2019年5月27日 (月)

「令和」の名付親、中西進さんとぼく!

『月刊・Hanada』7月号に、10ページにもなる新元号「令和」の名付親、中西進とぼくとの長い交流を書いた記事のタイトルは、ぼくが考えたものだ。(5月24日発売)
 
「中西進さんと『薔薇族』編集長」『Hanada』の編集長、花田紀凱さんとも長いお付き合いだが、ぼくが考えたタイトルにしてくれた。
 
本当のところは「優等生、中西進さんと劣等生、伊藤文學」とすべきだったかもしれない。
 
 
 
昭和23年、日本の敗戦後、まだ3年しか経ってない4月に駒沢大学文学部国文科にコネで入学させてもらった。
 
万葉集の研究者で、短歌の結社『白路』の主催者、斎藤茂吉の弟子の森本治吉教授に、短歌を作ることを教わらなかったら、東大国文科の2年先輩の中西進さんと、出会うことはなかった。
 
駒大の卒業式のときまでぼくはいたけど、単位が3教科とれず、それに卒業論文を書けなかったから、卒業証書をもらえなかった。
 
国文科で3人、卒業できない人がいて、その中のひとりはぼくだった。
 
森本教授は心配して父のところへ手紙をよこしてくれた。
 
教務課の人たちと、教授たちが会議を開いて、この3人をどうするか相談したそうだ。
 
教務課の人たちが、「伊藤くんは将来、有望な学生だから、なんとか卒業させてやりたい」と言ってくれたそうだ。
 
森本教授は「大学院に入りなさい。そこで卒論を書き、追試を受けなさい」と言ってくれたが、父が創立した「第二書房」には社員はひとりもいない。
 
学生時代から父の使い走りをしていたから大学院に入ったって、本を読むわけでないから、まあいいかと、そのままになってしまった。
 
 
 
それから時が経って、昭和30年の後半、妹紀子の心臓病棟、401号室での患者たちの交流を描いた『ぼくどうして涙がでるの』が、朝日新聞の応援でベストセラーになり、日活で映画化され、心臓病の人たちの心の支えになった。
 
テレビにも何度も出演したので、森本教授からの年賀状には、よろこびの言葉がそえられていた。
 
 
 
その頃、世田谷学園の同窓会の役員会があり出席したが、その帰りにたまたま駒大の教務課の部長さん(恩人のお名前を忘れてしまった)も出席していて、帰りにぼくは車で行っていたので、部長さんを自宅まで送っていった。
 
車中で「ぼくは卒業式までいたけれど、卒論を書かなかったから、卒業証書をもらえなかった」と話をしたら、「いつでもいいから、俺のところへ訪ねてこい」と言われたので、数日して部長さんを訪ねたら、卒業証書をくれたではないか。
 
総長の名前が変わっていたが……。
 
『ぼくどうして涙がでるの』が卒論だよと言ってくれた。
 
今の時代なら、こんなことをしたら大変なことになってしまうが、いい時代だった。
 
 
 
駒大在学中、授業で教わったことは、何一つ覚えていないが、短歌を作ることだけには熱中していた。
 
昭和25年に東大の山上会議所で催された、各大学の短歌を愛する学生たちが集まって短歌会が開かれた。
 
駒大からはぼくひとりだけの参加だったが、その頃の駒大は3流大学で、ぼくは劣等感にさいなまされていた。
 
それがぼくの作品を東大国文科の2年先輩の中西進君が、絶賛してくれたではないか。
 
とびあがるほど嬉しく、自信を持つことができて、それからのぼくの人生は大きく変わった。
 
 
 
ぼくのアイデアの豆本、歌集『渦』に、中西進先輩が序文も書いてくれた。
 
その中西進さんが新元号「令和」の名付親とは。
 
この歌集『渦』千金の価値があるのでは!
 
A_2
 

 
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差別や偏見はどうして生まれるか

「差別と偏見はどうして生まれるか」講師:児童文学者・丘修三。
 
2000年10月14日、駒大中央講堂でぼくは学生たちと一緒に話を聞いた。
 
丘修三さんは1941年、熊本県生まれ。
 
養護学校の教諭として、障害児教育にたずさわったのちに文筆生活に入った方だ。
 
差別と偏見は、最初は「異形のもの」という感覚、恐れ、こわいという気持ちから始まると、養護学校の先生だった体験から丘さんは言う。
 
それから丘さんの話は、らい病患者の話にうつった。
 
 
 
亡くなったぼくの父は、ハンセン氏病(らい病)の療養所を訪ねて、川柳の作句の指導をしていたので、今でも『青松』という雑誌が療養所から送られてくる。
 
大島青松園という、高松から海上8キロの小島の中の療養所で、開園されてから90年になる。
 
90年間に3918名が入所され、1969名の入所者のほとんどの方が、肉親の見送りもなく、寂しくこの島で亡くなったそうだ。
 
現在の入所者(2000年頃のこと)は、258名で、平均年齢72・8歳、在園期間の平均は42・9年間。
 
要するに入ったらここから出られない。
 
患者のおひとりの文章は悲惨そのもので胸を打つ。
 
 
 
「兄弟、姉妹の結婚も、しばしば破談となり、適齢期を過ぎても縁談のない家族も少なくありません。私も尊敬する姉や、よくしてくれた妹が、結婚に失敗して離縁されたとき、私の病気のためと妹に責められたことがありました。
 
私は6人兄弟の3男で、2人の兄は私にやさしくしてくれていました。戦後、シベリアから復員し、家族みんなで団らんの一夜をもったことがありました。
 
長男は柔道が強く、香川県代表で国体へ2回も出場するという偉丈夫でした。私は何年ぶりかで会える兄2人との団らんを夢見て、外出願いを出し、人目をはばかって夜暗くなって帰宅しましたが、「何で帰ってきたのか、帰ったら困ることぐらいわからないのか。すぐ出て行け、ワシが宿屋へ連れて行ってやる」と、すごい剣幕で怒り心頭に発するような形相でありました。やさしかった長兄が豹変するのはなぜだろうかと、ただ呆然とするだけでした。
 
この険悪な空気を救ってくれたのは母の一言でした。
 
「そんなこと言わんでもええが、一晩だけ泊めてやってくれ」
 
私はどこで寝たのか、寝なかったのか、分からないままに、翌朝、暗いうちに家を出て、わざわざ遠い汽車の駅まで歩いてとぼとぼと家を後にしたことがあった。
 
もう二度と家族に会うこともない。悲しい別れだと思いました。それから半世紀、兄弟、姉妹との音信もなく、勿論あうこともありませんでした。」
 
 
 
丘さんは訴える。
 
差別や、偏見は世間の人々の「無知」から始まると。
 
ハンセン氏病は、ほとんど患者から感染することがないにもかかわらず、入園させられてしまったら、外に出ることはできなかった
 
ぼくの家の近所の米屋の次男が、ぼくより年がひとつ下だったけれど、やさしい子で仲良しだった。
 
どういう理由からかわからないが、成人してから神経をわずらい、松沢脳病院に入れられてしまった。
 
長いこと入院していて、病状もよくなったのに、やはり長兄が家に帰ることをこばんだために、園内で自殺してしまった。
 
ふとそんなことを思い出した。
 
 
 
カミングアウトをしない方がいいと、ぼくが言うのは、世間の人がよくゲイのことを理解してくれているならいいが、まだまだ偏見があるからだ。
 
少しずつでも偏見をなくすための努力を積み重ねていくしかない。

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2019年5月25日 (土)

「令和」ってすばらしい年号だ!

『薔薇族』を創刊したのが、1971年のことだから、その翌年ということだろう。
 
中西進さんが1972年12月20日発行の毎日新聞社刊『万葉の心』という本を出されている。
 
今から47年も前で、ぼくが40歳の時だ。
 
女房の久美子と結婚し、中西夫妻が仲人をしてくれたのが、ぼくが38歳だったから、それから2年後ということか。
 
その本にぼくが撮影した着物姿の中西進さんの写真が巻頭に載っている。
 
この本のあとがきにこんなことを中西さんは書いている。
 
中西さんは東大国文科の出身だ。
 
 
 
「故池田亀鑑博士が、授業中に「やさしく書くことが一番むつかしいことです」といわれたことばが、いまだに私の胸にびんびんひびき続けているのです。
 
なお、写真は友人の伊藤文学君がとってくれた。うれしいことだ」
 
と、結んでいる。
 
「友人」と書いてくれたことは、本当にうれしい。
 
 
 
今、月刊文藝春秋の6月特別号に載っている、中西進さんの『令和とは「うるわしき大和」のことです』という記事を何度も読みながら、47年も前の『万葉の心』のあとがきを思い出した。
 
文藝春秋は、中西進さんが「令和」の考案者であることを承知の上で原稿を依頼したに違いない。
 
頭が悪いということはどうにもならない。
 
カメラを買っても、スマホを買っても製品に付いてくる説明書をちらっと読んでも理解できない。
 
こんなぼくに「自信」を持たせてくれた恩人が中西進さんだ。
 
87歳の生涯で、人が出来ないことをいくつもやりとげてきた。
 
多くの人たちの支えがあって、これからもいい仕事を残して、この世を去りたいものだ。
 
 
 
文藝春秋の中西進さんの文章、誰にでも「令和」という年号の意味をやさしく書いて、理解してもらおうという気持ちで書かれていることが伝わってくる。
 
中西進という人間を他人事のようにユーモラスに書いて、いろいろと言われた批判にもうまく答えている。
 
さすがだ。
 
01
 
「和歌という五七五七七で歌われるのは、まず相聞、つまり恋です。日本は恋という命の響きを圧倒的に大事にしてきた文化です」
 
中西進さんは、ぼくが駒大在学中に、斎藤茂吉の弟子で、万葉学者の森本治吉先生から短歌を作ることを教えてもらったお陰で、東大国文科在学中の2年先輩の中西進さんと短歌会の席上で知り合うことができた。
 
ぼくの歌集『渦』の序文で恋の歌をほめてくれた意味が分かったような気がした。
 
「令和が発表された後、ある方が「令」の字は命令の令で、使役の意味があるから元号にふさわしくないと発言しました。しかしそれは令の一面をとらえた解釈に過ぎません。どうして一つの文字の意味をばらばらに理解するのでしょう」
 
学者の頭ってすごい。
 
89歳にもなって、理路整然と批判した人たちをやんわりと反論している。
 
「日本では、花といえば桜なのに、どうして桜ではなく梅を囲んだ宴だったのだろうか、という疑問を持つ方がいるかもしれません。日本人はなんといっても桜が好きです。これはあらゆる時代を通じた価値観で、旅人の時代もそうでした。(中略)外国の文化をよいものとして取り込むきわめて日本的なふるまいであると言えます」
 
 
 
文藝春秋(¥1000)滅多に買ったことがないが、すばらしい雑誌だ。
 
ぜひ、読んで下さい。
 
「麗しく生きる万葉集の精神性、そして旅人の品格のある生き方が「令和」という元号から伝わるよう願っています」と結んでいる。

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2019年5月18日 (土)

内藤ルネさん、何度か死のうと!

『薔薇族』の表紙絵を一番長く描いてくれた内藤ルネさん。
 
千駄ヶ谷の駅近くにあった部屋がいく部屋もあるマンションに一緒に住んでいた藤田竜さん。
 
おふたりの夢は修善寺にルネさんのコレクションを展示する美術館を建てることだった。
 
バブルの時代に上北沢と、江ノ島にあった土地を売って、7億ものお金を手に入れていた。
 
そのお金を男4人と、女ひとりの詐欺師にまんまとだましとられてしまった。
 
ルネさんはお金のことはすべて竜さんにまかしていたようだ。
 
竜さんはぼくにとっては『薔薇族』の創刊から良き相棒になった恩人だから、悪くは言いたくないが世間知らずの大馬鹿者としか言いようがない。
 
詐欺師たちになにかに投資すれば、お金を増やしてあげるといってだましとられたとは思えない。
 
ぼくの推測だが美術館を財団法人にしたかったので、その認可をとってあげるということで詐欺師たちにだまされたということしか考えつかない。
 
財団法人に美術館をすると税金を払わないでも済むからだ。
 
悪いやつがいて税金逃れに法人化する人がいたので、お国は規制を強めていたので、認可をとるのが難しくなっていた。
 
そこが詐欺師たちの狙いどころだったのでは。
 
  
 
ぼくも平成5年に女房の古里の新潟県弥彦村に「ロマンの泉美術館」をオープンさせていた。
 
美術館をオープンさせるには、学芸員を何人かやとうとか、何かお国の規制があるのかと思ったらなんにもなかった。
 
レストランは保健所の検査があり、消防の検査もある。
 
ただそれだけだ。
 
入場料は500円、いくら入ったって儲かるわけがない。
 
  
 
法人化する必要などまったくないのに、なぜそれにこだわったのか、ぼくには理解できない。
 
何百万か詐欺師たちに払ったときに、これはおかしいなと気づかなかったのか。
 
ぼくに相談してきたのは、マンションもとられ、どこにも部屋を借りることができなくなってからで、どうしようもなかった。
 
今の時代、老人をだましてお金をまぎあげる詐欺師がいるようだけど、7億のお金をだましとられたなんて考えられない。
 
さすがにルネさん、すべてを失って何度も自殺しようとしたけど、果たせなかった。
 
ルネさん、竜さんが詐欺師にだましとられたことで、グチひとつこぼさなかったようだ。
 
しかし、真相はおふたりと、竜さんが養子に迎えた若い芳っちゃんも亡くなっているので分からず仕舞いだ。
 
竜さん、ルネさんのおふたりが残した『薔薇族』の仕事は長くゲイの歴史に残ることは間違いない。
 
ルネさんは、こんなことを書き残している。
 
 
 
「何もどこからも仕事が来なくなってしまったとき、『薔薇族』の表紙の仕事を伊藤文学氏からたのまれたときのオドロキ、それもセクシイこの上もない男の子たちの絵!! オドロキましたね。
 
ありがたく、うれしかったですよ。そして我が人生、初めてのセクシイ・ボーイズを描くことの、この上ない楽しさと、うれしさをこのとき知りました!
 
ホモマガジンの性質上、とにかくセクシイにしなければならず、しかし、どんなに妖しくて、セクシイでも、そこに清潔感をだして店頭に並んでも、男性はもちろん、女性たちにも愛されるボーイズを描こうと心に決めました。
 
恐ろしい事件も『薔薇族』の表紙を描くことでまったく忘れることができたのですよ。」
 
 
 
ルネさんが表紙を描いた薔薇像は、今でも愛されて古書店でも高く売れていますよ。

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2019年5月13日 (月)

LGBTは少数者か!

朝日新聞は、ぼくの末の妹・紀子が昭和30年の後半、東京女子医大の心臓病棟に長いこと心臓手術の日を待っていた頃のことを『ぼくどうして涙がでるの』という本を出したとき、記事にしてくれて日活で映画化されるきっかけをつくってくれた新聞だ。
 
そのときのご恩は忘れることはできない。
 
朝日新聞をずっと購読し続けていたが、『薔薇族』は廃刊になり、僅かな年金暮らしをするようになってからは、一番購読料の安い東京新聞を購読するようになってしまった。
 
東京新聞は第二書房で単行本を出していた頃は、営業の人が熱心に広告をとりにきていたので、広告を出し続けていた。
 
東京新聞も景気のいい時代には、帝国ホテルで「ザ・ピーナツ」を招いてのパーティに参加したこともあった。
 
朝日新聞の読者の投稿欄「声」には何度も投稿していて必ず載せてくれていた。
 
東京新聞の投稿欄は「発言」というコーナーがあるが一度も投稿したことはなかった。
 
最近、新聞紙上に「LGBT」という言葉が目につくようになってきたが、その下に必ずカッコして(少数者)と書かれている。
 
なにかあわれんでいるようにも思えて気になっていたので、思いきって「LGBTは少数者か」というタイトルをつけて投稿した。
 
何日も経つのに載らないので没かなと思っていたら、担当の鈴木さんという方から電話があって、ゲイトレズビアンの人たちの人数というのは、諸説があってはっきりしないので、そこのところを思案しているようだった。
 
5月8日の東京新聞朝刊に、特別に目立つように載せてくれたではないか。
 
 
 
「著述業 伊藤文学 87(東京都世田谷区)
 
最近「LGBT」という言葉がマスコミで使われるようになってきた。Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダーなどの人を示すようだ。紙面などでは「LGBT」の下に、カッコして(性的少数者)という文字が説明として用いられることが多い。
 
だが、果たして「LGBT」と呼ばれる人たちは、少数者だろうか。僕は米国ロサンゼルスのゲイパレードに、日本を代表してオープンカーに乗って三度、サンフランシスコでも一度参加したが、性的少数者と哀れむような感じで呼ぶ人はいなかった。
 
確かにトランスジェンダーの人たちは少ないようだ。この人たちのことであるなら「性的少数者」という表現も納得する。だが、ゲイとレズビアンの人たちはそれとは異なる。国内外の各種調査の数字にもかなり幅があり、確かな数字はわからないが、ゲイやレズビアンの人たちは僕の周囲にはいくらでもいる。感覚としても、決して「少数者」ではないのでは。
 
ゲイもレズビアンも異常でもなければ変態でもないと、これまで僕は雑誌『薔薇族』の編集長として叫び続けてきた。もって生まれたもので、決して趣味でそうなるわけでなく、多様な性の一つだ。
 
生き方の問題なのだから、堂々と胸を張って生きてもらいたいと願う。今になって急にゲイやレズビアンが増えたわけではなく、いつの時代でも一定数存在していたのだと思う。
 
時代が「令和」に変わった。万葉の時代のように、人々が花を愛する平和な時代であってほしいものだ。」
 
 
 
こういう内容の投稿が載ったのは、初めてのことではなかろうか。
 
担当の方もずいぶん気を遣ってくれたので、時間がかかってしまったのだろう。
 
朝日新聞や読売新聞でなく、東京新聞に載ったことをぼくは誇りに思う。
 
最後の締めの言葉は泣かせるではないか。

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2019年4月22日 (月)

ヨコハマメリー、こんな女に誰がした!

『薔薇族』と編集長・伊藤文学のことをお堅い朝日新聞に最初に大きな記事に書いてくれた記者の小泉信一さんの著書『裏・昭和史探検』(朝日新聞社刊・定価¥1400+税)の中に「ヨコハマメリー・こんな女に誰がした」が書かれている。
 
戦後の日本、経験のない人たちには想像もつかないだろうが、焼野原になった日本の都市。
 
食うため、生きるため、家族を養うために、女たちは進駐軍、米兵のためにからだを売った。
 
その女性たちのことを「パンパン」と呼び、ひとりだけの米兵と暮らす女性を「オンリー」と呼んだが、立川の米軍基地の周辺に居を構えて暮らしていた。
 
『薔薇族』を創刊したときのマンション「淀川」の1階に茶沢通りに面したカフエ「淀」のママは黒人兵の女房だった。
 
黒い色をした娘さんがひとりいたが、ご主人は朝鮮戦争で戦死して、軍から支給される恩給で生活していたようだ。
 
「淀」のママなどは、いいご主人に出会えて幸せだったのだろうが、ヨコハマメリーさんは、横浜の街角で、顔を真っ白に塗り、純白のドレス姿で立っていた。
 
小泉さんの本から引用すると、メリーさんは出身は中国地方といわれる。
 
戦後、神戸に出て米兵相手に働き、恋人となった進駐軍の将校と上京した。
 
だが将校は母国へ帰国。
 
メリーは横浜の街角に立つ娼婦となり、老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや、廊下で寝泊まりしていた。
 
メリーさんを若い頃に見かけたというギター奏者の榊原政敏さん(67)は、「彼女は正史では語られない戦後の闇そのものではないか」
 
榊原さんの妻、広子さん(65)は、「人にこびるような感じはなく、気品があった。最初はフランス人形かと思った」という。
 
「まゆをひそめる人もいたが、『ハマのメリーさん』と呼ばれ、慕われていた。港町横浜は寛容度が高い。流れついた人たちを迎える気風がある」
 
蜃気楼のようにつかめそうでつかめない。
 
近づけば消えてしまう。
 
そんなメリーさんは、なんと1990年代なかばまで街角に立っていた。
 
95年に横浜から忽然と姿を消し、2005年、故郷の中国地方の施設でひっそり亡くなったという。
 
 
 
小泉信一さん、よく調べたものだ。
 
メリーさんが街角に立っていた頃、下北沢の北口にぼくが経営していたカフエ「イカール館」(最初は薔薇の小部屋)の店が終わる頃、女房を迎えに行って、すぐに家に帰らず、車を飛ばし二子玉川から第3京浜を走って、横浜の野毛にある永登元次郎さんが経営するシャンソン喫茶へよく通ったものだ。
 
2019年4月11日の東京新聞に「伝説の女性「ハマのメリーさん」をモチーフにした一人芝居「横浜ローザ」を1996年から演じ、ライフワークにしている女優の五大路子が今年の公演開幕を5月末に控え、メリーさん直筆の手紙を見つけた」とある。

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その手紙はなんとぼくが親しくしていて、下北沢のカフエ「イカール館」で、シャンソンを歌ってもらったり、横浜のゲイホテル「童安寺」の経営者でもあった、故・永登元次郎さんの衣装箱の中から、メリーさんの手紙を見つけ出したという。
 
メリーさんと元次郎さんは親しかったようだ。
 
メリーさんが故郷の施設に入っていたとき、元次郎さんがホームに送った菓子などに丁寧に礼を記し、「お許しがありましたならよろしく横浜の御地に帰ってみます。その時にはなつかしの御皆々様、御無事で励みになって下さいませ」と、横浜への望郷の念をつづり、自身は横浜に成長させてもらって感謝していると書いた。
 
メリーさんと永登元次郎さん、ああ、昭和の時代は遠くなってしまった。

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2019年4月15日 (月)

文学さん、死んじゃいやですよ!

『薔薇族』の古い読者なら、誌上で関西でのゲイたちの情報をイラスト入りで、次々と送ってくれた鞍嶽三馬さんのお名前を覚えているだろう。
 
(ぼくのブログを読んでくれている人は若い人たちだから、高齢者はブログを読めないし、知ることはできない)
 
三馬(みんま)さんとは、ぼくが経営していた新宿の「伊藤文学の談話室・祭」で出会った方だと思うが、お顔は思い出せない。
 
レコード店を経営していたが、レコードが売れなくなって廃業。
 
京都の大手のネクタイの会社「菱屋」に移り、器用な方でネクタイのデザインをして才能を発揮し活躍された。
 
社長にも認められネクタイの美術館をつくられたときには館長にまでなった人だ。
 
その時代、『薔薇族』に関西の情報を次々と書き送って支えてくれた人だ。
  
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クールビズなんて言葉が言われだして、夏にはネクタイなど着用しない時代になり、ネクタイは急激に売れなくなってしまい「菱屋」は倒産してしまった。
 
三馬さんは失業してからも、手製のネクタイや帽子などを手作りにして売り、生計を立てていたようだ。
 
ぼくにもネクタイや帽子を送ってくれたこともあった。
 
それからは年賀状のやりとりだけでのお付き合いだったが、お互いに年をとってしまった。
 
今年、頂いた年賀状は力のないよたよたの文字でからだが弱られているなと察しられた。
 
三馬さんの住所を書いた住所録をどこかに蔵い忘れて、ぼくからの年賀状を送れず、ずっと気になっていた。
 
4月に入ってやっと探し出して、しばらくぶりに長い手紙を書いて送ったら電話がかかってきた。
 
ぼくよりひとつ年上の88歳で病院通いをしていて、指がふるえ文字を書きにくいと言う。
 
ぼくも同じことだが、友人、知人が次から次へと他界し、寂しい生活を送っているようだ。
 
 
 
三馬さんから宅配で荷物が送られてきた。
 
中には手作りのネクタイが10本ほど、帽子が3ケ、サラリーマン時代、50歳のときに書いた「ヨーロッパ・駈け足研修の夜」というイラスト入りの原稿を見つけ出したというので送ってくれた。
 
ぼくはヨーロッパには、一度も行ったことがないので、これから読ませてもらって楽しみたいと思っている。
 
C  

手紙が入っていて、「年賀状がこない今年の正月は暗い、暗い正月でした。人生に目的がないということは(この年齢の故か)やはりあの世とかいう想像もできない有様が横たわっています。
 
毎日の医者通いもきつく、うんざりです。兄弟、いとこも全部いなくなりました。ひとりぼっち、気楽といえば気楽、しかし、目的のない空しさは底知れぬ淋しさです。(中略)
 
現在のマンションも手作り商品が売れて買いました。中之島のホテルの地下街が一点主義の意識ある価値でよく売ってくれて注文に応じられないぐらい、嬉しい悲鳴でした。
 
大阪では『薔薇族』を通じて、多くの友人たちができ、ビジネスにもプラスになりました。文学さんには心より感謝しています。
 
そして、それから数10年……。年をとるわけです。そうです。いろいろ想い出されます。レコード店が倒産し、無一文となって京都へ。そしてヨーロッパ研修を3度繰り返し私の人生がころりと変わりました。
 
この手が、この指がある限り生きる価値、生きる勇気、そして生きねばならいのだと確信したのです。
 
最近、手のふるえが出てきました。それでも医者通いしながら、とにかく元気に生きています。文学さん死んじゃいやですよ」
 
 
 
ぼくも左手がすこしふるえ出しているが、みんなの心の支えにならなければ。
 
元気で頑張るぞ!

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2019年4月13日 (土)

『男色の景色』のすべてが見える!

丹尾安典(たんおやすのり)さんは、早稲田大学文化構想学部、ぼくには理解できないわけのわからない学部の名物教授だ。
 
先生の授業時間にぼくを招いてくれて、広い階段教室で講演をさせてくれた。
 
これはかなり前のことでいつの頃だったか忘れてしまっているが、講演が終わってから何人かの学生たちと中華料理店で、ごちそうになったことだけはよく覚えている。
 
早稲田大学の図書館に、ぼくが所蔵していた『薔薇族』が創刊されるかなり前、昭和27年9月10日号創刊の会員制のゲイ雑誌『アドニス』これは貴重な雑誌で、将来ゲイの歴史を知る上に役に立つもので、第60号まで揃っている。
 
丹尾さんが仲立ちして購入してくれた。
 
『アドニス』の別冊『APOLLO』には、三島由紀夫さんが文体とペンネーム榊山保で書いた「愛の処刑」と、推理小説作家で『虚無への供物』の著者、中井英夫さん(途中から『アドニス』の編集者になった人、『短歌研究』の編集長時代に、寺山修司くんを世に送り出した人でもある)の小説と、もうひとりはNHKの職員で、『薔薇族』に作品を寄せてくれた仁科勝(ペンネーム)さんの3人の作品が納められている。
 
このことを知っている人は、ぼくしかいないので書き残しておきたい。
 
この他に『アドン』の編集部から発行された『ムルム』も早大図書館にあり、『薔薇族』も欠号が多いがある。
 
一般の学生は見れないが係の人に頼めば見せてくれる。
 
これからのゲイの研究者の参考になると思う。
 
国会図書館にはないから……。
 
 
 
2008年に丹尾安典先生は、新潮社から『男色の景色――いはねばこそあれ――』と題して出版したものを角川文庫で『男色の景色』(定価960円+税)が手頃な値段で発売された。
 
カバアは地味な色あいだが、芝生に寝転んでいる少年の写真が、別にヌードでもないのに妙にそそられる。
 
そばに開かれた本が置いてあるが、なんの本だかわからない。
 
学者というのは多くの文献を読んで、書かれるのだから、一冊の本にまとめるには長い時間がかかるのだろう。
 
もちろん『薔薇族』のことも多くの頁をさいて紹介してくれている。
 
その中には寺山修司君が『薔薇族』に寄せてくれた「世界は、おとうとのために」と題する詩も紹介されている。
 
この原稿は宝物なので大切に保存しているが、なぜか寺山君専用の原稿用紙にかかれているが、サインがない。
 
奥さんの九條さんが元気な頃、渋谷の画廊で出会った時に聞いた話だが、普通なら下書きに書いてから清書するのだろうが、きれいな字で書かれている。
 
寺山君はきれいな文字で最初から書くというので驚いたことがある。
 
寺山修司君、サインをしたらこの詩の内容からご自分がゲイだということを証明してしまうことになるので、考えぬいてサインをしなかったのだろう。
 
奥さんにぼくは「寺山君はゲイだったのですか?」と聞いたところ「そうです」と答えてくれた。
 
寺山修司君、ゲイだったからすばらしい作品を残すことができたのだ。
 
『男色の景色』のオビには、万葉集、世阿弥、琳派、三島、川端――日本文化史を艶に彩る男と男のいる風景と書かれている。
 
正直なところぼくは、まだ読んでいない。
 
『薔薇族』のことが書かれているところだけは読んでいる。
 
全部読み切るのはいつのことになるかわからない。
 
書店に並んでいるうちに紹介しておかないと興味を持って購入してもらえない。
 
とにかく面白い本だから読んでほしい。
 
川端康成さんの『伊豆の踊子』の話は、興味がある。
 
どうしても読まねば……。

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2019年4月 8日 (月)

おふたりの万葉学者との出会いが!

日本の敗戦後、3年目の昭和23年の4月、世田谷中学校(現在の世田谷学園)の4月、駒沢大学文学部国文科に入学した。
 
その頃の駒大は全校で学生は700名ぐらい、アルバイトをしている学生も多かったから、学校に通っているのは、4、500人ぐらい。
 
女生徒は3名、あとは尼さんが2、30名ぐらいいただろうか。
 
ほとんどが地方からの学生で都内に住む学生は少なかった。
 
万葉集の研究者で、斎藤茂吉の弟子の森本治吉先生は、「白路」という短歌結社の主宰者でもあった。
 
ぼくは「白路」の会員になり、短歌を作歌することを森本先生から学び、駒大ではぼくだけだったので、先生のお手伝いをよくするようにもなった。
 
先生の奥様は男っぽい方で、掃除もしないのか先生の部屋はゴミ屋敷だった。
 
やはりお弟子さんで、お母さんとふたりで住んでいる若浜汐子さんの家にいるほうが居心地が良かったのか、先生は若浜さんの部屋で仕事をされていた。
 
 
 
駒大の卒業の日、ぼくは単位を3科目ほどとれず卒業論文も書けなかったので、卒業証書をもらえなかった。
 
森本先生が心配して、ぼくの父に手紙をよこしている。
 
今でもその手紙は手許に残してあるが、こんなことが書かれている。
 
 
 
「問題は「卒業に必要な単位科目が3科目不足すること」と「卒業論文」との2点にあります。
 
教授会の空気は、伊藤くんに甚だ好意的でありましたため、原級留め置きなどしては本人にも気の毒であるし、また一生の履歴に傷がつき将来いかなる職業かに就く場合、邪魔になる恐れがある。」
 
 
 
先生は心配して大学院に入学して、そこで卒論を書きなさいと言ってくれた。
 
3名国文科で卒業できない学生がいて、ぼくもその中のひとりだった。
 
教授たちや教務課の人たちを交えての会議があり、「みんなが伊藤くんは将来世に出て大成される有能な人であることを確く信じ、その事を私に告げる人が多数ありました。」
 
 
 
先生はぼくのことを心配して、父に手紙をくれたのだが、ぼくは父がひとりで社員を使わず出版の仕事をし、ぼくはすでに父の仕事を学生時代から手伝っていたので森本先生が心配してくれたけれど、そのとおりにはならなかった。
 
大学院に入学したって、本を読まないから卒論など書けるわけがなかったからだ。
 
昭和25年の5月、東京大学構内の三四郎池のほとりの山上会議所で、都内の大学で短歌を作歌している学生たちが集まって短歌会が催された。
 
その頃の駒大は3流大学で、ぼく自身勉強もできなかったので劣等感にさいなまれていた。
 
集まった学生たちは東大、早稲田、学習院、國學院、二松学舎、共立女子大などの学生、4、50名が集まった。
 
ぼくのとなりに座ったのが東大国文科の学生で2年先輩の中西進さんだった。
 
どんな作品をぼくが出したのかは忘れてしまっている。
 
一首ずつみんなが出して、それを批評し合うのだが、となりに座っている東大生の中西進さんが、ぼくの作品を絶賛してくれたではないか。
 
ぼくはうれしかった。
 
駒大生であることの劣等感は吹き飛んでいた。
 
中西進さんが褒めてくれたことが、ぼくに大きな自信を持たせそれからの人生は大きく変わった。
 
中西進さんは、ぼくの歌集「渦」に序文を書き、ぼくら夫婦の仲人も引き受けてくれた。
 
それからの中西進むさんは万葉集研究の第一人者として活躍し、文化勲章も授章している。
 
おふたりの万葉学者に出会ったことで少しはぼくもいい仕事を残せたのでは……。

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2019年3月30日 (土)

みんなに支えられて87歳まで!

「文ちゃん87歳誕生日を祝う会 2019年3月13 於 銀座まじかな」での会が1回目、80歳の誕生日を祝う会も、オープンしたばかりの「まじかな」で盛大に開いたが、あれから7年も経っていた。
 
地下鉄銀座線で渋谷から浅草行に乗って新橋で下車。5番出口から階段をやっとこさのぼって表通りに出て数寄屋橋の方へ向かって歩き、しばらく歩くと向かい側に高級なカフエがある。そこを左に曲がると、友人のカメラマン、中嶌君が経営する「音楽バア・まじかな」に……。
 
カフエは大きな窓ガラスから店内が見える。なんとなく店内をのぞいたら、中から制服姿の女店員が飛び出してきた。
 
「伊藤さん、誕生日おめでとう」と声をかけてきたのは、「文ちゃんと語る会」を毎月開いている下北沢のカフエ「織部」でオープンした頃、働いていた女性だった。
 
ブログで「まじかな」での会を予告していたのを読んで、ぼくが店の前を通るのを待ってくれていたのだ。
 
手には赤い薔薇一輪と贈り物の手提げ袋をさげて。
 
なんというありがたい話ではないか。
 
お名前だって忘れてしまっている。お顔には覚えはあった。
 
ぼくのブログを読んでくれているので、ぼくに親しみを持ち続けてくれていたのだろう。じ〜んとこみあげてくる思いがあった。
 
「まじかな」の店内に入ると、顔見知りの人もいるが初めてお会いする人も……。
 
壁にはぼくが自分で書いてきたポスターを貼った。
 
大きなケーキを作ってもってきてくれた女性も。
 
13人ほどの集まりだったが、シャンソン歌手の方もいて、「百万本のバラ」と「ろくでなし」を熱唱してくれた。
 
 
 
2回目の祝う会は、3月19日、この日が本当の誕生日。
 
下北沢駅前の大庄水産下北沢店で、世田谷学園の同期生5人が祝ってくれ、ぼくの飲食代はみんながおごってくれた。
 
5人とも一流大学出、東大出身のM君は大学の教授を定年まで勤めていた方だが、からだは丈夫なのに頭はボケてしまって、みんなの名前もわからない。
 
銀行員だった人、お役人だった人。ぼくがおせっかい役で出欠のはがきを出し、会場を決めたりしての30年。
 
5,60人も集まっていたのが年々他界して今や6人だけ。
 
会の始まる前に健康の話は、みんなどこかしら悪いのだからやめようと言ったのに、結局は病気の話ばかりに。
 
ぼくらが入学したのは、空襲のもっとも激しかった敗戦の1年前。
 
その頃の世田谷中学はヨタ中と言われていたが、今は都内でも有名な進学校で、今年は東大に15名、早慶などは何十人も入学している。
 
世田谷学園の卒業生の有名人は、なんと言っても三谷幸喜君、2番めは伊藤文学だと言ってくれたのは世田谷学園の国語の教師を定年まで勤め、今は俳句の先生のK君だ。
 
もちろんお世辞だけど。
 
世田谷学園の名声を汚さないように、いい仕事を残していかねば。
 
 
 
3回目の祝う会は3月23日「織部」下北沢店で午前11時から13時まで。
 
朝日新聞の小泉信一記者が、ぼくの写真入りで2日前の都内版に予告記事を載せてくれた。
 
新聞を読んで参加してくれた方も5,6人。
 
1月の会に初めて出席してくれた中学2年生の少年が横須賀から参加してくれた。
 
この少年ぼくのブログを読んでくれていて、ぼくのことをなんでも知っている。
 
しっかりしたこの少年、成人したら大物になるだろう。
 
ハワイでぼくのブログを読んでくれた豊さん。中学時代から『薔薇族』を読んでいて、アメリカ人と同性婚。一時帰国を兼ねて参加してくれた。
 
レイをぼくの首にかけて抱き合った。
 
20数名も集まってくれて大盛況。
 
こんなに他人さまに祝福される老人はぼくだけ。
 
多くの人に支えられて87歳まで生きてこられたのだ。
 
感謝の言葉しかない。
 

A

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