2017年10月 7日 (土)

進駐軍相手の男性もいたとは!

秋葉原のイベント会場で、トークショーをやるというので出かけた。山川純一の話が中心のようだ。
 
秋葉原、しばらくぶりだが、下北沢の小さな店ばかりの商店街ばかり見慣れているのでその変わりように驚くばかりだった。
 
午前11時半に待ち合わせということだったが、30分以上も前に着いてしまったので、駅のすぐ近くのビルの地下にあるルノアールの看板が目に付いたので入ってみた。
 
広いお店で内装も立派で、椅子も豪華だ。下北沢にはこんな大きなカフエはない。ブレンドコーヒーが540円。お客さんはチラホラだ。
 
 
 
ビルの2階のイベント会場は広い。お店もそれなりに並んでいるが、お客が少ない。会場の片隅に椅子が2、30脚並べられ、話をするのは3人。おひとりは女装の男性、もうひとりはボーイズラブの漫画作家の若い女性。司会者は若い男性。
 
椅子に座っているお客さんは、10人ちょっと、話は山川純一の話が中心、ひとりでしゃべってしまった。
 
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『薔薇族』の創刊号と2号と『ひとりぼっちの性生活』を机の上に並べたが、何人かの男女が近寄って宝物に触れるように手にとって見ている。『薔薇族』の誌名だけは知っている。もう廃刊になって10数年経っているのだから、若い人は知らないのは当然だ。
 
その中のひとりの女性は、埼玉県の川越の近くに住んでいて、女装の雑誌を中心に並べて売っていた。
 
『GHQの恥部=某女装子が語る終戦秘話』(川嶋ビリッジ・定価300円)と『女装文化の歴史=現代女装界事典』(定価600円)をプレゼントしてくれた。
 
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わが第二書房で刊行した『女の防波堤』のことを書いたが、女性だけがアメリカの進駐軍によって、ひどい仕打ちを受けたのかと思ったら、若い男性もアメリカ兵におもちゃにされていたことをこの本で知った。
 
戦争に負ければ、どんなひどい仕打ちを受けても文句の言いようがない。
 
この雑誌に書かれた生き証人は、90歳を越えて生存していて、取材をして書いたそうだ。
 
アメリカ人だって女好きもいるし、男好きもいる。男性も新聞広告で募集されたようだ。
 
「進駐軍要員緊急募集・自動車運転手(英語の出来る者)」とあるが、敗戦当時の東京で車の運転ができて、英語がしゃべれる人って、僅かな人だったに違いない。
 
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「代々木公園近くの石碑に、公園からNHK周辺に、敗戦後、GHQの居住地「ワシントンハイツ」があったと記されている。
 
60数年前にこのワシントンハイツで働いていた日本人がいた。当時、GHQ幹部付きのドライバーとして働いていたM美さん(男性)
 
髪型はマシュマロヘアーに、制服は女性用軍服(タイトスカート)と強制的に女装をさせられていた。さらに幹部相手に毎夜、菊門(アヌス)姦淫を強要されていた。
 
昭和21年(1946年)秋、終戦の翌年、M美さんは新聞広告にあった広告を見て、日比谷にあったGHQの事務所へ出かけた。
 
M美さんは小型車運転免許しか持っていなくて、採用対象外と断られてしまった。階段を下りる姿をGHQ工兵隊長が、見かけて気に入って採用してしまった。」
 
それからの話は長くて紹介しきれない。
 
アメリカ兵にもゲイは多かったようだ。日比谷公園で米兵にハントされた日本の若者の話は『薔薇族』に載せたこともある。戦争って恐ろしい。

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2017年9月22日 (金)

50年も前の「スペースカプセル」の話をするなんて!

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トークイベント『甦るスペースカプセル〜前衛舞踊と夜の街が手を繋いでいた時代』(仮)
  
1968年末から数年間だけ営業していた伝説のクラブ「スペースカプセル」。寺山修司、宇野亜喜良、土方巽らが舞台を演出し、石原慎太郎、横尾忠則、岡本太郎が通った伝説の店を当時現場にいた者たちが証言する。
  
日時 2017年10月15日(日)   15:00開演(上演時間120分程度)
※開場は開演の30分前より。
  
会場 日ノ出町シャノアール(Chat Noir)
  
登壇 伊藤文学(「薔薇族」初代編集長)、フラワーメグ(女優)ほか
  
http://hijikata1960.yokohama/
 
 

 
世の中には、変わったことを調べている人がいるものだ。もう半世紀も前の話だというのに。
 
赤坂のキャバレー「ミカド」(今はない)の前を通って繁華街からはずれたところにあるマンションの地下に、昭和43年(1968年)10月6日にオープンしたクラブ 「スペースカプセル」があった。
 
マンションの通りの向かい側は、少し高台になっていて公園があった。静かなところだった。
 
『月刊SHOW MAGAZINE 芸通96号』にこう紹介されている。
 
 
 
「住所・東京都港区赤坂2丁目16-13 テイサンレジデンス地階。社長・山名雅之、支配人・高橋繁。TBSスタジオに近く、赤坂の繁華街からそれた静かな一角にある。
 
ハイセンスでユニークなクラブとしてオープン以来、数々の話題をまいた店で、土地柄、芸能人や文化人の常連が多い。入口はレジデンスの右角で、英文字で地味に<SPACE・CAPSULE>とあり、その下にスライドが映写されているのが珍しい。
 
店内は天井一面に小さな銀色の球体が無数に吊り下がり、周囲の壁は黒一色、ミステリアスな三次元の世界に入ったようなムードに誘い込まれる。
 
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点滅を続ける照明と、GS楽団の演奏効果に加えて、フロアショーはモダンアートの本格派たちが、粋を凝らして番組を構成している。
 
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都会派のインテリなら一度は訪れて、前衛感覚の何たるかをここで把握しなければ損をするような店である。ショウタイム・9時・11時」
 
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下北沢南口商店街のカフエ「織部」の店長、奥村君にネットで「スペースカプセル」のことを調べてもらったが、何も書かれていない。
 
『月刊SHOW MAGAZINE』が記事にしてくれたからよかったものの、このクラブに出入りしていた人たちは、もうこの世にいない。社長の山名さんも消息不明だ。
 
ショウの一員だった宇野亜喜良さんと、ショウに出演し、山名さんと結婚もされた女優のフラワー・メグさんぐらいしか、「スペースカプセル」を語れる人はいない。あとはぼくだけだ。
 
 
 
内装を手がけたのは建築家・黒川紀章さん(女優の若尾文子さんのご主人で、亡くなられている)で、宇宙船をイメージして店を造ったに違いない。
 
天井は丸くなっていて、壁面はステンレスで、椅子や背もたれの部分は黒い革でできていた。この斬新な内装が話題になって、マスコミに取り上げられた。
 
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天井の照明は、東京駅や、東京タワーなどの照明を手掛けた女性で、若い頃の作品だ。お名前をネットで調べればすぐに分かるのだが。(石井幹子――編者註)
 
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社長の山名さんは30代の若さで、自らを水商売の神様と豪語していた。お父さんもダンスホールや、お店も何軒も持っていた人のようだ。
 
山名さんは石原慎太郎さんと友人で、山名さんの仲人も引き受けたそうだし、お店にもちょくちょく顔を出していた。
 
前衛的な芸術家をショウに使うなんて、当時は考えられなかっただろうが、山名さんがどんな発想で考えたのか、毎日、話題の芸術家をショウに使ったのは画期的なことだった。
 
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ぼくの先妻の舞踊家ミカが「スペースカプセル」のショウに参加できたのは、『オー嬢の物語』『愛奴』の公演で有名になっていたからだろう。
 
『静かな海の恐怖』というショウの時は、山本寛斎さんデザインのステンレス製の円盤を鎖で背中に背負って踊った。
 
「彼女のショウの間は観客も息をのみ、咳ひとつきこえないほど」と週刊現代がグラビアで紹介している。
 
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くわしい話は、10月15日(日)に話します。ぜひ、お出かけください。

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2017年9月18日 (月)

縁側は子どもたちの社交場?

昔はどこの家にも縁側(えんがわ。座敷の外の庭に面した板敷き)があった。わが家にも縁側があり、狭い庭だが椿や柿の木や草花が植えてあり、木戸を開けて入ってくると、ガラス戸が開けてある縁側には何人も座れ、近所の子どもたちの社交場になっていた。
 
 
 
学校から帰ってくると、近所の子どもたちがやってくる。お目あては積み重ねてある講談社の絵本だ。
 
近所の子どもたちは、親が商人であったり職人や大工の子どもだから、親が本など買ってくれないのだろう。
 
わが家の父は出版社に勤めていたから、毎月何冊も発売される講談社の絵本を買ってくれていた。
 
講談社の絵本は一流の画家にイラストを描かせていた。戦争ものもあるが、日本の民話や外国の有名な物語、イソップなどもある。
 
ぼくにしても講談社の絵本から学んだものが多かった。近所の子どもたちも夢中になって絵本を読んでいた。
 
 
 
縁側にやってくるのは、子どもたちだけではない、ご用聞きの洗濯屋さん、炭屋さん、魚屋さんなどが木戸を開けて気軽に入ってきて縁側に座り込む。
 
母はお茶や、お菓子などを出すと、彼らは世間話をして帰っていく。のんびりとした時代だった。
 
 
 
わが家の前の通りは、道幅が5、6メートルぐらいだから、車はすれ違えないから、今は一方通行になっている。
 
戦前は車など通らない。代沢小学校前の四つ角からわが家まで50メートルほど。当時は表通りも横丁も舗装などされていない、砂利道だ。
 
たまに通るとしても、荷物を積んだ馬車ぐらいだから、わが家の前の路地は子どもたちの遊び場だ。その頃はどこの家でも子どもが4、5人はいたから、学校が終わって子どもたちが集まってくると、3、40人になるのだから賑やかなことだ。
 
みんなで二手に別れて遊ぶのは、兵隊のくらいをつけて取り合う遊びで、ルールなどは忘れてしまっている。
 
男の子はべえごま、メンコ、釘たおしなどだ。女の子はゴムとび、石けり、これもよくは覚えていない。
 
現在は代沢小学校の筋向かいの角は「丸長」という中華そば屋だが、戦前は「のんき屋」という餅菓子屋だった。そこに長女と長男の2人の子どもがいた。長女はすみちゃんという女の子で、美少女とはいえないが、活発な少女だった。
 
ぼくはすみちゃんが初恋の少女だったと思う。小学校は共学ではないし、わが家には姉と姉と妹ふたり、あまり乱暴な遊びなどしない大人しい子どもだった。
 
 
 
その頃、地下を流れる下水道などなく、蓋をされていないコンクリートの下水道が道の両側にあった。台所の使用した水や、風呂の水などもそこに流れ込む。
 
そこに乱暴な近所の子どもにつき落とされて、コンクリートの角に頭をぶつけ、切って血だらけになり、医者に運ばれたことがあった。今でも後頭部を指で触ると、へこんでいるところがあり、傷痕が残っている。
 
ぼくが頭が悪いのは、その時、頭を打ったからではないか?
 
 
 
その頃からもう60数年の歳月が。
近所の幼友達は、みんなあの世に行ってしまって、いない。ひとりだけクラスが違ったが大工の息子のとしちゃんだけはまだ元気だろうと思って、何年ぶりかで訪ねてみた。釣りが好きで多摩川であゆを釣るといつもくれていた。
 
としちゃん、生きていた。嬉しかった。握手する力は強かった。幼なじみっていいものだ。
 
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幼き日の姉とぼく
 
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木戸のあるわが家の庭
姉とニューギニヤで戦死した叔父

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2017年9月 9日 (土)

私は昭和の唐人お吉だった!

『女の防波堤』、『週刊新潮』の記事のおかげで注文殺到、ふだんは威張っている取次店(本の問屋)の仕入れ課の人たちが、わが家まで来て、増刷ができたら何部仕入れさせてくれと頼み込んでくるのだから驚きだ。
 
ところがありがたくないお客さんが、黒塗りの車、4、5台でやってきて、帳簿や残っていた本を持っていかれてしまった。
 
『女の防波堤』が、わが社、第二書房の初めての発禁処分だ。
 
今、読み返してみて、セックス描写もえげつないところはなく、何ら猥褻という箇所はない。『女の防波堤』は、猥褻だから発禁になったのではなく、警視庁と売春業者が資金を出し合って、半官半民の売春会社を作ったということを、これ以上世間に知られたくなかったのだろう。
 
 
 
「焼け残った牛肉店松喜本店と書いた店の前に、大看板が張り出されています。
 
 
 
  芸者、ダンサー多数求む!!
 
  進駐軍接待婦大募集!! 昭和の唐人お吉よ来れ!!
 
  日本女性の防波堤たらんとする、女性を求む!!
 
  衣食住は当協会負担・面談即決!!
 
  特殊慰安施設協会
 
 
 
と大きく書かれてありました。
 
大森海岸の小町園、見晴らしに乗り込んだ昭和のお吉たちは全員167名の大部隊でありました。私たちのお店である小町園は、18室もある大きな料亭で、93人。見晴らしには74人だ。
 
桧造りの豪華な建物ですから、私たち焼け出されの女たちは、「あらすごいわね。こんな家に住めるんなら、少々つらくても辛抱するわ」と、みんな上機嫌です。(中略)
 
トイレに行って廊下から表のほうを見ると、これはどうでしょう。薄暗い京浜国道の広い通りにアメリカの兵隊が、一杯黒山の行列をつくって、彼らは何事か叫びわめいています。こんな暗いうちから、彼らはもう押し寄せて来たのです。(中略)
 
大きな毛むくじゃらの右手を、私の胸の中にさしこんで乳房を握ったり、そっと撫ぜたりしながら、その間も唇を離さないので、私は息が詰まりそうで、思わず「ウムッ!」たまらず顔を背けると、男はようやく離れてズボンを脱ぎ始めました。
 
私は乱れた胸をかき合わせながら、床の上に横たわりました。
 
男が裸になる間、琴子さんの方に耳をそばだてると、琴子さんの方は、もう次の男が来たらしく、先刻の男と違った声が、何か話をしています。そして何か女の荒い鼻息が、カーテン越しに聞こえてきました。
 
その時、私の上に胸毛のたくましい男が、おいかぶさってきました。無我夢中の一瞬が過ぎると、男は私に再び熱い接吻をして出て行きました。
 
外人の熱い血を全身に浴びせられた私は、しばし呆然としてきました。(中略)
 
 
 
外人にしては、あまり大きくない日本人ぐらいの男で、青い目が澄んだかわいい、まだ若い兵隊です。何だかホッとした気持ちで私はその若い男を抱きました。
 
次から次へと送り込まれてくる兵隊を私たちは慌ただしく抱いては送り、好悪の感情などさしはさむ余地もなく時を過ごしてきました。(中略)
 
 
 
朝7時から午後3時過ぎまで、わずか8時間ぐらいの間に、23人も相手をしたのかと思うと、われながらびっくりしてしまいました。」
 
 
 
日本の兵隊も、韓国の兵隊も同じようなことをしたのでは。
 
戦争は人間を異常にしてしまう。
 
『女の防波堤』今こそ復刻すべき本かもしれない。
 
人間の欲望って恐ろしい。自分のことも反省しなければ……。
 
(『女の防波堤』は、新東宝で映画化された。)
 
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2017年9月 4日 (月)

戦後の裏面史『女の防波堤』

1945年(昭和20年8月15日・今から70年前)日本は、連合国軍、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどに無条件降伏し、戦争は終わった。
 
父とぼくだけの出版社、第二書房は昭和23年に創業した。ぼくがまだ駒沢大学に入学した年で、そのころは父の企画で地味な本ばかりだった。
 
当時は出版プロダクションなるものはなくて、個人で企画し原稿を出版社に持ち込む出版ブローカーなる人が存在していた。
 
Hさんという人が、わが社に原稿を持ち込んできた。その頃のぼくは大学を出て、どこにも勤めず父の仕事を手伝っていた。
 
その原稿の序文に、元R・A・A・K情報課長さんが、こんなことを書いている。
 
 
 
「売春禁止法が施行される今日、業社出資側5000万円、政府側保証5000万円、あわせて1億円の資本金を持つ、この政府と民間共同出資の赤線会社の創立など、誠に苦笑を禁じ得ない時の流れである。(中略)
 
創立当初における幹部の苦労は大変で、物資の不足はもとより、最大の悩みは、事業目的の第一である前線で働く女性を求めることであった。
 
外国軍隊の占領という前代未聞の事実に直面して、かつて支那大陸、南方方面で我々が犯した行為を想起し、種々の流言が行われた。
 
鬼畜米英と叫んでた日本の男性は皆殺しに、女性は奴隷となり残酷な凌辱を受けるだろうなど、恐怖の流言は巷間にまことしやかに伝えられた。
 
この時に際して、R・A・Aの女性募集に応じた女性は、よほどの覚悟を持って参じた人々である。これら女性の尊い犠牲によって帝都の婦女子は大過なく、その身を守ることができた。
 
 
 
田中貴美子君の手記は、事実その通りよく書かれている。
 
まことに大森小町園、見晴らし開店第一日は、私も早朝より視察に行ったが、あの広い京浜国道に延々と、眼を血走らせ、身震いしながら待つ彼らの姿は、凄絶異常なものを感じさせ、正視するに忍び難かった。」
 
 
 
東京大空襲により、吉原などの遊郭は消失し、女性たちもちりぢりになっていたので、新らたに女性を募集するしかなかった。
 
8月15日の終戦記念日の前後に、NHKはアメリカなどから、戦後の日本の悲惨な映像を手に入れ、生々しい死体の山なども放映された。
 
その中に、R・A・Aの映像も放映され、働く女性たちを募集する新聞広告や、立看板なども知ることができた。
 
出版ブローカーのHさんが持ち込んできた原稿は、その募集広告を見て応募し、「小町園」で、米兵の相手をした田中貴美子さんの手記だ。
 
『女の防波堤』元々付けられていたタイトルか、父がつけたものか覚えていないが、いいタイトルだ。
 
帯にはこんなことが書かれている。
 
 
 
「半官半民の売春会社、R・A・Aに応募し、みずから肉体の防波堤となった、少女の赤裸々な体験手記!」とあり、「小町園」の横文字の看板が載っている。
 
田中貴美子(昭和2年12月23日、東京に生まれる。昭和20年3月某高女卒)とある。名前は仮名だろうし、本人が書いたものでなく、ゴーストライターが話を聞いて書いたものと思われるが、実によく書けている。
 
1刷3000部、2刷3000部とあるが、父のことだから1万部は刷っていただろう。
 
『週刊新潮』が「性のいけにえになった女性群」というタイトルで、5頁も紹介してくれ、注文殺到、大増刷していたときに。(つづく)
 
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2017年9月 2日 (土)

大きい愛をいつまでも持ち続けたい!

「語る―人生の贈りもの」(朝日新聞朝刊)に、作家の佐藤愛子さんが登場して、連載されている。《詩人サトウハチローは、1973年(40年前)、おかあさんの詩をたくさん残して、この世を去った。70歳。佐藤愛子さんにとって20歳年上の異母兄だった》と冒頭にある。
 
今の若い人は知らないだろうけど、サトウハチローの「おかあさん」の詩集は、感動的でベストセラーだった。
 
佐藤愛子さんは、こんなことを語っている。
 
 
 
「私は兄の詩を読み返しました。そして兄の中にある繊細さ、優しさ、涙もろさが自然と流れ出している詩に感動する一方で、例えば一連の「おかあさん」の詩の中には、作りものや、わざとらしい大衆うけがあることに失望しました」と。
 
ぼくが末の妹、紀子の長い東京女子医大心臓病棟401号室(6人部屋)での出来事を書いた『ぼくどうして涙がでるの』の初版は、昭和40年(1965年・今から52年前)1月20日発行とある。
 
昭和40年、秋の芸術祭参加作品となった日活映画・十朱幸代、佐藤英夫主演の『ぼくどうして涙がでるの』の主題歌を制作してくれた、駒沢大学での同期生、長田暁二君が、キングレコードのディレクターをしていた。
 
長田君をキングレコードに訪ねて、『ぼくどうして涙がでるの』の序文を当時、売れっ子だったサトウハチローさんに書いてもらいたいので紹介してくれとお願いした。
 
昭和39年(1968年)のことだと思う。長田君は駒大時代、文化部では部員も多く、一番活躍していた児童教育部の部長をしていた。釈迦の教えを子供を通して布教しようというクラブで、禅学部の学生が中心だった。
 
長田君は子供に縁のある童謡のレコードを多く制作して賞もとっていたが、倍賞千恵子の「下町の太陽」などもヒットさせ、著作も100点を越す。歌謡曲の生き字引みたいな人だ。
 
長田君に連れられて、サトウハチローさんの自宅を訪ねたことがある。序文を書いてもらおうと思ったからだ。
 
確か本郷の東大の近くの家だったと思う。部屋に通されたが、サトウハチローさん、まったくぼくのことなど無視で、ぼくの顔など一度も見もしなかった。
 
長田君と仕事の話ばかりしていて、序文の話などきりだすどころではなかった。長田君、帰り道で、ぼくにどう弁解したのか、まったく覚えていないが、『ぼくどうして涙がでるの』の主題歌を制作してくれたのだから、友情には感謝している。
 
 
 
佐藤愛子さんは、「私たちはしょっちゅう行き来するような仲の良い兄妹ではありませんでした。私もわがままですが、兄は輪をかけたわがままでした。」とあるから、ぼくを無視したのは当然のことだったのだろう。
 
ぼくの父が勤めていた第一書房から処女詩集を戦前、出版している詩人の竹内てるよさんに序文をお願いすることにした。
 
竹内てるよさんは、一生、病気と闘い続けながら詩を書き続けた方なので、病気を持つ人の気持ちをよく理解している方だ。
 
「伊藤文學さんとの長い年月のお付き合いでは、私はいつも信じていました。この人が学生服のときから、人との交友には、一つはしっかりとした、その人のポイントというものがあります。つまり、文學さんのすることはどんなことでも、一つの大きい愛につながっている場面があるのだという信念です。いいかえれば、文學さんのすることは、たとえ、どんな小さいことでも、人間のためにするのだと、信じられているからです。」
 
サトウさんも、竹内さんもこの世にいないけれど、生き残っているぼくは、大きい愛を持ち続けたい。
 
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長男の入園式の日。やせた妹。

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2017年8月28日 (月)

日本でたったひとりのキセル作りの職人!

ぼくが常連の“器とコーヒーのカフエ「織部」”には、朝日新聞と日本経済新聞が置いてあるが、新聞読む人は、お客さんの中で、2、3人しかいないようだ。
 
経費節約ということから考えれば、1日に2、3人しか読まない新聞を置くのは、もったいないと思うが、店長のお父さんの会長の言いつけで置いているのだそうだ。
 
スポーツ新聞などを置かずに、朝日と日経を置いているということは、お店の格式みたいなことを会長さんは考えてのことだろう。
 
日本経済新聞は、経済のことなど今のぼくには関係のないことだけど、世の中の動きをよく知ることができる。
 
 
 
スポーツ欄だって、ぼくが応援している横浜ベイスターズのことも、いい勝ち方をしたときは大きく紙面をさいている。
 
裏面の文化欄は、他の新聞が取り上げないような人物を長文で紹介していて興味深い。
 
「私の履歴書」は連載もので、各界の有名人が登場していて、今は自民党副総裁だった高村正彦さんが紹介されている。
 
2017年8月17日(木)の日経朝刊の文化欄に「手作りキセル・心込める=細工にこだわる伝統守る。新潟・燕で唯一の職人」の見出しに目がとまった。
 
燕市はぼくの女房の古里、新潟県弥彦村(人口8000人ぐらい)の隣町だ。昔から刃物の製造で有名、それにナイフ、スプーン、フォークなどを造る工場が多かったが、中国で安物のナイフ、フォークなどが大量に作られ輸入されてきて、倒産する工場もあったようだ。しかし、今ではそれぞれ工夫して、中国に負けない製品を作っているようだ。
 
ノーベル賞の授賞式の宴会で使われる高級なナイフ、フォーク、スプーンなどは、燕の工場で作られたものだそうだ。
 
ぼくはNHKとテレビ東京の番組をよく見ている。テレビ東京の番組では、ぼくも出演したことのある「なんでも鑑定団」、「ガイアの夜明け」「カンブリア宮殿」「和風総本家」「未来世紀ジパング改」など、他局では考えつかない番組が多い。
 
「日本に行きたい」とか、「家について行っていいですか」ちょっと題名があやふやだが、 おそらく日本経済新聞が智恵をかしているのではないかと思われる。
 
日本経済新聞は、大学生は絶対に読むべき新聞だと思う。ネットでも見れるそうだから。
 
 
 
先日、村上龍司会の「カンブリア宮殿」に「花王」の社長が登場していた。いろんな製品の開発の研究分野に多額のお金を投入して新製品を開発し、それに改良を加え、長期的なベストセラーにしている。
 
そんな大きく、素晴らしい会社もあるが、日本でたったひとりで伝統を守って、手作りのキセルを作り続けている飯塚昇さんの話には感動した。
 
 
 
今の若い人たちは、キセルって何のことかわからないだろうが、きざみタバコを吸うための道具だ。
 
江戸時代から終戦直後ごろまで、日本人の生活に欠かせない道具だった。
 
ぼくが何年も見続けている池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」の主役、中村吉右衛門が随所にキセルでタバコを吸うシーンがある。これは2人の会話の中の句読点のようなもので、絵になるシーンだ。
 
 
 
ぼくの子供の頃には、ラオ屋といってキセルがヤニで詰まったものを掃除する商売の人がリヤカーに道具をのせて街中をまわっていた。
 
飯塚さんに弟子入りしてきた者が、3、4人いたそうだが、長続きしなかった。
 
日本でたったひとりの手作りのキセル作りの職人、年に200〜300本、心を込めて手作りを楽しんでいるそうだ。貴重な存在と言えよう。

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2017年8月26日 (土)

グラスアート「ふくえん」は茶沢通りの灯台だ!

下北沢の南口を出て、茶沢通りを歩くこと10分ぐらいか。「カクヤス」の隣に「グラスアートふくえん」がある。
 
今は亡きご主人のガラス製品を並べたお店だ。扉の大きなガラスは、いつもピカピカに磨かれている。ぼくはこの店は「茶沢通りの灯台」だと思う。
 
この店の前を素通りできない。なにかひきつけられるものがある。扉を開ければ話好きのおばさんが笑顔で迎えてくれる。
 
 
 
下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」で買物をした帰りに必ず「ふくえん」に寄る。ガラスの製品は高価で、とても今のぼくには買えない。買えるものは、1000円の箸置きぐらいだ。
 
何人もの人と、このお店で知り合った。お店の棚にインドの美少女が額に入れられ飾ってある。不思議な魅力のある美少女だ。
 
この写真を撮った瀬野芙美香さんと、3ヶ月ほど病気で入院していたおばさんがやっと店を開けた日に立ち寄ったら、出会うことができた。
 
写真展『息吹』を「ふくえん」で、8月19日から展示するが、間に合わない。
 
「宙吹きガラスに生涯を捧げた福園富信氏の作品はまるで生き物のように見えた――。以前からそこにあったかのように自然の中に佇むガラスたちの写真を下北沢と浅草の2会場で展示します。」とある。
 
浅草の方は10月23日〜29日までだから、興味のある方は見に行ってください。
 
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瀬野芙美香個展『息吹』
第1期:2017/8/19(sat)→8/24(thu)11:30~19:00
@下北沢グラスアートふくえん
 
第2期:2017/10/23(mon)→10/29(sun)8:00~18:30
@浅草 KAPPABASHI COFFEE & BAR
 
 
「銀座ニコンサロン」と、「大阪ニコンサロン」では、『神々の集う村・共生する民族と宗教・瀬野芙美香写真展』を開く。これはスリランカで撮影したものだ。
 
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瀬野芙美香写真展『神々の集う村-共生する民族と宗教-』
銀座ニコンサロン:2017年9月13日〜9月19日
大阪ニコンサロン:2017年10月12日〜10月18日
(※両ギャラリー共、日曜休館)
 
 
20代の美しい女性カメラマンでぼくの一番新しい友人だ。

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2017年8月21日 (月)

食物がなくてひもじい思いだけ!

いつのことだったか、東京新聞に大阪の「新風書房」が「孫たちへの証言」という戦争体験を募集するという記事が載っていた。
 
確か原稿用紙(400字詰)2枚でということだった。8月15日の終戦記念日を狙っての企画だと思う。
 
 
 
「このたびは「孫たちへの証言」へ、ご応募いただきありがとうございます。636篇が寄せられました。その中から82篇を選び、77篇を掲載させていただきました。」ということで、ぼくの原稿は「第2次選考」に入ったものの、入選はしなかった。
 
終戦の年は、ぼくが中学1年生の時だった。出征して戦地へ赴いた人は、生存していれば、90歳を越える人たちだ。もう戦争体験者は毎年残り少なくなっていく。
 
孫たちに戦争時代の体験を話したくても、孫はゲームに夢中で、じいさんの話など聞く耳を持たない。
 
実際のところ入選しなかったのは、幸運だったということだ。
 
ぼくが住んでいた北沢5丁目(現在は代沢5丁目)は、まったくB29の焼夷弾爆撃の被害を受けていないからだ。
 
下町の方で10万人を越す死者を出した空襲の夜も、空が真っ赤になっているのを眺めているだけで、死んだ人を見たことはなかった。
 
父も兵隊にとられなかったし、家も焼けなかった。ただ食物がなくてひもじい思いをしただけだ。こんな体験では入選するわけがない。
 
 
 
8月12日(土)夜9時からの「NHKスペシャル・本土空襲・全記録」は、まさに凄まじかった。サイパンを占領され、B29爆撃機、数百機の基地となり、そこから日本本土を爆撃する。硫黄島が占領され、今度は戦闘機で動くものは全て破壊する。原爆が落とされ降伏した。戦争って恐ろしい。
 
「孫たちへの証言」は、今回で30集になるそうだ。
 
 
 
今回からぼくのブログは、原稿用紙2枚にします。もう本になることもないので、気楽に書き続けます。

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2017年8月14日 (月)

毎日を豊かに彩ってくれるカフエ「つゆ艸」

わずかな年金暮らしなので、無駄遣いをしてはいけないと、ここ数年、ぼくは家計簿をつけている。
 
昨日が7月の終わりだったので、計算機で集計してみた。合計で11万3996円だった。
 
年金は月にすると8万円ぐらいだから、3万4000円ぐらい赤字ということだが、雑収入がそこそこあるので、なんとかなっている。
 
衣類は以前古着で買ったものが、たくさんあるので、一切買わないし、旅行なんて何年も行ったことがない。
 
何にお金を一番使っているかというと、家族5人分の夕食のおかず代だ。息子の嫁が勤めの休みの日は、嫁が用意してくれるが、勤めが遅いときは、ぼくがスーパーで見繕って、買ってくると、女房が料理して食卓に出してくれる。
 
自宅から下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」まで歩いて30分近くかかる。早く歩けないが、杖をつかずで今のところ途中で休まずになんとか歩いている。
 
7月に使ったカフエのコーヒー代は8800円だ。カフエ「織部」とカフエ「つゆ艸」のどちらかに、オオゼキの買い物のあとに立ち寄ることにしている。
 
「織部」の店長の奥村君とは、開店以来のお付き合いで、彼は元デザイナーだったので年賀状のデザイン、催物を開いたときのチラシのデザイン、それからネットで調べたいことがあると、すぐに調べてくれる。
 
「文ちゃんと語る会」も、この店で毎月最後の土曜日の11時から開いている。何でも相談できる友人たちがみんなこの世にいなくなっているので、息子のような奥村君が頼りになる若い友人だ。
 
 
 
カフエ「つゆ艸」は、今は7階建てのビルの1階にある。以前は古い木造の建物で、茶沢通りに面していて、カフエもあり、ご主人の露崎君は居酒屋をやっていた。
 
桜の大木が道路に面してあって、春になると見事な花を咲かせたが、ビルに建て替えられる時に切り倒されてしまった。
 
露崎君は骨董店もやっていて、ご両親とおばあさんもいて、おばあさんが店先に座っていると、それだけで絵になった。
 
おばあさんの写真を撮っておけばよかったと悔やんでいる。古い木造の2階建の建物は風格があって、雑誌に紹介もされていた。
 
 
 
作家のよしもとばななさんが、「つゆ艸」の常連で、『ku:nel・クウネル』という女性誌(マガジンハウス刊)に、「彼方の方から見てみよう」というエッセイ欄に、「センスの妙」と題して、「つゆ艸」のご夫婦のこと、お店の中の様子が実によく観察して書かれている名文だ。
 
コーヒー代に8800円も使ったなんて、みみっちいことを書いてしまったが、「つゆ艸」のカウンター(3席しかない)に座って、由美さんとおしゃべりすることが、ぼくの活力になっている。
 
コーヒー代、500円なんて安いものだ。由美さんの笑顔がぼくの心を癒してくれるからだ。ばななさんは最後にこんなことを書いている。
 
 
 
「近所の常連さんのお年寄りたちが、必ず誰かしらカウンターに座ってコーヒーを飲んでおしゃべりしている。
 
美しい内装の中に奥様の優しいうなずきが響いているのを聞いていると、この店がこの人たちの毎日を豊かに彩っているんだなあとしみじみ思う。」
 
「毎日を豊かに彩って」ぼくもそのお年寄りの1人だ。
 
A
落ち着いたカフエ「つゆ艸」

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