2018年7月16日 (月)

取次店はトーハンと日販、大きな書店だけが!

『サイゾー』という雑誌、みなさん読んだことありますか? 『薔薇族』をぼくが出していた頃、2度ばかり取材してくれて載った記憶があるから、かなり歴史のある雑誌だ。
 
表紙だけ見ると、エロ本のように見えるけれど、ページをめくっていくと、どうして、どうして、かなり重みのある記事ばかり、ヌード写真も、フレッシュなチラリズムの美学とあるように、えげつない写真はない。
 
 
 
7月の10日、『サイゾー』の3人の方が、カフエ「織部」に来てくれた。
 
ライターは美人の女性だ。
 
この人がぼくのしゃべったことを記事にして連載してくれるそうだ。
 
そのとき持参してくれた7月号をいま読み始めているところだ。
 
 
 
最初に目についた見出しは「若手取次・営業・書店員・『万引き家族』が万引きを誘発!? 崩壊寸前!? 出版業界の立て直し方・出版不況と言われて何年も経つが、実際のところはどうなのだろうか? そこで出版取次、版元の書店営業、そして書店員の若手に集まってもらい、改善したほうがよい出版業界の古すぎる慣習、現場の人間だからこそわかる最近の売れ筋本について語ってもらった。」
 
「座談会出席者」
 
A・元取次店員(26歳)
B・中堅出版社営業(25歳)
C・大型書店員(30歳)
D・個人書店書店員(29歳)
 
 
 
下北沢周辺には、書店が6、7軒あったけれど、みんなやめてしまい、今はスーパーの4階にある三省堂書店だけ。
 
たまに本を買うことがあるけど、Amazonに注文しないで三省堂書店で買う。
 
品物がないと取り寄せてくれるが、「1週間ほどかかります」と店員は言うが、3、4日で電話がかかってくる。
 
最近は文具に力を入れているようだけど、お客は少ない。
 
いつやめてしまうかと心配だ。
 
売れ筋の本というと、宗教関係の本だというから情けない。
 
 
 
 C・給料で言うと書店員のバイトは基本的に最低賃金だし、最低賃金が上がると経営が厳しくなると言われているくらいよくない。
 
 B・書店に限らず、業界全体がそういう状態だから、倒産する出版社も出てくる。
 
   それである出版社がつぶれそうだという噂が流れると、書店はその版元の本を取次の定めた返品期間内に必死で返すんだよね。
 
 C・いまだに万引被害が大きい。
 
   ほんの粗利率は20%ぐらいだから、1冊盗まれたら5冊売らないと補填できない。
 
 D・刑務所に入りたくて万引きする人もいる。
 
   軽犯罪を重ねて、捕まえてほしいから、わざとわかりやすいように盗むんだよね。
 
 B・出版業界特有なのは取次かな。
 
   取次の会社はいくつかあるんだけど、実態はトーハンと日販の2強で、シェアの70%以上を占める。
 
   ほぼ寡占状態なんだよね。
 
 
 
取次店はトーハンと日販の2社だけになってしまうのでは。
 
大きな書店は1分でも仕入れ値が安い取次店に移ってしまう。
 
取次店は利益が少なくなるから、小出版社をいじめて正味を安くしてしまうから、小出版社がやっていけるわけがない。
 
取次店も小さな書店に送るよりも、大書店にどかっと送ったほうが楽だから、将来は取次2社と大きな支店を何軒も持つ、大書店だけが生き残るのでは。
 
 
 
ぼくも出版社の息子だったけど、本を読まない。
 
高2の孫もゲームばかりしていて本を読まない。
 
しかし、世の中には本好きな人はいる。
 
下北沢には古書店は何軒かある。
 
本がなくなることはないだろう。
 
小さな書店で特殊な趣味の本だけを売るお店もあるようだ。
 
この座談会、どうということはなかったけれど、いい時代に出版の仕事ができて、ぼくは幸せ者だった。
 
 
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2018年7月14日 (土)

NHKの番組が取り上げるいい時代に!

NHKの6月16日の「Eテレビ特集・Love 1948-2018 ~多様な性をめぐる戦後史~」に出演させてもらい、大きな反響があった。
 
ディレクターの笹井さんがツイッターの反応を紙焼きにしてくれた。
 
笹井さん、今どき珍しい好青年で、ボーナスをもらったからといって、ぼくら夫婦に江戸前の名店「小笹寿司」をおごってくれた。
 
毎日、この店の前を通って、下北沢駅前のスーパーに買い物に行くのだが、5時開店の前に何人ものお客さんが待っている。
 
今のぼくは高級なお寿司を食べる懐具合ではないので、うらやましげに通り過ぎるだけだった。
 
 
 
6月3日、カフェ「織部」で笹井さんと待ち合わせて、5時前に店の前に行ったら、何人かのお客さんが待っていた。
 
2年ぶりかで食べたお寿司、以前よく通っていたころの食べる順序を覚えてくれていて、次から次へと握ってくれた。
 
隣に座っていた男女、女性はおしゃれな服を着ていて、男性は堅い仕事のようだ。
 
ぼくらの話を女性は聞いているようなので、名刺を出した。
 
裏面には『薔薇族』と大きくバラのつぼみが印刷されているのだが、ぼくの名前を見ただけで、興奮状態に。
 
ぼくが何者かということを知っていたのだ。
 
男性のほうは静岡の国交省のお役人。
 
友人に小笹寿司のことを聞いて、女性を誘ってわざわざ食べに来たという。
 
それから女性と話がはずんでしまった。
 
 
 
Twitterの反応は、
 
 
 
「ETV特集・LOVE。かっこいい生き様を見せてくれた方々が多かった。
 
孫の勉強机の横に『薔薇族』が置いてあるってファンキーな一家。
 
ああいう家庭が増えれば無知からくる偏見も思い悩んで死を選ぶ人も少なくなるのかな」
 
 
 
ぼくの女房は部屋の中を見せたくなかったのに、カメラは映し出してしまった。
 
ありのままを見てくれてよかったのでは。
 
 
 
「1971年『薔薇族』創刊。
 
ゲイであることを隠してる人がほとんどだった時代。
 
待ちに待った媒体だったんだろうな。」
 
 
 
先妻の舞踊家ミカが事故死しなかったなら、仕事が増えてきたミカのマネージャーになっていて『薔薇族』は誕生しなかっただろう。
 
それと親父が女狂いして、出版の仕事をぼくに任せっきりだったから、ぼくが決断して『薔薇族』を出せたのだ。
 
もうひとつは最大手の取次店が正規のルートで、全国の書店に送ってくれたことだ。
 
『風俗奇譚』や『奇譚クラブ』のように取次店が扱ってくれなかったら、同性愛の雑誌は日の目を見ることはなかったろう。
 
 
 
「Eテレビのセクシャル・マイノリティの特集、面白かった。『薔薇族』の創始者夫婦が素敵だったな。
 
同性愛者がWHOの疾病リストに入っていたというのと同じくらい、衝撃的だったのは、イラストレーターの内藤ルネさんって男性だったっていう事実ですね。
 
女性だと思っていた。」
 
 
 
内藤ルネさんが女だって思っていた人がかかなりいたようだ。
 
あんなかわいい女性を男が描くなんて、ルネって名前から想像すると考えられないものな。
 
 
 
「『薔薇族』を書店で万引きした高校生が飛び降り自殺。
 
万引きをとがめられるより、親に同性愛を知られることを恐れた1980年代。
 
40年後の現在、マイノリティにとって少しは生きやすい時代になっただろうか」
 
 
 
あの事件のことは忘れることはできない。
 
「ゲイは異常でも変態でもないのだから、胸を張って堂々と生きよう」と、創刊以来、言い続けてきたのだから、今の時代、生きやすい時代になってきたと信じている。
 
NHKが取り上げてくれる時代になったのだから。

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2018年7月 7日 (土)

日馬富士、モンゴルに学校を!

次から次へと日本の社会は事件が起きて、あんなにマスコミの間で大騒ぎされていたのにということが忘れられている。
 
ぼくも好きだった大相撲の元横綱日馬富士公平(本名:ダワニャム・ビアンバドルジ)さん(34歳)、女房の古里の新潟県弥彦村、弥彦神社と弥彦競輪がある人口8000人ぐらいの小さな村と、モンゴルの日馬富士さんとは、以前から交流が続いている。
 
あの酒に酔っぱらっての暴行事件で角界を追われモンゴルに帰国していたのかと、気にはなっていた。
 
東京の新聞では報道されていないようだが、弥彦村にぼくが建てた「ロマンの泉美術館」の時代にお世話になった三條新聞が、いまでも無料で送られてきているので、新潟での出来事を知ることが出来ている。ありがたいことだ。
 
6月16日の新聞になんと1ページも使って、「日馬富士さん、三条市へ・子どもたちに感謝の気持ち育てるため・『新モンゴル日馬富士学校』開校へ・母校モンゴルに小中一貫校・旧大崎中の机イス再利用」の見出しが。
 
A
 
「現在は伊勢ヶ濱部屋でコーチを務めている。
 
新潟県では12年、伊勢ヶ濱部屋三條後援会が発足。27年8月、弥彦神社境内に相撲場開きとして、日馬富士さんによる横綱土俵入りが行われ、翌28年からは毎年8月に、一般社団法人どすこい越後の主催で、弥彦村を会場に、伊勢ヶ濱部屋夏合宿を行っている。
 
日馬富士さんは現役時代から私費を投じて、モンゴルに学校の建設を進めており、9月1日にウランバートルに、小中高一貫校「新モンゴル日馬富士学校」を開校する。
 
学校では子どもたちに感謝する気持ちを育てるため、日本の学校で使われた机、イスなど使うこととし、長い付き合いのある越後之国後援会、どすこい越後に協力を依頼。会員たちのつてで三条市や、新潟市、南魚沼市などに協力を依頼した。
 
三条市では、どすこい越後監事でもある岡田竜一市議会副議長が相談を受け、三条市教育委員会に照会。
 
3月に大崎中学校が閉校したばかりで、備品類が残っていることから、まとめて寄付することになった。(中略)
 
引退しても日馬富士さんは大人気で、見学が終わったあとは参加者と写真を撮ったり、握手をしたりとファンサービスをした。
 
日馬富士さんは「中国製の安いものもあるが、日本の子どもたちが使ったものをモンゴルの子どもたちが使うことで、子どもたちは感謝する。日本人に感謝する気持ちを育てることで、いずれ日本のためになにかやってくれて、両国が発展する。恩返しにつながると思って一生懸命にやっている。」
 
と意気込みを話した。
 
寄付された備品類は、旧大崎中学に集積し7月5日にトレーラーに積み込み、船で中国に送る。
 
中国からは電車で運び、8月にはモンゴルに到着する予定。
 
配送料はすべて日馬富士さんが負担するという。」
 
 
 
日馬富士さん、人柄もいいし、やさしい気持ちの持ち主。
 
酒を飲みすぎて暴行事件を起こしてしまい、その後、どうしているのかと思ったら、三條新聞が1ページも使って報道をしていて、その後も記事にしているので、新潟の人たちが、続々とリコーダーやハーモニカ、鍵盤ハーモニカ、本などを贈り、善意の輪が広がり集まってきているようだ。
 
B
 
心あたたまる、いい話ではないか。
 
それにしても日本全国、子どもたちが少なくなり、学校が閉校になっているのは寂しい話だ。
 
一緒に住んでいる高2の孫のところへも、各大学から立派な入学案内書が送られてきてる。
 
大学も学生集めに懸命とは。
 
日本の将来はどうなるのだろうか?

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2018年6月30日 (土)

坊やの死を無駄にしてはいけない!

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日活で昭和40年(1965年)に、ぼくと妹、紀子の共著『ぼくどうして涙がでるの』が映画化されたときに、駒大の同期生の長田暁二君がキングレコードのディレクターをしていたので、そのときにレコードのジャケットを製作してくれた。
 
写真の坊やは亡くなった芳っちゃんと同じ先天性の心臓病で、病院側があまりにも手術がうまくいかないので、自宅に帰されてしまった。
 
小学校の高学年の頃、母親から亡くなったという知らせがあった。その時代から半世紀の歳月が流れて、今では心臓手術で亡くなる人はほとんどいないそうだ。
 
日本で昭和25年に最初に心臓手術をした、東京女子医科大学病院院長、榊原先生が「みんなが治るように」という一文を寄せてくれている。
 
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「心臓の病気を背負った、可愛そうな子供さんがたくさんいます。
 
なかには生まれて何日もたたないうちに死んでしまう子供もあり、何歳かまで生きて、それから悪くなって死んでいく子供たちもあります。
 
手術をしてでも、普通の子供と同じように飛んだり、はねたり出来るようになり、やがて立派な大人になってほしい。
 
こうした願いは、その子供さんの親たちだけではなく、実は子供さんたち自身がもっているのです。
 
元気になって喜び勇んで帰ってゆく子供たちを見て、これから手術を受けようという子供たちは、勇気をふるいたたせるのです。
 
しかし、手術に堪えられず、死んでゆく子供たちをみるとき、手術を待つ子供たちの気持ちはどんなでしょう。
 
どうか一人でも多くの人を助けてあげたい。
 
どうか早く手術を受けさせたい。
 
重い病気でも、全部が治るようにしてあげたい。
 
子供たちの心にはげまされながら、私たちも全力をあげて努力しています。
 
芳和君も、もちろん天国から願ってくれるでしょう。」
 
 
 
榊原先生、映画の撮影に全面的に協力してくれて、病院内での撮影、榊原先生、自ら執刀している手術の場面をカメラマンを手術室に入れて撮影させてくれた。
 
当時は妹を含めて多くの患者たちが亡くなったが、医師たちも経験を積み、医療器具も急速に進歩して、心臓手術で亡くなる人はいなくなっている。
 
ぼくも「おもきり走れる日が」と題して書いているが、全文は載せられない。
 
 
 
「君をダッコして、広い病院の中を屋上に行ったり、6階の未熟児室に小さな赤ちゃんを見に行ったりしたっけね。
 
ぼくが帰ると言うと、きまってエレベーターのところまで送ってくれた。
 
昨年の1月25日、手術室に運ばれてゆく君は、宝石のように美しい涙をこらえながら、
 
「ぼくどうして涙がでるの」
 
悲しい質問を残して、再びもとのベッドにもどってこなかった。
 
君が手術にゆくまで手ばなさなかった「ジャックと豆の木」の絵本をお棺の中に入れながら、
 
「芳和、もう苦しくないだろう」
 
お棺にとりすがって泣き叫ぶお母さんの声も忘れはしまい。
 
「君の死を無駄にしてはいけない」
 
そう誓ったぼくだった。
 
野村君は死んでしまったけれど、君と同じような子供たちが、みんな元気になって思いきって走れるようになる日が、近いうちにきっとやってくる。そうぼくは信じている。」
 
 
 
「答えられない。だから私も涙がとまらない。」
 
と阿川佐和子さんが推薦してくれた復刻本が売れ残っている。
 
Amazonに注文して、ぼくが精魂こめて書いた本、ぜひ、読んでください。
 
 
 
 
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2018年6月23日 (土)

ソウルで出会った心あたたまる人たち!

今の世の中、韓国の話が多い。
 
北朝鮮に行くわけはないが、19年前に一度だけ取材で3泊4日、韓国に行ったことがある。
 
1999年の7月号の「伊藤文学のひとりごと」に、「ソウルで出会った人たち」と題して、心あたたまる話を書いている。
 
 
 
「景福宮(朝鮮王朝・1392〜1910の王宮)の中にある、韓国民族博物館を見学していたときだ。
 
中年のおばさんが品のいい顔立ちをした老女を手押し車に乗せていた。
 
近づいて声をかけてしまった。そうしたらなんとも美しい日本語が返ってきたではないか。92歳になるという老女。足が弱って歩けないのだという。
 
 
 
韓国が日本の植民地時代に、小学校から中学校まで、日本語を習ったというから、日本語をしゃべるのは当然かもしれない。
 
老人たちは子供のころ、日本語を習っているから、みんな日本語をしゃべるという話は聞いていたが、ソウルにやってきて老女から聞く、日本語が美しい発音であればあるほど、なぜか悲しくなってしまう。
 
子供のころ習ったものって忘れないのかもしれないが、韓国に住んでいて、日本に一度も行ったことがないという老女が、こんなに美しい日本語をしゃべるなんて驚きだ。
 
それからいまわしい戦争があり、半世紀以上もの時が過ぎ去って、その間にこの老女がどんな生活を送っていたのか、計り知れないが、日本に憎しみをもっていないことだけは確かで、それがなによりもうれしかった。
 
もっと、もっといろんな話を聞きたかったが、連れもあってできなかったのは残念だった。
 
別れ際に固く、固く手を握りしめてあげた。そして薄くなった髪の毛の頭をなぜてあげた。
 
このおばあさんにどんな過去があったのかは知るよしもないが、「おばあさん、ごめんね。」と心の中でつぶやいていた。
 
「いつまでもお元気でね」と言って別れたが、娘さんか、お嫁さんに手押し車を押してもらって、おばあさんは幸せそうだった。」
 
 
 
ぼくらが泊まったホテルの前に模範タクシーが停まっていて、制服をきりっと着た運転手さんがそばに立っていた。
 
近づいて胸のあたりを見たら、小さな勲章が10ヶ以上も下げられていた。
 
「その勲章はなんですか?」と聞いたら、流暢な日本語で、軍隊時代にもらったものだと答えてくれた。
 
「大東亜戦争」なんて、懐かしい忘れていた言葉が、運転手さんの口から飛び出したのには驚いてしまった。
 
ホテルの前の道を隔てた広大な敷地が、米軍の基地で門衛が何人も立っている。
 
そんなところで目の前に立っている70歳を過ぎたであろう運転手さんが、日本のために兵隊になり、従軍して戦果をあげて勲章をもらい、誇らしげに胸につけている。
 
ぼくぐらいの年齢のものには、じ〜んとこみ上げてくるものがあるが、今の若い人にはこんなことを書いても何のことか理解できないだろう。
 
この運転手さん、胸にいくつもの勲章を今でもつけてくれているということ、これは大変なことだと思う。
 
つらい過去の日本への憎しみがあったなら、こんな勲章など、とうの昔に捨ててしまっているだろうから。
 
 
 
日本と韓国、こんなに近い国なのに、なんとなく分かりあえない国。
 
でも日本からもらった勲章を胸につけている運転手さんを目の前にして、思いきって韓国に来て良かった。
 
そしてもっと、もっと多くの韓国の人と出会い、友情を深めたい、そんな思いでいっぱいだった。」
 
 
 
現在の韓国も変わっているだろうが、もう旅行はできない。
 
いい人に出会えて良かった。
 
 
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A
左側の2人が、妹と、近所の子供。
わが家の前は畠だった。

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2018年6月11日 (月)

NHKの番組に出演するなんて夢のよう!

『薔薇族』が2004年の11月号382号で廃刊になってから、もう14年になる。
 
それからは週刊誌に取材を受けることなどなかったが、週刊文春の「新・家の履歴書」担当の笹川智美さんから電話があって、しばらくぶりに記事になることになった。
 
NHKの名古屋支局のディレクターのお名前が笹井考介さん、ふたりの恩人ともいうべき人のお名前に「笹」がつく。
 
それに週刊文春の発売日が2018年6月14日(木)、テレビの放映日が2日後の6月16日(土)の夜11時。
 
1時間番組でNHKテレビの2チャンネル・教育テレビでで全国ネット放映される。
 
 
 
週刊文春の笹川智美さんの熱心さにも感動するばかりだったが、NHK名古屋支局のディレクター・笹井考介さんと、20キロを超す重いカメラをかつぎぱなしのカメラマン、そして音響担当の人と、3人の意気はピッタリで、いい作品を作り上げようという意気込みはすさまじいばかりだった。
 
女房はわが家での撮影をいやがったが、どうしてもぼくが机(イギリスのアンティークで、小さな引き出しがいっぱい付いている)に向かってブログを書き続けているところと、その机を背景にして、おしゃべりの場面を撮るという。
 
ぼくは野球の試合をテレビでよく観るが、カメラが進歩していて、ピッチャーの顔などアップで映し出されると、顔のしわまでが鮮明に映るではないか。
 
こんなに近くで写されたら、どんな顔に映るのか心配だ。なにしろ86歳のじいさまだ。
 
そんなこと心配したってどうなるものでもないが……。
 
彼らは3日間も通ってきた。
 
6畳のぼくの部屋は、収納棚などついてないので、本棚と洋服ダンス、古着のシャツを買いすぎているから、それだけでもいっぱい。それにベッドもある。
 
机の上も雑然としているので、2度めのときなど、カメラマンが整理して少しでもきれいに見えるように模様替えしてしまった。
 
女房もリビングで、あんなにいやがっていたのに、まんまと相手のおだてにのって、べらべら『薔薇族』創刊のころの文通欄宛名書きの苦労話をしゃべらされてしまった。
 
ぼくだけでも7,8時間はしゃべったし、下北沢の商店街を歩いているところまで撮っているのだから、編集するだけでも大変な作業だろう。
 
沖縄まで行って『アドン』の編集長の南定四郎君に取材したというのだから、1時間番組でCMは入らないとはいえ、どんなことになるのか。
 
 
 
民放ではひとつの番組を制作するのに、こんなに手間をかけないのでは。
 
昨日、NHKの「ブラタモリ」という番組を見たが、カメラマンも何人もいて、取材陣は10名を越すのではないか。
 
だからこそ民放が真似の出来ない重みのある作品になっているのだろう。
 
 
 
今朝の東京新聞を読んだら、NHKの受信料の徴収は、別の企業が引き受けていて、東証ジャスダックに上場したそうだ。
 
銀行も銀行への苦情、相談事は別会社が引き受けていて、一緒に住んでいる息子の嫁がもう何年もそうした会社に勤めている。
 
徹夜の日も何日もあって、朝帰りしてくるが、海外の日本人からの電話もあり、夜かかってくる電話もある。
 
絶対に相手を怒らせてはいけない仕事だから、神経を使う大変な仕事だ。
 
NHK内部で受信料を徴収していたら、見ていないのに何故とられるのかと文句をいう人もいるだろうし、別会社にやらせるのは当然のことだ。
 
 
 
7月に入ったら江戸前のお寿司屋「小笹寿司」で笹井さんがおごってくれるそうだ。
 
“ささ”やかないい集いになるのでは。
 
 
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C
姉・玲子と文学

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2018年6月 9日 (土)

週刊文春の「新・家の履歴書」に登場!

週刊文春の表紙絵は和田誠さんが長いこと描かれている。
 
和田さんはぼくのすぐ下の妹と、世田谷区立代沢小学校で同期生だ。
 
入学されたのも戦時中だから、80歳をとうに過ぎておられるのでは。
 
ぼくの兄妹4人も、息子ふたり、そして孫3人も代沢小学校の卒業生だ。
 
和田さんもぼくの家の近所に住んでいたのだろう。
 
 
 
確か『薔薇族』が1971年に創刊した折に週刊文春は、「ホモでない男が出したホモの雑誌」というような見出しで記事を書いてくれた。
 
その後も創刊200号の記念号を出したときに、「ホモ界の朝日新聞・薔薇族」の見出しを付けたものだから、朝日新聞を怒らせてしまった。
 
今思うに週刊文春などの雑誌が大きな記事にしてくれたお蔭で『薔薇族』は広く日本中に知られるようになっていった。
 
 
 
2001年12月には発行所・文春ネスコ、発売元・文藝春秋から、『編集長「秘話」=『薔薇族』30年間全仕事』という立派な上製本を出してくれた。
 
そのときの社長さんは創業者の菊池寛さんのお孫さんで、菊池夏樹さんだった。
 
正面玄関の右脇に広いロビーがあり、ゆったりとした大きな椅子が置かれていて、そこで編集者と著者がコーヒーを飲みながら話をするようになっていた。
 
正面に菊池寛さんのブロンズ像が大理石の台に置かれていた。
 
「菊池寛さんは、ゲイだったと噂されていますが本当ですか?」と失礼な質問をしてしまったら、お孫さんは「そうです」といとも簡単に答えてくれた。
 
ゲイのことを書いた本は、文藝春秋社では初めてのことだろうから、菊池寛さんもよろこんでくれたに違いない。
 
 
 
あの本を出してから、もう17年の歳月が流れている。
 
確か文春ネスコ社も『薔薇族』が廃刊になった年に廃業してしまったと記憶している。
 
廃刊になってから12年? 週刊誌とは縁がなくなってしまっていたが、週刊文春の女性編集者の笹川智美さんから電話がかかってきた。
 
 
 
週刊文春の中で587回も続いている、「新・家の履歴書」6月7日号は、イルカさんがとりあげられている。
 
「なごり雪」というヒット曲があるそうで、テレビで聴いたことはあるだろうが、どんな人かは知らなかった。
 
ご主人が事務所の社長さんで、陰でイルカさんを支え続けてこられたが、パーキンソン病にかかり看病で苦労されたようだ。
 
 
 
6月14日(木)発売の週刊文春の「新・家の履歴書」4ページにぼくが登場する。
 
ぜひ購入して読んでください。
 
 
 
86年前の生まれたときから、今日までのことを自分で書くと、どうしてもひとつの出来事をくわしく書いてしまい、後半が尻切れトンボになってしまう。
 
2度も書き直したが、笹川さんはOKしてくれなかった。
 
なんと17年ぶりに文藝春秋社に行って、2階の会議室でふたりで、3時間以上もかけて練り直すことができた。
 
それをワープロで打ってゲラを翌日の1時に、下北沢のカフエ「織部」に届けてくれるという。
 
 
 
文春に勤めて5年という笹川さん、すごい才能の持ち主だった。
 
夜おそくまでかかって文章を書き直したのだろう。
 
「織部」に1時に来てくれて、ゲラを読んだらびっくり。
 
直したところは字の間違いの数カ所だけ。
 
自分のことを自分で読んで感動してしまった。
 
 
 
笹川智美さん、ありがとう。
 
ぎゅっと握手をしてしまった。
 
ぼくの86年の履歴書が見事に書かれている。
 
長生きしていてよかった。
 
 
A
父母の結婚式の写真
 
B
久美子との結婚式の写真

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2018年5月28日 (月)

ゲイのよきサポーターになりたい!

伏見憲明さん、1963年生まれ、埼玉育ち。武蔵野音楽大学付属武蔵野高校声楽家卒・慶應義塾大学法学部政治学科卒。
 
『ゲイという「経験」』(2002年刊)という著書を見ている。
 
その中の「ゲイの考古学」という項目は、江戸時代から始まって、三島由紀夫まで、国立国会図書館、大宅壮一文庫、風俗資料館などに足繁く通い資料を探している。
 
取材した方からの情報提供がずいぶんと役に立った、ゲイの先輩であるK・Y氏に、赤帽トラック一台分をご寄贈いただいて、戦後のゲイシーンの雰囲気をつかむことができた、いったいそうしたものに、関心を持つ若いゲイたちがどれだけいるのか、と伏見さんは嘆いている。
 
伏見さんの努力は必ずや若いゲイの学者によって語り継がれるに違いない。
 
 
 
伏見さん、「伊藤文学の談話室・祭」に顔を出していたので、話をした記憶はないが、なんとなく覚えている。
 
『薔薇族』に原稿を書かれていたが、『バディ』に移られてしまった。竜さんと合わなかったのか?
 
『バディ』の中に「伏見ゲイ新聞」というページがあって面白く読める。
 
「祝『薔薇族』30周年」の見出しで、お祝いの言葉を書いてくれている。
 
 
 
「老舗ゲイ雑誌『薔薇族』が30周年を迎えた。
 
1971年から30年間にわたって毎月刊行してきた編集長の伊藤文学氏はじめ、スタッフの皆様方の努力とご苦労を考えると、これは「偉業」だと言えるだろう。
 
心よりお祝いを申し上げたいと思う。
 
 
 
『薔薇族』以前には、日本にはゲイ雑誌はなかった。
 
『アドニス』のようなミニコミ誌・会員誌はあったが、それはけっして街の本屋で買うことの出来ない代物であった。
 
商業誌としての『薔薇族』の誕生そして成功によって、日本のゲイたちは容易にホモセクシャルの欲望にアクセスすることができるようになったのだ。
 
またそのネットワーク自体も大きく広がっていった。
 
そのことを一言で表せば、「同性愛の大衆化」である。
 
その意味で『薔薇族』の果たした役割は大きい。
 
 
 
また、30周年を記念して上梓された、伊藤氏のエッセイ集『薔薇ひらく日を』は、同誌に綴ってきたエッセイを抜粋したものだが、それを読むと、これまで伊藤氏がどれほどゲイたちを励まし、勇気づけてきたのかが伺える。
 
30年前は、自分が同性愛者であるということは、自殺をも考えざるをえないような「罪」であり「悪徳」であり、「恥ずべき欲望・行為」だった。だから、この本の初期の中には、当事者の自殺のエピソードや、悩みを抱えた読者の手紙が多く紹介されている。
 
今でも同性愛は当事者にとって深刻な問題ではあるが、やはり当時とは比べ物にならない。
 
90年代以前には、同性愛を肯定する言葉が社会にはほとんど流通していなかったのだ。
 
そんな中で「ホモは変態ではない。病気ではない」と言い続けた伊藤氏の言葉は、ゲイたちにとって、砂漠の中のオアシス、一種の命綱だったのだろう。(中略)
 
ゲイの「代弁者」としての伊藤氏の役割は相対的に小さくなった。しかし、すべての状況は『薔薇族』が切り開いてきた道の延長線上にあり、日本のゲイたちの伊藤氏らへの感謝の念は変わらないだろう。
 
そしてこれからも伊藤氏には、ゲイのよき「サポーター」として、(代弁者)ではけっしてないが、21世紀のゲイ雑誌づくりを進めていってほしいと願うものである。」
 
 
 
『バディ』のオーナーは、読んでくれたのだろうか。
 
伏見さん、今どうしているのだろう。
 
 
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2018年5月26日 (土)

私はこんなヒドイ目にあわされた!

宝くじって当たり前のことだけど、買わなければ当たらない。
 
ぼくも長いこと10枚ぐらいは買ってきたが、不思議なことに300円は当たる。
 
全部ハズレだったら、買う人が少なくなってしまうだろうから。
 
 
 
ぼくの古い友人で植木職をやっている小林くんと出会ったとき、話題が宝くじの話になったら、なんと100万円のアタリが二度もあったそうだ。
 
宝くじもそうだが、出版の仕事をしていてベストセラーを出すことは、小出版社ならなおのこと、至難の業だ。
 
父が昭和23年に創立した、社員はぼくだけという小出版社の株式会社第二書房が、2冊のベストセラーを出せたことは、幸運だった。
 
 
 
1冊目は昭和31年11月10日(1956年・今から62年前)に初版を出版した、三上綾子著の『匪賊と共に』という本で、帯には「私はこんなヒドイ目にあわされた! チチハル脱出記」とある。
 
裏側の帯には、「“性のいけにえとなった女性群”と週刊新潮12月17日号が特集した話題騒然の体験記!」と。
 
当時の週刊新潮は、刷部数100万部を超え、インテリ層が読んでいたので、その効果は今ではとても考えられないぐらい絶大だった。
 
A
 
 
いつもならペコペコ頭を下げて、少しでも部数を多くとってもらおうとこちらがお願いする、取次店の仕入れ課連中が、今度増刷したら、わが社に多く入れてほしいと、頭を下げて、下北沢のわが社までくるのだから、こんな気分の良いことはなかった。
 
冬物をしまって、夏物を出すべく、戸棚の中を探していたら、第二書房時代の古い広告などを貼った切抜帳が出てきた。
 
谷内六郎さんのなつかしい表紙絵・お風呂の帰りとある、妹と弟が銭湯から出てくるところが描かれている。
 
昭和の時代のぬくもりをかんじる表紙絵がかわいい。
 
B
 
 
6ページをついやす「性の生贄となった女性群」という大特集だから反響が大きいのは当然のことだ。
 
C
 
 
大手出版社は宣伝費にお金をかけられる。
 
効果抜群だとわかっていても朝日新聞には、高価で広告が出せなかった。
 
広告の切抜帳を見ると、読売新聞があり、これは特別に安くしてくれたときにだけ。
 
D
 
 
あとは東京新聞、東京タイムズ、神戸新聞、日本海新聞、熱心に営業の人が訪ねてくる新聞に多く出している。
 
それらの人たちの顔が想い出される。
 
 
 
週刊新潮の見出しには、こう書かれている。
 
「12月8日(開戦の日を忘れてはいけない)運命の日から15年たったこのごろ、戦争の残虐な歴史が話題になっている。
 
「戦争に女はつきもの」というが、これらに焦点を合わせると、戦争で性のギセイになった女性の悲劇が浮き彫りにされてくる。」
 
 
 
ソ連軍や、匪賊にヒドイ目にあわされた女性たちの悲惨な姿は、この本に赤裸々に描かれているが、そんな話を書きたくはない。
 
いつの世でも戦争によって犠牲になるのは、女性や子どもたちだ。
 
戦後73年も平和が続いている日本人は、平和ボケになっている。
 
小学校2年生の少女が何者かに殺されて、線路に捨てられた事件が大きな話題になっているくらいだ。
 
 
 
世界中が平和というわけではない。
 
イランとか、イスラエルとかでは、こぜり合いが今でも続いているようだ。
 
もう5年、10年が過ぎれば、戦争を体験したことがない人たちばかりになってしまう。
 
戦争がいかに悲惨か、『匪賊と共に』がベストセラーになって、多くの人に読まれたということは、ありがたいことだった。
 
絶対に戦争をしてはいけない!
 
 
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2018年5月21日 (月)

内藤ルネさん、藤田竜さんのこと忘れないよ!

『薔薇族』の創刊以来のスタッフは、86歳のぼくひとりを残して、みんなこの世を去ってしまっている。
 
昭和の時代に『薔薇族』の読者が、どのようなことに悩み、どのように生きてきたかを語り部として、後の世の人に残しておきたい、そう思ってブログを書き続けている。
 
 
 
人間だれしも、ほめられればうれしいし、批判されれば気にするのは当然のことだ。
 
最近になってブログの終わりに「コメントをよろしく」と、つけ加えている。
 
そのためかコメントを書いてくれる人が、増えてきているのはうれしいことだ。
 
ぜひ、これからもコメントを書いてもらいたい。
 
どんなことを知りたいのか、こんなことを書いてもらいたいという要望があればありがたい。
 
 
 
ネットを触れないぼくは、百円ショップで購入した原稿用紙に4枚で1つの話をまとめている。
 
いつも次に何を書こうかと考えていることが、脳に刺激を与えてボケずにいられるのだろう。
 
自画自賛するわけではないが、読み返すと面白く、これからも書き続けなければという思いにさせられる。
 
 
 
おひとりのコメントに対して、弁解ではなく事実を書いておこう。
 
「雑誌『薔薇族』の全盛期の売れ行きは、年間で数億円?と推定します。永遠に続くものと誰でも思うでしょう。
実質編集長の藤田さんへも十分な利益の分配があったのか?は、多くの読者が興味ある永年の知りたいことです。」
 
というコメントだ。
 
 
 
内藤ルネさんと、藤田竜さんは、何十年も一緒に住み、ふたりで協力して、いろんなグッズを制作し、ひとときはその製品が街に溢れたことがあった。
 
千駄ヶ谷駅の近くの、部屋が何室もあるマンションに住み、最初に竜さんと出会った頃は、給料は200万もらっていると聞いたことがあった。
 
それが世の中が変わってきて、テレビの人気番組にまつわるグッズが現れるようになり、ルネさんの商品は影が薄くなってしまった。
 
バブルの時代に土地を売って、7億ものお金を手にしたが、世間知らずの竜さんは詐欺師に騙されて、7億なくし、その上、マンションまでとられてしまった。
 
 
 
その間、ぼくになんの相談もなく、マンションを出ることになって部屋を探したが、年とった男二人に部屋を貸してくれる不動産屋はなかった。
 
そこでやっと泣きついてきたので、ぼくの知人の不動産屋に頼んで、社員寮として、半分は会社が払い、半分は二人が払うようにして借り受けることができた。
 
膨大な彼らのコレクションは、ぼくの女房の兄の倉庫に十数年もタダで置いてもらった。
 
ぼくは修善寺に美術館を作ることには反対したが、これも誰にも相談せずに自宅兼美術館の建物を作り、オープンさせた。が、これも失敗に終わった。
 
 
 
すべてを無くした二人が美術館を建てられたのも、ぼくが二人にそれなりの給料を払っていたからだ。
 
雑誌づくりの名人だった竜さんだが、何か大きな足りないものがあったのでは……。
 
 
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