2019年3月25日 (月)

昭和の時代のエロには愛があった!

朝日新聞の記者というイメージは、いかにもインテリでスーツを着てネクタイをぴしっと締めた人のように思うが、この本の著者である小泉信一さんは、全く違う人だ。
 
ゲイなどというものを毛嫌いするような朝日新聞が、『薔薇族』と編集長の伊藤文学を初めて記事にしてくれたのが小泉信一さんだ。
 
もう30年以上も前のことで忘れてしまっているが、それからのお付き合いで、先妻の舞踊家、伊藤ミカとの出逢いから、33歳で事故死するまでを綴った『裸の女房』を出版したときも、大きな記事を書いてくれた。
 
最近、朝日新聞出版から『裏・昭和史探検』(定価¥1300+税)という本を出版された。
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奇人、変人という言葉があるが、小泉さんのスーツ姿って一度も見たことがない。
 
朝日新聞の記者とはとても思えない、ひげ面で髪の毛はぼうぼう、着ている服も古着みたいで下北沢の街には似合うような人だ。
 
川崎って行ったことがないが、想像するにあまりおしゃれな街とは思えないが、川崎で生まれ育った人のようだ。
 
この本は週刊朝日に連載したものと、「昭和のエロには愛があった」というタイトルで、風俗業界の動きは昭和のほうが圧倒的に面白かった。
 
アナログでデタラメでインチキだけど、人間味あふれるホンモノ。
 
そんな昭和のエロを名物編集者、末井昭さんと語り合った、とある小泉さんとの対談はめっぽう面白い。
 
日本が不景気になり、活気がなくなって元気がない、平成の時代に育った若者には到底想像がつかない戦後の昭和時代の裏話を知ってもらいたい。
 
 
 
まえがきに小泉さんは、こんなことを書いている・
 
「そろそろ平成も終わる。どんな時代を私たちは迎えるのだろうか。ただ郷愁を込めて言えることは、昭和とは実に人間くさい時代だった」と。
 
「「額縁ショー」「トルコ」「愛人バンク」「テレクラ」……。
 
「カストリ雑誌」や「のぞき部屋」も昭和の産物だ。
 
法規制に抗しつつ、なんとか生き延びてきた風俗。
 
伝説の街娼ヨコハマメリーは横浜から姿を消し、故郷の中国地方の施設で亡くなったという。
 
正史では取り上げられることのない人々や好色の徒たち。
 
その素顔に迫ろうと週刊朝日で不定期ながら連載が始まったのは平成28(2016)年の春だ。」
 
 
 
よくまあ、いろんな人と出会い取材し、文献を調べて書いたものだ。
 
当然、「薔薇族=著名人も愛したゲイ雑誌」のタイトルで藤田竜表紙絵のなつかしい創刊号とぼくの写真も載って、6頁も紹介されている。
 
2004年9月22日、朝日新聞は夕刊の社会面で「発売中の382号を最後に『薔薇族』が廃刊する」と報じてくれたのが小泉さんだ。
 
2019年3月23日に下北沢のカフエ「織部」で「文ちゃん87歳・誕生日を祝う会」を開くが、2019年3月21日の朝日新聞朝刊に「伊藤文学さんが語る催し23日に」のタイトルで予告を書いてくれた。
 
短歌を通じて学生時代に知り合い、ぼくが催すパーティには必ず参加してくれた学芸大出身で教師をやっていた金田義直君(亡くなっている)の奥さんが、新聞を見たと言って電話をかけてくれた。
 
「生きていたら参加したろうに」と。
 
 
 
「昭和の時代のエロには愛があった」この言葉は小泉さんの名言だ。
 
『薔薇族』も読者に愛を持ち、おもいやりを持ち続けたことは、他誌とは違うところだ。
 
小泉さんよりは長く生きているから、昭和のエロの裏話をこれからも書き続けていく。

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2019年3月11日 (月)

北海道のへき地に世田谷の名を!

カフエ「織部」には朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。
 
これらの新聞を読む人は、おそらく数人だろう。
 
ぼくは一番購読料が安い東京新聞しか読んでいないのでありがたいことだ。
 
日経の文化欄を読むのが楽しみ。
 
毎日通えればいいが、そうもいかないところがつらいところだ。
 
 
 
2019年3月6日の日経文化欄「北の大地の世田谷」と題する山形トムさんの記事を読んで、世田谷から一歩も出たことのないぼくには、ことんなことがあったのかとびっくりした。
 
山形さんはぼくと同年代の方のようだ。
 
 
 
「太平洋戦争末期の1945年7月、私たちは空襲で焼野原となった東京都世田谷区から、現在の北海道江別市の角山地区に開拓のため入植した。このとき道内へと入植した人たちは「拓北農平隊」と呼ばれている。
 
政府は同5月、被災者の救援と食料の増産を目的とする北海道疎開者戦力化実施要項を策定。全国から入植者を募った。
 
10月までに約3400世帯が道内に入植、世田谷区からは33世帯が移った。もっとも開拓者の多くは厳しい寒さと未開の土地に耐えかね、入植地を離れる。現在、世田谷からの入植組で、角山に残るのは6世帯だ」とある。
 
 
 
日本の敗戦が8月15日だから、7月と言えば1ヶ月前ということになる。
 
世田谷が焼野原になったとあるが、これはオーバーな話だ。
 
5月に世田谷はB29の爆撃があったが、焼けたのはところどころで、ほとんどが難を逃れた。
 
ぼくは国民学校の6年生だったから、当時のことはよく記憶している。
 
山形さんは当時11歳で長野県に学童疎開していたのを急遽北海道行きが決まった。
 
親が決めたことだから行かざるをえなかったのだろうが、苦労をしに行ったようなものだ。
 
 
 
「私の父は入植する前、世田谷の砧にある撮影所がある東宝映画の俳優をしていた。山形凡平といい、エノケン(榎本健一)の映画に出演したこともある。
 
ほかの世田谷区民の職業は大学教師や音楽家ら様々だったが、誰一人農業の経験はない。頼れる身寄りもなく、持ち家が焼けてしまった人が多かった」
 
 
 
北海道で仕事をするとしたら、牧畜か農業しかない。
 
農業の経験のない人たちが北海道へ渡ったら、生きていけるのだろうか。
 
無謀としか言いようがない。
 
東京にいても仕事はないし、食物はないし、行けばなんとかなると思ったのだろう。
 
案の定、角山地区はひどいところだったようだ。
 
 
 
「角山地区は石狩川流域の泥炭地で、農業には適さない。家と土地は無償で支給されるという話だったが、いざ行ってみると更地だけで、家は見あたらなかった。周りの農家の納屋に泊めてもらい、自分たちの家を建てるところから始めなければならなかった。
 
原始林から木を切り出し、馬で運ぶ。家は元建具屋の仲間が指導し、皆で助け合いながら建てた。秋までに家の半分だけ造り、震えながら最初の冬をやり過ごした。
 
入植から1ヶ月で終戦を迎えた。疲れ果て東京に戻る人たちも多く、翌年には20世帯まで減った。(中略)
 
96年に自作の絵画や開拓当時の資料など約100点を展示する北の世田谷美術館を開館する。開拓に苦労する中でお互いの得意の分野を教え合い、学びあったあの頃の想いを伝えたかった。(中略)
 
角山に入植した2世も皆傘寿を過ぎ、世田谷の記憶は年々薄れてきている。今後も描き続け、埋もれた歴史を発信し続けたい。」
 
 
 
世田谷を愛するぼくとしては、うれしい読み物だった。

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2019年3月 9日 (土)

『道ばたの雑草』に目を向けよう!

2月の終わりのころ東京新聞1面の3段8割の書籍広告のひとつに目がとまった。
 
『写真集 道ばたの雑草 小口茂樹著』(リフレ出版・¥1800+税)
 
サブタイトルに「――路傍に佇む楚々とした麗人たち――」とある。
 
広告文は「一瞥もせずに通り過ぎてしまう大都会の四季折々の草花。
 
人生もまたそんなものか、今、歩いてきた道をあらためて振り返ってみると、何と、なかなか綺麗ではないか。オールカラー」と。
 
ぼくも『薔薇族』を創刊する前は、単行本ばかり出版していたので、3段8割の小さな広告の原稿を少しでも他の出版社の広告よりもめだつようにしようと苦労したものだ。
 
朝日新聞は広告料が高いので、一度も出したことがなかったが、東京新聞は営業マンが熱心でよく訪れてきたので、広告を出すことが多かった。
 
 
 
かつては下北沢駅周辺には、書店が7、8軒もあったが、今は姿を消してしまった。
 
一軒だけ残っているのは、スーパー「ピーコック」の3階にある三省堂書店だけなので、アマゾンなどに頼まず取り寄せるようにお願いした。
 
1週間かかるということだったが、3日もしたら「入荷しました」と電話がかかってきた。
 
本を取りに行って『林 忠彦・昭和を駆け抜ける』(クレヴィス刊・¥2700)の写真集も取り寄せるようにお願いした。
 
「世田谷美術館」でも昭和の時代の写真展が開かれているが、辺鄙な場所にあるので見に行けない。
 
車に乗っていた時代はよく訪れたが……。
 
 
 
『写真集 道ばたの雑草』の著者は、1951年東京生まれ。
 
世田谷区の奥の方の奥沢という街に住んでいて、医学博士で整形外科専門医で整形外科医院も開業している。
 
序文を読むと「学術的な定義とは言えないが、本書での雑草とは、人の生活圏にあって、人から踏まれたり刈られたりこそされるが、水一滴与えられず、自立して成長、増殖する草のこととした」とある。
 
写真集は週刊誌を横にした変形の本で、140頁オールカラーだから、¥1800は安すぎる。
 
小口先生は整形外科医とは思えない、神経が繊細で、心のやさしい方だから、誰も見もしない路傍に生きる雑草に目を向けられたのだろう。
 
世田谷区は人口も多く、そして広い。
 
世田谷に住んでいながら奥沢の街には行ったことがないが、緑も多く広い庭の家に人は住んでのどかな住宅地なのだろう。
 
ぼくが住んでいる代沢の街は、歩道も車道もすべてコンクリートで固められ、雑草が生えるところがない。
 
それでも雑草は生命力が強い。
 
どこから種が飛んできたのか、コンクリートの僅かなすきまに土が少しでもあれば、そこに根を下ろしい生きている。
 
写真集をよく見てみると、4、50年前の代沢は、そんなに家も密集していなかったから、土の部分も多かったので、この写真集にあるような花が咲いていたことを思い出した。
 
春夏秋冬に分けて、咲く花を編集しているが、先生は昼食を兼ねた散歩中に撮影したもので、園芸の影響を受けている宅地や、公園は除外したとある。
 
先生はご自分の生きてきた道を多くの雑草の中に重ね合わせているようだ。
 
代沢の街もよく注意して見れば、どくだみやタンポポは咲いている。
 
この写真集に目をとめる多くの人がいるような、平和な日本になってもらいたいものだ。

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2019年3月 2日 (土)

『薔薇族』というネーミングは秀逸だ!

『薔薇族』1998年の1月号に、デザイナーでもあり、イラストレーターの第一人者の宇野亜喜良さんが、「ゲイの本質に迫る、秀逸なネーミング『薔薇族』」と題して、おほめの言葉を寄せてくれた。
 
 
 
「『薔薇族』が創刊300号を迎えるという。世に3号雑誌という言葉があるように、3冊を発行するくらいで、ぽしゃってしまうものが多いのである。似たタイトルでいえば、澁澤龍彦さんが主幹であった『血と薔薇』は、4号で廃刊になっている。
 
いまさらながら300号というのはすごい数だと思う。ホモ・セクシュアルなテイストの草分け的存在であり、今なお充足を続けるこの雑誌に心から祝福を捧げたいと思う。
 
ところで『薔薇族』というネーミングは秀逸だと思う。薔薇という植物が、ホモ・セクシュアルのメタファーなのか、どうかはぼくには分からないけれど、ジュネの『花のノートルダム』(この「花」は、どうもバラのようだと思う)や、ロジェ・バディムのレズビアニズムの匂う映画『血とバラ』、三島由紀夫を撮った細江英公の写真集『薔薇刑』というように、野生と高貴が内在し、しかも、少しばかり病んだ感じ、内側から、これでもか、これでもかという気構えで押し開いてくる花弁のオブセッション。
 
精神の内側に張り詰める壁紙のようなビロード質。読者のあいだに飲む覚醒と耽溺の味ローズ・ティー。花束が大きければ、大きいほど声高に愛を叫ぶ花。
 
14歳の少年すら魅了する耽美と犯罪の匂いのする、たった2文字で34画ある薔薇。
 
そうして今やホモ・セクシュアリティの代名詞のように使われる『薔薇族』なのだからすごいと思う。」
 
 
 
こんなにまで、ぼくが命名した『薔薇族』のネーミングが秀逸だと言ってくれた宇野亜喜良さんに感謝するばかりだ。
 
最後の頃、『薔薇族』の表紙のデザインを担当してくれたり、「ロマンの泉美術館」の催し物チラシのデザイン、レストランのランチョンマットの素敵なデザインもしてくれた。
 
50年も前には先妻の舞踊家、ミカが舞踊化した『オー嬢の物語』『愛奴』『静かの海』と3点もシルクスクリーンの豪華なポスターを製作してくれた。
 
ポスターだけでなく、チラシ、カタログ、チケットのデザインまでも。
 
『薔薇族』を創刊した時、表紙に「薔薇」とあるものだから、書店員が「園芸コーナー」に並べてしまったという、笑い話のような本当の話があった。
 
現在の大型書店で、本のありかを尋ねると、すぐに答えてくれるが、当時の書店はのんびりとした時代だった。
 
 
 
ぼくは駒沢大学に入学して、万葉集の研究者であり、斎藤茂吉の弟子で「白路」という短歌結社の主宰者でもあった森本治吉先生に師事して短歌を作るようになったので、長いものを短く表現することを覚えた。
 
それで書名を考えたり、小説の見出しを考えたりすることが上手になった。
 
創刊の前に誌名を考えて『薔薇』とつけたかったが、すでに他社で商標登録されていたので、やむなく全国に散らばっている多くの読者のことを思い、連帯感を持ってもらいたいという願いをこめて、「族」という言葉を下につけたというのが、本当の話だ。
 
カミナリ族、暴走族、みゆき族など、大人に理解されない60年代の活気にあふれた当時の若者たちが、なぜかみんな「族」と呼ばれていたのも気に入っていた。
 
大学を卒業する頃の世の中は不景気で、就職口はなく、親父の出版の仕事を継がざるをえなかった。
 
それがよかったのか、悪かったのか、自分でもよくはわからない。
 
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宇野亜喜良さん(伊藤文学撮影)

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2019年2月16日 (土)

愛の潤滑液「ラブオイル」よ、永遠なれ!

「ラブオイル校長」とは、薔薇族編集長・伊藤文学のネットを見ている若者なら誰もが知っている仇名だ。
 
コートコーポレーションというゲイビデオの制作会社の監督に頼まれて、修学旅行に行く高校生の男女を前にして訓示をする校長の役をやってくれと頼まれてしまった。
 
母校の代沢小学校の裏手の桜並木が続く遊歩道で、スーツ姿で、7,8人の高校生? を前に、修学旅行中の注意をしゃべった。
 
男女の間でおかしなことになってはいけないと、男子生徒が欲望がおきて、どうにもならなくなったら「ラブオイル」を使いなさいと、男子生徒に手渡した。
 
なんというタイトルのビデオか忘れてしまったが、その部分だけをネットに載せてしまった人がいた。
 
それが面白かったのか、ネット上でひろがり、あっという間にぼくが「ラブオイル校長」の名で呼ばれるようになってしまった。
 
 
 
『薔薇族』の創刊が1971年、それから10数年後だったか、「こんなもの売ってくれませんか?」と、数本の見本を持って訪ねてきた男がいた。
 
その晩、風呂に入ったときに、精液のようなぬるぬるしたものをたっぷりオチンチンにぬってしごいてみた。
 
その快感はすばらしい。
 
たちまち天国行きだ。
 
これは売れるぞとひらめいて、販売することを即座に決めた。
 
 
 
嵐万作さんという器用な男がいた。
 
小説は書くし、男絵も描く、デザインもできるという、どれだけ『薔薇族』のために役立ったかわからないぐらいの人だった。
 
「愛の潤滑液・ラブオイル」と、ぼくが命名して、デザインを嵐万作さんに依頼した。
 
器用貧乏というのは、嵐万作さんのような人のことを言うのだろうか。
 
何をやってもうまくいかず、風の便りでは借金をたくさんしてしまって、どうにもならずに自殺してしまったと聞いたことがあった。
 
嵐万作さんがデザインしてくれた「ラブオイル」のケースや容器はすばらしい傑作だ。
 
赤い箱を見るとやりたくなってくるから不思議だ。(これはぼくの10数年前の話)
 
 
 
戦後の食べ物がない時代、大学に入学してからオナニーを覚えてやみつきになってしまった。
 
その時代はオナニーをすると、からだに害になると言われていたので、やめようと思ってもやめられない。
 
つばをつけたり、石鹸をぬったりしてしごくと、あとがひりひりして痛くなってしまう。
 
そんなときに『平凡パンチ』だかで、医学博士のお医者さんの「オナニーをしても害にならない」という小さな記事が載り、それを読んだときに気が楽になったことがあった。
 
 
 
父の出版の仕事を継ぐようになって、原稿を持ち込んできた秋山正美という変わった男。
 
オナニーの正しいやり方を書いたという原稿。
 
これを読んで、これは売れるぞとひらめいた。
 
エロ本ががらっと変わってゲイ向けの本ばかり出す出版社に変身。
 
そして『薔薇族』創刊へとつながった。
 
世の中、あっという間に変わってネットの時代に。
 
『薔薇族』は15年前に廃刊。
 
たちまち貧乏生活に。
 
ところが神はぼくを見捨てなかった。
 
「ラブオイル」は今でも売れ続けているのだ。
 
「ラブオイル」がなかったら、ぼくは首をつっていたかも知れない。
 
今でもゲイホテル、ポルノショップが売ってくれている。
 
ありがたいことだ。
 
ネット通販でも購入できる。
 
 
 
〒262−0013
千葉市花見川区犢橋町1664−15
NLS
電話:043−215−0086
 
 
 
恋人を作るのは面倒、自分で楽しもうという人、「ラブオイル」は必需品だ。

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2019年2月11日 (月)

貼るカイロの効用を広げたい!

東京は春のようにあたたかい日があると思うと、また寒い日に戻ったりはするが、比較的に晴天の日が続いている。
 
北海道の札幌に住む須賀裕子さん、ご主人は古本屋さん(店を持たずにネットで古書を売っているようだ)で、古本業界のことを本にしたりしている方で、古書の業界では名の知られている方のようだ。
 
その方の女房の裕子さんと、どうして知り合ったのかは忘れてしまっているが、ぼくのブログを読んで手紙をくれたのがきっかけだろう。
 
かなり以前から年賀状だけのお付き合いだが、北海道のじゃがいもを送ってくれたこともあった。
 
心臓病の手術で32歳で亡くなった妹の亭主が本好きで、札幌の古書店のご主人を訪ねて呑み明かしたという話を妹から聞いたことを覚えていたので、昨年の大晦日に草薙実くんが80歳で亡くなったということを葉書で知らせた。
 
草薙実くんのことは何も書いていなかったが、その返事が送られてきた。
 
 
 
「暖冬という予報にそぐわず、今年の冬は例年にも増して、かなりの寒さでうっかり冬眠などしてしまいそうです。
 
電気毛布では足りず、湯たんぽなど抱えて寝ていますが、カイロは盲点でした。
 
教えてくださってありがとうございます。
 
年を経るごとに冬越しもきつくなってまいりましたが、暖かいお気遣い本当におそれいります」と。
 
 
 
文中にあるカイロのことをブログを読んでくれている皆さんに知らせたかった。
 
このカイロのことは、ぼくが常連で通いつめているカフエ「つゆ艸」のママ、由美さんから教えてもらって、去年の冬から実行して、寒さ知らずで夜を過ごしている。
 
この製造会社からお礼をもらっているわけではないが、製造元は「アイリス・ファインプロダクツ株式会社」。
 
30ケ入で、600円ぐらい。
 
箱には「衣類に貼るタイプ・カイロ・ぽかぽか家族・日本製」と書いてあり、その効用は「足腰の冷え・通勤通学・屋外作業・レジャー・スポーツ観戦」とある。
 
これから皆さんに、付け加えたい偉大な効用をお知らせしたい。
 
 
 
夜、床に入る前にシーツの上に1枚、ちょうど寝たときに足の部分が当たるところに貼っておくだけのことだ。
 
このカイロ、持続時間が12時間とあるから、朝、目が覚めるまで、ふとんの中は適度なあたたかさを持ち続けるスグレモノだ。
 
朝、目が覚めたら今度はパジャマから着替えたシャツの上に貼っておけば、腰が昼すぎまでぽかぽかしていられる。
 
 
 
札幌の寒い中で寝ている古書店の女房の裕子さんが、その布団のあたたかさに驚いているぐらいだから間違いない。
 
シーツに貼る効用が広まったら、この貼るカイロ、売上が上がること間違いなしだ。
 
シーツに貼るのだから、ヤケドの心配はない。
 
ただし、薄いパンツの上に貼ったりするとヤケドをすることがある。
 
ぼくもヤケドしたことがあるからご注意を!
 
 
 
一日のポルノショップの売上が、250万、年商8億もあったというゲイ雑誌『Badi』が3月号で休刊ということになったようだ。
 
人もこの世を去ったときに、その人の評価がわかるというものだ。
 
雑誌もその通りだ。
 
『Badi』が消えたからといって、惜しむ読者は誰ひとりいない。
 
マスコミもどこも取り上げない。
 
月刊『サイゾー』の3月号、「伊藤文学の薔薇族・回顧譚」だけが、『Badi』の功績を高く評価している。

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2019年2月 9日 (土)

他人さまに支えられて幸せ者だ!

2019年、今年最初の「文ちゃんと語る会」は、1月26日(土)午前11時から午後1時まで、器と珈琲の店「織部 下北沢店」で催された。
 
東京大学大学院教授・静岡県立美術館館長でもある木下直之先生が、鎌倉の自宅からわざわざ参加してくれた。
 
2015年には紫綬褒章も受章されている偉い先生だ。
 
こんな方が気軽に「文ちゃんと語る会」に参加してくれ、お話もしてくれてコーヒー代もご自分で払ってくれる。
 
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「文ちゃんと語る会」は、ぼくのブログを読んでくれている人たちが参加してくれて、おしゃべりをする会で、もう忘れてしまっているが、10年は細々と続いている。
 
もうやめてしまおうと思ったこともあったが、会場を4度も変えて、今では「織部」の店長の支援で3年にもなる。
 
もちろん自分のコーヒー代は自分持ちだ。
 
高齢者にとって初めて会う人たちとおしゃべりすることが、脳の刺激になり、ボケなり要因にもなるようだから……。
 
 
 
今年最初の「文ちゃんと語る会」は、15人も出席してくれたが、残念なことだが女性はおひとりだった。
 
この女性は木下先生の個展でのパーティーで知り合った若い女性で、フランスにも住んでいたことがあり、パリで木下さんと出会ったのだそうだ。
 
お若いのに古いことをよく知っている方なので、パーティーが終わってから、カフエで長いことおしゃべりしてしまった方だ。
 
この方は先妻の舞踊家、ミカが栗田勇さん原作の『愛奴』を舞踊化したおりに、作曲をしてくれた前衛音楽の第一人者の一柳慧さんと親しい方だ。
 
一柳さんに50年も前の話をしてくれたら、よく覚えていてくれて、なつかしがっておられたそうだ。
 
ぼくが耳が遠くなってきたという話をブログに書いたのを読んで、秋葉原の電気街で部品を買い集めて補聴器を作って持ってきてくれた方もいた。
 
テレビの音を大きくするので、女房などに嫌がられるが、これを使ったらテレビの音が小さくてもよく聞こえるではないか。
 
なんともありがたいことだ。
 
2月16日の「文ちゃんと語る会」でも、この補聴器を使ってみんなとおしゃべりしたい。
 
 
 
年をとるとからだのいろんなところが、おとろえてくるのは仕方がないことだ。
 
脚がよわってきているが、毎日、買物をかねて下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」まで、途中で休まずに歩いている。
 
脚が弱ってきていることもブログに書いたのを読んで、「加齢で衰える歩行能力を維持・歩く力」という薬(30日分)を薬屋で購入してプレゼントしてくれた人も。
 
この人は『薔薇族』に苦労してモデルを見つけ、写真を撮ってくれた人だ。
 
この人の写真のモデルが若い青年で、評判のよかったカメラマンだ。
 
 
 
もうひとりの人は、新潟から駆けつけてきた方で、新築になった3階建ての薔薇の館の3階(16畳の大広間)で、読者の大学生ばかりを集めて会を開いたことがあったが、そのときに参加し、新宿の「祭」にも何度も通ってくれたそうだ。
 
女房の古里にオープンさせた「ロマンの泉美術館」にも何回も見に来てくれたとか。
 
この人は、言うに言えないみやげ物をくれたではないか。
 
感謝なんて言えないようなものだった。
 
 
 
横須賀市から中学2年生の男の子が、ぼくのブログをよく読んでくれていて参加してくれた。
 
この少年の飲食代、回転寿司で食事をしたお金を払ってくれた人も。
 
いろんな人に支えられて、ぼくはなんという幸せ者だ。

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2019年2月 4日 (月)

下北沢の町から有名なコンビが生まれてほしい!

87歳にもなって脚、腰が弱まってしまって、歩けなくなってしまったらお終いだと思い、下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」へ、買い物をかねて、自宅から杖をついて歩いている。
 
ここ数年、家計簿もつけているから、2ヶ月に1度、ゆうちょ銀行に振り込まれる174450円の年金のことを考えながら買い物をしている。
 
女房は買い物に行かないから主婦の感覚になってしまっていて、新聞に折り込まれているオオゼキのチラシを見ての買い物だ。
 
一時高かった大根や、トマト、キューリなども最近は安くなってきている。
 
 
 
南口の商店街を歩いていると、若者が何人もお笑いの劇場の誘いを呼びかけているのに出会うことがある。
 
お笑いの芸人といえば、『薔薇族』を出し続けていた頃は、横山やすしさんと週刊誌で対談し、単行本になったときも入れてくれている。
 
吉本の人に頼まれて、次長課長のコンビとか、カウカウのコンビも表紙に使ってあげたり、大勢の吉本のお笑い芸人を裸にして写真に撮り、表紙にも使い、グラビア頁にも取り上げたこともあった。
 
この人たちも努力の甲斐があり、テレビに出られるようになったコンビもいたので、うれしかったことを覚えている。
 
 
 
呼び込みの若者に連れられて、「下北沢ミネルヴァ」という地下の劇場に行ってみた。
 
本多劇場のすぐそばの「「劇」小劇場」の路地を入ったところにある。
 
急な階段で手すりがない。
 
若者が親切に手を引いておろしてくれた。
 
年寄りの行くところではない。
 
ぼくみたいな酔狂な年寄りでなければ、この階段はおりられない。
 
すでにコンビの漫才は始まっていた。
 
一番前から二番目の席が空いていたのでそこに座った。
 
コンビが2、3組でしゃべるのかと思ったら、1組のコンビの芸は4、5分。
 
次から次へと出てくるではないか。
 
観客はほとんど若い女性で20人ばかり。
 
入場料は各回40分ほどの時間で500円。
 
となりの若い女性は、ゲラゲラ笑っているが、マイクの前でしゃべっているのに、話の内容が耳が遠くなっているぼくにはよく分からない。
 
しゃべっていることがよく聞き取れないのでは笑いようがない。
 
しかし、1組のコンビが退場すると音楽が鳴って、次から次へと出てくるのには驚いた。
 
彼らは何年も修行をして、テレビにも出演できるような芸人になろうと思って頑張っているのだろうが、芸人の世界はきびしい。
 
この中から芸で食べられるようになるコンビが生まれるのだろうか。
 
ネタはそれぞれのコンビが考えるのだろうが、話すネタが観客に受けるかどうかだ。
 
彼らのジェスチャーは、目はよく見えるので動きはかなり練習しているなということは伝わってくる。
 
それぞれ熱演しているので、短い時間だけど迫力はある。
 
ジャニー喜多川さんは、舞台で変わったことをやれと言ったそうだが、誰もがやるようなことをしていたのでは、今の世の中、受け入れられない。
 
発想の変わったもの、誰も考えられないようなことをやらなければどうにもならない。
 
街を歩いていても、電車に乗っていても周りの人間を観察し、新聞、週刊誌、本も読んで面白いネタを発見しなければ、ただの思いつきだけの話題がネタでは、人を心から感動させ、笑わすことはできない。
 
 
 
吉本とは関係ない別会社の芸人たちだそうだが、どのくらいの数の芸人たちがいるのだろうか。
 
下北沢からすばらしいコンビが生まれてほしいものだ。
 
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みんな個性的ないい若者たちだ
 
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2019年2月 2日 (土)

たばこを嫌うだけでなく知ってもらいたいこと!

渋谷駅から歩いて4、5分の公園通りに「たばこと塩の博物館」があったのを覚えている人は少ないだろう。
 
ここ数年、たばこの害に対しての規則がやかましくなり、オリンピックを前に、たばこを吸う人は肩身が狭くなっている。
 
ぼくはたばこを吸ったことがないから、別に気にすることもないのだが、たばこの箱に害になることが書かれている。
 
これは法律で書くことが決められているのだろうが、商品に害になると書いて売っているものはたばこだけだ。
 
吸っている人は百も承知で吸っているのだから、そんなこと書く必要はない。
 
たばこ屋の店先で後ろめたいように、たばこを吸っている人たちを見かけると、あわれに思えてしまう。
 
 
 
2003年9月6日〜10月19日まで、「たばこと塩の博物館」で、「葉巻の箱の小さな芸術・シガーラベルの世界」と題して、キューバのラベルが展示された。
 
たばこは500年以上も前から、いくつもの芸術品を残している。
 
ぼくもシガーラベルの美しさに魅せられてコレクションしてきた。
 
フランス製の19世紀に作られたブロンズの灰皿も数百個も集めたことがある。
 
「たばこと塩の博物館」の「シガーラベルの世界」のチラシには、こんなことが書かれていた。
 
 
 
「葉巻を入れた箱のふたの裏側には、「ビュー(View)」と呼ばれる美しいラベル=シガーラベルが貼られていることがあります。
 
現代のシガーラベルのほとんどは、写真製版技術を用いて作られたものですが、かつては18世紀末に生み出され、19世紀を通じて発展した石版印刷技術を駆使して制作されたシガーラベルが主流を占めていました。
 
とくに1890年代から、1920年代にかけて制作されたキューバや、アメリカ合衆国のシガーラベルは、当時絶頂期にあった葉巻産業を象徴するかのような、豪華で華麗なものが多く見られます。
 
ラベルに描かれた内容は、葉巻の銘柄を記しただけのシンプルなものから、有名な人物の肖像、風景、動物、あるいは葉巻の愛用者が主に男性であったことから美しい女性が描かれたものなど、非常にバラエティーに富んでいます。」
 
 
 
葉巻は高価なものだけに、より豪華に見せるために、マホガニーの木箱に束にして入れられていて、その箱の裏側にラベルが貼られている。
 
印刷に金箔を多く使っているので長い年月が経っているのに、その輝きは今も変わることはない。
 
たばこが生み出した芸術は、シガーラベルだけではない。
 
女房の古里の新潟県弥彦村に車で行く途中に、燕三条という町があり、そこにキセルやたばこ盆などを展示した美術館があった。
 
それは見事な細工が職人の手によって作られ、すばらしい芸術作品になっていた。
 
清水次郎長が愛用した、たばこ盆も飾られていたが、今は時代の流れで閉館になっているようだ。
 
 
 
とにかくぼくは昭和30年代、40年代に製作された時代劇にとりつかれて、午前中は何作品かを見ている。
 
池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「江戸の旋風」などは何度見ても飽きることはない。
 
「鬼平犯科帳」の監督、高瀬昌彦さんと友人になってから、吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」を見続けているが、名作揃いでもう二度とこのような作品は製作できないだろう。
 
鬼平が劇中でキセルできざみたばこを吸うシーンは、文章で言えば句読点のようなものでなくてはならないものだ。
 
時代の流れでたばこを規制するのは仕方がないが、たばこが生み出したいい所も知ってもらいたいものだ。
 
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19世紀のブロンズの灰皿
 
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キューバのシガーラベル

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2019年1月26日 (土)

「帰るべき家がなくなってしまった」と!

ぼくのブログは書き続けることが生きがいになっているので、読んでくれている人が感想など書いてくれなくてもいいとは思いつつも、心の片隅ではコメントを書いてほしいなと思ったりもしている。
 
そんな思いからひととき「コメントをよろしく」などと文章の終わりに書いたこともあった。
 
しかし読んでくれている人に、強要しているようで、いやらしく思えたのでやめてしまった。
 
そんなことを書かなくても読んでくれている人の心にふれるような文章を力いっぱい書こうと思うようになってきた。
 
最近のぼくのブログは、いいテーマをえらんで書いているので、自分で言うのはへんだが、力の入れ方が違ってきたなと、自分では思っている。
 
ひとりでも、ふたりでもコメントを寄せる人がいるということは、多くの人に読まれているからだと思うとうれしい気持ちにさせられる。
 
年賀状にも「ブログを読んでいます」と、そえ書きしてくれた人が目についたので、ますます頑張って書こうという気持ちにさせられた。
 
 
 
暮れに「木下直之全集――近くても遠い場所」というタイトルで、個展を開いている木下さんの豪華なカタログが送られてきた。
 
江東区新砂なんていう街へは、東京に87年も住んでいるが行ったことがない遠い場所だ。
 
木下さんのお弟子さんの美しい女性がわざわざ迎えにきてくれて、連れていってくれたからたどりつけたけれど、ひとりではとても行かれない街だ。
 
公益財団法人「ギャラリー エークワッド」。
 
『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君が、修善寺に建てた「内藤ルネ人形美術館」を財団法人にしようと思って、詐欺師たちに7億円ものお金をだましとられてしまった。
 
『すべてを無くして』という内藤ルネさんの本は、小学館の女性から2、3日前に電話があって増刊するそうだ。
 
木下直之さんの個展は、2月28日まで開かれているので、ぜひ見に行ってほしいものだ。
 
開館時間は、10〜18時まで。
 
江東区新砂1−1−1。竹中工務店東京本社1F。
 
展示も広い会場に、途方もないお金をかけて展示されている。
 
これは大きな企業が支援しているからできたのだろう。
 
こんな立派なカタログを作るなんて普通ならできないことだ。
 
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木下直之先生からの今年の年賀状には、こんなことが書いてあった。
 
「昨年は何度もお目にかかる機会があり光栄でした。
 
小生の展覧会にも足をお運びくださりありがとうございます。
 
今年の目標は次の本『猥褻論』に向けてスタートを切ることです。
 
また「文ちゃんと語る会」に お邪魔します」と。
 
 
 
2月26日11時からのカフエ「織部 下北沢店」での「文ちゃんと語る会」木下さんもわいせつな話をしてくれるだろう。
 
寒さをいとわず熱い話を聞けると思うので、ぜひおでかけください。
 
木下さんは紫綬褒章を授賞されているが、ぼくは勲章なんてもらえるわけがない。
 
『薔薇族』は発売禁止4回、始末書を書かされること20数回。
 
罰金だけでも百万円は超えている。
 
猥褻に関しては、警視庁の風紀係に始末書を20数回も書かされても出し続けた雑誌はそうはない。
 
『薔薇族』廃刊の朝日新聞の記事でおしかけたマスコミ。
 
「帰るべき家がなくなった」と言ってくれた読者の声が、ぼくにあたえられた勲章と言っていいだろう。
 

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