが表れるのだと思います。何十社と受けましたが、役員面接で女性が役員というのは、たった一回」
 
これが本当の話ならひどい、ひどすぎる。就職しようと思う学生たちは、誰しも一流企業に就職したいと思うのは当然のことだ。
 
こんな人事の役員ばかりいる会社って、すべての会社とは考えたくないが、一流企業の役員のおごりを感じる。
 
中小企業と給料の差もあるから、みんな一流企業に就職を考える。中小企業では人手が足りないし、どうしても有能な社員を入れたいと思うからこんな馬鹿げた質問はしないだろう。
 
女性差別の気持ちを強く感じるが、ゲイの役員がいたとしたら、男子学生にどんな質問をするのだろうか。嫌な時代になったものだ。

| | コメント (0)

2019年12月23日 (月)

世の中には同じような悩みを持つ人が!

1971年に創刊した『薔薇族』は、隔月刊だった。5号目の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。
 
「第4号の高校生特集は、おほめの言葉をいただいた。ばば君のレポートが出色の出来栄えだったからだろう。『週刊現代』『週刊ポスト』が紹介記事を書いてくれた。
 
『子連れ狼』の連載で売れに売れている『漫画アクション』3月9日号が、1ページを使ってぼくのことを紹介してくれたので、たくさんのお電話をいただいた。」
 
マスコミが取り上げてくれることもあってから、女性の読者も増えてきている。7号目には「私は異性を愛せない女」と題して、清水純子さんの投稿を載せているが、当時のレズビアンの女性の気持ちを知ることができる。
 
「ふとしたことで『薔薇族』を手にし、それから毎号愛読している一女性です。
 
男性でさえ最初は戸惑うであろうと思える内容の雑誌でした。ところが女である私は少しも戸惑わなかったのです。なぜなら私が持っているのと同じ悩みが『薔薇族』に満載されていたからです。
 
世の中には同じような悩みを持った人が多くいることかと、私は心強く思ったのです。私は田舎(北陸)から上京してきて、もう5年になります。私は両親からや、兄嫁の「結婚しなさい」の言葉を聞くのが嫌で、田舎から逃げ出してきたのです。普通の男性と平凡に結婚して、子供を育てるなんていうのは私には不可能です。
 
中学2年生のとき、私は人並みに初恋をしました。なんと相手の人は同じクラスの女の子だったのです。(中略)
 
当然のことのように私にも結婚話が起こりました。それがいやで東京に出てきて池袋に住むようになったのは42年11月でした。
 
美容院に勤めた私は、そこの先生と親しくなりました。お酒なんか飲めもしないのに、先生を誘って飲みに行き新宿のホテルに2人で泊まりました。
 
全然、自然ではありませんでした。2時ごろベッドに入って、先生に甘えられたのに、なかなか手が出せなくて、5時ごろやっと結ばれたのですから……。しかも、先生の指図どおりにやらされました。
 
先生(女性)は彼氏と別れたばかりだったので、私を男の代用品として寂しさをまぎらわすために利用したのでしょう。そんなことは何も知らなかった私は、先生によって男役としてめざめさせられたのです。
 
両親と一緒に住んでいた先生は、ついに私のアパートに移ってきて、毎晩愛し合うことを要求してきたのです。それから4年間、まったくの夫婦気取りの生活をしてきました。
 
先生は私にとっては、こわい存在でした。私が男役といっても夜だけで、昼は私を子供のように扱って自由なんてありませんでした。田舎に電話するにも先生に報告しなければならないし、友だちと付き合うことも禁じられました。
 
2人で共同で店を経営していましたが、先生に飼育されているので私は強いことを言えませんでした。とうとう田舎の両親が私たちのことに口出しするようになり、2人の間もだんだん変になり、仲をさかれてしまったのです。私は泣く泣く別れました。
 
今になって思えば、それでよかったのだと思います。先生のそばにいても両親を安心させることはできませんでしたそれに私が好きで一緒になった人ではなかったのですから……。ただ一緒になって自然に情が湧いて愛するようになったということです。」
 
この女性、結論は『薔薇族』の読者と結婚したいという希望だけど、相手が見つかったのかは記憶にない。

| | コメント (0)

2019年12月21日 (土)

「少年愛」のことは分かっていても「少女愛」のことは!

週刊文春の12月5日号の新聞広告の見出し「『元優等生』誘拐犯・伊藤仁士・少女たちとの異様な共同生活」を見て、事件発生からの新聞記事を読み、興味があったのでスーパーに買い物に行ったとき購入してきた。
 
ぼくと同じ伊藤という姓の青年(35)が犯人ということなので、他人事と思えなかったからだ。
 
昭和の時代は「誘拐」というと、有名人や、お金持ちの子供を誘拐して、お金を脅し取ろうという事件だった。
 
伊藤仁士という青年は、お金が目的ではない。自分が所有する家を持ち、家賃収入もある。
 
『薔薇族』という同性愛の雑誌を日本で初めて創刊し、30数年の間、編集長として多くの読者と出会うことができた。
 
「少年愛」の人に向けての写真集、単行本も数冊刊行しているので、「少年愛」の人たちの立場はよく理解しているので、「少年愛」の人たちに向けてのことも書き、少しでも世間の人たちに「少年愛」の人たちのことを知ってもらいたいと誌上にも、またブログでも書き続けてきた。
 
よく考えてみたら「少年愛」の人が多くいるのだから「少女愛」の人もより多くいることは間違いない。しかし「少女愛」という人に出会ったことはただの一度もない。
 
成人同士のレズビアンの人たちは、多く出会っているのに……。知らない世界のことをブログに書くと批判されるかもしれない。
 
ぼくはスマホを購入したが、自分の書いたブログとツイッターを読むだけで、小6の12歳の少女がSNSなんてものを使って、見知らぬ人と出会うなんて、今の若者はみんな知っていることなのだろうが、おどろきでしかない。恐ろしいことだ。
 
誘拐されたA子ちゃん(12)は、お母さんとお兄ちゃん、お姉さんとの4人暮らしでお父さんはいないようだ。
 
事件の直前、A子ちゃんは「学校も家も嫌だ」とも、もらしていたという。近所の公園のブランコに、2、3時間、ひとりで揺られている姿も目撃されている。
 
もしかしたら父親がいない寂しさもあり、父親像に憧れていたのかもしれない。
 
週刊文春の記事を何度か読んでみたが、伊藤仁士という青年の生い立ちから、中学時代、剣道に熱中していたりと、よく調べている。中学2年生の時代に作られた文集の中で、こんな将来像を綴っている。「弱い人間の力になれる優しい人になる」伊藤が好きな女性のタイプも「優しい人」だったと記事には書かれている。週刊文春はよく調べているが、伊藤仁士の本質には触れていない。
 
15歳の中学生とは、長く住んでいるからセックスはしているだろうが、そのようなことは警察がもらさない限り、記事にはできないのだろう。
 
少年愛の人から直接聞いた話では、少年と肛門セックスをしているとのことだった。昔の子供は親にそんなことを話さなかった。
 
だが少年愛の男はどんなことをしているのかは、まったく知らない。ぼくはネットでいろんなことを調べたりできないので、少女愛の人たちのことを教えてもらいたい。
 
「文ちゃんと語る会」にでも、ぜひ参加して「少女愛」にくわしい人がいたら教えてもらいたい。
 
伊藤仁士君は「少女愛者」だったのか? 食事を1日に1回、風呂も2日に1回、食べ物もろくなものを食べさせていないが、いじめたりはしていない。不思議な人だが、彼は悪いことをしたとは少しも思ってはいないだろう。

| | コメント (0)

2019年12月14日 (土)

白いハンカチを手に持って待っていて!

「スマホ」なんて便利なものがある時代、未成年者だって見知らぬ人と出会うことができる。そんなことがまったくできなかった時代の中学生、高校生は、どんなことを考えていたのだろうか。
 
昭和47年(1972年。創刊して2年目)の『薔薇族』4号・3月号に「性別にかぎらず深く愛し合える社会を」と題して書いている。文通欄も200通を越えているのだから順調に売り上げものびていたようだ。
 
「高校3年生の読者から編集部にこんな手紙が寄せられた。『文通欄にこんな手紙をのせてもらえるでしょうか? ぼくの住所を書いて手紙が回送されてきたとき、父母になんといったらいいのか。父にでも手紙を読まれたら大変です。だけどホモだちができないと気が狂いそうです。どうかこの投稿を文通欄にのせてぼくを助けてください。このままだと大学受験も落ちそうです。』」
 
そう書かれてあって、次のようなことが記されていた。
 
「18歳、高校3年生、ぼくは都立高校に通っている少年。大学受験を目の前にして、こんなことをするのも気が咎めましたが、思いきって手紙を出します。ぼくはホモだけでなく、少々サディスティックなところがあります。
 
年上のできれば25歳までの大学生の人をいじめてみたいのです。ぼくは家のものと一緒に住んでいるために、住所を知らせることができません。家のものになんと言われるかが心配です。そこで学校の帰り道に待っていて欲しいのです。
 
西武池袋線の××駅の改札口に、毎土曜日の3時〜4時までの間、白いハンカチを手に持って待っていてください。学生服を着たぼくが声をかけます。まだ見ぬ青年マゾの人に。
 
東京都練馬区の一高校生より」
 
昨年の秋のことだったろうか。やはり都立高校を卒業して、予備校に通っている少年が訪ねてきたことがある。その少年は高校3年に在学中、いつも勉強に行く日比谷公園のなかにある図書館に行っての帰り、公園の中を疲れた頭をいやすべく散歩していた。
 
ベンチの一つに腰をかけ、何気なく向こうを見ると、前のベンチにひとりの外人の紳士が座っていた。見るからに品のいい外人だった。
 
少年はなんとなく、その外人と目が合うとにこりとした。外人もにこりとした。自分の英会話がどのくらい通じるか、話をしてみたいと思った。同じベンチにふたりで座った。少年はいろいろと話しかけてみた。
 
それからしばらくして少年はトイレに連れ込まれ、ジッパーをおろされて……。
 
「ぼくにも同じことをしてくれ」と、外人は要求したが、初めてのショックで、口もきけないぐらいであったが、天にも昇るような快感に、少年はおののいていた。
 
それから勉強が手につかなくなってしまった。それまでオナニーもやったこともなかったのに、その外人を頭に描いて自らを慰めていた。
 
『薔薇族』を読んだその少年は、ぼくを訪ねて我が家にやってきた。そうした外人との話をあり合わせの食事を一緒に食べながら話してくれて、そのあとで少年は切り出した。「その外人に似た中年の紳士を紹介して欲しい」ということだった。
 
この少年もそれ以来、勉強に身が入らずに受験に失敗して予備校通いをして受験勉強中である。もし、まただれか中年の人を知り快楽に溺れるようになれば、また入試もおぼつかないことはあきらかだ。」
 
白いハンカチを持つ大学生、ぼくは『薔薇族』に載せたのか、おぼえていない。

| | コメント (1)

2019年12月 9日 (月)

サイン入りの内藤ルネさんの人形が!

月刊サイゾーを見ると、笹公人(1975年生まれ。「未来短歌会」選者。17歳の頃、作歌を始める。代表作に『念力家族』(朝日文庫)、『念力図鑑』(幻冬者)など」と略歴が書かれている。
 
短歌の世界から60年以上も離れてしまっているので、あまり興味をもたないが、駒大時代に森本治吉教授に出会って、短歌を作り出したことだけが、大学時代に学んだ唯一のよかったことだ。
 
月刊サイゾーの10月号(2019年)が手元にあったので、短歌のページを開いてみると、笹公人さんの「笑う全裸監督」と題して6首の作品が載っていて、1ページを使い、怖い顔をした迫力のある女性の写真にもう一首載っている。
 
  戦後日本を震撼させし川俣と村西監督の白きブリーフ
 
  昭和時代の終わりを思えばぬばたまの黒木香のワキ毛まぶしく
 
  数万の借金で悩む小ささを全裸監督に笑われた夏
 
今のぼくには、これらの作品がいいのか、悪いのか判断できないが、最近は短歌というより短詩と呼ぶべき作品が多くなってきている。
 
スポーツでもなんでもルールというものがあり、短歌も57577で作るべきで、文語体のほうが格調がある。
 
短歌は『万葉集』の時代で完成してしまっているので、ぼくは『万葉集』に帰れと言いたいが、いまさら短歌を作っている今の人たちにとやかく言うことはない。
 
2019年の11月18日から20日まで、運転してくれる親切な人がいたので、しばらくぶりに女房の古里、弥彦村にある別荘に荷物を片付けに行ってきた。
 
段ボールになにもかも詰め込んで、トラック数台で運び込んでしまったのだから、ひとつ、ひとつ段ボールを開いて、いるものか、いらないものかを見極めなければならない。
 
3階建の家の中にあったものを運び出したので、父母のものまであり、気が遠くなるぐらい積み込まれていた。
 
運転をやめてしまったので、車を運転してくれた人がいて連れて行ってくれたからいいものの新幹線で行ったら、コンビニまで歩いたら1時間ぐらいかかってしまうから食事に困ってしまう。
 
段ボールの中からお宝を探したが、今回は内藤ルネさん作のビリケン人形を見つけ出した。サイン入りで箱にかわいい人形が入っていた。これは欲しい人が多くいるだろう。
 
それから駒大時代に作った短歌の作品が書かれている茶色く色褪せている原稿を見つけ出した。まったく忘れているが、今時の短歌のようなものが書かれていたのでびっくり。自分で言うのもおかしいが、名作ではないか?
 
  突きはなされ空を泳ぎ、花の蕾は不覚にも性液をもらしました
   
  人間は摩擦によって火を作り、子を作り、そして燃えあがった
 
  落葉がくるくる坂をとばさてゆく立ち止まってふりむきたげだ
 
  花火が星空を切りふたりの重みにベンチがうめいている

| | コメント (0)

2019年12月 7日 (土)

お地蔵さんにお花と果物が!

女房の古里、新潟県、弥彦村(人口8千人)には、東京の明治神宮に匹敵するぐらいの立派な弥彦神社がある。
 
11月は全国から菊づくりの名人が丹精込めて育てあげた菊がずらりと並べられた「菊まつり」が開かれていて、多くの観光客が訪れる。
 
ぼくが経営していた、平成5年にオープンさせた「ロマンの泉美術館」は、10数年前に閉館し、今は廃墟と化しているが、もうひとつ閉館して寂しい思いをしているレストラン「森」がある。
 
カナダから丸太を運び込んできて、カナダの大工さん数人が弥彦に数ヶ月も滞在し、作り上げたログハウスだ。
 
そこで料理をつくっていた人はゲイの人で、東京にいたときはデザイナーでセンスの良い人だった。奥さんらしき人とふたりでお客を迎えていた。
 
弥彦神社の裏手にあり、大きな杉木立に囲まれた狭い道を通っていくような辺鄙なところに建てられたレストランだ。
 
「ロマンの泉美術館」は、新潟のテレビ局や新潟日報、三條新聞などが紹介してくれたから、辺鄙なところにあっても多くの人が訪れてくれた。NHKにテレビで紹介してくれたときなどは、1日に500人を越すお客さんで、レストランで食事をするのには何時間も待たされたほどだった。
 
個人経営のレストラン「森」は各所に看板を出してはいたが、口コミで知られるより方法はなかったので、お客さん集めには苦労していたようだ。
 
ぼくは弥彦に行くたんびにレストラン「森」に立ち寄り、食事をし、本を出版した折にはここで出版を祝う会を開いたりもした。
 
しかし、いつの間にか店を閉じていた。紅葉に包まれて、中からマスターが奏でるピアノの音が聞こえてくるようだが、店に入る階段は紅葉した落葉が自然のわびしい芸術作品を作り出していた。
 
弥彦伊藤館の玄関脇には、東京から運んだお地蔵さん、田んぼの神様かもしれない。弥彦に行くたんびに見るが、女房の兄の嫁さん、長い間、畠仕事をしてきたので、腰が曲がってしまっている。それでも畠仕事を続けていて、車で行くと帰りに大根、たまねぎなどを持たせてくれる。
 
ノブさんという名だが、ありがたいことにお地蔵さんにお花と果物がいつもそなえられている。下北沢の和物の骨董店で買い求めたもので、どこの地方にあったものかわからないがお地蔵さんも落ち着いて喜んでいるに違いない。
 
いつのことだったか、兄の家で食事をごちそうになったとき、食事後、茶碗にいくつものご飯粒をつけたままにしていたら、ノブさんに「農家の人は大変な苦労をして、お米を作っているのだから、ひとつぶでも残しちゃだめよ」と、叱られてしまった。
 
それからぼくは、ごはんを食べ終わると、お茶を少し注いで、ひとつぶ残らず食べるようにしている。
 
戦争中、戦後の食糧難の時代を経験しているから、レストランで食事をしても残すようなことはしない。ごはんが多すぎると思うと「半分ぐらいにして」とボーイさんに頼むようにしている。
 
ぼくが骨董好きになった最初のきっかけは江戸末期のおそばのつゆを入れるそばちょこを買い求めてからだ。内藤ルネさんのマンションを訪ねた折に、お茶をいれてくれた陶器がそばちょこだ。淡い青色がなんとも言えないぐらいいい。
 
何10個と集めたが、みんな売ってしまって今はない。それが段ボールの中からふたつ見つけ出した。そんな高価なものではないが、しばらくぶりに恋人に出逢ったようなうれしい気分になってしまった。

| | コメント (0)

2019年11月11日 (月)

「令和」の考案者、中西進さんがぼくのことを!

ぼくはふところ具合の関係で、講読料が一番安い東京新聞をずっと購読している。

購読料が安いからといって、他紙に比べて内容が悪いわけではない。父が戦後独立して、昭和23年に第二書房を設立した頃から、東京新聞には広告を出していた。

帝国ホテルで東京新聞がスポンサーを招待してのパーティに出席したことがあったが、双子の歌手「ザ・ピーナッツ」が歌っていた。現在は名古屋の中日新聞の子会社になっているようだ。

「令和」の年号の考案者の中西進さん、90歳になられているのにお元気で、若い3人目の奥様を迎えて、京都で暮らしている。

読売新聞を購読している、ぼくより2歳年下の妹から電話がかかってきて、「文ちゃんのこと新聞に出ているよ」というので、コンビニで買い求めて読んでみた。

「時代の証言者」という連載の記事で、「令和の心 万葉の旅 中西進」というタイトルで、中西さんがしゃべったことを読売新聞の編集委員がまとめている。

10月26日の「文ちゃんと語る会」の常連のひとりが1回目から切り抜いて持ってきてくれていたので、中西進さんの話が連載されていることは知っていた。

10月31日の読売新聞朝刊に「令和の心 万葉の心」の12回目のタイトルは「短歌人熱中 東大でも」とある。

中西さんが早稲田大学の学生だったとは知らなかった。中西さんはこんなことをしゃべっている。

「早稲田時代は短歌に熱中しました。たまたま読んでいた「早稲田文学」に都筑省吾という先生の短歌が出ていたので、教室で「読みました」と伝えたら、先生は大喜びでねえ。

「君、うちへ遊びにこないか?」

それが縁となり、先生が主宰していた窪田空穂系の短歌結社「槻の木」に入り、歌を作り始めたのです。厳しい先生で、最初の日、「今度来るときに100首もってらっしゃい」という。ほかにも何人か同じことを言われましたが、持って行ったのは僕だけです。(中略)

5月がスタートだった国立の東京大学文化2類を受験したいと思っていたからです。短歌熱は東大時代も続き、東大短歌会をつくり、東大俳句会にも所属しました。3年になってからの文学部時代には、本郷キャンパスの三四郎池近くにあった建物を会場に、大学連合の歌会もやりました。(このとき、ぼくは駒沢大学から一人参加し、ぼくの作品を中西さんが絶賛してくれたので、ぼくは自信を持つことができ、のちのぼくの人生が変わり、いい仕事を残すことができた)

当時の雑誌をみると、慶應大からは医学部の岡井隆さん、駒沢大では日本初のゲイ雑誌『薔薇族』創刊で有名になった伊藤文学さん、早稲田からは篠弘さん(現在、宮内庁のお歌所の選者、毎日歌壇の選者。短歌だけで高収入を得ている数少ない人のひとり)が参加しています。

後には歌人、宮柊二さんの門をたたき、東京日比谷の松本楼で開かれた宮さん主催の「コスモス」(ぼくの父が立ち上げた)短歌会の結成大会に出席しています。その後、読売文学賞をとる「万葉集の比較文学研究」の執筆で忙しくなった頃でしょうか、研究と創作の両立は難しいと感じ、創作からは離れました。でも、短歌を実作していたことは万葉研究にも役立ったと思います」

ぼくも短歌を作ることをやめてよかった。でも、本の誌名を考えたり、小説の題名を考えたり、見出しを考えたり、広告の宣伝文句もと、大いに役に立った。

なによりも『薔薇族』という歴史に残る誌名を思いついたのだから……。

| | コメント (0)

2019年11月 9日 (土)

伊藤文学はあの世に行ってしまったと!

3年ぐらい前のことだったろうか。左目になにか異物感を感じることがあったので、近所の眼医者に診てもらったことがあった。

年をとってくると、誰もが悪くなってくる目の病気のようだ。「白内障」(辞書にはこう記されている。眼球の水晶体が白く濁って、視力が低下する病気)

左膝に人工膝を入れる手術をしてもらって、半年に一回、手術をしてくれた医師がレントゲンを撮って診察してくれている新宿のすぐ近くの東京医大の眼科に紹介してもらって診てもらった。

手術をしても今以上によくはなりませんよ。と言われて目薬を処方してくれた。その薬をずっと使っていたら、その後、異物感もなく目の調子も良かった。それが最近になってまたおかしくなってきたので、近所の眼医者に行って診てもらったら、左老眼鏡の度が合わなくなったので、メガネを変えなさいと言われて、眼鏡屋に持っていく資料を書いてくれた。

老眼鏡のせいではないと不信感を持ったので、カフエで知り合った友人(?)年中、医者通いをしていて、いろんな医院を知っている人に相談したら、渋谷から山手線でひとつめの駅、恵比寿のすぐ近くの角屋眼科医院を紹介してくれた。

会社に行くときに車で医院の前まで送ってくれる親切な人だ。女医さんでお母さんと娘さんが交代で診てくれる。看護婦さんもみんな女性だ。

待合室も小さな熱帯魚がたくさん泳いでいる。部屋全体が女性の繊細な美意識で、壁にかかっている油絵もいい。

検査の器具も何台もあって、詳しく調べてくれた。やはり白内障が悪化しているとのことで、表参道にある専門医を紹介してくれそうだ。

片方ずつ手術するようで、日帰りでいいようだ。11月にはどうしてもすましておかなければならないことがあるので、11月の20日すぎに手術をしてもらうことにして、それまでの目薬を処方してもらった。

「文ちゃんと語る会」をいつから始めたのか忘れてしまっているが、10年は続けているから多くの人に出会うことができた。

最初は和物の骨董品がずらりと飾られているカフエ「邪宗門」、それから下北沢の北口の「占茶」(いまはない)、そして作家のよしもとばななさんが常連の「つゆ艸」そして今の器とコーヒーの「織部」のお世話になって続いている。

どれだけ多くの人に出会ったことか。みんなに支えられて、ボケずに87歳まで元気に生きてこられた。

しかし、残念ながら11月は「文ちゃんと語る会」はお休みということにした。

一回も休まずに続けてきたのに残念だけど仕方がない。12月にはみんなの顔もはっきりと見えるようになって「文ちゃんと語る会」を続けるつもりだ。

それともうひとつ無念なことは年賀状だ。毎年、工夫をして19世紀の古い絵はがきを使ったりして、「織部」の店長にデザインしてもらい、工夫を凝らした年賀状を作り、手書きで住所を書き、ひとりひとり、顔を思い浮かべながら、添え書きもしてきた。

来年は「米寿」のおめでたい年でもあるので、いいものを作りたいと思っていたのに、これもあきらめることにした。

新潟の「ロマンの泉美術館」で出会った常連のお客さん(女性が多い)だけでも50名は越す年賀状を送ってきた。

ぼくの年賀状が届かなければ、伊藤文学は、あの世に行ってしまったのかと思うに違いない。ああ、年はとりたくないものだ。

| | コメント (1)

より以前の記事一覧